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【作品解説】 バンクシー「愛は空中に」

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愛は空中に / Love is in the Air

ベツレヘムに描かれた初期代表作品


概要


作者 バンクシー
制作年 2003年
場所 ベツレヘム、アッシュ・サロン・ストリート

《愛は空中に》は2003年にバンクシーによって制作されたステンシル作品。パレスチナのヨルダン川西岸地区南部の県ベツレヘムのアッシュ・サロン・ストリート沿いの建物に描かれている。《花投げ》と呼ばれることもある。ベツレヘムはムスリムが多数派だが、パレスチナにおける最大級のキリスト教コミュニティーも存在する場所である。

バンクシーは活動初期から現在にいたるまでパレスチナ問題に焦点を当てた作品を多数制作している。本作品はパレスチナ問題を基盤にした初期作品の1つである。2005年に発売されたバンクシーの公式作品集『Wall and Peace』の表紙にもなっている。

 

おもに抗議者・プロテストの象徴としてバンクシーは描いており「仮面の脅迫犯」と呼ばれることもある。ただし、男が手に持っているのは火炎瓶ではなく色とりどりの花束である。

 

これはプロテストたちが兵士が手に持つ銃身に小さな花を詰め込んだ1967年のアメリカの写真家バーナー・ボストンの写真『フラワー・パワー』から影響を受け、バンクシーが独自に改良したものと思われる。

 

これはバンクシーがパレスチナ人側の権利を支持して実行した多くの作品の1つであり、彼の主張は論争を巻き起こし続けている。

 

Flower Power (photograph)、Wikipediaより
Flower Power (photograph)、Wikipediaより

《愛は空中に》は描かれた、同年、500枚限定で赤い背景のプリント版が販売されている。

《愛は空中に》500枚限定版(2003年)。Artsyより。
《愛は空中に》500枚限定版(2003年)。Artsyより。



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「アイルワースのモナ・リザ」

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アイルワースのモナ・リザ / Isleworth Mona Lisa

《モナ・リザ》の初期未完成版?


レオナルド・ダ・ヴィントの工房《アイルワースのモナ・リザ》
レオナルド・ダ・ヴィントの工房《アイルワースのモナ・リザ》

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチと工房
制作年 1503−1516年
サイズ 84.5 cm × 64.5 cm
種類 油彩
メディウム クルミパネル
モデル リザ・デル・ジョコンド
所有者 個人蔵、スイス

《アイルワースのモナ・リザ》はルーブル美術館が所蔵しているレオナルド・ダ・ヴィンチの作品《モナ・リザ》とよく似た油彩作品。《初期モナ・リザ》とも呼ばれている。作者は不明。ストレートの黒髪と魅力的な微笑みは《モナ・リザ》と不思議なほどよく似ている。

 

専門家たちによれば、これらの類似点は単純に《モナ・リザ》の模倣作品であると指摘しているが、ごく一部の美術史家の間ではレオナルド自身による真作で、《モナ・リザ》の初期未完成版ではないかと考えるものもいる。

 

《アイルワースのモナ・リザ》は1913年にイギリスの貴族サマセットの邸宅でコレクターのヒュー・ブレイカーによって発見された。サマセット家がイタリアで購入し、イギリスへ持ち込んだという。その後、ブレイカーがサマセット邸からロンドンのアイルワースにあるアトリエに運び込んでから《アイルワースのモナ・リザ》という作品名が付けられた

 

この絵は1960年代にアメリカ人のヘンリー・ピューリツァーがブレイカーから購入する。彼はレオナルド・ダ・ヴィンチの本当のモナ・リザのモデルであったリサ・デル・ジョコンドの若いころを描いた絵画であると確信していたという。『モナ・リザはどこにいる?』というタイトルの本を自分の会社であるピューリッツァー・プレスから出版している。

 

本作品がレオナルドの作品かどうかという議論は何十年も行われてきた。2015年から2016年にかけて、信頼性のある学術出版誌が本作品はレオナルド・ダ・ヴィンチに帰属するものであると確認しているという。一方、ルーブル美術館は作品に対してコメントを発表していない。

 

 

所有権問題


しかし現在、この作品の真贋とは別に所有権をめぐる争議が行われている。CNNによれば、絵画の所有権を主張しているある名門ヨーロッパ一家が訴訟を起こしてたという。

 

この作品は1960年代にアメリカ人のヘンリー・ピューリツァーが購入したあと、1975年からずっとスイス銀行の金庫に保管されていたが、彼の死後の2008年に匿名の国際資本組合が作品を購入し、世界中のギャラリーで一般展示が行われるようになった。2014年にシンガポールで、その後、上海でも展示されている。

 

2019年6月、作品がフィレンツェのバストージ宮殿で展示された際に、匿名のヨーロッパ一家が本作品の25%の所有権を主張し、現在の争議となっている。

 

一家の申立人の弁護士であるジョバンニ・バティスタ・プロティによれば、以前の絵画の所有者が申立人の一家に対して作品の25%の権利の販売に同意したことを示す歴史的物証があると話している。

 

フィレンツェの裁判所は今月中にも一家の申立を受理し、所有権を調査している期間は絵画をスイス銀行に戻さないよう隔離して、イタリア国内に留めるかどうか検討しているという。



【Artpedia】画商 スティーブ・ラザライズ「ストリート・アートで最も影響力のある画商」

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スティーブ・ラザライズ / Steve Lazarides

ストリート・アートで最も影響力のある画商


概要


生年月日 1969年生まれ
国籍 イギリス
職業 画商
取り扱いジャンル ストリート・アート
公式サイト https://www.lazinc.com/

スティーブ・ラザライズ(1969年生まれ)はイギリスの画商。以前はバンクシーの代理業者として知られていた。ラザライズはストリート・アートの普及に貢献した最初の人物の1人であり、またアンダーグラウンド・アートの最新トレンドにおける権威として知られている。

 

略歴


スティーブ・ラザライズはイギリスのブリストルで生まれ育った。ニューカッスル大学で写真を学んだあと、鶏肉加工業者、建設業、写真家などさまざまな職に就く。

 

20代のころにラザライズはバンクシーに出会い、雑誌『Sleaze Nation』で写真家として活動をはじめる。その後、グラフィティ・アーティストたちの作品を友人に売りはじめ、またバンクシーの代理業者となった。一部の情報筋では、バンクシーの美術キャリア形成を本格的にはじめた人物であると言われている。

 

ラザライズとバンクシーは、その後グラフィティ・アートを促進するため2001年に『Pictures on Walls(POW)』とサイトを立ち上げ、よりたくさんのストリート・アーティストの名簿と作品を管理する。

 

また、社内に「ラザライズ・エディション」という印刷室を設立する。アーティストたちと緊密に協力し、アートコミュニティに作品を伝えるための高品質のプリント作品を制作した。

 

ストリート・アート市場は2008年のリーマンショック前の2007年頃に動きはじめた。バンクシーの作品『Laugh Now』は2008年初頭にオークションで228,000ポンドで販売された。

 

ファイナンシャル・タイムは、「もし、アーバンアート周辺の盛り上げと維持を責任を負う人物が1人いて、その人物の喪失で多くのものを失うとしたら、その人物とはスティーブ・ラザライズだろう」と批評している。

 

ラザライズは2006年にロンドンに彼の最初のギャラリーを開き、イギリスの多くの無名のアーティストを紹介したほか、フランスのストリート・アーティスト、インベーダーのイギリスでの初個展『Spader’s Invasion London and Rubik Bad Men II』を開催した。

 

ほかにラザライズは有名な肖像画家ジョナサン・ヨーやパリのアーティストJR、イギリスの現代美術家アンソニー ミカレフらの個展を開催している。

 

2009年にラザライズは本店をチャリング・クロス・ロードからオックスフォード近郊のラスボーン・プレイスにある5階建てのジョージ王朝様式のタウンハウスへ移す。移転後の最初の展覧会はVhilsの個展で、これはVhilsのイギリスの初個展でもあった。

 

2016年、ラザライズはサウスバンクのモンドリアンホテルにバンクシー・プリント・ギャラリーを開設した。

 

このスペースはバンクシーとスティーブの協働時代を中心としたもので、またセカンダリーマーケットとしてバンクシーのプリント作品を売買する機会も提供している。

 

なお、公に理由は説明されていないがラザライズとバンクシーの関係は2008年に解消している。


【Artpedia】高松和樹「白と黒だけで表現される現代少女」

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高松和樹 / Kazuki Takamatsu

白と黒のグラデーションで少女を表現


概要


生年月日 1978年生まれ
国籍 日本
出身・居住地 宮城県仙台市
表現媒体 絵画
ムーブメント ロウブロウ・ポップシュルレアリスム
公式サイト

http://kazukitakamatsu.

