Quantcast
Channel: www.artpedia.asia Blog Feed
Viewing all 1609 articles
Browse latest View live

【美術解説】シュルレアリスム「超現実主義」

$
0
0

シュルレアリスム / Surrealism

超現実主義


※1:ルネ・マグリット《光の帝国Ⅱ》(1950年)
※1:ルネ・マグリット《光の帝国Ⅱ》(1950年)

概要


活動期間 1920年代〜1930年代
活動地域 フランス、ベルギー、イギリス
芸術家 アンドレ・ブルトンサルバドール・ダリマックス・エルンスト
影響元 ダダイズムジョルジュ・デ・キリコ
影響先 抽象表現主義、ポストモダニズム

シュルレアリスムは、1924年のアンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」から始まる芸術運動である。

 

活動当初は、おもに美術と文学で用いられた前衛的な表現スタイルだったが、その後、芸術全体にわたって幅広く用いられるようになった。シュルレアリスムは絵画だけでなく、映画、文学、彫刻、音楽、ダンス、演劇、ファッションなど芸術表現の大半に適用できる表現方法として知られている。さらに、マンガ、アニメーション、ゲーム、インターネット動画など現代の芸術表現でもシュルレアリスムは利用されている。

 

アンドレ・ブルトンによれば、当初シュルレアリスム運動が理想としていたのは「夢と現実の矛盾した状態の肯定」だった。シュルレアリスト(シュルレアリスム表現をもちいる芸術家のこと)たちは、アカデミックな美術教育を習得した高度な描画技術で、不条理で非論理的な風景を描いたり、日常的な風景と奇妙な非現実的な生き物を並列して描いたり、自分自身の無意識を表現した。

 

驚異、意外な並列、不条理性がシュルレアリスム作品の特徴である。

 

しかしながら、多くのシュルレアリストたちは、シュルレアリスム表現の目的は、芸術であるとともにまず第一に哲学的な思考であり、日常生活に影響や変化を及ぼすものと考えていた。リーダーのアンドレ・ブルトンにいたっては、シュルレアリスム運動を個人の意識的革命や日常の革命にとどまらず、政治的革命、社会的革命も可能にすると考えていた。 

 

シュルレアリスムは、もともとギョーム・アポリネールが考えた造語で、この言葉をブルトンが借用したところから始まっている。 フランス語の「シュル=超」という接頭語に「レアリスム=写実主義、現実主義」という語を組み合せた言葉で、日本語では一般的に「超現実主義」と訳される。

 

シュルレアリスムは第一次世界大戦中にスイスのチューリヒで発生したダダイスムから発展・派生した。シュルレアリスムのおもな活動地域や時代は1920年代のパリだったが、世界中にムーブメントとなって広まり、多くの国の視覚芸術、文学、映画、音楽、そして言語に影響を与え、さらには政治、哲学、社会科学にまで影響を及ぼした。

 

日本では1925年にイギリス留学から帰国した詩人の西脇順三郎が文壇で紹介した。日本の美術家の作品にシュルレアリスム風の表現が見られはじめたのは1929年の二科展である。古賀春江、東郷青児、川口軌外などの作品にその傾向が見られた。ただし全員、明確にシュルレアリスム表現をもとにして描いたと思えるものではなかった。

※2:古賀春江《海》 1929年
※2:古賀春江《海》 1929年

シュルレアリスムのポイント


  • 夢と現実の矛盾した状態の表現である
  • アンドレ・ブルトンが定義者であり指導者である
  • あらゆる芸術、さらに生活、政治にまで影響を与えた

重要展覧会情報


シュルレアリスムと絵画 ―ダリ、エルンストと日本の「シュール」(ポーラ美術館)

日本において1928年にブルトンが発表した『シュルレアリスムと絵画』は、瀧口修造(1903-1979)によって早くも1930年に日本語に翻訳され刊行されています。

 

1930年代を通して「超現実主義」という訳語のもと最新の前衛美術のスタイルとして一大旋風を巻き起こします。しかしこうした広がりのなかでシュルレアリスムは、第二次世界大戦へと向かう時代の閉塞感と響き合い、しだいに現実離れした奇抜で幻想的な芸術として受け入れられていきました。

 

本展は、シュルレアリスム運動からどのようにシュルレアリスム絵画が生まれたのか、さらに日本における超現実主義への展開に焦点をあてる世界で初めての展覧会です。

 

主要出品作家:サルバドール・ダリ、マックス・エルンスト、古賀春江、三岸好太郎、瑛九、吉原治良など

 

URL:https://www.polamuseum.or.jp/exhibition/20191215s01/

シュルレアリスム関連人物リンク


技法


シュルレアリスムの基礎教科書


シュルレアリスムの解説本は多数ありますが、管理人がおすすめする書籍を紹介します。

巖谷國士「シュルレアリスムとは何か」
巖谷國士「シュルレアリスムとは何か」

『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学芸文庫)は、文学者で美術評論家の巖谷國士によるシュルレアリスムの解説書。さまざまなシュルレアリスム用語を断片的に解説するのではなく、シュルレアリスムの歴史に沿いながら、「いつ」「どこで」「どのような経緯で」「この技法が生まれた」と順序立てて解説するのが本書の特徴である。(続きを読む



シュルレアリスムの歴史


運動の創設まで


「シュルレアリスム」という言葉は、ギヨーム・アポリネールが1917年3月に造りだした言葉である。

 

アポリネールはポール・デルメへの手紙で「あれこれ考えてみたが、私は最初に使った超自然主義(supernaturalism)という言葉よりも超現実主義(surrealism)という言葉を採用するほうがよいと思っている」と書いている。

 

アポリネールは、1917年5月18日に上演されたセルゲイ・ディアギレフのロシア・バレエ『パラード』のプログラムに文章を寄せたが、そのときに『パラード』について"surrealistic"と表現している。

 

This new alliance—I say new, because until now scenery and costumes were linked only by factitious bonds—has given rise, in Parade, to a kind of surrealism, which I consider to be the point of departure for a whole series of manifestations of the New Spirit that is making itself felt today and that will certainly appeal to our best minds. We may expect it to bring about profound changes in our arts and manners through universal joyfulness, for it is only natural, after all, that they keep pace with scientific and industrial progress. (Apollinaire, 1917)

 

その後、1903年に脚本が作られ1917年に上演されたアポリネールの演劇『ティレジアスの乳房(Les Mamelles de Tirésias)』の序文であらためて「シュルレアリスム」という言葉が使われた。

 

第一次世界大戦による混乱は、パリを活動拠点にしていた詩人や画家を離散させた。離散した芸術家の多くは、そのあとに発生するダダ・ムーブメントに参加する。彼らは世界中に戦争の災禍をもたらした原因は、過剰な合理的思考や中産階級的な価値であると考えた。

 

ダダの芸術家たちは「反芸術」を掲げて集まり、パフォーマンスや著作、さまざまな芸術作品を発表する。戦後、彼らがパリに戻ったあともダダ運動は続けられた。

 

第一次大戦中、アンドレ・ブルトンは精神医学の研修生として精神病院に勤めていた。そこでブルトンは、「シェルショック(戦争ストレス)」で苦しむ兵士にジクムント・フロイトによる精神分析で治療を施していた。

 

またブルトンは、若き詩人で、のちにシュルレアリストに影響を与えたジャック・ヴァシェと出会う。ヴァシェこそが詩人で「パタフィジック(空想科学)」の創設者のアルフレッド・ジャリの精神的な後継者であると感じ、感銘を受けた。

 

ブルトンはヴァッシェの反社会的で、また確立された伝統的芸術への軽蔑的な姿勢を称賛した。のちにブルトンは「文学において、私はいつもランボー、ジャリ、アポリネール、ヌーヴォー、ロートレアモンを読んでいたが、最も影響を受けたのはジャック・ヴァシェである」と話している。

 

ブルトンはパリに戻ったあと、ダダ運動に参加する。ルイ・アラゴンやフィリップ・スーポーらと文学誌『文学』を発行。そこで彼らは理性の介入なしで自由に文字を書く「オートマティスム(自動記述)」の実験をはじめ、その内容を雑誌で公表した。

 

ブルトンとスーポーはさらに自動記述を発展させたシュルレアリスム文学『磁場』を1920年に刊行した。『文学』誌に影響を受けた多くの画家や詩人は、オートマティスムこそ既存の価値観を破壊するだけのダダよりも実際の社会変革を起こすための最良の方法だと信じ始めた。

 

『文学』誌には、ポール・エリュアール、ベンジャミン・ペレ、ルネクルべル、ロバール・デスノス、ジャック・バロン、マックス・モリス、ピエール・ナビル、ロジャー・ヴィトラック、ガラ・エリュアールマックス・エルンストサルバドール・ダリマン・レイ、ハンス・アルプ、ジョルジェ・マーキン、ミシェル・レリス、ジョルジュ・ランブール、アントナン・アルトー、レイモンド・クノー、アンドレ・マッソンジョアン・ミロマルセル・デュシャン、ジャック・プレヴェール、イヴ・タンギーが参加するようになった。

 

また、『文学』のメンバーはシュルレアリスムの理論を発展させて、シュルレアリスムこそヘーゲルの弁証法を理論的根拠とし、すべての二律背反を解消した超越的な観念が描写可能な重要表現であると提唱した。彼らの思想はまたマルクス主義弁証法、ヴァルター・ベンヤミンやヘルベルト・マルクーゼのような理論と似ていた。

 

自由連想夢解析無意識といったフロイト的手法がシュルレアリストにとって自由な想像力を解放するための最も重要なものとなった。しかし彼らは特殊性を擁護しながらも、一方で、理性の監督下にない狂乱的な思考に関しては拒否していた。サルバドール・ダリは次のように説明している。

 

「狂人と私の違いがひとつある。狂人は自分が正気であると思っているが、私は、おかしいことを分かっている。」

 

夢分析のほかに、一つの風景のなかに、通常では考えられない要素が接近し、その接近するイメージが発する視覚効果もシュルレアリスム表現の1つとした。それをデペイズマンと呼んだ。

 

ブルトンは1924年の「シュルレアリスム宣言」において、デペイズマンから生じる偶然的配置のアイデアについて説明している。1918年の詩人ピエール・ベルディのエッセイによると「接近する二つの現実の関係が遠く、それなのに適切であればあるほど、シュルレアリスムのイメージはいっそう強まる。二つの現実の偶然の接近から、ある特殊な光、イメージの光がほとばしる。」というものである。

 

シュルレアリスム・グループは、個人的、文化的、社会的、政治的なさまざまな側面で、実際の人間の生活や行動においても革命をもたらすことを目的としていた。彼らは根拠のない合理性や制約的な習慣や構造から人々を自由にしたかった。

 

ブルトンはシュルレアリムの狙いは「社会革命よ万歳。それだけだ!」と宣言し、ゴールとするものは、いくどか、共産主義やアナーキズムとつながるものであると考えていた。

※3:オートマティスムを使う代表的な作家はアンドレ・マッソン。その後、抽象表現主義へと受け継がれた。
※3:オートマティスムを使う代表的な作家はアンドレ・マッソン。その後、抽象表現主義へと受け継がれた。
※1:ルネ・マグリット《光の帝国Ⅱ》(1950年)。デペイズマン系の代表的な作家はルネ・マグリット。写実系シュルレアリスムの多くはポップカルチャーへ受け継がれた。
※1:ルネ・マグリット《光の帝国Ⅱ》(1950年)。デペイズマン系の代表的な作家はルネ・マグリット。写実系シュルレアリスムの多くはポップカルチャーへ受け継がれた。
※4:マックス・エルンスト『百頭女』より。オートマティスムとデペイズマン系の中間をいくのがマックス・エルンスト。
※4:マックス・エルンスト『百頭女』より。オートマティスムとデペイズマン系の中間をいくのがマックス・エルンスト。

シュルレアリスム宣言


1924年に、二つのシュルレアリスム・グループが結成され、それぞれがマニフェストを作成してシュルレアリスムの理論を発表した。両グループともギヨーム・アポリネールの造語”シュルレアリスム”の後継者であることを主張していた。

 

一つはイヴァン・ゴルをリーダーとしたグループで、ピエール・アルバート・ビロット、ポール・ダルメ、セリーヌ・アルノー、フランシス・ピカビアトリスタン・ツァラ、ジュゼッペ·ウンガレッティ、ピエール・ルベルティ、マルセル・アーランド、ジョセフ・デルテイユ、ジャン・パンルヴェ、ロベール・ドローネーなどのメンバーで構成されていた。

 

もう一つはアンドレ・ブルトンをリーダーとしたグループで、ルイ・アラゴン、ロバート・デスノス、ポール・エリュアール、ジャック・バロン、ジャック=アンドレ・ボワファール、ジャン・カリヴェ、ルネ・クルヴェル、ジョルジュ・マーキンなどのメンバーで構成されていた。

 

イヴァン・ゴルは、1924年10月1日に『シュルレアリスム宣言』を、ゴルの最初で最後の雑誌『シュルレアリスム』に発表した。ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表する10月15日の二週間前に発表されている。

 

ゴルとブルトンははっきりと対立しており、”シュルレアリスム”という言葉の定義、ただ一点において論争をしていた。結果としてブルトンは、そのかけひきのうまさと多数決でゴルとの派閥闘争に勝利することになる。

 

シュルレアリスムの定義に対する優先権に関する争いはブルトンの勝利で終わったものの、その瞬間からシュルレアリスムの歴史は、個々のシュルレアリストが独自の見解を持つたびにブルトンの怒りを買うことになり、メンバーの分裂、離脱、破門が行われるようになる。悪評高いブルトン独裁の始まりである。

 

なお、ブルトンはシュルレアリスムの目的を定義した1924年版にマニフェストを作成した。そこにはシュルレアリスムへの影響のこと、シュルレアリスム作品の実例、自動記述に関することなどが書かれていた。ブルトンはシュルレアリスムを次のように定義した。

 

Dictionary:シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き取り。


Encyclopedia:シュルレアリスム。哲学。シュルレアリスムは、それまでおろそかにされてきたある種の連想形式のすぐれた現実性や、夢の全能や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に基礎をおく。他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の主要な諸問題の解決においてそれらにとってかわることをめざす。 

 

※5:1924年10月1日にゴルが出版した『シュルレアリスム』誌
※5:1924年10月1日にゴルが出版した『シュルレアリスム』誌
※6:1924年12月にブルトンが出版した『シュルレアリスム革命』誌
※6:1924年12月にブルトンが出版した『シュルレアリスム革命』誌

シュルレアリスム研究所の設立


『シュルレアリスム研究所』は、パリのグルネル通り15番地に設立されたシュルレアリスム作家や画家たちが集まる場所。1924年10月11日開設。

 

開設後最初の4日間は10月15日に射手座出版から刊行したブルトンの『シュルレアリスム宣言』の出版作業に追われた。その後、12月に機関紙『シュルレアリスム革命』の出版活動を行う。

 

また、シュルレアリストたちが会合したり、議論したり、インタビューを行ったり、またトランス状態でのスピーチなどの実験などが行われた。

機関誌『シュルレアリスム革命』


最初の『シュルレアリスム宣言』が出版されてすぐに、シュルレアリストは シュルレアリスム情報誌『シュルレアリム革命』を創刊した。発行は1929年まで続いた。初代編集長は、ナヴェルとペレで、その雑誌は老舗の科学情報誌『自然』をモデルにして編集された。

 

内容は一貫してスキャンダラスであり、革命的であり、そして刺激的なものであり、シュルレアリストたちを興奮させた。

 

初期において中心的に扱われていたのは詩人だったが、ジョルジュ・デ・キリコ、マン・レイ、マックス・エルンスト、アンドレ・マッソンなどシュルレアリスム要素のある画家の作品も次第に誌面で紹介されるようになった。

シュルレアリスム運動の拡大


マン・レイ「シュルレアリスムのグループ」(1930年):左からトリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトン、ハンス・アルプ、サルバドール・ダリ、イヴ・タンギー、マックス・エルンスト、ルネ・クルヴェル、マン・レイ。
マン・レイ「シュルレアリスムのグループ」(1930年):左からトリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトン、ハンス・アルプ、サルバドール・ダリ、イヴ・タンギー、マックス・エルンスト、ルネ・クルヴェル、マン・レイ。

1920年代中ごろのシュルレアリスム運動はカフェでの会合が中心だった。そこでシュルレアリストたちはドローイングのコラボレーション(優雅な屍体)を行ったり、シュルレアリスムの理論について論議を行い、またオートマティック絵画のようなさまざまな技法を発明した。

 

ブルトンは当初、視覚絵画に偶然の発見やオートマティスムへの順応性があるとほとんど思えなかったので、視覚絵画がシュルレアリスム運動に役立つ可能性があることを疑っていた。しかし、この問題はフロッタージュやデカルコマニーのような技法の発見によって解決した。

 

視覚絵画でシュルレアリスムが利用できると、運動に多くの画家が参加するようになる。ジョルジュ・デ・キリコマックス・エルンストジョアン・ミロフランシス・ピカビアイブ・タンギーサルバドール・ダリルイス・ブニュエルアルベルト・ジャコメッティバレンタイン・ユゴーメレット・オッペンハイムトワイヤン、山本悍右などが参加する。

 

また、ブルトンはパブロ・ピカソマルセル・デュシャンなどもシュルレアリストとして称賛し、運動に参加することを促したが、彼らは直接参加せず、その周辺に距離を置いた状態で運動と関わり続けた。そのほかにはトリスタン・ツァラ、ルネ・シャア、ジョルジュ・サドゥールなどかつてのダダイストたちも参加した。

 

1925年に、パリグループとは別にベルギーのブリュッセルで、自律的なシュルレアリスムグループが結成された。そのグループには、エドゥアール=レオン=テオドール・メゼンス、ルネ・マグリット、ポール・ノーギュ、マルセル・ルコント、アンドレ・スリスなどが参加していた。

 

1927年には、ルイ・スキュトネールがブリュッセル・グループに参加。彼らは定期的にパリ・グループと接触していた。1927年にはギーマスやマグリットがパリに移動し、ブルトンのシュルレアリスム運動に参加する。

 

シュルレアリスムのルーツはダダ、キュビスム、カンディンスキーのような抽象絵画、表現主義、後期印象派、ヒエロニムス・ボス、原始的で素朴なプリミティブ絵画やアニミズム絵画まで含まれるといわれる。

 

1923年のアンドレ・マッソンのオートマティスム絵画は、無意識の考えを反映させた作品で、視覚美術がシュルレアリスムにも適用可能であることを証明された作品である。さらに、ナンセンスな表現のダダとシュルレアリスムを明確に区別する絵画として挙げられる作品である。

 

ほかの例でいえば、1925年のアルベルト・ジャコメッティの作品『Torso』は、彼の動作をシンプルに表現したものとして重要なもので、それは原始彫刻からインスピレーションを得て制作された。

 

しかしながら、美術の専門家のあいだで、ダダとシュルレアリスムを分別する決定的な作品として紹介されるのは、1927年作『The Kiss』と認識されている。ダダ時代は『Little Machine Constructed by Minimax Dadamax in Person』(1919−1920)のようにエロティックな主題とかけ離れていたが、

『The Kiss』から公に直接的なエロティシズムな表現となっている。この作品では流水のように曲りくねる線や色からミロやピカソのドローイングからの影響があることが見て取れる。

 

ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画は、シュルレアリスムの理論と視覚絵画の関係を位置づけた重要なものである。1913年の『赤い塔』は、際立った色の対比を示したもので、のちに多くのシュルレアリトに影響を与えた。キリコはダリやマグリットにかなり影響を与えたものの、自身は1928年にシュルレアリムのグループから離れた。 

 

1924年に、ミロとマッソンは絵画にシュルレアリスムを導入し始める。最初のシュルレアリスムの個展『ラ・パンテュール』は、1925年にパリのピエール画廊で開かれた。そこではアンドレ・マッソン、マン・レイ、パウル・クレー、ジョアン・ミロなどの作品が展示された。

 

この展示でシュルレアリスムは視覚絵画においても適用できることが確認され、フォトモンタージュを利用したものなど、従来のダダイスムの表現技法をシュルレアリスムが継承していることも確認された。

 

1926年5月26日には「シュルレアリスム画廊」が開設。マン・レイの個展が開催された。ブルトンは1960年代までシュルレアリスム運動を発展させ続けたが、1928年にシュルレアリスム運動の重要点をまとめた『シュルレアリスム絵画』を出版。晩年の1960年代まで内容は更新され続けた。

アンドレ・マッソンのオートマティック・ドローイング。(1924年)
アンドレ・マッソンのオートマティック・ドローイング。(1924年)
アルベルト・ジャコメッティ「Torso」(1925年)
アルベルト・ジャコメッティ「Torso」(1925年)
ジョルジョ・デ・キリコ「赤い塔」(1913年)
ジョルジョ・デ・キリコ「赤い塔」(1913年)
マックス・エルンスト「Little Machine Constructed by Minimax Dadamax in Person」(1919-1920年)
マックス・エルンスト「Little Machine Constructed by Minimax Dadamax in Person」(1919-1920年)

シュルレアリスム文学


テキストにおける最初のシュルレアリスム作品は、『文学』誌に掲載されたブルトンによるオートマティック作品『磁場』である。オートマティック文書においては、本来の字義上の意味は剥奪され、その言葉は詩的で、小さな声に変化する。

 

ただ、詩的性を強調するだけでなく、本来のビジュアルイメージから関連付けられている言葉の意味を無効化させる。この作用はマグリット作品「イメージと裏切り」などで応用表現されている。これは語と意味とを意識的に切断して言葉をオブジェ化するツアラの思想とは異なる。また統辞法の破壊してオノマトペ(擬音語)化するマリネティの思想とも異なる。

 

それは、天体が別の天体の影に隠されるように「書く主体」が一時的に消滅することである。この消滅後に立ち現れる精神の風景を言葉で写しとることがオートマティスムの目的である。「書く」という「主体的」な行為から意識的な表現(私)を追放しようとしたのがブルトンのオートマティスムで、それは写真に近いものである。「モノ・オブジェとしての言葉」がダダイスムの主張であるなら、シュルレアリスムは「無意識のイメージとしての語」を主張している。

 

本来の字義上の意味から逸脱した文書のため、シュルレアリスムのテキスト作品の多くは、作者が表現する思考やイメージで構成された内容から、意味を解析するのはほとんど無理である。

シュルレアリスム映画


・ルネ・クレール『幕間』(1924年)

・ジェルメーヌ・デュラック/アントナン・アルトー『貝殻と牧師』(1928年)

・マン・レイ『ヒトデ』(1928年)

ルイス・ブニュエル/サルバドール・ダリ『アンダルシアの犬』(1929年)

・ルイス・ブニュエル/サルバドール・ダリ『黄金時代』(1930年)

・ジャン・コクトー『詩人の血』(1930年)

シュルレアリスム演劇


シュルレアリスムという言葉は、最初、ギヨーム・アポリネール原作で1917年に上演された演劇「ティレジアスの乳房」で使われ、のちにフランシス・プーランクによってオペラへと発展した。

 

初期のシュルレアリストの1人、アントナン・アルトーは、西洋演劇の大部分を否定し、演劇は神秘的であり、形而上学的な経験であるべきと思い前衛的な演劇スタイルを模索。アルトーは理性的な談話は「虚偽と幻想」から成り立つと考えてた。即興的で直接的な新しい演劇スタイルを導入することで、出演者の観客の無意識を揺さぶるとアルトーは考え、アルフレッド・ジャリ劇場を創設し、身体演劇である”残酷劇”を提唱した。アルトーはその後の現代演劇に大きな影響を与えた1人である。

 

ほかに劇場でシュルレアリスムの実験をしていた重要なアーティストとしては、スペイン人劇作家のフェデリコ・ガルシア・ロルカである。特に『共和国』(1930年)、『5年間』(1931年)、『無題の演劇』(1935年)が重要である。ほかのシュルレアリスム劇作家としてはアラゴンの『壁に戻れ』(1925年)やロジャー・ヴィトラックの『神秘的な愛』(1927年)、またガートルード・スタインの『点滅する言葉』(1938年)は、「アメリカン・シュルレアリスム」を表現した。

 

 

シュルレアリスム音楽


1920年代に何人かの作曲言えはシュルレアリスムに影響を受けている。ボフスラフ・マルティヌー、アンドレ・スーリー、エドガー・ヴァレーズなどが代表的な人物で、ヴァレーズの「アルカナ」は夢のようなシーケンスで作曲されている。スーリーは直接シュルレアリスム・ムーブメントに参加もしており、彼は特にマグリットと親しく、またポール・ナッシュとコラボレーション活動をしていた。

 

 

20世紀前半にフランスで活躍した作曲家集団「フランス6人組」のジェルメーヌ・タイユフェールは、シュルレアリスムから影響を受けたとみなされる作品をいくつか作っている。1948年のバレエ音楽《魔術師パリ Paris-Magie》、《小さなシレーヌ La Petite Sirène》、《教師 Le Maître》などが代表的な作品である。タイユフェールはまたクラウド・メルシ作詞による大衆音楽を作曲しているが、メルシの夫のアンリ・ジェイソンは1930年代にマグリットによってポートレイトを制作されている。

 

1946年にブルトンは、エッセイで音楽をシュルレアリスムの対象にすることに関してはむしろネガティブな意見を書いているけども、のちに、ポール・ガロンのようなシュルレアリストは、ジャズやブルースにおける即興音楽はシュルレアリスムの延長線上にあるということで、関心を示している。

 

一方、ジャズやブルースのミュージシャンたちもシュルレアリスムに関心を示しており、例えば、1976年の「世界シュルレアリスム展覧会」では、デビッド・ハニーボーイ・エドワーズによるパフォーマンスが披露されている。

政治とシュルレアリスム


社会変革を目指したシュルレアリスム運動は地域によってむらがあった。芸術的な実践を強調する場所もあれば、社会変革を目指す場所もあり、芸術と政治の両方を実践する場所もあった。

 

政治的にシュルレアリスムはトロツキスト、コミュニスト、アナーキストのどれかだった。ダダの分裂はアナーキストのコミュニストの思想的分裂ともいえる。ダダイスムはアナーキストだったが、シュルレアリスムはコミュニストだった。

 

ブルトンとその仲間たちは、一時期、レオン・トロツキーと国際左翼同盟をサポートしていた。特に政治思想が強いシュルレアリストは、ベンジャミン・ペレ、メアリー・ロウ、ジュアン・ブロウで、彼らは共産党に入党して活動を行なった。スペイン市民戦争の際には、マルクス主義統一労働者党に参加して戦った。

 

ウォルフガング・パレーンはメキシコでトロツキーが暗殺されたあと、反超現実的芸術雑誌『DYN』をメキシコで刊行し、芸術と政治の分離を提唱し、また抽象表現主義の基盤を準備も行った。

 

ダリは資本主義やフランコ独裁によるファシズムを支持し、共産主義者ではなかった。実際、ダリはブルトンとその仲間から裏切り者と見なされていた。

 

しかし、ブルトンのグループは、1920年代後半における共産党との思想の軋轢で見られるように、暴力的なプロレタリア闘争を優先することに対して反対していた。政治思想の異なりはシュルレアリスム内で分裂を起こした。たとえば、ルイ・アラゴンは芸術よりも政治活動を優先させるようになり、シュルレアリム・グループから離れた。

 

シュルレアリストは多くの場合、政治理念と彼らの芸術活動を連関させようとしてきた。1925年1月27日のマニフェストでは、パリを基盤に活動していた『シュルレアリスム研究所』の会員(アンドレ・ブルトン、ルイス・アラゴン、アントナン・アルトーなど)は、革命的政治に対する親密性を宣言していた。また1930年代になると、ルネ・マグリットをはじめ、多くのシュルレアリストが、自身が共産主義であることを明確に主張していた。

 

シュルレアリスムと共産党の結びつきを現す最も重要な文書が『自由のための革命芸術宣言』である。これはブルトンとディエゴ・リベラの共著として出版されたものだったが、実際にはブルトンとトロツキーとの共著だった。

 

1925年に、パリのシュルレアリスム・グループはフランス共産党を離脱し、フランス領モロッコにおけるフランスアブド・エル・クリムの氾濫を支援した。

 

1938年にアンドレ・ブルトンは妻のジャクリーヌ・ランバとメキシコ旅行をした際にトロツキーと会合した。

左からトロツキー、ディエゴ・リベラ、ブルトン。
左からトロツキー、ディエゴ・リベラ、ブルトン。

シュルレアリスム黄金期


1930年代を通じてシュルレアリスムは、美術業界のみならず広く一般大衆にも目が届くぐらいに運動を拡大していった。特にイギリスにおいては独自のシュルレアリスム・グループ「ブリティッシュ・シュルレアリスム・グループ」が創設され、発展した。ブルトンによれば、1936年に開催された「ロンドン国際シュルレアリスム展」は最高水準の国際展覧会となり、その後の現代美術における国際展覧会のモデルともなった。

 

ダリマグリットの作品は、おもにシュルレアリスムを代表する絵画として一般的に認識されるようになった。ダリは1929年にシュルレアリスム運動に参加し、1930年から1935年の間に急速に独自のスタイル「編集法的批判的方法」を確立した。

 

1931年は、何人かのシュルレアリスム画家が、自らの絵画スタイルの発展や変革となったターニングポイントとなる年である。マグリットの場合は3つの大きな球体が浮遊する『空間の声』だったり、イヴ・タンギーにおいては溶解や液体形状が『岬の宮殿』がターニングポイントとなる作品だったりする。ダリは後に自身のトレードマークとなる『記憶の固執』をこの年に発表している。

 

1930年と1933年に、パリのシュルレアリスムグループは、機関誌『シュルレアリスム革命』の後継誌として、定期的に『革命に奉仕するシュルレアリスム革命』を発行する。

 

1936年から1938年の間、ヴォルフガング・パーレン、ゴードン・オンスロー・フォード、ロベルト・マッタらが、シュルレアリスムグループに参加。パレーンはフュマージュという技法、オンスロー・フォードは新型のオートマティスムを発明した。

 

この頃からシュルレアリスムは、個人的な問題、政治的な問題、理論的な問題などさまざまな面で、リーダーのブルトンとシュルレアリスムメンバーとの間で軋轢が増え始め、分裂して細分化されていく。

 

また、1930年代におけるシュルレアリスム作品の重要なコレクターとなるのが、後のマックス・エルンストの妻となるペギー・グッゲンハイムである。彼女は作品を収集するだけでなく、エルンストをはじめ、イヴ・タンギーやイギリスの芸術家ジョン・タナードなど、シュルレアリスム作家たちのプロモーション活動やギャラリー経営なども行った。

 

ほかに重要なコレクターとしてはイギリスの大富豪エドワード・ジェームズが挙げられる。彼はダリやマグリットをはじめ、数多くのシュルレアリストの作品を買い集め、生活を支えた。 

 

サルバドール・ダリ「記憶の固執」(1931年)
サルバドール・ダリ「記憶の固執」(1931年)
ロンドン国際シュルレアリスム展(1936年)
ロンドン国際シュルレアリスム展(1936年)

1930年代の主要展覧会


・1936年:「ロンドン国際シュルレアリスム展」は美術史家ハーバード・リードによって企画され、アンドレ・ブルトンによって展示構成が行われた。

 

・1936年:ニューヨーク近代美術館は「幻想芸術 ダダとシュルレアリスム」という展覧会を開催。

 

・1938年:パリのボザールギャラリーで「国際シュルレアリスム展」が開催。この展覧会では世界中の国から60以上のアーティストが参加し、300以上の絵画、オブジェ、コラージュ、写真、インスタレーションが展示された。

 

シュルレアリストたちは、展覧会自体が創造的行為となるようなものにしようと、マルセル・デュシャンやヴォルフガング・パーレンやマン・レイなど多くの芸術家が招待された。

