Quantcast
Channel: www.artpedia.asia Blog Feed
Viewing all 1617 articles
Browse latest View live

NYでギャラリー小暮による企画展「Gallery Kogure Japanese Human Sensors」

$
0
0

NYの大手ロウブロウ系ギャラリーで日本的感性を持つアーティストのグループ展が開催される

概要


2015年4月4日から、アメリカ・ニューヨークにある新進気鋭にて最も有名なロウブロウ系ギャラリーの1つジョナサン・リヴァイン・ギャラリーにて、上田風子、山本タカト、草井裕子、平林貴宏らギャラリー小暮らの作家に焦点を当てたグループ展「Gallery Kogure Japanese Human Sensors」が開催される。

 

ジョナサン・リヴァイン・ギャラリーは、カリフォルニアや西海岸に比べるとマーケットが弱いアートワールドの中心ニューヨークで、果敢にロウブロウ・アートを普及させることに尽力している男気のあるギャラリーとして知られる。

 

ギャラリストのジョナサン・レヴァインが扱うアーティストで注目を集めたのはマーク・ライデン、シャグ、ジェフ・ソト、ゲイリー・ベイスマンと言ったロウブロウアート系の作家だ。

 

2005年1月に、レヴァインはカリフォルニアからマンハッタンのチェルシーの近くに移し『Jonathan LeVine Galley』でオープン。最初の展示は『Pop Pluralism』というタイトルで、レイ・シーザー、クレイトン兄弟、カミュ・ローズ・ガルシアの作品が紹介された。

 

そしてギャラリー小暮は、山本タカトや後藤温子など日本の幻想耽美系の作家を数多く抱えるギャラリーとしてよく認知されているが、ついにアメリカのロウブロウ系の大手ギャラリーと提携。これは大きな出来事である。

 

これまで、日本人アーティスト単独で海外のロウブロウ系ギャラリーと結びつくことはあったが、展示タイトルが「Gallery Kogure Japanese Human Sensors」となっていることからも分かるように、アーティスト名よりもギャラリー名がプッシュされている。また「Japanese」という単語も含まれており、「日本」を意識したグループ展であることも注意したい。Japanese Human Sensorsは「日本人の感性」といったようなかんじだ。

 

・関連ページ:Japanese Human Sensors - Curated by Gallery Kogure | Jonathan LeVine Projects | Artsy


 ■注釈

1:本企画の約1年後の2016年4月15日、ギャラリー小暮は「GALLERY KOGURE NY」 (Tribeca地区hpgrp gallery NY内)をオープンしている。

 

2:2017年にジョナサン・リヴァイン・ギャラリーは、ニューヨークのジャージー・シティのマナ・コンテポラリー内に移転コラボレーションやコミュニティに新たな焦点に据えた芸術市場の開拓を始める。より多角的な事業になるにともなって名称を「ジョナサン・リヴァイン・プロジェクト」に変更している。



【作品解説】 真珠子「パピヨンよし子」

$
0
0

プリミティブ・シュルレアリスム・アニメーション

概要


「パピヨンよし子」は2004年に真珠子によって制作されたアニメーション作品。

 

真珠子独特なプリミティブなドローイングをアニメーション形式に発展させた作品で、芋虫と少女が一緒に飛んだり、子どもっぽい鼻歌にときおり不気味な効果音が挿入されるなど、シュルレアリスティックな内容となっている。

 

2004年7月31日に放送されたNHK BS2のアート番組「デジスタ」で「今週のベスト・セレクション」に選出。またデジスタDVD Vol.3「デジスタ・キャラクターズ みうらじゅんセレクション」に選出・収録されている。

 

「イラストと異なりアニメーションは時間軸で表現する「時間芸術」。真珠子は完全に自分のリズム感・時間感覚で作品を制作し、独特な時間感覚を表している。(田中秀幸)」

 

『ガロ』とかに出たい人なんですかね。これはでも、お客さん入る劇場ではできないですよね。大衆映画じゃない(笑)17歳の女の子が作ってたら心配ですけど、27歳やから、まあ大丈夫かと思いますね。(有野晋哉)」