web.fc2.com/

高松和樹(1978年生まれ)は日本の画家。アメリカのロウブロウ・ポップシュルレアリムシーンで最も活躍している日本人アーティスト。サルバドール・ダリと同じく「天才」を自負する。

 

漆黒の背景にモノクロームの多重レイヤーを通して描かれる銃や刀を持つ少女の絵が特徴である。海外では日本の自然の驚異や漫画文化、高度に発展した科学技術と関連した"東洋的なエロティシズム”を表現していると評価されている。

 

高松和樹は2011年に発生した東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県仙台市で育った。2001年に東北芸術工科大学を卒業し、2009年より日本ではギャラリー戸村を基盤にアートフェアに作品を出品している。

 

2013年よりアメリカやイタリアなど海外で積極的に活動をはじめ、ロウブロウ雑誌『Juxtapoz』や『Hi-Fructose』などでも定期的に特集されるようになる

 

現在は仙台を拠点にして制作活動をしている。これまで世界14カ国、41都市で展覧会を200回以上開催。

 

ほかに、独立美術協会会員、宮城県芸術協会 運営委員、東北芸術工科大学非常勤講師、女子美術大学非常勤講師をつとめている。

黒と白の配色


 大学卒業後、高松は自身のこれまでの描き方を改良し、黒と白のカラーパレットだけを使って驚くべき深淵な絵画を作り出す。高松にとって「黒と白」は「善と悪」や「人種や宗教」を象徴するものであるという。高松の絵画で特徴的なグラデーションを強調したレイヤーは、「光と影」がはっきりしない「距離」を表現するものである。

伝統的絵画と現代的な絵画の融合


伝統的な絵画技術だけでなく、コンピュータ・グラフィックも使っており、伝統的なアナログ技法と現代的デジタル技法の両方が一枚のキャンバス上で融合している。

 

高松の制作はまずコンピュータによるシャドーマッピングから始まる。これは多くのコンピューター・ゲームやプリレンダ時に使用される3DCGによる擬似的な影生成方法と同じものである。

 

この方法でオブジェクト上に描かれたすべてのピクセルは、鑑賞者の距離に比例してグレーの影の濃淡が表示されるようになり、どこかホログラフのようなリアル感があらわれるようになる。

 

PC上のCGができあがると、今度はターポリンといいテントなどに用いられる素材に野外用顔料をジグレー版画で出力する。さらにその上からアラビアゴム製の水彩絵具の不透明な白顔料と水彩顔料を混ぜ合わせたアクリル絵の具で手彩色をほどこす。

 

このアナログとデジタルの両方組み合わせるきっかけとなったのは大学在学時の金井訓志によるCGを画材として特別講義だという。

主題


高松が描くモチーフはほとんどすべて女性である。女性は高松にとって未知の存在であり、ネット上では男性がなりすます姿としても使われる存在。その匿名性とそこに映し出される『現代っ子』が高松のテーマだという。

作品集


「私達ガ自由ニ生キル為ニ」


『私達ガ自由ニ生キル為ニ』は2019年9月11日発売された国内初画集。デジタルとアクリル絵画を大胆に組み合わせた手法で、唯一無二の世界観を展開する高松和樹。SNSや電子掲示板など、現代的なコミュニケーションの在り方を、モノクロームの少女に託した表現は、美術の枠を超えて多くの共感を集めている。斎藤環さん(精神科医)による跋文も収録しています。

「Hello, Here I am」


「Hello, Here I am」は、2015年2月26日にDrago社から刊行された高松和樹の1st作品集。2015年2月にイタリア・ローマにあるポップ・シュルレアリスム系のギャラリーDorothy Circus Galleryで開催された高松和樹の個展「Hello Here I Am」の図録集ともなっている。

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DREAMLANDS GROUP SHOW
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作品集「Hello, Here I am」
作品集「Hello, Here I am」


■参考文献

・作品集『Hello,Here I am』

http://www.art-annual.jp/column-essay/column/31115/

・東京都美術館都美セレクションパンフレット


【Artpedia】杉本博司「時間の積み重なりや流れを撮影する写真家」

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杉本博司 / Hiroshi Sugimoto

時間の積み重なりや流れを撮影する写真家


『アプロプリエイト・プロポーション』、香川県の直島の護王神社の建築を手がけたもの。神域にふさわしい空間を考え、神を迎えるための「適正な比率」をタイトルとした。Wikipediaより。
『アプロプリエイト・プロポーション』、香川県の直島の護王神社の建築を手がけたもの。神域にふさわしい空間を考え、神を迎えるための「適正な比率」をタイトルとした。Wikipediaより。

概要


生年月日 1948年2月23日生まれ
国籍 日本
職業 写真家、現代美術家
公式サイト https://www.sugimotohiroshi.com/

杉本博司(1948年2月23日)は日本の写真家、建築家。東京の新素材研究所を活動の拠点としている。

 

杉本博司は東京で生まれ育った。高校のころから写真を撮りはじめる。映画館で上映されたオードリ・ヘプバーンの映画のシーンを撮影していたという。1970年、杉本は立教大悪で政治と社会学を学ぶ。

 

1974年、杉本は美術を本格的に勉強するためカリフォルニア州パサデナのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインに入学し、写真学を学びBFAを取得する。その後、ニューヨークに定住し、1978年にソーホーで日本のアンティーク商品のディーラーとして働くかたわら作品を制作する。

 

杉本は自身の作品に対して「Time exposed」というコンセプトで説明している。時間の中で起こる一連の事象をタイムカプセルのように保存するように撮影しているという。また、杉本の作品は人生の一時性や、生と死の対立に焦点を当てているともいう。

 

杉本はマルセル・デュシャンの著作や作品、ほかにダダイズムシュルレアリスム運動にも強い影響を受けている。ほかに20世紀後半の近代建築にも多大な関心を寄せている。

 

杉本が使用する8×10の大判カメラと非常に長い露出は、最高の技術能力を持つ写真家として美術業界から評価された。


■参考文献

https://ja.wikipedia.org/wiki/杉本博司、2019年9月9日アクセス

https://en.wikipedia.org/wiki/Hiroshi_Sugimoto、2019年9月9日アクセス


【Artpedia】 ブレイクスルーのきっかけとなったバンクシーの初個展「Turf War(ターフ・ウォー)」

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ターフ・ウォー / Turf War

ブレイクスルーのきっかけとなったバンクシーの初個展


概要


関連人物 バンクシー
制作年 2003年
場所 ロンドン、イーストエンド
関連ページ https://banksyunofficial.com/tag/banksy-turf-war/

「Turf War(ターフ・ウォー)」は2003年7月18日から20日にかけて3日間、ロンドンのイーストエンドのキングスランド・ロード沿いの倉庫で開催されたバンクシーの初個展である。展示場所は、開催前日まで明らかにされなかった。

 

多種多様な表現方法やテクニックで作品を展示している。特に注目を集めたのはサマセット農場から運び込まれた生きた牛や羊の体に直接ペインティングをした「BRANDALISM」作品。BRANDALISMとは家畜に焼印する「Branding」と破壊行為「Vandalism」を掛け合わせた造語である。

 

警察のカラーで染められた豚や、囚人服の縞模様が描かれた羊、アンディ・ウォーホルの顔が描かれた牛などが展示された。

 

『ザ・ニューヨーカー』誌は展示に対して「秘密の場所で上演されるバーナムショー的な光景」と表現し、なかでもエリザベス女王2世の肖像をチンパンジーに書き換えた作品に注目した。また、この展示ではヴァンダライズされた古典的な油絵も展示された。

 

また、この展示では修正された古典的な油絵も展示された。最も有名なのは「自爆テロリストには抱擁が必要」である。

 

「Turf War」はイギリスでのバンクシーの最初のギャラリーショーとして記録されることになった。

囚人服の縞模様が描かれた羊
囚人服の縞模様が描かれた羊
修正古典絵画『自爆テロリストには抱擁が必要』
修正古典絵画『自爆テロリストには抱擁が必要』
チンパンジーに書き換えられたエリザベス女王2世
チンパンジーに書き換えられたエリザベス女王2世

評価


バンクシーの伝記作家ウィル・エルズワース・ジョーンズは、「ターフ・ウォー」をバンクシーがブレイクスルーするきっかけとなった展示と評価している。Artnetはこの時期で「イギリスで最高で、最も短い期間の展覧会だったと話している。

 

生きた動物の体に絵を描いたこの展覧会は動物愛護団体による抗議を招いた。ある活動家は動物への虐待防止のため英国動物虐待防止協会が承認した展覧会にもかからず、ペインティングされた牛の周囲の手すりに自身の身体を鎖で縛り付けて抗議した。

