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【Artpedia】作品解説 | ミロ・モアレ「裸の自撮り フランス版」

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テロ厳戒態勢下のパリでヌードテロリズムを敢行


2015年7月にパリ・エッフェル塔前で行われた「裸の自撮り」シリーズ(左)と、逮捕され憔悴しているミロ・モアレ(右)
2015年7月にパリ・エッフェル塔前で行われた「裸の自撮り」シリーズ(左)と、逮捕され憔悴しているミロ・モアレ(右)

概要


「裸の自撮り フランス版」は、ドイツ在住のスイス人アーティストのミロ・モアレが、2015年7月に、フランス・パリのエッフェル塔前で全裸パフォーマンス「裸の自撮り」シリーズを敢行し、フランス当局逮捕されたパフォーマンスである。

 

「裸の自撮り」シリーズは、2015年から始めたミロ・モアレのパフォーマンス・アートで、裸のモアレが通行人と一緒に撮影するもの。InstagramやFacebookといったソーシャルメディにおける「自撮り文化」を風刺したもので、またモアレ自身に内在する露出による自己顕示欲を表現したものである。これまでスイスのバーゼル、ドイツのデュッセルドルフで敢行してきた。

 

モアレは、バーゼル、デュッセルドルフでパフォーマンスを行ったさいには、お咎めなく成功。続いてテロの厳戒態勢下にあるフランスでヌード・テロリズムを敢行。エッフェル塔をバックにして自撮りできる名所、トロカデロ広場で全裸になり、観光客と自撮りしていたところ、パリ警察は彼女を公然わいせつの容疑で躊躇なく逮捕

 

フランスで公共の場で性器を露出すると、特に許された場所でない限り懲役1年もしくは15,000ユーロ(200万円)の罰金が課せられるが、モアレは逮捕後、ヌードアーティストとして大目にみられ、ひと晩拘留された後に釈放された。

 

モアレのマネージャーであるピーター・パルムは逮捕について「彼女は拘置所で権利書を読まされ、指紋をとられ、撮影され、監房に拘置された」と語っている。


【Artpedia】ルシアン・フロイド「フロイトの孫にして戦後ポートレイト画の代表」

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ルシアン・フロイド / Lucian Freud

フロイトの孫にして戦後ポートレイト画の代表


ルシアン・フロイド《子猫と少女》1947年
ルシアン・フロイド《子猫と少女》1947年

概要


生年月日 1922年12月8日
死没月日 2011年7月20日
国籍 イギリス
表現形式 絵画
ムーブメント スクール・オブ・ロンドン

ルシアン・ミシェル・フロイド(1922年12月8日-2011年7月20日)はドイツ生まれ、イギリスの画家。祖父は精神分析医のジークムント・フロイト、兄のクレメント・フロイドは政治家である。

 

初期はドイツ表現主義やシュルレアリスムの影響が多々見られたが、アングルや初期フランドル派などの影響を受け、1950年頃から厚みのある油彩で描いたポートレイト作品特にヌードを描くようになる。

 

作品にはアーティストとモデルとの間の心理的な不安や緊張感などが具象的に反映されている。

 

フロイドにとってモデルとの密接な関係は重要な要素だった。1970年代初頭、夫と死別したフロイドの母はフロイドのおもなモデルとなった。また、娘のベラやエステルもヌードモデルとなっている。特に1951年の妻キャサリンを描いた《白い犬と少女》は以後、ヌード絵画に転身するきっかけとなった重要な作品である。

 

フロイドは、フランシス・ベーコンとともに『School of London(スクール・オブ・ロンドン)』の代表的メンバーとみなされている。特にベーコンとは仲がよく、ライバルでもあった。

 

ローナ・ガーマンと付き合った後、フロイドは1948年に彼女の姪のキャサリン・キティ・エプスタインと結婚した。彼女は彫刻家のジェイコブ・エプスタインとセレブのキャサリン・ガーマンの娘だった。

 

2015年、クリスティーズ・ニューヨークで『Benefits Supervisor Resting』が5620万ドルで落札され、フロイド作品の中で最高値を記録した。

略歴


幼少期と家族


フロイドはドイツのベルリンで、ユダヤ・ドイツ系の母ルーシーとユダヤ・オーストリア系で建築家のエルンスト・L・フロイトの間に生まれた。

 

祖父は心理学者のジークムント・フロイト、兄はアナウンサーで著述家で政治家のクレメント・フロイドである。ほかにステファン・ガブリエル・フロイドという弟がいる。

 

家族は1933年にナチスの迫害を逃れてロンドンのセント・ジョンズ・ウッドへ移る。

 

ルシアンは1939年にイギリス国籍を取得し、デヴォンのトットネスにあるダーティントン・ホール・スクールに通い、のちに破壊行為によって退学になるまでの1年間ブライアンストン・スクールに通った。

初期キャリア


その後、フロイドはロンドンの中央美術大学に短期間通い、1939年から1942年まで、でドリック・モリスのデダムにあるイースト・アングリアン美術学校に通い、優秀な成績を収め、1940円にサフォークのハドレー近郊の家ベントンエンドへ移った。

 

1942年から43年かけてロンドンぢあがくのゴールドスミス大学に入学。1942年に傷病兵として免役される以前、1941年に大西洋輸送船団で商人の船員として勤めていた。

 

1943年、詩人で編集者のメアリー・ジェームズ・トリラジャ・テンバマチュがニコラス・ムーアによる詩集『ガラスの塔』のイラストレーションをフロイドに依頼する。翌年、エディションズ・ポエトリー・ロンドン社から出版される。

 

その本にはシマウマのぬいぐるみやヤシの木などのドローイングが描かれていたという。両方の主題は1944年にルフェーブル・ギャラリーで開催されたはフロイドの初個展で展示された《画家の部屋》にも描かれている。

ルシアン・フロイド《The painter's Room》1944年,CURIATORより
ルシアン・フロイド《The painter's Room》1944年,CURIATORより

1946年の夏、フロイドはパリへ旅行したあと、ギリシャに数ヶ月滞在し、ジョン・クラクストンを訪問した。1950年代前半、フロイドはダブリンを頻繁に訪れ、そこでパトリック・スウィフトとスタジオを共有した。フロイドは生涯ロンドンから離れることはなかった。

 

フロイドはのちに美術家のR・B・キタイが名付けた「スクール・オブ・ロンドン」という芸術集団のメンバーとなる。このグループではメンバー同士がお互いによく認識しており、共通的な特徴として、世の中全体が抽象絵画のトレンドにあるなかで、ロンドンで同時期に具象絵画を制作していた芸術家たちだった。

 

グループのおもなメンバーとしては、フランシス・ベーコン、フランク・アウエルバッハ、ミハエル・アンドリューズ、レオン・コゾフ、ロバート・コルクホーン、ロバート・マクブライド、レジナルド・グレイなどがいる。フロイドは1949年から1954年までロンドン大学のスレード美術学校にで教師をしていた。

成熟期


フロイドの初期絵画はほとんどが非常に小さいもので、ドイツ表現主義やシュルレアリスムの影響を受けた作風が特徴だった。描かれるモチーフは人物、植物、動物が多かった。

 

初期作品の中には、1940年に制作した《セドリック・モリスの肖像》のようにフロイド成熟期の作品における肌の色調を予見するものがある。

 

しかし、終戦後のフロイドは彼自身のセルフポート作品である《カザミと男》が代表的だが、薄めの色彩で正確な直線的スタイルの作品を制作していた。

ルシアン・フロイド《セドリック・モリスの肖像》1940年,Art Collections Onlineより
ルシアン・フロイド《セドリック・モリスの肖像》1940年,Art Collections Onlineより
ルシアン・フロイド《カザミと男》1946年,Tateより
ルシアン・フロイド《カザミと男》1946年,Tateより

1950年代からフロイドは肖像画、多くの場合ヌード画に集中し、ほかの部分はほとんどすべてといってよいほど排除していった。

 

大きな豚毛ブラシを使い、また肉の質感や色を出すために厚塗りにするなど自由なスタイルを模索、実践していった。

 

1951年から1952年にかけて制作した《白い犬と少女》はこの時代の代表的な作品で、激しい筆致、中間サイズ、ビューポイントにおいてこの前後の作品と多くの特徴を共有している。《白い犬と少女》のモデルはフロイドの最初の妻のキティ・ガーマンである。

ルシアン・フロイド《白い犬と少女》1951-1952年,Wikipediaより
ルシアン・フロイド《白い犬と少女》1951-1952年,Wikipediaより

このころからフロイドは立ち上がったまま絵を描きはじめる。スタンディングでの作業はハイチェアに切り替える老年まで続いた。

 

このころから絵画の身体以外の部分は基本的に控えめでトーンは落ちていくが、対照的に身体の色彩はどんどん激しく変化していった。

 

1960年ころまでに、フロイドは残りのキャリアのためにスタイルを変えていった。後のポートレイトはよく等身大サイズで描かれることがあるが、この頃は比較的小さな頭部、もしくは半身像が中心だった。後年にしたがってポートレイトは大きくなった。

 

晩年には別のポーズの被写体のエッチングを作成し、モデルを視界に入れてプレートに直接絵を描いた。

【デザイナー】ヒプノシス「ロックシーンに最も影響を与えたデザイナー集団」

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ヒプノシス / Hipgnosis

ロックシーンに最も影響を与えたデザイナー集団


ピンク・フロイド『The Dark Side of the Moon』(1973年)
ピンク・フロイド『The Dark Side of the Moon』(1973年)

概要


ヒプノシスはロンドンを拠点にしたイギリスのアートデザイングループ。

 

ロック・ミュージシャンやバンドのアルバムのジャケット制作をしていたことで知られる。

 

最も有名なジャケットは、1973年のピンク・フロイドの『The Dark Side of the Moon』。最後の作品は1982年のレッド・ツェッペリンの『コーダ』である。彼らのジャケットには詩的な要素が含まれている。

 

ほかには、T・レックス、プリティシングス、UFO、10cc、バッド・カンパニー、レッド・ツェッペリン、AC/DC、スコーピオンズ、イエス、デフ・レパード、ポール・マッカートニー&ウイング、アラン・パーソンズ・プロジェクト、ジェネシス、ピーター・ガブリエル、エレクトリック・ライト・オーケストラ、ポリス、レインボー、ステュクス、Pezband、XTC、アル・スチュワートなどのジャッケット画をてがけている

 

ヒプノシスのメンバーはおもにケンブリッジ出身のストーム・ソーガソンやオーブリー・パウエル、のちにメンバーに加わったピーター・クリストファーソンの3人で構成されている。

 

グループ自体は1983年に解散したが、その後も2013年4月18日にソーガソン自身がヒプノシスのワークを引き継ぐ形で、ジャケット画の制作を行なっていた。

 

またパウエルは映画や映像関係に転向、ポール・マッカトニー、ザ・フー、空飛ぶモンティ・パイソンなどの映像作品が有名である。

 

ジャケット画一覧

レッド・ツェッペリン『聖なる館 Houses of the Holy』(1973年)
レッド・ツェッペリン『聖なる館 Houses of the Holy』(1973年)
フラッシュ『死霊の国 Out of Our Hands』(1973年)
フラッシュ『死霊の国 Out of Our Hands』(1973年)
イエス『トーマト Tormato』(1978年)
イエス『トーマト Tormato』(1978年)
スコーピオンズ『電獣〜アニマル・マグネティズム Animal Magnetism』(1982年)
スコーピオンズ『電獣〜アニマル・マグネティズム Animal Magnetism』(1982年)
レッド・ツェッペリン『最終楽章 (コーダ) Coda』(1982年)
レッド・ツェッペリン『最終楽章 (コーダ) Coda』(1982年)

略歴


1968年、ソーガソンとパウエルはピンク・フロイドの友人から、グループのセカンド・アルバム『A Saucerful of Secrets』のカバーデザインの依頼を受けた。

 

この仕事をきっかけにプリティ・シングズ、フリー、トー・ファットなどEMIと契約しているほかのアーティストのアルバムのカバーも手がけるようになった。

 

当時美学生だった彼らは、ロイヤル・カッレジ・オブ・アートの暗室を利用することができたが、卒業すると自分たちの仕事場を作る必要があった。2人はパウエルのバスルームを小さな暗室に改造して使っていたが、1970年初頭ころにデンマーク・ストリート6番にある部屋を借り、そこをスタジオとして利用するようになった。

 

「ヒプノシス」とは「催眠」という意味だが、2人がアートワークを始めたときにアパートのドアに書かれていた落書きから気になった言葉を採用したという。ソーガソンは「催眠」という言葉だけでなく、「Hip」には「新しい」「クール」「すてきな」と、「gnosis」には古典秘密教義の「グノーシス主義」の意味がある。その言葉内不可能なものの共存状態という素晴らしい意味が含まれるという理由で、その言葉を好んだという。

 

ヒプノシスは1973年にピンク・フロイドの「The Dark Side of the Moon」の有名なカバーで国際的に知られるようになった。

 

最終的なデザインは、バンド側が選択できるよういくつかのデザインが用意されていたが、ドラマーのニック・メイソンによれば、「プリズム/プラミッド」のデザインはメンバー全員即時で完全一致で選択したという。

 

レコードの売上は大成功をおさめた。これは史上最大の売れ行きで、また最も長い間チャート入りしたアルバムとなった。

 

何百人ものファンの手にわたり、リリース以来史上最高のアルバム・ジャケット画として称賛されている。VH1(アメリカ合衆国のニューヨーク市に本部を置くケーブルテレビ・チャンネル)は2003年にカバーを4位に位置づけた。

【作品解説】 バンクシー「小さな植物と抗議する少女」

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小さな植物と抗議する少女

気候変動に対する取り組みを訴える少女


ロンドンのマーブル・アート付近の壁に描かれた作品。Artsyより。
ロンドンのマーブル・アート付近の壁に描かれた作品。Artsyより。

概要


作者 バンクシー
制作年 2019年4月末
場所 ロンドン、マーブル・アート

《小さな植物と抗議する少女》(仮)は2019年4月末にロンドンのマーブル・アート付近の壁に描かれた作品。描かれた場所は環境保護団体「Extinction Rebellion(絶滅への反逆)」が4月15日から2週間におよぶ抗議を行っていた場所である。

 

小さな植物と「Extinction Rebellion」のロゴが描かれた小さなプラカードを手に持って座っている少女が描かれており、絵の隣には「From this moment despair ends and tactics begin(この瞬間から絶望は終わり作戦は始まる)」という文字が書かれている。

 

現在、バンクシーはインスタグラムやウェブサイトを通じてこの作品について特に何も語っていないが、アートディーラーでバンクシー専門の鑑定人のジョン・ブランドラーは本物だと確信しているという。ブランドラーは『ガーディアン』紙に対して

 

「この作品が本物であると思われるには2つの理由がある。1つはバンクシーはもともと環境保護支持者であり、2018年12月にポート・タルボットに描かれた作品の延長線上にある作品である。そして、隅に書くサインは重要ではなく、バンクシーにおけるサインは作品である。そしてこれはバンクシーの作品なのである。素晴らしい声明であり美しい作品だ」と話している。

 

バンクシーが201812月にポート・タルボットに描いた作品とは、雪のように見える焼却炉から飛び出たすすで遊ぶ少年の絵のこと。バンクシーは、現在マーブル・アートに描かれた作品が自身のものであるかどうか表明しておらず、マスコミの問い合わせにも答えていないが、「Extinction Rebellion(絶滅への反逆)」がTwitter上でバンクシーが描いたと話している。

 

 環境保護団体のExtinction Rebellionはイギリス政府に対して気候変動の深刻さに対してより誠実であり透明性のあるよう求め、2025年までにイギリスの二酸化炭素排出量をゼロにする約束を求めている。

昨年12月にポート・タルボットに描かれたバンクシーの作品。『ガーディン』紙より。
昨年12月にポート・タルボットに描かれたバンクシーの作品。『ガーディン』紙より。

保護ケースが取り付けられる


2019年9月、4月にロンドンで行われた2週間にわたる環境保護運動の際にマーブル・アーチの壁に現れた壁画に保護ケースが取り付けられた。作者はバンクシーと推測されているが、バンクシーはサインも声明も出してないので確証はない。

 

しかし、ウェストミンスター市議会によれば、芸術の専門家が本物のバンクシーであると助言し「大きな刺激を与える」ため保護したいと相談したという。

 

壁画には「この瞬間から絶望が終わり、戦術が始まる」という言葉の隣に、絶滅に対する反乱のロゴを持った少女が描かれている。

 

市議会は9月19日に芸術保護論者と相談したあとに、恒久的なポリカーボネートケースを作品に取り付けた。

 

スポーツ、文化、コミュニティの権威者であるイアン・ボットは次のように話している。

 

「私たちの優先事項は、常にこのストリートアートを訪問者に楽しんでいただけるようにすることです。ウェストミンスターを活気のある場所にしたいと思っており、私たちの街には非常に多くの有名な彫像、ランドマーク、アートがあることに幸運に思っています。このバンクシーの作品ももちろん歓迎します」。

 

なお、今年の9月頭にはバンクシーの絵画がパリの壁から盗まれており、ボットは次のように付け加えた。「バンクシーの作品は非常に人を引きつけ注目をあつますが、残念ながらのその注目の中には良くないものもあり、将来に対して作品を保護し保存するための措置を講じる必要があった」。

保護ケースが取り付けられた壁画。METROより。
保護ケースが取り付けられた壁画。METROより。


【Artpedia】フランシス・ベーコン「20世紀後半において最も重要な人物画家」

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フランシス・ベーコン / Francis Bacon

20世紀後半において最も重要な人物画家


『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作』(1953年),公式サイトより
『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作』(1953年),公式サイトより