 

展覧会場の入口にはサルバドール・ダリの『雨降りタクシー』が設置され、ロビー横にはさまざまなシュルレアリストによってドレスアップされたマネキンが設置。

 

メインホールはパーレンとデュシャンが設計。湿気の多い葉や泥で覆われた床と石炭火鉢の上に天井から1200の石炭袋が吊り下げられ、まるで地下洞窟のようで、コレクターたちは懐中電灯を手にして美術を鑑賞することとなった。ウォルフガング・パーレンの部屋では草で小さな湖を作り、コーヒー焙煎の香りが充満していた。シュルレアリストたちは大変満足したが、鑑賞者は大いに憤慨した展覧会となった。

 

この国際シュルレアリスム展の展示は、インスタレーションや現代美術的な展示の先駆けとみなされている。

第二次世界大戦以後


第二次世界大戦はヨーロッパの一般庶民だけでなく、特にファシズムやナチズムに反対したヨーロッパの美術家や作家たちにも被害は及んだ。多くの重要なアーティストは北アメリカに逃亡。アメリカは相対的に安全性が高かったためである。

 

ニューヨークのシュルレアリスムコミュニティでは、アーシル・ゴーキー、ジャクソン・ポロック、ロバート・マザウェルなど、後のアメリカ現代美術を支える多くのアーティストが、逃亡したシュルレアリスムと接触していた。

 

芸術家たちはシュルレアリスムの無意識や夢の理論を受け入れ、ペギー・グッゲンハイム、レオ・スタインバーグ、クレメント・グリーンバークといったコレクターや美術批評家たちが、第二次世界大戦後のアメリカの美術の方向を抽象表現主義へ向かわせた。

 

抽象表現自体は、第二次世界大戦時に亡命してきたヨーロッパのシュルレアリストとアメリカ(特にニューヨーク)の芸術家たちが直接的に会合した中から発展したものである。特にゴーキーやパレーンのアメリカ美術の影響は大きい。ポップ・アートさえも、シュルレアリスムはアメリカ美術の急速な発展において最も重要な影響を与えてた事がわかる。

 

なおグリーンバーグはダリには批判的だった。その理由はほかの作家がメディウムにインスピレーションを得ているのに対し、ダリの関心ごとは意識の過程と概念を表象することであって、自分のメディウムの過程を表象することではなかったためである。

 

第二次世界大戦は、ほぼすべての知的、芸術的生産物に影を落とした。1939年にウォルフガング・パーレンはパリを去り、新しい世界へ亡命。イギリス領コロンビアの森の中を長期間旅した後、メキシコに移住して前衛美術雑誌『Dyn』を発刊。1940年にイヴ・タンギーはアメリカのシュルレアリスム画家ケイ・セージと結婚し、アメリカへ移住。ブルトンは1941年にアメリカへ亡命した。

 

フランスから亡命してきたシュルレアリストの多くはグリニッチ・ヴィレッジに滞在した。アメリカでシュルレアリスムの概念や運動を定着させようと、さまざまな試みが行われた。ひとつは雑誌による喧伝である。

 

シュルレアリスムに共感していたチャールズ・ヘンリ・フォードが編集していた雑誌『ヴュー』41年10−11月号では、ニコラス・カラス編集によるシュルレアリスム特集が組まれた。デュシャン、エルンスト、タンギーの作品が紹介され、ブルトンへのインタビューが掲載された。42年5月号は「タンギー特集」となった。

 

ブルトン自身がアメリカでシュルレアリスム中心の雑誌の発刊を始めた。エルンストがデザインした表紙『ⅤⅤⅤ』誌が1942年6月に刊行。ディヴィッド・ヘアを編集者として、ブルトンとエルンストが特別顧問として関わったが、実質的な編集権はブルトンにあった。内容は詩、美術、人類学、社会学、心理学など広範な領域にまたがるもので、ちょうど『ミノトール』のアメリカ版といってよいだろう。

 

 1940年代、シュルレアリスムの影響は特にイギリスやアメリカで大きかった。マーク・ロスコはイブ・タンギーの有機的形態造形に影響を受けているように見える。ヘンリー・ムーア、ルシアン・フロイド、フランシス・ベーコン、ポール・ナッシュは、実際にシュルレアリスムの技法を実験的に使っていた。

 

イギリス人シュルレアリストの1人であるコンロイ・マドックスはシュルレアリスムの技法を使い続け、1978年の個展でシュルレアリスム作品を展示した。『無制限のシュルレアリスム』というタイトルでパリで開催されたマドックスの個展は、国際的に注目を集めた。彼の最後の個展は2002年で、その年に亡くなった。

 

マグリット作品は、実際のオブジェクトの描写において、より写実的な技巧に発展しつつ、1954年の『光の帝国』や1951年の『個人的価値』のようなデペイズマン的手法を使い続けた。彼の作品はダリ同様にポップ・カルチャーに大きな影響を与えた。またマグリットは、芸術的な語彙の入った作品や、「ピレネーの城」のような浮遊する物体の風景画を描き続けた。

 

 

1940,50,60年代の主要展覧会


1942年:「ファースト・ペイパーズ・オブ・シュルレアリスム」展(ニューヨーク):シュルレアリストたちは再びデュシャンに展示デザイナーを依頼。今回デュシャンは、部屋のスペース全体に糸を蜘蛛の巣のように張り巡らした。張り巡らされた糸は、展示された作品に鑑賞者が近づくことを防ぎ、糸の蜘蛛の巣を通して覗き見るしかけとなる。オープニングではシドニー・ジャニスの11歳の娘キャロルがその友達と会場でボール遊びに興じるイベントがあり、ボール遊びによって鑑賞者は作品への接近を阻まれた。

 

1947年:「国際シュルレアリスム展」(パリ、マーグ画廊)

1959年:「国際シュルレアリスム展」(パリ)

1960年:「魔術師の領域へのシュルレアリスムの闖入展」(ニューヨーク)

ブルトン死後のシュルレアリム


シュルレアリスムの終焉についてははっきりしていない。美術史家のなかには第二次世界大戦による芸術家たちの離散がはっきりとシュルレアリスム運動を終わらせたというものもいる。しかし、第二次世界大戦による芸術家の離散は、逆に世界各地に新たなシュルレアリスムの種を蒔いたという意見も多い。

 

美術史家サラーヌ・アレクサンドリアは「1966年のアンドレ・ブルトンの死が、組織化された形でのシュルレアリスム運動の終焉」と話している。ほかに、1989年のサルバドール・ダリの死をシュルレアリスム運動の終焉と結びつけるものもいる。

 

■共産圏

1960年代、左翼周辺に集っていた画家や作家たちは、綿密にシュルレアリスムと結びついてた。ギー・ドゥボールはシュルレアリスムから離れたが、アスガー・ヨルンをはじめ、多くはシュルレアリスムの技術や方法をはっきりと使っていた。

 

1968年のフランスの五月革命において、そのスローガンの中には多くののシュルレアリスムのアイデアが含まれており、ソルボンヌの壁にスプレーで落書きをした学生たちの方法はシュルレアリスムの方法とよく似ている。ジョアン・ミロは「1968年5月」という題の絵画を記念的に制作している。

 

ヨーロッパをはじめ全世界中において、1960年代から今日にいたるまで芸術家は、16世紀の卵テンペラや油絵具をミックスさせたような方法、「mischtechnik」と呼ばれる16世紀古典絵画の絵画技法と考えられるものとシュルレアリスムを組み合わせて絵を描いている。この絵画技法についてサンフランシスコ現代美術館のキュレーターであるミヒャエル・ベルが「バーリスティック・シュルレアリスム」と名づけている。代表的な作家はサルバドール・ダリやルネ・マグリットで、夢の世界を古典的な絵画技法をもって緻密に表現する方法である。

 

1980年代の間、「鉄のカーテン」を背景として、シュルレアリスムは再び「オレンジ・オルタナティブ」として知られる地下芸術抗議運動とともに政治の中に組み込まれていった。オレンジ・オルタナティブは、1981年にポーランドのワルシャワ大学で歴史学科を卒業したバールデマー・フィドリッチで創設した政治政党である。オレンジ・オルタナティブは、ヤルゼルスキ政権時において、ポーランドの主要都市において組織された大規模なデモ時に、シュルレアリスムの象徴や用語を使ったり、政権に対する抗議を壁にシュルレアリスム風に落書きして表現していた。

 

■フランス文学

現代フランス文学で、シュルレアリスムの存在を避けて通るわけにはいかない。イーヴ・ボンヌフォワ、ジョエ・ボスケ、ルネ・シャール、ジャック・プレヴェール、ジャン・タルディウのような詩人たち、ジョルジュ・シュアーデ、ロジェ・ヴィトラックのような劇作家、ジョルジュ・バタイユ、アラン・ジュフロワ、ミッシェル・レリス、レイモン・クノオのような著述家たち、モーリス・ブランショやロジェ・カイヨワのような批評家に影響をおよぼした。

 

フランス以外では、戦前にはブリュッセル、ロンドン、プラハ、ベオグラード、東京のグループの結成が、世界的に広げた。戦後にはことにラテン・アメリカに広がり、鉄のカーテンの下をはうつる草だった。

 

■戦後アメリカ文化とシュルレアリスムの影響

1940年初頭のアメリカ合衆国では、亡命シュルレアリスト画家たちが、ニューヨーク抽象表現派に決定的な影響を与えた。ジャクソン・ポロック、ジャスパー・ジョーンズ、マーク・ロスコ、アンディ・ウォーホルといった抽象表現主義からポップ・アートにかけてのアメリカ現代美術家は確実にシュルレアリスムの影響を受けている。抽象表現主義はオートマティスム系、ポップ・アートはデペイズマン系の流れを組む

 

シュルレアリストの衝撃的な感覚は、ユーモア映画アール・ヌーヴォーの礼賛アサンブラージュ発見されたオブジェ、シュルレアリスム的で、思わせぶりなエロティシズム、『ローズ・セラヴィ』もどきのアクロバット的な語呂あわせの店頭装飾や広告に、表れている。

 

特にアメリカ西海岸のヒッピー・ムーブメントにともなって発生したドラッグ文化やサイケデリック文化にシュルレアリスム表現が明確に見られる。シュルレアリスム的感覚は受け継がれていった。これがその後、ロウブロウ・ポップシュルレアリスムや日本におけるアングラ文化にもへつながっている。

 

ヒッピー・ムーブメント直後に発生したアレハンドロ・ホドロフスキーデビッド・リンチなどのアメリカのミッドナイト・カルト・ムービーにもシュルレアリスムの遺伝子は確実に受け継がれている。映像に関していえばほかに、共産圏のアート・アニメーションにシュルレアリスム的感覚は受け継がれていいる。「エイリアン」のデザインで知られるH.R.ギーガーはダリから直接影響を受けている。

 

■拡散と卑俗化するシュルレアリスム

シュルレアリスムの現代の意識は、思いつくままにあげれば、ほかにもナンセンス詩、エロティック・アート、ポルノグラフィ、子どもと狂人の創造力、幻想芸術のながい伝統などが挙げられきりがないシュルレアリスムの伝搬の成功は、一方でとてつもなく希薄化し、また教義がひどく卑俗化した。シュルレアリスムはあまりにも拡散し、曖昧になりすぎて、わけがわからなくなったのである。シュルレアリスムの表層・うわべな部分がとりあげられて、剽窃されたのである。シュルレアリスムの技法がコンテクストとはなれて取りあげられ、勝手に使われてきたのである。シュルレアリスムが手段から目的に変化した。

 

シュルレアリスム本来の目的は「生活を変える」ことである。シュルレアリスムは「生活を変える」きっかけとなる手段であり目的ではない。シュルレアリスムはフロイトの心理療法を下敷きにしたものであり、生活と芸術を一体化することを目的としたアール・ヌーヴォの思想にちかいものである。

 

しかし、現在のシュルレアリスムは教養ある金持ちの消費のための贅沢品となり、美術館向きの展示作品になり代わり、過剰なまでの回顧展や学位論文が刊行されている。これらは歴史的現象となっている常識を証明するが、シュルレアリスム本来の意向とはほとんど関係がない。元々、ファインアートにおけるB級アートとして始まったシュルレアリスム。もう一度、現代におけるシュルレアリスムの遺伝子を新たに発見し、再編集してみてはいかがだろうか。

日本とシュルレアリスム


日本にシュルレアリスムがもたらされたのは、まず文学からである。アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表した翌年、1925年にイギリス留学から帰国した詩人の西脇順三郎が紹介しはじめたといわれる。

 

絵画のシュルレアリスムが紹介されはじめたのは、1928年3月に、マックス・エルンストのコラージュ作品の図版が掲載された『山繭』3巻3号である。この記事では、エルンストのコラージュとフロッタージュの方法や意図が正確に紹介されている。

 

日本の美術家が作品にシュルレアリスム風の表現を発表し始めたのは1929年の二科展である。古賀春江、東郷青児、川口軌外などの作品にその傾向が見られる。二科展で古賀春江が発表した作品「海」が、一般的に日本で始めてのシュルレアリスム絵画と評価されている。 ただし皆、シュルレアリスム理論をもとにして描いたものとは思えるものではなかった。

 

1930年6月、このブルトンの著作「シュルレアリスムと絵画」の日本語訳が、瀧口修造の翻訳によって出版される。日本で刊行された翻訳書がシュルレアリスム絵画のイメージを広めるのに、大きな貢献をした。瀧口は自身も自動記述系のシュルレアリストであったことから、特にジョアン・ミロなどの自動記述系の芸術家を中心に彼のシュルレアリスム美術論を展開していった。

 

ほかに日本でシュルレアリスム絵画のイメージを広めた人物では澁澤龍彦が挙げられる。澁澤龍彦は瀧口とちがって、ポール・デルヴォーやダリなど、デペイズマン系の芸術家を中心にシュルレアリスム美術論を展開した人物である。また、ハンス・ベルメール、ピエール・モリニエ、マックス・ワルター・スワンベルクのような傍流のシュルレアリストたちも紹介した。

 

澁澤のほうが瀧口よりも一般大衆に広く読まれており、特にサブカルチャーにおいてその影響も大きい。

 

※日本とシュルレアリムに関してはこちらのページで今後更新していく予定。

シュルレアリスム簡易名鑑


・ルイ・アラゴン

1897年パリに生まれる。詩人、エッセイスト、小説家にしてジャーナリスト。医学生だったが言語の才を発揮。パリのダダ運動に参加してのち、ブルトンやエリュアールらとともにシュルレアリスムの中心人物のひとりとなり、『パリの農夫』(1926年)、『文体論』(28年)など多くの重要な作品を発表。機関紙「文学」「シュルレアリスム革命」の時代を通じて活躍したが、32年には共産党に転じ、82年に亡くなるまで党を代表する作家だった。

 

アントナン・アルトー

1896年マルセーユ生まれ、1948年にイヴリーで没する。詩人、演劇理論家、俳優にして演出家。24年にシュルレアリスム運動に加わり、シュルレアリスム研究センターの所長となる。「シュルレアリスム革命」誌上でも活躍したが、彼の代表作はむしろのちに孤立してから書かれたもので、どんな流派の影響もうけていない。麻薬と「残酷」演劇、絶対と陶酔の探究のはてに、その内的体験は彼を狂気へとおいやった。精神病院でデッサンもこころみる。

 

・ジャン・アルプ

1887年ストラスブールに生まれる。詩人、画家、彫刻家。1913年にケルンでエルンストと出会う。16年、ツァラとともにチューリヒでダダ運動をおこし、19年にはエルンスト、バールゲルトとケルン・ダダで活躍。22年パリに移り、シュルレアリスム運動に参加。25年には最初のシュルレアリスム展に出品(キリコ、エルンスト、クレー、マン・レイ、マッソン、ミロ、ピカソらが加わる)。以来、その作品は現代芸術の原動力のひとつである。66年没。

 

・ピエール・アレンシスキー

1927年ブリュッセルに生まれる。ベルギーの画家、作家。49年から51年まで、デンマークやベルギーを中心とする芸術家集団「コブラ」を指揮。60年代に入ってからシュルレアリスム運動に参加。彼の絵は表現主義とオートマティックな線描との接点にある。

 

・モーリス・アンリ

1909年カンブレーに生まれる。ドーマル、ジルベール・ルコント、シマとともに「多いなる賭」の擬似的シュルレアリスム運動に参加。つづいて32年から51年まで、シュルレアリストと交流する。画家、オブジェ作家、素描家であり、マンガのなかにシュルレアリスムを導入した。84年没。

 

・ジャック・ヴァシェ

1896年パリに生まれ、1919年ナントで自殺。16年、アンドレ・ブルトンはナントの病院で彼と出会い、決定的な感化をうけた。その間の事情はブルトンの『失われた足あと』に詳しい。事故とも自殺ともつかぬその死は、シュルレアリストたちのあいだで一種の英雄伝説に仕立てられた。

 

・ロジェ・ヴィトラック

1899年ロートのパンカスに生まれ、1952年にパリで没。詩人にして劇作家であり、22年に「文学」誌に加わる。彼は『ヴィクトルあるいは権力下の子どもたち』『トラファルガー決戦』『わが父のサーベル』などにおいて、シュルレアリスム固有のユーモアを演劇に導入している。28年ごろ脱退、のちにバタイユに協力。

 

・ジョルジュ・エナン

1914年カイロに生まれる。エジプトの詩人。パリに出てシュルレアリスムのグループに加わり、エジプトにもどってから運動をこころみる。48年にカイロでシュルレアリスム雑誌「砂の分け前」を創刊したが、翌年には手をひく。

 

・ポール・エリアール

本名ウジェーヌ・グランデル。1895年にサン・ドゥニで生まれ、1952年にパリで死す。ブルトンおよびアラゴンとともに、「文学」から「シュルレアリスム革命」にいたるところ、シュルレアリスム運動の指導的グループを形成して活動し、またシュルレアリスムにおける最大の詩人のひとりとみなされもした。エルンストなどの画家たちとの関係も重要で、『見せる』(39年)のような美術論・詩集がある。38年ごろにグループをはなれてコミュニストたちに再接近し、第二次大戦中は抵抗運動に参加。共産党では旧友アラゴンと再会している。

 

・リヒアルト・エルツェ

1900年ドイツのマグデブルクに生まれ、21年から26年まで、ワイマールのバウハウスで活動。32年にパリでシュルレアリストたちとまじわり、大戦前にスイスへ移ったが、のちにまたドイツにもどる。人間に似た形態をもつ生命体のような風景を描くその作品は、エルンストの作品とともに、ドイツの生んだ力強いシュルレアリスムの表現となっている。

 

マックス・エルンスト

1891年ドイツ・ラインラントのブリュールに生まれる。1913年にベルリンで秋季展に出品し、ケルンでアルプに会う。のちにアルプ、バールゲルトとともにケルン・ダダを創始。21年、彼のコラージュははじめてパリに送られ、未来のシュルレアリストたちに霊感をあたえた。翌年パリに出てパリに出て定住し、ブルトン、デスノス、エリュアール、ペレ、クルヴェルらとともに、「眠り」による「自動記述」の最初の実験をおこなう。画家、彫刻家、詩人として、生涯にわたりシュルレアリスムの深さと多様性を体現。『絵画の彼方』(37年)など、シュルレアリスムの絵画論を代表する著述もある。その変幻自在の幻想的な作品には、「コラージュ」や「フロッタージュ」をはじめ、自身の発明になる多くの新手法が用いられている。また偶然の作用にかんする彼の熱心な読解作業は、かつてのロマン派がこころみた諸探究を、もっとも現代的な心理学的方法にむすびつけたものである。大戦中ニューヨークよアリゾナに住んだが、のちパリおよびセイヤンにもどり、76年に没。

 

・ジャック・エロルド

1910年ルーマニアのピアトラに生まれる。30年からパリにあって、34年以後は断続的にシュルレアリスムに参加。「結晶」ないしは鉱物的構造と、雲や焔の戯れとを交錯させる彼の絵は、こんにちシュルレアリスムの「驚異」がもたらしたもっとも豊かで力強い成果のひとつとなっている。87年にパリで死す。

 

・エドガー・エンデ

1901年ハンブルクのアルトナに生まれる。画家。ミュンヘンで制作、31年以後同地に住み、ドイツ・シュルレアリスムの一角を占める。作家ミヒャエル・エンデはその息子である。

 

メレ・オッペンハイム

1913年ベルリンに生まれ、スイスに住む。画家、オブジェ作業としてシュルレアリスムに参加。行動の自由さを創意に富む性格によって、生活においても芸術においても、もっとも完全な「女性のシュルレアリスト」のひとりであった。85年に没。

 

・ロジェ・カイヨワ

1913年ランスに生まれる。詩人、批評家。初期には「大いなる賭」のメンバーと交流、32年にブルトンと出会い、シュルレアリスム機関誌に寄稿する。のちにバタイユと接近し、人類学的研究をおこなう。幻想文学・美術の専門家となるが、その理論にはシュルレアリスムと相容れぬ一種の古典主義傾向がある。78年に没。

 

レオノーラ・キャリントン

1917年にロンドンの上流階級の令嬢として生まれる。作家、画家。感受性ゆたかに幻想的な妖精世界をくりひろげる彼女の作品は、生来シュルレアリスムの要求に合致しているものだろう。パリに出てエルンストの妻となったが、大戦中に別離を強いられ、スペインの精神病院へ。その後、メキシコに住んで活動を続けている。

 

・アレクサンダー・カルダー

1898年フィラデルフィアに生まれる。彫刻家。パリで絵を学び、針金で「サーカス」の連作を発表。1932年パリでオブジェ・モビールをはじめる。シュルレアリストとも交流。76年没。

 

フリーダ・カーロ

メキシコの女性画家(1907-54)。父はハンガリー系ユダヤ人。母はスペイン人とインディオの混血。25年に交通事故にあい、後遺症を負う。療養中に絵を描きはじめ、強烈な土俗的幻想世界を展開。29年にディエゴ・リベラと結婚、37年には亡命中のトロツキーと、38年にはブルトンと知り合う。40年、メヒコ市でのシュルレアリスム国際展に出品した。

 

ジョルジオ・デ・キリコ

1888年ギリシアのヴォロスに生まれる。アーケードや柱廊、謎、人体模型、形而上的風景の画家。カルロ・カッラとともにパリで「形而上絵画」を提唱してアポリネールに認められ、のちにブルトンやエリュアールの熱烈な称賛をうける。エルンスト、マグリット、タンギーほか、シュルレアリストたちにあたえた影響は決定的なものがある。しかし1910年年代後半以後、彼の作品は霊感を喪失し、旧態依然たるアカデミズムへと埋没していったため、一種の幻滅を味わわせた。78年、ローマで没する。

 

・レーモン・クノー

1903年ルアーブルに生まれる。詩人、小説家、数学者、文献者にして哲学者。そn広範囲にわたる作品は、24年から29年までの間、シュルレアリスム運動に参加していた時期に着手されたものである。28年にはシャトー通りの住民のひとりだった。76年、パリで没。

 

・ジュリアン・グラック

本名ルイ・ポワリエ。1901年サン・フロラン・ル・ヴェエイユに生まれる。39年の処女作『アルゴルの城にて』において、暗黒小説の伝統とシュルレアリスムとの確固たる結合を示し、ブルトンの称賛をえた。47年ごろからシュルレアリストたちと交流したが、いわゆる運動には参加せず、むしろ孤立を守って着実な作家活動をつづけている。52年『シルトの岸辺』でゴンクール賞に推されたが、拒否。ある意味では、現存のもっともシュルレアリスム的な文章家ともいえる。

 

・ルネ・クルヴェル

1900年パリ生まれ。35年同地で自殺した。詩人、小説家、エッセイスト、パンフレット作者であり、シュルレアリスム運動の最初期の参加者のひとり。20年に心霊術の手ほどきをうけ、「眠りの時代」の発端を画する。早すぎた死のために彼の才能はじゅうぶんな開花を見たとはいいがたいが、この運動にはめずらしい同性愛者として、また哲学の研究者として、独自の思索、深い苦悩につらぬかれた作品群をのこしている。

 

ジョゼフ・クレパン

1875年エナン・リエタール生まれ、1948年に死す。38年、63歳にしてはじめて絵を描きはじめた霊媒画家。彼の緻密な「不思議絵画」は、ブルトンをはじめとするシュルレアリストたちを感嘆せしめた。

 

・アーシル・ゴーキー

1905年アルメニアのホルコム・ヴァリに生まれる。表現派的傾向のある画家だが、ニューヨークでマッタやブルトンと会い、彼らから影響をうけた。彼の絵は多感な個性と悲劇的な生活の表現ともいえる。48年、苦悩のはてに絞首自殺。

 

・ジョルジュ・サドゥール

1904年生まれ。ナンシーでティリヨンらと交流、ともにパリへ出てシャトー通りに住み、シュルレアリスムのグループに加わる。29年、兵学校の生徒を公然と侮辱したため投獄されそうになる。それを逃れるためもあって、アラゴンとハリコフの作家会議へ。その後グループを離れ、映画史の領域で精力的な仕事をする。67年没。

 

・ジョゼフ・シマ

1891年プラハに生まれる。「大いなる賭」グループの芸術面での代表者。神秘主義的発送をもつ彼の絵は、瞑想の実践から生まれた内的生活の啓示を表現している。

 

アルベルト・ジャコメッティ

1901年グリゾン(スイス)のスタンパに生まれる。29年、まず離教派シュルレアリストたち(バタイユ、レーリス、ランブール、マッソン、ヴィトラック)とまじわり、ついで31年から34年にかけて、ブルトンら公認の「グループ」に接近。その後は孤立しながらも、彼の作品は世界的な名声を得ている。シュルレアリスムのもっとも美しい彫刻、シュルレアリスムにおいて考えられるもっとも力強いオブジェは、彼のものであったといえるかもしれない。66年死去。

 

・マルコルム・ド・シャザル

1902年モーリシャス島のヴァコアスに生まれる。18世紀に移住したスウェーデンボリの弟子の後継で、彼自身もこの神秘思想家の影響を強くうけている。同島でひそかに活動していたが、47年、特異な散文集『サンス・プラスティック』によってブルトンに認められ、以来シュルレアリストと交流する。81年没。

 

・ルネ・シャール

1907年ヴォークリューズのリール・シュル・ソルグに生まれる。30年から37年まで運動に参加し、30年代におけるもっとも有力なシュルレアリスム詩人nひとりとなる。しかし、戦後の詩集に響いている深い歌声は、あらゆる限定をこばむものとなっている。88年に死去。

 

・マルセル・ジャン

1900年ラ・シャリテ・シュル・ロワールに生まれる。画家、詩人、批評家。パリに出て30年ごろからエルンストと交流。32年にシュルレアリスムのグループに加わり、「革命のためのシュルレアリスム」「ミノトール」誌に協力。戦後は「フロッタージュ・ポエム」などをこころみる。59年、ハンガリー人アルパード・メゼーと、『シュルレアリスム絵画の歴史』を出版。93年没。

 

・インドリヒ・シュティルスキー

1899年チェルムナ生まれ、1942年プラハに死す。チェコスロヴァキアの画家。34年にプラハのシュルレアリスム集団を設立し、妻ワイヤンとともに指導者となる。色彩を使ったコラージュの開発者としても知られ、死の直前には聖職者侮辱のコラージュ集を仕上げた。

 

フリードリヒ・シュレーダー・ゾンネンシュターン

1899年ベルリン生まれ。苦悩の半生をへてのち、1956年に自己流の絵を描き始める。狂気をはらみ、自然発生的にシュルレアリスムを体現するその作品は、ブルトンらによって熱く迎えられた。長く西ベルリンの「壁」の近くに住み、82年に没。

 

ヤン・シュヴァンクマイエル

1938年プラハ生まれ。57年から人形劇、コラージュ、オブジェ制作を開始、63年以来、特異な魔術的アニメーション映画をつぎつぎに発表。現在なお戦闘的シュルレアリストを自称し、妻エヴァとともに独自の運動を展開している。

 

・ロジェ・シルベール・ルコント

1907年ランス生まれ。43年にパリで自殺。詩人、「人工楽園」の探索者であり、シュルレアリスムに近い雑誌「大いなる賭」の中心人物のひとり。過敏で深遠な人格の持主で、物質世界に順応しがたく、その形而上的関心と行動のダンディスムによって、一種の「世紀病」を体現した。

 

・スキュトネール・ルイ

1905年ベルギーのオリニーで生まれる。詩人、エッセイスト、アフォリズム作家、26年にマグリット、メサンス、ヌージュ、ゴーマンらのベルギー・シュルレアリストのグループ展に参加。夫人もまた詩人で、イレーヌ・アモワールの筆名で書いている。87年没。

 

・フィリップ・スーポー

1897年セーヌ・エ・オワーズのシャヴィルに生まれ、パリでくらす。大ブルジョワ家庭出身の詩人、作家。「文学」誌の同人とともにパリのダダ運動に参加し、ついで初期シュルレアリスム運動の一員となったが、1929年に除名され、小説家、旅行家、ジャーナリストとして多彩な後半生をおくる。アンドレ・ブルトンとの共作で、「オートマチック」な最初の作品『磁場』(20年)を書いたことは忘れられない。長命だったせいかさまざまな回想録をのこし、90年に没。

 

マックス・ワルター・スワンべリ

1912年スウェーデンのマルメに生まれる。画家。56年ごろ、シュルレアリスムと接触。ブルトンをして「生涯のもっとも大きな出会いのひとつ」といわしめた。想像上の妖精世界を現出させしめる彼の作品は、理想主義的サンボリスムの画家と共通のものをもっている。

 

ケイ・セージ

本名はキャサリン・リン・セージ。アメリカの女性画家、詩人。1898年オーバニーの裕福な家庭に生まれ、イタリアへ。ついでパリにわたる。1937年にシュルレアリストたちと出会い、タンギーと結婚。合衆国にもどって夫婦でウッドベリーに住む。期待と不安をたたえた「ゴースト・シティ」のごとき光景を描きつづけたが、61年、夫タンギーを追うようにして自殺。

 

・エメ・セゼール

1912年ロランに生まれる。マルティニック島の偉大な黒人シュルレアリスム詩人。当地の雑誌「正当防衛」や「熱帯」、39年に発表した『帰郷手帳』などによってブルトンに迎えられる。

 

・クルト・セリグマン

スイス出身の画家(1901-62)。34年ごろからシュルレアリスムに接近、38年の国際展では「超家具」と称するオブジェを出品して話題をまいた。以後は魔術の研究に没頭、著述家として知られる。第二大戦中はニューヨークにあり、44年ごろまでシュルレアリスムに協力。

 

・カレル・タイゲ

チェコの詩人、芸術理論家でコラージュ作家(1900-51)。両大戦間の同国の前衛芸術運動の中心的役割をはたす。34年、プラハにシュルレアリスム集団を結成、理論的指導者となる。写真コラージュや詩的タイポグラフィーにも注目すべきものがあった。

 

瀧口修造

1903年富山県生まれ、79年東京に死す。詩人、批評家。26年ごろ西脇順三郎を通じてシュルレアリスムを知り、28年に『地球創造説』を発表。また30年にはブルトンの『超現実主義と絵画』の翻訳を出版し、以来多くの詩作、美術論、翻訳などによって、日本におけるシュルレアリスムの体現者となる。大戦中は投獄されたが、戦後になってもその立場は一貫して変わらず、若い尖鋭な芸術家たちの精神的支柱となる。ミロ、デュシャンらとも交流。現在、『コレクション瀧口修造』を刊行中。

 