 

また、イギリスで著名なタレントジェイミー・オリバーやBBCの番組キャスターサラ・コックスなどもバンクシーの作品を鑑賞するために会場へ足を運んだ。

 

展覧会の作品の一部は、2018年にスティーブ・ラザライドによって販売されました。

バンクシーの姿をとらえた展覧会


2019年7月、英テレビ局「ITV」のアーカイブからバンクシーらしき人物のインタビュー映像が発見され世界で話題になった。このインタビューは、バンクシーが2003年にロンドンで初めて開き、一躍有名になった展覧会「Turf war」前に行われたものである。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Turf_War_(Banksy)、2019年9月9日アクセス

https://banksyunofficial.com/tag/banksy-turf-war/、2019年9月9日アクセス


【Artpedia】 2006年にロサンゼルスで開催されたバンクシーの個展「かろうじて合法」

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かろうじて合法 / Barely Legal

2006年にロサンゼルスで開催されたバンクシーの個展


概要


関連人物 バンクシー
制作年 2006年
場所 カリフォルニア州ロサンゼルス
関連ページ https://banksyunofficial.com/tag/banksy-barely-legal/

「かろうじて合法」は2006年にカリフォルニア州ロサンゼルスにある産業倉庫で開催されたバンクシーの個展。2006年9月16日の週末に無料ショーが開催された。

 

37歳のインド象「Tai」が展示物の1つとして設置され、象の身体に周囲の部屋の壁紙にあわせて絵柄が描かれた。

 

展示では多くの人が無視している貧困などの重要な問題に目を向けることを意図しており、「問題があっても、誰もその問題について触れようとしない」という英語の慣用句「Elephant in the room」のメタファーとして、象を設置した。

 

動物管理局から事前に象の展示に出品する許可を得ていたものの、動物保護団体の活動から苦情を受け、展示の最終日には象のペインティングは消えていた。

 

象の所有者は虐待の主張を拒否し、この象はさまざまな映画に出演しており、身体を化粧されていることに慣れていると話した。

 

 

ディズニーランドに赤い囚人服の人形を設置


また、ロサンゼルス滞在中バンクシーはまたアナハイムにあるディズニー・ランドで作品を設置した。

 

バンクシーは乗り物の1つビッグサンダーマウンテン鉄道の敷地にグァンタナモ米軍基地の拘留キャンプの赤い囚人服を着た人形を設置した。関係者が気づくまで90分ほどそのままだった。

 

バンクシーの広報はこの人形について、キューバで物議をかもしている拘留所内にいるテロリスト容疑者の苦境を表現したものだと話している。

 

また、展覧会ではバンクシーが実際にテーマパーク内に人形を設置しているところを撮影したビデオも上映された。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Barely_Legal_(Banksy)、2019年9月9日アクセス

https://banksyunofficial.com/tag/banksy-barely-legal/、2019年9月9日アクセス


【Artpedia】会田誠「欧米美術をアイロニーを交えて表現する現代美術家」

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会田誠 / Makoto Aida

欧米美術をアイロニーを交えて表現する現代美術家


会田誠《美しい旗》1995年。MIZUMA ART GALLERYより。
会田誠《美しい旗》1995年。MIZUMA ART GALLERYより。

概要


生年月日 1965年10月4日生まれ
国籍 日本
職業 現代美術家
芸術運動 昭和40年会

会田誠(1965年10月4日生まれ)は日本の現代美術家。新潟県で生まれ育ち、16歳のころから芸術家を志す。

 

社会・少女・戦争・サラリーマン・政治家・テロリストなどさまざまな主題を、具象・抽象・コンセプチュアル・インスタレーション、ビデオ・パフォーマンスなど多様なスタイルで表現する。

 

日本における会田作品の一般的なイメージは女性に対する暴力的で、エログロ的な具象作品だろう。そのため、彼の暴力的な作品は日本社会でしばしば抗議されることがある。

 

村上隆と同じく日本の現代と前近代、また欧米文化と日本文化の境界線を曖昧にしたフラットな作風が特徴だが、欧米と自作品の同質性を主張する村上と異なり会田は欧米美術に対して批判的な態度を示すことがある。

 

会田のコンセプトはその低俗性とダークユーモア性の高さから、LAのロウブロウ・アートやストリート・アートなどのアンダーグラウンド・アーティストたちの姿勢に近いともいえる。会田は日本社会の体制順応的なブルジョアジーに対しても批判的な態度を示している。

略歴


初期


1989年に東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻卒業。1991年に東京藝術大学大学院美術研究科修了。

 

1993年より現代美術家として本格的に活動を開始。1994年には小沢剛、大岩オスカール、松陰浩之らと藝術集団「昭和40年会」を結成する。

 

同集団はメンバーたちによるグループ展やイベントなどは行われていたが、過去の芸術運動で見られるような共通の表現方法を推進するものではなく、会田と同年齢の美術家たちのゆるやかな集まりだった。メンバーチェンジを繰り返しながら同年生まれの作家5人程度で活動を継続している。

エログロ表現


本来は多様なスタイルと主題を扱う現代美術家だが、日本における会田作品の一般的なイメージは女性に対する暴力的で、エログロ的な具象作品だろう。

 

最も顕著なのは2001年の《ジューサーミキサー》で、この作品は笑みを浮かべる全裸の若い女性数千人が巨大ミキサーの中で液化されようとしている作品である。

 

会田によれば「《ジューサーミキサー》は14歳のころに浮かんだイメージ。本当のイメージとしては、ミキサーの中には人類の全女性、約18億人が入っている。思春期の傷つきやすいシャイな少年なら、実際に変態や残虐性はなくてもこのようなイメージを浮かべるものは多いだろう」と話している。

 

このエロティックでありグロテスクなイメージの不快な組み合わせは、日本のアンダーグラウンド漫画家である丸尾末広の影響があるという。アンダーグラウンド漫画雑誌『ガロ』は若いころの会田に強烈な影響を与え、そこに掲載された丸尾の暴力的で下品な作風は多大な影響を与えた。

 

また、丸尾末広とならんで『ガロ』で有名なアンダーグランド漫画家である根本敬の2017年に開催された絵画プロジェクト「根本敬ゲルニカ計画」にアドバイザーとして参加している。

 

そのため、彼の暴力的な作品は日本社会でしばしば抗議されることがある。2012年に森美術館で開催した個展「会田誠展:天才でごめんなさい」では、女性差別、児童虐待、暴力を肯定する表現であると見なされ「ポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)」から性的描写の理由で抗議を受けた。

 

また、2018年には京都造形芸術大で会田の公開講座を受けた女性から、性的・暴力的表現を強制的に見せられたとして提訴されている。

会田誠《ジューサーミキサー》2001年。MIZUMA ART GALLERYより。
会田誠《ジューサーミキサー》2001年。MIZUMA ART GALLERYより。
会田誠《犬(月)》1996年。MIZUMA ART GALLERYより。
会田誠《犬(月)》1996年。MIZUMA ART GALLERYより。

欧米現代美術への強い批判精神


欧米美術と日本美術の境界線を曖昧にする作家は多数いるが、『ミュータント花子』で見られる表現のように、会田は西洋美術、特にアメリカ現代美術やコンセプチュアル・アートに対して強い批判精神を持ち、皮肉やジョークを含ませた作品が多い。

 

1997年の会田の芸術漫画作品『ミュータント花子』で最も顕著に表れている。主人公の花子は、広島の原爆の影響によって突然変異的なスーパーパワーを得た小学6年生の少女だが、第二次世界大戦の太平洋において史実とは逆に連合国軍(特にアメリカ)を打ち負かしてしまう。会田は漫画でアメリカを挑発的に扱う。

 

アメリカに対して最も挑発的な作品は1996年の《紐育空爆之図(戦争画RETURNS)》である。炎に包まれたマンハッタンとその火の上を無限大の記号形作りながら旋回する日本の戦闘機・零戦が描かれている。

 

会田は本作品について「多くの日本人の心の奥深くに潜んでいると思われる願望を誇張し、自嘲的に戯画化して表現したものである」と話している。

会田誠『ミュータント花子』1997年。Twitterより。
会田誠『ミュータント花子』1997年。Twitterより。
会田誠《紐育空爆之図(戦争画RETURNS)》1996年。MIZUMA ART GALLERYより。
会田誠《紐育空爆之図(戦争画RETURNS)》1996年。MIZUMA ART GALLERYより。

日本の中産階級への批判


ファイン・アート様式ながらも会田のコンセプトは低俗でユーモア性が高い。それはLAのロウブロウ・アートストリート・アートなどのアンダーグラウンド・アーティストたちと近く。会田は日本社会の体制順応的なブルジョアジーに対しても批判的な態度を示している。

