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【芸術運動】エコール・ド・パリ「パリの外国人画家たち」

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エコール・ド・パリ / École de Paris

パリの外国人画家たち


概要


パリに滞在している外国人芸術家


「エコール・ド・パリ」は、第一次世界大戦以前にパリで活動していた3つの芸術グループ(中世の装飾写本グループ、フランス人グループ、非フランス人グループ)を指す言葉であるが、特に当時パリに滞在していた非フランス人芸術家たちの総称として使われるケースが多い。1900年から1940年まで、パリには世界中から芸術家が集まっていたためである。なお、英語では「スクール・オブ・パリ」と呼ばれる。

 

エコール・ド・パリは、芸術運動を指す言葉ではなく、芸術機関でもない。日本語に訳せば“パリ派”であるが、“派”というほどのまとまりも、明確な主義主張があるわけでもなく、「宣言」を出してもいない。 

 

彼らの活動の中心は初期はモンマルトルだったが、1910年頃からモンパルナスに移動した。どちらも貧しい芸術家たちが居住していた地区で、モンマルトルにあった安アパート「洗濯船」がよく知られている。

 

洗濯船はパブロ・ピカソが恋人のフェルナンド・オリビエと共にここに住んで。ほかにアメデオ・モディリアーニ、ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティスらも出入りし、活発な芸術活動の拠点となった。

エコール・ド・パリの画家


代表的な作家は、パブロ・ピカソ(スペイン人)、マルク・シャガール(ロシア人)、アメディオ・モディリアーニ(イタリア人)、ピート・モンドリアン(オランダ人)である。マルク・シャガール(ポーランド系ユダヤ人)、モイズ・キスリング(ポーランド系ユダヤ人)

 

フランス人ではピエール・ボナーレアンリ・マティスジャン・メッツァンジェアルベール・グレーズで、ピカソとマティスがエコール・ド・パリの二大リーダー的な存在だった。

 

さらに、日本人の藤田嗣治、フランス人であるがモーリス・ユトリロ、マリー・ローランサンなどを加えることもある。

マルク・シャガール「私の村」
マルク・シャガール「私の村」
マリー・ローランサン「扇子を持つ女性」(1912年)
マリー・ローランサン「扇子を持つ女性」(1912年)

ボロアパート「洗濯船」で共同生活


エコール・ド・パリの画家たちは「洗濯船」というボロアパートで共同生活していた。洗濯船は、パリ18区のモンマルトル地区にあったアパートのニックネームである。

 

正しい住所はラビナン通り13番地。20世紀初頭の美術史においてたびたび現れる有名なアパートで、パリへ上京してきたさまざまな外国人文化人が洗濯船を住居にしたり、また会合の場所として利用した。

 

ここには、作家、演劇関係者、画家、画商などが集まった。ここに住んでいた有名な画家はパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、アメデオ・モディリアーニ、ギヨーム・アポリネールなどが挙げられる。1970年5月にアパートの大半が火事で全焼したが、1978年に完全に再建された。

 

「洗濯船」という名前は詩人のマックス・ジャコブが名付けた。建物が暗くて汚く、住居というよりもほとんど瓦礫のようなかんじで、嵐の日になると、アパートは揺れ動き、軋み、その外観はセーヌ川沿いで船を掃除している人々を想起させたことから「洗濯船」と呼んだ。建物の構造から19世紀に製造工場の施設として使われていたと思われる。

 

洗濯船に住んでいた芸術家で初めて有名になったのは1890年頃に住んでいたマキシム・モーフラである。その後1900年から1904年の間にキース・ヴァン・ドンゲンやパブロ・ピカソが入居して、芸術家たちの注目を集め、多くの貧しい芸術家が入居するようになった。

 

1904年以後は、洗濯船は非公式のクラブのような場所になり、アンリ・マティス、ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、マリー・ローランサンなど多くの芸術家が立ち寄るようになった。作家ではギヨーム・アポリネール、アルフレド・ジャリ、ジャン・コクトー、画商ではカーンワイラーなどが訪れた。

貧乏芸術家たちが集まった「洗濯船」
貧乏芸術家たちが集まった「洗濯船」

“呪われた画家”としての表現


彼らの多くはモンパルナスのドーム、ロトンド、クポールといったカフェを根城とし、パリにおけるマイノリティとしてのある種の仲間意識、連帯感はあったが、画家としてはそれぞれ独立独歩で、主題も様式もそれぞれであった

エコール・ド・パリ様式なるものも存在しないが、故郷をもたぬ流浪の民、偏見と迫害の十字架を背負った民族としての悲しみ、不安、鬱積した思いを一種の共通項として挙げることはできる

 

彼らが“呪われた画家”と呼ばれる由縁であるが、虚ろな目をしたモディリアニの人物、激しい地殻変動を思わせるスーチンの不安に揺れ動く風景などはその一例である。

アメディオ・モディリアーニ《子供とジプシー女》(1912年)
アメディオ・モディリアーニ《子供とジプシー女》(1912年)

藤田嗣治とモンパルナスのキキ


1913年にパリに到着していた藤田嗣治は、エキゾティックな風貌と社交的な性格、そして乳白色の独特の半油性の下地に細い墨線で描く手法により、モンパルナスの喧噪に欠かせない存在となった。

 

白人女性の肌の美しさを際立たせる下地と、平面的で浮世絵を連想させる人物表現は、日本美術の伝統とパリのモダニズムを融合させた独自のスタイルとして高い評価を集め、市場の人気も急速に高まっていく。

 

またモンパルナスのキキを有名にしたのが、藤田嗣治だった。藤田が描いたキキの裸婦《寝室の裸婦キキ》(1922年)が、サロン・ドートンヌで大評判となり、その日のうちに8千フランで売れた。

 

それ以来、藤田とプランのふたりはモンパルナスの有名人となった。またキキは、ポーランド人の画家、モイズ・キスリングをはじめとするエコール・ド・パリの画家たちのモデルとなった。

ナチスの弾圧


しかし1930年代のナチスの台頭とともにマルク・シャガールモイズ・キスリングといったユダヤ人の彼ら多くは、安閑としてはいられず、その多くは亡命を余儀なくされた。

 

画家ではないが、ピカソやエコール・ド・パリの面々とも親しかった詩人マックス・ジャコブが、ユダヤ人なるがゆえに強制収容所送りとなり、そこで悲惨な最期を迎えたことは、これらユダヤ人の画家たちが直面した過酷な運命を暗示しているといえよう。


■参考文献

・すぐわかる20世紀び美術 フォーヴィスムからコンセプチュアル・アートまで

School of Paris - Wikipedia


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【美術解説】モーリス・ユトリロ「パリの風景画で人気のエコール・ド・パリの画家」

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モーリス・ユトリロ / Maurice Utrillo

パリの風景画で人気のエコール・ド・パリの画家


《モンマルトルのノルヴァン通り》1910年
《モンマルトルのノルヴァン通り》1910年

概要


生年月日 1883年12月26日
死没月日 1955年11月5日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント エコール・ド・パリ
関連サイト Artnet(作品)
スザンヌ・ヴァルドンによるユトリロの肖像画。
スザンヌ・ヴァルドンによるユトリロの肖像画。

モーリス・ユトリロ(1883年12月26日-1955年11月5日)はフランスの画家。素朴な都市の風景画で知られている。

 

フランス、パリのモンマルトル地区で生まれたユトリロは、モンマルトル出身の数少ない著名画家である。

 

パリのモンマルトル地区近郊の曲がりくねった通りや路地の風景を好んで描いた。美術史ではエコール・ド・パリの作家として位置づけられている。

 

ユトリロは、芸術家でアートモデルをしていた母スザンヌ・ヴァラドンの息子として生まれた。スザンヌは父親は誰かを明らかにしていない。ボワシーという名の若いアマチュア画家や、著名画家のピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、またはピエール=オーギュスト・ルノワールとの情事で生まれたという噂もある。

 

1891年に、スペインの芸術家ミゲル・ユトリロ・イ・モリンスが、父親であること認める法的文書に署名しているが、彼が実際に本当の父親がどうかは疑問が残っている。

 

ブランコの転落事故が原因でサーカス曲芸師をやめ、アートモデルに転向した母ヴァラドンは、ベルト・モリゾピエール=オーギュスト・ルノワールアンリ・ド・トゥールズ・ロートレックなどのモデルをしながら、自身も芸術家になるべく絵を学ぶ。技術を習得するため、場合によっては著名芸術家たちの愛人にもなった。

 

ヴァラドンは独学で絵画を学び、トゥールズ・ロートレックがエドガー・ドガに彼女を紹介すると、ドガは彼女の指導者になった。その後、彼女はモデルをした芸術家たちの仲間になった。

 

とかくするうちに、ヴァラドンはモリンスの育児を放棄するようになり、祖母に息子を預ける。その後、モリンスは不登校児になり、またアルコール依存症に陥り、多くの精神障害(暴力、認知症など)を引き起こすようになった。

 

1904年、21歳のときにユトリロは精神疾患にかかると、母ヴァラドンは精神疾患の治療もかねて絵を描くことをすすめる。ユトリロはすぐに芸術的才能を開花させた。母親からの教え以上の教育なしで、独学でユトリロはモンマルトルの風景を描きはじめた。なお、直接的な指導はないがアルフレッド・シスレーやカミーユ・ピサロといった印象派画家から影響を受けている。

 

アルフォンス・クイゼトと出会った1910年以降、ユトリロは本格的に絵を描き始める。その後、ユトリロの作品は大きな注目を集め、1920年までに国際的に評価されるようになった。数十年で数百枚の絵を描いているが、盗作も多く見受けられる。

 

1928年、フランス政府はユトリロにレジオンドヌール勲章を授与。

 

しかし、彼は生涯を通じて、精神病院の入退院を繰り返した。

 

今日、モンマルトル地域への観光客は、ユトリロの絵の多くをポストカードから発見する。彼の作品なかでも、特に1936年の《モンマルトル通りの角》や《ラパン・アジャイル》とは非常に人気が高い。

 

ユトリロは中年頃から宗教に熱を入れはじめ、1935年、52歳でルーシー・ヴァロアと結婚し、パリ郊外のル・ベジネットへ移る、そのころまでに、彼の病状はかなり悪くなっており外出できなくなっていたため、部屋の窓から見える都市風景を描いたり、またポストカードや記憶を源泉に絵画制作をした。

 

生涯、アルコール依存症に悩まされていたが、70歳まで生きた。ユトリロは、1955年11月5日、ダックスのホテル・スプレンディッドで肺炎で死去。モンマルトルのシメティエール・サンヴァンサンに埋葬された。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Maurice_Utrillo、2020年2月12日アクセス


【美術解説】ジュール・パスキン「モンパルナスの王子」

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ジュール・パスキン / Jules Pascin

モンパルナスの王子


《ルーシー・クローグの肖像》1925年
《ルーシー・クローグの肖像》1925年

概要


生年月日 1885年3月31日
死没月日 1930年6月5日
国籍 ブルガリア、アメリカ
表現形式 絵画、ドローイング
ムーブメント エコール・ド・パリ
関連サイト WikiArt(作品)

ジュール・モデルカイ・ピンカス(1885年3月31日-1930年6月5日)はブルガリアの画家。一般的に「パスキン」、もしくは「モンパルナスの王子」と呼ばれている。のち、アメリカ市民となる。

 