ドロテア・タニング

1913年、移民スウェーデン人の娘として、合衆国イリノイ州のげイルズバーグに生まれる。42年にジュリアン・レヴィ画廊でエルンストと出会い、46年に結婚。夢想的ヴィジョンを描くレアリスムから出発したが、しだいに地平の風景をもたぬ揺れ動く空間や、官能と野生にみちた幻の舞台へと移行した。パリおよびセイヤンに住む。

 

サルバドール・ダリ

1904年、スペインのフィゲーラスに生まれる。画家、著述家。未来派やキュビスムの段階をへたのち、29年ごろパリでシュルレアリスムに加わり、詩人たちから熱狂的に迎えられた。「偏執狂的批判的」方法の発明者である彼の絵は、アカデミックな技巧を駆使して幼児期的妄想を綿密に描き出す。のちに、たえざる自己宣伝とスキャンダリズムの結果もあって世界的な名声を得たが、ブルトンらシュルレアリストのグループからは除名された。戦後は原子物理学やカトリック教に色気を出す。カタルーニャのカダスケに妻ガラとともに住み、89年に没。

 

イヴ・タンギー

1900年にパリで生まれる。55年に合衆国コネティカット州のウッドベリーで死去。ブルターニュの家系の出で、この半島の風土、ケルト的想像界とのむすびつきを自覚。21年からプレヴェールらと知り合い、25年にはシュルレアリスムに参加、独学で驚くべき作品を描き続ける。39年には合衆国へ亡命して市民権を得、画家ケイ・セージとともにくらす。画家として、芸術におけるシュルレアリスムを代表するすばらしい連続的作品をのこして去ったが、それらは無意識および幼年期の深い源泉に汲み、なにか本質的なイメージの世界を現出させたものである。

 

・トリスタン・ツァラ

1896年ルーマニアのモイネシュテぃに生まれる。1963年にパリで死んだ。詩人だが、彼の名は概してダダ運動そのものと同一視される。事実、16年チューリヒでダダを創始し、そのもっとも活発な指導者となった。20年、パリにあらわれて「文学」誌グループとまじわる。この雑誌運動の延長であるシュルレアリスムからは最初ははなれた位置にいたが、28年に参加。だがのちにふたたび離脱して共産党に入党、抵抗運動にも加わった。その光彩陸離たる作品群はこんにち再評価されつつある。

 

・アンドレ・ティリヨン

1907年生まれ。24年ごろ、ナンシーでサドゥールやフェリーとつきあう。25年に共産党に入党、他方シュルレアリスムに強い関心をいだく。27年にパリに出てブルトンらと出会い、32年までシャトー通りに住む。「革命のためのシュルレアリスム」誌の時代に政治面で活躍し、その後はなれてゆく。88年、回想記『革命なき革命家たち』を発表。

 

・ロベール・デスノス

1900年パリ生まれ。45年、チェコスロヴァキアのテレジン収容所で死んだ。「オートマティスム」をはじめて実地に生きた詩人のひとり。みずから催眠術をかけて眠りに入り、口述記述によって驚くべきテクストを書き続ける。『自由か愛か!』(27年)など。長くシュルレアリスムの主力メンバーのひとりだったが、29年の抗争の末に運動を去り、ジャーナリズムの世界で活躍した。

 

・デュアメル、マルセル

1900年パリ生まれ。映画俳優にしてアメリカ文学の翻訳者。24年、シャトー通りに居をかまえ、プレヴェール、タンギーのグループを同居させる。行動のシュルレアリストである彼は、のちに「黒のシリーズ」を企画・編集した。77年に死す。

 

マルセル・デュシャン

1887年ノルマンディーのブランヴィルに生まれる。ジャック・ヴィヨンおよびレーモン・デュシャン・ヴィヨンとは兄弟である。1913年、旅行中のニューヨークで、『階段を降りる裸体』がスキャンダラスな成功をおさめる。第一次大戦後にパリにもどり、しばしばシュルレアリスムに協力。25年にとつぜん制作を停止し、以後さまざまな造型表象や言葉の遊戯などによって、芸術における「創造」の神話を失墜させてゆく。こうしてシュルレアリストたちからは現代芸術の鍵になる人物とみなされていたが、50年代に入って、とくに若い芸術家たちが彼の作品にあらたな魅力を見出すようになる。自分の活動について質問をうけたとき、彼は「私は呼吸器具である」と答えた。68年に死去。

 

・ジャン・ピエール・デュプレー

1929年ルーアンに生まれる。詩人でもあり、彼の書物『その影の背後に』はブルトンの序文を得た。冶金師となり、のちに彫刻をはじめる。59年にパリで自殺。

 

ポール・デルヴォー

1897年ベルギーのアンテーに生まれる。イタリア、フランスの旅行の途上、シュルレアリスムを発見。彼の絵は、16世紀のマニエリストたちの女性像や、アントワーヌ・ヴィールツの『美女のロジーヌ』や、キリコの柱廊や機関車などを、夢遊病者たつ裸婦の歩む想像世界のうちに統一している。運動には直接参加しないまま、シュルレアリスム展にしばしば出品。長くブリュッセルに住んだが、94年に没。

 

・エンリコ・ドナーティ

1909年ミラノ生まれ。34年から40年までパリに住む。合衆国に亡命してブルトンに会い、48年からシュルレアリスムに参加。オートマティスムを応用する彼の画風は、当時かなり清新なものであった。

 

・ルネ・ドーマル

1908年アルデンヌ生まれ。44年パリに死す。詩人にして作家、批評家、インド文学の研究者。15歳のころから「呪われた詩人たち」や隠秘学に興味をいだく。ランスの高等中学の友人ジルベール・ルコントやロジェ・ヴァイヤンとともに「ル・グラン・ジェ」誌をはじめ、シュルレアリストたちと接触。のちにアルプスの近くを転々とし、シュルレアリスム的な未完の小説『類推の山」をのこす。

 

・オスカル・ドミンゲス

1906年カナリア諸島のテネリーフェに生まれる。画家。35年からパリでシュルレアリスムに加わり、「デカルコマニー」の方法を創始。きわめて特異な「超現実的オブジェ」なども制作したが、58年の大晦日、パリで自殺。

 

クロヴィス・トルイユ

1889年ラ・フェールに生まれる。広告用の蝋人形をつくるかたわら、自己流のエロティックなタブローを描いていたが、30年シュルレアリストに発見される。しかしグループには加わらず、あくまで傍系のシュルレアリストとして、露骨な見世物風の夢想場面を構成しつづけた。75年没。

 

トワイヤン

1902年チェコスロヴァキアに生まれた女性画家、詩人。36年にプラハでシュルレアリスム集団を創立し、夫シュティルスキーとともに活動。第二次大戦下のプラハで深い苦悩を体験したが、『眠る女』などを描いたのちに、パリに移住。当地ではブルトンとそのグループにどこまでも忠実に、独特の優美な想像的世界をくりひろげていった。80年没。

 

・ピエール・ナヴィル

1903年パリの裕福な家庭に生まれる。「シュルレアリム革命」誌の編集委員として活動したが、27年に決別。以後もっぱら政治運動に身をゆだね、やがてトロツキーを支持、第四インターナショナルの創立に一役かう。シュルレアリスムと共産主義の接点にあった重要人物のひとり。妻ドゥニーズも忘れがたいそんざいである。

 

・ポール・ヌージェ

1895年ボルドー生まれ。詩人、エッセイスト。マグリット、メサンスとともにベルギー・シュルレアリスムの指導的存在。「ディスタンス」「コレスポンダンス」「マリー」「ドキュマン34」「レ・レーヴル・ニュー」などの雑誌に散逸していた彼の作品は、『笑わぬことの歴史』に集成された。1967年没。

 

・ヴィステラフ・ネズヴァル

1900年プラハに生まれる。詩人、チェコのシュルレアリスム運動の推進者のひとり。33年にパリでシュルレアリストたちと出会い、翌年プラハに集団をつくる。35年にはブルトンとエリュアールを招待する。38年からは方向を変え、共産党員として活動するようになった。58年没。

 

・マルセル・ノル

ストラスブールに生まれる。1923年ごろからグループと交流、24年の『シュルレアリスム宣言』では正式メンバーに加えられている。「シュルレアリスム革命」誌にも自動記述や夢物語を発表、27年にはジャック・カロ通りに「シュルレアリスム画廊」を開設するなどしているが、32年にアラゴンを支持して運動からはなれる。

 

・エンリコ・バイ

1924年ミラノに生まれる。51年ごろ「核運動」グループの一員として出発し、59年のシュルレアリスム国際展を機に運動に加わる。ガラスや布や木材などを縦横に用い、既成の風景画や静物を転置して独特の想像世界をつくる。

 

・インドリヒ・ハイズレル

1914年クラスト生まれ。53年パリに死す。トワイヤン、シュティルスキーとならぶチェコ出身の代表的シュルレアリスト。38年プラハのシュルレアリスム集団に加わり、47年にはパリに移って、翌年から雑誌「ネオン」を編集。

 

・オクタビオ・パス

1914年メキシコ生まれ。今世紀の同国を代表する詩人、批評家。31年、シュルレアリスムの影響下に前衛雑誌「バランダル」を創刊、詩を発表しはじめる。37-38年にヨーロッパを旅し、ブニュエルやデスノスと出会う。メキシコではペレやカリントンとも交流。戦後にはパリでブルトンと親密な関係をむすび、一時シュルレアリスムのグループに協力。

 

・モーリス・バスキーヌ

1901年ロシアのハリコフに生まれる。神秘思想家でもあり、「ファンタゾフィー」を創始した。46年から51年にかけてシュルレアリスムに協力。奇怪な象徴的絵画を描き、ブルトン『秘法17』の豪華本にエッチングを添えた。

 

・ジョルジュ・バタイユ

1897年ビロンに生まれる。今世紀西欧を代表する、だがきわめて特異な思想家、作家。異常な少年期をおくったのち、パリで国立古文書館に勤める。1920年代にはシュルレアリスムを羨望しつつ批判し、29年創刊の「ドキュマン」誌で論陣を張る。30年代なかばにはブルトンとも協調関係をもったが、37年に「社会学研究会」を組織してシュルレアリスムの脱退者を集める。強力な「敵対者」の位置を占めたが、晩年にはブルトンとのあいだに相互理解があったといわれる。62年没。

 

バルテュス

1908年パリに生まれる。画家。バルタザール・クロソフスキー・ド・ローラが本名で、作家ピエール・クロソフスキーの弟。直接シュルレアリスム運動に加わったことはないが、34年の最初の個展がブルトンらに注目され、「ドキュマン34」や「ミノトール」誌などを通じて紹介された。幼児性と虚妄性が顕著な、沈黙にみちたエロティックな画面を構成し続けている。

 

ヴォルガング・パーレン

1907年ウィーン生まれ。59年にメキシコで自殺した。画家、エッセイスト、理論化であり、最初アブストラクトの段階を踏んでいたが、30年から41年までシュルレアリスム運動に加わる。フランス、ドイツ、イタリアで学んでから39年までパリに住み、以後メキシコに移ってシュルレアリスム的な雑誌「ディン」を創刊。火焔でカンバスを焦がす「フュマージュ」の発明者でもある。

 

・ジャック・バロン

1905年パリに生まれる。17歳にして運動に加わり、シュルレアリスム詩人の秘蔵っ子といわれる。アポリネールの影響いちぢるしい『アリュール・ポエティック』(25年)は、のちに『海の木炭』(49年)へと発展した。

 

・シモン・ハイタイ

1922年ハンガリーのビアに生まれる。49年にはパリで、シュルレアリスムの影響下に、特異な幻想的人物像を描き始める。しばらく孤独な生活をおくっていたが、52年にブルトンらに迎えられる。しかしそれ以後、彼はむしろジョルジュ・マテューのグループに接近し、55年にシュルレアリスムを離れた。

 

・アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ

1909年パリに生まれる。考古学をおさめてのち作家活動に入る。早くからシュルレアリスムに共感をもち、47年には運動に参加したが、むしろ超然とした位置にあることを好み、しだいに直接活動からは遠ざかる。「驚異」と「異様」、黒いユーモアと残酷なエロティスムにみちた彼の小説は、現代幻想文学の最高峰のひとつをなす。美術・文学批評にも優れたものがある。95年没。

 

パブロ・ピカソ

1881年スペインのマラガに生まれる。ブルトンの『シュルレアリムスと絵画』によって芸術家の頂点にある者とされ、1938年ごろまでシュルレアリスムの一員とみなされる。彼自身シュルレアリスム「グループ」の集会にはしばしば参加し、その大きな影響をうけている。戦後には共産党員となって批判を浴びる。その生涯と作品については、ローランド・ペンローズの『パブロ・ピカソ』(58年)などがある。73年に没。

 

フランシス・ピカビア

1879年キューバの外交官の子としてパリに生まれ、1953年同地で死んだ。その名はダダおよびシュルレアリスムと切り離すことができない。はじめ、13年ニューヨークのアーモリー・ショーに出品、つづいてツァラやアルプと知り合い、19年にはパリにもどってシュルレアリストたちとまじわる。現代芸術におけるさまざまな新傾向の先駆者だったが、彼自身はけっして一派の一手法のみにとどまらない。詩人、画家であり、意想外でしかも優美なふるまいに出る「ダンディー」でもあった。彼の影響をうけた芸術家や詩人の数はいやましている。

 

レオノール・フィニ

1908年アルゼンチンに生まれた女性画家。両親はトリエステ人。退廃的な魔術の画家であり、レズビアン的幻想家であり、すでにラファエル前派に滞在していた「超現実化」の傾向を再現してみせる。パリに住み、96年に死す。

 

ルイス・ブニュエル

1900年スペインのカランダに生まれる。20年パリに出て音楽などを研究していたが、28年にはシュルレアリスムのグループとまじわり、その理論と志向に刺戟されて最初の映画を制作する。『アンダルシアの犬』(28年)、『黄金時代』(30年)がそれであり、「シュルレアリスム映画」の衝撃と名声を世界に広めた。のちにメキシコに渡り、晩年はフランスでも映画を撮ったが、いずれの作品にもシュルレアリスムの刻印がある。83年メキシコで没。

 

・ジャン・ブノワ

1922年カナダのケベックに生まれる。47年以後、妻のミミ・パランとともにパリに住む。寡作の画家であるが、絵画ならぬイヴェント『サド侯爵の遺言執行式』(49-50年)によって一躍注目されるようになる。59年、シュルレアリスムに参加。

 

・プラシノス、ジゼール

1920年イスタンブールに生まれる。14歳のときブルトンに発見され、「ミノトール」および「ドキュマン34」誌上に数篇の詩が紹介された。15歳で最初の詩集を出版、のちにいくつかの小説を書く。その初期作品は「詩人だれもが彼女をねたむ」といわれた。

 

・テオドール・フランケル

1896年パリに生まれる。1964年に死す。精神病医。高等中学時代からブルトンの同級生であり、ともにパリ大学の医学部に進む。「文学」誌、ダダ、初期シュルレアリスムの時代を通じて交友をつづけ、各運動の貴重な目撃者であったが、彼自身は文学的活動を好まず、作品はなにものこしていない。妻ビアンカとバタイユの妻、マッソンの妻とは姉妹であった。

 

アンドレ・ブルトン

1896年オルネ県のタンシュブレーに生まれる。詩人、エッセイスト、オブジェ作家であり、シュルレアリスム最大の理論化である。パリの初期ダダ運動において重要な役割をはたしたが、21年ツァラおよびダダと決別。24年に『シュルレアリスム宣言』を起草して以来、この運動の理論的支柱となる。『ナジャ』(28年)や『シュルレアリスムと絵画』(同)、『通底器』(32年)や『狂気の愛』(37年)など、その多くの著作は青春の活気をよびおこし、現代の芸術、文学、美学および倫理に絶大な影響をおよぼした。第二次大戦中にはニューヨークに亡命、46年にパリにもどってからも運動をつづけ、正統シュルレアリスムの最高具現者としてその聖堂を守り続けたが、66年にパリで死去。

 

・ジャック・プレヴェール

1900年パリに生まれる。25年、弟のピエールや友人のデュアメル、タンギーらとともにシュルレアリスムに参加、32年に離反した。言葉の自由奔放さと、日常生活のなかに驚異を見出す鋭い感覚によって、その詩は当代のもっとも豊かなものに数えられる。また俗謡や映画のなかにシュルレアリスムを導入。たとえば、マルセル・カルネが監督した彼のシナリオに、『天井桟敷の人々』『悪魔が夜来る』などがある。77年没。

 

・ピエール・プレヴェール

1906年パリに生まれる。ジャックの弟で、おなじく映画制作に従事するが、その作品には驚異とユーモアとの遭遇があり、シュルレアリスムが生かされている。『さらばレオナール』『大クラウスと小クラウス』など。

 

・ヴィルヘルム・フレディー

1909年コペンハーゲンに生まれる。おそらくデンマークにおける最初のシュルレアリスム画家。彼の展覧会は毎回スキャンダルの種をまいているが、とくに「超現実的オブジェ」の奔放な表現には見るべきものがある。47年のシュルレアリスム国際展などにも参加した。

 

ヴィクトル・ブローネル

1903年ルーマニアのピエトラ・ナムツに生まれる。画家、彫刻家。25年にパリに出て、キリコやシュルレアリスムの画家たちの影響をうける。32年にタンギーの紹介で運動に参加。当時、片目の自画像を描いたが、38年にドミンゲスらとの喧嘩のさいにその片目を喪失。個人的な妄想と、集合的無意識の産物とおぼしい象徴的イメージの総合を追求しつづけ、すこぶる特異な絵画世界の実現にいたる。66年没。

 

・デヴィッド・ヘア

1917年ニューヨークに生まれる。画家であり、オートマティスムをよりどころとする。第二次大戦中、ニューヨークに亡命してきたシュルレアリストたちを迎え入れ、ブルトン、デュシャンとともに雑誌「W」を創刊。「ケミカル・ペインティング」(42年)などの方法でも知られる。

 

ハンス・ベルメール

1902年ポーランドのカトーヴィツェに生まれる。画家、素描家、写真家。変形可能のフェティッシュ的オブジェ「人形」の作者。36年にナチスをのがれてパリに移住し、シュルレアリスムに参加。戦後は妻ウニカ・ツュルンと悲劇的な生活をおくる。彼の数多いデッサンには、固有の心理的・性的発想が示されていた。75年没。

 

・バンジャマン・ペレ

1899年ナント近郊のレゼに生まれる。1959年にパリで死んだ。シュルレアリスム運動を代表する詩人のひとりであり、生涯を通じて忠実なシュルレアリスムの使徒だった。幻想味と挑戦的態度に柔和な性格の入り交じる彼の作品は、日常言語から汲まれた尽きせぬイメージの花火であり、シュルレアリスムの定義に合致するものでもある。革命の闘士としての一徹な態度もまた同様であった。ピエール・ナヴィルとともに、「シュルレアリスム革命」の最初の編集人をつとめる。スペイン内乱時には反フランコ軍に参加。第二次大戦中はメキシコにわたり、2つの重要な『アンソロジー』の著者となる。

 

・ローランド・ペンローズ

1900年ロンドンに生まれる。26年からピカソ、エリュアール、エルンストと知り合い、イギリスにおけるシュルレアリスムの指導的存在となる。詩人、写真家、画家でもあり、きわめて特異なコラージュをつくる。83年没。

 

・ジャック・アンドレ・ポワファール

1902年生まれの写真家、画家、詩人。21年に「固ゆで卵」詩のグループの中核となり、34年にシュルレアリスム運動に参加。もともと医学生だったが、マン・レイの助手となって写真の道に入る。「シュルレアリスム革命」誌に協力しつづけるが、29年にはブルトンと対立し、以後グループを離れた。61年没。

 

ルネ・マグリット

1898年ベルギーのレシーヌに生まれる。1925年ごろから幻想に没頭していたが、27年にパリのシュルレアリストたちと知り合って以来、異常なものへの感覚をさらに強め、人関関係では対立のあったものの、生涯シュルレアリスムの表現思想に忠実だった。人を面くらわせるような彼の作品の形而上的性格は、「神秘の巨匠」の名に恥じない。単純で正確な絵画表現をもって、事物をその日常的な意味から引き離し、本質的存在いおいて復元するべくつとめる。エルンストやタンギーとともに、シュルレアリスムの生んだ偉大な「描写派」のひとりである。67年没。

 

アンドレ・マッソン

1896年オワーズのバラニーに生まれる。1922年にミロと親交をむすび、つづいてランブール、バタイユ、レーリスと知り合って、24年、シュルレアリスム運動における最初の画家のひとりとなる。彼のオートマティックなデザインは、ほとんど毎号のように「シュルレアリスム革命」誌を飾った。のちに「存在の神話学」「生贄」など、多分に形而上的な探求に没頭し、大きな成果をあげる。87年没。

 

・マッタ

1911年チリのサンティアゴに生まれる。35年からパリでル・コルビジエの建築アトリエにいたが、38年にブルトンとシュルレアリストたちに認められ、運動に加わる。第二次大戦中はニューヨークに移住し、45年から48年までのあいだ、その混沌としたオートマティックな宇宙的画面の表現によって、海外におけるシュルレアリスムの革新者の地位を築く。のちちにその作品は一種の革命的政治観がくわわる。

 

・ピエール・マビーユ

フランスのエッセイスト、医学者(1902-52)。「ミノトール」誌の時期にシュルレアリスムに接近、同誌上で清新な芸術論を展開した。多分に神秘的な傾向をもち、知られざる「不思議」作家の系列を発掘・研究する。

 

・ロール・マリー

パリに生まれる。夫のシャルル・ド・ノアイユ子爵とともに、シュルレアリスムをはじめて支援し、世に紹介したメセナのひとり。彼女の絵は驚異の小径を歩んでいる。

 

ドラ・マール

ユーゴラスビア生まれの写真家、画家。一時マン・レイの助手にしてモデル。1935年から37年にかけてシュルレアリスムを通過したころには、のちに孤独な隠遁生活は予想されなかった。修道女のように神秘体験を追い、俗世との交渉を経つ。

 

・ジョルジュ・マルキーヌ

画家、詩人(1898-1969)。ロシア人とデンマーク人のヴァイオリニストの子としてパリに生まれる。24年、最初の運動参加者のひとりとなって、ブルトンらとまじわる。俳優、校正係、旅芸人など、数多くらの職人をもった。のちに合衆国に移り、絵を描き続ける。「行動のシュルレアリスト」の一典型かもしれない。

 

・アルベルト・マルティーニ

1876年オデルツォに生まれる。1954年ミラノの死す。24年パリに出てエルンスト、マグリット、ピカビアらと交流。以後シュルレアリスムの影響下に制作をつづけたが、彼の画風はむしろ現代マニエリストの一方の極を示している。

 

・ジョイス・マンスール

1928年イギリスのバウデンに生まれる。エジプト人の女性詩人、小説家。53年ごろ、パリでブルトンと出会って認められ、運動に参加。以後その残忍なエロティスムと、夢幻イメージの爆発によって(『充ち足りた死者たち』)など)、特異な詩的世界を形成する。86年没。

 

ジョアン・ミロ

1893年スペイン・カタルーニャのモンロッチで生まれる。画家として出発し、1917年にバルセロナでピカビアと出会う。24年パリでシュルレアリストたちとまじわり、『宣言』にも署名。25年にはピエール画廊での最初のシュルレアリスム展に参加し、以来この運動の代表的な画家のひとりとなった。彼のオートマティックな絵は、謎めいた世界のなかの人間の謎めいたい心理状態とかかわりをもち、つぎつぎに出現する斑点によって新しい現実を生起せしめる。形態と色彩におけるその全き自由は、つねに幼年期の自然な感動にむすびついてたものである。晩年はマジョルカ島のパルマに住み、83年に没する。

 

・E・L・T・メサンス

1903年ブリュッセルに生まれる。はじめ作曲家、つづいて詩人、コラージュ画家となり、マグリットとともにベルギーのシュルレアリスムを主導する。その作品は洗練と諧謔味をそなえている。ロンドンで活動し、71年に死去。

 

・マックス・モリーズ

1903年パリに生まれる。シュルレアリスムの初期メンバーのひとりで、とくに「シュルレアリスム革命」創刊号に書いたエッセー「魅せられた眼」は、シュルレアリスム絵画を語る最初の文章のひとつ。29年に脱退。77年に没。

 

ピエール・モリニエ

1900年アジャンに生まれる。特異な偏執的手法をもって、もっぱらエロティスムを探究していた画家。54年からシュルレアリストと交流し、最初の展覧会にはブルトンの序文を得た。ボルドーを拠点とし、密室にこもって女装写真を撮る。76年、ピストル自殺。

 

・ヴァランティーヌ・ユゴー

1888年ブーローニュ・シュル・メールに生まれる。女性画家、夢幻的な挿絵や肖像画の作者。はじめロシア・バレエ団などに協力していたが、28年からブルトン、クルヴェル、エリュアールらと親しくつきあう。68年に没。

 

・ジョルジュ・ユニェ

ブルターニュとロレーヌの血を引く詩人、劇作家、批評家、装幀家(1906-74)。幼児をアルゼンチンですごし、パリへ出てマックス・ジャコブらとつきあう。26年にシュルレアリスムに加わり、とくに画家たちと交流。数々の書物・オブジェの装幀によって一領域を招いたが、41年ごろ、政治的見解の相違のゆえに離脱。74年に死去。

 

・ラウル・ユバック

1910年ベルギーのマルメディに生まれる。34年から38年にかけてシュルレアリスムに加わり、「ミノトール」誌に注目すべき「ソラリザシオン」を発表。ブニュエルの映画に協力したこともある。写真家であり、のちには画家となって「コブラ」運動に参加。85年没。

 

・フェリックス・ラビッス

1905年ドゥエに生まれる。画家にして悪魔学研究家。架空の愛をうたう絵物語の構成や、芝居、オペラ、バレエの舞台装置もする。シュルレアリスムのグループに加わったことはないが、エリュアール、デスノス、プレヴェールらに認められ、その名を知られるようになる。82年没。

 

・ヴィフレド・ラム

1902年キューバのサグアに生まれた。画家。父は中国人、母はアフリカ系黒人とインディオと白人との混血。24年スペインに渡り、37年にはパリへ出てピカソに評価される。38年からシュルレアリスムに加わり、40年、ブルトンの『全き余白」に挿絵を描く。彼の「ジャングル」や「アイドル」には、原始の激しさがそのまま生き生きと体現されており、自然と神話の入り交じる精妙なポエジーの世界を呈する。82年没。

 

・ジョルジュ・ランブール

1901年ルアーヴルに生まれる。マッソン、レーリス、バタイユ、クノーの友人として、22年、初期シュルレアリスムのグループに加わった。稀有な美しさをもつ詩的散文集『栄ある白馬』をのこしたが、29年に決別。小説『ヴァニラの木』も忘れがたい。

 

・ジャック・リゴー

1899年パリに生まれる。1929年に自殺。「文学」グループの一員であり、「シュルレアリスム革命」にも協力した。自殺を「天職」とし、シニカルで辛辣なユーモアと、隠されることで逆に挑戦と化してゆく絶望を体現していたが、これらはダンディスムによって救われることのない、第一次大戦後の青年に特有のものであった。

 

・マルコ・リスティッチ

1902年ベオグラードに生まれる。ユーゴスラヴィアのシュルレアリスム運動の推進者のひとり。22年から前衛雑誌活動をはじめ、「文学」誌に紹介される。26年にパリに出てブルトンと出会う。32年にはベオグラードで「不可能」誌を発行、「シュルレアリスム、今日、ここに」をも出版したが、33年、苛酷な検閲にあって当地の運動は解体する。

 

ディエゴ・リベラ

1886年メキシコに生まれる。画家、ヨーロッパで学び、帰国後は土着の民衆文化をといれて制作。妻のフリーダ・カーロとともに亡命中のトロツキーを擁護し、ブルトンとも親しく交流。38年、この両巨頭の共同声明「独立革命芸術のために」の代理署名者となった。

 

リュカ、ゲラシム

1913年ブカレストに生まれる。詩人、コラージュ作家。30年ごろから当地で前衛的活動をはじめ、38年にはパリに出てシュルレアリストたちと交流。戦後の45年、ルーマニアのシュルレアリスム運動を指揮する。52年にはパリに定住し、エロルドと共作などしていたが、94年、セーヌに身を投げて死す。

 

・ジャック・ル・マレシャル

1928年パリに生まれた画家。60年、ブルトンによって称賛され、その混沌とした都市画像が注目を集める。以後、独立不遜の精神をもって、情熱的な画風を保持。

 

マン・レイ

1890年フィラデルフィアに生まれる。合衆国におけるダダ、シュルレアリスムの先駆者、推進者。1915年にデュシャンやピカビアと知り合い、22年にはパリに出て「文学」の詩人たちと交流。稀有な画家、オブジェの発明家、写真家、映画作家、回想記作家であり、その作品は現代芸術のもっとも豊かな所産のひとつに数えられる。とくに彼の多領域にわたる写真の数々は、当代の文学および芸術の歴史のこのうえもない挿絵となるであろう。第二次大戦中は帰国したが、戦後はまたパリにもどり、76年に死去。

 

・ミシェル・レーリス

1901年パリに生まれる。作家、批評家、人類学者。ジャコブ、ピカソ、ルーセルらと知り合い、25年からシュルレアリスムに参加。夢の記述や「語彙集」の作者であるが、彼がこんにちのフランス文学に占める高い地位は、『遊戯の規則』シリーズにあらわれる「日常生活の現象学」によるものだろう。90年没。

 

・パトリック・ワルドベルグ

1913年合衆国サンタ・モニカに生まれる。美術批評家。41年、妻の彫刻家イザベル・ワルドベルグとともにニューヨークに亡命中のブルトン、エルンストらと出会う。戦後はフランスに定住してシュルレアリストと交流、51年の「カルージュ事件」以後は離反した。シュルレアリスムに対しては批判的でありつつ、その知見の広さをいかして多くのモノグラフィーを書く。85年没。

シュルレアリスム年表


※ワルドベルグによる年表。シュルレアリスム運動そのものはブルトン死後もつづいてゆくのだが、それがじつはアンドレ・ブルトンの存在と一体をなすものだったとする見方もなりたつだろう。年表の次のページに唐突に現れるブルトンの子どものころの写真が暗示的である。したがって、ここではシュルレアリスム=ブルトンと定義し、1966年以後の出来事を増補することはしない。

 