 

LAのロウブロウ・アーティストがNYのハイアートに反発し、LAで独自の芸術コミュニティを作り上げたように、会田もまた欧米のハイアートに反発し、同時に日本の順応的なブルジョア階級に批判した日本で独自の現代美術コミュニティを作り上げようとしている。


■参考文献

『会田誠 MONUMENT FOR NOTHING」グラフィック社

・https://www.artlogue.org/node/4174、2019年9月10日アクセス

※本ページは英語・中国語など無断翻訳転載可能。


【Artpedia】イ・ブル「家父長制や女性差別を主題とする韓国の現代美術家」

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イ・ブル / Lee Bul

家父長制や女性差別を主題とする韓国の現代美術家


LEE BUL Sternbau No. 32, 2011 公式サイトより。
LEE BUL Sternbau No. 32, 2011 公式サイトより。

概要


生年月日 1964年生まれ
国籍 大韓民国
職業 現代美術家
公式サイト http://www.leebul.com/

イ・ブル(1964年生まれ)は韓国の現代美術家。1980年後半のアートシーンで彫刻とインスタレーション形式の表現で注目を集めるようになる。現在、韓国で最も有名な現代美術家として国内外で知られている。

 

彼女の作品は、私たちの文化的および政治的領域に浸透している家父長制の権威や女性差別といったイデオロギーを明らかにし、それらに対して疑問を投げかけている。

 

彼女はこうした主題を未来社会を繁栄する形で冷たく機械的な彫刻やインスタレーションで表現している。なかでも、女性の抑圧の形成、性の商品化などに焦点を当て作品を制作してきた。

 

主題やイデオロギーだけでなく、彼女自身の身体や立体的なテキスタイルアートワークを使用した革新的なパフォーマンスなど、その表現スタイルも高く評価されている。

 

アメリカのMoMAの招待展では、生魚を使うことで時間の経過とともに生じる腐臭の感覚を展示にもたらした。



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Lee_Bul、2019年9月11日アクセス

https://www.lehmannmaupin.com、2019年9月11日アクセス

【Artpedia】高額写真作品ランキング2019年版

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高額写真作品ランキング

List of most expensive photographs


アンドレアス・グルスキー《Rhein II》 (1999)
アンドレアス・グルスキー《Rhein II》 (1999)

このリストは写真作品に特化した高額作品ランキングである。特に明記しない限り米ドル価格でのランキングとなる。なお、価格はオークションハウスの手数料を含むバイヤーが提示する売値である。

存命時における最高額更新の歴史


価格 作品 芸術家 オークション日 オークションハウス
433万8500ドル Rhein II (1999) アンドレアス・グルスキー 2011年11月8日 クリスティーズ・ニューヨーク
397万3000ドル Spiritual America (1981) リチャード・プリンス 2014年5月12日 クリスティーズ・ニューヨーク
389万500ドル Untitled #96 (1981)  シンディ・シャーマン 2011年5月 クリスティーズ・ニューヨーク
376万5276ドル To Her Majesty (1973) ギルバート&ジョージ 2008年6月30日 クリスティーズ・ロンドン
366万6500ドル Dead Troops Talk(1992) ジェフ・ウォール 2012年5月8日 クリスティーズ・ニューヨーク
334万6456ドル 99 Cent II Diptychon (2001) アンドレアス・グルスキー 2007年2月 サザビーズ・ロンドン
329万8755ドル Chicago Board of Trade III (1999-2000) アンドレアス・グルスキー 2013年6月26日 サザビーズ・ロンドン
307万7000ドル Untitled (Cowboy) (2000) リチャード・プリンス 2014年5月14日 サザビーズ・ニューヨーク
296万5000ドル Untitled Film Still #48 (1979) シンディ・シャーマン 2015年5月13日 クリスティーズ・ニューヨーク
292万8000ドル The Pond—Moonlight (1904) エドワード・スタイケン 2006年2月 サザビーズ・ニューヨーク
290万ドル Los Angeles (1998) アンドレアス・グルスキー 2008年2月27日 サザビーズ・ロンドン
288万2500ドル Untitled #96 (1981) シンディ・シャーマン 2012年5月8日 クリスティーズ・ニューヨーク
277万500ドル Untitled #153 (1985) シンディ・シャーマン 2010年11月8日 フィリップス・オークション
250万7755ドル Chicago Board of Trade (1997) アンドレアス・グルスキー 2013年6月23日 サザビーズ・ロンドン
241万6475ドル Paris, Montparnasse (1993) アンドレアス・グルスキー 2013年10月17日 サザビーズ・ロンドン
230万ドル Billy the Kid (1879–80) tintype portrait 作者不明 2011年6月 ブライアンレーベルのオールドウェストショー
222万5000ドル Untitled Film Still #48 (1979) シンディ・シャーマン 2014年11月11日 サザビーズ・ニューヨーク

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_most_expensive_photographs、2019年9月11日アクセス


【Artpedia】森万里子「自己変容するためのセルフポートレイト」

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森万里子 / Mariko Mori

自己変容するためのセルフポートレイト


森万里子《Birth of a Star》 1995年
森万里子《Birth of a Star》 1995年

概要


生年月日 1967年2月21日
国籍 日本
職業 現代美術家
表現手段 写真、ビデオ、デジタルアート、インスタレーション
ムーブメント コンセプチュアル・アート、ポップ・アート、環境アート
代表作

・Birth of a Star,

・Nirvana,

・Dream Temple,

・Wave-UFO,

・Pure Land,

・Tom Na-hui

森万里子(1967年生まれ)は日本の現代美術家。村上隆、奈良美智と並んで世界的な評価を得て、成功している日本の現代美術家の1人。

 

彼女の作品は世界中の美術館や個人コレクターに所蔵されている。

 

森は長い間、都市と未来に関連したSF的なセルフポートレイト作品を特徴とする作品を制作している。 彼女の作品は、思春期のファンタジー、ナルシシズム、ポップカルチャー、宗教、ファッションなど、多くのテーマにも触れている。

 

また、日本生まれの森は、芸者や漫画、日本の伝統文化に影響を受けたキャラクター作品が多数登場する。 

 

キャリア全体を通じていえることの1つは、自己意識を超越し、変容する手段としてこうしたものに関心を抱いてたことである。

 

森は2003年にブレゲンツ(オーストリア)のクンストハウス・ブレゲンツで展示したインタラクティブなインスタレーション作品《Wave UFO》で国際的な評価を高めた。その後、このインスタレーション作品はジェノヴァの公共芸術基金とともにニューヨークで展示され、2005年のヴィネツィア・ビエンナーレでも展示された。

 

森の最新の大規模なインスタレーション作品《Ring:One with Nature》は、2016年8月3日にブラジルのリオデジャネイロで開催された、リオ2016年オリンピックおよびパラリンピック競技大会のセレブラ・カルチャー・プログラムの一環として公開された。

略歴


父は日本の経済学者の森敬、母は西洋美術史家の森洋子。父方の祖父は森ビル創業者の森泰吉郎である。

 

東京・文化服装学院在学中の1988年から森はファッションモデルとして活動を始める。1989年にロンドンに移り、1992年までバイアン・ショー・スクール・オブ・アートやチェルシー美術大学で学ぶ。

 

卒業後、ニューヨークへ移り、ホイットニー美術館のインディペンデント・スタディ・プログラムに参加。1993年からロンドン、ニューヨーク、東京間を行き来しながら作品を発表する。

初期作品


森の初期作品は、日本の伝統文化と古代史を参照にしているものの、アニメの登場人物やサイボーグなど未来的なテーマやキャラクターで表現する特徴である。彼女の初期写真はコスプレの影響を強く受けている。

 

この時代の作品は、日本のアニメや伝統的な女性の役割からサイボーグの幻想に疑問を投げかけているという

 

幻想的な神々、ロボット、未知の生命体、宇宙船といったキャラクターが、自作のキャラにコスプレした彼女自身とともにビデオ作品や写真作品の中に現れる。

 

1994年に森は《Play with Me》《Tea Ceremony》《Love Hotel》《Red Light》《Subway》といった写真シリーズを制作している。

 

《Play with Me》は、漫画やビデオゲームの世界から秋葉原の玩具店思えるらしき現実の世界へ飛び出したサイボーグ的なキャラを森自身が演じた作品である。彼女の髪は長いポニーテールで青色に染められており、硬いプラスチックのトップス、銀色のプラスチックグローブやドレスを着用している。森は店内で販売されている玩具と同じ格好をしているが、店内に入ろうとする客には無視されている。