概要


生年月日 1909年10月28日
死没月日 1992年4月28日
国籍 イギリス
職業 画家
関連人物 ルシアン・フロイド
代表作品

ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像後の習作

ルシアン・フロイドの3つの習作

キリスト磔刑図のための3つの習作

活動場所 ベルリン、パリ、ロンドン
関連サイト

http://francis-bacon.com(公式サイト)

フランシス・ベーコン(1909年10月28日-1992年4月28日)は、アイルランド生まれのイギリス人画家。激しく大胆な筆致と過激で生々しい個人的なモチーフを描き、鑑賞者に不安感や孤独感を与えることで知られている。

 

やや抽象的に描かれた人物画の多くは、雑然とした平面的な背景で構成される。金縁の額とガラスで額装された作品は、鑑賞者との間に「へだたり」や3D的な奥行きを生じさせている。

 

20代初頭から絵を描き始めているが、30代なかばまで不安定な活動で、芸術的なキャリアはほぼなかったという。絵描きとしての能力に自信がもてなかった若い頃のべーコンは、グルメ趣味、ホモセクシュアル、ギャンブル、インテリアデザイン、家具デザイン、カーペットデザイン、浴室タイルデザインなど、さまざまな自身の中にある世界をさまよっていた。

 

のちにベーコンは、自身が一貫して関心を持てる主題を探すのに相当な時間がかかったことが、芸術家としてのキャリア形成が遅れた原因であると話している。

《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作》(1944年)
《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作》(1944年)

ベーコンが絵描きとして注目を集めるようになったのは1944年に制作した三連画《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作》からで、第二次世界大戦直後から、本格的に画家としての評価が高まりはじめた。

 

1971年に批評家のジョン・ラッセルは、「『3つの習作』以前のイギリス絵画と以後の作品は混同することはできない」と話している。

 

ベーコン芸術の本質は“連続性”“時間”である。1人の人物、または持続した1つの時代をモチーフとし、その単一モチーフの変化や順序を絵画で描きだしていく。しばしば「トリプティック」や「ディプティック」と呼ばれる。

 

1930年代のピカソの影響を受けた作品《磔》に始まり、1940年代には部屋、もしくは幾何学的な構造のなかの孤独な男性像へと移り、1950年代は『叫ぶ教皇』シリーズ、1950年代後半は動物や孤独なポートレイトへと変遷していった。1960年代からはおもに友人や飲み仲間のポートレイトを描きはじめた。いずれも単一、もしくは連画作品である。

 

1971年に愛人のジョージ・ダイヤーが自殺したあと、ベーコンの絵画は控えめでより内向きになり、これまで以上に時間の経過と死に対して心を奪われるようになった。1982年の『セルフポートレイトの習作』や、1985年から1986年にかけて制作した『セルフポートの習作三連画』がこの時代の代表的な作品である。

  

ベーコンは多作な作家であったが、中年期はロンドンのソーホーで、ルシアン・フロイドやジョン・ディーキン、ムリエル・ベルチャー、ヘンリエッタ・モライス、ダニエル・ファーソン、ジェフリー・バーナードらたちと、毎日のように飲み食いやギャンブルをしてさかんに交流していた。

 

ダイヤーの自殺後に遊び仲間たちと距離を置きはじめたものの、飲み食いやギャンブルに明け暮れる生活は続き、最終的にはベーコンの跡継ぎとなるジョン・エドワードと、やや父子関係的なプラトニックな関係の生活に落ち着いていった。

 

ベーコンは、生涯にわたり罵声と称賛の両方を等しく受け続けた。美術批評家のロバート・ヒューズは「20世紀のイギリス、いや世界で最も激情的で叙情深い芸術家」と評し、また「ウィレム・デ・クーニングと並んで20世紀後半における最も重要な肖像画家」と評した。これまでテイトで二度の回顧展、また1971年にフランスのグラン・パラで回顧展が開催されている。

 

死後も、評価や作品価格は安定して上がり続けており、作品の大半は人気が高く、オークションで高値を付けている。ベーコンには作品の破壊癖があったこともあり、1990年代後半の主要作品や1930年代から1940年代に描いた作品の大部分が破棄され、現存する作品が少ないのもオークションで高値を付ける大きな要因となっている。

 

2013年11月12日《ルシアン・フロイドの3つの習作》は、オークションで1億4200万ドルというオークション史上最高値で落札された。なお、2015年5月にピカソの《アルジェの女》が1億7900万ドルでベーコンの記録を更新した。

 

 

重要ポイント


・20世紀後半における最も重要な肖像作家

・「時間」や「動き」を主題とする

・トリプティック(3連)が特徴

 


作品解説


「ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像後の習作」
「ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像後の習作」
「キリスト磔刑図のための3つの習作」
「キリスト磔刑図のための3つの習作」
ルシアン・フロイドの3つの習作
ルシアン・フロイドの3つの習作

略歴


幼少期


フランシス・ベーコンはイングランド系の両親のもと、アイルランドのダブリンにあるロウアー・バゴット・ストリート63番地にある特別看護施設で生まれた。

 

父のキャプテン・アンソニー・エドワード・モーティマー・"エディ"・ベーコンは、南オーストラリアのアデレードで、イギリス人の父とオーストラリア人の母との間に生まれている。父エディはボーア戦争に参加した優秀な軍人で、また競馬馬のトレーナーでもあり、厳しく男らしさを讃える人物だった。

 

一方、母のクリスティーナ・ウィニフレッド・“ウィニフィ”・ファースは、富豪家庭の女性相続人。親はイギリスのシェフィールド製鉄業や石炭業のオーナーだった。

 

また父の祖先は、エリザベス女王時代の哲学者でエッセイストのフランシス・ベーコンの異母兄弟のニコラス・ベーコン男爵の血筋だとされている。ほかに、詩人バイロン卿と交際のあった美女レディ・シャーロット・メアリーと関わりがあるといわれている。このような上流階級の環境でベーコンは幼少期を過ごした。

 

また、ベーコンにはハーレイという兄と、アンシーとウィ二フィという2人の妹、それにエドワードという弟がいる。

 

ベーコンが家族のなかで最も仲が良かったのは乳母のジェシー・ライトフットである。のちにベーコンが家族から勘当されてからも、彼女とは仲がよく、独立時には一緒に住み、ベーコンの身の回りの世話をさせていた。

 

ライトフットはベーコンの絵のモデルとしても有名で、“ナンシー・ライトフット”という名前でよく知られ、母親像のように描かれている。家族から孤立状態にあったベーコンにとって彼女は唯一の味方だった。1940年代には、ベーコンのギャンブル趣味や画材のための金の工面を彼女が行っていたという。

 

ベーコンの家庭は引っ越しが多く、アイルランドとイギリス間を何度も往復している。この幼少期の移動生活は、ベーコンの芸術人生に大きな影響を与えた

 

1911年に家族はアイルランド東部のキルデア州に住んでいたが、のちにロンドンのウェストボーン・テラスへ移る。この近くのイギリス国防義勇軍でベーコンの父は働いていた。

 

第一世界大戦後にまたアイルランドに戻る。ベーコンは彼の母方の祖母や継祖父たちとリーシュ州に住み、その後、再び母の出生地であるキルデア州に移った。1924年に、一家はイギリスのグロスタシャー州ゴザーリントンのプレスコット・ハウスに移り、その後、ヘレフォードシャーのリントンホールに過ごした。

 

ベーコンは子どものころ恥ずかしがり屋で、女装趣味があった。この女装趣味は父親を困惑させ、怒りを買った。ベーコンが家族から孤立していたのもすべてベーコンの女装趣味が原因だったという。ベーコン一家の仮装パーティでフランシスは口紅をつけ、ハイヒールをはき、手には長いタバコ棒を持ち、ビーズドレスをまとい、イートンクロップの髪型、いわゆる1920年代のモダンガールの女装ではしゃいでいたという。

 

ベーコンの妹のアンシーは、ベーコンが12歳のときにクローシェ帽を被り、長いタバコ棒を手にもった女性の絵を描いていたと回想している。後年、フランシスの父はフランシスが母親の鏡台の前で母親の下着を身に着けて悦に浸っている姿を発見し、ついに怒りが頂点に達して、フランシスを勘当。家から追い出した。

ベーコン出生地のダブリン、ロウアー・バゴット・ストリート63番地
ベーコン出生地のダブリン、ロウアー・バゴット・ストリート63番地
ベーコンと母
ベーコンと母
競走馬を育てるベーコンの父
競走馬を育てるベーコンの父

ロンドンからパリへ放浪


1926年後半、父親に勘当されたベーコンはロンドンで一人暮らしを始める。母親から毎週3ポンドの仕送りをしてもらい、生活をしていた。この頃、おもにニーチェの本を読んでいたという。極貧だったので、ベーコンは家賃を払う前にアパートを出たり、窃盗行為などをして過ごしていた。

 

そんな生活がいつまでも続くはずがなく、収入を補うため、ベーコンは仕事を探しはじめる。母親から料理を習っていたこともありコックの仕事に就いてみたが、あまりに退屈だったのですぐに辞めてしまう。

 

ほかにソーホーのポーランド・ストリートにある女性ブティックで留守番電話の仕事をしたこともあったが、オーナーにいたずらの手紙(ポイズン・ペン・レター)を書いたことが理由で解雇されてしまう。普通の仕事がまったくできなかったという。

 

その後、ロンドンの暗黒街をふらつきはじめ、特定の富裕層の客を相手にして過ごすようになる。ベーコンの美食知識をはじめ、生来の育ちのいい趣味や知識が、ある種の男性を惹きつけた。ベーコンは両親から醜いと罵声を浴びて育ったが、ロンドンの暗黒街では大人気。自分を「かわいい」とさえ思う人間がたくさんいることに気づき、同性愛の世界に入り込んでいった

 

そうして知り合った同性愛者を通じて仕事をみつけ、ロンドンで生活をうまくやりくりするようになる。小さな頃から人見知りだったベーコンは、ロンドンの暗黒街時代を経て社交術と生活術を身につけていった

 

ベーコンの両親は心配し、母親の親戚で叔父の競走馬ブリーダーであるハーコート・スミスに、教育目的でベルリン旅行にベーコンを同行させる。しかしハーコート・スミスはバイセクシャルだったので、ベーコンの客になってしまった。こうして、1927年にベーコンとハーコートはともにベルリンへ移る。

 

ベーコンはベルリンでフリッツ・ラングの映画『メトロポリス』やセルゲイ・エイゼンシュテインの映画『戦艦ポチョムキン』に出会い、多大な影響を受ける。2ヶ月間ほどベルリンで過ごしたあと、ベーコンはハーコート・スミスと別れパリへ移る。「彼はすぐに私に飽きた。その後、女性と一緒に消えた」とベーコンは叔父について語っている。

 

ハーコート・スミスが失踪したあとベーコンは途方に暮れたが、生活するお金は少し残っていたので、一ヶ月ほどドイツを漂流し、パリに行くことに決める。

 

ベーコンはその後、半年ほどパリで過ごす。パリでピアニストで作曲家のイヴォンヌ・ボクエンティンの個展のオープニングへ飛び込み、彼女と親しくなった。そこで、ベーコンはフランス語を学ぶ必要があることに気づき、3ヶ月間ボクエンティン夫人や彼の家族とともにシャンティイ近郊の家で過ごしたという。

 

パリ滞在中、ベーコンは街中のギャラリーを歩きまわり、シャンティイ通りでニコラス・プッシー二の絵画《幼児虐殺》と出会い影響を受ける。これはのちに「叫ぶ教皇」シリーズの源泉となる作品だった。この頃からベーコンは「叫び」に取り憑かれるようになる。

ニコラス・プッシーニ『幼児虐殺』
ニコラス・プッシーニ『幼児虐殺』

再びロンドンへ


1928年後半から1929年初頭にかけてベーコンはロンドンへ戻り、インテリア・デザイナーの仕事を始める。南ケンジントンのクリーンズベリー・ミューズ・ウエスト17番地にスタジオを借り、二階はベーコンの最初のコレクターでもあったエリック・アルデンや、小さい頃の乳母だったジェシー・ライトフットと部屋を共有することにした。

 

ベーコンはイギリスの新聞紙『タイムズ』に共同経営者の募集広告を出す。この募集で、英国美術批評家のダグラス・クーパーの従兄弟が応募してくる。クーパーの協力はベーコンの家具デザインやインテリアデザインの能力向上におおいに役立った。

 

1929年、ベーコンはドーバー・ストリートのバス・倶楽部で電話番の仕事をしているときに、のちに彼のパトロンで愛人となるエリック・ホールと出会う。

 

同年冬、ベーコンの最初の個展がクイーンズベリー・ミューズで開催。抽象的模様のカーペットラグや家具の展示で、 『スクリーン』(1929年)や『WATERCOLOUR』などベーコンの初期作品も展示されていた。それはラグのデザインを応用したような作品で、ジャン・リュルサの絵画やタペストリーから影響を受けているように見えるものだった。

 

シドニー・バトラーは、ベーコンに彼女のスミス・スクエアの自宅のダイニングルーム用家具として、グラス、スチールテーブルなどを注文する。ベーコンのクイーンズベリー・ミューズのアトリエは、雑誌『スタジオ』1930年8月号で特集され、見開きで『1930年の英国装飾』という見出しで紹介された。

 

1931年にクイーンズベリー・ミューズのアトリエを取り払った後、数年間、ベーコンは落ち着く場所がなく動き回った。1932年にベーコンはオーストリア在住のアイルランド人女性のグラディ・マクダーモットから注文を受け、彼女の自宅の家具のデザインや装飾の仕事を行う。

 

1933年の《磔》は一般公衆から最初に注目を集めた作品で、パブロ・ピカソの1925年作《3人の踊り子》をベースにした作品だった。しかし、この作品はあまり評価されることはなく、それから10年近くベーコンは絵を放棄する。そして初期作品は黒歴史として封印してしまう。

 

1935年にパリの古本屋を訪れたときに、口内の病気に関する本が気になり購入する。口の中の病気について書かれたこの本は、その後生涯、ベーコンの関心事の1つとなった。1935年にエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』のポチョムキンの階段で叫ぶ乳母のシーンとあわせて、彼の有名絵画《ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の研究》につながっていく。

ベーコンが影響を受けた『戦艦ポチョムキン』の女性の叫ぶシーン。
ベーコンが影響を受けた『戦艦ポチョムキン』の女性の叫ぶシーン。
口の中の病気に関する本を熱心に読みふけっていたという。
口の中の病気に関する本を熱心に読みふけっていたという。
左:パブロ・ピカソ『3人の踊り子』、右:フランシス・ベーコン『磔』
左:パブロ・ピカソ『3人の踊り子』、右:フランシス・ベーコン『磔』
ベーコンのスタジオが見開き紹介された雑誌『スタジオ』
ベーコンのスタジオが見開き紹介された雑誌『スタジオ』
インテリア・デザイナー時代のラグ作品。
インテリア・デザイナー時代のラグ作品。

 1935年から36年にかけて、ローランド・ペンローズやハーバート・リードが『国際シュルレアリスム展』を開催するにあたって作家を選定するにあたり、ベーコンに興味を示し、チェルシーのロイヤル・ホスピタル・ロード71番地にあるベーコンのアトリエを訪れる。

 

ベーコン作品の出品が検討されたが、シュルレアリスム作品として不十分な出来だっため、結局不参加となった。ペンローズはベーコンに「あなたは印象派以降に美術史で起こったさまざまな出来事を知らないのでは」と話したという。

 

1937年1月、トーマス・アグニュー&ソンズは、ロンドンのオールド・ボンド・ストリート43番地で、ベーコンも参加したグループ展「ヤング・ブリティッシュ・ペインター」を開催。ほかにグラハム・サザーランド、ビクター・パスモア、ロイ・デ・メーストルらが参加。「庭にいる人」(1936年)、「アブストラクション」「人間の形態から抽象へ」などベーコンの作品は4点展示された。

 

第二次世界大戦が始まるとベーコンは、民間防衛会社に志願し、フルタイムでARPのレスキュー・サービスで働く。生存者の救出や遺体の捜索の仕事をしていたという。なおナチス・ドイツ軍のイギリスへの空爆は後にベーコンに大きな影響を与える。また、ロンドン大空襲時に発生した粉塵のためにベーコンは持病の喘息を悪化させ、それが原因で会社を解雇される。

 

ロンドン大空襲時にベーコンは、愛人であるエリック・ホールとロンドン郊外のピータースでコテージで過ごしていた。『車から抜け出す人』(1939-1940)はここで描かれた作品で、1945年から1946年に『車の光景』とタイトルを変更して再制作されている。この作品は『キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作』の中央のパネルに描かれた生物形態のルーツにあたるという。

「車から抜け出す人」(1939-1940)
「車から抜け出す人」(1939-1940)

画家として成功


『キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作(3つの習作)』(1944年)
『キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作(3つの習作)』(1944年)

1946年までにベーコンは絵描きとしての自信を取り戻し始める。自信を取り戻すきっかけとなったのは、1944年に制作した《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作(3つの習作)》である。

 

本作は、ギリシア神話に登場する復讐の三女神エリーニュス、もしくは古代ギリシアの悲劇作家アイスキュロスの『オレステイア』の復讐の三女神を基盤にして制作されている。平面的なオレンジ色の背景に即し、首を長く伸ばして、歯をむき出しにした擬人化された鳥のような謎の生物体が3体描かれている。

 

この謎の生命体のイメージは、のちにデビッド・リンチの「イレイザー・ヘッド」における奇形児や、H.R.ギーガーによる「エイリアン」の造形に影響を与えた。

 

ピカソに影響を受けた作品「磔」や、古代ギリシアの詩に対する独自の解釈など、ベーコンのこれまでの作品の要素を凝縮させているのが本作の特徴である。ベーコンは大規模な磔刑のシーンを描く際に、本来のキリストの磔図の解釈を無視し、十字架に人物を描かないようにしたという。

 