1916年 ・アンドレ・ブルトン、ナントでジャック・ヴァッシュと出会う
1917年 ・ブルトン、パリでギヨーム・アポリネールと交流。ルイ・アラゴンやフィリップ・スーポーを織る。
1918年 ・ギヨーム・アポリネール死す。
1919年 ・ジャック・ヴァシェ死す。
・ブルトンとスーボー、「自動記述」をはじめる。
・雑誌「文学」創刊。アラゴン、ブルトン、スーポーの三人による編集。
・ポール・エリュアールが加わる。
・「文学」の三人がパリのフランシス・ピカビア邸を訪問。
1920年 ・トリスタン・ツァラがパリに来て、フランシス・ピカビアと合流。ダダ運動のさまざまなデモンストレーションをおこなう。アラゴン、ブルトン、スーポーも参加。
1921年 ・マックス・エルンストの「コラージュ」展、パリのオ・サン・パレイユ画廊にて。
・ブルトン、ティロルでエルンストと会う。ウィーンにジクムント・フロイトを訪問。
1922年 ・「文学」誌の周辺に、ロベール・デスノス、ルネ・クルヴェル、ロジェ・ヴィトラック、ジョルジュ・ランブール、ジャック・バロンらが集まる。
・「眠りの時代」。交霊術や催眠術によって、デスノス、クルヴェルらが眠ったまま語り、書く。
・マン・レイ、エルンストのパリ到着。彼らもグループに加わる。
・アンドレ・マッソンの「四元素」。ランブールを通じて未来のシュルレアリストたちに紹介される。
・マルセル・デュシャン、「彼女の独身者たちによって裸にされた、花嫁さえも」の制作停止。
1924年 ・ジョアン・ミロ、「耕された土地」や「アルルカンの謝肉祭」を描く。マッソンを通じて彼も「文学」グループに加わる。
・アントナン・アルトー、ジョルジオ・デ・キリコ、フランシス・ジェラール、マティアス・リュベック、ジョルジュ・ランブール、マックス・モリーズ、ピエール・ナヴィル、レーモン・クノー、そのほかが新しく加わる。
・ブルトン、「シュルレアリスム宣言-溶ける魚」を発表。
  ・機関誌「シュルレアリスム革命」創刊。パリにシュルレアリスム研究所を開設。所長はアルトー。
・アナトール・フランスの死にさいして、侮辱的なパンフレット「死骸」を発行。
・マルコ・リスティッチの指揮で、ユーゴスラヴィアにシュルレアリスム集団おこる。
1925年 ・ミシェル・レーリス、ジャック・プレヴェール、イヴ・タンギー、マルセル・デュアメル、ピエール・ブラッスールらの参加。
・26人のシュルレアリストたちの署名による「1925年1月27日の声明」。
・詩人、在日本大使ポール・クローデルの反動的態度を告発するパンフレット。
・パリのカフェ・クロズリー・デ・リラでの「サン-ポル-ルー祝賀会」の席上、反愛国主義的デモンストレーション。
・最初のシュルレアリスム展がひらかれる。パリ、ピエール画廊。
・エルンストによる最初の「フロッタージュ」作品集『博物誌』刊行。パリ、ジャンヌ・ビュシェ画廊に展示。
・「シュルレアリスム革命」グループが極左「クラルテ」グループと接近。
1926年 ・集団遊戯「甘美な死骸」がシャトー通りではじまる。
・マン・レイの映画『エマク・バキア』。
・ベルギーでルネ・マグリット、E.L.T.メサンス、ポール・ヌージェ、ルイ・スキュトネール、マルセル・ルコント、カミーユ・ゴマーンらがシュルレアリスムに接近。
1927年 ・ブルトンほか数名が共産党に入党。ただしブルトンはまもなく失望して脱退。
・政治論争さかん。スーポーとアルトーはシュルレアリスムを離れる。
・シュルレアリスム画廊(マルセル・ノル主催)、パリに開設。
1928年 ・ブルトン『ナジャ』『シュルレアリスムと絵画』刊行。
・マン・レイとデスノスによるシュルレアリスム映画『ひとで』。
・ルイス・ブニュエルのシュルレアリスム映画『アンダルシアの犬』。サルバドール・ダリが協力。
・シュルレアリストの一部が雑誌「大いなる賭」一派(ロジェ・ジルベール-ルコント、ルネ・ドーマル、ロジェ・ヴァイヤン、ジョゼフ・シマ、モーリス・アンリほか)と交流。
1929年 ・バロン、ランブール、マッソン、ナヴィル、プレヴェール、クノー、ヴィトラックらの離反。「ドキュマン」誌のジョルジュ・バタイユ周辺に集まる者あり。
・ブニュエル、ダリ、ルネ・シャール、ジョルジュ・サドゥール、アンドレ・ティリヨンなどが参加。
・ツァラとブルトンとの和解。
・チェコスロヴァキアにシュルレアリスト集団が生まれる。ヴィテスラフ・ネズヴァル、インドリヒ・シュティルスキー、トワイヤン、カレル・タイゲ。
・ジャック・リゴーの自殺。
1930年 ・ブルトン『シュルレアリスム第二宣言』を刊行。
・雑誌「革命のためのシュルレアリスム」創刊。
・デスノスの脱退。離別派によるブルトン弾劾のパンフレット「死骸」が発行される。
・モンパルナスのパー・マルドロールの開店に反対して、シュルレアリストたちの暴力沙汰。ルネ・シャールが負傷。
・ジャン・コーペンヌとサドゥールが、サン・シール兵学校の一生徒に脅迫状を送る。出版界は激怒してシュルレアリスム締めだしをはかる。サドゥールは3ヶ月間の禁錮刑を宣告される。
・ブニュエルの映画『黄金時代』、パリのステュディオ21にて上映。右翼が殴りこんで映画スクリーンと会場に展示されていた絵をめちゃくちゃにする。
・シュルレアリストたちによる「象徴的機能をもつオブジェ」の制作。
1931年 ・アルベルト・ジャコメッティが参加。
・シュルレアリストたちは、コミュニストによる「革命的作家芸術家連盟」(AEAR)
1932年 ・アラゴン、ハリコフの作家会議に参加して帰国後、シュルレアリスムと決別して共産党に入る。
・このころ、ヴィクトル・ブローネル、ロジェ・カイヨワ、モーリス・アンリ、メレ・オッペンハイム、アンリ・パストゥーロー、ギー・ロゼー、アルテュール・アルフォー、ジョルジュ・ユニェ、マルセル。ジャンなどが加わる。アンティル諸島でも、ジュール・モヌロを中心に作家集団ができる。
1933年 ・ブルトン、AERAから批判をあびる。
・シュルレアリストたちを中心とする豪華な美術雑誌「ミノトール」が創刊される。
・サロン・デ・シュルアンデパンダンで、シュルレアリスムのグループ展。ヴァシリー・カンディンスキーが招待出品。
1934年 ・ジョルジェ・エナン、エジプトでシュルレアリスト集団を指揮する。
・シュルレアリストたちは、父親殺しの死刑囚ヴァイオレット・ノジエールにオマージュをささげる。
・ブリュッセルで「ドキュマン34」の特集号、「アンテルヴァンシオン・シュルレアリスト」発行。
・ジャック・エロルド、ジゼール・プラシノス(14歳)、ドラ・マール、レオ・マレの参加。
・リヒアルト・エルツェ、パリでシュルレアリストたちと接触。
1935年 ・ヴォルフガング・パーレンとハンス・ベルメールが加わる。
・パブロ・ピカソとの親密な交流。ピカソのの彫刻、詩篇。
・コペンハーゲンとカナリア諸島のテネリーフェで、シュルレアリスム国際展。
・ブルトン、シュルレアリスムを侮辱したイリア・エレンブルグに平手打ちをくらわす。そのためコミュニストの主催する「文化擁護のための世界作家会議」に出席を拒否される。
・それに関連して、ルネ・クルヴェルの自殺。
・プラハで「シュルレアリスム国際ビュルタン」創刊。
・オスカル・ドミンゲス、ピエール・マビーユ、ジャック・B・ブリュニウスが加わる。
・ブリュッセルで「シュルレアリスム国際ビュルタン」第三号を発行。
・ブルトンとバタイユの一時的接近。「コントル・アタック」運動。これは「革命的知識人による反ファシズム共闘連盟」であった。
1936年 ・オスカル・ドミンゲスによる「あらかじめ対象を想定しないデカルコマニー」。
・モスクワ裁判を非難するパンフレット発行。
・最初の「オブジェ・シュルレアリスト」展。パリ、シャルル・ラットン画廊。
・東京で山中散生らの「エシャンジュ・シュルレアリスト」。
・ローランド・ペンローズの指揮下に、ロンドンでシュルレアリスム国際展。アイリーン・エイガー、ヒュー・S・ディヴィーズ、デヴィッド・ガスコイン、ハンフリー・ジェニングズ、ヘンリー・ムーア、パウル・ナッシュ、ハーバード・リードらの参加。「シュルレアリスム国際ビュルタン」第四号を発行。
1937年 ・アルトー、ロデスの精神病院に入る。
・クルト・セリグマンが加わる。
・パーレンによる「フュマージュ」の実験。
・ブルトン、パリにシュルレアリスム画廊「グラディーヴァ」を開設する。
・東京で瀧口修造らが『アルバム・シュルレアリスト』を刊行。
1938年 ・パリのボザール画廊にて、シュルレアリスム国際展。
・ロベルト・マッタ・エチャウレンが加わる。
・ペンローズとメサンスによる雑誌「ロンドン・ビュルタン」が創刊される。
・メキシコでブルトンとレオン・トロツキーによる宣言「独立革命芸術のために」。
・アムステルダムにて、シュルレアリスム国際展。
・エリュアールの離別。彼はまもなく共産党に入党し、アラゴンと合流した。
・ダリの追放。ファシズムへの傾倒と金銭崇拝、スキャンダル主義などがその理由だった。
1939年 ・ブルトンとリベラ(トロツキー)の提唱による「独立革命芸術家国際連盟」(FIARI)の機関誌「鍵」が創刊される。
・タンギーとマッタ、アメリカ合衆国へ。パーレン、メキシコへ。
1940年 ・ヴィフレド・ラムの参加。ピカソの紹介による。
・メキシコにて、シュルレアリスム国際展。
・ドイツ軍がパリを占領。シュルレアリストたちはマルセーユに集まり、特製タロット・カード「ジュ・ド・マルセーユ」をつくる。
1941年 ・シュルレアリストたちの亡命、ブルトン、マッソン、エルンストは合衆国へ。ペレはメキシコへ。
・マルティニックにて、エメ・セゼールの指揮するアンティル諸島のシュルレアリスム機関誌「トロピック」創刊。
・ブカレストにシュルレアリスム集団誕生。ゲラシム・リュカ、トロストほか。
・占領下のパリでシュルレアリストたちの地下活動。エリュアール、アンリ、ドミンゲス、ラウル・ユバック、ノエル・アルノー、J・F・シャブラン、エロルド、レオ・マレ、ユニェ。
・ニューヨークで、ロベール・ルベル、パトリック・ワルドベルグ、デヴィッド・ヘアらがシュルレアリスムに加わる。
1942年 ・雑誌「VW」(トリプル・ヴェ)の第一号、ニューヨークで発行。デュシャン、ブルトン、エルンスト、ヘアによる。
・雑誌「ディン」の第一号、メキシコで発行。パーレンによる。
・ニューヨークでシュルレアリスム国際展。
・エルンスト、ニューヨークでドロテア・タニングと出会う。
1943年 ・ポール・ヌージェ『ルネ・マグリットまたは禁じられたイメージ』刊行。ブリュッセル。
・セリグマン、アメリカでシュルレアリスムと決別。
・ロジェ・ジルベール-ルコントの死。
1944年 ・ピカソ『尻尾をつかまれた欲望』、パリのレーリス家で朗読。
・ニューヨークでブルトンがアーシル・ゴーキーを発見。
・ルネ・ドーマルの死。未完の小説『類推の山』が残される。
・シャルル・デュイの加入。
・マティアス・リュベック、ナチスに人質としてとらえられ、銃殺される。
1945年 ・ペレ、『詩人の不名誉』をメキシコで出版。これはフランスでの地下抵抗運動から生まれたエリュアール、アラゴンらの「政治参加」詩を攻撃するパンフレットだった。
・チェコのテレジン捕虜収容所に送られていたデスノス、チフスに感染して死す。
1946年 ・ブルトン、パリにもどる。シュルレアリスム運動再開の準備。
・アルトー、ロデスの精神病院を出る。
1947年 ・「即位式の決裂」。共産党に対するシュルレアリスムの不信をふたたび表明した集団宣言。
・ブルトンとその友人たちは、シュルレアリスムに反対するツァラの講演を妨害する。
・シュルレアリスム国際展、パリ、マーグ画廊。
1948年 ・ペレ、パリにもどる。
・インドリヒ・ハイズレルにより、シュルレアリスム機関誌「ネオン」を創刊。
・シュルレアリストたち、ガリー・デイヴィスの「世界市民」運動に協力。
・マッタとブローネルが除名される。
・プラハ、つづいてチリのサンティアゴで、シュルレアリスム国際展。
・反宗教的パンフレット「神の犬ども犬小屋に帰れ」。
・アントナン・アルトー死す。
・アーシル・ゴーキー、アメリカで自殺。
1949年 ・ジャン-ピエール・デュプレーが加わる。
・チリのシュルレアリスム運動を指揮していたホルヘ・カセレスの死。
1950年 ・『半世紀シュルレアリスム年鑑」刊行。ラ・ネフ、パリ。
・アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの参加。
・文学賞に反対するジュリアン・グラックのパンフレット「胃袋つき文学」発行。
・ダリ、カトリックに改宗。
1951年 ・マックス・ヘルツァーにより、ウィーンで『シュルレアリスム出版物』を刊行。
・オクタビオ・パス『鷲か太陽化』を出版。メキシコにて。
・ミシェル・カルージュ事件。このカトリックの批評家はある司祭館の会議場で講演しようとした。一部シュルレアリストたち(アドルフ・アケル、モーリス・バスキーヌ、アンリ、エロルド、ルベル、パストゥーロー、セーグル、ワルドベルグ)はそれを妨害しようとしたために除名。
・ブルトン、そのカルージュと決別。
・ピエール・ド・マンディアルグ、批評家賞をうける。
・ジュリアン・グラック、ゴンクール賞受賞を拒否する。
・ロジェ・ヴィトラックの死。
1952年 ・シュルレアリスム、アナーキスト連盟の機関誌「リベルテール」に協力。
・ザールブリュッケンにて、エドガー・イェネの組織による「ヨーロッパのシュルレアリスム絵画」展。
・ポール・エリュアールの死。
1953年 ・タンギー、しばらくパリにもどる。
・集団遊戯「たがいのなかに」。参加者同士の「相互浸透」をひきおこすゲームだった。
・インドリヒ・ハイズレルの死。
1954年 ・ガリア芸術に対するシュルレアリストたちの関心が高まる。
・ジョイス・マンスールの参加。
・アルジェリア戦争に抗議するパンフレットを発行。
・フランシス・ピカビアの死。
1955年 ・ヴィネツィアのビエンナーレにおいて、エルンストが絵画大賞、アルプが彫刻大賞、ミロが版画大賞をうける。エルンストのみシュルレアリスムから除名された。
・イヴ・タンギー、アメリカで死す。
1956年 ・ソヴィエトの独裁に反対するブダペストの大衆蜂起をたたえたパンフレット「ハンガリー、昇る太陽」を発行。
1957年 ・集団実験「アナロジー・カルタ」。
・ブルトン、『魔術的芸術』を出版。多くの識者から寄せられたアンケート回答を併録。
1958年 ・核物理学者に反対するパンフレット「物理学者よマスクをとれ、実験室を空にしろ」を発行。
・オスカル・ドミンゲスの自殺。
1959年 ・ブルトン、マッタおよびブローネルと和解する。
・バンジャマン・ペレの死。
・ジャン・ピエール・デュプレーの自殺。
・ヴォルフガング・パーレンの自殺。
1960年 ・「エロス」をテーマとするシュルレアリスム国際展。ダニエル・コルディエ画廊、パリ。ハンス・ベルメール、F・シュレーダー・ソンネンシュターン、マックス・ワルター・スワーンベリーなども出品。
・ニューヨークでの展覧会にダリの近作の出品をゆるしたデュシャンに対する抗議。
・ブルトン、ジャン・ポーランとともに、「詩王」としてジャン・コクトーをえらぶことに反対する委員会に加わる。
1961年 ・ケイ・セージの自殺。彼女は画家・詩人であり、イヴ・タンギーの未亡人であった。
1963年 ・トリスタン・ツァラの死。
1964年 ・パリのシャルパンティエ画廊で、ワルドベルグの組織による「シュルレアリスム、源泉、歴史、系統」展を開催。ブルトンおよび25人のシュルレアリストたちはこの展覧会に反対する。
・エルンストとプレヴェールによる『犬どもは渇いている』。
1965年 ・ドイツで移動回顧録「リヒアルト・エルツェの作品」。
・サンパウロのビエンナーレにおいて、フェリックス・ラビッスによる「無審査」出品、「シュルレアリスムと幻想芸術」。
・シャルル・フーリエの標語「絶対的隔離」を冠するシュルレアリスム国際展。ウイユ画廊、パリ。
・ブルトンの大著『シュルレアリスムと絵画』増補決定版が刊行される。
1966年 ・アンドレ・ブルトン死去。

■参考文献

Wikipedia-Surrealisme

・パトリック・ワルドベルグ『シュルレアリスム』

巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』

速水豊『シュルレアリスム絵画と日本 : イメージの受容と創造』

谷川渥『シュルレアリスムのアメリカ』

・大谷省吾『激動期のアヴァンギャルド: シュルレアリスムと日本の絵画一九二八-一九五三』

 

■画像引用元

※1:https://www.moma.org/collection/works/78456 2018年12月13日アクセス

※2:http://kanshokyoiku.jp/keymap/momat07.html 2018年12月11日アクセス

※3:https://en.wikipedia.org/wiki/Surrealist_automatism 2018年12月15日アクセス

※4:https://gazette-ic.com/post/22599539880/lafemme100tetes 2018年12月15日アクセス

※5、6:https://en.wikipedia.org/wiki/Surrealism



【美術解説】フリーダ・カーロ「セルフ・ポートレイト絵画の先駆者」

$
0
0

フリーダ・カーロ / Frida Kahlo

セルフ・ポートレイト絵画の先駆者


フリーダ・カーロ《ひげネックレスとハチドリのセフルポートレイト》1940年
フリーダ・カーロ《ひげネックレスとハチドリのセフルポートレイト》1940年

概要


生年月日 1907年6月6日
死没月日 1954年6月13日
国籍 メキシコ
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム、マジック・リアリズム
配偶者 ディエゴ・リベラ

フリーダ・カーロ(1907年6月6日-1954年6月13日)はメキシコの画家。セルフポートレイト作家として一般的に知られている。

 

カーロの人生は、メキシコシティの彼女の生家「青い家」で始まり、同じく「青い家」で終わった。彼女の作品はメキシコや先住民族の伝統の象徴として祝されており、また女性的な感覚や形態を率直に、冷徹な視点でもって表現したフェミニン・アーティストの代表として、フェミニストたちから評価されている

 

メキシコ文化とアメリカ文化の伝統が彼女の作品における重要な要素で、美術史において素朴派や土着固有のフォークアートとして位置づけられることもある。

 

シュルレアリスムとしても評価が高く、実際に1938年にシュルレアリスムのリーダーことアンドレ・ブルトンから「フリーダの芸術は爆弾に結ばれたリボンである」と絶賛された。なお、フリーダ自身は、シュルレアリストとラベルをはられることを拒否しており、自身の作品は夢よりも自身の現実を反映したリアリズム志向であると主張していた。

 

カーロは幼少のころのバスと路面電車の交通事故の後遺症で苦しんだ。交通事故の傷を癒やすためほかの人から3ヶ月ほど隔離生活を余儀なくされたことは、彼女の作品に大きな影響を与えている。この後遺症は死ぬまで続き、晩年は右足の血液の循環が不足して指先が壊死、切断。

 

カーロはメキシコ壁画運動で知られるメキシコ人画家ディエゴ・リベラと結婚したが、結婚生活は辛いことが多かった。結婚後、3度妊娠したが、幼少期の事故の後遺症で骨盤や子宮に損傷を受けていたのが原因で3度とも流産。

 

これらの出来事はカーロに深い影を落とし、その後の作品に大きな影響を与えた。さらに妹と浮気症の夫リベラの不倫、カーロの芸術的成功を妬むリベラとの間で夫婦間に亀裂が入る。

 

「私はほとんどの時間を一人で過ごすし、自分のことは自分がいちばん知っているから、自分を描くのです」と語っている。

重要ポイント

  • セルフポートレイトの先駆的存在
  • メキシコや先住民の伝統の象徴として評価
  • 20世紀初頭のフェミニンアーティストとして評価もされている

略歴


幼少期


カーロは幼いころから芸術に関心を示し、父親の友人である版画家フェルナンド・フェルナンデスからドローイングを教わった。幼いころの彼女のノートブックはスケッチ画で埋められていた。

 

1925年にカーロは家族の生活を支えるため学校外で働きはじめる。速記者として短期間勤めたあと、カーロはフェルナンデスの下で有給の彫刻弟子となる。フェルナンデスはカーロの芸術的才能を見抜いていたが、カーロ自身は芸術を仕事のキャリアとみなしていなかった。

 

1925年にバスと路面電車の交通事故に遭い、カーロは3ヶ月間歩行できなくなったのをきっかけに、科学と芸術に関心のあった彼女は医学専門のイラストレーターの仕事を考えるようになる。

 

カーロはベッドで絵を描くための特製イーゼルと、自分の姿を見るためにイーゼル上に設置できる鏡を所持していた。

 

絵画はカーロにとってアイデンティや存在理由を探求する方法となり、のちに彼女は交通事故とそのときの孤立時の回復期間が「自分自身が見たものをありのまま描き、それ以上のことは何もない」という彼女の思想を形成させたと話している。


 ●参考文献

Frida Kahlo - Wikipedia


あわせて読みたいシュルレアリスト

【美術解説】束芋「日常風景におけるモチーフをコラージュする映像インスタレーション作家」

$
0
0

束芋 / Tabaimo

日常風景におけるモチーフをコラージュする映像インスタレーション作家


概要


生年月日 1975年生まれ
国籍 日本
職業 現代美術家
表現形式 映像、インスタレーション、ドローイング、版画、絵画

束芋(1975年生まれ)は日本の映像インスターレション作家。現代美術家。

 

キッチン、サラリーマンなど現代日本の日常風景における象徴的なイメージをモチーフにして浮世絵のような手描き線画のアニメーション作品で知られる。

 

なお、アニメーションを使ったインスタレーション作品であり、映像作品やアニメーション作品とは異なる。映像を表現手段の中心にして周囲の空間にさまざまな演出をしかけるインスタレーションが束芋の基本的な表現方法である。

 

たとえば、2009年の作品《団地層》は、横浜美術館の個展にあわせて制作された作品だが、横浜美術館のエントランスに映写できるように制作されており、その作品内容は個展で紹介されるほかの作品のいろんな要素を凝縮したものでもある。

 

こうした表現のため、束芋は映像作家やアニメーション作家ではなく一般的に「現代美術家」として表記される。

 

束芋の代表作は第52回ヴェネツィア・ビエンナーレ(2007年)で発表した《dolefullhouse》である。自身の内面、あるいは現代の日本社会に潜在する複雑な諸相を表象化した映像作品で国際的に注目を集めた

略歴


兵庫県神戸市出身。本名は田畑綾子。父はサラリーマン、母は陶芸家で団塊世代で、束芋は団塊ジュニア世代ど真ん中にあたる。

 

3歳のときに大阪府へ移る。「束芋」という名前は本名の「田畑」と「妹」をかけあわせて作られている。幼少期に陶芸家の母に釣れられ展覧会をめぐり、美術に関心を持つようになる。

中学2年生のときに兵庫県へ転居。1991年に西宮市立西宮高等学校理数コースに入学。1994年、京都造形芸術大学芸術学部日本画コースを受験したが不合格。その後、京都造形芸術大学芸術学部情報デザイン学科に入学し、田名網敬一に師事する。

 

卒業制作の《にっぽんの台所》が学長賞を受賞し、また1999年のキリンコンテンポラリーアワードの最優秀賞を受賞。本作がデビュー作で、同時に日本において現代美術家として注目を集めるきっかけとなった。

 

近年はドローイングや版画、油彩画などの平面作品にも取り組み始める。


■参考文献

・シュルレアリスムと絵画-ダリ、エルンストと日本の「シュール」図録

団塊の世代から断面の世代へ「束芋 断面の世代」全作品解説


【美術解説】根本敬「特殊漫画大統領」

$
0
0

根本敬 / Takashi Nemoto

特殊漫画大統領


《樹海》2017年
《樹海》2017年

概要


生年月日 1958年6月28日
国籍 日本
表現形式 漫画、絵画、著述、ドローイング
ムーブメント ガロ系ヘタウマ、因果系
関連人物 蛭子能収佐川一政

根本敬(1958年6月28日生まれ)は日本の漫画家、著述家、映像作家、コレクター。「特殊漫画家」「特殊漫画大統領」などのニックネームで知られる。

 

1981年に日本のアンダーグラウンド・コミック誌「ガロ」で漫画家としてデビュー。以後、休刊するまで「ガロ」を中心に多くのマンガ作品を発表する。

 

「ガロ」の休刊、および雑誌ブームが終焉した2000年代以降は、青林工藝舎のマンガ雑誌「アックス」や、アップリンクの「映像夜間中学」をはじめ、おもにオルタナティブな媒体で活動を続けている。

 

根本作品の多くは、信じられないほどの不幸が重なり続けるキャラクター村田藤吉とその家族の物語がシュルレアリスティックに進行していく。作品の多くは一般的な良識から嫌悪対象となるものの、一方で熱狂的なファンも多く持ち、日本のみならず世界中のアンダーグラウンド・シーンに影響を与えている。

 

著述家としても才能を発揮しており、奥崎謙三や川西杏など根本が人生で出会った個性的な人々を綴った『電氣菩薩』や『人生解毒波止場』などは人気が高い。

 

2017年、"個人の意思を超えた大きな何かに突き動かされ、ピカソの絵画《ゲルニカ》と同サイズの大作に挑戦するプロジェクト『根本敬ゲルニカ計画』を敢行。アドバイザーに会田誠を迎え、同年、9月27日に完成。最終的な絵画タイトルは《樹海》と命名され、9月30日京浜島で開催された「鉄工島フェス」で展示。

 

その後、12月13日から24日にかけて、市谷のミヅマアートギャラリーで一般公開され、日本で最も有名な現代美術コレクター高橋龍太郎氏の『高橋コレクション』に収蔵が決定した。

年表


■1958年

・6月28日、東京都渋谷区で生まれ、目黒区鷹番で育つ。

 

■1962年

・この頃より約20年、喘息とつき合い、人生観の土台に多大な影響を受ける。幼稚園では集団行動に何かと支障をきたす。しばしば脱走する。

 

■1964年

・この頃より、水木しげる、赤塚不二夫の漫画に大変親しむ。

 

■1965年

・8月、コダマプレス版『墓場の鬼太郎』を入手、水木しげるに目覚める。

 

■1968年

・9月、本屋でガロ10月号を立ち読み、林静一『花ちる街』を見てショックを受ける。「見てはいけないものを見た、という感じ」根本談

 

■1974年

・この頃から『ガロ』を読み出す。いつしか何でもいいから、自分も『ガロ』に参加したいという気持ちを抱く。

 

■1976年

・3月、ガロ4月号、糸井重里+湯村輝彦『ペンギンごはん』に衝撃を受ける。

 

■1977年

・大学にて船橋英雄と邂逅。身体の不自由な、しかも実母より歳上の大衆食堂の未亡人の体を奪い、暴力とセックスで食堂を乗っ取り店を潰した後、福祉の金、つまり骨までシャブッた「内田」という男の追跡研究に明け暮れる。(内田は麻原彰晃にも似たタイプ)

 

■1979年

・根本・船橋でその内田の研究本『駕籠町喜劇』(コピー本限定30部)刊行。

 

■1981年

・『ガロ』9月号に『青春むせび泣き』で入選、漫画家デビュー。

・ヘタウマ・ブームに乗り、『ビックリハウス』のイラスト、自販機のエロ本等から仕事がきてデビュー後すぐに活動の幅を広げる。

・この年の『エロトピア・デラックス』で安部慎一の「僕はサラ金の星です」を読み、全身骨ぬきとなる。

・12月、タウン誌『浜っ子』の忘年会で湯浅学と邂逅。

 

■1982年

・春、船橋、湯浅と「幻の名盤解放同盟」の前身『廃盤水平社』結成。

・初夏、ガロに掲載された『一徹の恩返し』が本家・解同に注意を受ける。

・夏、湯村マジックにハマり、湯村輝彦氏の指導によりソウルの音盤コレクトに明け暮れる。

・9月、自販機本『コレクター』(群雄社)誌上で「幻の名盤解放同盟」デビュー。

 

■1983年

・『ガロ』系漫画家の催しで京都・大阪へ。蛭子能収と川崎ゆきお氏のツーショットに痺れる。『ガロ』の漫画家になって良かったとつくづく思った。

・8月、初作品集『花ひらく家庭天国』(青林堂)出版。

・キャラクター《村田藤吉》がHONDAのTC-CMに起用される。

 

■1984年

・4月、嵐山光三郎の推薦により、マガジンハウス『平凡パンチ』誌上で『生きる』連載開始。初のメジャー誌連載。以後、1990年に廃刊になるまで『パンチ』とはいろいろと関わる。

・9月、同盟、初の渡韓。「イイ顔」を意識化する。また、ポンチャック・ディスコにも開眼。

 

■1985年

・1月、2冊目の『固い絆のブルース』(青林堂)出版。

・4月、ガロ誌上で初の長編作品『天然』連載開始(〜88・4月)

・3冊目『Let's go幸福菩薩』(JICC出版局=現・宝島社)出版。漫画界初の死体(写真)漫画を袋綴で収録。

・5月、二度目の渡韓、以後年二度のペースで渡韓。

・9月、不動産業にして在日朝鮮人歌手・川西杏のステージを初体験、以後「スターとファン」、友人、そして「奥崎と原一男」のような関係で親交を結ぶ。

 

■1986年

・この頃から『月刊現代』(講談社)で『生きる』と同系の『村田藤吉生々流転』連載。

・6月、『平凡パンチ』連載を収録した4冊目『生きる』(青林堂)出版。

・5冊目『学ぶ』(河出書房新社)出版。

・10月:『月刊現代』連載分もあわせた6冊目『生きる2』(青林堂)出版。

 

■1987年

・12月、渡韓の際のフィールドワークなどを集大成した同盟初の共著本・『ディープ・コリア』(ナユタ出版会)出版。

・奥崎謙三主演、原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」が公開され、衝撃を受ける。

 

■1988年

・平凡社『QA』誌に漫画「怪人無礼講ララバイ」連載。編集部に毎回非難の嵐。大いにヤル気となるも結局半年で連載終了。

・6月、初の長編作品『天然』を7冊目『天然・甲編』(青林堂)出版。

・9月、8冊目『天然・乙編』(青林堂)出版。

 

■1989年

・5月、ガロ6月号より「精子3部作の一」『タケオの世界』連載開始(〜90・1月)。

 

■1990年

・2月、JICC出版局のコミック誌『ロッコミ』に『21世紀の精子ン異常者』を描く。以後5年間商業コミック誌より漫画の発注無し。

・3月、『タケオの世界』に描き下ろし、平凡社『QA』連載の『怪人無礼講』シリーズを加えた9冊目『怪人無礼講ララバイ』(青林堂)出版、各方面から絶賛。

・4月、ガロ5月号より「精子3部作の二」『ミクロの精子圏』連載開始(〜90・8月)

・7月、『ミクロの精子圏』後半を一挙描き下ろし、10冊目『龜の頭のスープ』(マガジンハウス)出版。

・12月、ガロ1月号より、「精子3部作の三」『未来精子ブラジル』連載開始(〜92・4月)、今日(2019年末時点)まで未完。

 

■1991年

・伊豆・大滝ランドにて、大仏、おっと不動明王と邂逅。根源的問いかけを受けたり、因果の具現化を見せられたりする。初めて見た瞬間に自分が求めていた何モノか(所謂因果・純粋マヌケ美等)を具現化したヤツだと感じる。

・春、マディ上原とマガジンボイス『投稿ドッキリ写真』誌上で特殊漫画ユニット『お岩』結成。

・この頃、夏祭りは寿町で過ごす。

・9月、TVK(テレビ神奈川)『ファンキートマト』にレギュラー出演(〜93・3月)。司会は電気グルーヴ。後にゴーバンズ森若香織。

・絶版となった1、2、3作目までの中から抜粋した作品に、単行本未収録作を加えた作品集、11冊目『豚小屋初犬小屋行き』(青林堂)出版。

・12月:『怪人無礼講ララバイ』単著で初の再販(第二版)。

 