森万里子《Play with Me》1994年
森万里子《Play with Me》1994年

《Subway》では、森はまるで宇宙から着陸したばかりの姿で東京の地下鉄に乗車している。銀色の金属製の衣装で身を包み、ヘッドセット、マイク、前腕に押しボタンが付いている。

 

《Play With Me》とともにこの自己変容は、さまざまな要素で組み立てられたアイデンティティを探求することを目的としていた。

森万里子《Subway》1995年
森万里子《Subway》1995年

1995年の《Empty Dream》では、森はいくつか青いプラスチック製の人魚の衣装に身を包みながら、実際の公共の水泳場で写真を撮影している。この作品ではとりわけ、バイオテクノロジーによる人間の創造に関する技術と哲学の発展を言及したものだという。

森万里子《Empty Dream》1995年,
森万里子《Empty Dream》1995年,

2002年の《Oneness》では、スピリチュアリティ、写真、ファッションというジャンルを横断しつつ、芸術家としての彼女の独創性を深く掘り下げている。また、最新のテクノロジーを使用している。

森万里子《Oneness》2002年
森万里子《Oneness》2002年

伝統的な日本文化


森万里子の作品は幻想的で未来的であり多大な資金を費やしたハイテクによって制作されているが、それとはまったく逆方向に茶道の女性、仏教色の強い天女、などの伝統的、または東洋的な女性像が演じられることがある。



【Artpedia】イサム・ノグチ「インテリア・デザインに多大な影響を与えた芸術家」

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杉本博司 / Hiroshi Sugimoto

インテリア・デザインに多大な影響を与えた芸術家


イサム・ノグチ《Red Cube》
イサム・ノグチ《Red Cube》

概要


生年月日 1904年11月17日
死没月日 1988年12月30日
国籍 アメリカ
職業

彫刻家、造園建築家、インテリア・デザイナー

代表作

・Red Cube (New York City)

・Black Sun (Seattle)

・Sky Gate (Honolulu)

・Akari lanterns

・Herman Miller lounge table

・Sapporo Moerenuma Park

ムーブメント バイオモーフィズム

イサム・ノグチ(1904年11月17日-1988年12月30日)は日系アメリカ人彫刻家、造園建築家、インテリア・デザイナー。アメリカ、ロサンゼルス生まれ。

 

ノグチは1920年代以降、60年にわたって芸術的キャリアを持つ。

 

おもに彫刻や公共芸術作品で知られる一方で、マーサ・グラハムのさまざまな舞台セットや大量生産されたランプや家具などのインテリア・デザインでも業績を残しており、彼がデザインを手掛けた作品の一部は現在も製造・販売されている。

 

1947年、ノグチはハーマンミラー社とのコラボレーションをはじめ、ジョージ・ネルソン、ポール・ラズロ、チャールズ・イームズらと共同で、今日における家具、特にテーブル・デザインに最も影響を与えた考えられるカタログを作成した。

 

彼の作品はニューヨークにあるノグチ美術館をはじめ世界中で所蔵されている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Isamu_Noguchi、2019年9月13日アクセス


【Artpedia】リー・トープラー「ギーガー・モデル」

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Li Tobler / リー・トープラー

ギーガー・モデル


H.R. ギーガー《Li I》1974年,mutualartより
H.R. ギーガー《Li I》1974年,mutualartより

概要


生年月日 1947年11月30日
死没月日 1975年5月1日
職業 女優、芸術家、モデル
パートナー H.R.ギーガー

リー・トープラー(1948年-1975年5月19日)はスイスの舞台女優。H.R.ギーガー作品のモデル、ギャラリー経営者。またギーガーの恋人としてよく知られている。

 

ギーガーは、全裸の彼女をキャンバスにしてボディペインティングを行うなどトープラーをミューズとみなし、生と美貌を永遠化する作品を制作する。

 

彼女をモデルにした代表的な作品が、彼女の顔が機械と生体のバイオメカノイドで覆われた「リー・シリーズ(Li ⅠとLi Ⅱ)」である。

 

ギーガーによれば、トープラーは「巨大な精力と生の欲望」を持った女性であり、また「太く短い人生」を望んでいたという。トープラーは、極度の情緒不安定、重度の薬物依存、肉体的苦痛に苛まれて、27歳という短い人生で終止符を打った。

H.R.ギーガー《Li II》1974年,DARK STAR - HR GIGER'S WORLDより
H.R.ギーガー《Li II》1974年,DARK STAR - HR GIGER'S WORLDより

略歴


ギーガーとの初期活動:1966-1971年


トープラーの幼少期に関してはあまり分かっていないが、1947年にスイスで生まれている。1966年18歳のとき、チューリヒにあるK. レルスタブの演劇学校へ通い、役者を志しているときにH.R.ギーガーと出会う。

 

ギーガーと出会うまで、トープラーはギーガーの親友で当時のボーイフレンドだったポール・イーブルと非常に狭く汚いアパートに住んでいた。

 

経済的な問題もあり、唯一美術学校を卒業して、デザイナーとして働きはじめたギーガーが彼らと部屋を共同生活をはじめるようになる。

 

ポール・イーブルが共同生活から離れると、ギーガーとトープラーの関係は徐々に恋愛関係に発展。経済的に困窮していた2人は、家賃の必要のない近くの廃墟アパートの屋根裏へ移る。1968年に廃墟アパートが取り壊されるとほかの廃墟アパートへ移り暮らすという乞食に近い生活をしていたという。

 

レルスタブの演劇学校卒業後、トープラ−はノイマルクトで働きはじめる。

 

1969年にチューリヒから約50キロ離れた場所にあるザンクト・ガレン州のスタッドシアター劇場で役者として活動をはじめる。距離的な問題でこの時代、ギーガーとトープラーは週末に会う程度だった。

 

トープラーはスタッドシアターの舞台に2シーズンの間、役者として活動したあと、1970年にチューリヒに戻る。経済的問題のため彼女は友人と同居せざるを得なかったがギーガーも近くのアパートに住むことになった。

 

しかし、数カ月後の4月にギーガーが伯父から少額まがら遺産を受け継ぎ、その遺産でスイス北部の郊外エリコンで家を購入して、2人は再び同棲するようになる。また、トープラーはアールガウ州のバーデンにあるカラーシアター劇場で役者として活動を始める。

 

伝えられてところによれば、2人の生活は、ドラッグの常用や乱交により、非常に騒がしかったものだったという。

 

ある日、トープラーが家に帰ってこなくなったので、不審に思ったギーガーは高速道路で事故を起こしていないか彼女を必死に捜索したことがあるという。見つからなかったが、3日後に彼女から電話があり、極度の焦燥感にさいなまれて蒸発の旅に出たという(ギーガーはのちに、おそらく別の愛人の男のところへいっていたのではないかと語っている)。

 

ギーガーによれば、彼女は衝動性が強く、そのとき望んでいたら、多かれ少なかれすぐに行動に移す性格だったという。

 

トープラ−の衝動的性格でギーガーは心理的に非常に苦しんだ。のちにリーが別の恋人を見つけたという事実だけで、シンプルに安心したと話している。この時期、トープラと並行するようにギーガーもほかの女性と付き合っていたという。

役者の引退と自殺:1971-1975年


1971年、ギーガーとトープラーはロンドン在住の監督フレディ・M・ミューラーを訪問する。ミューラーは1972年に『パサージェン』というタイトルのテレビドキュメンタリーを撮影する。このドキュメンタリーはまたギーガーとトープラーの両方のインタビューを特集したものだった。

 

1972年から1973年にかけてトープラーは、演劇『マイ・ウーマン、マイ・リーダー』に出演するためスイス全国を巡業することになったが、130を超えるハードなスケジュールだったため肉体的にも精神的にも疲弊する。その結果、演劇の世界を引退するとともにギーガーと別れることを決意した。

 

その後、トープラーは新しいアメリカの彼氏とサンフランシスコへ移住する。しかし一ヶ月も経たず、スイスへ戻ってくる。ギーガーによれば、トープラーはアメリカのライフスタイルに全く馴染めなかったのだという。そして、またギーガーと関係を再開する。

 

しかし、演劇引退後、トープラーはひどく落ち込み、徐々にうつ病と無気力に苛まれることになる。対照的にギーガーは芸術家として最も活動的な時期に入りはじめる。

 

トープラーは自殺未遂を起こすようになったので、友人ヨーグ・スタマーがトープラーに自己表現するためのギャラリーを開き、再活動するようアドバイスをする。

 

そこで、トープラーはギャラリーを開設し、自己表現するとともにマーノン、ウォルター・プレファー、ドルジャン・クロークなどの近代美術家たちの作品を紹介するようになる。

 