3体の擬人化された生物についてベーコンは「人間の姿に近く、かつ徹底的に歪曲された有機体のイメージ」と話している。当時この作品についた一番多い形容は「悪夢」だった

 

ベーコンはこの『3つの習作』以前に制作した作品は、良い作品だったと思っていなかっため、その後の生涯を通じてアートマーケットに初期作品が流通しないようにした。実際に破壊している作品も多数ある。ベーコンはインタビューで本作をもって“自身の画業の始まり”と明確に位置づけている。

 

1945年4月にロンドンのルフェブル・ギャラリーで『3つの習作』は初めて展示され、センセーショナルを巻き起こした。この作品を機に、ベーコンは急速に戦後の代表的な画家として地位を確立し始める。『3つの習作』の美術的意義において批評家のジョン・ラッセルは、1971年に「『3つの習作』以前のイギリス絵画と以後の作品は混同することはできない」と話している。

《絵画(1946年)》


『絵画(1946年)』
『絵画(1946年)』

1946年制作の《絵画(1946年)》は、1946年11月18日から12月28日までパリ国立近代美術館で開催された「近代美術国際博覧会」をはじめ、いくつかのグループ展で展示されている。展覧会にあわせてベーコンはパリへ旅行する。

 

《絵画(1946年)》はハノーバー・ギャラリーで売買され、そのときの売上を元手にしてベーコンは愛人のエリック・ホールらとモンテカルロへ旅行する。ホールとラブホテルを含むさまざまなホテルやアパートに滞在したあと、ベーコンはフォンテーヌ通りにある丘に大規模な別荘を建て、エリック・ホールと乳母のライトフットをそこに呼び寄せ共同生活を始める。

 

ベーコンは、以後数年の大半をモンテカルロのアパートで過ごしながらロンドンへときどき出張するようになる。ただ、その時代の絵画の多くが、ベーコンによって破壊されており現存していない。

 

1948年に『絵画(1946年)』は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)のアルフレッド・バールが購入。ベーコンは、ニューヨークに作品を送る前にサザーランドへ絵画の色落ちを防ぐために固定液を塗布しておくよう頼んだという。『絵画(1946年』は現在あまり作品の状態がよいとはいえず、MoMA以外の場所に移動して展示できない状態となっている。

 

この時代にベーコンはアルベルト・ジャコメッティや生涯の友人となるイザベル・ニコラスらと知り合う。

1940年代後半


1948年後半、ベーコンはロンドンへ戻る。《頭部1》は1948年6月から9月まで、レッドファーン・ギャラリーの『サマーエキシビジョン』で展示され、翌年の春にハノーバー・ギャラリーでも展示されていた。

 

1949年11月8日から1949年12月10日まで、ハノーバー・ギャラリーで個展『フランシス・ベーコン:絵画:ローバと・アイアンサイド:カラー・ドローイング』が開催。《頭部1》から《頭部6》《人間の身体 習作》(1949年)、《ポートレイト 習作》(1949年)などの作品が展示され、画業成功後のベーコンの本格的な初個展となった。

 

ベーコンの作品は画家のパーシー・ウインダム・ルイスが、雑誌『リスナー』に好意的な批評を書かれたのがきっかけで注目を集めた。「ハノーバー・ギャラリーで非常に重要な展示が行われている。

 

フランシス・べーコンほどの美しい絵を描く若手作家はほかにいない」とルイスは評している。加えて「ベーコンは今日のヨーロッパにおいて最も重要なアーティストの1人であり、完全に彼の世界を描き出している」と評している。

 

《頭部6》はベーコンの最初の「叫ぶ教皇」シリーズの作品で、1946年にモンテカルロ滞在時に制作されたが、破壊されて現存していない。

『頭部1』(1948年)
『頭部1』(1948年)
『人間の身体 習作』(1949年)
『人間の身体 習作』(1949年)
『頭部6』(1946年)
『頭部6』(1946年)
『ポートレイト 習作』(1949年)
『ポートレイト 習作』(1949年)

1950年代のベーコン


ベーコンが生涯参加していた芸術サロンとして「コロニー・ルーム」というのがある。コロニー・ルームは、ソーホーのディーン・ストリート41番地にあるプライベートのサロン名で、ミュリエル・ベルチャーが主催者である。

 

ベルチャーは第二次世界大戦のときに、レスター・スクウェアで「ミュージック・ボックス」というクラブを経営しており、午前2時半まで通常営業をおこなったあと、午前3時から午前11時事までをプライベートの飲み会の「コロニー・ルーム」という会員制のクラブを営業していた。ベーコンはコロニー・ルーム初期の会員であり、また生涯会員でもあった。

 

なかば店員のような位置づけだったベーコンは、週に10ポンド払う代わりに友人やさまざまな富裕層や著名人を店へ招待することで自由に飲むことができたという。実際、ベーコンのおかげでコロニー・ルームは芸術エリートたちのサロンに発展し、画家のルシアン・フロイド、俳優のピーター・オトゥール、歌手のジョージ・メリー、画家のジョン・ミントン、ほかに雑誌『Vogue』の写真家のジョン・ディーキンなど多くの芸術家たちが「コロニー・ルーム」に集まった。

 

ベーコン死後もダミアン・ハーストをはじめYBAなどの若手芸術家のサロンとなったが、2008年に閉店した。

コロニー・ルーム創設者のミュリエル・ベルチャーとベーコン
コロニー・ルーム創設者のミュリエル・ベルチャーとベーコン

1950年にベーコンは美術批評家のデビッド・シルベスターと出会う。彼はヘンリー・ムーアやアルベルト・ジャコメッティ作品の評価を高めた批評家としてよく知られている。シルベスターは自著でベーコンの作品を誉めたたえ、また1948年にベーコンに関する最初の批評をフランスの定期刊行誌「L'Age nouveau」に書いた。

 

この頃ベーコンは、ゴヤやクルーガー国立公園で撮影されたアフリカの風景や野生の世界に影響を受ける。ベーコンはエジプトのカイロで数日間過ごし、画商のエリカ・ブラウゼンにカルナック神殿やルクソールについて手紙を書き、その後アレクサンドリアを経てマルセイユ港へ旅行する。この旅でエジプト・アートに大変感銘を受けたベーコンは、1953年に『スフィンクスの習作』を制作する。

 

またベラスケス・シリーズの代表作である『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像後の習作』を1953年に制作。

 

1951年に乳母のライトフットが死去。ベーコンは彼女の死を聞いたときはニースでギャンブルをしていた。彼女は幼少の頃から最も親密で理解のある人だった。パリからロンドンに戻って家具デザインの仕事を始めたころ、ベーコンは彼女とエリック・オーデンを呼び寄せて一緒に生活をしていた。のちにモンテカルロに住むときもライトフットはエリック・ホールとともに呼び寄せた。

『スフィンクスの習作』(1953年)
『スフィンクスの習作』(1953年)
ナンシー・ライトフット
ナンシー・ライトフット
『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の研究』(1953年)
『ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の研究』(1953年)

天井から落ちてきたジョージ・ダイアー


ベーコンのミューズとなるジョージ・ダイアー。筋肉隆々で引き締まった身体にベーコンは一目惚れする。
ベーコンのミューズとなるジョージ・ダイアー。筋肉隆々で引き締まった身体にベーコンは一目惚れする。

ベーコンは1964年、55歳のときに最愛の愛人ジョージ・ダイアーと出会う。

 

出会いはジョージがベーコンのアパートに泥棒として入ったこと。ジョージは盗みに失敗してアトリエの天井から落下。彼の姿を一目見て気に入ったベーコンは、警察に突き出す代わりにベッドに誘ったという。

 

要求に従ったダイアーは、その日からベーコンの絵のモデル兼愛人として、芸術家の気まぐれに奉仕することになる。当時、ダイアーは30歳でロンドンのイースト・エンド出身だった。ダイアーは犯罪癖のある家族で育ち、小さな頃から盗みで刑務所をさまよう人生だったという。

 

ベーコンの男性愛人歴は古く、初期の愛人としてよく知られているのは元パイロットのピーター・レイシーである。ピーターは暴力的でベーコンの作品を引き裂いたり、酒で酔っぱらってフランシスを殴り倒し、路上にほぼ気絶状態の彼を放置した。

 

しかし、ダイアーと出会ってから性格が変わる。ベーコンはダイアーから漂う脆弱性やお人好しな性格に惹きつけられ、一方のダイアーは自身の無教養さやギャングや社会の底辺で生きてきた出自から来る自信のなさゆえ、ベーコンの画家としての成功や自信に満ちた態度に感銘を受ける。

 

ダイアーはベーコンを「脆弱な若い男性を守る父親像」として受け入れるようになる。ダイアーは崇拝するベーコンに一歩でも近づこうとベーコンを真似るようになる。ベーコンのように渋い顔を決め、チェーンスモークやアルコールに興味を持つようになったという。

 

ベーコンの作品は1960年代なかばから初期作品群における極端な主題から友人の肖像画へ移行し始める。なかでもダイアーの肖像画はベーコン作品において特に中心的な主題となった。美術上でのダイアーの扱いは、あまり特徴的でない弱々しさを残しながら肉体的な部分を強調するものだった。

 

この時代、ベーコンは多くの友人達の肖像画を描いているが、ダイアーはベーコンが描く絵と不可分に感じるようになり、アイデンティティ、等身大、レーゾンデートル(存在意義)とさえなりはじめた。そして、ベーコンは「生と死の間の短い間奏」としてそんなダイアーを描いた。ミシェル・レリスやローレンス・ゴーイングなど多くの批評家はダイアーの肖像画作品を好意的に受け止めた。

 

ベーコンは、ダイアーをアクセサリー代わりに自分の属する世界での社交会に連れ回すようになり、今までダイアーが属していた世界、ギャングや社会の底辺で生きる人間の属する下層社会から切り離した。ダイアーは見ず知らずの富裕層の世界に突然放り込まれ、周囲からの自分に対する好奇の視線と嘲笑に耐えられなくなる。

 

セレブ社会に参加したこともあって、ダイアーはこれまでの犯罪癖をやめるようになったが、今度はアルコール依存症になった。酔っているときのダイアーは抑制できない状態で、ベーコンや周囲のハイカルチャーの人達に迷惑をかけはじめる。そうして必然的に周囲のとりまきにとって厄介者となりはじめ、ベーコンからも次第に遠ざけられるようになる。1971年までにダイアーは1人で飲みはじめ、また薬物中毒にもなった。

 

1971年10月、ダイアーはパリのグランパラで開催されるベーコンの回顧展のオープニングへの出席が許されるが、ベーコンがパリのグラン・パレで生涯最高の光栄に浴しているまさにその時、ホテルで睡眠薬を大量に飲んで自殺する。

 

リュセルによれば、「ベーコンはダイアーの死だけでなく、ほかにも乳母をはじめ4人の友人を短期間に次々と失ったことに大変なショックを受けていた。この友人たちの死は、その後の彼の人生の変容に大きな影響を与えた」という。

 

外見上はストイックに見えたが、ベーコンの内面は壊れていった。ベーコンは批評家たちに内面を打ち明けなかったが、後に友人たちに「悪魔、災難、喪失」と話している。

 

葬儀の間、常習犯を含めたダイアーの友人の多くは涙を流して悲しんだ。棺桶が墓石にへ入れられるさい、友人の1人は「お前は大馬鹿者だ!」と叫んだ。ベーコンは葬儀中は静かだったが、その後、数カ月間精神的に苦しみ、身体を壊してしまった。深く悲しみ、2年後ベーコンはたくさんのダイアーの単作の肖像画や三連画を描いた。この時代に有名な作品が《黒の三連》である。

『黒の三連』(1972-1974年)
『黒の三連』(1972-1974年)

晩年


1992年マドリードを旅行中、ベーコンは病に伏せて民間病院に入院。持病の喘息は生涯彼を苦しめ、年々、呼吸器官を悪化させた。この頃になるとベーコンは会話することも難しくなり、1992年4月28日、心肺停止で死去。

 

ベーコンの遺産(約1100万ポンド)はジョン・エドワードやブライアン・クラークに相続された。

 

1998年にダブリンにあるヒューレーン・ギャラリーのディレクターは、サウス・ケンジントンのリース・ミューズ7番地にあるベーコンの混沌としたスタジオをそのままの状態で保存し、スタジオを丸ごとギャラリー内に再現している。

 

このスタジオは2001年に一般公開され、スタジオ全体はカタログ化もされた。約570冊の本、1500枚の写真、100枚のキャンバス、1300枚の本の切り抜き、2000の絵具など画材、70枚のドローイング、ほかに雑誌、新聞、アナログレコードなどなどがスタジオ内に散乱した状態になっている。


【Artpedia】作品解説 | フランシス・ベーコン「ルシアン・フロイドの3つの習作」

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ルシアン・フロイドの3つの習作 / Three Studies of Lucian Freud

ルシアン・フロイドのポートレイト


フランシス・ベーコン《ルシアン・フロイドの3つの習作》1969年,Wikipediaより
フランシス・ベーコン《ルシアン・フロイドの3つの習作》1969年,Wikipediaより

概要


作者 フランシス・ベーコン
制作年 1969年
メディア カンヴァスに油彩、3つのパネル
サイズ 198 cm × 147.5 cm
所蔵者 エレーヌ・ウィン

《ルシアン・フロイドの3つの習作》は1969年にフランシス・ベーコンによって制作された油彩三連画作品。ベーコンのマスターピースの1つとされれている。描かれているのは画家でジクムント・フロイトの孫であるルシアン・フロイド。2013年11月にニューヨークのクリスティーズで1億4240万で売買され話題になった。

 

3つのパネルはすべてベーコンの代表的な抽象的で、顔に歪みがあり、孤独な雰囲気で描かれているが、色あいはいつものベーコン作品よりも明るめになっている。フロイドはオレンジ色の壁と湾曲した茶色の床を背景に、になっている鳥かごのようなものの中で木製の椅子に座っている。

 

フロイドの後ろにはベッドのヘッドボードが描かれているが、これは写真家のジャン・ディーケンが1964年に撮影したフロイドの写真をもとにしている。描かれているのはフロイドではあるもの、ベーコンの恋人のジョージ・ダイアーと非常によく似ている。

ジャン・ディーケンが1964年に撮影したフロイドの写真
ジャン・ディーケンが1964年に撮影したフロイドの写真
ベーコンによるジョージ・ダイヤーのポートレイト
ベーコンによるジョージ・ダイヤーのポートレイト

ベーコンとフロイドの間柄


ベーコンとフロイドは親友であり芸術家のライバル同士だった。1945年に画家のグラハム・サザーランドの紹介で二人は出会い、すぐに二人は親しくなった。1951年から二人は何度もお互いのポートレイトを描くようになる。

 

ベーコンによって描かれた《ルシアン・フロイドの3つの習作》は2つあるが、本作はそのうちの後の作品である。最初の作品は1966年に制作されたが、1992年から行方不明になっている。

 

またこの作品は、1960年代に頻繁に描かれたベーコンの親友のポートレイトシリーズでもある。このシリーズではフロイド以外ではほかに、イザベル・ニコラス、ミューリエル・ベルチャー、そしてベーコンの愛人だったジョージ・ダイヤーなどが対象としてよく描かれている。なお、ベーコンとフロイドの交友は1970年代なかばに起こった口論のあと終わっている。

フランシス・ベーコンへ戻る

 

■参考文献

Three Studies of Lucian Freud - Wikipedia、2017年8月3日アクセス


【Artpedia】作品解説 | フランシス・ベーコン「ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作」

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ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作

Study after Velázquez's Portrait of Pope Innocent X

古典への創造的再解釈の代表


フランシス・ベーコン《ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作》1953年,Wikipediaより
フランシス・ベーコン《ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作》1953年,Wikipediaより

概要


作者 フランシス・ベーコン
制作年 1953年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 153 cm x 118 cm
コレクション デモイン・アートセンター

《ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作》は、1953年に制作された油彩作品。1650年にスペインの画家ディエゴ・ベラスケスが制作した『インノケンティウス10世の肖像』をベースにしている。

 

本作は、1950年代から1960年代初頭にかけてベーコンが制作した45以上あるベラスケス・シリーズの中の1つで、この時代のベスト作品とみなされている。

 

ベラスケスのオリジナル作品と比較すると、ベーコン版では教皇の口が開き、叫び声を上げているように描かれている。ベーコンによれば恐怖や不安を表現するために「叫び」を描いているのではなく、「叫び」そのものを描いているのだという。

 

また暗いカーテンと垂直方向の筆致のスピード感が得体の知れない不安感や絶望感を強め、透明なプリーツ・カーテンでできたしわが教皇の顔に陰を落とす効果を出している。

 

イギリスの美術批評家のデビッド・シルベスターは、ベーコンはベラスケスが描く肖像画における教皇の「孤立した立場」に魅了されており、そのベラスケスの絵画における心理的な側面を極端に誇張させて表現していると説明している。

 

また顔のモデルとなっているのは、エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段で乳母車が落ちて、乳母が叫ぶシーンである。

 

哲学者のジル・ドゥルーズは本作品について、古典絵画に対する創造的な再解釈の代表的作品と評した。

映画「戦艦ポチョムキン」で乳母が叫ぶシーン。
映画「戦艦ポチョムキン」で乳母が叫ぶシーン。
ベラスケス作『インノケンティウス10世の肖像』
ベラスケス作『インノケンティウス10世の肖像』

『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段で乳母車が落ちていくシーン(5分30秒過ぎ)


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キリスト磔刑図のための3つの習作
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キリスト磔刑図のための3つの習作

Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion

後世への影響大のベーコンデビュー作


フランシス・ベーコン《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作》1944年,Wikipediaより
フランシス・ベーコン《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作》1944年,Wikipediaより

概要


作者 フランシス・ベーコン
制作年 1944年
メディウム 油彩、パステル、ステンダラ、ファイバーボード
サイズ  74 cm x 94 cm
コレクション テート・モダン