モンパルナスの芸術界隈と関連した活動が多く、エコール・ド・パリの代表的な画家の一人として認知されている。パスキンのおもな主題は女性で、カジュアルなポーズで描かれ、通常はヌードか部分的に着衣している。

 

パスキンはウィーンとミュンヘンで教育を受け、アメリカ滞在時は、多くの時間を南部で過ごした。うつ病とアルコール依存症に苦しみ、45歳で自殺。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Maurice_Utrillo、2020年2月12日アクセス


【美術解説】アメリカ現代美術史3「世界大恐慌とアメリカの美術家支援」

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アメリカ現代美術史3「世界大恐慌とアメリカの美術家支援」

連邦美術計画と亡命芸術家(1930s〜1940s)


連邦美術計画のロゴ。
連邦美術計画のロゴ。

概要


20世紀初頭におけるアメリカにおける「アートは」常に大衆のものであり、決してアカデミズムや富裕層の財ではなかった。

 

世界恐慌時の「連邦美術計画(FAP)」(1935-43年)は、1930年代の不況期におけるニューディール政策の一環として打ち出されたアメリカの視覚芸術に対する支援プロジェクトである。

 

連邦美術計画のナショナルディレクターだったホルガー・ケイヒルのもと、公共事業促進局(WPA)の5つの連邦計画第一の1つとして進められた最も大きなニューディール芸術計画である。

 

文化的活動び奨励策ではなく、仕事を失った芸術家や職人たちを雇い、壁画、イーゼル絵画、彫刻、グラフィックアート、ポスター、写真、演劇の背景デザイン、芸術品や工芸品を生産する救済策として制定された。

 

WPAの連邦美術計画は、全国に100を超えるコミュニティアートセンターを設立し、アメリカのデザインを調査・文書化し、コンテンツ内容や主題を制約することなく大部分のパブリックアートを委託し、大恐慌の間、約10000人の美術家や工芸作家たちを支えた。

 

民主主義精神の最高の伝統を強調する実用的な公的芸術支援プロジェクトとして美術史に記録されている。

 

この国による積極的な芸術家の支援対策により、ジャクソン・ポロックウィレム・デ・クーニングといった第二次世界大戦後のアート・ワールドを牽引する芸術家たちが育った。

重要ポイント

  • 世界大恐慌における芸術家たちの救済策
  • 公的芸術支援として最も成功したことで知られる
  • 抽象表現主義を育てのちのアート・シーンの礎となった

抽象表現作家の活動を支えた「連邦美術計画」


1930年代に世界大恐慌が発生すると、当時の大統領のルーズベルトはニューディール政策を発動する。

 

WPA(公共事業促進局)は、失業した芸術家たちを救済するため公共施設に装飾ペイントを行うなど、さまざまな芸術家支援計画「連邦計画第一」を実行した。ディレクターはホルガー・ケイヒル。この芸術家の支援プログラムは、1935年8月29日から1943年6月30日まで続いた。

 

「連邦美術計画(FAP)」は「連邦計画第一」のプログラムのひとつ。ヴィジュアル・アート(美術、視覚芸術)分野に特化した支援計画で、壁画、絵画、ポスター、写真、Tシャツ、彫刻、舞台芸術、工芸などに携わる芸術家の仕事を支援した。

 

連邦美術計画はアメリカ全州で100以上もの芸術コミュニティセンターを設立。10000人以上の芸術家が連邦美術計画から依頼を受け、地方自治体の芸術コミュニティセンターで作品を制作・展示したり、また自治体の建物を装飾や美術の教育活動を行った。当時、芸術家に支払われた賃金は週給23.60ドルだったという。

 

この時代、1930年代から1940年代の頃のアメリカでは、まだ一般的に抽象芸術は美術とみなされていなかったが、WPAのプログラムでは具象作家と抽象作家を区別せず支援していたといわれる

 

その結果、連邦美術計画はジャクソン・ポロックデ・クーニングをはじめ、のちの抽象表現運動を支援することになり、最終的に彼らはアメリカを代表する芸術家まで成長した。連邦美術計画のサポートがなければ、抽象表現主義が生まれていなかったかもしれないといわれている。

1936年の連邦美術計画の雇用活動の概要ポスター。
1936年の連邦美術計画の雇用活動の概要ポスター。

また1920年代から1930年にかけて近代美術の美術館が多数創設される。1929年にニューヨーク近代美術館、1931年にホイットニー美術館、1939年にソロモン・R・グッゲンハイム美術館が設立。

 

これらの近代美術を促進するためのインフラストラクチャーは、ニューヨークで美術の情報やアイデアを発表、交流する場として重要な役割を担った。近代美術に関する教育も始まっていた。

 

特に1933年から1958年までニューヨークの美術学校で教鞭をとったドイツの画家ハンス・ホフマンは巨大な影響力を持っていた。

ナチスの弾圧で亡命してきた前衛芸術家


大恐慌時代にドイツでナチスが政権を握り、前衛芸術家たちの弾圧が始まると、多くのヨーロッパの芸術家たちがアメリカへ亡命し始める。

 

ヨーロッパを去り、アメリカへ移住した重要な芸術家として、抽象絵画ではピート・モンドリアン、シュルレアリストではイブ・タンギーアンドレ・マッソンマックス・エルンストアンドレ・ブルトン、キュビスムではフェルナン・レジェなどがいる。

 

亡命芸術家のなかでも特にシュルレアリストたちは、のちのアメリカ現代美術の創生に多大な影響を与えた。無意識にアクセスするオートマティックという手法は、ジャクソン・ポロックやそのほかの抽象表現表現主義作家のインスピレーション元となっている。

 

ヨーロッパの前衛芸術のコレクターでありサポーターであったペギー・グッゲンハイムは、亡命芸術家たちアメリカでの活動を支え、美術教育にも影響を与えた。彼女は当時、マックス・エルンストの妻であった。彼女が特に集めていた作品は、キュビスム、シュルレアリスム、抽象芸術である。

 

グッゲンハイムは、1942年ニューヨークに新しいギャラリー「今世紀の芸術」画廊を創設。4つのギャラリーのうち3つは、キュビスム、抽象芸術、シュルレアリスム、キネティック・アートに特化したスペースで、残りの1つは商業ギャラリーだった。

 

グッゲンハイムは、アメリカで起こりつつある新しい芸術にも関心を向けた。ジャクソン・ポロック、ウィリアム・コングドン、オーストリアのシュルレアリストであるヴォルガング・パーレーン、詩人のアダ・ヴェルダン・ハウエル、ドイツの画家マックス・エルンストなど12人の前衛美術家たちのキャリア発展をサポートした。

 

また、イブ・タンギーの妻であるケイ・セージはアメリカ出身の富裕層で、グッゲンハイムと同じく亡命芸術家を支えた。アンリ・マティスの息子ピエール・マティスは、ニューヨークで画廊を開き、亡命芸術家たちの展覧会を積極的に開催した。

 

ナチスの前衛芸術家の弾圧がなければ、抽象表現主義が生まれていなかったかもしれないといわれている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Federal_Art_Project、2020年3月10日アクセス


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【美術解説】ダダイズム「伝統的芸術を全否定し、政治的には反戦を主張」

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ダダイズム / Dadaism

反芸術運動


トリスタン・ツァラ『ダダ宣言』(1917年)
トリスタン・ツァラ『ダダ宣言』(1917年)

概要


ダダイズムの発生と理論


「ダダ(Dada)」または「ダダイズム(Dadaism)」は、20世紀初頭のヨーロッパの前衛芸術運動。1916年にスイスのチューリッヒにあるキャバレー・ヴォルテールで始まり、その後1915年にニューヨーク・ダダ、1920年にパリで開花、ほかに、ベルリン、ケルン、ハノヴァーなど世界中の都市で流行した。

 

その表現形式は、視覚美術、文学、詩、宣言、論理、映画、グラフィックデザインなど幅広く含まれる。コラージュ、音詩、カットアップ、彫刻などの視覚的、文学的、音響的メディアを横断して行われた。

 

ダダイスムは第一次世界大戦下の鬱屈した現実の反動として発生した。おもに伝統的な芸術を拒絶し、政治的には反戦を主張する運動だった。ダダイズムは、現代資本主義の論理、理性、美学を否定し、無意味、不合理、反ブルジョア的な要素を含む表現をする芸術家たちが中心になって展開された。暴力、戦争、ナショナリズムに対して不満を表現し、急進的な極左との政治的親和が高かった。

 

ダダイスムがほかの前衛芸術と異なるのは「これは捨てるが、あれは取る」の部分否定ではなく、ハンス・リヒターによれば、ダダイスムは芸術ではなく「反芸術(Anti-art)」だという。これまでの伝統的な美術様式に沿った美学をダダイスムは無視した。

 

「ダダ」という運動名の由来に対する明確な意見の合意はない。よくある話では、ドイツ人芸術家のリヒャルト・ヒュルゼンベックがペーパーナイフを辞書に無造作に挿入したときに現れた言葉が「ダダ(木馬のフランス口語)」だったというものである。

 

また、「ダダ」という言葉は、子どもが最初に発する言葉のように思えるため、子どもらしさと不条理さを呼び起こす芸術性として付けられたと論じるものもいる。

 

ほかには、世界的な運動の広がりを反映して、どの言語においても似たような意味(あるいは全く意味がない)を想起させることを目的として、「ダダ」という言葉が使われたのではないかと推測するものもいる。

 

ダダのルーツとなっているのは第一次世界大戦前の前衛芸術である。視覚芸術においては、キュビスムから発展したコラージュ技法やワシリー・カンディンスキーの抽象理論を融合させ、現実や既存の慣習の制約から逸脱することに成功。

 

また、言語芸術においては、フランスの詩やドイツ表現主義の文章を融合させて、言葉と意味の親密な相関性を破壊した。

 

ただし、デュシャンやピカビア率いるニューヨーク・ダダは、1915年から活動しており、スイスで発生したダダ運動を起源としておらず、個別のムーブメントとみなすのが一般的である。ダダの先駆的な芸術運動である「反芸術(Anti-art)」という言葉は、1913年頃にマルセル・デュシャンが作った言葉で、この言葉をもって最初のレディ・メイド作品を制作した。また、ニューヨーク・ダダはほかのダダイズムと異なり政治的問題と関連した動きは見られなかった。

 

ほかに、アルフレッド・ジャリの演劇『ユビュ王』やエリック・サティのバレエ『パラード』は、ダダイズムの先駆体とみなされている。ダダ運動の信念は1916年にヒューゴ・バルのダダ宣言に最初に集約された。

 

重要人物は、トリスタン・ツァラ、フーゴー・バル、エミー・ヘニングス、ハンス・アルプ、ラウル・ハウスマンハンナ・ヘッヒ、ヨハネス・バーダー、フランシス・ピカビア、リヒャルト・ヒュルゼンベック、ジョージ・グロッス、ジョン・ハートフィールド、マルセル・デュシャンクルト・シュヴィッタース、ベアトリス・ウッド、マックス・エルンストである。

 