「Schuhwerke」というタイトルの彼女の最後の個展では、ゲストは奇妙な靴を履いてギャラリーを来訪するようドレスコードが行われた。ギーガーは焼き立てのパンをくり抜いた靴を履いてギャラリーを訪問したという。

 

トープラーが新しい表現活動に対して初期衝動のような熱気を帯びてきたにもかかわらず、短期間の活動の後、またすぐに無気力状態になる。1975年の精霊降誕祭の月曜日、27歳でベッドの上でピストル自殺。床の上に大きく「さようなら」と書かれていた。

 

ギーガーは一部の人々から、彼のトープラーをモデルにした侘しさや病的な作風がトープラーに悪影響を及ぼしたと非難された。実際には定期的にうつ病の対処になっていた。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Li_Tobler、2019年9月14日アクセス


【Artpedia】H・R・ギーガー「エイリアンのデザイナー」

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H・R・ギーガー / Hans Rudolf Giger

エイリアンのデザイナー


H.R. Giger, Necronom IV, 1976, Artsyより
H.R. Giger, Necronom IV, 1976, Artsyより

概要


生年月日 1940年2月5日
死没月日 2014年5月12日
国籍 スイス
職業 画家、彫刻、舞台デザイン、映画監督、
スタイル バイオメカニカル、シュルレアリスム、
パートナー リー・トープラー
公式サイト

https://hrgiger.com/

http://www.hrgigermuseum.com/

ハンス・ルドルフ・ギーガー(1940年2月5日~2014年5月12日)はスイスの画家、彫刻家、デザイナー。

 

冷たいバイオメカニカルな人間や機械のイメージをエアブラシで描く作風で知られる。

 

彼がデザインした代表作は映画『エイリアン』である。参加した特殊効果チームは1980年のアカデミー賞の視覚効果部門を受賞している。2013年にはEMP博物館の「サイエンス・フィクション・ファンタジー・ホール」へ殿堂入りを果たす。

 

ギーガー作品の最も特徴的な部分であり、また視覚的絵画における革新性は、肉体と機械が融合した表現である。ギーガーは自身の表現を「バイオメカニカル」と呼んでいる。

 

ギーガー的なイメージは後世への影響が非常に大きく、レコードアルバムのカバー、家具、タトゥーなどさまざまな形式のメディアやサブカルチャーに取り込まれている

 

スイスにはギーガーのインテリア・デザインを反映した2つのテーマバーががあり、彼の作品はグリュイエールのH・R・ギーガー美術館に常設展示されている。

 

2014年5月12日、転落事故が原因で病院で死去。

重要ポイント

  • 映画『エイリアン』のエイリアンのデザイナー
  • その後のポップカルチャーやサブカルチャーへの影響が大きい
  • 自身の表現を「バイオメカニカル」と呼ぶ

略歴


恩師「サルバドール・ダリ」


ギーガーは1940年にスイス最東端にある地方行政区画グラウビュンデン州の州都クールで生まれた。父は薬剤師で「飯の食えない専門職」として芸術を嫌っており、ギーガーに対しては将来、薬剤師になるよう奨めていたという。

 

ギーガーは1962年にチューリヒへ移り、1970年まで応用芸術学校で建築やインダストリアル・デザインを学ぶ。卒業後、ダド、サルバドール・ダリ、エルンスト・フックスらの影響を受け画家の道を志すようになる。

 

ギーガーは油絵を制作する以前はインクを使った小さなドローイング作品を制作していた。キャリアの大部分において、ギーガーはおもにエアブラシを使い、シュールで悪夢のような夢の風景をキャンバスに描いた。また、パステル、マーカーを使った作品もある。

 

ダリやロバート・ヴェノーサといったシュルレアリストたちと交流を持ち、シュルレアリスムやヴィジョナリー・アート(幻想絵画)の世界で活躍するようになる。特にダリとの出会いは大きく、ダリとの出会いについてギーガーは

 

「私は最終的な魂の伴侶を見つけた」

 

と断言している。

ダリとギーガー。エイリアンの男性器の造形はダリ作品やシュルレアリスムの影響が大きい。
ダリとギーガー。エイリアンの男性器の造形はダリ作品やシュルレアリスムの影響が大きい。

ギーガーの最初の商業的成功は、1969年にスイスのポスター印刷会社の共同経営者でコレクターであり友人だったH・H・クンツと販売した最初のポスター・シリーズである。世界中で印刷・販売して商業的成功をおさめた。

恋人「リー・トープラー」の存在


ギーガーの作品に大きなインスピレーションを与え、またいくつかのギーガー作品のモデルとなっているのがリー・トープラーである。

 

1966年頃からギーガーは、スイス女優のリー・トープラーと付き合いはじめ、彼女をモデルにした作品を制作している。

 

1972年、全裸の彼女をキャンバスにボディ・ペインティングを試みつつ、リーをミューズとしてイコン化、その生と美貌を永遠化する作品制作に着手しはじめる。

 

その成果が、生体廃墟美学と神秘主義を結びつけて産み出された1974年の「リー」シリーズである。ギーガーはこれらの作品を「バイオメカノイド」呼ぶようになった。

 

しかし、長年うつ病に苦しんできたリーは197575年に拳銃自殺。絶望に打ちひしがれていたギーガーが2年後に描いたバイオメカノイドの発展系が「ネクロノーム(Necronom)シリーズである。

 

ちなみにギーガーのエイリアンの造形に影響を与えているのは、ダリが1972年に制作した「ネフェルティティ(Nefertiti)」という作品である。ネフェルティティとは、古代エジプト王妃の名前であり、エイリアンのルーツは古代エジプトの王妃となる。

 

ギーガーは、「ネフェルティティ」と「リー」と「ダリ」と「男性器」のダブルイメージによってネクロノームを産みだしたのである。

ギーガーによってボディペインティングされたトープラーの写真。
ギーガーによってボディペインティングされたトープラーの写真。
H.R. ギーガー《Li I》1974年,mutualartより
H.R. ギーガー《Li I》1974年,mutualartより
Necronomシリーズ《Necronom I》
Necronomシリーズ《Necronom I》
サルバドール・ダリ「Nefertiti」(1972年)
サルバドール・ダリ「Nefertiti」(1972年)
ネフェルティティの胸像
ネフェルティティの胸像
エイリアン
エイリアン

エイリアン


ギーガーのスタイルや主題は影響力が大きかった。その後、彼は映画『エイリアン』の特殊効果チームにデザイン制作で参加することになる。

 

当時、映画『エイリアン』の核心となるモンスターを探し求めていたリドリー・スコットがギーガーの作品集に目を留め、ギーガーは映画のアートワークやコンセプチュアル・デザイン担当として制作に参加することになる。そして、ギーガーの1977年の最初の絵画作品集『ネクロノミコン(Necronomicon)に収録されていた1976年の絵画作品《ネクロノーム IV》を着想にして生み出されたのがエイリアンである。

 

もともとは、スイスのバーゼルに本社がある出版社Sphinx Verlag社が出版した作品集が、1993年に『ギーガーのエイリアン』からの作品を追加し、Morpheu社から復刻された。

 

『ネクロノミコン』はラブクラフトの一連の作品に登場する架空の書物『ネクロノミコン』から引用している。ラブクラフトの『ネクロノミコン』は、架空の狂気のアラブ人アブドゥル・アルハズレッドが700年頃に編集した人類出現以前の伝承の要約書である。

 

ギーガーが『エイリアン』の制作に参加できたのは単純に絵の才能だけではなかった。実際は未完の映画『DUNE』にスタッフとして参加し、ギーガーと交友を深めていたダン・オバノンの推薦があったのも大きな理由である。

 

さらにいえば、『DUNE』製作時にダン・オノバンやホドロフスキーにギーガーを紹介したのがダリであった。

 

 

映画『エイリアン』はアカデミー賞視覚効果の最優秀賞を受賞する。1980年にエイリアンのデザインでオスカー賞を受賞した。

 

ギーガーがリーの追悼の意味も込めて出版した最初の作品集『ネクロノミコン』(1977年)や、『ネクロノミコン Ⅱ』(1985年)、なかでも科学雑誌『オムニ』に掲載された作品は、国際的知名度を高める重要な役割を果たした。2013年にギーガーは『サイエンスフィクションとファンタジー殿堂』に選ばれている。

 

ギーガーの最初の作品集『ネクロノミコン』1977年
ギーガーの最初の作品集『ネクロノミコン』1977年
《ネクロノーム IV》1976年, Artsyより
《ネクロノーム IV》1976年, Artsyより