■1992年

・2月、吉祥寺MANDALAⅡで同盟+突然ダンボールの特殊音楽ライブ『ぺったらぺたらこナイト』プロデュース、250人満員札止め・失神者1名。

・3月、大阪心斎橋・ギャラリーパライソで個展『暗黙の了解の秘め事』開催、その後「島中の女が買える」というM県W島の取材刊行。

・4月、「大博士」の大宮イチが「アタシ、近いうちに根本さんが勝新に会うような気がするんです」と予言。

・5月、『宝島』誌より「勝新のインタビューやりませんか?」との依頼。遂に勝新太郎大陸に上陸。大宮イチの予言的中。以後、度々上陸する機会を得、毎回多くを学ぶ。

・6月、クラブチッタ川崎にて第二回『ぺったらぺたらこナイト』開催。観客動員数250人。

・7月、ガロ10月号の特集及びビデオの取材で青森県・恐山へ。イタコの口寄せにより、5月24日に自殺した山田花子インタビューを刊行。

・9月、ガロ10月号、根本を中心に『特殊漫画博覧会』特集。「真面目な読者達」に不評を買う。「あのメンツで対談して、誰がマトモな事を言うか。サービスだよ、基本は。ツマラン『本音』より、面白いこと喋ったほうがよいだろう。これでも皆一応『プロ』なんだから。」(根本談)

・初のリトグラフを発売((株)ツァイト)。

・米国『PICTOPIA』誌に『21世紀の精神ン異常者』が翻訳・掲載。米アンダーグラウンドコミック界に衝撃を与える。

・トムズボックスより限定版のコラージュ・コミックなどのノイズ絵本『  』上梓。

・11月、渋谷CLUB GUTTROにて『ガロ特殊歌謡祭92』プロデュース・開催、550人満員札止め。

・全面監修のガロビデオ②『因果境界線』(青林堂)発売。

・12月、PIVINEレコードより同盟監修による『幻の名盤解放CD』シリーズ発売開始、廃盤ブームの火付けとなる。

 

■1993年

・1月、TVK『ファンキートマト』根本敬特集。ゲストに平口広美、北公次、BCGというとんでもない組合せ。

・3月、14年続いた『ファンキートマト』突然の打ち切りに。

・春、テリー伊藤氏と北朝鮮へ行く。この時の見聞がベストセラー『お笑い北朝鮮』となる。

・4月、『ガロ特殊歌謡祭92』を収録したガロビデオ③『ひさご』(青林堂)発売。

・5月、10年来崇拝していた音楽家、藤本卓也先生に会う。以後懇意にして頂くが先生は最近根本に「いつまでもああいう漫画ではなくアンパンマンのようなものを描いて子どもに夢を与えなさい」と、宣うのであった。

・6月、渋谷ギャラリーART WADSにて同盟初の展覧会。

・初の文字による単行本、12冊目『因果鉄道の旅』(KKベストセラーズ)出版。文中の「でもやるんだよ!」が年末、「バカサイ(『週刊SPA』)」の流行語大賞に輝く。

・同盟の音楽部門の集大成、共著『ディープ歌謡』(ペヨトル工房)出版。

・8月、マディ上原とのユニット『お岩』のオールカラー限定作品集『お岩』(青林堂)上梓。

・9月、通天閣の似顔絵描きで浮浪者の其風画伯と銀座のゴージャスな画廊で二人展。大阪よりお連れした先生は行方不明に。しかし会場には森若香織(ゴーバンズ)、なべやかん等芸能人の姿も。

・ガロ10月号で根本+同盟特集『夜、因果者の夜』。しかし「アジアの民衆に対する視点に問題がある」と、大いに不評を買う。

・12月、ヒデさん(『ひさご』参照)の御好意により、「組」の血縁盃の儀式に紛れ込む。髪はオールバック、礼服で表情はなるべくキツく、と必死に役作り。が、歌好きの組長が昔からコレクトしていた廃盤レコードの歌い手とわかりビックリ。

 

■1994年

・結婚のために長年住んでいた東京都を離れ、神奈川県民に。越したマンションから徒歩一分のところに偶然、佐川一政氏が。以後、現在まで交友を深める。

・ドヤ街の夏祭り通いを寿町から釜ヶ崎に変える。

・ヌード写真とウンコのイラストがコラージュされた下品な選挙ポスターで地元政界を揺るがす影山次郎氏に会うため、淡路島を訪れる。

・11月、ナユタ版に大幅加筆、同盟共著『定本・ディープ・コリア』(青林堂)上梓。各方面から大絶賛。

・福武書店(現・ベネッセ)の教育誌『チャレンジkid's』に漫画を連載。

・西武セゾン劇場で「不知火検校」上演中の勝新太郎をインタビュー。『週刊SPA』に掲載。

・12月:『定本・ディープ・コリア』驚異的ペースで第二版。

 

■1995年

・『宝島30』に連載(そもそもの企画・担当はあの町山智浩氏)していた因果者ルポ『人生解毒波止場』出版。現在まで3万部ほど出た。根本の本の中でもっとも幅広く読まれる事に。漫画は抵抗あるが文章は読んでも良いという読者が増えて、漫画の読者をはるかに超える。

・文藝春秋刊『コミック95』(後の『コミックビンゴ』)秋号に漫画「キャバレー青春スター」を描く。これが現在のところ、最後の商業コミック雑誌登場となっている。

・2月、レントゲン藝術研究所でコンプレッソ・プラスティコ山塚アイ、テクノクラートと『909』展。テクノの飴屋法水氏に頼まれ「芸術」のため精子提供、展示される。なお、根本当人は各々畳2畳分ほどのきんさんぎんさんポルノを展示したところ英国人コレクターJW氏が6万円で購入。

・4月、『怪人無礼講ララバイ』第三版。「この本が約1年版品切だったのは痛かった。」(根本談)

・5月、『定本・ディープ・コリア』異常なペースで第三版。

・自分が原作者としか思えぬほど独特のキャラクターを持つフナクボヤスシという亀が甲羅からスッポ抜けたような男と出会い、一目惚れ。「ガロビデオ」第六弾としてその男(芸名・亀一郎とつける)主演のビデオを撮影。タイトルは『さむくないかい』。

【美術解説】オノ・ヨーコ「前衛集団フルクサスのメンバーにてジョン・レノンの元妻」

$
0
0

オノ・ヨーコ / Yoko Ono

前衛集団フルクサスのメンバーでジョン・レノンの元妻


ジョン・レノンとオノ・ヨーコの平和活動ハネムーンパフォーマンス「
ジョン・レノンとオノ・ヨーコの平和活動ハネムーンパフォーマンス「

概要


生年月日 1933年2月8日
国籍 日本
職業 前衛芸術家、歌手、ソングライター、平和活動家
ムーブメント フルクサス、1960年カウンターカルチャー、実験音楽、ダウンタウン・ミュージック
表現形式 パフォーマンス・アート、ボーカル、ピアノ
公式サイト http://imaginepeace.com/

ヨーコ・オノ・レノン(1933年2月18日生まれ)は日系アメリカ人の前衛芸術家、歌手、ソングライター、平和活動家。英語と日本語の両方で行うパフォーマンス・アートや映画製作など非常に多様な方法で表現活動をしている。日本名は小野洋子、オノ・ヨーコ。

 

オノは1969年から1980年に殺害されるまでイギリスのシンガソングライターでビートルズのメンバーだったジョン・レノンと結婚していた

 

東京で育ち、ニューヨークで数年間過ごした。彼女は学習院大学に入学したが、2年で退学し、1953年に父の転勤にともないニューヨークへ移る。サラ・ローレンス大学でしばらく過ごした後、前衛集団フルクサスに参加し、ニューヨークのダウンタウンの前衛アートシーンで活躍した。

 

1966年のロンドンでの個展『未完成の絵画とオブジェ』でオノは初めてレノンと出会い、1968年にカップルとなり、翌年結婚。1969年にアムステルダムとモントリオールでで2人は、マスコミに大々的に取り上げられ新婚旅行を利用してベトナム戦争に反対する抗議デモ平和活動パフォーマンス「ベッド・イン」を実行した。

 

彼女の音楽におけるフェミニズムの主題は、B-52やメレディスモンクなどの多くのなミュージシャンに影響を与えている。1980年にレノンと共作で発表した『ダブル・ファンタジー』は全英・全米で1位を獲得した。しかし、発売から3週間後の12月8日のレノンが射殺されたことで、レノンの遺作ともなった。

 

オノの作品に対する一般の評価は時代とともに変わり、おもに1989年のホイットニー美術館支部での回顧展と1992年に発売された6枚組のボックス・セット『オノボックス』で一般的な評価を高めと認識されている。

 

回顧展は、2001年のニューヨークのジャパン・ソサエティ、2008年にドイツのビーレフェルトとイギリス、2013年にフランクフルトとドイツのスペイン、2015年にニューヨク近代美術館など世界で各地で開催されている。

 

2009年にはヴェネツィア・ビエンナーレで特別功労賞としてゴールデンライオン賞を受賞、2012年にはオスカー・ココシュカ賞、また応用現代美術におけるオーストリア最高賞を受賞した。

 

現在、レノンの未亡人としてオノは遺産管理事業を担っており、これまでマンハッタンのセントラルパークのストロベリーフィールドやアイスランドのイマジンピースタワー、埼玉のジョンレノン博物館(2010年に閉鎖)へ資金提供などをした。

 

ほかにも、芸術、平和、フィリピンと日本の災害救援などほかにもさまざまなシーンで多大な慈善的貢献をしている。2012年、オノはレイナー・ヒルデブラント博士人権賞を受賞。 この賞は、毎年人権に対する並外れた非暴力的なコミットメントを行った人に対して毎年授与されている。 

 

彼女には前夫アンソニー・コックスとの間に生まれた娘キョーコ・チャン・コックスと、ジョン・レノンとの間に生まれた息子ショーン・レノンがいる。ショーンとは音楽でコラボレーション活動もしている。

 

略歴



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Yoko_Ono、2020年1月3日アクセス


【美術解説】ストリート・アート「非認可の公共芸術作品」

$
0
0

ストリート・アート / Street art

非認可の公共芸術作品


※1:Bleeps.gr『星とヒトデ』
※1:Bleeps.gr『星とヒトデ』

概要


ストリート・アートは公共的な場所で制作された視覚芸術で、伝統的な美術館やギャラリーなどの会場の外で展示された非認可の公共芸術作品のこと。「グラフィティ(落書き、いたずら書き)」と同じ扱いとみなされている。

 

しかし、これらの芸術様式は芸術業界において「独立公共芸術」、「ネオ・グラフィティ」、「ポスト・グラフィティ」と呼ばれることもあり、アーバン・アートやゲリラ芸術と関わりが深いと認識されている。

 

ストリート・アートで使用される一般的な芸術様式やメディウムは、スプレー・ペイント、落書き、ステンシル、違法ビラ、ステッカーアート、ストリート・インスタレーション、彫刻である。

 

21世紀になるとこれらの表現形式のほかに、ライブ・パフォーマンスとそれをスマホやウェブサービスで配信する動画を利用したストリート・アートや、ヤーン・ボーミングと呼ばれる毛糸で覆われた彫刻も増えている。

代表的なストリート・アーティスト


●アメリカ

・アンドレ・チャールズ

ジャン=ミシェル・バスキア

キース・ヘリング

・クランドスティーナ・カルチャー

・クロー・マネー

シェパード・フェアリー

・ティム・コンロン

・ビューティフル・エンジェル

・フェデリコ・アーチュレッタ

・フューチュラ2000

・マーク・ジェンキンス

ミスター・ブレインウォッシュ

・ラメルジー

・レディ・アイコ

・レディ・ピンク

・ロビー・コナル

・AVANT

・Avoid pi

・B.N.E.

・Borf

 

●イギリス

・アンディー・カウンシル

インキー

・カットアップ

・カートレイン

・ゴーストボーイ

・ジェームズ・コックラン

・シックボーイ

・ジャッファ

ニック・ウォーカー

バンクシー

・フェイド

・ボム・スクワッド

ロバート・デル・ナジャ

・Zボーイズ

 

●フランス

・アッシュ

・アンドレ

インベーダー

・エル・シード

・ジェフ・アエロソル

・ゼウス

・ダルコ

・ティエリー・ノワール

ブレック・ル・ラット

ミス・ヴァン

・ミス・ティック

・C215

・JR

 

●香港

・曾灶財

 

 

背景


ストリート・アートは建物、路上、電車、そのほか一般の人々の目に付く公共の場所で展示される芸術形態の1つである。作品の多くはゲリラ的な手法で描かれ、また描かれた作品は芸術家が居住している地域社会と関連のある公的な声明を含んでいることが多い。

 

もともとストリート・アートは単なる落書きや公共物の破壊行為に過ぎなかったが、しだいに芸術家のメッセージを伝えるスタイル、または単純に人々に美を見せるスタイル移り変わっていった。

 

ストリート・アートを行う基本的な動機は、ギャラリーやほかの場所よりも公共空間を利用したほうがより多くの不特定多数の人々に自身の作品を見てもらえるというメリットである。

 

また、一般庶民に対して社会的問題や政治的問題への関心を高める方法「スマート・バンダリズム(柔らかな破壊行為)」としてストリート・アートを利用する芸術家もいる。

 

ほかに、単純に都市空間そのものを個人的な作品を表現するための新しいメディアとみなして利用するものや、公共の空間に非合法な芸術作品をリスクを楽しむ事に価値を見出すものもいる。

 

ストリート・アートにおける伝統的な制作方法はおもにスプレー・ペイントである。そのほかにはLEDアート、モザイクタイル、ステンシル、ステッカー、リバース・グラフィティなどさまざまな手法が存在する。

 

絵画以外にもロックオン彫刻、ストリート・インスタレーション、ウィートペースティング、ウッドブロッキング、ヤーン・ボー民具、ロック・バランシングなどさまざまなメディウムを利用した表現がある。とりわけ最近流行っているのは大都市の建物へ作品を映写させるといった新しい手法である。現在は安価なハードウェアやソフトウェアが手に入るようになったこともあり、ストリート・アートは街の企業広告と競争力を高めるまでになっている。

 

ストリート・アートのようなスタイルを「独立公共芸術」という言葉を使う人もおり、この定義では鑑賞者が訪れないような遠隔地にある作品も含まれる。森の中で行われる一時的な着色煙の芸術や、ロック・バランシングのような積み重ねた岩のオブジェクトなどが代表例である。水中に設置される作品もある。

※2:森の中に設置されたロック・バランシング作品。
※2:森の中に設置されたロック・バランシング作品。

ストリート・アートの歴史


第二次世界大戦時の「キルロイ参上」


政治的または社会的抗議のスローガンを公共の壁に描くグラフィティ(落書き)行為は、現代のグラフィティやストリート・アートの以前から存在する継続した芸術の1つのジャンルである。

 

企業のアイコンのようなシンプルで象徴的なグラフィックの形をしたストリート・アートはその時代や地域の謎めいた象徴となることがある。

 

たとえば、第二次世界大戦時に作られたグラフィティ「キルロイ参上」はそのような初期グラフィティの1つである。「キルロイ参上」は棚の後ろからのぞき見する長い鼻の男のドローイングで、第二次世界大戦のころにアメリカの各所で見られた。作者は不明だが、アメリカ軍の軍人が配備先や野営地などの壁または適当なところに書いた落書きが広まったとも言われている。

※3:ワシントンD.C.の第二次世界大戦記念碑に見られるキルロイ参上の落書き
※3:ワシントンD.C.の第二次世界大戦記念碑に見られるキルロイ参上の落書き

戦後ニューヨーク・アンダーグラウンド


現代のストリート・アートと直接関係のあるグラフィティは、戦後のニューヨークのアンダーグラウンドシーンで発生したグラフィティ・ムーブメントにある。

 

1960年代の黎明期、1970年代の成熟期、1980年代のブロンクスを中心としたスプレー塗装車や地下鉄の壁へのグラフィティをピークとした一連のストリート・アートの流れが、一般的に歴史化されている。

 

1980年代の初頭ころ、これまでテキストベースだったグラフィティ作品は、リチャード・ハンブルトンの影絵のような視覚的でコンセプト性の高いストリート・アートに変わりはじめる。この時代の代表的なグラフィティは、キース・ヘリングの地下鉄広告グラフィティやジャン=ミシェル・バスキアのSAMOのタグなどがある。

 

ただし、美術史において「ストリート・アート」として現在認知されているものは、当時まだ研究対象とされていなかった。また、このころにステンシルなどさまざまなグラフィティが登場し、分派がはじまった。

 

ロック・バンドがクラブやライブハウスで演奏際の告知として利用するポスター・アートは、しだいにコピー・アートや現実的なアートワークへと発展し、1980年代には世界中の都市で見られる一般的な光景となった。

 

1980年から1984年にかけてニューヨークで活動していたアーティスト集団「AVANT」もこの時代のアーティストだった。AVANTは紙の上に何千ものアクリル絵画を作成し、それらを漆喰を塗って街中の壁、ドア、バス停、ギャラリーに絵を描いていた。

※4:80年代ニューヨークにおけるAVANTのストリート・アート。
※4:80年代ニューヨークにおけるAVANTのストリート・アート。

グラフィティの聖地バワリー・ウォール


ニューヨークのハウストン・ストリートやバワリーの壁は、1970年代からストリート・アーティストたちのキャンバスになりはじめた。この場所はグラフィティ・アーティストたちが自由に使った廃棄された壁として、「バワリー・ウォール」と呼ばれる歴史性を持つ壁となっている。

 

キース・ヘリングは1982年に彼自身でこの壁を自身の作品でのっとったことがある。ヘリングのあと、著名ストリート・アーティストも続いて絵を描き出し、壁は徐々に有名になっていった。2008年ころから壁は個人が管理するようになり、委託または招待制でのみでないと芸術家は利用できないようになっている。

 

ニューヨークで活動している日本人ストリート・アーティスト、レデイ・アイコもこの壁に絵を描いたことがある。

 

※5:レディ・アイコによるグラフィティ
※5:レディ・アイコによるグラフィティ

レナ・モンカダの壁画シリーズ「I AM THE BEST ARTIST」 は、1970年代後半にソーホーのストリートに現れはじめた。ルネはアート・コミュニティを軽蔑するかのように壁画を描きはじめたが、アート・ワールドは当初ルネの作品は無視していた。

 

その後、「芸術への挑発」の初期行為として認められるようになり、それらの壁画はアメリカ合衆国憲法修正第1条や表現の自由、知的所有権などに関する法的紛争で話題となった。

 

いたるところに偏在する壁画もまた観光客や美大生の注目を集めて、よく写真撮影されることにより、評価が高まりはじめた。

※6:レナ・モンカダ「I AM THE BEST ARTIST」
※6:レナ・モンカダ「I AM THE BEST ARTIST」

アンダーグラウンドから商業主義への転向


キース・ヘリングの商業的成功


ストリート・アーティストの中には国際的な注目を集めて、アンダーグラウンドの世界からメインストリームの美術業界へ完全に移行するものと、アンダーグラウンドのまま制作を続けるものがいる。キース・ヘリングジャン=ミシェル・バスキアなどが前者で、バンクシーは後者である。

 

キース・ヘリングは1980年代の初期ストリート・アート運動の1人だったが、企業と契約を交わし、伝統的なグラフィティやストリート・アートで使われるモチーフをメインストリームの広告に取り入れ、商業主義へ転向した。

 

ヘリング作品の商業販売についてたずねられた際、「少し絵を描くだけで価格が上がるが、商業主義は私が地下鉄で絵を描いていたことの延長線上であり、ハイアートとロウアートの境界線を破壊しているとおもう」と話している。 

 

ヘリングの活躍後、次第に多くのストリート・アーティストが企業と契約を結び、グラフィックデザイナーとなった。エリック・ヘイズはビースティ・ボーイズやパブリック・エナミーなどのミュージシャンらとコラボレーションを行い、フォントやグラフィックデザインを提供している。

 

シェパード・フェアリーが大統領選挙戦で自主的に制作したバラク・オバマの応援ポスターは、実際に大統領選挙戦で使用されることになり、特別に依頼を受けて修正されたものが利用された。また、『Time』誌の表紙のために制作されたバージョンも存在する。

 

ストリート・アーティストが独自の販売チャネルを作ることも珍しくない。

※7:シェパード・フェアリー『Hope』
※7:シェパード・フェアリー『Hope』

ヨーロッパでは重要な観光スポットに


ストリート・アートは、美術の1ジャンルととして認識されるようになり、またバンクシーをはじめとするさまざまなアーティストの知名度が高まりとともに、一般の人々にも受け入れられるようになった。

 

多くのヨーロッパの都市でストリート・アートは観光スポットの1つとして扱われるようになる。ベルリン、ロンドン、パリ、ハンブルグなどの都市では一年中、観光旅行者用のためのストリート・アートの世界を楽しめるツアーが開催されている。

 

地元のストリート・アートのツアーに同行して、ストリート・アートの知識や共有したり、制作背景となるアイデアや、タグの意味や、グラフィック作品に描かかれたメッセージを説明するストリート・アーティストもいる。ロンドンだけでも観光客向けに10種類のツアー・プランが用意されている。

 

ガイドの多くは、作品の展示方法としてストリート・アートという手法を発見した美大の卒業生またはほかのクリエイティブ関係の専門家である。

 

このような商業的観点で、彼らは一般の人々にストリート・アートの世界への参加を促し、またストリート・アートの由来を深めることに貢献している。また、一般市民のストリート・アートに関心を持つことで、スラム地帯だった場所が高級化(ジェントリフィケーション)したとも言われている。

※8:以前のベルリン、ミッテ区のストリートアート
※8:以前のベルリン、ミッテ区のストリートアート
※8:ジェントリフィケーション現象でスタジオとして再生化した建物。
※8:ジェントリフィケーション現象でスタジオとして再生化した建物。

合法性と倫理性


ストリート・アートには独自の法的問題が発生し、そこにはアーティスト、市や政府、指定受信者、作品が描かれた建築物や媒体のオーナーが当事者として含まれる。

 

問題のよい一例は、2014年にイギリスのブリストルの事件のバンクシー作品である。バンクシーが2014年に公共の戸口の合板上に描いた「モバイル・ラバーズ」は、その後、市によって取り外され、ボーイズクラブの資金集めのために売る予定だった。しかし、市政府が作品の美術的価値から没収し美術館に保存することになった。

 

この場合、所有権と公共財産との問題、不法侵入と破壊行為の法的問題が絡み合ってくる。結果として法的、道徳的、倫理的問題の発生を提示した。

グラフィティとストリート・アートの違い


メッセージの発信先の違い


グラフィティの特徴は、ありふれた風景内で暗喩的な方法を使って自分たちのグループ、またはコミュニティ内でしか理解できない言葉で構成されていることである。基本的には公共空間に自らの「名前」を拡散的に書き残していく行為である。グラフィティの仲間内でいかに自分の「名前」の有名性を競うかが焦点となる。

 

一方、ストリート・アートは、メッセージを伝えることを目的とした「シンボル」「イメージ」「イラストレーション」が含まれていることである。「名前」をかくことに限られない。ストリート・アートの明確な特徴の1つは、所有者の許可なしに、または所有者の意向に反して、公共の場所で作品が展示されることであり、これはグラフィティの特徴と一緒である。

 

グラフィティもストリート・アートも鑑賞者にメッセージを表現したり、伝えたりすることは共通しているが、両者の違いの1つは特定の鑑賞者に向けて発信しているかどうかである。

 

特定の人にしかわからないグラフィティと異なり、ストリート・アートは公共の場所で不特定多数の人たちから脚光を浴びるかのように描かれることが多く、通常、だれが見ても理解できる内容となっている

 

 「ストリート・アート」という用語はこれまで、さまざまなほぼ同じ意味ではあるが、異なる言葉で説明されてきた。その1つが「ゲリラ・アート」という言葉である。ゲリラ・アートもストリート・アートも路上や公園、市街地、公共施設などで無許可のまま突発的に行なわれる表現活動である。

世界のストリート・アート


ストリート・アートは世界中に存在している。世界の大都市と地方の都市は、ある種のストリート・アートコミュニティの本拠地であり、そこから先駆的なアーティストや新しいメディウムやテクニックが生まれている。国際的に認知されているストリート・アーティストがそのような場所を往来し、作品を宣伝して展示している。

アジア


●香港

2019-2020年の香港抗議デモは、香港一帯に多数のストリート・アートを引き起こした。このアートがほかのストリート・アートと明らかに異なる点は、香港で発生した抗議デモとその内容をより多くの人に知ってもらうための戦術的芸術の1つであること。

 

ストリート・アートと同じく政治的メッセージが強く伴うが、個人を主張するような傾向は見られず、代表的な芸術家は存在しない。抗議デモ自体が、以前の運動と比較して「リーザー不在の運動」としての特徴が強く、そのためスローガンやシンボルの多くは、匿名で自発的につくられ拡散されたものである。

 

また、ストリートだけでなくネット上で作られたあとにストリートへ拡散しているという新しい側面がある。運動の各段階に、さまざな絵描きたちにより印象的な場面やフレーズをイラスト化したイメージが作成され、SNSや掲示板、そしてレノン・ウォールに転載された。

 

このような抗議芸術を制作した芸術家は共通で「宣伝グループ(中国語:文宣組)」と呼ばれ、ほとんどのメンバーは匿名で活動している。(2019−2020年香港抗議デモ芸術の詳細を読む

 

●韓国

韓国で二番目に大きな都市の釜山では、ドイツの画家Ecbが70メートル(230フィート)以上の壁画を作成し、2012年8月の制作時ではアジアで最も大きなストリート・アートとみなされている。この作品は韓国のソウルで設立された現代美術の組織パブリック・デリバリーが企画した。

香港のレノン・ウォール
香港のレノン・ウォール


【美術解説】澁澤龍彦「日本の幻想・耽美美術の開拓者」

$
0
0

澁澤龍彦 / Tatsuhiko Shibusawa

日本の幻想美術の開拓者


概要


澁澤龍彦(1928年5月8日-1987年8月5日)は日本の小説家、フランス文学の翻訳家、美術批評家。

 

活動初期はマルキ・ド・サドをはじめ、多数のフランス文学を翻訳し、日本に紹介したことで知られる。特に「サド裁判事件」を通じて、澁澤の名前は一般に広がった。

 

美術批評を本格的にはじめたのは30代なかばから。1964年の『夢の宇宙誌』でマニエリスム的な美術観・文化史観を発表し、注目を集める。以後、ハンス・ベルメールピエール・モリニエなど、これまで日本の美術業界では触れることのなかった傍流シュルレアリストを積極的に紹介し始める。最も広く読まれた美術批評書は1967年刊の『幻想の画廊』から。

 

金子國義四谷シモンらと出会い、青木画廊を拠点に画家たちと交流を行うようになる。鎌倉の澁澤邸は芸術家のサロンにもなっていた。また澁澤龍彦責任編集の雑誌『血と薔薇』の仕事で、松山俊太郎、稲垣足穂、種村季弘、堀内誠一ら多数の文化人との交流が始まる。


略歴


幼少期


澁澤龍彦は1928年(昭和3年)に東京の高輪に生まれる。4人兄妹の長男だった。4歳まで埼玉の川越で育ち、ついで東京の駒込に近い中里町へ移る。父の澁澤武は銀行員で実業家の渋沢栄一やその孫の渋沢敬三と遠戚にあたる。母の澁澤節子は実業家で政治家の磯部保次長女だった。

 

澁澤は幼少の頃から本を早く読み始め、絵を見たり描いたりすることを好んだ。最初の印象深い芸術体験は児童雑誌『コドモノクニ』。コドモノクニは、武井武雄、初山滋、古賀春江、東山魁夷、竹久夢二などの芸術家が参加した高級向け幼児雑誌である。ついで田河水泡の「のらくろ」や坂本牙城の「タンク・タンクロー」のような漫画に熱中した。

 

1935年、滝野川第7尋常小学校に入学。成績は優秀だったが、体操が苦手だった。親によく連れられて行った銀座、母方の祖母の住む鎌倉、上野の科学博物館、花電車、千葉大原の海、ベルリン・オリンピック放送、昆虫採集などが幼少の澁澤の芸術体験の基礎となった。

 

1941年、東京府立第5中学校に入学。昆虫採集と標本づくりなどに熱中する。

 

1945年、敗戦の直前に旧制浦和高校理乙(理系ドイツ語クラス)に入学。理系に進んだのは、当時の軍国主義的風潮の中で飛行機の設計者に憧れたためだが、徴兵逃れの意図もあった。

 

1945年、東京への空襲が強くなると澁澤一家は鎌倉へ疎開し、次いで埼玉の澁澤一族の本拠・血洗島へ疎開。終戦すると翌年から家族とともに鎌倉の借家に移り住む。ここで以後数年間さまざまな体験をする。文学書の濫読、神田のアテネ・フランセでフランス語の習得、年長者との交流、恋愛。堀口大學の訳でジャン・コクトーに惹かれ、原書で読むようになる。

 

1948年、東京大学の仏文科を受けて落ち、浪人。20歳のときに、近所に住む映画字幕の翻訳家・秘田余四郎の紹介で、築地の新太陽社にアルバイトの職を得る。先輩編集者の吉行淳之介や久生十蘭などと出会う。2年後に東大仏文科に合格したがアカデミズムになじめず、コクトーの翻訳などにはげむ。

 

また同時期にサドの紹介をふくむアンドレ・ブルトンの『黒いユーモア選集』の原著を読んで運命的なものに出会う。澁澤はのちにこのように記述している。

「シュルレアリスムに熱中し、やがてサドの大きさを知り、自分の進むべき方向がぼんやり見えてきたように思う。」

54〜59年 サド時代


澁澤龍彦の最初の本は、1954年8月に出版されたコクトーの小説『大股びらき』の邦訳書である。

 

26歳の新進フランス文学者としてデビューしたが、それだけ生活していたわけでなく、同時に岩波書店の自宅校正の職をして生活をしていた。

 

翌55年、岩波書店の校正室で、2歳年下の矢川澄子と出会う。

 

8月に肺結核が再発し、安静を命じられる。9月に父が急死。

 

56年に最初の『サド選集』全3巻の刊行がはじまる。このときに三島由紀夫に序文執筆依頼をして、以後、三島と親しく交友するようになる。また、雑誌や新聞にサド論を発表し続けるようになり、日本最初の本格的なサド紹介者・研究者として評価を得るようになる。現代新潮社をおこして出版活動をはじめようとしていた石井恭二と出会い、サドの訳書の継続的な刊行を約束させたことも大きい。

 

59年1月に矢川澄子と結婚。同年9月、最初のエッセー集にして文学・思想の書『サド復活 自由と反抗思想の先駆者』を刊行し、一部の識者や読者から熱い支持を得るようになる。澁澤が一般的に知られてきたのはこの頃からである。岩波の社外校正の仕事をやめ、執筆に専念するようになる。

 

54から59年の5年間はひたすらサドに関する作品や思想を紹介する時期だった。美術についての目立った発言はこの時期に見られないが、ボス、デューラー、カロ、ゴヤ、アンソール、エルンスト、ダリなどの名前が一部引用的に現れる。

 

60年4月、前年末に出版した『悪徳の栄え(続)』が発禁処分となり、年末には石井恭二らとともに猥褻罪容疑で起訴される。約10年におよぶ長い「サド裁判」の始まりである。「わいせつか芸術か」が問われる裁判として話題を呼んだ

 

なお裁判の前期は60年安保闘争にあり、後期は全共闘時代と重なった。澁澤の後妻、龍子は「渋沢は政治的発言をしないのに、反体制派や政府に批判的な学生から同志とみなされた。むろん体制側でもないから、困惑していた」と話している。

60年代 広がる澁澤文化圏


これまでも澁澤は美術に対して関心はもっていたものの、実際に画廊で同時代の日本の芸術家と触れ合いはじめたのは銀座の栄画廊で加納光於の版画をはじめて見てからである。

 