この運動は後の前衛芸術やダウンタウン・ミュージック運動、シュルレアリスム、ヌーボー・リアリズム、ポップ・アート、フルクサスのなどのグループに影響を与えた。

重要ポイント


  • 伝統的な芸術を拒絶し、政治的には反戦を主張する運動
  • 視覚的、文学的、音響的メディアを横断して行われた
  • 世界中の都市で同時流行した
ダダ初個展のグランドオープニング:1920年6月5日、ベルリン国際ダダ展。天井から吊るされて中央の人物は、豚の頭を持つドイツ将校の彫像だった。左からラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘッヒ、オットー・ブルヒャルト、ヨハンズ・バーダー、ヴィーラント・ヘルツフェルデ、マルゲレート・ヘルツフェルト、Dr.Oz、ジョージ・グロス、ジョン・ハートフィールド。
ダダ初個展のグランドオープニング:1920年6月5日、ベルリン国際ダダ展。天井から吊るされて中央の人物は、豚の頭を持つドイツ将校の彫像だった。左からラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘッヒ、オットー・ブルヒャルト、ヨハンズ・バーダー、ヴィーラント・ヘルツフェルデ、マルゲレート・ヘルツフェルト、Dr.Oz、ジョージ・グロス、ジョン・ハートフィールド。
ダダの芸術家たちの集合写真。1920年パリ。左から右へ、後列、ルイ・アラゴン、セオドール・フレーエンケル、ポール・エルヤール、クレマン・パンサール、エマニュエル・フェイ、2列目、ポール・デルメ、フィリップ・スポー、ジョルジュ・リベモン=ドセーヌ 、前列、トリスタン・ターザラ、セリーヌ・アルナウド、フランシス・ピカビア、アンドレ・ブルトン
ダダの芸術家たちの集合写真。1920年パリ。左から右へ、後列、ルイ・アラゴン、セオドール・フレーエンケル、ポール・エルヤール、クレマン・パンサール、エマニュエル・フェイ、2列目、ポール・デルメ、フィリップ・スポー、ジョルジュ・リベモン=ドセーヌ 、前列、トリスタン・ターザラ、セリーヌ・アルナウド、フランシス・ピカビア、アンドレ・ブルトン
フランシス・ピカビア『DAME!』(1920年)
フランシス・ピカビア『DAME!』(1920年)

背景


ダダはヨーロッパと北米で発生した非公式的な国際的な芸術運動だった。ダダの始まりは第一次世界大戦の勃発と関わりが深い

 

多くの参加者にとって、この運動は戦争の根本的な原因であると考えられていたブルジョア民族主義や植民地主義の利益に対する抗議であり、また文化的および知的適合性に対する抗議活動だったという。

 

フランス国外の前衛的なサークルは、戦前のパリの芸術芸術の発展を知り、各国で前衛芸術を取り入れはじめた。バルセロナでは1912年にギャラリー・ダルマウでキュビズムの展覧会が開催されている。

 

また、ベルリンでは1912年にギャラリー・デル・シュトゥルムで、ニューヨークでは1913年にアーモリーショーで、プラハでは1914年にSVUマネスでそれぞれ前衛芸術の展覧会が開催されている。モスクワやアムステルダムでは1911年から1915年にかけて前衛集団「ダイヤのジャック」の展示が開催されている。

 

イタリアの未来派はさまざまな芸術家の作品に影響して発展した。その後、ダダはこれらさまざまな前衛芸術家たちの実験を融合させていった。

 

多くのダダイストたちは、ブルジョア資本主義社会の「理性」と「論理」が人々を戦争に導いたと考え、芸術表現においてそうしたイデオロギーを拒否し、また論理を拒否し、カオスと非合理性を受け入れていった

 

ジョージ・グロスはのちに、ダダイストたちの芸術について「相互破壊の世界に対する」抗議運動としての意図があったと話している。ハンス・リヒターは「ダダは芸術ではなく、反芸術である」と話している。ダダはこれまで芸術が肯定してきたものすべてに反対する表現だった。そして、芸術が感性に訴えるものだとしたら、「ダダは人を不快させることを目的」としていた。

 

ヒューゴ・バルはダダについて「私たちにとって、芸術はそれ自体が目的ではありません。しかし、私たちが行きている時代に対して真に認識するものであり批判する機会です」と話している。

 

『アメリカン・アート・ニュース』の批評家は当時について、「ダダの哲学は、人間の脳から生まれた最も病的で、最も麻痺した、最も破壊的なものである」と述べている。

 

また、美術史家たちはダダの大半は 「これらの芸術家の多くが集団殺人の狂気の見世物以外の何物でもないと見たことへの反応 "と表現している。

 

数年後、ダダイストたちはこの運動について「戦後の経済的、道徳的危機の真っ只中で生まれた現象であり、救世主であり、怪物であり、その道を行くすべてのものを荒廃させたものだった」と話している。

 

ドナ・バッドの『芸術辞典』によれば以下のように定義されている。

 

ダダは第一次世界大戦の恐怖に対するネガティブな感情から生まれた。この国際的な運動は、チューリヒのキャバレー・ヴォルテールと関連のある芸術家や詩人たちのグループから始まった。ダダは理性や論理を拒否し、ナンセンス、非合理性、直感を重視した。ダダという名前の由来は不明である。ルーマニアの芸術家トリスタン・ツァラとマルセル・ヤンコが、ルーマニア語で「はい、はい」を意味する「ダ、ダ」という言葉を頻繁に使っていたことに由来するという説があります。別の説では、ダダという言葉はグループの会議中に、フランス・ドイツ語の辞書にペーパーナイフを挿入したら、そこにたまたま「木馬」を意味するフランス語の「ダダ」が書かれていたことが由来だともいう。

 

1915年から1917年にかけてのデュシャン、ピカビア、マン・レイらの作品は、もともとダダイズム的だったが、当時まだダダイズムは発生しておらず、「ニューヨーク・ダダ」という言葉はデュシャンとピカビアらが自身の活動を事後的にダダの歴史の位置づけたとされている。

 

1920年代に入るとヨーロッパではニューヨークから帰国したデュシャンやピカビアの協力を得てダダイズムが花開いた。しかし、ツァラやリヒターらダダイストたちは、チューリヒやベルリンでのダダ活動の優位性を主張していた。

ダダ・グループ


チューリヒ・ダダ


1916年、フーゴー・バル、エミリー・ヘンリング、トリスタン・ツァラ、ジャン・アルプ、ミハエル・ジャンコ、リヒャル・ヒュルゼンベック、ハンス・リヒターとその周辺の仲間たちは、スイス・チューリッヒにあるキャバレー・ヴォルテールに集合して、美術の議論とパフォーマンスを行った。

 

ダダという言葉は、当時、チューリッヒ大学の学生だったトリスタン・ツァラによるもので、ツァラによると『ラルース小辞典』から偶然見つけたとしているが、ほかにルーマニア語で二重の肯定という意味もあるという。

 

当初、ダダは宣言するほどの理論や思想はもっておらず、第一次世界大戦の嫌悪と既成の価値観への不信から発生し、それはただの乱痴気騒ぎに近いものだった。

 

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ニューヨーク・ダダ


ダダイスム運動のなかで最もよく知られているのが、マルセル・デュシャン率いるニューヨーク・ダダの活動だ。

 

デュシャンたちは、当初、特に自分たちの集まりを「ダダ」と認識していなかったものの、その反発的な姿勢がヨーロッパで発生したダダと相通じるところがあったため、周囲から「ダダ」と呼ばれるようになった。

 

デュシャンがのちの現代美術に残した最大の遺産ともいうべきものはレディ・メイド(既製品)である。レディ・メイドでデュシャンがしたことといえば、どこにでもある大量生産された製品のどれかを選び、なんら手を加えることなく、これを展覧会場に置くことだった。


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ベルリン・ダダ


ベルリンのダダグループは、ほかのダダ運動ほど「反芸術」の主張はなく、彼らの行動と芸術はおもに政治性・社会性と密接なものだった。

 

政治的主張が極めて高く、辛辣なマニフェストやプロパガンダ、風刺、公共での実演など政治的表現が中心だった。これはヨーロッパから距離が離れていたため戦争の影響が少なかったニューヨークでダダ運動と政治との関わりが薄かったことと真逆の理由であると考えられる。

 

1918年2月、ヒュルゼンベックはベルリンで最初のダダのスピーチを行い、4月にドイツにおけるダダ宣言を行った。この宣言にはツァラ、アルプ、ヤンコ、バルらも署名している。ハンナ・ヘーヒやゲオルゲ・グロッスはダダを第一世界大戦後の共産主義の共鳴表現として利用した。また、この時期にグロスはジョン・ハートフィールドやラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘーヒらとフォトモンタージュを開発した。

 

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ケルン・ダダ


ケルンでは1920年に、マックス・エルンストやヨハネス・バールゲルト、ハンス・アルプが物議をかもすダダの展示を行い、そこでは反中産階級的な感情やナンセンスに焦点をあてられた。

 

当初は応用美術館の入口ホールで行われる予定だったが、バールゲルトとエルンストの作品が美術館の館長によってはずされた。そこで彼らはパブの裏庭、男子便所の先に作品を展示した。

 

参加者は、聖衣で身を包んだ女性が猥褻な詩を朗読している間に男子便所前を通過して展示場所の中庭に進むことが要求され、進んだ先の中庭にはエルンストの作品である大きな丸太がおかれており、参加者は一緒に用意された斧で丸太を叩くことが求められた。

 

またバールゲルトは、血のような赤い水の入った水槽のなかに目覚まし時計が入った作品を展示したが、その水面には女性の髪の毛が浮かんでいた。警官は過激なその展示を中止させたが、何度か再開した。

パリ・ダダ


フランスの前衛芸術は、ギョーム・アポリネールやアンドレ・ブルトン、マックス・ジャコブ、クレメント・パンサー、そのほかのフランス文学批評家や詩人たちが定期的にトリスタン・ツァラと手紙でやりとりしていたので、基本的にチューリッヒ・ダダと並行していたといっていい。

 

むしろ、チューリッヒ・ダダがブルトンをはじめパリの芸術家たちとやりとりをしていなかったらダダはチューリッヒという小さな都市で起こった芸術運動でおわり、世界的な広がりをもつことはなかっただろう。チューリッヒ・ダダは、パリを再び活気づかせ、世界的な芸術の潮流に大きな影響を及ぼすことになった。

 

1919年以後、チューリッヒ・ダダがマンネリ化して衰退しはじめると、ツァラはブルトンやピカビアの誘いに応じてパリへ移動する。1920年1月にツァラが住み込んだピカビアのアパートがパリにおけるダダの拠点となった。ツアラはすぐにブルトンとパリ・ダダを開始。さまざまなパフォーマンスを行なう。

 

しかしパリ・ダダは政治的な姿勢はなく、チューリッヒと異なってアナーキストと両輪になるような試みもなく、本質的には文学的で合理的であった要素がツァラに合わなかった。ツァラは伝統的なダダの姿勢でナンセンス的に道化風に行動していたが、ブルトンは本質的に真面目だったため、ツァラの感覚的で道化的な方法に挑発されることに疲れてしまった。

 

そしてブルトンとツァラが決別すると、ブルトンはダダを合理的で無意識の解放する芸術手段へと応用し、「シュルレアリスム」運動を始めることになった。

オランダ・ダダ


オランダのダダ運動はおもにテオ·ファン·ドースブルフが活動の中心だった。彼は前衛集団「デ・ステイル」の創始者や雑誌「デ・ステイル」の編集長としてもよく知られている。

 

ファン・ドースブルフはダダ活動の焦点をおもに詩にあて、デ・ステイルにデ・ステイルフーゴ・バル、ハンス・アルプ、カート・シュヴィッタースといった有名ダダ作家を紹介し、オランダとチューリッヒ・ダダの橋渡しをした。