《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作》は、1944年にフランシス・ベーコンによって制作された三連画。ステンダラ。ファイバーボード上に油彩とパステルで描かれている。制作期間は2週間。

 

本作は、ギリシア神話に登場する復讐の三女神エリーニュス、もしくは古代ギリシアの悲劇作家アイスキュロスの『オレステイア』の復讐の三女神をベースにして、平面的なオレンジ色の背景に即して、首を長く伸ばして、歯をむき出しにして擬人化された鳥のような謎の生物体が3体描かれている。

 

ピカソのバイオモーフィズムや『磔』に対する独自の解釈、ギリシア神話などこれまでのベーコン作品を凝縮した構成になっている。

 

この謎の生命体のイメージは、のちにデビッド・リンチの「イレイザー・ヘッド」における奇形児や、H・R・ギーガーによる「エイリアン」の造形に影響を与えている。

 

ピカソに影響を受けた「磔」や、古代ギリシアの詩に対する独自の解釈など、ベーコンのこれまでの作品の要素を凝縮させたものである。ベーコンは大規模な磔刑のシーンを描く際、本来あるべきキリストの磔図の解釈を無視して、十字架に人物を描かなかった。3体の擬人化された生物についてベーコンは「人間の姿に近く、かつ徹底的に歪曲された有機体のイメージ」とコメントしている。当時この作品に付いた一番多い形容は「悪夢」であった。

 

ベーコンはこの『3つの習作』以前に制作した作品は、あまり良いものと思っていないため、その後の生涯を通じてアートマーケットに初期作品が出ることをできるだけ抑制しようとした。ベーコンはインタビューで本作をもって“自身の画業の始まり”と明確に位置づけている。

 

1945年4月にロンドンのルフェブル・ギャラリーで『3つの習作』は初めて展示され、センセーショナルを巻き起こした。その後、ベーコンは急速に戦後の代表的な画家として地位を確立し始める。『3つの習作』の美術的意義において批評家のジョン・ラッセルは、1971年に「『3つの習作』以前のイギリス絵画と以後の作品は混同することはできない」と話している。


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【Artpedia】作品解説 | バンクシー「クリスマスおめでとう」

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クリスマスおめでとう / Season's Greetings

粉じんをプレゼントされる少年


ポートタルボットの鉄工所近くのガレージに描かれた作品。dezeenより。
ポートタルボットの鉄工所近くのガレージに描かれた作品。dezeenより。

概要


作者 バンクシー
制作年 2018年12月
場所 イギリス、ポートタルボット

《クリスマスおめでとう》は2018年12月にバンクシーによって制作されたストリート・アート。イギリス、ポートタルボットにある鉄工所労働者のガレージの2つの壁に描かれた作品で、地元の製鉄所から噴出される粉じんに対する抗議を示唆した内容となっている。

 

2018年12月末、バンクシーはインスタグラムに作品の紹介映像をアップロード。子ども向けクリスマスソング「リトル・スノーフレイク」の音楽にあわせて、両腕を広げて、口を大きく開けて、空から降ってくる雪を食べようと少年の絵が映し出される。

 

カメラは正面の壁の角をまたいで横面へ移動すると、そこには産業用ゴミ箱と燃え上がる火が描かれているというもの。少年が食べようとしているものは雪ではなく粉じんだった。

 

映像公開後、バンクシーファンの多くが現地に足を運んだ。アラベボン町のプライム・カウド議員のナイジェル・トーマス・ハントはこの作品がバンクシーのものであるという噂のため町が騒然となったと話している。

 

絵が描かれたガレージ所有者のイアン・ルイスは、作品が誰かに破壊されることが心配で眠れなくなったと不満をもらしている。作品を保護するため保護柵や保護ケースが設置されたものの、酔っぱらいから幾度か攻撃を受け、作品を保護するための警備員の増員が提案されることもあった。

 

2019年5月、作品は取り外され町のTy'r Orsafビルディング内のギャラリーに移転されることになった。

 

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【Artpedia】薄久保香「相反する要素をまとめて結晶化する現代美術家」

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薄久保 香 / Kaoru Usukubo

相反する要素をまとめて結晶化する現代美術家


薄久保香《偶然の実験室》2018年,公式サイトより
薄久保香《偶然の実験室》2018年,公式サイトより

概要


生年月日 1981年生まれ
国籍 日本
活動基盤 東京、京都
芸術運動 コンテンポラリー・シュルレアリスム
表現媒体 絵画
公式サイト https://www.kaoru-usukubo.com/

薄久保香(1981年生まれ)は日本の画家。ベラスケスやダリのような洗練された伝統的技術でキャンバス上に相反する二つの要素をまとめたシュルレアリスムな作品を描く。

 

彼女は本来遭遇しない要素が集合することで発生するエネルギーを「結晶」と呼び、また自身の絵画を「結晶時間 crystal moment」と呼んでいる。

 

偶然の邂逅から生まれる永遠の時間を捕らえようとする薄久保の絵画は、常に変化し拡張し続けるこの世界の本質を理解するための実験、手助けとなるだろう。

 

薄久保は幼少時からテレビゲームやアニメといった虚構の世界、また、コンピュータやデジタルカメラといった映像データの世界に幼少時から親しんできた。彼女は仮想現実と現実世界という相反する世界の間で、リアリティについて問いかける絵画を制作している。

 

 

Kaoru Usukubo (born in 1981) is a Japanese painter. Draws surrealistic works that combine two conflicting elements on the canvas with sophisticated traditional techniques such as Velasquez and Dali.She calls the energy that is generated by the collection of elements that are not originally encountered as “crystals” and her painting as “crystal moment”.

 

Usukubo's paintings that try to capture the eternal time born from the accidental traps will help to experiment and understand the essence of this ever-changing and expanding world.

 

Usukubo  has been familiar with the fictional world such as video games and animations since childhood, the world of video data such as computers and digital cameras since childhood.She expresses reality between the conflicting worlds of virtual reality and the real world.

略歴


2004年東京造形大学卒業。2007年4月に行われたアートフェア東京そして、6月のバーゼルでのアートフェアVOLTA show03をきっかけに世界中から注目を集め始める。

 

2010年東京藝術大学大学院で博士号(油画)を取得。

 

広く一般的に知られる機会となったのは2011年の横浜トリエンナーレである。2007年作《D&D Delicate discovery》では、全体的にはおとなしく後ろ向きでたたんずでいる少年だが、髪だけが敏感に逆だっており、テレパシーや霊的な現象を感じ取る子どもの無垢なパワーを表現しているように見える。

 

薄久保の描く少年や少女たちは、全体的にどこか孤独で悲しげである。腕で顔を隠している姿は泣いているように見える。遊んでいる絵にしても、複数の子どもたちが楽しそうに描かれる風景ではなく、ほとんどは一人遊びである。

 

 

かつて、ルネ・マグリット《ゴルコンダ》で現代における大衆の孤独性を表現したが、薄久保が描く子どもたはルネ・マグリットが描く大衆の姿と重なるところがある。

薄久保香《D&D Delicate discovery》(一部)2007年,公式サイトより
薄久保香《D&D Delicate discovery》(一部)2007年,公式サイトより
薄九保香《預言の証明》2011年,公式サイトより
薄九保香《預言の証明》2011年,公式サイトより

■参考文献

https://www.kaoru-usukubo.com/

・2011年横浜トリエンナーレ図録


【Artpedia】高橋コレクション「日本の現代美術収集家」

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高橋コレクション / TAKAHASHI COLLETION

日本の現代美術コレクション


概要


「高橋コレクション」は日本人精神科医・高橋龍太郎の収集による現代アートのコレクション。

 

高橋龍太郎(1946年・山形生まれ)は慶応大学医学部へ入学し、全共闘運動に加わり、1969年に退学。1977年に東邦大学医学部を卒業して、1980年慶応大学精神神経科へ入局。専攻は社会精神医学を専攻。

 

1990年東京の鎌田でタカハシクリニックを開業、デイ・ケアや訪問看護を中心とした地域に密着した精神医療へ取り組む。

 

アートの収集を始めたのは20代後半頃。最初に購入したのは合田佐和子。収集する前はシュルレアリスム系作家の展覧会によく通っていた。マックス・エルンストやポール・デルヴォーなどが好きだったという。

 

高橋龍太郎は、1990年代以降の日本のアートシーンを俯瞰するうえで欠かせないコレクターとして高い評価を得ている。所蔵作品は2000点を超え、村上隆、奈良美智、会田誠、ヤノベケンジといった、現在日本を代表する作家たちにごく早い時期から注目し、彼らの重要作品を次々と収集してきた。

 

また、最近ではより幅広いコレクションを志向し、「もの派」をはじめキャリアの長い作家も積極的に収集する姿勢を見せている。

おもなコレクション作家


会田誠/荒木経惟/安藤正子/大岩オスカール/大野智史/落合多武/ ob/樫木知子/川島秀明/草間彌生/熊澤未来子/小出ナオキ/

鴻池朋子/小西紀行/小林正人/近藤亜樹/坂本夏子/佐藤允/塩田千春/塩保朋子/菅木志雄/鈴木ヒラク/辰野登恵子/Chim↑Pom/

名知聡子/奈良美智/橋爪彩/畠山直哉/平野薫/福井篤/藤田桃子/舟越桂/松井えり菜/宮島達男/村上隆/森村泰昌/森山大道/

ヤノベケンジ/横尾忠則/李禹煥



【Artpedia】作品解説 | バンクシー「Nola 傘少女」

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Nola 傘少女

ニューオーリンズに描かれた傘少女


バンクシー《Nola》2008年
バンクシー《Nola》2008年

概要


作者 バンクシー
制作年 2008年
メディア 壁画、グラフィティ
場所 ルイジアナ州ニューオーリンズのマリニー地区

《Nola》は2008年にバンクシーによって制作されたストリートアート作品。「傘少女」「雨少女」とも呼ばれることもある。アメリカ、ルイジアナ州ニューオーリンズのマリニー地区のストリート上に描かれた。

 

アメリカでは州・都市にそれぞれユニークなニックネームがつけられている。ニューオーリンズでは「Nola」というニックネームが付けられており、作品タイトルはニューオーリンズのことを指している。

 

この作品は、2005年8月、カトリーヌ・ハリケーンにより甚大な被害を受けてから3年後に描かれたもので、複数存在するバンクシーのハリケーン関連のストリートアートの1つ。ハリケーンで発生した大洪水、および1,836人の悲劇的な死に言及している。

 

少女が持つ傘の内では土砂降りの雨が降り注いでるが、傘の外へ手を出すと雨は降っていない。つまり、傘が雨から自身を保護してくれるわけではなく、実際は傘そのものが土砂降りの原因となっている。

複数あるバージョンの1つ


「Nola」のステンシル作品は、ニューオーリンズにおけるバンクシーの最もパワフルで美しいステンシルの1つ。

 

ニューオーリンズでバンクシーのストリートアートは14種点制作されているが、現在実際にストリート上に残っているのは本作のみとなっている。他の作品は破壊されたり、盗難にあったり、美術館やギャラリーが所蔵している。

 

オリジナルの「Nola」は、建物の所有者による放置や他人からの破壊行為、また度々の盗難未遂のためダメージを受けていたが、2014年から透明のプレキシガラスで覆われ現在は厳重に保護されている。Googleストリートビューからでも確認できる

プリント作品


ストリート上に描かれたから半年後に、最初のNolaのサイン入りプリント作品が発売された。雨の滴りを白く強調したものにアレンジされた作品で289枚限定だった。

 

その後、灰色、ネオンオレンジ、黄色、マルチカラーなどさまざまなカラーのプリント作品が販売されており、すべてバンクシーによるサインとエディンション番号が付けられている。



■参考文献

https://www.myartbroker.com/artist/banksy/nola/、2019年9月29日アクセス

【Artpedia】バンクシー「世界で最も人気のストリート・アーティスト」

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バンクシー / Banksy

世界で最も注目されているストリート・アーティスト


※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年
※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年

概要

バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
本名

不明

生年月日 不明
国籍 イギリス
表現媒体 絵画、壁画、インスタレーション、版画
ムーブメント グラフィティ、ストリート・アートブリストル・アンダーグラウンド
代表作

《愛はごみ箱の中に》2018年

《風船と少女》シリーズ

《東京2003》

《シリア移民の息子》

そのほかバンクシー作品一覧

公式サイト http://banksy.co.uk

バンクシーはイギリスを基盤にして活動している匿名の芸術家、公共物破壊者(ヴァンダリスト)、政治活動家。現在は世界中を舞台にして神出鬼没を繰り返しながら活動することが多い。アート・ワールドにおいてバンクシーは、おもにストリート・アート、パブリック・アート、政治活動家として評価されている。ほかに映画制作もしている。

 

ステンシル(型板)を使用した独特なグラフィティ絵画と絵画に添えられるエピグラムは、ダークユーモア的で風刺性が高い。政治的であり、社会的な批評性のあるバンクシーの作品は、世界中のストリート、壁、橋に描かれている。

 

バンクシーの作品は芸術家と音楽家のコラボレーションが活発なイギリス西部の港湾都市ブリストルのアンダーグラウンド・シーンで育まれた。そのスタイルは、ステンシル作品の父として知られるフランスの芸術家ブレック・ル・ラットや、マッシヴ・アタックのロバート・デル・ナジャ(3D)の絵描き時代の作品とよく似ている。バンクシー自身ものちに音楽グループ「マッシヴ・アタック」の創設者となった3Dやブレック・ル・ラットから影響を受けていると話している。

 

バンクシーは自身の作品を、街の壁や自作の小道具的なオブジェなどだれでも閲覧できる公共空間に展示することが多く、ギャラリーや屋内で展示することは少ない。

 

また、バンクシー自身がストリート・アートの複製物や写真作品を販売することはないが、アート・オークション関係者はさまざまな場所に描かれた彼のストリート・アートの販売しを試みている。

 

バンクシーの最初の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』は、「世界で最初のストリートアートパニック映画」とキャッチをうたれ、2010年のサンダンス映画祭で公開された。2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。2014年バンクシーは「2014年ウェビー賞」を受賞した。

 

 

作品・個展解説


展覧会情報



バンクシーの展覧会「バンクシー(BANKSY)展』が、2020年8月29日(土)から12月6日(日)まで東京、天王州の寺田倉庫 G1ビル(東京都品川区東品川2-6-4)で開催されることが決まった。以降、大阪巡回も予定しているという。

 

公式サイトの発表によれば、展示される作品群はバンクシー自身がプライベートコレクターに譲ったステンシルアート作品が中心で、バンクシーの軌跡をたどるよう構成されるという。

 

公式サイト:https://ilovebanksy.com/

バンクシー個人情報は明らかにされていない


バンクシーの名前やアイデンティティは公表されておらず、飛び交っている個人情報はあくまで憶測である。

 

2003年に『ガーディアン』紙のサイモン・ハッテンストーンが行ったインタビューによれば、バンクシーは「白人、28歳、ぎっしりしたカジュアル服、ジーンズ、Tシャツ、銀歯、銀のチェーンとイヤリング。バンクシーはストリートにおけるジミー・ネイルとマイク・スキナーを混じり合わせたようなかんじだ」と話している。

 

バンクシーは14歳から芸術活動をはじめ、学校を追い出され、軽犯罪で何度か刑務所に入っている。ハッテンストーンによれば「グラフィティは行為は違法のため匿名にする必要があった」と話している。

 

1990年代後半から約10年間、バンクシーはブリストルのイーストン地区の家に住んでいた。その後、2000年ごろにロンドンへ移ったという。

 

何度かバンクシーと仕事をしたことのある写真家のマーク・シモンズは以下のように話している。

 

「ごく普通のワーキングクラスのやつだった。完璧にまともなやつだった。彼は目立たないことを好んだから、グラフィティ・アーティストであることも気にならなかった。謎めいているとされる辺りが気に入っていて、ジャーナリストやメディアから壁で隔離されることが彼は好きなんだ。BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用) 

 

 

確証のないバンクシーの個人情報


バンクシーの本名はロビン・ガニンガム。1973年7月28日にブリストルから19km離れたヤーテで生まれた。ガニンガムの仲間や以前通っていたブリストル大聖堂合唱団のクラスメートがこの噂の真相について裏付けており、2016年に、バンクシー作品の出現率とガニンガムの知られた行動には相関性があることが調査でわかった。

 

1994年にバンクシーはニュヨークのホテルに「ロビン」という名前でチェックインしている。2017年にDJゴールディはバンクシーは「ロブ」であると言及した。

 

過去にロビン・ガニンガム以外で推測された人物としては、マッシブ・アタックの結成メンバーであるロバート・デル・ナジャ(3D)やイギリスの漫画家ジェイミー・ヒューレットなどが挙げられる。ほかにバンクシーは複数人からなる集団芸術家という噂が広まったこともある。2014年10月にはバンクシーが逮捕され、彼の正体が明らかになったというネットデマが流れた。

 

ブラッド・ピットはバンクシーの匿名性についてこのようにコメントしている。

「彼はこれだけ大きな事をしでかしているのにいまだ匿名のままなんだ。すごい事だと思うよ。今日、みんな有名になりたがっているが、バンクシーは匿名のままなんだ」

 

2019年7月、英テレビ局「ITV」のアーカイブからバンクシーらしき人物のインタビュー映像が発見され世界で話題になっている。インタビューは、バンクシーが2003年にロンドンで初めて開き、一躍有名になった展覧会「Turf war」前に行われたものである。

バンクシーと関わりの深い人物


ロバート・デル・ナジャ

マッシヴ・アタックのメンバーであり、ブリストル・アンダーグラウンド・シーンの中心的人物。

 

ミスター・ブレインウォッシュ

バンクシー初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』でバンクシーに撮影された主演男性。

 

ニック・ウォーカー

ロバート・デル・ナジャとともにブリストル・アンダーグラウンド・シーンを盛り上げたアーティストで、バンクシーに影響を与えている。

 

ブレック・ル・ラット

「ステンシル・グラフィティの父」と呼ばれるフランスのグラフィティ・アーティスト。極めてバンクシーの作品と似ているため、最近ブレックはバンクシーに対して不満をもらしはじめている。

 

スティーブ・ラザライズ

イギリスの画商。以前はバンクシーの代理業者として知られていた。ラザライズはストリート・アートの普及に貢献した最初の人物の1人であり、またアンダーグラウンド・アートの最新トレンドにおける権威として知られている。

 

 

バンクシーはなぜ評価されているのか?