加納に絵に感動した澁澤は『サド復活』の装幀・飾画を彼にまかせる。出版の日に加納にさそわれて、はじめて瀧口修造を訪問する。加納がきっかけで25歳年長の瀧口修造と親交を結んだことも、澁澤が美術批評を始める大きな出来事だった。

 

瀧口修造はブルトンの著書『超現実主義と絵画』を翻訳したり、すでにシュルレアリスム研究者の大御所であったが、シュルレアリスムの新しい局面を開く書物として澁澤の『サド復活』を高く評価した。

 

また、瀧口と並行して重要となるのが土方巽暗黒舞踏との出会いである。1959年、三島由紀夫の紹介で、暗黒舞踏の創始者である土方巽と出会い、その舞踏表現に強い衝撃を受ける。同年9月の「650 EXPERIENCEの会」以来、澁澤は土方巽の舞台を一度もかかさず観ることになる。

 

また土方巽は澁澤以外にも、三島由紀夫、瀧口修造など多くの美術家が注目していたこともあり、土方巽をハブとして交友関係を広げる。池田満寿夫、加藤郁乎、中村宏ら多くの交友するようになる。66年に唐十郎がはじめて澁澤を来訪したのも、土方巽の紹介だったという。さらに合田佐和子とも交友する。

 

1971年に加藤郁乎の出版記念会の折に細江英公が撮影した有名な集合記念写真があるが、これがほぼ澁澤の交友範囲を示している。80人近くいるが加藤・澁澤・土方の共通の知人であり、60年代の澁澤周辺のアングラ文化の人間関係がここに映しだされている

巖谷 國士『澁澤龍彦幻想美術館』より引用。
巖谷 國士『澁澤龍彦幻想美術館』より引用。

美術批評


●文化的視点

澁澤の美術批評は1962年の「空間恐怖について」からとされている。その後、美術を美術史の文脈で語るのではなく、広い人類文化的な視野から美術を批評するようになった。これが一般の美術批評家と澁澤の美術批評の大きな差異である。

 

たとえば1964年に発刊した『夢の宇宙誌』では、玩具、自動人形、怪物、庭園、天使、両性具有、錬金術、終末図といった主題から、その主題に照応した美術をピックアップして批評を展開している。そこには古典主義、写実主義、象徴主義、印象派、表現主義といった美術スタイルの名称は表れない。

 

●幻想絵画

1967年に発刊した美術エッセイ集『幻想の画廊から』は澁澤の美術批評で最も有名なものだが、前半はシュルレアリスムの画家たちで占められていた。

 

紹介されたシュルレアリスム作家は、スワンベルクハンス・ベルメールヴィクトル・ブローネルジョゼフ・クレパンルイス・ウェインポール・デルヴォーレオノール・フィニーバルテュスイヴ・タンギールネ・マグリットゾンネンシュターンサルバドール・ダリマックス・エルンストフランシス・ピカビアエッシャーである。

 

ちなみに後半はモンス・デシデリオ、アルチンボルド、ホルバイン、ギュスターブ・モローなどマニエリスムの系譜(後期イタリア美術の様式で高度な技術で非現実的な絵画を描写するようなもの)にある絵画全般を時代に関係なく、好きなものを選んで批評している。

 

シュルレアリスム絵画とマニエリスムの系譜にある絵画を融合した形で、日本では「幻想絵画」という独自の澁澤美術が誕生したといってもよいだろう。

 

なお澁澤はシュルレアリスム画家でも、その基本であるオートマティスムには注目しなかった。ジョアン・ミロやアンドレ・マッソンなどの抽象絵画には関心がなかったため、彼のシュルレアリスム批評には抽象系作家の名前が現れない。マニエリスムの系譜を基盤にシュルレアリスム絵画を扱っているので、マグリットやダリなどデペイズマンを利用する具象系作家の批評がもっぱらだったことも注意したい。

 

●傍流

また澁澤はシュルレアリストの中でも「傍系シュルレアリスト」を好んで紹介した。「傍系シュルレアリスト」とは澁澤が勝手に作った言葉で本家にこのような言葉はない。澁澤がいう「傍系」とはオートマティスムやデペイズマンなど正式なシュルレアリスム技法を使う「正系」とはちがい、シュルレアリストとは関わりが多少あるものの、周辺で密室にこもって独自の個人的幻想に固執したマイナー芸術家である。ハンス・ベルメール、ピエール・モリニエ、バルテュス、ポール・デルヴォーなどが傍系シュルレアリストに当たる。

金子國義と四谷シモン


1961年、銀座に青木画廊が開設する。はじめは瀧口修造がアドバイザーをつとめていたが、やがて澁澤龍彦も顔を出すようになる。

 

鎌倉に住んでいた澁澤だが、60年代はサド裁判事件や編集会議などの仕事で東京へ出向くことが多く、画廊巡りもついでにしはじめる。そのなかでも澁澤好みの「気質に溺れて個人的幻想をつむぐアウトサイダーな作家」を積極的に扱うのが青木画廊だったという。こうして澁澤と青木画廊の若手作家との交流が始まる。

 

1965年、澁澤は詩人の高橋睦郎の紹介で金子國義と出会う。澁澤は金子の家を訪れて、壁にびっしりかけてあった金子の独学の絵を見て「プリミティブだ。いや、バルテュスだ」と感動し、すぐに金子に自宅に飾る直接50号の絵と、出版を進めていた『O嬢の物語』の装幀と挿絵の依頼を行う。

 

その後、澁澤は青木画廊主人の青木外司を金子に紹介し、1967年に金子國義初個展『花咲く乙女たち』を青木画廊で開催する。澁澤は個展に際して、「花咲く乙女たちのスキャンダル」という題するオマージュを案内状に書いた。それは次のようなものである。

 

「金子國義氏が眺めているのは、遠い記憶のなかにじっと静止したまま浮かんでいる、幼年時代の失われた王国である。あのプルーストやカフカが追いかけた幻影と同じ、エディプス的な禁断の快楽原則の幻影が、彼の稚拙な(幸いなるかな!)タブロオに定着されている。・・・」

 

この個展で無名だった金子は一気に世に出ていった感じだという。

金子國義《千鳥》1971年,artpressより
金子國義《千鳥》1971年,artpressより

1967年には、四谷シモンと出会う。四谷シモンは1965年に『新婦人』に寄稿した澁澤のハンス・ベルメールの紹介記事を見て衝撃を受けて球体関節人形に取り組み出したという。同時にハンス・ベルメールという名前とともにそれを紹介していた澁澤龍彦という文学者の名前が特別なものになる。

 

たまたま金子國義と友人だった四谷シモンは、金子國義の紹介で澁澤の北鎌倉邸を訪問し、澁澤と面会する。その後四谷シモンは澁澤邸に足しげく通うことになる。1973年の青木画廊での四谷シモン初個展『未来と過去のイヴ』で澁澤は個展の序文を贈った。人形は初日に8体売れ、翌日完売。大成功だった。これまでの「状況活劇の四谷シモン」のイメージが「人形作家の四谷シモン」に変わる節目でもあった。

 

また晩年には作品写真集『四谷シモン 人形愛』の監修も引き受ける。そして四谷シモンの人形をいつも書斎に置いていた。

 

ほかに青木画廊を介して澁澤が出会い評価した作家は、高松潤一郎、城景都、秋吉巒などがいる。

澁澤と関連のある人物


青木外司(画廊主)、赤瀬川原平(小説家)、秋吉巒(画家)、芦川洋子(舞踏家)、嵐山光三郎(作家)、生田耕作(仏文学者)、池田龍雄(画家)、池田満寿夫(画家)、石井恭二(思想家)、石井満隆(舞踏家)、石川淳(小説家)、泉鏡花(小説家)、伊藤若冲(画家)、伊藤晴雨(画家)、稲垣足穂(小説家)、岩田宏(詩人)、巖谷國士(仏文学者)、宇野亜喜良(イラストレーター)、遠藤周作(小説家)、大江健三郎(小説家)、大野一雄(舞踏家)、大野慶人(舞踏家)、小栗虫太郎(小説家)、織田信長、

 

笠井叡(舞踏家)、片山健(画家)、葛飾北斎(画家)、加藤郁乎(俳人)、金井久美子(画家)、金井美恵子(小説家)、金子國義(画家)、加納光於(版画家)、加山又造(日本画家)、唐十郎(劇作家)、川井昭一(画家)、川田喜久治(写真家)、河鍋暁斎(画家)、川仁宏(編集者)、菊地信義(装幀家)雲野良平(編集者)、桑原甲子雄(写真家)、合田佐和子(画家)、小林健二(画家)、

 

斎藤磯雄(仏文学者)、佐伯俊男(画家)、酒井抱一(画家)、坂本牙城(漫画家)、佐々木道誉(武将)、篠山紀信(写真家)、澁澤栄一(実業家)、島谷晃(画家)、城景都(画家)、白石かずこ(詩人)、砂澤ビッキ(彫刻家)、曾我蕭白(画家)、

 

高丘親王(僧侶)、高梨豊(写真家)、高橋たか子(小説家)、高橋睦郎(詩人)、高松潤一郎(画家)、田河水泡(漫画家)、瀧口修造(詩人)、武井武雄(童画家)、多田智満子(詩人)、谷川晃一(画家)、谷崎潤一郎(小説家)、種村季弘(文学者)、田村敦子(編集者)、俵屋宗達(画家)、筒井康隆(小説家)、出口祐弘(小説家)、寺山修司(劇作家)、土井典(人形作家)、堂本正樹(劇作家)、富岡多恵子(詩人)

 

内藤憲吾(編集者)、内藤三津子(編集者)、中井英夫(小説家)、中谷忠雄(写真家)、中西夏之(画家)、中村宏(画家)、奈良原一高(写真家)、野坂昭如(放送作家)、野田弘志(画家)、野中ユリ(版画家)、野村万作(狂言師)

 

初山滋(童画家)、花田清輝(批評家)、埴谷雄高(作家)、林達夫(批評家)、細江英公(写真家)、堀内誠一(画家)、堀口大學(詩人)、松山俊太郎(インド学研究者)、三浦雅士(編集者)、三門昭彦(編集者)、三島由紀夫(小説家)、南方熊楠(生物学者)、南洋一郎(作家)、明恵上人(僧侶)、美輪明宏(歌手)、元藤あき子(舞踏家)、矢川澄子(詩人)、矢貴昇司(編集者)、矢代秋雄(作曲家)、矢野道子(詩人)、山中峯太郎(小説家)、山本六三(画家)、横尾忠則(美術家)、横尾龍彦(画家)、吉岡実(詩人)、吉行淳之介(小説家)、四谷シモン(人形作家)


ジュゼッペ・アルチンボルド(画家)、アントナン・アルトー(詩人、俳優)、アングル(画家)、ジェームス・アンソール(画家)、ロジェ・ヴァディム(映画作家)、ヴァトー(画家)、ルキノ・ヴィスコンティ(映画監督)、アントワーヌ・ヴィールツ(画家)、パオロ・ウッチェロ(画家)、エッシャー(版画家)、ミルチャ・エリアーデ(宗教学者)、マックス・エルンスト(画家)、ロジェ・カイヨワ(批評家)、アントニオ・ガウディ(建築家)、フランツ・カフカ(小説家)、ピエロ・ディ・コシモ

 

レオノーラ・カリントン(画家)、ヴォットーレ・カルパッチォ(画家)、ジャック・カロ(版画家)、ジョルジュ・キージ(銅版画家)、アタナシウス・キルヒャー、リュシアン・クートー、フェルナン・クノップフ、ルーカス・クラナッハ、カルロ・クリヴェッリ、グスタフ・クリムト(画家)、マティアス・グリューネヴァルト、マックス・クリンガー、パウル・クレー(画家)、ジャン・コクトー(詩人)、ゴーティエ・タコティ・ジャック・ファビアン(版画家)、ゴヤ(画家)、サド(作家)

 

ルイ・アントワーヌ・ド・サン・ジェスト(フランスの革命家)、ハルトマン・シューデル(人文学者)、アルフレッド・ジャリ(詩人)、フェルディナン・シュヴァル(郵便屋)、ジャン・ジュネ(作家)、ジュール・シュペルヴィエル(詩人)、フォルカー・シュレドルフ(映画監督)、セバスティアン・ストスコップフ(画家)、マックス・ワルター・スワンーンベリ(画家)、ロバート・ジョン・ソーントン(植物学者)、ゾンネンシュターン(画家)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(画家)、サルバドール・ダリ(画家)、ダニエル・ダリュー(女優)、イヴ・タンギー(画家)、アイロス・ツェートル(画家)


ヤーコポ・ツッキ(画家)、コージモ・ディ(画家)、マルレーネ・ディートリヒ(女優)、ジョルジュ・デ・キリコ(画家)、ロベール・デスノス(詩人)、フランチェスカ・ピエロ・デッラ(画家)、マルセル・デュシャン(画家)、アルブレヒト・デューラー(画家)、ポール・デルボー(画家)、カトリーヌ・ドゥヌーヴ(女優)、ロラン・トポール(画家)、ルネ・ドーマル(詩人)、トルイユ・クロヴィス(画家)、トロツキー(革命家)、ヘルムート・ニュートン(写真家)、フランツ・フォン・バイロス(イラストレーター)、ガストン・バシュラール(哲学者)、ジョルジュ・バタイユ(作家)、

 

バッチョ・バルディーニ(版画家)、フアン・デ・バルデス・レアール(画家)、バルテュス(画家)、ピーテル・ブリューゲル(画家)、ロメーン・ブルックス(画家)、アンドレ・ブルトン(詩人)、ジクムント・フロイト(精神科医)、ヴィクトル・ブローネル(画家)、ブロンツィーノ(画家)、モーリス・ベジャール(舞踏家)、アルノルト・ベックリーン(画家)、ベラスケス(画家)、ヘリオガバルス(ローマ皇帝)、ハンス・ベルメール(画家)、ガブリエル・ペレール(版画家)、シャルル・ペロー(詩人)、エドガー・アラン・ポー(小説家)、コルネリス・ホイベルツ(画家)、ボッシュ(画家)、グスタフ・ルネ・ホッケ(批評家)、ボッティチェリ(画家)、

 

シャルル・ボードレール(詩人)、ボナ・ド・マンディアルグ(画家)、ホルヘ・ルイス・ボルヘス(詩人)、ルネ・マグリット(画家)シモーネ・マルティーニ(画家)、ピエール・ド・マンディアルグ(詩人)、マン・レイ(画家)、ピエール・モリニエ(画家)、ギュスターヴ・モロー(画家)、デジデーリオ・モンスー(画家)、ジョリス・カルル・ユイスマンス(作家)、カール・グスタフ・ユング(精神科医)、フェリックス・ラビッス(画家)、シャーロット・ランプリング(女優)、アルチュール・ランボー(詩人)、ルイス・ウェイン(イラストレーター)

 

ジル・ランボー(画家)、李麗仙(女優)、ルードヴィヒ2世(バイエルン王)、ルドルフ2世(神聖ローマ皇帝)、オディロン・ルドン(画家)、ポーリーヌ・レアージュ(作家)、フェリシアン・ロップス(画家)、ジュリオ・ロマーノ(建築家)、ロメロ・デ・トレス・フリオ(画家)、ジャン・ロラン(作家)、アンドリュー・ワイエス(画家)、オスカー・ワイルド(作家)


【作品解説】ポール・デルヴォー「森」

$
0
0

森 / Forest

成仏する亡霊と現実化する亡霊


ポール・デルヴォー「森」(1948年)
ポール・デルヴォー「森」(1948年)

概要


「森」は1948年にポール・デルヴォーによって制作された油彩作品。埼玉県立近代美術館所蔵。

 

ヌードの女性、汽車、森、月など、ポール・デルヴォー作品ではおなじみのモチーフで画面構成されているものの、これまでの青白い虚無的な質感と異なり、血の気の通った健康的な身体と官能的な表情の女性が描かれている

 

デルヴォーの絵の中に描かれる青白い夢遊病のような女性は、デルヴォーへの過剰愛を行う母親によって強引に引き離されたタムという女性である。デルヴォーは母親の呪縛に苦しみながら、タムの亡霊をひたすら描き続けていた。

 

しかし、「森」が描かれた前年の1947年にデルヴォーは、偶然、タムと18年ぶりに再会する。夢が現実となって現れたのである。そんな時期に描かれたのが「森」である。

 

デルヴォーの作品に頻繁に登場する汽車は、「故郷」「母」「過去」「呪縛」を象徴している。本作「森」における汽車は、手前から奥へ遠ざかっている。つまりデルヴォーの亡霊(故郷、母、過去、呪縛)が遠ざかったことを示唆している(すでに母は他界している)。

 

また、デルヴォー作品における「森」は、「森の目覚め」などが典型的だが、女性を象徴している。そしてこれまで、亡霊のタムを召喚するように煌々と画面を照らしていた月は、自分の役目は終わったとばかりに樹々にその姿を隠し、月光は弱くなっている。

 

成仏する亡霊、現実化する亡霊。2つの亡霊がうまく調和した作品なのである。彼のオブセッションとなっていた女性に対する魅惑と虚無感といったものが薄れ、彼の作品にあった性的な緊張は消滅し、この頃からデルボーの作品は光彩に満ちてくる。

 

デルボーは、そのような状況から自身が影響を受けていることを以下のように語った。

 

「作品を生み出す芸術家の心は、周囲の人々や生活の仕方、人間関係、その他の変化に関わっている。さらには、様々な出来事-私の場合なら劇的な出来事のはっきりした影響も考慮しなければならない」

 

ポール・デルヴォーに戻る

 

●参考文献

・埼玉県立近代美術館「ポール・デルヴォー展 夢をめぐる旅」 


大友昇平「日本の伝統文化とアンダーグラウンドの融合」

$
0
0

大友昇平 / Shohei Otomo

日本の伝統文化とアンダーグラウンドの融合


大友昇平《平成聖母》,2019年
大友昇平《平成聖母》,2019年
生年月日 1980年生まれ
国籍 日本
スタイル ドローイング、スカルプチャー、イラストレーション
関連人物 大友克洋

大友昇平(1980年生まれ)は日本の画家。「SHOHEI」名義で活動をすることもある。ボールペンによる緻密なドローイング画が知られている。父親は大友克洋

 

ヤクザ、刺青、力士、花魁、警察、ヤンキー、日章旗など現代日本のポップ・カルチャーと反発するようなものと日本の伝統文化と世界のアンダーグラウンドカルチャーを組合せたモチーフ。また、日本の伝統芸術である浮世絵や西洋の古典的絵画を融合した美術スタイルが特徴である。

 

伝統主義と進歩主義、東洋と西洋の世界、秩序とカオスなど対立する概念が併存し、緊張を生み出している

 

2000年代から本格的に画家として活動する。おもに、ウェブサイトに作品を発表してインターネット経由で認知されはじめ、東京、パリ、ミラノ、メルボルン、香港など世界中で展示活動を行ってきた。

 

2019年に作品した《平成聖母》は、香港民主主義デモ運動に大きな影響を与え、本作を基盤にした二次創作された香港民主化ポスターが作られ、現在、香港の街のいたるところに貼られている。

この投稿をInstagramで見る

1枚目の画像は香港の街中いたるところに貼られている香港民主化デモのポスターの中の一枚。誤解のないように言っておくが、これは僕の絵ではない。しかしこの間描いた絵とリンクしたものも感じる。 ちょうど僕が香港にいる時にこの絵がネットで話題になっていて、そこから僕の展示会場へ足を運んでくれた人も多くいたように感じた。 この絵が僕の二次創作だと言う人もいるが、それは言わないで欲しい。この絵には独立した力があるし、そもそも僕の方がたくさんパクってるから。 実際香港の街に貼られたこのポスターは、ギャラリーで展示されてる僕の絵よりも強い意味があると感じた。 ・ ちなみに香港での展示が終わった今だから言えることだが、以前描いた火炎瓶の作品は本来、香港の個展のメインビジュアルに使う予定だった(描いた時はまだ香港でデモは起こってなかった)。しかし香港の情勢が変わり、危険な作品となってしまったことで変更を余儀なくされた。そうして新たなビジュアルとして描いたのが"平成聖母"という経緯がある。 ・ 香港のホテルで見た天皇即位礼の中継も感慨深かった。まさかREIWAと名付けた展示会と同時期になるとは。雨が止んで虹がかかったのには感動した。 ・ 時を同じくして香港のタイクン(@taikwun.hk )ではサイバーパンクをテーマとした大規模な展覧会が開かれていた。 父親の作品AKIRAのポスターも会場に展示されていた。 現在の香港の街中に書かれたプロテストの言葉や群衆、警察の暴力、催涙弾、建ち並ぶ高層ビル群からはAKIRAを感じざるを得ない(作品の舞台は2019年)。 ・ 偶然はまだ続き、今月渋谷のパルコで開催される父親の展示会"AKIRA ART OF WALL"と僕のメルボルンの展示会の日にちは偶然にも同じ11月22日だった。先日一時帰国した際に父親から渡されたチラシを見て驚いた。 ・ そんなこんなで去年あたりから僕は時代の大きなうねりのようなものを全身に感じている。カタルシスか。 2020年にはもっとすごい何かが起こる、そんな確信に近い予感もある。 ・ まだ具体的な事は言えないが、来年は久しぶりに東京で何かをやる予定もある。 ・ 不思議なことがあるもんだ。という雑記。

Shohei Otomo(@shohei_otomo)がシェアした投稿 -

略歴


大友昇平は1980年に東京で生まれ育った。父は漫画家の大友昇平。3歳、もしくは4歳のころから絵を毎日絵を描きはじめ、幼少期からアーティトになると考えていたという。

 

父克洋は、昇平に対して特にドローイングや美術教育をすることはなく、また、昇平自身も父親の芸術スタイルの影響を意識的に避けていた。しかし、現在は「父の影響を避けてきたが、今では私の作品に強く影響が現れている」と話している。

 

大友は、多摩美術大学在学中に油彩を学んでいたが、画材が高価なためペン画に切り替える。銀色が仕上げが残ってしまう鉛筆よりもボールペン画を好んだ。どこででも80円で購入できる普通のボールペンを使っているが、高級蒔絵万年筆Namikiを使った作品もある。オブジェクトの着色にはマーカーを使用している。

 

大友は通常板紙に絵を描くが、日本のあるギャラリー展示会では、ライブスケッチセッションで人体モデルにアクリル絵具を使ったこともある。

 

一枚のイラストレーションを作成するのに最大1ヶ月の時間を費やしている。2017年にオーストラリアで開催された個展では、初めてスカルプチャー作品に挑戦。力士の塑像を作り、身体には刺青のようなグラフィックを描いた。

 

大友の作品はサイバーパンク的な要素を持つハイパーリアリズムと批評されることもある。大友の作品に描かれる人物の多くは目をゴーグルで覆う傾向があるが、その理由については「目を見せるとキャラクターの存在が絵を上回ってしまう」と解説している。

 

大友が使用するカラーは、黒、白、赤のみだが、これは古代の日本の化粧の色の組合せに影響を受けているという。

 

大友の最初の個展は2000年代初頭にアメリカのカンザスシティにあるギャラリーで開催された。2012年、オーストラリアでの初個展「 Fool's Paradise」を開催、2017年にオーストラリアで3回目の個展を開催。オーストラリアのギャラリーのディレクターで、バックウッズ・ギャラリーのアレクサンダー・ミッチェルは、大友につてい「私が知っている最も才能のある人物」と称賛している。


■参考文献

http://www.shoheiotomo.com/、2020年1月23日アクセス

https://en.wikipedia.org/wiki/Shohei_Otomo、2020年1月23日アクセス


【美術解説】ヴァンダリズム「破壊行為主義」

$
0
0

ヴァンダリズム / Vandalism

破壊行為主義


ハンブルクの破壊された玄関先と自転車
ハンブルクの破壊された玄関先と自転車

概要


ヴァンダリズムは、公共または私有財産を故意に破壊する行動主義のこと。ゲルマニアから移民してきたヴァンダル人が独特の破壊的性格を持っていたことから、ヨーロッパの18世紀頃の啓蒙思想時代に使われるようになったのが、言葉のルーツとされている。

 

1794年に、ブロワの司祭アンリ・グレゴワールが初めて「ヴァンダリズム」という言葉を使用した。フランス革命に続く恐怖政治の時代に多数の宗教芸術や建築物が破壊されたが、これをグレゴワールはヴァンダル族の野蛮な破壊になぞらえて「ヴァンダリズム」と呼び、芸術や建築の保護を訴えた。

 

現在の定義では、

  • オブジェクトそのものの破壊や損傷を目的とした敵対的行為。
  • 他の目標(他者の財産の横領、妨害行為)を達成するための間接的な手段として行われる破壊行為。
  • オブジェクトの破壊を通じて自己表現を行おうとする破壊衝動に駆られた行為。

などに分類される。また、ヴァンダリズムという言葉には、所有者の許可なしにあらゆる器物に対して直接行われるグラフィティや変造のような器物損壊罪の意味も含まれる。ヴァンダリズム自体は違法だが、現代の芸術や大衆文化においてヴァンダリズムは不可欠な要素にもなっている。

歴史


政治的価値と連動したヴァンダリズム


ヨーロッパでは、フランスの画家ギュスターヴ・クールベが1871年のパリ・コミューンでヴァンドーム広場の円柱を破壊したのが、おそらく第一次世界大戦中のダダイズムの以前に行われた最初の芸術的な文脈でのヴァンダリズムの1つとみなされている。当時、ヴァンドームの円柱は、退位したナポレオン3世の第二帝国の象徴と見なされ破壊された。

 

ギュスターヴ・クールベはヴァンドームの円柱の破壊に関して「ヴァンドームの柱は芸術的な価値のない記念碑であり、円柱はナポレオン帝国時代の戦争や征服の概念を想起させ、共和制国家の感情を否定もするのであり、市民であるクールベはパリ・コミューンの執行委員会から円柱の破壊の命を受けた」と宣言し、クールベは、政治的理由でヴァンドームの円柱の破壊を正当化し、その芸術的価値を下げた。

 

その後、クールベは芸術作品による伝えられた政治的価値が芸術的価値を中和させると考えた。

円柱を解体するクールベのカリカチュア画。
円柱を解体するクールベのカリカチュア画。

ヨーロッパ以外でもヴァンダリズムが歴史上多く見られる。明治政府による神仏分離令を発端とした廃仏毀釈、紅衛兵の文化大革命による宗教施設の破壊運動、タリバンによるバーミヤン石仏の爆破、ISILによるパルミラの破壊が代表的である。これらは、クールベと同じく政治的価値の否定と芸術的価値の否定が関連している。

 

1871年5月23日、同じくパリ・コミューンによりチュイルリー宮殿が破壊されると、哲学者フリードリッヒ・ニーチェは「文化との戦い」で文化について深く思想する。

 

ニーチェによれば、近代国民国家の確立は「国家」と「文化」を一体のものとみなすものである。「文化」とは「国家」であり、国家を破壊することは、その時代の文化を破壊し、また正義となると論じ、そうだとすれば何が正しい芸術なのか問いただし、ヴァンダリズムの意味を考えると、芸術の破壊は歴史や考古学を尊重する文化においてのみ意味がある行為であると考えている。

 

2019年香港抗議デモでも多数のヴァンダリズムが発生した。デモ隊は中国本土と関連のある企業の店舗に対して落書きをしたり、抗議ポスターを貼り付けるようになった。それはスターバックスであり、元気寿司であり、吉野家だった。中国銀行や、家電メーカーの小米科技(シャオミ)も襲撃された。

自己主張と連動したヴァンダリズム


現代では、ストリート・アートがヴァンダリズムの典型だが、政治的な抗議や異議申し立て、社会風刺の手段としても用いられる。英国の芸術家バンクシーのようにヴァンダリズムが芸術として容認されることもある。

グラフィック・デザイン


デフィッシングは、絵や写真に手書きの文字を上から落書きする行為で、多くのグラフィックデザイナーが使う手法の1つであるが、この方法はステファン・サグマイスターによるルー・リードのCDカバーなどが代表例だが、オリジナル作品の破壊行為と誤解されることもある。

 

改ざん手法(二次創作)のユニークな用途としてはジャン・トゥイトゥによるA.P.CのCDカバーがある。デザイナーがタイトル、ボリューム番号、日付を、プレプリントのブランクCDに自分の手書きで書いた。

 

この種の創造的なヴァンダリズムは、ライレティングやスケッチに限定されない。たとえば、スウェーデンのグラフィックによるMNWレコードのKPISTアルバム「Golden Coat」ではカバーに金のスプレー吹き付けられている。

 

これをヴァンダリムズと見なす場合があるが、ファンの中には演出・デザインとしてスプレーが吹き付けられた各カバーの独自性を高く評価するものもいる。


【美術解説】ギュスターヴ・クールベ「現実に見たものだけを描く写実主義」

$
0
0

ギュスターヴ・クールベ / Gustave Courbet

現実に見たものを描く写実主義


《石割夫人》
《石割夫人》

概要


生年月日 1819年6月10日
死没月日 1877年12月31日
国籍 フランス
表現媒体 絵画、彫刻
ムーブメント 写実主義
代表作

・《オルナンの埋葬》1849年

・《世界の起源》1868年

関連サイト

The Art Story(概要)

WikiArt(作品)

ギュスターヴ・クールベ(1819年6月10日-1877年12月31日)は、フランスの画家。19世紀フランス絵画において、写実主義(レアリスム)運動を率いたことで知られる。

 

クールベは自分が実際に現実で見たものだけを描き、宗教的な伝統的な主題や前世代のロマン主義的幻想絵画を否定した。クールベの伝統的芸術からの自立は、のちの近代美術家、特に印象派キュビズムへ大きな影響を与えた。

 

クールベは19世紀のフランス絵画の革新者として、また作品を通じて大胆な社会的声明を発する社会芸術家として、美術史において重用な位置を占めている。近代絵画の創始者の一人として見なされることもよくある。

 

1840年代後半から1850年初頭にかけての作品からクールベは注目されはじめた。貧しい農民や労働者の姿を描いてコンペに出品した。また、理想化されたものではない普通の女性のヌード絵画《世界の起源》を積極的に描き、当時、常識を逸脱した前衛的な画家とみなされた。 

 

1855年のパリ万博で私費で個展を開く。当初クールベは、パリ万博に《画家のアトリエ》《オルナンの埋葬》を出品しようとしたが展示を拒否されたため、博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、自分の作品を公開し、戦闘的に写実主義を訴えた。この個展の目録に記されたクールベの文章は、のちに「レアリスム宣言」と呼ばれることになる。

 

また当時、画家が自分の作品だけを並べた「個展」を開催する習慣はなく、このクールベの作品展は、世界初の「個展」だとされている。

 

しかし、その後のクールベの作品はほとんど政治的特色は見られないようになり、風景画、裸体画、海洋風景画、狩猟画、静物画が中心となった。

 

左翼の社会活動家としてもクールベは積極的に活動する。1871年にはパリ・コミューンに関与して、ヴァンドーム広場のコラムの解体に関与した疑いで6ヶ月間投獄されたこともあった。釈放後、1873年からスイスへ移り、死ぬまでそこで過ごした。

重要ポイント

  • 現実の世界で自分が見たものだけを描く写実主義運動の指導者
  • 左翼の社会活動家としてパリ・コミューンに関与し投獄される
  • 美術史上最初の「個展」を開催

略歴


若齢期


《パイプをくわえる男》1848-1849年
《パイプをくわえる男》1848-1849年

ギュスターブ・クールベは1819年にオルナンでレージスとシルヴィ・オドゥ・クールベのもとに生まれた。富裕農家だったので、家庭内に反君主的な感情がはびこっていた(クールベの祖父はフランス革命に参加もしていた)。