 

ドースブルはシュヴィッタースと知り合いになり、1923年、一緒に「オランダ・ダダ・キャンペーン」を開催した。そこれでドースブルフはダダに関する小冊子を発行し、シュヴィッタースは詩を朗読し、Vilmos Huszárは「メカニカル・ダンシング・ドール」を展示し、テオ・ファン・ドースブルフはピアノで前衛的な演奏を行った。

略年譜


   
1912年 ・アルチュール・クラヴァンがパリで雑誌『メントナン』を発行。
1913年 ・マルセル・デュシャンがアーモリー・ショーに『階段を降りる裸体No.2』を出品。
1915年

・3月に、マン・レイが雑誌『リッジフィールド・ガズーク』を発行。

1916年 ・2月5日、ドイツからの亡命詩人フーゴ・バル夫妻を中心とするチューリッヒの若い知識人たちが、文芸カフェ「キャバレー・ヴォルテール」を開店。
1917年

・1月、スペインのバルセロナで、フランシス・ピカビアが雑誌『391』を創刊。

・7月と12月に、アルプ、ヤンコ、ファン・レースの作品が掲載された雑誌『ダダ』が発行される。

・マルセル・デュシャン編集による雑誌『ブラインド・マン』で「リチャード・マット事件」に関する論説が掲載。

1918年

・4月、最初の大規模な「ダダの夕べ」がベルリンで開かれ、リヒャルト・ヒュルゼンベックが『ダダイズム宣言』を発表。のちにヒュルゼンベックによりクラブ・ダダが設立され、雑誌『デア・ダダ』が発行される。

・7月23日、ダダの集会でツァラが「ダダ宣言1918」を発表し、ダダ運動の本格的な活動を開始。

・11月9日、フランスのアヴァンギャルドの指導者だった詩人ギヨーム・アポリネールが死去。

1919年

・クルト・シュヴィッタースが、ハノーファーで詩集『アンナ・ブルーメ(花のアンナ)』を出版。

1920年

・『ダダ大全』がベルリンで出版。

・5月26日、ガヴォー・ホールでフェスティバル・ダダが開催される。

・6月、ベルリン・ダダが「第一回国際ダダ見本市」を開催。

1921年

・4月、デュシャンとマン・レイが1号だけで終わった『ニューヨーク・ダダ』を刊行。

・5月2日、マックス・エルンストの展覧会がパリのサン・パレイユ書店で開かれる。

・5月、ダダがアカデミー・フランセーズ会員で代議士の作家モーリス・バレスを「精神の安全の侵害の罪」で模擬裁判にかける。

・6月、クラヴァンがニューヨークでの講演中に騒動を起こし、投獄される。

・9月、シュヴィッタースがハンナ・へーヒとラウール・ハウスマンと共にチェコのプラハでアンチ=ダダ・メルツの夕べを開催。

1922年

・2月、ブルトンがパリ会議を計画し、モダニズムのさまざまな流派の代表者を集めた委員会を発足。

・9月、ドイツのイェーナとヴァイマールで「ダダに関する会議」が開かれる。

・シュヴィッタースが雑誌『メルツ』を創刊。

・マン・レイがレイヨグラフ作品『甘美なる場』を発表。

・ハンス・アルプとゾフィー・トイバーが結婚。

1923年

・7月6日に、「ひげの生えた心臓の夕べ」が開かれたが、『ガス心臓』そしてマン・レイの短編映画『理性への回帰』の上演中にブルトンのグループが妨害。パリ・ダダの事実上の終焉を迎える。

・村山和義が日本で「マヴォ」というグループを結成し、同名の雑誌を創刊。

1924年

・7月に、ツァラがそれまでさまざまな雑誌で発表していた宣言をひとつにまとめ、『7つのダダ宣言』として出版。

・ブルトンが新しいグループを結成し、雑誌『シュルレアリスム革命』を創刊し、その後11月に『シュルレアリスム宣言』を出版。

1943年

・ゾフィー・トイバーが死去。

1948年

・クルト・シュヴィッタースが死去。

1963年

・トリスタン・ツァラが死去。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Dada、2020年4月11日アクセス


【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「キリストの洗礼」

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キリストの洗礼 / The Baptism of Christ

レオナルドとヴェロッキオの共作


《キリストの洗礼》1470-1475年
《キリストの洗礼》1470-1475年
作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ、アンドレア・デル・ヴェロッキオ
制作年 1470-1475年
サイズ 152.0 cm × 180.0 cm
メディウム パネルにテンペラと油彩
所蔵者 ウフィツィ美術館

《キリストの洗礼》はレオナルド・ダ・ヴィンチによる油彩作品。ウフィツィ美術館が所蔵している。

 

イタリアのルネッサンス期に画家アンドレア・デル・ヴェロッキオのアトリエで1472年から1475年頃に制作した絵画で、一般的にはヴェロッキオとの共同作品とみなされている。美術史家の中には、ヴェロッキオの工房のほかにメンバーの手も加えられていると指摘するものもいる。

 

この作品は、マタイ、マルコ、ルカの福音書に記録されているように、洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼を描いている。新約聖書に書かれているヨルダン川で隠遁生活を送っていた聖人ヨハネの元へイエスキリストが来訪し洗礼を受ける場面である。

 

左側に描かれている天使たちは、若き日のレオナルドによって描かれたと記録されているがが、現代の批評家たちは背景の風景の大半もレオナルドによるものだと見解を示している。

 

首を捻る難しいポーズや衣装表現の巧みさ、奥行きを感じさせる風景は、若きレオナルドの野心を表してありあまる。背景の風景の多くは天使のように油彩で描き、残りの部分はテンペラで描いた可能性が高い。 

ヴェロッキオの作品でもある


絵全体の構図はヴェロッキオの作品であり、その重要性と価値が見落とされがちである。

 

アンドレア・デル・ヴェロッキオは、15世紀後半にフィレンツェで成功した工房を経営していた彫刻家、金細工師、画家である。彼の弟子にはボッティチェリ、ボッティーニ、ロレンツォ・ディ・クレディ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの画家がいた。

 

ヴェロッキオは画家ではなかったが、彼の手によるものはほとんどなく、彼の名声は彫刻作品を中心としたものであった。ヴァロッキオは多作の画家ではなかったため、彼の手による絵画はほとんどなく、彼の職人としての名声はおもに彫刻作品が中心である。本作はヴェロッキオがレオナルドの才能に舌をまき、筆をおったという伝説をも生んだ、歴史的作品。

歴史


イタリアではパレードの盾のような耐久性のあるものにしか使われていなかった技法が、オランダやフランドルの画家や輸入品によってフィレンツェに伝わっきたころに、この絵が描かれた。

 

アントニオ・ビリによれば、《キリストの洗礼》はS.サルヴィ教会の依頼を受け、後にサンタ・ヴェルディアーナのヴァロンブロッサン・シスターフッドに譲渡された。 1810年にアカデミアのコレクションに入り、1959年にウフィツィ美術館に移管された。16世紀にはジョルジョ・ヴァザーリの《画家たちの生涯》で、ヴェロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチの伝記として論じられている。



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「カーネーションの聖母」

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カーネーションの聖母 / Madonna of the Carnation

レオナルド初期の聖母子像


《カーネーションの聖母》1478-1480年
《カーネーションの聖母》1478-1480年
作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1478-1480年
サイズ 62 cm × 47.5 cm
メディウム パネルに油彩
所蔵者 アルテ・ピナコテーク美術館

《カーネションの聖母》は1478年から1480年ころにかけてレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。ドイツ、ミュンヘンにあるアルテ・ピナコテークが所蔵している。

 

《受胎告知》のすぐ後、ほぼ同時期に描かれた作品で、そのためか、2枚の絵のマリアはよく似ている。人物の表情や不安定な構図には、まだ稚拙が残る。

 

中心となるモチーフは、若い聖母マリアが赤ん坊のイエスを膝にのせて座っている姿である。マリアやイエスの顔には光が当たっているが、花やほかのすべての物体は対照的に暗い色で塗られ影のようになっている。

 

子どもは見上げており、母親は見下ろしているが、アイコンタクトはしていない。設定は人物の両側背景に2つの窓がある部屋である。

 

もともとこの絵はアンドレア・デル・ヴェロッキオにが制作したと考えられていたが、その後の美術史家たちは、レオナルドの作品であることに同意している。 聖母の髪、左手、カーテン、花はレオナルドの《受胎告知》の要素に似ている。

 

背景に切り立った山脈が描かれているが、普通なもっとなだらかな景色なはずなので妙に感じる。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Madonna_of_the_Carnation、2020年4月15日アクセス


【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「東方三博士の礼拝」

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東方三博士の礼拝 / Adoration of the Magi

東方から来た3人の賢者


《東方三博士の礼拝》1481年
《東方三博士の礼拝》1481年
作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1481年
サイズ 246 cm × 243 cm
メディウム パネルに油彩
所蔵者 ウフィツィ美術館

《東方三博士の礼拝》は1481年にレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。

 

フィレンツェのスコペートにあるサン・ドナト・ア・スコペト修道院のアウグスティニア修道士から依頼を受けたものだが、翌年にミラノに旅立つことになったため未完成の状態で終わった。1670年からフィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されている。

 

主題は東方より賢者たちがキリストの生誕を祝福するためにベツレヘムを訪れた場面である。

 

未完となった原因は契約問題と言われている。絵を発注した修道院は公証人だった父、セル・ピエロの取引先で、ピエロが勝手に契約した可能性がある。その報酬量は300フィリオー二(日本円で900万ほど)相当の土地で、報酬が現金ではなく土地で支払われる契約だったとされている。後払いでは顔料を買うお金もなかったので、前借りを申し出たが、断られ未完になった。

 

また、大胆すぎる構図におそれをなした修道院側が、下絵の段階で制作続行を拒否した可能性もある。

描写


前景には聖母マリアと幼子と跪いて礼拝したマギが三角の構図で描かれている。彼らの背後には半円的な形で同行している人々が描かれ、その中には若いレオナルドの自画像と思われる人物(右端の羊飼いの若者)も含まれている。後継に広がるのは殺戮の情景。自身の存在を脅かす救世主の誕生を恐れたユダヤ王ヘロデが、幼児を探し出しては殺していった、という場面を描いている。

 

通常は三世代(老年、壮年、青年)の姿で描かれるマギを、レオナルドは2人の老人と1人の若者の姿で描いている。あまりに多くの人に過去まれ、どれがマギが一見わからなくなっている。

 

背景左には異教の建物の廃墟があり、その上に修復作業をしている人々の姿が見える。右側には馬に乗って戦う男たちと岩場の風景が描かれている。

 

廃墟は衰退するギリシャ・ローマの異教を象徴している。また、マクセンティウスのバシリカに言及している可能性があり、中世の伝説によれば、ローマ人は処女が出産するまであり、キリスト誕生の夜に崩壊したという(実際に建てられたのはもっと後)。廃墟はレオナルドの透視投影技法で描かれおり、遺跡内には戦闘中の騎手がいる。

 

中央のヤシの木は聖母マリアと関連がある。これは、ソロモンの歌の「あなたはヤシの木のように堂々としている」というフレーズから由来していると言われている。

 