バンクシーの作品はストリート・アートに相当するが、ほかのストリート・アーティストたちと異なるのは、アート・ワールド(美術業界)の空間にゲリラ的にストリート・アートを描き残したことである。

 

本来、バンクシーが活動するストリート・アートやグラフィティ・シーンは、本来、美術業界とはあまり関係がない。どちらかといえば、ヒップ・ホップなどのサブカルチャーシーンやロウブロウ・アート上に語られる芸術である。

 

しかし、バンクシーは、テート・ブリテンやルーブル美術館など世界の主要美術館に自作をゲリラ的に設置したり、サザビーズ・オークションの開催中に自身の作品を断裁して注目を集めるといったことをした。

 

また、世界で最も憂鬱になれる場所「ディズマ・ランド」では、ジェニー・ホルツァー、ダミアン・ハーストら現代美術家たちと積極的にコラボレーションをしている。このような、アート・ワールドとの関わりのあるなしが評価に影響されている点は大きい。

 

 

美術館侵入事件


バンクシーが世界的に報道されるようになったのは美術館侵入事件のころからである。バンクシーは2000年代何度か美術館に侵入して無断で作品を設置するなどの事件を起こしており、「芸術テロリスト」というキャッチが付けられはじめたのはこのころである。

 

・2003年10月、テート・ブリテン美術館に侵入して、風景画の上に警察の立ち入り禁止テープが描かれた絵を壁に接着剤で貼り付けた。床に絵が落下するまで発見されなかった。

 

・2004年4月、美術館員を装って、ガラス張りの箱に入れられたネズミを、ロンドン自然博物館に持ち込む。ネズミはサングラスをかけ、リュックを背負い、マイクとスプレー缶を手にしている。後ろの壁には「我々の時代が来る」というメッセージがスプレーで描かれていた。

 

・2005年3月、ニューヨークの4つの世界的な美術館・博物館であるニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館、ブルックリ美術館、アメリカ自然史博物館に侵入し、作品を展示する。グラフィティ系ウェブサイト(www.woostercollective.com)に「この歴史的出来事は、ファインアートの権威たちにとうとう受け入れられるようなったというより、巧妙な偽ひげと強力接着剤の使用によるところが大きい」とコメントしている。

 

・2005年5月、大英博物館に侵入し動物とショッピングカートを押している原始人が描かれた壁画を展示する。タイトルは「洞窟壁画」で同作品の説明が書かれたキャプションが設置された。この作品はバンクシー自信がウェブサイトで公表するまでの3日間、気づかれなかった。この作品は2018年8月30日に大英博物館が公式展示することを発表した。

※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。
※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。

略歴


若齢期


バンクシーは1990年から1994年ころにフリーハンドによるグラフィティをはじめている。ブリストル・ドリブラズ・クルー(DBZ)のメンバーとして、カトーやテスらとともに知られるようになった。

 

バンクシーは、ニック・ウォーカーインキー3Dといった少し上の世代の地元ブリストル・アンダーグラウンドシーンの芸術家から影響を受けている。この時代に、バンクシーはブリストルの写真家スティーブ・ラザライズと出会う。彼はのちにバンクシーの作品を売買するエージェントとなった。

 

初期はフリーハンド中心だったが2000年ころまでに制作時間を短縮するため、ステンシル作品へ移行しはじめた。ステンシルとはステンシルプレートの略称。板に文字や記号、円などの図形やイラストをの形をくりぬき、くり抜いた部分にスプレーを吹き付けることによって絵を描く技法である。

 

バンクシーはゴミ箱の下や列車の下に隠れて、警察の目から逃げているときにステンシル作品に変更しようと考えたという。

 

「18歳のとき、旅客列車の横に描こうとしていたら警察がきて、1時間以上ダンプカーの下で過ごした。そのときにペインティングにかける時間を半分にするか、もう完全に手をひくしかないと気がついた。それで目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見上げていたら、このスタイルをコピーして、文字を3フィートの高さにすればいいと気付いた(BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用)」と話している。

 

ステンシル作品に変更してまもなく、バンクシーの名前はロンドンやブリストルで知られるようになった。

 

バンクシーが最初に大きく知られるようになった作品は、1997年にブリストルのストーククラフトにある弁護士事務所の前の広告に描いた《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》で、3人の機動隊と火炎瓶を手にした熊が対峙した作品である。

※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年
※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年

 バンクシーのステンシルの特徴は、ときどきかたい政治的なスローガンのメッセージと矛盾するようにユーモラスなイメージを同時に描くことである。

 

この手法は最近、イスラエルのガザ地区で制作した《子猫》』にも当てはまる。なおバンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦反資本主義反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

 

 

2002−2003年


2002年6月19日、バンクシーの最初のロサンゼルスの個展「Existencilism(イグジステンシリズム) 」が、フランク・ソーサが経営するシルバーレイク通りにある331⁄3 Galleryで開催された。個展「Existencilism」は、33 1/3ギャラリー、クリス・バーガス、ファンク・レイジー、プロモーションのグレース・ジェーン、B+によってキュレーションが行なわれた。

 

2003年にはロンドンの倉庫で「Turf War(ターフ・ウォー)」という展示が開催され、バンクシーはサマセットの牧場から連れて来られた家畜にスプレー・ペインティングを行った。この個展はイギリスで開催されたバンクシーの最初の大きな個展とされている。

 

展示ではアンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛、ホロコースト犠牲者が着ていたパジャマの縞模様をステンシルされた羊などが含まれている。王立動物虐待防止協会も審査した結果、少々風変わりではあるけれども、ショーに動物を使うことは問題ないと表明した。しかし、動物保護団体で活動家のデビー・ヤングが、ウォーホルの牛を囲っている格子に自身の身体を鎖で縛りつけて抗議した。

 

バンクシーのグラフィティ以外の作品では、動物へのペインティングのほかに、名画を改ざん、パロディ化する「転覆絵画(subverted paintings)がある。代表作品としては、モネの「睡蓮」に都市のゴミくずやショッピングカートを浮かべた作品シリーズがある。

 

ほかの転覆絵画では、イギリスの国旗のトランクスをはいたサッカーのフーリガンかと思われる男とカフェのひび割れたガラス窓に改良したエドワード・ホッパーの《ナイトホーク》などの作品が有名である。これらの油彩作品は、2005年にロンドンのウェストボーングローブで開催された12日間の展示で公開された。

 

バンクシーはアメリカのストリート・アーティストのシェパード・フェアリーと2003年にオーストラリアのアレクサンドリアの倉庫でグループ展を開催している。およそ1,500人の人々が入場した。

※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年

かろうじて合法な10ポンド偽札(2004-2006年)


2004年8月、バンクシーはイギリス10ポンドの偽札を作り、エリザベス女王の顔をウェールズ公妃ダイアナの顔に入れ替え、また「イングランド銀行」の文字を「イングランドのバンクシー」に書き換えた。

 

その年のノッティング・ヒル・カーニバルで、群衆にこれらの偽装札束を誰かが投げ入れた。偽の札束を受け取った人の中には、その後、地元の店でこの偽札を使ったものがいるという。その後、個々の10ポンド偽札は約200ポンドでeBayなどネットを通じて売買された。

 

また、ダイアナ妃の死を記念して、POW(バンクシーの作品を販売しているギャラリー)は、10枚の未使用の偽紙幣同梱のサイン入りの限定ポスターを50枚販売した。2007年10月、ロンドンのボナムズ・オークションで限定ポスターが24,000ポンドで販売された。

『イングランドのバンクシー」Artnetより。
『イングランドのバンクシー」Artnetより。

2005年8月、バンクシーはパレスチナへ旅行し、イスラエル西岸の壁に9つの絵を描いた。

バンクシーは2006年9月16日の週末にロサンゼルスの産業倉庫内で「かろうじて合法」という個展を3日間限定で開催。ショーのオープニングにはブラッド・ピットなどのスターやセレブがたくさん訪れた。

 

「象が部屋にいるよ」という「触れちゃいけない話題」のことを指すイギリスのことわざを基盤にした展示で、この展示で話題を集めたのは全身がペンディングされたインド象だった。動物の権利を主張する活動家たちが、インド象へのペインティング行為に非難した。しかし、展覧会で配布されたリーフレットによれば、世界の貧困問題に注意を向けることを意図した展示だという。

 

この古びた倉庫での3日間のショーがアメリカ話題になり、美術界の関係者もこのショーをきっかけにバンクシーとストリート・アートに注目をしはじめた。美術館の有力者もバンクシーをみとめはじめ、ストリート・アート作品がオークションで急激に高騰をしはじめた。コレクターも新しい市場に殺到した。

※6:全身ペインティングされたインド象。
※6:全身ペインティングされたインド象。

バンクシー経済効果(2006-2007年)


クリスティーナ・アギレラは、バンクシー作品『レズビアン・ヴィクトリア女王』のオリジナル作品と2枚のプリント作品を25,000ポンドで購入。

 

2006年10月19日、ケイト・モッシュのセット絵画はサザビーズ・ロンドンで50,400ポンドで売買され、オークションでのバンクシー作品で最高価格を記録した。

 

この作品は6枚からなるシルクスクリーン印刷の作品はアンディ・ウォーホルのマリリン・モンロー作品と同じスタイルでケイト・モスを描いたもので、推定落札価格の5倍以上の値で取引された。目から絵の具が滴り落ちた『緑のモナリザ』のステンシル作品は、同オークションで57,600ポンドで売買された。

 

同年12月、ジャーナリストのマックス・フォスターはバンクシーのアート・ワールドにおける成功とともに、ほかのストリート・アーティストの価格の上昇や注目の集まりを説明するため「バンクシー効果」という言葉を使った。

 

2007年2月21日、ロンドン・サザビーズはバンクシー作品を3点出品し、バンクシー作品において過去最高額を売り上げた。『中東イギリス爆撃』は10万2000ポンド、ほかの2つの作品『バルーン少女』と『爆弾ハガー』はそれぞれ3万7200ポンドと3万1200ポンドで落札され、落札予想価格を大幅に上回った。

 

翌日のオークションではさらに3点のバンクシー作品が値上がりした。『バレリーナとアクション・マン・パーツ』は9万6000ポンド、『栄光』は7万2000ポンド、『無題(2004)』は3万3600ポンドで落札され、すべて落札予想価格を大幅に上回った。

 

オークション2日目の売上結果に反応するように、バンクシーは自分のサイトを更新し、入札している人々が描いた新しいオークションハウスの絵画をアップし、「とんちきが糞を購入する姿が信じられない」とメッセージを添えた。

 

2007年2月、バンクシーに描かれた壁画を所有するブリストルの家主は、レッド・プロペラ画廊を通じて家の売却を決めた。オークションの目録には「家に付属している壁画」と記載された。

 

2007年4月、ロンドン交通局は、クエンティン・タランティーノの1994年作映画『パルプ・フィクション』から引用して描いたバンクシーの壁画を塗りつぶした。この壁画は非常に人気があったけれども、ロンドン交通局は「放置や社会的腐敗の一般的な雰囲気は犯罪を助長する」と主張した。

 

2008年、イギリス、ノーフォーク出身のネイサン・ウェラードとミーブ・ニールの二人はバンクシーが有名になる以前の1998年に描いた30フィートの壁画『脆弱な沈黙』付きのモバイルホーム自動車を売却すると発表した。

 

ネイサン・ウェラードによれば、当時バンクシーは夫婦に「大きなキャンバス」として自動車の壁を使うことができるかたずね、夫婦は承諾したという。キャンバスのお礼にバンクシーは2人にグラストンベリー・フェスティバルの入場無料券をくれたという。

 

11年前に夫婦が1,000ポンドで購入したモバイルホームは、現在は500倍の価格の500,000ポンドで売られている。

 

バンクシーは自身のサイトに「マニフェスト」を公開した。マニフェストの文書には、クレジットとして、帝国戦争博物館で展示されているイギリス軍中尉ミルヴィン・ウィレット・ゴニンの日記と記載されていた。このテキストは第二次世界大戦が終わるころ、ナチスの強制収容所の解放時に届いた大量の口紅がどのようにして捕虜たちの人間性を取り戻す助けとなったかが説明されている。

 

しかし、2008年1月18日、バンクシーのマニフェストは、泥棒のジョージ・デイヴィスを投獄から解放するために制作した1970年代のピーター・チャペルのグラフィティを探求した作品『Graffiti Heroes No. 03』に置き換えられた。

 

 

2008年


2008年3月、ホランド・パーク通りの中心にあるテムズ・ウォルター塔に描かれたステンシル形式のグラフィティ作品は、広くバンクシーが制作したものだとみなされている。黒い子ども影の絵と、オレンジ色で「Take this—Society!」という文字が描かれていた。ハマースミス・アンド・フラム区のスポークスマンで評議員のグレッグ・スミスはグラフィティを破壊行為とみなし、即時除去を命じ、3日以内に除去された。

2008年8月後半、ハリケーン・カトリーナ三周忌とグレーター・ニューオーリンズの2005年の堤防の崩落の三周忌として、バンクシーはルイジアナ州ニューオーリンズの災害で崩壊した建物に一連のグラフィティ作品を描いた。

 

バンクシーと思われるステンシル作品が、8月29日、アラバマ州バーミンガムのエンスレー近郊にあるガソリンスタンドに現れた。ロープから吊り下げられたクー・クラックス・クランのフードを被ったメンバーが描かれたが、すぐに黒スプレーで塗りつぶされ、のちに完全に除去された。

 

バンクシーは2008年10月5日、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで最初のニューヨーク個展『The Village Pet Store and Charcoal Grill』を開催。偽のペットショップという形態をとり、動物や道徳や農業の持続可能性の関係を問いただすことを目的としたインスタレーション形式の展示となった。

 

ウェストミンスター市協議会は2008年10月、2008年4月にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品『CCTVもとの1つの国』は落書きのため塗りつぶすと発表した。評議会はアーティストの評判にかかわらず、あらゆる落書きを除去する意向を示し、はっきりとバンクシーに「子どもとは違い落書きをする権利はない」と表明した。

 

評議会の議長であるロバート・デービスは『Times』紙に対して、「もしバンクシーの落書きを許したら、スプレー缶を持った子どもであれば誰でも芸術を制作していることいえるだろう」と話している。作品は2009年4月に塗りつぶされた。

 

2008年12に、オーストラリアのメルボルンに描かれたダッフルコートを着た潜水ダイバーのグラフィティ作品『リトル・ダイバー』が破壊された。当時、作品はクリアなアクリル樹脂で保護されていた。しかしながら、銀の絵の具が保護シートの背後からそそがれ、"Banksy woz ere"という言葉のタグが付けられ、絵はほぼ完全に消された。

 

2008年5月3日〜5日にかけて、バンクシーはロンドンで「カンズ・フェスティバル」と呼ばれる展示を開催した。ロンドン、ランベス区のウォータールー駅下にある以前はユーロスターが使っており、今は使われていないトンネル「リーク・ストリート」でイベントは行なわれた。

 

ステンシルを利用したグラフィティ・アーティストたちが招待され、グラフィティ・アートでトンネル内を装飾した。なお、ほかのアーティストの作品に上書きする行為はルールで禁止された。

 

トンネル内でのグラフィティ行為は法律的に問題はあるものの、この場所は大目に見られていた。

2009年


2009年7月13日、ブリストル市立博物館・美術館で「バンクシーVSブリストル美術館」展が開催され、アニマトロニクスやインスタレーションを含む100以上の作品が展示された。また過去最大のバンクシーの展覧会でもあり、78もの新作が展示された。

 

展示に対しては非常に良い反応が得られ、最初の週末には8,500人もの人々が訪れた。展覧会は12週間にわたって開催され、合計30万人以上の動員を記録した。

 

2009年9月、ストーク・ニューイントンにある建物にイギリス王室をパロディ化したバンクシーの作品が描かれ、残ったままになっていた。内容に問題があるため、当局から土地所有者に対してグラフィティの除去施行通知が送られた後、ハックニー区役所によってグラフィティの一部が黒く塗りつぶされた。

 

この作品は2003年にロックバンド「ブラー」からの依頼でバンクシーが制作したもので、ブラーの7インチシングルCD「クレイジー・ビート」のカバーアートとして利用されたものである。

 

土地所有者はバンクシーのグラフィティ行為を許可しており、そのまま残す意向だったが、報告によれば所有者の目の前で当局によって絵が塗りつぶされ、涙を流したという。

2009年12月、バンクシーは地球温暖化に関する4つのグラフィティ作品を描いて、第15回気候変動枠組条約締約国会議の破綻を風刺した作品を制作。「地球温暖化を信じていない」という語句が記載された作品で、地球温暖化懐疑論者たちを皮肉ったもものである。その作品は半分水の中に沈められた状態で壁に描かれた。

2010年


2010年1月24日、ユタ州パーク・シティで開催されたサンダンス映画祭で、バンクシーの初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』が上映された。バンクシーはパーク・シティやソルト・レイク・シティ周辺に映画の上映を記念して、10点のグラフィティ作品が制作している。

 

なお、2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。

 

2010年4月、サンフランシスコで『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』の上映を記念して、街のさまざまな場所に作品が5点描かれた。バンクシーはサンフランシスコのチャイナタウンのビルの所有者に50ドルを支払い、ステンシル作品を描いたといわれる。