 

クールベには、ゾーイ、ゼリー、ジュリエットの3人の姉妹がいて、姉妹はクールベにとって最初のドローイングや絵画のモデルとなった。パリへ移ったあともクールベはよくオルナンへ帰省し、狩猟や釣りをしたり、インスピレーションの源としていた。

 

1839年にパリへ移り、スチューベンやヘッセのアトリエで絵を描きはじめる。しかし、独立精神旺盛だったクールベはすぐにアトリエに通うのをやめて、ルーブル美術館に通ってスペイン人やフラマン人やフランス人の古典巨匠たちの絵画を模倣し、また独自の自身のスタイルを発展させていくことを好んだ。

 

最初の作品《オダリスク》はヴィクトル・ユーゴーやジョルジュ・サンドなど作家から影響を受けて制作したものだが、その後、文学から制作の着想に入ることをやめ、現実世界をつぶさに観察し絵画制作をするようになった。1840年代初頭の作品にはいくつかのセルフ・ポートレイトがあるが、それはロマンチックな概念のもと、さまざまな役柄で自身を描いたものだった。

 

1846年から1847年にオランダやベルギーを旅行でレンブラント・ファン・レインやフランス・ハルスの生活や表現を学び、クールベの作品の方向性や人生観がより強化された。1848年までにクールベは若い評論家のあいだで評判がよかった。特に新古典主義や写実主義の批評家のシャンフルーリがクールベを支持していた。

 

1848年にクールベは初めてパリ・サロンに入選し、《オルナンの夕食後》が展示された。この作品は、ジャン・シメオン・シャルダンやル・ナン兄弟の作品を連想させる。クールベは金メダルを受賞し、国が作品を購入した。金メダルの受賞は、もはやパリ・サロンで彼が展示するための審査を必要しないことを意味しており、展示規律が変更される1857年までクールベの作品は審査なしで展示できた。

《オルタナンの夕食後》1848年
《オルタナンの夕食後》1848年

社会主義や共産主義が誕生した1848年


1849年から1850年に、クールベは《石割人夫》を制作。社会主義者で無政府主義者のピエール・ジョゼフ・プルードンはこの作品を農民たちの生活のアイコンとして称賛し、"クールベの作品の中でも最も良い作品"と呼んだ。

 

絵画はクールベが路傍で目撃した光景から影響して制作された。彼はのちにシャンフルーリやフランシス・ウェイにこのように説明している。「こんなに完璧な貧困表現に遭遇することはほとんどない。その瞬間その場で、私は絵画のアイデアを得て、彼らに翌朝アトリエへ来るように話しかけた」

 

クールベが《石割人夫》において重労働にあえぐ下層民衆をなまなましく描いたことは、民衆の貧困や貧富の差が社会問題になっていたことも無関係ではない。プルードンはクールベの支持者で、クールベも後に《プルードンの肖像》を描いている。

 

また、本作が描かれた1848年にはマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が刊行されているが、当時は社会主義やより急進的な共産主義が誕生し、貧困や社会的不平等についての意識が先鋭化した時代であった。

《石割人夫》1850年
《石割人夫》1850年

写実主義


クールベの作品はロマン主義や新古典主義のどちらにも属していない。パリ・サロンにおいては歴史画が画家の最高の呼び名として称賛されるが、クールベは歴史画に関心がなく、彼は「一世紀だけの芸術家は基本的に過去、または未来の世紀の側面を再現することはできない」と話している。

 

そのかわりに、クールベは可能な限り自身が生きている間に自身が経験した事を、芸術の源泉にしようとした。クールベとジャン=フランソワ・ミレーは、現実の農民や労働者の生活から創作のインスピレーションを感じ、それら現実を描いた。

 

クールベは具象的な方法で、風景画、海洋画、静物画を描いた。また農村の中産階級、農民、貧しい労働状態など世俗的で卑しいとみなされる主題を描くことで、作品内に社会問題を取り入れ論争を引き起こした。

 

クールベの作品はオノレ・ドーミエやミレーらとともに「写実主義(レアリスム)」として知られるようになった。クールベにとって写実主義は線と形の完璧さではない。芸術家が自発的に、また荒めに、自然内の不規則な肖像を描き、直接見たものを描こうとすることが重要だった。

 

クールベは、同時代における現実の人生における過酷さを描き、同時に当時のアカデミック芸術の規範的な主題(歴史画や神話など)に挑戦していた。

オルナンの埋葬


1850−1851年のサロンで《石割人夫》や《フラジェージの農民》、《オルナンの埋葬》が大変な評判となった。

 

なかでも《オルナンの埋葬》クールベ作品において最も重要な作品の1つで、1848年9月にクールベが出席した叔父の壮大な葬儀を描いたものである。伝統的な絵画で描かれるものは歴史物語の主人公や役者だったが、本作のモデルは葬儀に出席した一般の人々で、当時のオルナンの生活や現実の人々が表現されている。

 

この絵はクールベの生まれ故郷フランシュ=コンテ地方の町オルナンにおける埋葬場面で、町長、判事、司祭など町民たちが執り行う普通の儀式場面である。平凡な地方ブルジョワの姿を画面にいっぱいに描いたのである。

 

横長の広大な絵画で、大きさは315 cm × 660 cmある。このサイズは本来、歴史画を描くときに利用するキャンバスである。葬儀に関する絵画は以前からもあったが、描く対象は宗教もしくは王室であり、また控えめで単調で儀式的に描くのがならわしだった。そうした主題を広大なキャンバスに描いたことは、批評家と一般公衆の両方から賞賛と激しい非難の両方を浴びることになった。

 

さらに、描かれている人物を見ると、「悲劇性」などを強調する芝居がかったしぐさがまったく見当たらない点もこれまでと異なる。人物をただ横に並べる単調にならべ、動きや変化のない身振り、平俗な人物表現、これまでの伝統的な歴史画と正反対の構図だった。

 

美術史家のサラ・ファンスによれば、「パリにおいて、この葬儀絵画は、まるで汚れたブーツを履いた成金が貴族のパーティを破壊するように、歴史絵画の壮大な伝統をひっくり返す作品と判断された」と評している。

《オルナンの埋葬》1849-1850年
《オルナンの埋葬》1849-1850年

賛否両論が激しくおこなわれたが、これをきっかけに最終的に一般市民は、新しい写実主義スタイルに対して関心を持ちはじめ、これまでの主流だったロマン主義や退廃耽美主義などは人気を失っていった。

 

芸術家はこの絵画の重要性を十分に理解していた。クールベは「オルナンの埋葬は、ロマン主義の埋葬という現実だった」と話している。

 

クールベは有名になり天才と称賛される一方で、「恐ろしい社会主義者」「野蛮人」とも揶揄されるようになった。クールベは一般大衆に対して、学校教育を受けていない農民としてへの認知を植え付けた。

 

一方で、野心的であり、ジャーナリストに対して大胆な宣告を行い、作品内に彼自身の生活を描写するという自己主張は「乱暴な虚栄心の現れ」とも評された。

 

クールベは美術における写実主義の思想を政治におけるアナーキズムと結びつけ、聴衆の支持を得た。また彼は政治的に動機づけたエッセイや論文を執筆して民主主義や社会主義の思想を促進した。

パリ万国博覧会で世界初の個展を開催


1855年、クールベはパリ万国博覧会の展示で14点の絵画を出品。《オルナンの埋葬》やほかの記念的絵画《画家のアトリエ》は展示スペースの問題で展示が拒否される。

 

しかし、クールベは主催者からのこの展示拒否に不満を抱き、万国博覧会の会場のすぐ隣に「写実主義パビリオン」と名前のギャラリー会場を一時的に設立し、《画家のアトリエ》を含むいくつかの展示拒否された作品を展示した。これが現在の「個展」の起源と見なされている。

 

《画家のアトリエ》は画家としてのクールベの人生の比喩したもので、画面中央にクールベ自身と愛人、子ども、動物。画面の右側には友人や好意的な賞賛者を、画面の左側に挑戦者や批判者たちを配置することで、自身を英雄的な存在として見えるようにした。

 

《画家のアトリエ》1855年
《画家のアトリエ》1855年

画面の右側には美術批評家のシャンフルーリやシャルル・ボードレール、コレクターのアルフレッド・ブリュヤスなどが描かれている。画面の左側には司祭、売春婦、墓掘り業者、商人などが描かれている。

 

クールベはシャンフルーリへの手紙に「人々、悲惨、貧困、富、搾取される人々、悪用された人々、死者たちといった些細な人生の別の世界」と説明している。

 

左側の前景には犬を連れた男性がいる。シャンフルーリへの手紙にはこの男性についての言及はないが、この男性は当時のフランス皇帝ナポレオン3世の寓意であり、犬はナポレオン3世が飼っていた狩猟犬であるとみなされている。

 

男性の特徴的な口ひげもナポレオン3世の特徴といえる。彼を左側に配置することで、クールベは公的に皇帝を侮蔑し、犯罪者として描き、フランスの「所有に関する権利」が違法であることを示唆している。

 

ウジェーヌ・ドラクロワのような芸術家はクールベの熱烈な支持者だったけれども、この個展を見に行った一般大衆はほとんどこの個展を嘲笑した。来場者数や売り上げはかんばしくなかったものの、この個展と作品でフランスの前衛的英雄としてのクールベの地位は確固たるものとなった

 

特にアメリカの画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは絶賛し、エドゥアール・マネやのちの印象者の画家といった当時の若手芸術家にクールベの個展は多大な影響を与えた。

 

《画家のアトリエ》はドラクロワ、ボードレール、シャンフルーリなどからクールベのマスターピースと認識されたが、当時の一般大衆はこの作品をまったく理解できなかった。

レアリスム宣言


「レアリスム宣言」

ギュスターヴ・クールベ

1855年

 

「私は古今の巨匠達を模倣しようともなぞろうとも思わない。「芸術のための芸術」を目指すつもりもない。私はただ、伝統を熟知した上で私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった。私が考えていたのは、そのための知識を得る事、私の生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する事、つまり「生きている芸術(アール・ヴィヴァン)」を作り上げる事、これこそが私の目的である。」

エロティックが中心の1860年代


1857年のパリ・サロンでクールベは6つの作品を展示した。これらの中には木の下にたたずむ2人の売春婦を描写した《セーヌ川岸の若い女性》やクールベの晩年期に描かれた多くの狩猟風景の初期作品が含まれていた。

 

1856年に描いた《セーヌ川岸の若い女性》はスキャンダルを巻き起こした。同時代の女性が自らの下着を着飾っている描写に、従来の時代を超越したヌードの女性絵画に見慣れた美術批評家たちはショックを受けた。

 

狩猟絵画と並べて展示するというセンセーショナル作品によって、クールベは「悪評と商売の両方」を自認するようになった。1860年代になるとクールベはおもに《リクライニングに寝そべる裸の女性》や《犬と裸の女性》のようなエロティックな作品の制作が増えていった。

《セーヌ川岸の若い女性》1856年
《セーヌ川岸の若い女性》1856年

ヌード絵画の最高潮ともいえる重要な作品は1866年の《世界の起源》であろう。これは足を開いてベッドで寝そべっている女性の女性器と腹をクローズアップした絵画である。腕、足、頭はフレームからはみ出て描かれていない。

 

モデルはジョアンナ・ヒファーナンで、アメリカ人画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの恋人だったが、フランス人画家ギュスターヴ・クールベとも関係があったのではないかといわれている。

 

本作品はもともとオスマン・トルコ帝国の外交官ハリル・ベイの依頼で制作されたものである。ハリルはクールベに個人的なエロティック絵画のコレクションに加えるための絵を注文した。そのコレクションには他にもクールベの別の絵である《眠る女たち》も含まれている。

 

1868年1月にハリル・ベイは借金返済の資金を得るために骨董商のアントワーヌ・デ・ラ・ナルドに売り払う。その後、さまざまな所有者に行き渡り、1955年に《世界の起源》はオークションで150万フランで競売にかけられ、精神分析学者のジャック・ラカンが落札した。彼はその絵をパリ郊外のギトランクールの村の別荘に飾っていたという。

 

ラカンは彼の義兄のアンドレ・マッソンに、これを隠すための別の絵と、二重構造の額縁の制作を依頼した。本作品は1988年まで一般公開されることはなかった。1988年、ブルックリン美術館でのクールベ回顧展で《世界の起源》が公開された。

 

ベッドに横たわった二人の裸の女性を描いたクールベの絵画《眠る女たち》のモデルも《世界の起源》と同じくジョアンナ・ヒファーナンとみなされている。この作品は画商によって展示されたときに警察沙汰になった。 

1861年ころまで、ナポレオン政権は野党の拡張を妨害し、選挙を不正操作し、議会に自由な議論や権力を与えない権威主義的特徴があった。しかし、1860年代になると、ナポレオン3世はリベラルな野党を組み入れるために譲歩するようになった。

 

この変化で議会での自由議論を許し、議会で行われた議論を一般大衆へ報告することが可能になった。検閲も緩和され、また、1870年に以前にナポレオン体制の反対は指導者だったリベラル派のエミール・オリビエが事実上の首相に任命されたことで最高潮に達した。

 

クールベを賞賛したリベラル派たちに対する穏やかなあらわれとして、1870年にナポレオン3世はクールベにレジオンドヌール勲章を与えた。しかし、クールベは「それよりも私は自由がほしい」と言って公然と叙勲を拒否したため、権力側はこれを怒ったが、支配的な政権に反対する人々はクールベをこれまで以上に支持するようになった。

クールベとパリ・コミューン


1870年9月4日、普仏戦争の間、クールベはのちに人生で厄介となる提案をした。クールベは国防政府に対して、フランス軍の勝利を賞賛するためにナポレオン1世が建設したヴァンドーム広場にあるコラム(円柱)を解体して、再度立て直す提案を出す。クールベは次のように主張した。

 

「ヴァンドーム広場のコラムは記念碑であって芸術的価値に欠けること、過去の王朝の戦争と征服の認識を表現することが恒常化してゆくこと、そしてそれは共和国の感情として許容しがたいこと、これらをかんがみ市民クールベは、国防政府がこのコラムの解体を許可するよう希望する」

 

また、クールベはコラムを解体せずに軍病院のオテル・デ・ザンヴァリッドのような、より最適な場所へ移す提案もしている。ドイツ軍とドイツ芸術家に宛てた公開書簡を書き、ドイツとフランスの大砲が溶け、自由の帽子を戴冠すべきとし、ヴァンドーム広場にドイツとフランスの同盟を象徴する新しい記念碑を作るべきだと主張した。国防政府はコラムを解体するという意見について当時何も言わなかったが、解体という言葉を忘れることもなかった。

 

1871年3月18日、普仏戦争におけるフランスの敗北の余波が広まると、3月26日にパリ・コミューンと呼ばれる革命政府が蜂起し、短期間パリの街を占拠した。

 

クールベもパリ・コミューンに積極的に参加して、芸術連盟を組織し、4月5日に医科大学のグランド・アンフィシアターで初会合を行った。この会合に約300〜400人の画家、彫刻家、建築家、装飾家が出席した。連盟の名簿には、アンドレ・ジル、オノレ・ドーミエ、カミーユ・コロー、ウジェーヌ・ポティエ、ジュール・ダルー、エドゥアール・マネといった有名な芸術家も多数いた。

 

マネはパリ・コミューンが占拠している間、パリにいなかったので会合には参加しなかった。また、コローは75歳という高齢のためコミューン期にはカントリー・ハウスや自身のアトリエにおり、政治的なイベントには参加していなかった。

 

クールベは芸術連盟の会議の議長を務め、閉鎖状態にあったパリにあるルーブル美術館とルクセンブルグ宮殿美術館という2大美術館をできるだけ早く再開し、年に1度開催される伝統的な美術展覧会「パリ・サロン」も復活しようとしたが、急進派から反対された。クールベはサロンは政府の干渉を受けないようするか、または芸術家への報酬を優先すべきだと提案した。

 

4月12日、パリ・コミューンの執行委員会は、まだコミューンの正式なメンバーではなかったが、美術館の開設とパリ・サロンの再組織の任務をクールベに与えた。そして同会議で委員会は以下の令をクールベに発した。

 

「ヴァンドーム広場を解体する」

 

1871年4月12日、"帝権の象徴"を分解することが決議され、5月8日にコラムは倒された。

 

4月16日、辞任したパリ・コミューンの中等会員の代わりの席を埋めるため、特別選挙が開催され、クールベは第6区の代議員として選出された。クールベは美術代表員を務めることになり、4月21日には教育委員会の会員にもなった。

 

4月27日の委員会の議事録によれば、クールベはヴァンドーム広場の円柱を解体して、3月18日のパリ・コミューン権力奪取を記念する寓意的な像に置き換える提案を出しているという。

 

円柱を解体するクールベのカリカチュア画。
円柱を解体するクールベのカリカチュア画。
クールベの提案に基づいて解体された円柱。
クールベの提案に基づいて解体された円柱。

5月28日、フランス軍による最後のパリ・コミューンの鎮圧後、クールベは友人のアパートに隠れていたが、6月7日に逮捕された。8月14日の軍事裁判前の彼の裁判で、クールベは急進派をなだめるためにコミューンに参加したのみで、またクールベはコラムを違う場所へ移動させたいと思っていたが、破壊したいとは思っていなかった

 

また、クールベは短期間しかパリ・コミューンに参加しておらず、議会にもほとんど出席していないと話した。クールベは有罪判決を受けたが、ほかのコミューンの指導者よりも刑は軽く、6ヶ月間の懲役および500フランの罰金刑だった。

 

パリにあるサン・ペラギー刑務所で服役中、イーゼルと絵具は許されたが、モデルを呼ぶことは許可されなかった。そこで彼は有名な果物と花の静物画シリーズをはじめた。

服役中に制作された静物画シリーズの1枚。
服役中に制作された静物画シリーズの1枚。

晩年


クールベは1872年3月2日に懲役刑を終えたが、ヴァンドーム広場の破壊による問題はまだ終わっていなかった。

 

1873年、新たに選出された共和国大統領パトリス・ド・マクマオンは、クールベによって支払われるべきコストで広場を再建する告知をおこなった。支払い不能なクールベは破産を避けるためにスイスへ亡命する。

 

その後、クールベはスイス国内のさまざまな展示会に参加。スイス諜報機関の監視下のもと、クールベスは小さなスイスの芸術市場で活躍し、「写実主義学校」の指導者として評判を高め、オーギュスト・ボード・ボビーやフェルディナント・ホドラーといったスイスの若い画家たちに多大な影響を与えた。

 

この時代の重要な作品には、いくつかのマス魚の絵画が含まれる。マスはスイスに亡命したクールベ自身の寓意的表現として解釈されている。最晩年の年にクールベは、フランスとスイスの国境に位置するジュラ山脈の大地の深い部分から神秘的に湧き上がる湖などの風景画を描いた。また、クールベは亡命中に彫刻制作もしている。

 

1877年5月4日、クールベはヴァンドーム広場の再建費用の見積額が伝えられた。その額は323,091フラン、68サンチームだった。クールベは91歳の誕生日までの33年間、毎年10,000フランを分割で支払う罰金刑が言いわたされた。1877年12月31日、大量の飲酒による肝臓病が原因で58歳で亡くなった。

《マス》1871年
《マス》1871年

キュビスムへの影響


2人の19世紀の芸術家が20世紀のキュビスムの出現の準備をした。クールベとポール・スザンヌである。スザンヌに関してはキュビスムに影響を与えたことがよく知られている。クールベの重要性はギヨーム・アポリネールにによって語られている。

 

彼の著書『キュビスム画家:芸術思索』(1913年)上で「クールベは新しい芸術家たちの父である」と記載されている。また、キュビスムの画家のジャン・メッツァンジェアルベール・グレーズはよくクールベを「全近代美術の父」としてたとえていた。

 

クールベ、スザンヌともに自然描写方法を伝統的な方法を超えようと努めてきた。セザンヌを弁証法的な方法を通じて、自身が見ていたものを咀嚼したのに対し、クールベは唯物主義的方法を通じて自身が見ていたものを咀嚼した。キュビスムは美術上の革命を発展させる上で、クールベとセザンヌの2つのアプローチを組み合わせていたとされる。

 

正式なレベルでは、クールベは彼が描いていた物理的な特性、すなわち、質量や質感が重要である。美術批評家のジョン・バーガーは言った「クールベ以前にあれほど妥協を許さず自身が描いているものの密度や質量を強調していた作家はいなかった」と話している。物質的な現実性の強調は彼の主題に品位を与えることになった。

 

バーガーは「キュビストの画家たちは彼らが表現していたものを物理的な存在として確立するため大変な苦労をした。そしてこのプロセスにおいて、キュビストたちはクールベの後継である」と評している。

 

クールベは多くの若手芸術家に慕われた。クロード・モネは1865年から1866年にかけて制作した《草上の昼食》でクールベの肖像を描いている。ジェームズ・マクニール・ホイッスラーやポール・スザンヌ、またヴィルヘルム・ライブルを中心としたドイツの画家に特に影響を与えている。


 

■参考文献

Gustave Courbet - Wikipedia

・西洋美術の歴史7 19世紀 中央公論社

http://ogi.cbc-net.com/?eid=55

 

関連書籍




【美術解説】アーティビズム「芸術と行動主義の融合」

$
0
0

アーティビズム / Artivism

芸術と行動主義の融合


《ボム・ハンガー》バンクシー
《ボム・ハンガー》バンクシー

概要


アーティビズムは「アート」と「アクティビズム」を結合した混成語である。1997年に東ロサンゼルスのチカーノアーティストやメキシコのチアパスにあるサパティスタの集会から派生したものがルーツとされている。

 

「アーティビスト」と「アーティビズム」という言葉は、ケツァール、オゾマトリ、ムヘレスデメイズなどのアーティストやミュージシャン、その他の東ロサンゼルスのアーティストによるさまざまなイベント、アクション、芸術作品を通じて知られるようになった。

 

市民の間で反戦と反グローバリゼーションの抗議が出現し、拡散するにつれて、アーティビズムは発展していった。

 

多くの場合、芸術家は政治的問題を取り上げがちだが、社会問題、環境問題、技術的意識を高めるために焦点が当てられることも珍しくない。

 

映画や音楽などの従来のメディアを利用して、意識を高めたり、変化を促したりするほか、文化の妨害、広告の改ざん、ストリート・アート、話し言葉、抗議デモ、ヴァンダリズムなどの活動に関わることも多い。

 

アーティビストと分類される代表的な芸術家は、アイ・ウェイ・ウェイバンクシー、JRなどが挙げられる。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Artivism、2020年1月24日


ステンシル・グラフィティ「型紙を使って素早く作成するグラフィティ」

$
0
0

ステンシル・グラフィティ / Stencil graffiti


型紙を使って素早く作成するグラフィティ

2009年バレンタインデーにカリフォルニアに描かれたアメリカのストリート・アーティストABOVEのステンシル・グラフィティ作品。
2009年バレンタインデーにカリフォルニアに描かれたアメリカのストリート・アーティストABOVEのステンシル・グラフィティ作品。

概要


ステンシル・グラフィティとは、紙、厚紙、その他のメディウムで作られたステンシル型紙を使って素早く複写可能な絵やテキストを作成するグラフィティ手法の一種である。

 

ステンシル全体を塗り潰すことで、その下にある表面にイメージを形成させることができる。複数のステンシルをレイヤーのように使うことで色の数を増やしたり、奥行きが出るよな錯覚を形成させることもできる。

 

ステンシルを使う芸術家の多くは動機がある。大部分のアーティストにとっては作品を宣伝して認めてもらうために利用しているが、政治的メッセージを訴えるのに簡単方法として利用するものもいる。

 

ステンシル・グラフィティは、型紙がある限り均質な作品が制作でき、また、ほかの従来のタギング手法に比べると芸術家にとって非常に素早く複雑な作品を簡単に複製できる点がメリットとされている。

歴史


ステンシル・グラフィティは1960年代に始まった。フランス人アーティスト、アーネスト・ピグノン・アーネストの原爆犠牲者のステンシルのシルエットが、1966年にフランス南部でスプレー塗装された。

 

ブレック・ル・ラットの最初のスプレーによるステンシル・グラフィティは、1981年にパリで発見されている。彼はニューヨークのグラフィティ・アーティストから影響を受けているが、自作のものを作りたかったという。

 

オーストラリアの写真家レニー・エリスは、1985年に出版した『The All New Australia Graffiti』で、シドニーやメルボルンに現れた初期ステンシル・アートのいくつか記録している。

 

本では、アメリカの写真家チャールズ・ゲートウッドがエリスに手紙で最近ニューヨークに現れはじめたステンシル・グラフィティの写真を送ったことが記述されている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Stencil_graffiti、2020年1月25日


【美術解説】近代美術「モダンアート」

$
0
0

近代美術 / Modern art

近代人の芸術を創造するため伝統的な芸術を破壊した19世紀後半の芸術


クロード・モネ《傘をさす女》
クロード・モネ《傘をさす女》

概要


近代美術とは


近代美術(モダンアート)は、実験精神を重視し、過去の伝統的な美術様式から脱しようとした思想や様式を抱いた芸術作品。期間としてはおおよそ1860年代から1970年代までに制作された作品で、それ以降は現代美術と区別されることが多い。

 

写実的な初期印象派から脱しようとした後期印象派や新印象派、またリアリズムから脱しようとした象徴主義が近代美術の源流とされている。

 

また「近代」とは、一般的には封建主義時代より後の資本主義社会・市民社会の時代のこと、すなわち「個人主義」や「民主主義」の時代のことを指し、国家や社会の権威に対して個人の権利と自由を尊重することを主張する立場をとる姿勢ある。

 

つまり、近代美術の本質とはそれ以前の国家やキリスト教の宗教の権威を高めるプロパガンダ美術に対して、個人の自由を主張する民主主義の芸術であるといえるだろう。

 

近代美術の代表的な萌芽といえる芸術家は、自宅でこっそり黒い絵画シリーズを描いていたフランシス・デ・ゴヤ、フランス革命を描いたウジェーヌ・ドラクロワ、自分が実際に見たものだけを描いたギュスターブ・クールベなどだろう。

 

芸術スタイルとして、美術史において一般的に近代美術として認知されているのは、クロード・モネらの印象派、フィンセント・ファン・ゴッホポール・ゴーギャンポール・セザンヌジョルジュ・スーラといった後期印象派の画家たちで、彼らの動向こそが視覚美術のスタイルにおける近代美術の発展における本質的な存在だった。

重要ポイント

  • 1860年代から1970年代までに制作された美術
  • 個人の表現の自由を尊重した芸術のことを指す
  • 芸術スタイルとしては一般的に印象派以降のことを指す

近代美術の起源


近代彫刻や建築は19世紀の終わりに現れたとみなされているが、近代絵画の起源はもう少し早い。おそらく、最も一般的に近代美術の誕生年とみなされているのは1863年である。この年は、エドワード・マネがパリの落選展で「草上の昼食」を展示して、批評家たちに批判されるなどスキャンダルを巻き起こした年である。

 

マネ以前の日付もいくつか提案されている。たとえば、ギュスターヴ・クールベの1855年作「画家のアトリエ」や、ジャック=ルイ・ダヴィッドの1784年作「ホラティウス兄弟の誓い」を近代美術の始まりとみなす人もいる。

 

美術史家のH.ハーバード・アーナソンによれば「それぞれの日付は、近代美術の発展において重要な意味を持つが、まったく新しい始まりの年ではない。近代美術は100年かけてゆっくりと生成されてきた」と話している。

 

最終的に近代美術と結びつきのある思考の源は、17世紀の啓蒙主義にまで遡ることができる。美術批評家のクレメント・グリーンバーグは、たとえば哲学者のエマニエル・カントを「最初の実際のモダニスト」と描写し、「啓蒙主義は外部から批判し、モダニズムは内部から批判する」と書いた。

 

1789年のフランス革命とナポレオン時代は、何世紀にもわたってほとんど疑問ももたず慣れ親しんできた政治や社会制度を根絶やしにしたことで、近代美術の発展のルーツであるともいえる。ジャック・ルイ・タヴィッドが描いた《皇帝ナポレオン一世の聖別式》やアングルの《玉座のナポレオン一世》の主役は、国王でも、教皇でもなく、庶民からの圧倒的なカリスマによって最高権力にのぼりつめた個人が描かれた。

エドゥアール・マネ《草上の昼食》(1862-1863年)
エドゥアール・マネ《草上の昼食》(1862-1863年)
アングル『玉座のナポレオン1世』(1806年)
アングル『玉座のナポレオン1世』(1806年)

19世紀になると多くの芸術家たちが、自分たちが興味のある人物、場所、考えを自由にキャンバスに描写するようになった。ジグムント・フロイトの『夢の解釈』が1899年に出版され無意識の世界に興味が示されるようになると、多くの芸術家たちは、自己の経験を表現する手段として、夢、象徴性、個人的ビジョンを探求し始めた。

 

また、こうしたなか芸術は現実的な世界を描写する必要があるという觀念に挑戦し、色、非伝統的な素材、新しいテクニックとメディウムを利用して実験的な芸術制作を行うようになった。

 

たとえば、1830年代に発明された写真という表現手段がその1つであり、写真は世界を描写・再解釈するための新しい方法となった。より具体的には、古代神話や聖書などを基盤とした物語的芸術から抽象的芸術への移行である。

芸術運動と近代美術


「芸術運動(art movement)」は、特定の共通した芸術哲学や目標を持った芸術の傾向・スタイルのこと。芸術運動は普通、設立者または批評家などによって定義された哲学や目標のもと、限定された期間(通常は数ヶ月、数年、数十年)内で、継続的な活動が行われる。

 

近代美術において「ムーブメント」の存在はかなり重要な要素であり、連続的な動きを持った芸術活動は新しい前衛表現として見なされ、美術史に記録されることが多い。

 

特に視覚芸術の世界においては、現代の美術の時代になってさえも、芸術家、理論家、評論家、コレクター、画商たちはモダニズムの絶え間ない継続や近代美術の継続に注意を払っており、新しい芸術哲学の出現に対して歓迎の態度を示す。

 

近代美術の先駆的な芸術運動はロマン主義、現実主義、印象派だった。その後19世紀後半までに後期印象派と象徴主義が出現した。これら運動の影響は、東洋装飾芸術、特に日本の浮世絵版画の影響も大きく色彩変化をもたらした。

おもな近代美術の芸術運動


色彩や筆致そのものが芸術の表現主義の系譜


19世紀の末から20世紀初頭にかけての時期の世紀末の画家たちは、写実主義の頂点としての印象派に対する反動から、内部の世界への眼の持つ可能性や感覚的で移ろいやすい印象よりも知的な構成、形態を重視するなどさまざまな形で探求し続けた。

 

近代美術の表現には大きく3つの潮流がある。

 

1つは後期印象派らの画家、とりわけゴッホやゴーギャンらの色彩そのものが有する独自の表現力を信じて、魂から魂に語りかける芸術を創造である。ゴッホやゴーギャンらは、特にフォービズム、表現主義、抽象芸術、プリミティヴィズムに影響を与えた。

 

20世紀初頭、アンリ・マティスをはじめ、ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、ラウル・デュフィ、ジャン・メッツァンジェ、モーリス・ド・ヴラマンクといった若手画家たちがパリの美術世界で革命を起こす。彼らは“フォービィスム(野獣派)”と呼ばれ、色彩それ自体に表現があるものと見なし、とりわけ、人間の内的感情や感覚を表現するのに色彩は重要なものとし、色彩自体が作り出す自律的な世界を研究した。

 

特にアンリ・マティス作品の「ダンス」は、マティス自身の芸術キャリアにとっても、近代絵画の展開においても重要な作品となる。この作品はプリミティブ・アートに潜む芸術の初期衝動を反映したものであるという。