ヤシの木のもう一つの側面として、古代ローマでは勝利の象徴として使われていたのに対し、キリスト教では死に対する殉教の勝利を象徴している。

 

絵に描かれたもう一本の木はカロブ科の木で、この木の種は石や宝石を測定するのに使われている。この木その種子は王冠と関連しており、キリストを王の中の王として、また聖母を将来の天の女王として、また、生まれたばかりのキリストは自然の贈り物であることを暗示している。

 

構図の多くは、北方の芸術家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの初期の作品に影響を受けている。人物と空間の関係、空間と鑑賞者の視点、高い水平線、やや高くなった視点、遠くに後退する空間、風景の中央にある岩の前に置かれた中央の人物群は、すべてファン・デル・ウェイデンの《キリストの埋葬》(1460年)からの引用である。

ファン・デル・ウェイデン《キリストの埋葬》,1460年
ファン・デル・ウェイデン《キリストの埋葬》,1460年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Madonna_of_the_Carnation、2020年4月15日アクセス

・ペンブックス「ダ・ヴィンチ全作品・全解剖」CCCメディアハウス

・レオナルド・ダ・ヴィンチを旅する 別冊太陽



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「荒野の聖ヒエロニムス」

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荒野の聖ヒエロニムス / Saint Jerome in the Wilderness

未完成の聖ヒエロニムスの肖像


《荒野の聖ヒエロニムス》1480年
《荒野の聖ヒエロニムス》1480年
作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1480年
サイズ 103 cm × 75 cm
メディウム くるみパネルにテンペラと油彩
所蔵者 ヴァチカン美術館

《荒野の聖ヒエロニムス》は1480年にレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された未完成作品。現在、ヴァチカン美術館が所蔵している。木製パネルの上にモノクロームで下書きした状態になっている。レオナルドの死後、詳細な日付はわからないがパネルは5分割されていた。現在は元の形に復元されている。

 

シリア砂漠に隠遁して聖人としての生活を送っていた聖ヒエロニムスの壮年期の姿を描いたものである。

 

聖人は岩場にひざまずき、絵の右端にかすかに描かれている十字架を見つめている。右手は岩に置かれていて、伝統的な解釈では懺悔をするため胸に手を当てている。

 

足元にはライオンがいる。ヤコブス・デ・ウォラーギネの『黄金伝説』によると、ある日聖ヒエロニムスが彼の修道院の修道士に聖書を説いていると、傷ついたライオンが現れ、その傷ついた足を聖ヒエロニムスが治してやったという。

 

パネルの左側には、霧に包まれた断崖絶壁の山々に囲まれた湖の遠景が描かれている。右側には、かすかに教会が描かれており、岩場の開口部から見える。

 

教会は、教会博士の1人だったヒエロニムスのローマ・カトリック教会における立場を暗示しているのかもしれない。

 

構図は、聖人像の斜め台形の形状が斬新である。ヒエロニムスの角張った形状と絵画底面を横切るライオンのしなやかなS字形状が対照的である。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Jerome_in_the_Wilderness_(Leonardo)、2020年4月16日アクセス


【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「リッタの聖母」

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リッタの聖母 / Madonna Litta

未完成の聖ヒエロニムスの肖像


《リッタの聖母》,1490年
《リッタの聖母》,1490年
作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1480年
サイズ 103 cm × 75 cm
メディウム くるみパネルにテンペラと油彩
所蔵者 ヴァチカン美術館

《リッタの聖母》は1490年にレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作されたテンペラ画。サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に所蔵されている。

 

《カーネーションの聖母》のように、2つのアーチ型の開口部がある暗い屋内に人物が描かれており、部屋の向こうには上空からの山の風景が描かれている。キリストが左手に抱えているのは、将来における受難を象徴するゴシキヒワである。

 

作者については学者の間でも意見が分かれており、ジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオやマルコ・ドッジョーノなどレオナルドの弟子の作品とする説もあるが、エルミタージュ美術館ではレオナルドの作品とみなしている。

 

絵のタイトルはミラノの貴族だったリッタ家から由来している。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Madonna_Litta、2020年4月16日アクセス

 


【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「糸車の聖母」

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糸車の聖母 / Madonna of the Yarnwinder


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1499年
サイズ 48.3 cm × 36.9 cm
メディウム くるみパネルに油彩
所蔵者 リチャード・スコット

《糸車の聖母》は1499年もしくはそれ以降にレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された作品。複数あり少なくとも1点、おそらく2点描いている。

 

レオナルドは1501年、フィレンツェで、フランス国王ルイ12世の秘書フロリモンド・ロベテからの依頼で制作したと記録されている。この点については学者の間で意見がわかれており、1507年にフランスの宮廷に届けられた可能性がある。

 

イギリスのリチャード・スコットが所有する「The Buccleuch Madonna」版とアメリカの個人が所有する「The Lansdowne Madonna」の2枚が存在するが、どちらもレオナルドの作品だと認識されている。

 

両方とも下絵には、構図(ペンティメント)に加えられた同じような実験的な変化があり、レオナルドの工房で両方とも同時に制作されたと考えられている。

 

紡績糸を集めるのに使われる糸巻機を見つめているキリストの子供と座っている聖母マリアが描かれている。

 

糸巻き機は、マリアの家庭性を象徴するものとして、またキリストが十字架につけられた十字架の伏線の役割を果たしている。この絵のダイナミックな構図と暗示された物語は、ラファエロやアンドレア・デル・サルトらの聖母子像の描写に大きな影響を与えた。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Madonna_Litta、2020年4月16日アクセス

 


【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「聖アンナと聖母子」

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聖アンナと聖母子 / The Virgin and Child with Saint Anne

3人の身体が調和を取れた三角形


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1502-1516年
サイズ 168 cm × 112 cm
メディウム ポプラ板に油彩
所蔵者 ルーブル美術館

《聖アンナと聖母子》は1502年から16年にかけてレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。10年以上かけて制作されたもので、丁寧なスフマート技法が使われている。聖アンナの右足やマリアの顔は未完成になっている。

 

幼子と聖母マリアと、2人を慈愛の眼差しで見つめるマリアの母、聖アンナの3人が描かれている。マリアは聖アンナの膝に座っており、三角形の構図になっている。三世代が一直線に並ぶことで、3人の身体が調和を取れた三角形を形づくっている。

 

この絵には下敷きになったと思われるカルトン(着彩画と同寸で厚紙に描かれる下絵)が存在する。カルトンとの違いは、重心がより上に集まっていること、キリストに祝福を与えられる洗礼者ヨハネが帰依、代わりに子羊が描かれている。アンナの天を指し示す手も消えている。

 

フランソワ1世の庇護のもとレオナルドがアトリエにしていたフランスのクルー城でこの絵を見た、と同地を訪れた枢機卿ルイージ・ダラゴーナの秘書、アントニオ・デ・ベアティスは書いている。

 

レオナルドが没した後、1540年までの間はフランスにあったようだ。フランス国王が自分の礼拝堂に飾っていたこともいわれる。その後の来歴は不明だが、1629年にイタリアのカザーレ・モンフェッラートでリシュリー枢機卿が購入し、1636年にフランス国王に献上。現在ルーブル美術館が所蔵している。

聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(1498年) ナショナル・ギャラリー
聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(1498年) ナショナル・ギャラリー

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Madonna_Litta、2020年4月16日アクセス

 


【美術解説】ヒエロニムス・ボス「初期フランドルの異端画家」

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ヒエロニムス・ボス / Hieronymus Bosch

初期フランドルの異端画家


概要


生年月日 1450年
死没月日 1516年8月
国籍 オランダ
表現媒体 絵画
ムーブメント

初期フランドル派

ルネサンス

代表作

・《快楽の園》

・《聖アンソニーの誘惑》

ヒエロニムス・ボス(1450年-1516年8月)は初期フランドル派の画家。日本ではヒエロニムス・ボッシュと表記される事も多い。

 

風変わりなイメージや緻密な光景、宗教思想や神話のイラストレーション作品で知られる。シュルレアリスムのルーツの1つとみなされている。

 

生涯のうちにボッシュの作品は、ネーデルランド、オーストリア、スペインなど幅広い地域で人気を呼び収集されている。特に地獄の不気味で悪夢的な描写の作品が人気だった。

 

ボスの生涯のほとんどは知られておらず、数少ない記録が残っているだけである。彼はスヘルトーヘンボスにある祖父の家で生まれて、人生の大半をこの町で過ごした。先祖のルーツは、現在のドイツのアーヘン地方周辺にあるという。

 

ボスの悲劇的かつ幻想的なスタイルは、16世紀に北方芸術に広く影響を及ぼした。特にピーテル・ブリューゲルがボスの影響を受けていたことは有名である。シュルレアリスムにおいて、サルバドール・ダリが特に影響を受けており、彼のキャラクターの1つである「大自慰者」のルーツとなるイメージが『快楽の園』に描かれていることが、今日判明している。

 

また、「目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢」で描かれているモノをくわえた魚のルーツのようなものが「聖アントニウスの誘惑」で現れる。

 

ボスの作品は、現代の視点から解説することは非常に難しい。異端宗派やオカルトと現代の性的なイメージを例として関連付ける試みは大部分が失敗している。

 

 

今日、ボスは人間の欲望と深淵な恐怖を洞察する個性的な画家として受け止められており、特に美術史のスタイルやカテゴリを付けることは困難な作業となっている。宗教改革の際に作品の大部分が破壊されて消失しており、現在、確実にボスが描いたとされる作品は25作品残っている。代表的な作品は『快楽の園』である。

『悦楽の園』(1490−1510年)
『悦楽の園』(1490−1510年)
『最後の審判』
『最後の審判』
『聖アントニウスの誘惑 左扉』
『聖アントニウスの誘惑 左扉』

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Hieronymus_Bosch、2020年4月18日アクセス


【美術解説】ヨハネス・フェルメール「光による巧みな表現が特徴のバロック画家」

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ヨハネス・フェルメール / Johannes Vermeer

光による巧みな表現が特徴のバロック画家


《真珠の耳飾りの少女》1665年頃
《真珠の耳飾りの少女》1665年頃

概要


生年月日 1632年10月
死没月日 1675年12月
国籍 オランダ
表現媒体 絵画
ムーブメント バロック

 

代表作

・《真珠の耳飾りの少女》

・《牛乳を注ぐ女》

ヨハネス・フェルメール(1632年10月-1675年12月)はオランダのバロック時代の画家。本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト。当時のオランダの中産階級の家庭内の風景画に特化した作風で知られる。

 

生前はデルフトやハーグで認められた地方の風俗画家としてそこそこ成功をおさめていたが、作品数が相対的に少なかったため裕福ではなく、死の際には妻と子どもに借金を残していたという。

 

フェルメールはゆっくりと細心の注意を払って制作を行い、非常に高価な顔料を頻繁に使用していた。フェルメール作品で極めて評価が高い点は光に対する扱い方や描きかただろう。

 

ハンス・コーニングスベルガーは、「彼の絵画のほとんどすべては、デルフトの彼の家の2つの小さな部屋にあるものだが、同じ家具や装飾品を工夫して配置し、また同じ人々、おもに女性を描いていることが多い」と書いている。

 

死後、フェルメールの名声はほとんど無名状態になる。アーノルド・ホウブラケンの17世紀オランダ絵画に関する主要な資料集『オランダ画家と女性芸術家の大劇場』では、フェルメールの名前はほとんど言及されず、その後の約2世紀にわたってオランダ美術調査ではフェルメールの名前は省かれていた。