音楽アルバム


ギーガーは、バンドDanzigの『Danzig Ⅲ:How the Gods Kill』や、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの『Brain Salad Surgery』、カーカスの『Heartwork』、セルティック・フロストの『To Mega Therion』、トリプティコンの『Eparistera Daimones』、デボラ・ハリーの『KooKoo』などさまざまな音楽アルバムのアートワーク作品も手がけている。

Danzig『Danzig Ⅲ:How the Gods Kill』1992年
Danzig『Danzig Ⅲ:How the Gods Kill』1992年
エマーソン・レイク・アンド・パーマー『Brain Salad Surgery』1973年
エマーソン・レイク・アンド・パーマー『Brain Salad Surgery』1973年
カーカス『Heartwork』1993年
カーカス『Heartwork』1993年
セルティック・フロスト『To Mega Therion』1985年
セルティック・フロスト『To Mega Therion』1985年
デボラ・ハリー『KooKoo』1981年
デボラ・ハリー『KooKoo』1981年

映画


ギーガーは『スイス・メイド』(1968年)、『白昼夢』(1973年)、『ギーガーのネクロノミコン』(1975年)、『ギーガーのエイリアン』など自身が監督となり、直接に映画作品を制作もしている。

 

ほかに、インテリア・デザインの仕事もしている。特にアレハンドロ・ホドロフスキー監督による映画『Dune』のためにデザインした「ハークーネン・チェア」が有名である。この椅子はアルミニウムもしくは黒いガラス繊維を使い、人間の骨格に似せて手作業で制作されている。

 

ホドロフスキーによる『Dune』の制作は挫折したが、のちにデビッド・リンチにコンセプトは受け継がれた。

 

なお、生前ギーガーはリンチの映画制作に協力したかったと話している。彼の著書でリンチの『イレイザー・ヘッド』は、ギーガー自身が監督した映画よりも自身のビジョンに近かったと述べている。

ギーガーがデザインした椅子「ハークーネン・チェア」
ギーガーがデザインした椅子「ハークーネン・チェア」

楽器


ギーガーの芸術はベースやギターなど楽器にも多大な影響を与えている。

 

ライセンス契約のもと、楽器ブランドのアイバニーズは、ギーガーの作品を楽器に印刷した楽器を販売している。

 

たとえば、エレクトリック・ギターの「ICHRG2」は、ギーガーの作品『NY City VI』を印刷したもので、「RGTHRG1」は『NY City XI』を印刷したものである。

ギーガー作品が印刷されたアイバニーズのベースやギター。
ギーガー作品が印刷されたアイバニーズのベースやギター。

H・R・ギーガー美術館


1988年にギーガーはスイスのグリュイエールにあるサンジェルマン城を買収する。死後、彼の作品は永久保存先として指定されているH・R・ギーガー美術館となっている。ギーガーの妻、カルメン・マリアン・シャイフェレ・ギーガーは美術館のディレクターである。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/H._R._Giger、2019年9月14日アクセス

【Artpedia】ミロ・モアレ「アートとポルノの境界線上にいる現代美術家」

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ミロ・モアレ / Milo Moiré

アートとポルノの境界線上にいる現代美術家


概要


生年月日 1983年5月7日
国籍  スイス
活動場所 ドイツ、スイス、フランス
表現スタイル パフォーマンス・アート、フェミニズム、ポルノ
パートナー P.H.Hergarten(撮影、編集、サイト更新など)
公式サイト http://www.milomoire.com

ミロ・モアレ(1983年5月7日生まれ)はスペイン・スロべニア系の両親を持つスイスの現代美術家、モデル。スイス在住だが、おもにドイツのデュッセルドルフを基盤に芸術活動をしている。

 

スイスのベルン大学で美術と心理学を専攻し、マグナ・クム・ラウデ(成績上位者)を受賞して卒業している。《PlopEgg》《The Script System No.2》《Mirror Box》などのパフォーマンス・アート作品がよく知られている。

 

2013年ごろから公共空間でのヌード・パフォーマンスで注目を集めはじめる(正式には2007年から活動している)。2015年の「アート・バーゼル」でゲリラ的に現れてヌード・パフォーマンスを行い、話題を呼んだ。

 

モアレは自身の芸術の立ち位置について、意図的にアートとポルノの境界線上にあると主張している。彼女のウェブサイトで「無修正」と記載された動画は有料で視聴することができる。

 

モアレは芸術に制限はないべきもので、唯一受け入れる制限があるとしたら「死」とはなしている。モアレはマリーナ・アブラモビッチヨーゼフ・ボイスから影響を受けている。

略歴


幼少時のモアレは、人形で遊ぶよりも絵を描くことのほうが好きだったという。7歳のときに彼女が誕生日プレゼントとしてもらった大きなクレヨン箱以来、特に欲しいものはなくなったという。

 

クレヨン箱をもらってからモアレは、人間を観察し、人間を理解し、人間の心理を察すること、心理学的な方向に関心を強め、それらをイメージとして表現する方向へ進んだ。

 

「私はいつも普通ではない事に関心を持っていました。私は観察することが好きです。こどものとき内向的でなじめず、学校ではいつも"不適格者"でした。私が好きなのは子どもたちで、私にとって子どもたちは虹のように見え、天国に近い存在です。」

 

若いときにモアレは、エドヴァルド・ムンク、ケーテ・コルヴィッツ、マリア・ラスニック、フリーダ・カーロフランシス・ベーコンH・R・ギーガーから影響を受けておもに男性の絵を描きはじめた。

 

その後、モアレは一貫して人間と人間の知覚に焦点を置き、スイスのベルン大学で神経と知覚心理学を学ぶ。心理学の学位を取得し卒業したあと、彼女は自分自身の身体を通して心理学知識を美術的表現に変換することを考えたいう。

 

2006年、スペイン領カナリア諸島に属する島テネリフェ島に滞在していたとき、モアレはふとラジオ放送で聞いたマリーナ・アブラモヴィッチのインタビューに感銘を受ける。アブラモヴィッチの言葉に聞き入り、彼女のアーティストとしての勇気とパフォーマンス・アートに魅了された。

 

アブラモヴィッチとは異なりモアレは、芸術に積極的にポルノ・コンテンツを取り入れるようになる。このあたりはポール・マッカーシー、キャロリー・シュニーマン、ヴァリエ・エクスポートといったパフォーマンス・アーティストの作品や「ロスト・ガール」の著者アラン・ムーアの漫画の影響が大きいという。

 

ミロ・モアレは、ペーター・パルムとして知られる写真家のP.H.Hergartenと同棲しており、モアレは彼のミューズでもある。型にはまらないアーティスト同士でともに活動しており、2005年から2014年までのミロ・モアレに焦点を当てた大規模なヌード写真シリーズを産みだしている。

作品解説


プロップ・エッグ No.1


最も有名な作品は、2014年の「アート・ケルン」で行われたパフォーマンス「プロップ・エッグ No.1」で、膣から落ちた卵でキャンバス上に絵を描く。ミロ・モアレのパフォーマンスで最もよく知られているものである。

 

卵の中にはインクやアクリル絵具が含まれており、膣で割って卵の中身を落下させ、飛散した絵具が抽象作品を生成する。ジャクソン・ポロックのドリッピングの流れを組むフェミニン・アクション・ペインティングで、彼女の作品は抽象表現主義に相当するといわれている。

 

さらに、できあがった作品のキャンバスを2つ折りにして、シンメトリーな構図の抽象画を生成。そこには偶然にも子宮の絵が現れたという。

 

彼女のトレードマークであり卵は、「誕生」「新世界」「革命」などを象徴しているという。

生成された抽象絵画を二つ折りにすると、なんと偶然にも子宮の絵に!
生成された抽象絵画を二つ折りにすると、なんと偶然にも子宮の絵に!