 

冷たい青緑の背景と対照に人物造形は温かみのある色が使われ、裸の女性たちが輪になって手を繋ぎ、リズミカルに踊っている。絵からは縛られない自由な感情や快楽主義的なものが伝わってくる。

フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889年
ニューヨーク近代美術館にあるマティス《ダンス(Ⅰ)》
ニューヨーク近代美術館にあるマティス《ダンス(Ⅰ)》

抽象芸術や理論的な表現の系譜


2番めの潮流は、感覚的で移ろいやすい印象よりも知的な構成や形態を重視するポール・セザンヌの理論に基づいた表現である

 

セザンヌの影響が色濃いのはパブロ・ピカソである。ピカソは自然の形態を立方体、球体、円錐の集積と見て、これらを積み重ねることで、対象を“再現”するというより“構成”してゆくというセザンヌ方法を基盤としてキュビスム絵画を発明した。

 

1907年の「アヴィニョンの娘たち」が近代美術の代表的な作品で、プリミティズム・アートの導入や従来の遠近法を無視したフラットで二次元的な絵画構成において、伝統的なヨーロッパの絵画へのラディカルな革命行動を起こした。

ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》1904年
ポール・セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》1904年
パブロ・ピカソ《アヴィニョンの娘たち》1907年
パブロ・ピカソ《アヴィニョンの娘たち》1907年

内面的で非現実的な世界を表現する系譜


最後は、目に見える世界だけを追いかけるリアリズム、その延長線上の印象主義に対する反動として19世紀に発生した象徴主義の潮流である。象徴主義はゴッホやゴーギャン、セザンヌなどの後期印象派の流れとは別に、ほぼ並行して発生した美術スタイルである。

 

象徴主義はヨーロッパ全域、アメリカ、ロシアにも見られるもので、ギュスーターブ・モロー、オディロン・ルドン、イギリスのラファエル前派、グスタフ・クリムト、アルノルト・ベックリン、エドヴァルド・ムンクなどが代表的な画家として挙げられる。

 

象徴主義はとりわけカンディンスキー、モンドリアン、ロシア・アヴァンギャルド、シュルレアリスムに多大な影響を及ぼした。

オディロン・ルドン《眼=気球》1878年
オディロン・ルドン《眼=気球》1878年
サルバドール・ダリ《記憶の固執》1931年
サルバドール・ダリ《記憶の固執》1931年

非美術教育の芸術


そのほかに「プリミティヴィズム(原始芸術」や「素朴派(ナイーブアート)」と呼ばれる流れがある。

 

素朴派は日曜画家のアンリ・ルソーを始祖とし、プロのうまい絵に対するアマチュアな素人のへたな稚拙な絵であるが、同時にそのへたさ加減や稚拙さが魅力になっている絵画である。

アンリ・ルソー《子どもの肖像》1908年
アンリ・ルソー《子どもの肖像》1908年

以上のように、近代美術をざっくり分類すると

  • 個人の感情を優先する「表現主義」
  • 知的で理性に基づいた「抽象主義」
  • 個人の内面の非現実的な世界を描いた「象徴主義」
  • 美術教育を受けていない素人たちの「素朴派」

4つの系譜がある。この系譜では21世紀の現在でも形を続いている。詳細は後に記述する。

近代美術は1970年以降の現在も続いている


近代美術と現代美術は区別されがちだが、実際のところ21世紀の現在にいたるまで近代美術は継続している。その理由を5つの共通点から見ていこう。

科学や資本主義の発展に伴う世俗化の進行


近代美術の誕生は、西ヨーロッパや北アメリカにおいて、生産・交通などで大きな技術革新が生まれ、経済・社会・文化の構造に変革をもたらした18世紀から19世紀にかけて発生した産業革命までさかのぼる。

 

この時代、鉄道や蒸気機関など新しい輸送形態が誕生し、人々の生活や労働形態を変化させ、旅行が生まれ、国内外で世界観を広げて新しい思想を生み出すようになった。都市の中心が繁栄するにつれ、労働者は産業集約のため都市に集まり、都市人口は急増した。科学技術の進歩と産業革命を経て資本主義が高度に発達する一方、宗教の衰退をもたらし、キリスト教の社会的権威は次第に弱体化し、世俗化が進行していった。

 

西洋美術の表現の変遷もこのような社会背景の変遷と密接に結びついている。古典古代の理想美に絶対的な規範を見ていた伝統的な価値観から、美を主観的なものとして相対化し、多様であることを認める近代的な価値観へと移行したからにほからない。

 

ロマン派の画家ドラクロワは「美の多様性について」(1857年)という文章のなかで、美は古代ギリシアだけにあるのではなく、異なる時代や地域には異なる美が存在すること、偉大な詩人や芸術家が美を生み出すのは各々の個性や特異性からであると主張している。このような美意識の変化は近代以前の芸術観から根本的な変化のあらわれてあるといっていい。

 

21世紀の現在、現代美術やアート・ワールドと呼ばれている世界においても、このような世俗化の進行と並行した現代美術市場の成長、また伝統的な美から多様性であることを良しとする美の価値基準は変わっていないといえる。

画商=批評家システム


作品の受容という観点から美術価値の変化が起こった見逃すことはできない。19世紀末から従来の「アカデミック・システム」から「画商=批評家システム」への移行が始まった。

 

19世紀以前、まだ芸術家たちは一般的に富裕パトロンや教会からの注文で作品を制作していた。このような芸術の大半は宗教や神話のシーンを描写する物語芸術であり、鑑賞者にその内容を教授するものだった。

 

19世紀になると資本主義や中産階級の発展にともなって、侯貴族や宗教勢力にかわって中産階級の市民が新たな絵画の受容層に変わりはじめる。受容層の変化は評価となる作品にも大きな影響を与え、これまでの歴史画や肖像画、宗教画よりも、わかりやすく親しみやすい風景画や風俗画が受け入れられるようになった。つまり「個人主義」である。

 

また、芸術家のなかにも、アカデミック・システム内で成功をすることを目指さなくなった。クールベ、マネ、印象派などの画家たちは、フランスのアカデミック・システムから距離を置き、画商経由で特にアメリカの中産階級に受け入れられて成功した。19世紀後半に誕生したこのような「画商=批評家システム」こそは絵画受容の新しい枠組みであり、今日のアート・ワールドまで強固にまで機能し続けている。

パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらのキュビスムを中心とした前衛芸術の画商として名を馳せたカーンワイラーは現代美術におけるギャラリストの先駆けともいわれる新しい美術市場システムを作った。
パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらのキュビスムを中心とした前衛芸術の画商として名を馳せたカーンワイラーは現代美術におけるギャラリストの先駆けともいわれる新しい美術市場システムを作った。

ポスターや装飾など大衆芸術も対象範囲に


19世紀には、絵画、彫刻、建築といったこれまでのファインアートに対して、版画や装飾芸術、グラフィックデザインなどの大衆芸術が発展したのも大きな特徴だ。

 

1798年にドイツのゼーネフェルダーが発明したリトグラフは、大量印刷を可能にし、ロートレックミュシャといった人気グラフィックデザイナーを誕生させた。

 

中産階級の発展で壁紙や家具、書物の挿絵や装幀、ステンドグラスやタピスリー、モザイクや陶芸産業が盛んになると、芸術性の高い装飾芸術がヨーロッパに広がっていった。ラファエル前派やウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動などが代表的な例だろう。19世紀末に流行したアール・ヌーヴォーは19世紀固有の装飾芸術運動の頂点ともいうべきだろう。

21世紀の今日、マーク・ライデンをはじめロウブロウ・アートがゆっくりファインアートと同一市場で扱われはじめている点において共通しており、今後もこの傾向は続くだろう。


2018年アートバーゼル香港の様子。現代美術だけでなく、ロウブロウアートのマーク・ライデンの個展や、ジョルジョ・デ・キリコやパブロ・ピカソなど20世紀初頭の前衛芸術の巨匠たちの作品も一緒に展示・販売されている。

写真や映像などニューメディアの誕生


写真の出現も大きい。1839年にダゲレオタイプの発表以後、写真術は改良を重ねて現実の再現力を獲得し、写実絵画の地位を脅かすことになった。

 

こうしたなかで、画家たちは写真と異なる表現方法を見出す必要があり、現実をありのまま再現するのではなく、画家が主観で感じたものを再現する印象派やロマン主義などが発展した。

 

その一方、写真の方でもアルフレッド・スティーグリッツなどは、現実をありのまま再現することから離れて、絵画のような「芸術」になることを目指し始めた

 

また、映像の出現(1859年)も絵画に大きな影響を与えた。映像の発明によって絵画における物語表現の重要度が低くなり、絵画にしかない特性を追求する動機付けを与えた。

写真を絵画のような「芸術」に昇華させた近代写真の父アルフレッド・スティーグリッツとアメリカ近代美術の母ジョージア・オキーフ。
写真を絵画のような「芸術」に昇華させた近代写真の父アルフレッド・スティーグリッツとアメリカ近代美術の母ジョージア・オキーフ。

外来文化の流入と多様性


オリエンタリズム(東方趣味)ジャポニスム(日本趣味)プリミティヴィズム(原始主義)など、異文化との接触を通した19世紀美術の変容も忘れてはいけない。19世紀は万国博覧会の時代だった。

 

この問題は、19世紀の西洋列強の植民地化の進展と密接な結び付きがある。西洋列強が領土的野心とともに世界中に進出することで、西洋と外部の距離が一気に縮まり、その結果、外来からさまざまな文化や美術が流行する。

 

こうして生まれたのが万国博覧会である。特に1855年から1900年までに5度開かれたパリ万国博覧会は芸術家に大きな影響を与えた。ちなみにジャポニスムが西洋美術に本格的に浸透しはじめるのは1867年のパリ万国博覧会に日本が初めて正式に参加してからである。

 

今日のアウトサイダー・アートは、20世紀初頭に流行した素朴派やプリミティヴィズムの系譜にあるといえる。現在、アウトサイダー・アートはアート・ワールドとは別の市場で運営されているが、今後、1つの市場として扱われ、また美術史の流れの1つとして記録されるるかもしれない。

アウトサイダー・アートの巨匠ヘンリー・ダーガー
アウトサイダー・アートの巨匠ヘンリー・ダーガー

おもな近代美術の芸術運動


19世紀


ロマン主義フランシスコ・デ・ゴヤウィリアム・ターナーウジェーヌ・ドラクロワ

 

写実主義ギュスターヴ・クールベカミーユ・コロージャン=フランソワ・ミレー

 

印象派フレデリック・バジールギュスターヴ・カイユボットメアリー・カサットエドガー・ドガアルマン・ギヨマンエドゥアール・マネクロード・モネベルト・モリゾピエール=オーギュスト・ルノワールカミーユ・ピサロアルフレッド・シスレー

 

後期印象派ジョルジュ・スーラポール・ゴーギャンポール・セザンヌヴィンセント・ヴァン・ゴッホトゥールーズ・ロートレックアンリ・ルソー

 

・ラファエル前派:ジョン・エヴァレット・ミレイ

 

象徴主義ギュスターヴ・モローオディロン・ルドンエドワード・ムンクジェームズ・ホイッスラージェームズ・アンソールアルノルト・ベックリン

 

ナビ派ピエール・ボナールエドゥアール・ヴュイヤール、フェリックス・ヴァロットン、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエ

 

アール・ヌーヴォーオーブリー・ビアズリーアルフォンス・ミュシャグスタフ・クリムト、アントニオ・ガウディ、オットー・ワーグナー、ウィーン工房、ヨーゼフ・ホフマン、アドルフ・ロース、コロマン・モーザー

 

分割描法ジャン・メッツァンジェロベール・ドローネー、ポール・シニャック、アンリ・エドモンド・クロス

 

初期近代彫刻家:アリスティド・マイヨール、オーギュスト・ロダン

20世紀初頭(第一次世界大戦まで)


抽象芸術フランシス・ピカビア、フランティセック・クプカ、ロベルト・ドローネー、レオポルド・シュルヴァージュ、ピエト・モンドリアン

 

フォーヴィスムアンドレ・ドランアンリ・マティスモーリス・ド・ヴラマンクジョルジュ・ブラック

 

表現主義:ブリュッケ、青騎士、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、ワシリー・カンディンスキーフランツ・マルクエゴン・シーレオスカー・ココシュカ、エミール・ノルデ、アクセル・トーンマン、カール・シュミット=ロットルフ、マックス・ペヒシュタイン

 

未来主義:ジャコモ・バッラ、ウンベルト・ボッチョーニ、カルロ・カッラ、ジーノ・セヴェリーニ、ナターリヤ・ゴンチャローワ、ミハイル・ラリオーノフ

 

キュビスムパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックジャン・メッツァンジェアルベール・グレーズフェルナンド・レジェロベルト・ドローネー、アンリ・ル・フォコニエ、マルセル・デュシャン、ジャック・ヴィヨン、フランシス・ピカビア、フアン・グリス

 

彫刻パブロ・ピカソアンリ・マティス、コンスタンティン・ブランクーシ、ジョゼフ・クサキー、アレクサンダー・アーキペンコ、レイモンド・デュシャン・ヴィヨン、ジャック・リプシッツ、オシップ・ザッキン

 

オルフィスムロベルト・ドローネー、ソニア・ドローネー、フランティセック・クプカ

 

写真ピクトリアリスム、ストレートフォトグラフィ

 

シュープレマティスムカシミール・マレーヴィチアレクサンドル・ロトチェンコエル・リシツキー

 

シンクロミズム:スタントン・マクドナルド=ライト、モーガン・ラッセル

 

ヴォーティシズム:パーシー・ウインダム・ルイス

 

ダダイスム:ジャン・アルプ、マルセル・デュシャンマックス・エルンストフランシス・ピカビアクルト・シュヴィッタース

第一次大戦後から第二次世界大戦まで


形而上絵画ジョルジョ・デ・キリコ、カルロ・カッラ、ジョルジョ・モランディ

 

デ・ステイル:テオ・ファン・ドゥースブルフ、ピエト・モンドリアン

 

表現主義エゴン・シーレアメディオ・モディリアーニ、シャイム・スーティン

 

新即物主義:マックス・ベックマン、オットー・ディクス、ジョージ・グロス

 

フィギュラティブ・アートアンリ・マティス、ピエール・ボナール

 

アメリカ近代美術:スチュアート・デイヴィス、アーサー・ダヴ、マーズデン・ハートレイ、ジョージ・オキーフ

 

構成主義:ナウム・ガボ、グスタフ・クルーツィス、モホリ=ナジ・ラースロー、エル・リシツキーカシミール・マレーヴィチアレクサンドル・ロトチェンコ、ヴァディン・メラー、ウラジーミル・タトリン

 

シュルレアリスムルネ・マグリットサルバドール・ダリマックス・エルンストジョルジョ・デ・キリコアンドレ・マッソンジョアン・ミロ

 

エコール・ド・パリマルク・シャガール

 

バウハウスワシリー・カンディンスキーパウル・クレー、ヨゼフ・アルバース

 

彫刻:アレクサンダー・カルダー、アルベルト・ジャコメッティ、ヘンリ・ムーア、パブロ・ピカソ、ガストン・ラシェーズ、フリオ・ゴンサレス

 

スコティッシュ・カラリスト:フランシス・カデル、サミュエル・ピプロー、レスリー・ハンター、ジョン・ダンカン・ファーガソン

 

シュプレマティスムカシミール・マレーヴィチ、アレクサンドラ・エクスター、オルガ・ローザノワ、ナジデダ・ユーダルツォーヴァ、イワン・クリウン、リュボーフィ・ポポーワ、ニコライ・スーチン、ニーナ・ゲンケ・メラー、イワン・プーニ、クセニア・ボーガスラヴスカイヤ

 

プレシジョニズム:チャールズ・シーラー、ジョージ・オールト

第二次世界大戦以後


・フィギュラティヴ・アート:ベルナール・ビュフェ、ジャン・カルズー、モーリス・ボイテル、ダニエル・デュ・ジャナランド、クロード・マックス・ロシュ

 

・彫刻:ヘンリ・ムーア、デビッド・スミス、トニー・スミス、アレクサンダー・カルダー、イサム・ノグチ、アルベルト・ジャコメッティ、アンソニー・カロ、ジャン・デュビュッフェ、イサック・ウィトキン、ルネ・イシュー、マリノ・マリーニ、ルイーズ・ネヴェルソン、アルバート・ブラーナ

 

・抽象表現主義ウィレム・デ・クーニングジャクソン・ポロック、ハンス・ホフマン、フランツ・クライン、ロバート・マザーウェル、クリフォード・スティル、リー・クラスナー、ジョアン・ミッチェル、マーク・ロスコバーネット・ニューマン

 

・アメリカ抽象芸術:イリヤ・ボロトフスキー、イブラム・ラッサウ、アド・ラインハルト、ヨゼフ・アルバース、バーゴインディラー

 

アール・ブリュットアドルフ・ヴェルフリ、オーガスト・ナッターラ、フェルディナン・シュヴァル、マッジ・ギル、ポール・サルヴァドール・ゴールデングリーン

 

・アルテ・ポーヴェラ:

・カラーフィールド・ペインティング

・タシスム

・コブラ

・デ・コラージュ

・ネオ・ダダ

・具象表現主義

・フルクサス

・ハプニング

・ダウ・アル・セット

・グループ・エルパソ

・幾何学抽象

・ハードエッジ・ペインティング

・キネティック・アート

・ランド・アート

・オートマティスック

・ミニマル・アート

・ポスト・ミニマリズム

・リリカル抽象

・新具象主義

・トランスアバンギャルド

・具象自由主義

・新写実主義

・オプ・アート

・アウトサイダー・アート

・フォトリアリズム

・ポップ・アート

・戦後ヨーロッパ具象絵画

・新ヨーロッパ絵画

・シャープ・キャンバス

・ソビエト絵画

・スペーシャ

・ビデオアート

・ビジョナリー・アート



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」

$
0
0

モナ・リザ / Mona Lisa

世界で最も有名で価値のあるレオナルドの絵画


レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-1506年ころ。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナ・リザ》1503-1506年ころ。Wikipediaより。

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1503-1506年頃 
メディア 油彩、ポプラパネル
サイズ 77 cm × 53 cm
ムーブメント 盛期ルネサンス
所蔵者 ルーブル美術館

《モナ・リザ》、または別名《ラ・ジャコンダ》はレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された上半身が描かれた半身肖像画。盛期イタリア・ルネサンスの傑作の1つと評価されている。「世界で最も有名で、多くの人に鑑賞され、書かれ、歌にされ、パロディ化された」芸術作品と言われている。77 cm × 53 cm。パリのルーブル美術館が所蔵している。

 

また、《モナ・リザ》は世界で最も高額の絵画である。1962年1億ドルという史上最高の保険金がかけられている。これを現在の価格(2020年)に換算すると約6億5000万ドル相当の保険価格に相当する。

 

絵画のモデルは多くの批評家たちによりフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であるリザ・ゲラルディーニの肖像とみなされており、白いロンバルディアのポプラのパネルに油彩で描かれている。

 

おもな制作時期は1503年から1506年と推定されているが、1517年まで遅くまで制作し続けてた可能性がある。また、最近の研究では1513年以前はまだ制作していないという研究報告もされている。

 

フランス王フランシス1世が購入してから、その後、フランス共和国の所有物となり、1797年から現在までパリのルーブル美術館に常設展示されている。

 

しばしば「謎めいた」と言及されるスマフート技法を用いて描かれた口もとの微笑表現、堂々とした構図、形態における緻密な造形、だまし絵めいた雰囲気など、さまざまな点において斬新であったこの作品は、現在に至るまで人々を魅了し続け、研究の対象となってきた。 

重要ポイント


  • 盛期イタリア・ルネサンスの傑作の1つ
  • 世界で最も高額な絵画の1つ(約6億5000万ドル相当)
  • 世界で最も有名な美術作品



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

$
0
0

最後の晩餐 / The Last Supper

イエスと十二人の弟子の晩餐を描いた有名画


レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》
レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1490年代
サイズ 460 cm × 880 cm
メディウム テンペラ、ジェソ
所蔵者 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

《最後の晩餐》は、15世紀後半にイタリアの画家レオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された壁画作品。ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描かれており、西洋世界で最も有名な絵画の1つと認識されている。

 

制作開始時期1495年から96年頃と想定されており、レオナルドのパトロンだったミラノ公爵ルドヴィコ・スフォルツァの教会と修道院の建物の改修計画の一部として依頼を受け制作されたものである。

 

この絵は、ヨハネの福音書13:21で伝えられているように、イエスの最後の晩餐と使徒たちの様子で、レオナルドが十二使徒のうちの1人がイエスを裏切ると告知して十二使徒の間で起きた驚きを描写している。

 

使用された道具やさまざまな環境要因、意図的に付けられた損傷のため、1999年に最後の修復が幾度も行われたにもかかわらず。今日ではオリジナルの絵はほとんど残っていない。


《最後の晩餐》のサイズは460cm×880cm(180インチ×350インチ)で、イタリアのミラノにあるサンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描かれている。主題は食堂における伝統なものだったが、レオナルドが描いた当時の部屋は食堂ではなかった。

 

主要となる教会の建物は、描いた当時の1498年に完成したばかりだったが、ルドヴィコ・スフォルツァの計画で家族の大霊廟にリフォームされる予定だった。この絵はルドヴィコが大霊廟の中心部にするよう要請した作品である。絵画の上にある三重の半円型のアーチの天井のルネット部には、スフォルツァの紋章で描かれている。

 

食堂の反対側の壁には、イタリアの画家ジョヴァンニ・ドナート・ダ・モントルファノ(1460-1502/03)が1495年に描いたキリストの磔画にレオナルドがテンペラでスフォルツァ家の肖像画を追加したフレスコ画が描かれている。

《最後の晩餐》反対側に描かれている《磔》。
《最後の晩餐》反対側に描かれている《磔》。

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Last_Supper_(Leonardo)、2020年2月4日


レオナルド・ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」

$
0
0

岩窟の聖母 / Virgin of the Rocks

受肉の神秘を讃えたマリアとキリスト像


ルーブル版《岩窟の聖母》1483-1486年
ルーブル版《岩窟の聖母》1483-1486年
作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1483–1486年 
サイズ 199 cm × 122 cm
メディウム パネルに油彩
所蔵社 ルーブル美術館

《岩窟の聖母》はレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された作品。同じタイトルの作品が2点存在しているが、一部の重要な点を除いて構図は同じである。

 

一般的に評価の高い最初のバージョンの方は、復元されないままパリのルーブル美術館が所蔵されている。もう1点は、2008年から2010年の間に復元され、ロンドンのナショナル・ギャラリーに所蔵されている。

 

絵画は両方とも約2メートル(6フィート以上)の高さがあり、油彩で描かれている。両方とももともと木製パネルに描かれていたが、ルーブル美術館のバージョンはキャンバスに移された。

 

マリア、キリスト、聖ヨハネという人物像を通して受肉の神秘を讃えている。柔らかな光に満たされた聖なる人物たちは、張り出す岩によって生命力を象徴している。この革新的で大胆な図像表現は評価が高く、当時から多くの複製が制作されている。

 

どちらの絵画とも、岩場を背景に洗礼者ヨハネや天使とともにいるマリアやイエスを表しているため通常は《岩窟の聖母》と名付けられている。両者の構図上の大きな違いは、天使の視線と右手にある。また、色、光の配置、植物、スフマート技法の使用などいくつか小さな異なる点がある。

 

制作依頼と関わりのある日付の資料は残っているが、絵画の制作時期についての詳細はまったく不明であり、2点のうちどちらが先に作られたか今も議論されている。

 

さらに、作品のサイドパネルに飾る2点の絵画の依頼を受けていることがわかっている。天使が楽器を弾いているものでレオナルドによる作品だと完全に確認されている。これらの作品は両方ともロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵している。


■参考文献

ルーブル美術館、2020年2月7日アクセス

https://en.wikipedia.org/wiki/Virgin_of_the_Rocks、2020年2月7日アクセス


【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「ブノアの聖母」

$
0
0

ブノアの聖母 / Benois Madonna

ルネサンス当時最も人気のあった作品


《ブロアの聖母》1478年
《ブロアの聖母》1478年
作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1478年
サイズ 49.5 cm × 33 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵社 エルミタージュ美術館

《ブロアの聖母》は、1478年にレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された作品。1914年以来、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館が所蔵している。《聖母と花を持つ子ども》と呼ばれることもばる。

 

ブロアの聖母はアンドレア・デル・ヴェロッキオのもとで徒弟修業を積んでいたレオナルドが、画家として独り立ちして最初に描いた作品の可能性がある。大英博物館には本作のための予備習作が2点収蔵されているが、この習作はおそらく塗りつぶしていた。

 

予備スケッチと絵画自体は、当時レオナルドが視覚の概念に追求していたことを示唆している。子どもは母親の手によって視線を花に導かれている。

 

《ブロアの聖母》は、当時レオナルドの最も人気のある作品の1つだったことが判明している。ラファエルを含む多くの若手画家が模写している。

 

何世紀もの間、《ブロアの聖母》は消失したと考えられていたが 1909年に建築家レオン・ブノアがサンクトペテルブルクで義父のコレクションの一部として展示して騒動になった。

 

1790年代に著名な鑑識家アレクセイ・コルサコフがイタリアからロシアに持ち込んだと見なしている。コルサコフの死後、彼の息子アストラハン商人のサポジニコフに1400ルーブルで売却し、1880年に相続によってブノア家に売り渡された。

 


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Benois_Madonna、2020年2月7日アクセス


【美術解説】世界で最も高額な盗難美術作品

$
0
0

【美術解説】世界で最も高額な盗難美術作品


多くの価値のある美術作品が過去に盗まれている。ここに掲載している美術作品は、数百万ドル以上で評価されている西洋美術の巨匠の盗難された作品である。

《コテージのある風景》レンブラント

盗難日付 1972年9月4日
盗難場所 カナダ、モントリオール美術館
見積価格

当時100万ドル

現在価格では500万ドル以上

報奨金 5万ドル

1972年に武装した強盗が美術館から強奪したレンブラントの希少な風景画。

《パイプをくわえた男》ジャン・メッツァンジェ

盗難日付 1998年
盗難場所

ウィスコシン州

ローレンス大学

ウィリストン・アート・センター

見積価格 200万ドル
報奨金 なし

貸し出しで運搬中に行方不明になった。

《オーヴェル・シュル・オワーズの眺め》ポール・セザンヌ

盗難日付 1999年12月31日
盗難場所

 

イギリス

オックスフォード

アシュモレアン博物館

見積価格 1000万ドル
報奨金 不明

ミレニアムカウントダウン時の花火の祭典中に美術館から盗まれた。

《ケシの花》フィンセント・ファン・ゴッホ

盗難日付 2010年8月
盗難場所

エジプト

カイロ

モハメド・マフムード・ハリル美術館

見積価格 5500万ドル
報奨金 1000万ドル

エジプト当局は、カイロ国際空港で2人のイタリア人容疑者がイタリア行きの飛行機に搭乗しようとしたときに取り戻したと勘違いしていた。1977年6月4日にも同じ美術館から盗まれ、10年後にクウェートで取り戻している。ゴッホが自殺する3年前に描かれた。赤と黄のケシが暗い背景と対照的。

《オベリスクと風景》ホーファールト・フリンク

盗難日付 1990年3月18日
盗難場所

US、マサチューセッツ州

ボストン

イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館

 

 

見積価格 5億ドルの一部
報奨金 1000万ドル

1990年3月18日、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館から13点の作品(総額5億ドル相当)が盗まれ、世界史上最大の芸術窃盗事件が発生した。本作品はその中の1点。オランダ黄金時代のオランダ画家ホーファールト・フリンクの作品。

《コンサート》ヨハネス・フェルメール

盗難日付 1990年3月18日
盗難場所

US、マサチューセッツ州

ボストン

イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館

 

 

見積価格 5億ドルの一部
報奨金 1000万ドル

1990年3月18日、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館から13点の作品(総額5億ドル相当)が盗まれ、世界史上最大の芸術窃盗事件が発生した。盗まれた作品の中には、フェルメールの《コンサート》があった。これは世界で最も高額な盗難美術の1つと考えられており、返却につながる情報に対して1000万ドルの報酬が約束されている。

《ガリラヤ湖の嵐》レンブラント

盗難日付 1990年3月18日
盗難場所

US、マサチューセッツ州

ボストン

イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館

 

 

見積価格 5億ドルの一部
報奨金 1000万ドル

1990年3月18日、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館から13点の作品(総額5億ドル相当)が盗まれ、世界史上最大の芸術窃盗事件が発生した。盗まれた作品の中には、レンブラントの《ガリラヤ湖の嵐》があった。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_stolen_paintings、2020年2月10日アクセス


モイズ・キスリング「女性肖像画が得意なエコール・ド・パリの画家」

$
0
0

モイズ・キスリング / Moïse Kisling

女性肖像画が得意なエコール・ド・パリの画家


《赤いジャンパーと青いスカーフのモンパルナスのキキ》1925年
《赤いジャンパーと青いスカーフのモンパルナスのキキ》1925年

概要


生年月日 1891年1月22日
死没月日 1953年4月29日
国籍 ポーランド、フランス
表現形式 絵画
ムーブメント エコール・ド・パリ
関連人物 アメディオ・モディリアーニモンパルナスのキキ
関連サイト WikiArt(作品)

モイズ・キスリング(1891年1月22日-1953年4月29日)はポーランド生まれのユダヤ系フランス人画家。

 

オーストリア・ハンガリー二重帝国時代のクラクフ(現在のポーランド南部)にユダヤ人として生まれ、地元クラクフの美術学校で学ぶ。教師ユゼフ・パンキエヴィッチは、20世紀初頭の芸術運動の中心地だったフランスのパリに移ることをキスリングに勧める。

 

1910年、19歳のときにキスリングはパリのモンマルトルに移り、画家として活動を始める。1912年にモンパルナス地区の洗濯船に移り住む。そこで、東欧人やアメリカ人とイギリス人など外国人芸術家で構成される移民コミュニティ、通称「エコール・ド・パリ」に参加する。

 

第一次世界大戦が勃発すると、キスリングはフランスの外国部隊に志願する。1915年にソンムの戦いで負傷した後、フランス市民権を授与された。

 

その後、モンパルナスに戻るとそこにアトリエと住居を借り1940年まで活動する。ジュール・パスキンやアメディオ・モディリアーニらと同じ建物(洗濯船)に住んでいた。モディリアーニを含む多くの同時代の画家たちと親交を深めた。

 

キスリングの絵画スタイルはマルク・シャガールとよく似ている。おもに女性の肖像画、シュルレアルなヌード絵画などで評価を高めた。代表作として、モンパルナスのキキの肖像画(Nu assis)などがよく紹介される。また、友人のモディリアーニはキスリングの肖像画をたくさん描いている。

 

キスリングは、第ニ次世界大戦中の1940年に49歳で軍隊に再志願する。ドイツ軍に降伏してフランス軍が解体されるとキスリングはアメリカへ移住する。ユダヤ人だったため、当然ながら占領下のフランスで暮らすのを恐れた。

 

移住後、ニューヨークやワシントンで展示活動を行う。また、カリフォルニアに移住し、1946年までアメリカに住む。

 

第二次世界大戦が終了するとフランスへ帰国する。1953年4月29日、キスリングは、フランスのプロヴァンス・アルプ・コート・ダジュールのサナリー・シュル・メールで亡くなった。

《ルネ・キスリングの肖像》1919年
《ルネ・キスリングの肖像》1919年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Mo%C3%AFse_Kisling、2020年2月11日アクセス


Viewing all 1609 articles
Browse latest View live




Latest Images