 

19世紀になって、フェルメールはグスタフ・フリードリヒ・ヴァーゲンやテオフィレ・トーレ=ビュルガーによって再発見される。2人は彼はフェルメールに帰属する66枚の作品をに関する論文を発表した。なお今日、普遍的にフェルメールの作品と認定されているのは34枚である。

 

この頃からフェルメールの評価がヨーロッパで高まりはじめ、現在ではオランダ黄金時代の偉大な画家の一人として認識されている。

 

フランツ・ハルスやレンブラントのようなオランダの黄金時代を代表する芸術家たちと同様に、フェルメールも海外に出ることはなかった。しかし、レンブラントのように、彼は熱心な美術品の収集家であり、ディーラーだった。

略歴



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Johannes_Vermeer、2020年4月22日アクセス


【作品解説】ヤロミル・イレシュ「ヴァレリエの不思議な一週間」

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ヴァレリエの不思議な一週間 / Valerie and Her Week of Wonders

チェコ・ガーリー・シュルレアリスム・ムービー


概要


監督 ヤロミル・イレシュ
原作 『ヴァレリエの不思議な一週間』ヴィーチェスラフネズヴァル
制作国 チェコスロヴァキア
公開日 1970年10月16日
ムーブメント チェコ・ヌーヴェルバーグ
出演 ヤロスラバ・シャレロバ(ヴァレリエ)

「ヴァレリエの不思議な一週間」(邦題:闇のバイブル 聖少女の詩)は、1970年にヤロミル・イレシュによって制作されたチェコスロヴァキアのシュルレアリスム映画。チェコ語タイトルはValerie a týden divů。

 

1932年にシュルレアリスム詩人Vítězslav Nezvalが出版した同タイトルの小説を原作としている。

 

映画内容は、方向感覚を喪失して夢の中で生きているような思春期少女のシュルレアリスティックな感覚を映像化したもので、ヒロインが神父や吸血鬼、男女問わず騙されて夢の中で生活している姿を描く。ファンタジーとホラー映画の要素が融合している。ガーリー・シュルレアリスム・ムービーの傑作の1つ。

 

撮影そのものは1969年、主演少女ヤロスラバ・シャレロバが13歳のときに行われ、1970年にチェコ南端にある町スラヴォニツェ周辺で公開された。

評価


アメリカ合衆国の映画評論サイト「ロッテン・トマト」では、14件のレビューで100%の支持率を獲得しており、加重平均評価は7.8/10である。

 

ニューヨーク・タイムズ紙はこの映画を「一貫してユーモラスで反俗的」と呼び、「プラハの春の墓場に咲く最もエキゾチックな花かもしれないが、20世紀のチェコ文化に深く根ざした花である」と評価している。

 

『Slant Magazine』のJordan Cronkは、この映画について「意図的に謎に満ちていて、鈍い鑑賞体験でさえあるかもしれないが、すべてのフレームは、エネルギーと生命の鼓動で活気に満ち続けている」と書き、5つ星のうち3つ半の評価を与えている。

 

ネブラスカ大学映画研究のウィラー W. ディクソン教授は、著書『楽園のヴィジョンズ』の中でこう書いている。この映画の簡潔さと魅惑的なミザンセーヌは、ヤン・クーリックの撮影技術であり、この映画はほとんど無法者のプロジェクト、あるいは反カトリック的な立場を取り入れることで無神論を強制しようとする社会に対する批判、特に性的道徳と関連しているように思う。

 

作家でブルネル大学教授のターニャ・クルジミンスカは、著書『101 Horror Films You Must See Before You Die』の中で、この映画を「若い女性の性的な目覚めを中心に織り成された、絶妙に細工されたおとぎ話」と書いている。

 

クルジミンスカはまた、この映画は当時のソフトコアポルノ映画と多くの類似点に関して、「それは高い文化と低い文化の両方から引き出された属性の融合でより大きなキャンバスを追求したものだと」と指摘した。

 

また、この映画にはゴシックホラーやおとぎ話の要素が含まれており、象徴的なイメージが使われていることにも言及している。

トレーラー


「ヴァレリエの不思議な一週間」のトレーラーですが、この映画の世界観を簡潔にまとめている気がします。

あらすじ


「ヴァレリエの不思議な一週間」は、シュルレアリスム作品なので、「アンダルシアの犬」と同じくストーリーを追おうとしても意味がよく分からない。詩的映像として楽しむ鑑賞方法がベストである。

 

映画は初潮が始まったばかりの13歳の少女ヴァレリエ(ヤロスラバ・シャレロバ)の睡眠シーンから始まる。ある夜、睡眠中のヴァレリエのもとに青年(ヴァレリエの兄の名前を語っている)がやってきて、ヴァレリエのイヤリングを盗む。イヤリングが盗まれたことに気づいたヴァレリエは、起きて青年の後を追いかけようと家の外に出ると、突然、白いマスクで顔を覆った男に出会う。ここでシーンは切り替わる。

 

次の日、ヴァレリエがプールで泳ぎながら、水面を見つめていると、突然、青年の手が上から現れて、盗んだイヤリングを返す。その後、ヴァレリエは自分の家に戻り、ベッドに寝転がり、眠りに落ちると、水浴びをしている女性たちのシーンに切り替わる。ヴァレリエは自分の身体を触りながら、木かげから水浴びをしている女性たちを興味深くのぞく。

 

シーンは切り替わる。ヴァレリエの町に宣教師の集団がやってきて、隣人の結婚式が行われる。結婚式のパレードの群衆の中に、白いマスクの男の姿を見つける。その白いマスクの男について祖母に話すと、「それは私の昔の恋人かもしれない」と話す。

 

シーン切り替わる。ヴァレリエが、ピアノのレッスンをしていると、伝書鳩が飛んできてヴァレリエのもとに手紙を届ける。その手紙には町の処女全員を集めた教会の説教会が行われるという事が書いてあり、ヴァレリエも処女集会に参加する。説教会のあとにヴァレリエのイヤリングを盗み、彼女に処女集会の手紙を送ってきた青年が、鎖にかけられているの発見し、彼を助ける。青年はヴァレリエの家の庭や結婚式のときにいた白いマスクの男はモンスターだと話す。

 

この後、白いマスクのモンスターはヴァレリエを誘拐し、教会へ連れていき、そこで祖母が祖母の昔の恋人の司祭に暴力行為を受けてるところを強制的に見せつけられる。祖母はヴァレリエがあとを継ぐ予定になっている家を司祭に販売してしまう。

 

ヴァレリエの家を司祭がのっとった後、ある夜、司祭はヴァレリエのベッドルームに入ってきて、彼女にセックスを試みようとする。抵抗すると、ヴァレリエは魔女裁判にかけられてしまい、火あぶりにされる・・・(終わり)

プロダクション


オリジナルの脚本はエスター・クルンバチョーヴァ(Ester Krumbachová)が担当しており、彼はこの映画のプロダクションデザインも担当している。

 

1968年4月下旬に脚本が承認され、イレシュの1969年の長編映画『The Joke』が共産党当局によって禁止されたにもかかわらず、本作の製作が進められた。

 

主人公の少女のオーディションで1500人の少女の応募の中から、ヤロスラヴァ・シャレロヴァが選ばれた。 ルネッサンス時代の町並みがそのまま残っているチェコの町スラヴォニツェが主な撮影地に選ばれた。地元の人々がエキストラとして出演している。

 

いくつかのシーンは、近くのコステルニー・ヴィドジー修道院で撮影されている。 小説家ヴィーチェスラフネズヴァルの息子であるRobert Nezvalは、映画の中で太鼓を持った少年役で登場している。

影響


多くの作家がこの映画とイギリスの作家アンジェラ・カーターの作品との類似性を挙げていが、彼女はイギリスでの公開時にこの映画を見ているという。

 

カーターの短編小説を映画化した『The Company of Wolves』(1984年)の彼女の脚本は、監督のニール・ジョーダンとの共同作業で、直接的または間接的な影響を受けている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Valerie_and_Her_Week_of_Wonders_(film)、2020年4月27日アクセス



【美術解説】アウトサイダー・アート(アール・ブリュット)

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アウトサイダー・アート / Outsider art

美術業界の外部にある作品群たち


モートン・バートレットの人形
モートン・バートレットの人形

概要


アウトサイダー・アートは、独学、または趣味として素朴に制作された美術のこと。1972年に美術批評家のロジャー・カーディナルの造語である。フランスの芸術家ジャン・デビュッフェが作った「アール・ブリュット」と同じ意味の英語。

 

一般的にアウトサイダー・アーティストと呼ばれる人は、主流の美術界や美術機関とほとんど、まったく接点がないまま制作をしている。

 

デビュッフェは、特に精神病院の患者や子どもが描いた絵に対して制度化された美術業界の外部にあるアウトサイダー・アートとしてスポットを当てた。しかし、ロジャー・カーディナルの「アウトサイダー・アート」では、より広義にアール・ブリュットを適用している。入院履歴のない独学画家の作品や、素朴派の芸術も含めている。代表的な作家としてはヘンリー・ダーガーやモートン・バートレットが挙げられる。どちらも入院履歴はなく、精神病に患ってもおらず、普通に生活をしていた人である。

 

そのためアウトサイダー・アーティストの作品の多くは、死後に作品が発見され、生前に評価されるケースは少ない。また、作品の傾向としては、精神の極限状態、型破りなアイデア、幻想的な世界を描いている場合が多い。

 

アウトサイダー・アートは、アートワールドとは別に独立したカテゴリであり、マーケット生成に成功している。たとえば1993年からニューヨークで、年に一度「アウトサイダー・アート・フェア」を開催しており、メディアにおいても『RAW VISION』『Osservatorio Outsider Art』などの専門誌も多数存在している。

 

なお、この言葉はよく「アートワールド」や「アートギャラリーシステム(近現代美術の企画画廊)」の外にある作品群を、その芸術家の作品内容や環境状況と関係なく、美術批評家やギャラリストが自分たちのマーケットに参加させるために利用・誤用するケース(たとえば草間さんとか)が多いので注意が必要である。

精神病者の芸術(アール・ブリュット以前)


アドルフ・ヴェルフリの作品。
アドルフ・ヴェルフリの作品。

日曜画家や子どもたちの芸術に対する関心は、ワシリー・カンディンスキーアウグスト・マッケフランツ・マルク、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーたちなどがドイツ結成した表現主義のグループ「青騎士」で生まれた。

 

青騎士たち作品における核心とは、洗練された技術を放棄したときこそ生まれる力強い表現であった。1912年に彼らが発行した『青騎士年鑑』で初めてこうした理論が発表された。

 

精神病者が制作した作品は、前世紀末頃から精神病医によって精神分析の対象となると同時に、芸術作品として認知されるようになる。その先駆的な仕事として、精神病者の作品を収集したオーギュスト・マリイ博士は1905年パリのヴィルジュイフ精神病院に自らのコレクションによる「狂気の美術館」を設立している。

 

1919年ケルンでのダダの展覧会で、精神病者の芸術が前衛芸術と関連づけて一般に公開された。ほかにアフリカ彫刻、日曜画家の作品、子どもの絵、ガラクタ、精神病者の作品が並列して展示された。

 