 

「イモムシと女の子というモチーフってすごく面白い。一緒に飛んでますしね。線のラフさは、かなり子供っぽい感じで、そこが魅力。こういう絵を描く人はイラストではよくいますが、アニメーションにまで発展させる人は少ない。これからもっと経験を積んで、このテイストを保てるとしたら、すごく楽しみな作家。(中谷日出)

 


【作品解説】マルセル・デュシャン「トランクの箱」

$
0
0

トランクの箱 / Box in a Valise

デュシャンの主要作品を持ち運びできる箱


マルセル・デュシャン《トランクの箱》1941年
マルセル・デュシャン《トランクの箱》1941年

概要


作者 マルセル・デュシャン
制作年 1941年
メディウム 写真、革製トランク、20部限定
サイズ 40.7 x 38.1 x 10.2 cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《トランクの箱》は1941年にマルセル・デュシャンによって制作され、出版された複製芸術作品。《大ガラス》をはじめデュシャンのさまざまな作品のミニチュア・レプリカ、写真、複製をおさめた革製のトランク。1から20までの番号と署名入りの20部限定豪華版と、番号なしの300部未満の普通版がある。

 

デュシャンは何か新しいものを描くかわりに、自分の好きな絵やオブジェを複製して、それらを集めてできるかぎり小さな1つのスペースに凝縮させる表現を考えていた。

 

また持ち運び可能な「ポータブル性」を意識した芸術を制作しようとしたため、当初は本にすることを考えたが、思う通りにいかなかったので箱に変えたという。つまりポータブル美術館なのである。

 

《グリーン・ボックス》や《ホワイト・ボックス》が紙の上の観念の領域での活動に対して、《トランクの箱》は、デュシャンが現実の世界で産みだした作品の数々が、あるいはミニチュアで、写真やカラー複製の形で集積されている。実質上このトランクの箱にはデュシャンの主要作品がすべて網羅されている。

 

このデュシャンの実際作品の集積の《トランクの箱》と観念上の集積作品《大ガラス》の延長にあるのが最後の作品《遺作》である。

 

なお、制作にはジョセフ・コーネル、クセニア・ケージ、ジャクリーヌ・マティスなどの長期的な協力があったという。



【美術解説】コラム「マルセル・デュシャンとチェス」

$
0
0

マルセル・デュシャンとチェス

正しい駒の動きを見つけること以上に、私の関心を惹くことはありません


「大ガラス」以降にデュシャンは芸術制作をもっぱら放棄してからは、チェスに関心を向けて、没頭し始めた。デュシャンが2人の兄からチェスの手ほどきを受けたのは、絵画と同時期、すなわち彼が13歳の頃である。

 

1918年から1919年のブエノスアイレス滞在中に、知人もなく言葉もしゃべれないデュシャンは、毎日のようにチェスクラブに通っていた。チェスへの取り組みが本格化してくるのはこの頃からである。

 

「私はすっかりチェスに没頭しきっています。明けても暮れてもゲームばかりです。この世界には、正しい駒の動きを見つけること以上に、私の関心を惹くことはありません。

 

1919年秋に、ニューヨークに戻ると、彼はすぐにマーシャル・チェス・クラブに入会し、毎晩チェスをしに通うとともに、クラブ・チームの一員として試合で活躍するようになる。4年後に再びヨーロッパに帰ってからは、いよいよ本格的なチェスへの取り組みをはじめ、各地のトーナメントに出場し、優秀な成績をさおめ、1925年にはフランス・チェス連盟から「マスター」の称号を授かる。そしてその後10年以上にわたって、チェス・オリンピックをはじめとする国際大会のフランス代表に加わるのである。

 

1930年のパリ国際チェス選手権では、世界のトップクラスを相手に健闘。最終成績は最下位だったが、ベルギーのチャンピオン、ジョルジュ・コルタノフスキーを破り、選手権で優勝したクサヴェユ・タルタコワーとは引き分けにもちこんだ。翌年から数年、デュシャンはフランス代表チームの一員として国際試合に参戦する。