2010年5月、7点の新しい作品がカナダ、トロントに現れたが、そのほとんどは塗りつぶされたか、除去された。

 

2010年2月、イギリスにのリバプールにある公衆建築物「ホワイトハウス」は11万4000ポンドでオークションで売買された。この建物の外壁に描かれたネズミのグラフィティはバンクシーの手によるものである。

 

2010年3月、バンクシーの作品『我らの不法侵入を赦したまえ』はロンドン地下鉄でアート・ショーを実行したアート会社の「アート・ベロー」と共同でロンドン橋に展示された。地下鉄でグラフィティが流行していたため、ロンドン交通機関によって検閲され、取り除かれた。少年の頭の上に描かれた天使の輪がないバージョンが展示されたが、数日後、輪はグラフィティ・アースィストによって修復させられた。ロンドン交通機関はこのポスターを廃棄した。

 

5月、バンクシーはデトロイトを訪れ、デトロイトとウォーレンのさまざまな場所でグラフィティを描いた。赤いペンキを持った少年とその絵の横に「I remember when all this was trees」という言葉が書かれたグラフィティがデトロイトの廃墟となった壁に描かれたが、この作品は555ギャラリーによって発掘され、持ち去られた。

 

ギャラリーは作品を販売するつもりはないが、自身のデトロイトにあるギャラリーで展示する予定だとはなして。また、彼らはウォーレンにある『ダイヤモンド・ガール』として知られる作品も壁から取り除こうとした。

2011年


2011年5月、バンクシーは「テスコ・バリュー」缶に火炎瓶の煙が出ているリトグラフ・ポスターの販売をはじめる。これは、バンクシーの故郷ブリストルでのテスコ・エクスプレス・スーパーマーケットの進出に反発する地元民によるキャンペーンに乗じたもので、このキャンペーンは長く続いた。

 

ストークス・クロフト地区で、進出反対派のデモ隊と警察官の間に激しい衝突が発生。バンクシーはストークス・クロフト地区の地元民や騒動中に逮捕されたデモ隊を法的弁護のための資金調達をするためにこのポスターを作成した。

 

ポスターはストークス・クロフトで開催されたブリストル・アナーキスト・ブックフェアで5ポンドで限定発売された。

 

12月、バンクシーは、リバプールにあるウォーカー・アート・ギャラリーで『7つの大罪』を発表。司祭の顔をピクセル化した胸像彫刻作品は、カトリック教会における児童虐待騒動を風刺したものだという。

cardinal sin
cardinal sin

2012〜2013年


2012年5月、1990年代後半にメルボルンで描いた『パラシュート・ラット』がパイプを新設する工事中にアクシデントで破壊された。

 

2012年ロンドンオリンピック前の7月、バンクシーは自身のサイトにオリンピックを主題にしたグラフィティ作品の写真をアップしたが、どこに描いたのか場所は明かさなかった。

 

2013年、2月18日、BBCニュースは2012年に制作したバンクシーの近作グラフィティ『奴隷労働』を報告じた。この作品はイギリスの国旗(エリザベス2世のダイヤモンド・ジュビリーのときに作られた)を縫っている幼い子どもの姿が描かれたものである。ウッド・グリーンのパウンドランド店の壁に描かれた。

 

その後、このグラフィティは取り除かれ、マイアミの美術オークションのカタログに掲載され市場で販売されることになった。

爆弾を投げようとしているやり投げの選手
爆弾を投げようとしているやり投げの選手

2015年


2015年2月、バンクシーはガザ地区を旅したときの様子をおさめた約2分のビデオを自身のウェブサイトにアップした。これは、2014年夏の7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の被害を受けた小さな地区でのパレスチナ人の現在の窮状と苦しみに焦点を当てた内容である。

 

また、バンクシーはガザ滞在時に破壊された家の壁に大きな子猫の絵を描いて注目を浴びた。バンクシーは子猫の絵についてウェブサイトで意図を説明している。

 

「地元の人が来て「これはどういう意味だ?」と聞いてきた。私は自分のサイトで、対照的な絵を描いた写真をアップすることでガザ地区の破壊を強調したかった。しかし、インターネットの人々は破壊されたガザの廃墟は置き去りにして、子猫の写真ばかりを見ている。」

2015年8月21日の週末から2015年9月27日まで、イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで、プロジェクト・アート『ディズマランド』を開催。ウェストン・スーパー・メアの屋外スイミング・プールなどさまざまな施設を借り、邪悪な雰囲気のディズニーランドが構築された。

 

バンクシー作品のほか、ジェニー・ホルツァー、ダミアン・ハースと、ジミー・カーターなど58人のアーティストの作品がテーマパーク内に設置された。

2015年12月、バンクシーはシリア移民危機をテーマにしたいくつかのグラフィティ作品を制作している。『シリア移民の息子』はその問題を反映した作品の1つで、シリア移民の息子であるスティーブ・ジョブズを描いたものである。

 

バンクシーは作品についてこのようなコメントをしている。

 

「私たちは、移民達は自国のリソースを浪費させるものであると考えている。しかし、スティーブ・ジョブズはシリア移民の息子だった。アップルは世界で最も価値のある国で、一年間に70億ドル以上の税金を支払っており、それは元をたどればシリアのホムスからやって来た若い移民の男(ジョブズの父)の入国を許可したのが始まりではなかったか。」

2017年 ザ・ウォールド・オフ・ホテル


2017年、パレスチナのイギリス支配100週年記念としてベツレヘムに建設予定だったアートホテル「ザ・ウォールド・オフ・ホテル」に投資し、開設。

 

このホテルは一般に開かれており、バンクシーやパレスチナ芸術家サム・ムサ、カナダの芸術家ドミニク・ペトリンが設計した部屋もあり、各寝室はイスラエルとパレスチナ自治区を隔てる壁に面している。

 

また、現代美術のギャラリーとしても利用されている。

 

 

2018年 断裁された風船少女


2018年10月、バンクシーの作品の1つ『風船と少女』が、ロンドンのサザビーズのオークションに競売がかけられ、104万ポンド(約1億5000円)で落札された。

 

しかし、小槌を叩いて売却が成立した直後、アラームがフレーム内で鳴り、絵が額内に隠されていたシュレッダーを通過し、部分的に断裁されてしまった。

 

その後、バンクシーはインスタグラムにオークションの掛け声と「消えてなくなった」の意味をかけたとみられる「Going、going、gone ...」というタイトルのシュレッダーで断裁された絵と驚いた様子の会場の様子をおさめた写真をアップした。

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Going, going, gone...

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 売却後、オークションハウスは作品の自己破壊はバンクシーによるいたずらだったことを認めた。

 

ヨーロッパのサザビーズの現代美術部門長のAlex Branczik氏は、「私たちは、”Banksy-ed(バンクシーだったもの)”を手に入れたようだった。」とし、「予期せぬ出来事は、瞬時にしてアートの世界史となった。オークションの歴史の中でも、落札された後に、アートが自動的に裁断されたことはない。」と述べた。

 

その後、作品名は『愛はごみ箱の中に』に改題された。

 

 

テクニック


バンクシーに関することは秘匿性が高いため、ステンシルで絵画を制作をする際にどのようなテクニックが使われているかはっきり分からないが、作品の多くは写真レベルのクオリティにするため、事前にPCで綿密に制作していると思われる。

 

バンクシーがステンシルを使う理由はいくつかある。1つはフリーハンドでの絵が下手なためステンシルに代えたという理由。子どものころ、一般中等教育修了証で美術の評価はE(8段階で下から2番目)しかとれなかったという。

 

また、いつも制作中に警察に見つかり最後まで絵を描きあげることができず、ペインティングに限界を感じていたのも大きな理由である。警察に追われてごみ収集のトラックの下に隠れているときに目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見て、このスタイルなら時間を短縮できると思いついたという。

 

作品スタイルについてもさまざまな議論がされている。最もよく批評されるのはミュージシャンでグラフィティ・アーティストの3Dに影響を受けていることである。バンクシーによれば、10歳のときに街のいたるところにあった3Dの作品に出会い、グラフィティに影響を受けているという。

 

ほかには、フランスのグラフィック・アーティストのBlek le Ratの作風と良く似ていると指摘されている。

 

バンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦、反資本主義、反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

バンクシーへの批判


『キープ・ブリテイン・テディ』のスポークスマンのピーター・ギブソンは、「バンクシーの作品は単純にヴァンダリズム(破壊行為)である」と断言し、また彼の同僚であるダイアン・シェイクスピアは「バンクシーのストリート・アートは本質的に破壊行為であるが、それを称賛することを私たちは心配している」と話している。

 

 

また、バンクシーの作品は以前から、1980年初頭のパリで等身大のステンシル作品で政治的なメッセージとユーモラスなイメージ組み合わせて制作していたBlek le Ratの作品を模倣していると批判されている

 

当のBlek自身は当初、アーバンアートへ貢献しているバンクシーを称賛し「人々はバンクシーは私のパクリというけど、私自身はそう思わない。私は古い人間で彼は新しい人間で、もし私が彼に影響を与えたらそれでいい、私は彼の作品が大好きだ。彼はロンドンで活動しているが、60年台のロック・ムーブメントとよく似ていると感じる」と話していた。

 

しかしながら、最近になって、ドキュメンタリー『Graffiti Wars』のインタビューでは、これまでと異なるトーンで「バンクシーのネズミや子どもや男性の彼絵を見たとき、すぐに私のアイデアを盗んだと思い、怒りを感じた」とコメントしている。

※8:Blek le Rat "Selfie Rat"
※8:Blek le Rat "Selfie Rat"

バンクシーの公式本


バンクシーはバンクシー自身の手による公式の著作物を数冊刊行している。

  • 『Banging Your Head Against A Brick Wall』2001年  ISBN 978-0-9541704-0-0
  • 『Existencilism』2002年 ISBN 978-0-9541704-1-7
  • 『Cut It Out』2004年  ISBN 978-0-9544960-0-5
  • 『Pictures of Walls』2005年 ISBN 978-0-9551946-0-3
  • 『Wall and Piece』2007年 ISBN 978-1-84413-786-2

『Banging Your Head Against a Brick Wall』『Existencilism』『Cut It Out』の3冊は自費出版の小さな小冊子シリーズである。

 

『Pictures of Walls』はバンクシーによるキュレーションで自費出版された他のグラフィティ・アーティストを紹介した写真集である。

 

『Wall and Piece』は最初の3冊の文章と写真を大幅に編集し、また新たな原稿を追加して1冊にまとめたものである。この本は商業出版を意図したもので、ランダム・ハウス社から出版された。日本語版も出版されている。自費出版された最初の3冊は故事脱字が多く、また暗く、怒りに満ち、病的なトーンだったという。『Wall and Piece』では商業出版用にそれらの問題点が校正・編集されている。



【美術解説】奈良美智「ロックと純粋性を兼ね備えた少女」

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奈良美智 / Yoshitomo Nara

ロックと純粋性を兼ね備えた少女


「春少女」(2012年)
「春少女」(2012年)
生年月日 1959年12月5日
出生地 日本、青森県弘前市(栃木県那須在住)
国籍 日本
職業 画家・彫刻家
ムーブメント ネオポップ

概要


奈良美智(1959年12月5日、青森県生まれ)は、日本の画家、彫刻家、ドローイング作家。1990年代に発生した日本のネオ・ポップムーブメントの時期にアートワールドで注目されるようになる。

 

奈良は武蔵野美術大学を1年で中退して、1981年に愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻に入学し、1985年に卒業、1987年に同大学大学院修士課程を修了。

 

現在は日本の栃木在住で日々制作をしているが、作品発表は日本のみならず世界中で展開している。1984年から40以上の個展を開催しており、作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)をはじめ、世界中の美術館に所蔵されている。

 

2010年から翌年にかけて、ニューヨークのアジア・ソサエティー美術館で行われた大規模な個展「Nobody’s Fool」も好評を得、同館での過去最多の入場者数を記録。2010年に奈良は、米文化に貢献した外国出身者をたたえるニューヨーク国際センター賞を受賞。

表現特徴


奈良の絵画やドローイングは、絵本を彷彿させるシンプルでかわいらしい造形であるものの、実際には奈良の愛するパンク・ロック文化に影響された部分が見られる。

 

人間の潜在的な怒りと純粋性の並列状態である。また、奈良はパンク・ロックに影響を受けてはいるものの、ルネッサンス絵画や戦前の近代美術、古典文学、浮世絵など少し古めの伝統文化から影響を受けている。

 

おそらく、戦後から現代にいたる日本社会や教育に対する反発心があり、それが「子ども」と「古典(祖父世代)」という一世代またいだ要素を融合させているのかもしれない。

 

無垢で目を大きく見開いた子どもや犬がモチーフになるのが特徴で、トレードマークともなっている。これらは退屈と欲求不満のときの子ども時代の感覚をすくい上げ、また同時に退屈と不満から自然と発生する激しい独立心を取り戻そうようとする試みであると言われる。

 

 

絵画や彫刻に加えて、奈良は多くのドローイング作品を制作するのが特徴で、それらはいつもポストカードの裏側や封筒、紙切れなどに描かれ、英語やドイツ語や日本のテキストが添えられる。何度も描き直したり、時間をかける絵画と異なり、ドローイングは即興的に描く。 

略歴


若齢期


奈良美智は、日本の農村地域の共働きの両親の下で育った。自身の空想世界や漫画、ペットとともに一人で自分の時間を過ごすことが多かった。

 

1978年に青森県立弘前高等学校卒業後、状況。1979年に武蔵野美術大学に入学。しかし、一年の終わり頃に、パスポートを取り、ヨーロッパに三ヶ月ほど放浪したため学費がなくなり81年に退学。その後、学費の安い公立学校を受験し、愛知県立芸術大学美術学部に入学。この時代、愛知の河合塾の予備校教師のアルバイトで、お金を貯めてはヨーロッパを旅する。1985年に卒業、87年に同大学院を卒業。

 

翌88年から93年までよりドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミーに留学。ドイツを選んだ理由は、美大の選択のときと同じくお金がかからないため。当初はイギリスのほうが自分にあっていたため、イギリスに行きたかったがお金がかかるのでドイツにしたという。結果的に、ドイツでよかったという。

 

欲にまかせてイギリスに行っていたら、お金はなくなるし、楽しいだけで、何も身につけずに帰国していたかもしれないと奈良は話している。奈良の「本当は楽しい場所をあえて避ける」という禁欲的な姿勢は、現在の那須の在住まで続く。

 

ドイツでは、A.R.ペンク(A. R. Penck)に師事し1993年マイスターシュウラー取得。その後ケルン近郊のアトリエを拠点に作品を制作。2000年の帰国までケルンで過ごす。

 

2000年の帰国まで続くケルン時代は多作な時期で、代表的な奈良のイメージとして知られる挑戦的な眼差しの子どもの絵もこの頃頻繁に描かれた。また、この間、日本やヨーロッパでの個展の機会が増え、しだいにその活動に注目が集まる。

日本へ帰国


2000年、12年間におよぶドイツでの生活に終止符を打ち、日本へ帰国。

 

翌年、新作の絵画やドローイング、立体作品による国内初の本格的な個展「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」が横浜美術館を皮切りに国内5ヵ所を巡回した。いずれの会場でも驚異的な入場者数を記録し、美術界の話題をさらった。

 

特に作家の出身地である弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫で行われた同展は、延べ4600名にのぼるボランティアにより運営されたもので、市民の主体的な関わりと参画の規模の大きさにおいて、展覧会の歴史上画期的なものとなった。

 

2003年、クリーブランド現代美術館など米国内5ヵ所で1997年以後の作品による個展「Nothing Ever Happens」が開催される。この頃に出会った大阪のクリエイティブ・ユニットgrafとの協働により、廃材を用いた小屋を中心に展示空間を構成するインスタレーション的な性格の強い作品が増え始める。

 

2006年に青森県弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫で開催された「A to Z」展は、そのシリーズの集大成といえるもので、大小約30軒の小屋の内外に奈良自身や彼と交遊のあるアーティストたちの作品を点在させた会場は、さながら一つの街並みのような様相を呈した。

最近の活動


奈良は2017年の春にニューヨークのペース・ギャラリーで個展を開催。2013年のニューヨークでの初個展以来の個展だった。「考える人」と名付けられた作品は、以前よりも内省で瞑想的な作風への移行を表している。

 

この作風の移行に関して奈良は「過去に自分が作りたかったイメージがあり、それに取り組み、完成せただけ。今僕は時間をかけてゆっくりと作業をし、これらすべてのレイヤーを構築するベストな方法を探している。料理する際どうすれば最も美味しくなるか探るように、自分もまたどうすれば最も良い芸術になるか探っている」と話している。

 

2017年7月には、豊田市美術館で回顧展を開催。

 

2018年には香港のペース・ギャラリーで個展「Ceramic Works and…」を開催。この個展では奈良のアイコンとしてお馴染みの少女のキャラクターを用いた12体のセラミックスカルプチャー(陶製彫刻)を中心とした作品が展示された。奈良は2007年に信楽町の陶芸の森に滞在してから本格的に陶芸に取り組み始めている。

 

2019年9月から奈良は「旅する山子」シリーズに取り組んでいる。これは支持体に市販のキャンバスや木枠を使わず、身辺にある身近な素材を使って制作した作品である。

 

「旅する山子」はギャラリーや美術館ではなく誰でも鑑賞できる屋外に設置されることが多く、また都市中心のストリート・アートと異なり、海辺、駅、畑、カフェなど田舎の公共空間に設置される事が多い。

2018年香港ペースギャラリーでの個展「Ceramic Works and…」
2018年香港ペースギャラリーでの個展「Ceramic Works and…」
「旅する山子」シリーズ,2019年
「旅する山子」シリーズ,2019年