実際の精神病患者の芸術に対する関心は1920代から大きくなってきた。1921年にウォルター・モーガンタラー博士は彼の担当患者だったアドルフ・ヴェルフリに関する論文『芸術家としての精神病患者』を出版。ヴェルフリは自発的に絵を描きだした患者で、絵を描くことで心が落ち着くことができたという。

 

ヴェルフリの傑出した作品群は、彼自身の架空の人生をイラスト形式で物語化したもので、25000ページ、1600点のイラスト、1500のコラージュ、全45巻で構成されている。また、ヴェルフリはこのほかに小さな小作品も多数制作しており、それらはプレゼントされたり、販売された。彼の作品はスイス・ベルンのファインアート博物館内のアドルフ・ヴェルフリ財団で展示されている。

最も重要なのは、1922年にハンス・プリンツフォン博士が刊行した『精神病者の芸術』である。これは世界で初めて精神病者の作品に焦点を当て研究した本である。

 

ヨーロッパのさまざまな病院や機関から何千というサンプル作品に基いて精神病者の芸術を紹介しており、特に10人の“統合失調症の巨匠”として、カール・ブレンデル、オーガスト・クロッツ、ピーター・ムーグ、オーガスト・ニーター、ヨハン・クヌファー、ビクター・オース、フランツ・ポール、ヘルマン・ベイユ、ハインリッヒ・ウェルツ、ヨセフ・セルらをとりあげている。

 

本書は、当時の前衛芸術家たち、特にパウル・クレーやマックス・エルンスト、のちにアール・ブリュットを立ち上げるジャン・デビュッフェらに大きな影響を与えた。

 

また、正式な美術教育を受けた芸術家や社会的地位を確立した芸術家のなかにも、精神病を患わった事が要因で芸術家として成功した人もたくさんいる。たとえば、ウィリアム・クレレックはカナダ勲章を受賞した作家だが、彼は若い頃に統合失調症に患い、イギリスの精神病院モーズレイ病院に入院。そこで若い頃の苦悩を表現した絵を描き始めた。耳を切り落としたヴィンセント・ヴァン・ゴッホもこれらの流れにある作家といえる。

ウィリアム・クレレック『迷路』
ウィリアム・クレレック『迷路』

ジャン・デビュッフェとアール・ブリュット


フランスの画家ジャン・デビュッフェは、プリンツフォン博士の『精神病者の芸術』に強い影響を受け、自身でもそのような作品を集めはじめる。1945年、スイスそしてフランス各地の精神病院、監獄などを訪れ、アウトサイダーアートの蒐集を開始。集めたそれらを「アール・ブリュット」または「ローアート」と名付けた。

 

デビュッフェが「アール・ブリュット」という言葉を最初に記したのは、画家ルネ・オーベルジョノワにあてた1945年8月28日付けの手紙である。「アール」は芸術、「ブリュット」は、フランス語でまだ磨かれていない、あるいは加工や変形をこうむらない、生のまま、自然のままという意味の形容詞である。

 

デュビュッフェが1949年に開催した「文化的芸術よりも、生(き)の芸術を」のパンフレットには、「アール・ブリュット(生の芸術)は、芸術的訓練や芸術家として受け入れた知識に汚されていない、古典芸術や流行のパターンを借りるのでない、創造性の源泉からほとばしる真に自発的な表現」と書かれている。

 

1948年にデビュッフェはアンドレ・ブルトンら複数の画家たちと「アール・ブリュット協会」を設立し、集めた作品を管理。これが現在のアール・ブリュット・コレクションの源流となる。数千の作品が収集され、それらの多くは現在、スイスのローザンヌのアール・ブリュット・コレクションにある。しかし資金不足や会員同士の対立などの理由で、アール・ブリュット社の活動は低迷し、1951年に解散。

 

その後、アルフォンソ・オッソリオが、デビュッフェが集めたアール・ブリュットのコレクションをニューヨークの邸宅で10年以上にわたり管理。デュビュッフェもアメリカにわたり、アートクラブ・オブ・シカゴでの回顧展に伴い、アール・ブリュットの思想を伝える重要な講演「反文化的立場」を行った。シカゴでアウトサイダー・アートが盛んなのもこのときの影響が大きい。

 

1962年春にアール・ブリュットのコレクションはパリの「アール・ブリュット協会」の新住所に移される。また1967年にデュビュッフェの重要な回顧展が開かれたパリ装飾美術館で開かれた。

 

その後、アール・ブリュットコレクションの寄贈先探しに奔走したデュビュッフェは、受入先にスイスのローザンヌ市を見出する。同市は18世紀の由緒ある貴族の館であったボーリュー館内に作品を移送する。1976年2月26日、ボーリュー館は改装され「アール・ブリュット・コレクション」とし、ここに保存された。「ミュージアム」ではなく「コレクション」となっているのは、デビュッフェがミュージアムを嫌ったためであるという。

ローザンヌ市にある「アール・ブリュット・コレクション」外観。
ローザンヌ市にある「アール・ブリュット・コレクション」外観。
アール・ブリュット・コレクション
アール・ブリュット・コレクション

アウトサイダー・アートとロジャー・カーディナル


ロジャー・カーディナル「アウトサイダー・アート」(1972年)
ロジャー・カーディナル「アウトサイダー・アート」(1972年)

「アウトサイダー・アート」という言葉は、1972年にロジャー・カーディナルが自身の本に付けたタイトルで、元々はフランス語の「アール・ブリュット」に相当する正確な英語に言い換えるためにつけたものである。

 

しかし、年を経るとともに「アウトサイダー・アート」という言葉を適用する範囲が曖昧になっていき、現在は美術を受けていない作家、障害者、社会的排除に苦しんでいる作家も含まれるようになった。明確な定義自体は存在しておらず、アール・ブリュットと違う意味で付けられた言葉でもない。

 

1979年にロジャー・カーディナルとビクター・マスグレイブはロンドンのヘイワード・ギャラリーで『アウトサイダーズ』という展覧会をキュレーティングしている。この展覧会は、デビュッフェの設定したアール・ブリュット理論や紹介した作家たちに、ヘンリー・ダーガーやマルティン・ラミレス、ジョゼフ・ヨーカムといったアメリカのアウトサイダー・アーティストなど追加して紹介するものだった。デビュッフェが以前、アール・ブリュットとして扱わなかった土着文化に影響を受けた芸術家も紹介している。現在の「アウトサイダー・アート」の意味はこの展覧会がルーツとなっているといってよい。

 

ロジャー・カーディナルはほかにも出版物で、アウトサイダーな建築物、囚人者の芸術、自閉症者の芸術などを紹介。またアウトサイダー・アート情報誌『Raw Vision』や、性的要素の強い作品に絞ったアウトサイダー・アートの情報誌『Raw Erotica』の編集に協力もしている。

「アウトサイダーズ」パンフレット。
「アウトサイダーズ」パンフレット。
「アウトサイダーズ」パンフレット。
「アウトサイダーズ」パンフレット。

メディア


「Raw Vision」はイギリスのアウトサイダー・アート専門の情報誌。編集長はジョニー・マイゼル。1989年にロンドンで創刊。小規模のフリーランスのスタッフや学者たちによる寄稿で世界中のアウトサイダー・アートを紹介している。

 

毎号、異なる国のアウトサイダー・アーティストをとりあげ、また世界中からアウトサイダー・アートを主題としてニュースを収集し、紹介。Raw Visionは『アウトサイダー・アートの『Rolling Stone』誌』と呼ばれている。

代表的な作家


ヘンリー・ダーガー
ヘンリー・ダーガー
モートン・バートレット
モートン・バートレット
アンリ・ルソー
アンリ・ルソー
ジョン・ウェイン・ゲイシー
ジョン・ウェイン・ゲイシー

ルイス・ウェイン
ルイス・ウェイン
ミンガリング・マイク
ミンガリング・マイク
佐川一政
佐川一政
ゾンネンシュターン
ゾンネンシュターン

アドルフ・ヴェルフリ
アドルフ・ヴェルフリ
エニアおばあちゃん
エニアおばあちゃん
ウィリアム・トーマス・トンプソン
ウィリアム・トーマス・トンプソン
マッジ・ギル
マッジ・ギル

・シド・ボーヤム(1914-1991)

・ネック・チャンド(1924-2015)

・フェルディナンド・シュヴァル(1836-1924)

・フェリペ・ジーザス・コンサルボ(1891-1960)

・デイブ・デ・カストリス(1973-)

・チャールズ・デルショー(1830-1923)

・ポール・ガッシュ(1885-1940)

・ジェームズ・ハンプトン(1909-1964)

・アニー・フーパー(1897-1986)

・ヴォジスラヴ・ジャッキー(1932-2003)

・モリー・ジェイソン(1890-1973)

・スーザン・テ・カフランギ・キング(1951-)


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Outsider_art、2020年4月27日アクセス


【作品解説】グスタフ・クリムト「女性の三時代」

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女性の三時代 / The Three Ages of Woman

女性の三段階と細胞を通じて生と死を表現


※1:《女性の三時代》1905年
※1:《女性の三時代》1905年

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1905年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 1.8 m x 1.8 m
コレクション ローマ国立近代美術館

《女性の三時代》は1905年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。1911年のローマ国際美術展で金賞を受賞。

 

この作品では、幼少期、若年期、老齢期にある3人の女性を通じて「女の人生」を表現している。若年期を示す女性が幼少期を示す女の子どもを抱き、背後に老齢期を示す老婆が描かれている。

 

赤ちゃんと若い女性は目を閉じ、装飾的で華やかな色使いの空間に包まれ、春を象徴する花が頭の周りに配置されている。一方で老婆はうなだれて、腹が突き出て、胸が垂れ下り、腕には血管が浮き出ており、顔を長い髪と手で隠している。

 

若い女性や老婆の横に描かれているドーナツ状の模様は細胞とも言われている。クリムトは微生物学に関心をもっており、ドーナツ状の模様はバクテリアコロニーとよく似ていると指摘されている。

 

老婆は細長い原生虫の中心に立ちうなだれていることから、細菌による分解、つまり「死」を象徴している。一方で赤ちゃんを抱いた女性の周囲のドーナツ状の模様は新しい細胞の誕生、または花模様でもあり、それは「生」を象徴している。

 

全体として、「生」と「死」を通じて、新たな生成と分解を繰り返していく世界観を「女性の人生」を通して表現している。

 

なお、この老婆はオーギュスト・ロダンの彫刻「老いた娼婦」から着想を得ている。ロダンの《老いた娼婦》は1901年にウィーンで開催された19世紀美術展覧会に出品された作品で、クリムトもこの展覧会に参加しており、そのときに大変感銘を受けたという。



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Three_Ages_of_Woman_(Klimt) 2019年1月16日

 

■画像引用

※1:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Three_Ages_of_Woman_(Klimt) 2019年1月16日

【美術解説】植田正治「砂丘と幻想」

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植田正治 / Shoji Ueda

幻想化された砂丘写真


概要


生年月日 1913年3月27日
死没月日 2000年7月4日
国籍 日本
表現媒体 写真
関連サイト 植田正治事務所

植田正治(1913年3月27日-2000年7月4日)は日本の写真家。山陰の空・地平線・そして鳥取砂丘を背景とした現実的な風景の中にシュルレアリスム的な要素を混ぜ込んだノスタルジックな写真作品で知られる。

 

特にアメリカやフランスで人気が高く、植田の作風は日本語表記そのままにUeda-cho(植田調)という言葉で広く紹介されている。

 