スクリプト・システムNo.2


次に有名なのが、2014年6月にアート・バーゼルに現れて公開された「スクリプト・システム No. 2」。ボディペインティング作品で体に「シャツ」や「ジャケット」など衣服の名前を描いて街をウロウロするハプニング・アートである。アート・バーゼルの展示会場に入ろうとしたが拒否された。なお、2013年5月に「スクリプト・システム No. 1」が公開されている。以下の動画はNo.1である。

スクリプト・システムは、認知心理学のスキーマ理論をもとに考えたパフォーマンス・アートだという。

 

モアレは「私たちはみな繰り返し定型化され記憶化された行動様式「スクリプト」を身につけ、日常生活を送っている。特に早朝、仕事中は私はほぼ自動的にスクリプトに基づいた動作をしており、多くの場合、周囲の環境に気づいていない。こうしたスクリプト的な日々を打ち破るパフォーマンスをしたかった」と話している。

 

モアレは衣服の外殻がなくなると、人間の身体は金、ファッション、イデオロギーさらには時間さえも気を散らすことなくコミュニケーション能力を取り戻すと主張している。

 

彼女の最初のヌードパフォーマンスは2007年であり、それ以来彼女は正真正銘の鑑賞者が直接体験できるヌード・パフォーマンスを行っている。

 

2015年7月、モアレはパリのエッフェル塔の前で観光客ととともヌード・パフォーマンスを実行して逮捕された。

 

2016年、モアレはドイツで発生した2015年新年同時性暴力に抗議するヌード・パフォーマンを実行して話題をあげた。

ミラー・ボックス


『ミラー・ボックス』は、腰に鏡構造になっているオブジェを付けて、ヨーロッパのさまざまな都市を歩きまわる企画である。

 

モアレはメガホンを使って人々を集め、見知らぬ人たちに腰に付けている箱の中に手を入れるよう促した。箱の中に手を入れると30秒間だけで彼女の胸、または女性器を直接触ることができた。

 

2016年夏、アムステルダム、デュッセルドルフ、ロンドンなどの主要都市でパフォーマンスは実行された。

 

ロンドンでは公演中に警察に逮捕される。750ポンドの罰金、85ポンドの費用と75ポンドの犠牲者のための追加料金を支払うよう命じられた。

 

このパフォーマンスは1968年から1971年にかけて行われた女性美術家ヴァリー・エクスポートの 《Touch and Tap Cinema》とよく似ている。 

そのほかの作品


「裸の自撮り」
「裸の自撮り」
「ブルー・モーリシャス」
「ブルー・モーリシャス」
「裸の自撮り」シリーズ in NRW-Forum美術館
「裸の自撮り」シリーズ in NRW-Forum美術館
ケルンでの大量女性暴行事件への抗議
ケルンでの大量女性暴行事件への抗議



【Artpedia】作品解説 | ミロ・モアレ「裸の自撮り」

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ソーシャルメディアにおける自撮り文化を風刺


概要


《裸の自撮り》は2015年にスイスの「アート・バーゼル」の公共スペースで、ミロ・モアレが行ったパフォーマンス・アート。

 

モアレは通行人と自撮りするが、モアレ自身は裸で撮影するというものである。このパフォーマンスは、現在のポップ・カルチャーや、InstagramやFacebookなどのソーシャルメディアにおける「自撮り文化」を風刺したものだという。

 

モアレは「私たちは現在、どこで、誰と、何をしているかを常に自撮りして露出している」という。つまり、多くの人はデジタル社会上に個人の重大なありとあらゆる「裸の情報」を展示しているのだと。それはモアレが公共空間で裸で自撮りするのと同じである。

 

さらに、自撮りでアップロードされる写真の大半は、自己顕示自画自賛を目的としているとモアレは主張する。デジタル社会における自己露出性と自画自賛性は、そのままモアレ自身が行っているヌード・パーフォマンスと同じである。

 

こうした背景のもと、モアレは通行人に裸の自分と一緒に自撮りすることを要求する。通行人は嬉しそうに彼女の裸体に親密に寄り添う。「これが親密性の最高レベル」だとモアレは主張する。

 

その後、モアレはパリ、ロンドンなど世界中のさまざまな場所で《裸の自撮り》パフォーマンスを敢行している。リアルな身体感、アナログ的な自己露出という方法を通して、モアレは自己表現を行う。

【Artpedia】作品解説 | ミロ・モアレ「青いモーリシャス」

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大自然と裸体のダブルイメージ


概要


《青いモーリシャス》は2015年にミロ・モアレによって制作されたコンセプチュアル・アート。絵具が詰まった卵を膣から落下させ、飛散した絵具で作品を制作する「プロップ・エッグ」シリーズの最新作。

 

インド洋に浮かぶモーリシャス島の優雅な自然から影響を受けて制作したという。

 

ミロ・モアレは、モーリシャス島南部にある自然生成されたけわしい崖の上に立ち、「プロップ・エッグ」を膣にはさみ、下に置いたキャンバスに向かって落下させる。

 

キャンバス上には青と緑の美しい絵具の旋律で生成された抽象画ができる。それは同時にモーリシャス島の理想的なイメージでもある。

 

モアレはモーリシャス島の優雅な夕焼けをバックにして、産卵するかのように「ウ〜ッ!」と声をあげる。できた作品はモアレ自身のポートレイト作品でもある。

 

モーリシャス島の自然に溶け込んだヌード・パフォーマンスは卑猥性もなく、また古典的なヌード絵画のような聖性もない。そこにあるのはただ「プリミティブ」だ。

【Artpedia】作品解説 | ミロ・モアレ「ケルンの大量女性暴行事件への抗議」

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ケルンの大量女性暴行事件への抗議


概要


スイスのパフォーマンス・アーティストのミロ・モアレが、2016年1月8日、ケルンのランドマークであるケルン大聖堂付近でヌード・パフォーマンスを敢行した。

 

「"Respect us! We are no fair game, even when we are naked!!!"(私達を尊重して!たとえ裸であっても、全く公正なゲームではない) 」という手書きのプラカードを掲げた。

 

ミロ・モアレによれば、このパフォーマンスは2015年の大晦日の夜、ドイツのケルンで大量に発生した性的暴行事件にもとづく女性の人権の支援を目的とした政治的主張だという。

 

ドイツでは、2015年の大晦日の夜、560人以上の女性が大勢の男に取り囲まれ、股間や胸をまさぐられる性的暴行や窃盗など650件以上の被害にあう事件が発生した。この事件で18人の難民申請者を含む32人の逮捕者が出た。

 

パフォーマンス時にドイツ警察は、近くに居合わせていたものの彼女のパフォーマンスを制止することはなかった。逆にモアレのパフォーマンスに近づく男性たちに注意を向け、彼女に近づけないよう警備を行なった。

 

おそらく、過去に性的暴行事件を止めることができなかった警察自身の失敗を償うための行動だったと思われる。


【Artpedia】作品解説 | ミロ・モアレ「ミラー・ボックス」

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ミラー・ボックス / Mirror Box

合意的な性的行為


概要


《ミラー・ボックス》は2016年にロンドンで行われたスイスの芸術家ミロ・モアレによるパフォーマンス・アート。

 

胸や下半身に大きなミラーボックスを取り付けた状態で、さまざまなヨーロッパの都市を歩きまわり、見知らぬ人にミラーボックスの中に手を入れさせ、30秒間自由に胸や膣を触ってもらうというもの。

 

モアレによれば、このパフォーマンスは2016年にケルンで1000人以上の女性が見知らぬ男たちに襲われた事件に抗議したヌード・パフォーマンス『ケルンの大量女性暴行事件への抗議』をフォローアップするものだという。

 

「お互いに合意的な性的行為のシンボル」をアピールしたかったという。

 

ミロ・モアレは自身を「コンセプチュアル・アーティスト、画家、アート・アマゾン、心理学者」と紹介しており、これまでにヨーロッパのさまざまな都市でヌード・パフォーマンスを行なってきた。

 

しかしながら、ロンドンのトラファルガー広場での今回のパフォーマンスは度が過ぎた。パフォーマンスをはじめるとすぐに逮捕され、刑務所に24時間拘束されたうえ、4桁の罰金を支払いが命じられたという。

【Artpedia】ミロ・モアレ「NRW-Forum美術館」

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「裸の自撮り」シリーズ in NRW-Forum美術館


概要


もはやミロ・モアレのヌード・パフォーマンスは誰も止める事ができない。

 

前衛ヌーディストで知られるミロ・モアレが、9月18日、ドイツのデュッセルドルフのNRW-Forum美術館に現れ、ヌード・パフォーマンスを行なった。


この日、モアレが行なったのは、見知らぬ人と一緒に裸で自撮りを行う「裸の自撮り:NAKED SELFIES」シリーズ。これまでと異なるのは、今回はゲリラ・パフォーマンではなく、公的補助を受けている美術館側の公式プログラムとして彼女は招待されたこと。つまり国家お墨付きヌード・アーティストとなった。


モアレが招待されたのは、2015年9月19日から2016年1月17日まで開催されている「エゴ・アップデート:デジタル・アイデンティティの未来」のVIP・オープニング。身体に自撮りチェキ写真を巻きつけて登場し、三脚に取り付けたリモートコントロールカメラで、訪れた客達とともに自撮りをして、会場を盛り上げた。


「裸の自撮り」シリーズは、これまで、ドイツ・デュッセルドルフ、スイス・バーゼルなどさまざまな場所でゲリラ的に行われてきた。フランスではパリのエッフェル塔の前で行い、警察に逮捕されてしまうトラブルにも見舞われたこともある。日本でモアレの前衛ヌードパフォーマンスが行われる日は来るか!? 



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