個展


2018年 奈良美智個展「Ceramic Works and…」(香港・ペースギャラリー)

 

2016年 奈良美智個展「タイトル未定」(台北・北師美術館)

2016年 奈良美智個展「新作」(ロンドン・ステファン・フリードマンギャラリー)

2015年 奈良美智個展「Shallow Puddles」(東京・Blum & Poe)

2015年 奈良美智個展「タイトル不明」(ベルリン・Johnen Galerie)

2015年 奈良美智個展「Life is Only One」(香港・アジア・ソサエティ香港)

2015年 奈良美智個展「stars」(香港・ペースギャラリー香港)

2014年 奈良美智個展「Greetings from a Place in My Heart」(ロンドン・デアリー・アート・センター)

2014年 奈良美智個展「個展-Blum & Poe」(ロサンゼルス・Blum & Poe)

2013年 奈良美智個展「個展-Pace Gallery」(ニューヨーク・ペースギャラリー)

2012年 奈良美智個展「The Little Little House in The Blue Woods」(青森・十和田市現代美術館)

2012年 奈良美智個展「君や 僕に ちょっと似ている」(横浜・横浜美術館)

2011年 奈良美智個展「PRINT WORKS」(東京・六本木ヒルズ アート&デザインストア)

2010年 奈良美智個展「New Editions」(ニューヨーク・ペース・プリンツ)

2010年 奈良美智個展「Nobody's Fool」(ニューヨーク・アジア・ソサエティ・ミュージアム)

2010年 奈良美智個展「陶芸作品」(東京・小山登美夫ギャラリー)

 

 

 

1989年 奈良美智個展「Irrlichttheater」(シュトゥットガルト)

1988年 奈良美智個展「Goethe-Institut」(デュッセルドルフ)

1988年 奈良美智個展「Innocent Being」(名古屋 / ギャラリーユマニテ名古屋・東京 / ギャラリーユマニテ東京)

1985年 奈良美智個展「近作」(名古屋 / Gallery Space to Space)

1984年 奈良美智個展「It's a Little Wonderful House」(名古屋 /ラブコレクションギャラリー)

1984年 奈良美智個展「Wonder Room」(名古屋 / Gallery Space to Space)

2015 香港個展「Life is Only One」関連


奈良美智香港個展2015
奈良美智香港個展2015
奈良美智「脱カテゴリ」
奈良美智「脱カテゴリ」
奈良美智「僕が見た風景」
奈良美智「僕が見た風景」


【美術解説】リュウ・イ「普遍的な言語で内面を描写する中国現代美術家」

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リュウ・イ / Liu Ye

普遍的な言語で内面を描写する中国現代美術家


概要


生年月日 1964年生まれ
国籍 中国
職業

画家、現代美術家

代表作

・Qi Baishi Knows

・Mondrian , Once Upon a

・Time in Broadway

リュウ・イ(劉野:1964年生まれ)は北京を拠点に活動している中国人画家。

 

明るい色彩の子どものような女性の肖像画や彼の好きなキャラクターのミッフィーうさぎ、抽象絵画の巨匠ピエト・モンドリアンへのオマージュ的な作品で知られている。

 

リュウ・イは文化大革命期に育ったアーティスト世代の1人であるが、同世代のほかの高く評価されている中国の現代美術家たちと異なり政治的なカラーはほとんどない

 

リュウ・イは、外の中国現代社会よりも彼は普遍的な言語を使って内面的な世界を描写する方を好む。彼の作品は中国だけでなく、ヨーロッパやアメリカでも広く展示されている。

 

2019年10月、サザビーズ香港で出品された2001年から2002年にかけて制作された少女が煙草を手にしている作品《スモーク》は665万ドルで落札された。2020年にニューヨークにある最も有名な画廊デビッド・ツヴィルナー画廊での個展が予定されている注目の中国現代美術家だ。

リュウ・イ《ソード》 2001–2002年,artnetより
リュウ・イ《ソード》 2001–2002年,artnetより
リュウ・イ《Book Painting No.17》2017年,David Zwirnerより
リュウ・イ《Book Painting No.17》2017年,David Zwirnerより
リュウ・イ《International Blue》2006年,David Zwirnerより
リュウ・イ《International Blue》2006年,David Zwirnerより

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Liu_Ye_(artist)、2019年10月13日アクセス

https://www.davidzwirner.com/artists/liu-ye、2019年10月13日アクセス



【美術解説】アートワールド「21世紀の現代美術」

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アートワールド / Art World

世界標準の美術業界


概要


複数の職業の人達で構成される異業種間連携芸術


アートワールド(Art World)とは、美術の生産、批評、メディア、委員会、プレゼンテーション、保存、振興など芸術に関わるすべての人々で構成された世界観のこと。

 

特定の団体や組織のようなものとは異なり、なんとなく生成されている集団・空気・界隈。オタク系や原宿系といった文化集団・社会集団。アートワールドは、21世紀の超格差社会にともない、富裕層の間で拡大しつつあり、グローバル・エリート文化となりつつある。

 

アートワールドでは、美術家、画商、コレクター、批評家、ジャーナリスト、キュレーターなどさまざまな職業の人たちの緩やかなネットワークで動いており、独特な価値観を共有している

 

アートワールドのネットワークが共有している価値観に沿った作品こそが「アート」と認識される。たとえば、マルセル・デュシャンの「泉」は一般の人々にとっては何の変哲もない便器であるが、アートワールドの人々には「芸術」と認識される。

 

アートワールドで、欧米、アジアまで含めて先頭に立って踊っているのは100人である。彼らは商業界、社交界、文化人、ジャーナリストからなるさまざまなネットワークに属している。いずれのネットワークも複雑で変わりやすく、さらにいうと不透明で、境界線もない。

 

この100人は互いに知り合いで、定期的に交流し、常に競争しあっているくせに、結託することもある。彼らは大コレクターであり、大画商であり、なかには美術館の学芸員やアートフェアのディレクターや展覧会のコミッショナーもいれば、アートアドバイザーや批評家もいる。職業がなんであれ、重要なのは、彼らが力を持っているということだ。

 

イギリスの「アート・レヴュー」誌は業界で最も力のある100人の名士録「パワー100」を、アメリカの「アート・ニューズ」誌は市場をつくりも壊しもする、200人のトップ・コレクターの人名目録を発表している。

アート・レヴュー「パワー100」

アートニューズ「トップ200コレクター」

アートはほかの自称アートと何が違うのか


アート・ワールドで活躍するには、ネットワークをつくることは当然として受け止められており、要求さえされている。ネットワークを形成するのは芸術家だけでない。画商、コレクター、批評家にも要求されている。

 

ネットワークは絶大となる。将来性のあるアーティストを発掘し、貴重な作品を見い出すも、アーティスト売り出すにも、ネットワークがすべてかかっている

 

たとえば、1990年代にアート界を革命を起こしたイギリス人コレクターチャールズ・サーチとネットワーク形成を追ってみよう。サーチはまずアメリカ人美術評論家ドリス・ロックハートともにミニマル・アートを購入して美術に関心を持つようになる。

 

次に画商ガゴシアンの助言を受けポップ・アートやサイ・トゥオンブリー、アンゼルム・キーファーの作品を購入する。1985年にギャラリーを自らオープン。1990年代にダミアン・ハーストに賭け、金脈に変える。当時、先頭集団はアメリカ人だったが、サーチはハーストを中心にこの傾向をひっくり返そうと「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」をプロモートする。

 

さらに、その運動を世界中に知らしめようとベルリンとメルボルンとNYで展示を展開。そして世界中のメガ・コレクター、フランソワ・ピノー、米大手ヘッジファンド創業者のスティーヴン・A・コーエン、実業家のホセ・ムグラビ、ドイツ人投資家のアビー・ローゼン、韓国人でサムスン電子簡易長のイ・ゴンヒ、ロシアのアルミニウム王、カタールの王家などがハーストを購入した。

 

このようなネットワーク形成は特に今日のものではない。1950年代から80年代にかけての国際的な大画商、アメリカのレオ・カステリ(1907-99)や、フランスのダニエル・カーンワイラー(1884-1979)、スイスのエルンスト・バイエラー(1921-2010)らも重要な作品を見つけ、それをプロモートして売るために、強力なコネクションを作り上げていた。

 

なお、ネットワークで力を持つ職業は、時代や場所によって異なる。現在、アジアではギャラリストがネットワークに強い影響を持ち、アメリカではコレクターがネットワークに強い影響を持つ。

アートマーケット


文化的価値と不動産的価値のハイブリッド型市場


「我々には貨幣に代わるものがたくさんある。貨幣としての金、貨幣としてのプラチナ、そしていまや貨幣としてのアートだ」(マルセル・デュシャン)

 

アートマーケットは一般的にさまざまなアートと関連した芸術作品、サービス、商品において買い手と売り手の間で形成される市場のこと。

 

アートマーケットは経済で発生する多くのさまざまな市場の1つのタイプとして認識されれはじめている。買い手と売り手が出会う他の市場と多くの共通点があるだけでなく、経済学においてほかのタイプの市場と異なる重要な区別要因があるためだ。

 

それは、作品の文化的価値に基づいて設定された価格だけでなく、過去の金銭的価値から予測される将来の付加価値の両方に基づいて価格ハイブリッド型市場である。つまり、金融資産や不動産と同じような資産的な価値を持っているのだ。

 

また、アートマーケットは、作者がプライマリー・マーケットの販売に直接関わる機会は少なく、また購入者側は自身が購入した作品の価値がよくわからず、ディーラーやギャラリーなどの仲人業者が購入者が見たこともない作品に対して独断的に価格を付ける市場となっている点も変わっている。

 

さらにアートマーケットは透明性がない。アートマーケットには作品情報や売り手や買い手の情報が広く公開されるオークションとは別に取引情報を秘密厳守するプライベートセールがある。プライベートセールの販売データは体系的に算出されていないが、プライベートセールはアートマーケットの約半分を占める。

 

プライマリーとセカンダリーの2つのマーケット


アートマーケットは、大きく「プライマリー・マーケット」「セカンダリー・マーケット」の2つの部門で構成されている。

 

芸術家が制作した作品が最初に販売される場所をプライマリー・マーケットという。ギャラリーや美術館などで芸術家が個展を行う際に販売される作品はプライマリー・マーケットである。

 

対してセカンダリー・マーケットは少なくとも一度販売されたことのアートの二次的な販売市場である。簡単にいえば中古市場である。オークションで売買される作品が代表的なセカンダリー・マーケットである。

 

プライマリー・マーケットで作品が販売されると、セカンダリー・マーケットに流入し、プライマリー・マーケットで販売された価格が直接的にセカンダリー・マーケットで販売される価格に影響を与える。

 

ほかの商品市場とことなり現代美術の場合、一点ものエディション制が採用されるため希少性が高くセカンダリー・マーケットの価格はプライマー・マーケットで販売された価格よりも高くなる

 

しかし、すべての作品が上昇するわけではない。作品の価格が上昇するには、上記で説明したように美術館、評論家、キュレーター、コレクターなどアート・ワールドのプレイヤーたちから美術史において価値のある作品である評価と存在感を高める必要がある。

アートマーケットの基本的な動き


アートマーケットは一般的に重要なオークションハウスが毎年定期的に開催する春と秋に最高潮に達し、継続的であるよりも季節的なサイクルで動く。

 

プライベート販売は一年を通じて行われているが、オークションのように広く一般的に公表されない事が多く、そのためプライベート販売がどの程度アートマーケット全体に影響を与えているかはよくわからない。

 

秋のオークションで売買された作品の価格や価値は、次の春のオークションにおいても継続的に価値があるとは限らない。なぜなら、ある季節の金融市場の動向が次の季節のアートマーケットに影響を与える可能性が高く、株式市場とアート市場は連動しているためである。

 

サザビーズ、クリスティーズ、フィリップスの売上が前年の半分未満だった2008年から2009年は、世界の株式市場においても景気後退期だったように、金融市場のボラティリティがアートマケットへもボラティリティを引き起こす原因となる。

 

一方、株式市場がボラティリティを引き起こしているにも関わらずアートマーケットは影響せずうまく動くこともある。1997年1月から2004年5月に発生した株式市場のボラティリティはアートマーケットに影響を与えなかった。

 

1990年から2000年にかけて、コレクターによるアート作品への投資額は120倍となり、「現代アートの100万ユーロ規模の競売は2005年から08年にかけて620%増加。2008年のリーマンショックでアート界に影響を及ぼしたが、巨匠の希少作品に関しては劇的に下がることはなかった。業界は何度か危機を経験している。

 

 

1980年、90年、2001年、そして08年である。つまるところ10年ごとである。しかし毎回、ふたたび活性化しては作品の値を上げてきた。

アートワールドと芸術運動


「芸術運動(art movement)」は、特定の共通した芸術哲学や目標を持った芸術の傾向・スタイルのこと。芸術運動は普通、設立者または批評家などによって定義された哲学や目標のもと、限定された期間(通常は数ヶ月、数年、数十年)内で、継続的な活動が行われる。

 

近代美術において「芸術運動」の存在はかなり重要な要素であり、連続的な動きを持った芸術活動は新しい前衛表現として見なされ、美術史に記録されることが多い。

 

特に視覚芸術の世界においては、現代の美術の時代になってさえも、芸術家、理論家、評論家、コレクター、画商たちはモダニズムの絶え間ない継続や近代美術の継続に注意を払っており、新しい芸術哲学の出現に対して歓迎の態度を示す。

 

芸術運動という言葉は、視覚芸術だけでなく、建築、文学、音楽などあらゆる芸術でも使われ、芸術運動名の大半は「イズム」が付く。

21世紀のおもな芸術運動


・アルゴリズム・アート

・オルタナ・モダニズム

・コンピューター・アート

・コンピューター・グラフィック

・デジタル・アート

・エレクトロニック・アート

・環境アート

・過剰主義

・インテンシズム

・インターネット・アート

・インターベンション・アート

・マキシマリズム

・メタモダニズム

・ネオミニマリズム

・ニューメディアアート

・ポスト・モダニズム

・リレーショナル・アート

・ルモダニズム

・ソーシャル・プラクティス

アートワールドは都市が活動場所


アートワールドの中心的な活動場所で重要になるのは「都市」である。「国家」ではない。なぜなら近代美術そのものが最初から国際性を持って生まれたためである。

 

アートワールドの人々の多くは、国境を超えて活動するので、国家観念には希薄である。そのため彼らにとっては、「アメリカ」「日本」「中国」よりも、「ニューヨーク」「東京」「香港」といった都市観念が重要になる。

 

芸術活動が盛んな都市は 「art capitals(芸術首都)」と呼ぶ。  芸術都市で重要なのは、ニューヨーク、ロンドン、ロサンゼルス、ベルリンの4都市。続いて北京、ブリュッセル、香港、マイアミ、パリ、ローマ、東京。

 

そして各都市で毎月のように開催されるアートフェアやビエンナーレが芸術関係者たちの試合会場となる。アートワールドを外観できるアートフェアやビエンナーレは以下のものになる。これらのフェアに参加しない芸術家や画廊は、アートワールド内で戦っていないことになる。

 

中でも最重要なのはアート・バーゼルである。アート・バーゼルはアートワールドのメッカ。毎年6月に世界中の画商やギャラリストやコレクターはもちろん、あらゆる分野のエキスパートやジャーナリストが参加する国際的な近現代美術のアートフェアである。アート関係者であれば絶対に見過すことのできない場所である。

 

"近現代美術"である理由は、ここは、持ち主が長年手放さなかった巨匠の作品に出会えるチャンスの場所であり、同時に現代の新しいアーティストたちにいち早く目を付けることができる場所だからである。バーゼルは近代美術と現代美術を独自に融合させることに成功し、来場者が芸術運動の歴史と、その延長線上にある現代美術を理解できるよう心がけている。

世界の主要アートフェア


1月 台北當代(台湾)
2月  ARCO(スペイン、マドリッド)
3月

アーモリー・ショー(ニューヨーク)

アート・ドバイ(アラブ首長国連邦)

アート・ケルン(ドイツ)

アートフェア東京(日本)

アート・バーゼル香港(香港)

アール・パリ(フランス)

5月

アート北京(中国)

フリーズNY(アメリカ)

6月

アート・ジャカルタ(インドネシア)

アート・バーゼル(スイス)

LISTE(スイス)

9月

Shコンテンポラリー(上海)

KIAF(ソウル)

ABC(ドイツ)

エクスポ・シカゴ(アメリカ)

10月

フリーズ・ロンドン(イギリス)

FIAC(パリ)

アート台北(台湾)

パリ・フォト(フランス)

12月

アート・バーゼル・マイアミビーチ(アメリカ)

世界の主要国際展


ヴェネチア・ビエンナーレ イタリア 隔年
サンパウロ・ビエンナーレ ブラジル 隔年
ドクメンタ ドイツ・カッセル 5年おき
ミュンスター彫刻プロジェクト ドイツ 10年おき
イスタンブール・ビエンナーレ トルコ 隔年
リヨン・ビエンナーレ フランス 隔年
シャルジャ・ビエンナーレ UAE 隔年
アジア・パシフィック・トリエンナーレ オーストラリア・ブリスベン 3年おき
光州ビエンナーレ 韓国 隔年
上海ビエンナーレ 中国 隔年
台北ビエンナーレ 台湾 隔年
釜山ビエンナーレ 韓国 隔年
横浜トリエンナーレ 日本 3年おき
シンガポール・ビエンナーレ シンガポール 隔年

高い参入障壁と信用性


アートマーケットはほかの市場よりも参入障壁がかなり高い。株式市場の優良株と同様に優良作品もしくは著名アーティストの作品は、一般的に新人作家や無名の作家よりもかなり高値が付けられる。

 