20代に一時的に東京にいたが、故郷である山陰地方を生涯の拠点とした。生涯アマチュア精神を貫き、世間の流行や要求に一切答えることなく、ただひたすらに砂丘と自分の撮りたいものだけを撮り続けた。

略歴


若齢期


植田は1913年3月27日に鳥取県の境港で生まれた。父は履物製造小売業だった。正治は幼少期を生き延びた唯一の子どもだったという。

 

「少年倶楽部」や「少年世界」「日本少年」などの常連の挿絵画家、高畠華宵・山口将吉郎・伊藤彦造などに魅力をおぼえ、とくに華宵にあこがれる。

 

この頃から写真熱も燃えさかり、授業中机の下にカメラ雑誌をひろげているところを教師に見つかって怒られる。また、手札判の陶製バットを現像・定着用に購入し、自宅の台所の押入れに潜り込んでベスト判の密着焼きに夢中になっていたところを父に見つかり、写真道楽をするのか、とすごい剣幕で叱られる。

 

植田正治が両親から最初のカメラ(国産ベスト判)を買い与えられたのは、彼が16歳のときである。1930年に父からカメラを譲り受けると、すぐに写真撮影を始める。以後、植田は、写真一色ともいえる人生を歩むことになった。

 

この写真家としてのキャリアの初期に彼は、マン・レイやアンドレ・ケルテスといった欧州の写真家たちの作品に触れ、レイヨグラムやソラリゼーションといったアヴァンギャルド技法を使った実験的作品の制作を始めた。

 

1931年、鳥取県立米子中学校卒業後、本格的に写真に取り組む。米子写友会入会。この頃、ヨーロッパの前衛写真が満載された『MODERN PHOTOGRAPHY』(『THE STUDIO』誌1931年秋の特別号)を手にし、強い刺激を受ける。

 

撮影した写真を雑誌に投稿するようになった。植田の作品「浜の子ども」は雑誌『カメラ』1931年12月号に掲載された。

 

1932年に東京のオリエンタル写真学校に入学、3ヶ月通う。その後、鳥取に帰郷して自宅で植田写真場を開業した。まだ19歳だった。東京で撮影した《水道橋風景》が「日本光画協会展」(京都烏丸商工会議所、8月)に特選入選し、その後日本光画協会に入会。

 

1935年に白石紀江と結婚。妻は植田の写真の仕事を補佐し続けた。植田にとって結婚は幸せな1つだった。植田の妻の間にできた3人の子どもは作品のモデルにもよくなっている。

 

1937年、石津良介の呼びかけで中国写真家集団が結成(2月)され、創立同人となる。以後、1940年まで4年にわたり、東京の小西六ホールで毎年展覧会を行う。

 

 

1941年に植田は戦場カメラマンになりたくなかったため、写真撮影をやめることに。しかし終戦近くになって、焼け跡地の撮影を余儀なくさせられる。

キャリア


 

1945年12月、大阪朝日新聞紙上の「朝日写真展覧会」公募の社告を目にし、再び写真家として活動できることを実感する。

 

1947年に植田は東京を拠点として活動する「銀龍社」に参加。この頃から植田は、人物画を撮影するのに鳥取砂丘を背景に利用するのが良いことを発見する。また正方形フォーマットモノクローム、そして人物をオブジェ化したような独特なシュルレアリスム作風になり始める。

 

植田自身の故郷、鳥取県にある鳥取砂丘は、彼の作品作りにとって理想的な背景となり、初期に彼の名前を広めた、最も著名な作品群の舞台となっている。

 

鳥取砂丘をスタジオ代わりに、植田は舞台監督同様、彼の作品の登場人物―モデルや植田の家族たち―である被写体に演出をほどこし、限りなく広がる砂の丘と空を背景に、夢想的な空間を創出した。この砂丘での作品群は、厳粛で洗練された構図を持ち、また鋭いユーモア感覚を浮き彫りにしている。

 

1949年に桑原甲子雄に影響を受ける。また雑誌『カメラ』の企画で、土門拳や緑川洋一らの鳥取砂丘撮影会に参加し、彼らを鳥取砂丘で撮影する。これらの作品は雑誌『カメラ』1949年9、10月号に掲載され、その後、幾度となく選集に収録されている。

 

1950年頃、植田の自宅に集まる山陰地方の若い写真家と写真家集団「エタン派」結成。

 

1951年から上田は砂丘を背景にしたヌード写真を撮り始める。1950年代にはMoMAに作品が収蔵、その独自の作風は「植田調(Ueda-cho)」と名付けられるようになる。

 

1955年から『童暦』シリーズを開始。日本海に面する山陰地方の四季の移ろいを、「子どもたち」と「祭り」という2つの主題を通して称賛した作品群である。植田にとって子どもたちはまさしく、彼が構成する空間の中で、彼自身が注意深く配置を決定する芸術的オブジェである。

 

慎重さを持って構成されたこれらの光景は極めて力強く、デジャヴュ以外の何物でもない感覚を伴いながら、私たちが忘れてしまった記憶を喚起する。

 

成熟期


1970年から広告写真やファッション写真の背景として砂丘を利用し始める。80年代以降はPARCOやTAKEO KIKUCHIなどファッション業界とのコラボレートによる広告写真でADC賞も受賞する。

 

1972年、米子市東倉吉町に三階建のビルを設け、1階に「植田カメラ」、2階には喫茶店「茶蘭花」、3階には「ギャラリーU」を開業する。この喫茶店やギャラリーには、植田を慕うアマチュアの写真家が集まり、「サークルU」を結成。初めての海外、ヨーロッパを旅行する。

 

海外に旅することは少なかったが、出向くところには常にカメラを携帯した。このセクションでは、1972~1973年にかけて欧州旅行をして旅行をテーマにした作品を発表している。これらの作品の中では、我々に馴染みの深い彼の世界観が、いくらか意外な新鮮さで表現されている。

 

彼自身は、欧州旅行での写真を「音のない土産」と呼ぶことにこだわったが、休暇中の作品でありながら、実際には写りこむ主題以上に、彼の芸術、そして興味の矛先を明らかにしている。

 

1982年、この頃より、ヨーロッパ各地の画廊で個展が開催されるようになり国際的な評価が高まる。

 

1983年、植田の創作活動を支え続けた妻・紀江死去。この年より、次男・充とともにファッション写真(シリーズ〈砂丘モード〉)に取り組む。

 

1984年、川崎市民ミュージアムに作品が収蔵される。以降現在まで、横浜美術館、東京都写真美術館、米子市美術館、山口県立美術館、東京国立近代美術館、ポンピドゥー・センター、ヒューストン美術館等に作品が収蔵される。

 

1987年、第18回アルル国際写真フェスティバル(7月)に招待され、砂丘を舞台とした1950年前後の作品と近作のファッション写真をフィルムで上映し、喝采をあびる。この頃より、多重露光を用いた静物のカラー作品に取り組む。

 

晩年


人生の終末が近づくにつれ、植田の視線は否応がなしに再び、故郷の海に向けられた。ファッション写真や広告写真のシリーズの撮影依頼を受けたとき、植田はそれらの依頼を受注してきた息子の充に勧められ、再度、鳥取砂丘へ赴いて撮影した。

 

そしてもう一度、砂の丘とその上に広がる空と光、海岸線しかない空虚な風景に出会う。しかし、円熟期の砂丘シリーズでは、新しい写真フォーマットにより、初期の頃とは違う種類の人々を被写体に、空間の広がりを極限まで活用した、実験的な作品を制作した。

 

2000年7月4日、急性心筋梗塞のため87歳で没。


■参考文献

植田正治事務所


【画集解説】山本タカト「殉教者のためのディヴェルティメント」

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殉教者のためのディヴェルティメント

2006年発売山本タカト第四画集


山本タカト『殉教者のためのディベルティメント』
山本タカト『殉教者のためのディベルティメント』

ゴスロリ少女が登場し、植物との融合が始まる


『殉教者のためのディヴェルティメント』は山本タカトの第四作品集。2006年にエディション・トレヴィルより発行(発売:河出書房)。

 

本書はこれまで刊行されてきた三作品に比べると、収録作品のカラーが大幅に変化しており、現在の山本タカトのイメージに近いものとなっている。少女耽美クリムトビアズリーゴスロリ球体関節人形グロテスクといった要素が好きな人におすすめの一冊である。

「サロメ」2005年
「サロメ」2005年

まず、これまでの作品の大半が青年画だったが、本書より少女画が中心となる。おそらく、当時ゴスロリブームだっためか「窓辺の少女」「闇夜のセエナアデ」、そして黒色すみれのファースト・アルバムのジャケット画である「ぜんまい少女箱人形」など、ゴスロリ衣装に身を包んだ少女作品が多数収録されている。また人物の周囲に配置されるオブジェもゴスロリ文化を意識したものに変わっており、テディ・ベアや赤い靴、リボン、球体関節人形のパーツなどが描かれている。

「ぜんまい少女箱人形」2004年。モデルは黒色すみれのさちとゆか。
「ぜんまい少女箱人形」2004年。モデルは黒色すみれのさちとゆか。
「闇夜のセレナアデ」(2005年)
「闇夜のセレナアデ」(2005年)

次に、これまでの山本タカト作品は、人物画だけでなく日本家屋やベッドルーム、森などの背景画も重要な要素だったが、本書より背景はブラック一色と満月が中心となり人物画がクローズアップなされる。


ただ人物画は、通常の人物画ではなく、植物と内臓に類似性を見出し、それらをダブルイメージ的にグロテスクに描いたシュルレアリスム様式になっている。人間のパーツとして認識できる部分は首だけとなっている作品が多い。クリムトやビアズリー、エルンストから影響を受けているであろう構図も多数見られる。

「おまえに接吻するよ、ヨカナーン」2005年
「おまえに接吻するよ、ヨカナーン」2005年
「スフィンクス」2004年
「スフィンクス」2004年

ほかには「天草四郎時貞、島原之乱合戦之図」や「聖セバスチャン」などの青年耽美画もいくつか収録されている。


ペーパーバック: 80ページ

出版社: 河出書房新社 (2006/5/11)

言語: 英語

ISBN-10: 430990677X

ISBN-13: 978-4309906775

発売日: 2006/5/11

商品パッケージの寸法: 25 x 19 x 1.2 cm


【作品解説】マックス・エルンスト「森」

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森 / The Forest

グロテスクな森と円状の帯


マックス・エルンスト《森》1927年
マックス・エルンスト《森》1927年

概要


《森》は1927年にマックス・エルンストによって制作された作品。「森」シリーズは1927年から1928年にかけて、80作品以上制作されている。エルンストが最も好んでいたテーマである。

 

前面の不可解でグロテスクな柵のようなものは森である。森のイメージはエルンストが子ども時代に過ごした家の近くのドイツの森であり、「魅惑」や「恐怖」を象徴するものである。美術史家のフランツ・ツェルガーは、エルンストの森のイメージをベックリンの《死の島》から影響されていると指摘している。

 

森の絵は、絵の具をキャンバス上から凹凸に浮かび上げるグラッタージュという方法が使われている。森で使われている絵の具の色はグリーン、レッド、オレンジ、イエローである。

 

森の後ろに見える青空の部分は伝統的な画筆で描かれている。円状の帯は月、もしくは太陽を表しており、森の前と後ろの両方に位置しているような錯視的効果がある。


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