また、アートマーケットは参入障壁が非常に高いため需要と供給において希少性が生じ、供給が不足して価格を押し上げる。参入障壁の高さは販売点数を少なくしてしまうが、アートマーケットにおいては、さらなる巨大な市場予測性と作品に対する信頼性を高めることになる。

 

その一方で参入障壁が高すぎると芸術的多様性が無くなるというデメリットも生じる。

 

そのため、ギャラリストやアートディーラーたち売り手は、新人作家を紹介する前に現在どのタイプの作品が市場で流行かを詳細に分析し、販売可能な品質レベルを維持するため芸術家を厳選している。

 

評価の確立した芸術家よりもかなり低いレベルで新人作家の値を設定して売り出してしまうと、作品に対する信頼性に対する懸念が生じる

アートワールドのおもなプレイヤー


美術家


ギャラリスト


キュレーター



コレクター




【注目のアーティスト】山田彩加「命の繋がりを表現」

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山田彩加 / Ayaka Yamada

生・死・生成・分解を通じて「命の繋がり」を表現


概要


生年月日 1985年生まれ
国籍 日本、愛媛県出身
職業 画家、リトグラフ作家
公式サイト https://ayaka-yamada.jimdo.com/concept-japanese/

山田彩加(1985年生まれ、愛媛県出身)は日本の画家、リトグラフ作家。東京藝術大学、同大学院卒業。

 

山田の制作コンセプトは「命の繋がり」であるという。宇宙の誕生から過去・現在・未来すべての時間と空間の中で生じる命の連鎖を1つのキャンバス上で表現している。

 

植物と人間が融合した人物描写が多く(猫のようなものもいる)、毛細血管と植物根をサルバドール・ダリのダブル・イメージのような手法で描いているが、これは大学一年生のときに受講した美術解剖学で生物間による形態の類似性に感銘を受けたためである。なかでも、血管・毛細血管と植物根の類似性の発見は山田に影響を与えた。

 

生成と分解などの変成や時間を象徴する「時計」や、繋がりを象徴する「鎖」などが唐突に配置される。

 

一見すると銅版画に見えるモノクローム風の作品は、実際はリトグラフであり、ダーマトグラフ(油性のリトグラフ用鉛筆)による手描きで制作されている。

 

当初は水彩やアクリル絵画・油彩や鉛筆を使って具象絵画を描いていたが、リトグラフに出会ってから大きく表現の幅を広げるようになった。鉛筆デッサンでは得られない、リトグラフのダーマトフラフ鉛筆独特の強い線とモノクローム表現に無意識からの思いがけない表現が生まれる可能性を感じたという。


【美術解説】ココ・シャネル「20世紀を代表するファッションデザイナー」

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ココ・シャネル / Coco Chanel

シンプルで機能的な女性服を作ったデザイナー


概要


生年月日 1883年8月19日
死没月日 1971年1月10日
国籍 フランス
職業 帽子製造業、服飾、ファッションデザイナー、ナチスのスパイ
代表作品

・シャネルNo.5

・リトル・ブラック・ドレス

・シャネル・バッグ

・シャネル・スーツ

・ダブルCロゴ

ガブリエル・ボナール・シャネル(1883年8月19日-1971年1月10日)はフランスのファッションデザイナー、ナチスのスパイ、実業家。シャネルブランドの創立者。通称ココ・シャネル。

 

第一次世界大戦後、ポール・ポワレとともにシャネルはそれまで胸からウエスト、腰までを締め付けていたコルセットから女性を解放し、スポーティでカジュアルな女性の標準的な服装を一般大衆に広めたことで知られる。

 

多彩なファッションデザイナーであり、シャネルの影響はパリ・オートークチュール界(夜会用ドレス)まで拡大。彼女のデザイン美学はジュエリー、ハンドバッグ、香水など幅広いジャンルで認知されるようになった。

 

彼女が初めて送り出した香水「シャネルNo.5」はシャネルの象徴的な製品になった。シャネルは雑誌『Time』の「20世紀に最も影響を与えた100人」で唯一ランクインしたファッションデザイナーである。シャネルは自身で「C」の文字を組み合わせた有名な商標ロゴをデザインしているが、これは1920年代から使用されている。

 

ナチスドイツによるフランス占領時代にシャネルとナチス関係の噂が生じ、彼女はドイツ当局に接近しすぎることを批判されるようになったが、かえって彼女とナチスの接近を後押しする結果となった。シャネルと関係のあった人物の一人としてドイツの外交官のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲが挙げられる。

 

ナチス・ドイツへの協力により自らのビジネスを守り、拡大しようとしたことは大変な問題となった。戦後、ナチスに協力したことで、フランスでは「売国奴」として非難を浴び、スイスに亡命せざるを得なくなった。戦後、シャネルはフォン・ディンクラーゲとの関係について尋問されたが、チャーチルの介入により不起訴処分となった。

 

戦後、スイスでしばらくの間過ごした後、パリに戻り、ファッションハウスを復建させる。2011年、ハル・ヴォーンは新しい機密解除された文書を基盤としたシャネルに関する本を出版し、彼女がドイツのスパイとして協力関係にあったことを明らかにした。

 

シャネルは、自らの仕事を通じて、社会的名声の獲得とビジネスウーマンの成功を達成した。また多くの芸術家や職人のパトロンとなった。特にシュルレアリスム作家との関わりが深かった。

略歴


幼少期


ガブリエル・ボナール・シャネルは1883年、フランスのメーヌ=エ=ロワール県ソミュールのシスターズ・オブ・プロビデンス(貧しい家)が運営する慈善病院で洗濯女だったジャンヌとして知られる母ユージニ・ジャンヌ・ディボラのもと生まれた。彼女はジャンヌと父ルバート・シャネルの2人めの子どもだった。1歳上に長女ジュリアがいた。

 

父アルバート・シャネルは作業服や下着を売買する行商人で、遊牧的な生活をおくり、町から町へと市場を行き来していた。シャネル一家はボロボロの宿泊施設に住んでいた。1884年、アルバートはジャンヌ・ディボラと結婚し家族の結束を強めるよう母に説得した。

 

生まれたとき、シャネルの名前は「Chasnel」として公式に戸籍に登録された。登録申請時、母ジャンヌには体調がすぐれず欠席し、またアルバートは行商に出ていたという。両親が不在だったため姓の綴りが間違っていた可能性があるが、これは両親の過失ではなく事務的な過失だったとみられている。

 

シャネル夫婦にはガブリエルをあわせて5人の子ども(2人の男の子と3人の女の子)がいた。家族はブリーブラガイヤルドの町の一部屋の宿泊施設に住んでいた。

 

ガブリエルが12歳のとき、シャネルの母親は32歳で亡くなった。死因は結核とみなされているが誤診の可能性もあり、実際は貧困や妊娠や肺炎が重なった衰弱死だといわれている。

 

父親は2人の息子を農場労働者として送り、3人の娘を孤児院が運営するオーバジーヌの修道院へ送った。孤児院では厳しい規律と質素な生活が強いられたが、孤児院での生活はココにとって裁縫を学ぶ学校でもあったので、ココの将来にとっては最高の場だったかもしれないといわれている。

 

18歳のときシャネルは、孤児院からムーランの町のカトリック少女の寄宿舎へ移った。

 

人生の後半、シャネルは子ども時代の話やヒトラーの秘密の愛人であったことなどを話すことがあるが、シャネルは自分をよく魅せるための虚言癖の持ち主だったので、彼女が語る自伝は事実といくぶん異なるところがある。

 

たとえば、母親が亡くなった際、父親は希望を託してアメリカへわたり、ココには2人の叔母のもとへ引き取られたと話している。また、生年月日をごまかし1883年よりも10年ほどに設定していたり、母親は12歳のときよりもっと幼少期に亡くなったと話している。

舞台女優を志すも挫折


オーバジーヌで6年間裁縫を学んだあと、シャネルは仕立て屋の職を見つける。裁縫をしていないとき彼女は騎兵隊の将校がよく集まるキャバレーで歌を歌っていた。

 

シャネルはムーランのパビリオンやラロトンドのカフェコンサート(当時の人気エンターテイメント会場)で歌手としてステージデビューした。彼女はショーの間に人々を楽しませるポーズをとるパフォーマーとなった。

 

ギャランティは皿が運ばれるときに客が置いていった分だった。当時、ガブリエルは「ココ」という芸名で、キャバレーで「ココを見たのは誰?」などを歌っていた。

 

ココのニックネームの由来は父親だったと話しているが、他の人は「ココ」という名前は「Ko Ko Ri KO」もしくは「Qui qu'a vu Coco」から由来していると考えている。それはフランスで「高級売春婦」を意味する言葉だった。エンターテイナーとしてシャネルは、キャバレーに集まる軍人を食い物にする少年的な誘惑を放っていた。

 

1906年、シャネルはスパリゾートの町ヴィシーで働く。ヴィシーにはコンサートホール、劇場、カフェがたくさんあり、彼女はそこでパフォーマーとして成功したいと考えていた。シャネルの若さや身体的な魅力はオーディションで注目を集めたものの、歌声はいまいちだったため落選し、舞台の仕事を見つけられなかった。

 

仕事を探す必要があった彼女はグランドグリルで働くことに決め、そこでドヌーズドーとなり、ヴィシーで有名だったうさんくさい治癒効果のあるミネラルウォーターをグラスに注ぐ仕事をした。

 

ヴィシー滞在が終わると、シャネルはムーランへ移り、以前活躍していたラロトンドで職を探した。彼女はシリアスな舞台女優の仕事に将来が見いだせないと理解した。

 

バルサンとカペル


ムーリエでシャネルは若いフランス人の元刑務官で繊維業の跡取り息子エティエンヌ・バルサンと出会う。当時23歳のシャネルはそれまでバルサンの愛人だったエミリエンヌ・ダレンソンに代わる新しいお気に入りの愛人となった。

 

次の3年間、シャネルは樹木が茂り乗馬道と狩猟趣味の地域で名高いコンピエーニュ近郊にあるシャトー・ロイヤルリューで彼とともに暮らすことになった。この生活は彼女にとって自己満足的なライフスタイルだったという。バルサンが主催するパーティに参加することで、セレブたちとの交際範囲を拡大した。

 

バルサンはシャネルに富豪生活の賜物であるダイヤモンドやドレス、真珠などをプレゼントした。

 

伝記作家ジャスティン・ピカルディの2010年の研究書『ココ・シャネル/伝説とライフ』では、ファッションデザイナーの甥のアンドレ・パラスは、おそらく自殺した妹ジュリア・ベルトの唯一の子どもとされているが、バルサンとシャネルの間にできたこどもだったと考えられている。

 

1908年、シャネルはバルサンの友人のアーサー・カペルと関係を持ちはじめる。後年、シャルはこのころを回想し、「2人の紳士が私の熱い小さな身体に高い値を付けた」と話している。イギリスの上流階級だったカペルは、パリのアパートにシャネルを住まわせ、また彼女の最初の店舗に投資支援をした。

 

また、カペルの服装がシャネルのファッションセンスに影響を与えたと言われている。

 

『シャネルNo.5』のボトルデザインは2つの由来があり、両方とも彼女とカペルの関係に起因している。カペルがウイスキーを飲むのにいつも使っていた銚子である。もうひとつはカペルが革製の旅行用ケースに入れていたシャーベットの化粧用ボトルで、それは斜面が縁取られた長方形のデザインだった。シャネルはこのデザインを『シャネルNo.5』で採用したと考えられている。

 

2人はドーヴィルのようなファッショナブルなリゾート地で過ごすことが多かった。シャネルが同棲を希望していたが、カペルは常に同棲を拒んだ。2人の交際は9年続いた。カペルは1918年にイギリスの貴族ディアナ・ウィンダムと結婚したあとも、シャネルとの完全に別れることはなかった。

 

カペルは1919年12月21日に自動車事故で死去。カペルの事故現場の道路脇にある記念碑にはシャネルが委託したと言われている。事件の25年後、当時スイスに滞在していたシャネルは、友人のポールラモンに「彼の死は私にとってショックでした。カペルを失い、すべてを失いました。その後の人生に幸せはありませんでした」と話している。

 

シャネルはバルサンと暮らしながら婦人用帽子のデザインを始める。これは商業的事業への発展の転換となった。1910年に婦人用帽子業者の免許を取得し、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名前のブティックを開く。

 

この場所にはすでに確立された衣料品事業社が多数乱立していたため、シャネルはここで婦人用帽子に焦点をしぼった販売をする。シャネルの帽子は、1912年に舞台女優のガブリエル・ドージアがフェルナンノジエールの演劇「ベルアミ」でシャネルの帽子を被ってから人気が出はじめた。

1912年、シャネル帽子を被ったガブリエル・ドージア。
1912年、シャネル帽子を被ったガブリエル・ドージア。

ドーヴィルとビアリッツ


1913年、シャネルはアーサー・カペルの資金提供のもとドーヴィルにブティックをオープン。レジャーとスポーツに適したデラックスなカジュアルウェアを導入した。ファッションは当時男性の下着として使われていたジャージやトリコットのような粗末な生地で作られていた。

 

場所は町の中心部のおしゃれな通りにある絶好の場所だった。シャネルは帽子、ジャケット、セーター、マリニエール、セーラー服などを販売した。

 

シャネルは当時2つの家族の、妹アントワネットと父方の叔母エイドリアンの生活支援もしていた。エイドリアンとアントワネットはシャネルのデザインをモデル化するため雇用されていた。毎日、2人の女性が町の遊歩道をパレードしてシャネル商品の宣伝をしていたという。

 

ドーヴィルで商業的成功をおさめたシャネルは、1915年にビアリッツに店舗をオープンする。スペインの富裕層顧客たちに近いコートバスクのビアリッツは、戦争により母国から亡命した人々の遊び場でもあった。

 

ビアリッツ店は商店街ではなくカジノの向かいの別荘地に建てた。1年間の運営後、このビジネスは非常に収益性が高くなり、1916年にシャネルはカペルの投資資金を返済できた。

 

ビアリッツでシャネルは、ロシアの駐在員貴族ドミトリ・パブロビッチ大公と出会った。2人は恋愛関係になり、その後何年もの間親密な関係を維持した。

 

1919年までにシャネルは女性ファッションデザイナーとして登録され、パリのカンボン通り31番地にメゾン・デ・クチュールを設立した。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Coco_Chanel、2019年11月11日アクセス


【美術解説】エルサ・シャパレリ「ココ・シャネルの最大のライバルデザイナー」

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エルサ・シャパレリ / Elsa Schiaparelli

ココ・シャネルの最大のライバルデザイナー


概要


生年月日 1890年9月10日
死没月日 1973年11月13日
国籍 イタリア
職業 ファッションデザイナー

エルサ・シャパレリ(1890-1973年)はイタリアのファッションデザイナー。

 

彼女の最大のライバルだったココ・シャネルとともに2つの世界大戦間期におけるファッションシーンで最も重要な役割を担った人物の1人と評価されている。

 

ニットウェアからはじまったシャパレリのデザインは、コラボレーターのサルバドール・ダリやジャン・コクトーなどのシュルレアリスム表現に影響を受けている。

 

彼女の著名クライアントとしては、相続人のデイジー・フェローズや女優のメイ・ウエストなどがいた。

 

第二次世界大戦以後はファッションシーンの変化にうまく適応できず、1954年にクチュールハウスは閉鎖した。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Elsa_Schiaparelli、2019年11月14日アクセス


【作品解説】バンクシー「東京 2003」

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東京2003 / Banksy in Tokyo – 2003

汚く、とるに足らないネズミたちの絵


※1:《東京 2003》2003年
※1:《東京 2003》2003年

概要


作者 バンクシー
制作年 2003年
位置 東京都港区「ゆりかもめ」の日の出駅付近
メディア 壁画、グラフィティ、ステンシル
場所 東京

《東京 2003》は、2003年に東京都港区の東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の日の出駅付近にある東京都所有の防潮扉に描かれたバンクシーによるものと思われるストリート・アート。傘をさし、カバンを持ったネズミのステンシル作品。

 

バンクシーは2000年から2003年にかけてバルセロナ、東京、パリ、ロサンゼルス、イスラエルを訪問しており、そのときに初期ステンシル作品シリーズ「Love is in the air」を各地に書き残している。本作品は「Love is in the air」のシリーズの1つ《東京 2003》とみなされている。

 

本作品は、バンクシー自身による公式本『Wall and Piece』の107ページに掲載されているほか、バンクシーの公式サイト上でも掲載されている

 

制作から15年経過した2019年1月12日、文化振興部企画調整課によると小池百合子東京都都知事が公務の途中に自らの希望で立ち寄り、絵を確認している。

ただし、式サイトや書籍に掲載されている写真と反転しており、またバンクシー自身もコメントを発していないことから真贋がわかっていない

 

ロンドンのギャラリストでバンクシー作品を所蔵するジョン・ブランドラーは「これは110%本物です。何の疑いもありません。約2000万円から3000万円はすると思います」とコメントしている。ボルトの位置や地面のコンクリートに走るひびも同じであることから、きわめて本物の可能性の高く、反転しているのはおそらく製本時の写真反転ミスとおもわれる。

 

絵は都がすでに撤去し、都内の倉庫に保管されている。2019年11月25日から東京・日の出ふ頭(港区)の船客待合所で期限を設けず無料で公開されている。展示は午前10時から午後7時まで。

『Banksy Wall and Piece』日本語版より。
『Banksy Wall and Piece』日本語版より。

ネズミの意味


バンクシーはネズミの絵に対して以下のような説明をしている。

 

「やつらは許可なしに生存する。やつらは嫌われ、追い回され、迫害される。やつらはゴミにまみれて絶望のうちに粛々と生きている。そしてなお、やつらはすべての文明を破滅させる可能性を秘めている。もし君が、誰からも愛されず、汚くてとるに足らない人間だとしたら、ネズミは究極のお手本だ。」書籍「Banksy Wall and Piece」より引用。

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