 

デュシャンは1933年のイギリスのフォークストーン大会を最後に、チェスのチャンピオンになりたいという夢はあきらめ、競技生活から身をひく。

 

1940年代以降になると、デュシャンのチェスに対する情熱は冷めてくるが、それでも芸術作品を通して積極的にチェスとの関わりを持ち続けている。最後の作品「遺作」も、観客の眼にには見えないチェス・ボードの床の上に組み立てられているのである。


【美術解説】マリーナ・アブラモヴィッチ「パフォーマンス・アートのグランドマザー」

$
0
0

パフォーマンス・アートの母

マリーナ・アブラモヴィッチ / Marina Abramović


概要


生年月日 1946年11月30日(セルビア、ベオグラード生まれ)
国籍 アメリカ
表現媒体 パフォーマンス・アート、ボディ・アート、フェミニズム・アート、アート映像、持久アート
代表作

・Rhythm Series (1973–1974)

・Works with Ulay (1976–1988)

・Balkan Baroque (1997)

・The Artist is Present (2010)

ムーブメント

コンセプチュアル・アート

関連サイト

https://mai.art/

マリーナ・アブラモヴィッチ(1946年11月30日生まれ)は、セルビア系アメリカ人の現代美術家、慈善家、アート映像作家。

 

1970年初頭よりパフォーマンス・アーティストとして活動を開始。作品を通じて、芸術家と鑑賞者の間の関係性、身体の限界、精神の可能性を探究している。

 

40年以上におよぶパフォーマンス活動から、彼女は“パフォーマンスアートのグランドマザー”と評されている。鑑賞者を参加させることで新しいアイデンティティの概念を開拓した。

略歴


若年期


マリーナ・アブラモヴィッチは、1946年11月30日に旧ユーゴスラビアのセルビア、ベオグラードで生まれた。叔父はセルビア正教会の大司教ヴァルナヴァだった。両親は第二次世界大戦中、パルチザンとして活動しており、父のボジョは司令官で戦後国民的英雄として称賛され、母のダニカも軍人であり、ユーゴスラビア政府の役職に就いていた。また、1960年代にはベオグラードの革命博物館のディレクターでもあった。

 

アブラモヴィッチは6歳まで祖父母に育てられた。祖母は宗教に信心深く、幼少期を教会で過ごし、祖母の儀式(朝はロウソクを灯し、神父も来ていた)に従っていた。アブラモヴィッチの弟が生まれた6歳のとき、彼女は両親と暮らし始め、ピアノ、フランス語、英語のレッスンを受けた。

 

アブラモビッチの実家での生活は、母親の厳しい監視に置かれ辛い生活だった。アブラモビッチが幼い頃、母親は彼女を殴っていたという。1998 年に発表されたインタビューの中で、アブラモビッチは、「母親は私と弟を完全に暴力で支配していた」と述べている。

 

アブラモヴィッチの父は1964年に家族の下を離れる。1998年に公表されたインタビューによれば、アブラモヴィッチは母について「私と弟は、厳しい軍隊的規律の家庭教育を受けた」と話しており、29歳まで夜10時以降の外出をしたことはなかったという。そのため、彼女が29歳までユーゴスラビアで行っていたパフォーマンスはすべて夜10時前までに行われる。

 

自傷したり、ムチで打ったり、火傷をしたり、『The Firestar』で命を落としそうになったりしたことは、すべて夜の10時前にしていた。

 

2013年に公開されたインタビューで、アブラモビッチは「私の母と父はひどい結婚生活を送っていました」 と語っている。 父がシャンパングラス12個を壊して家を出て行った事件については、「私の子供時代で最も恐ろしい瞬間でした」と語っている。

 

アブラモヴィッチは、1965年から1970年までベオグラードの美術大学に在籍。1972年にクロアチアのザグレブにある美術大学で大学院卒了。セルビアに戻り、1973年から1975年までノビサドの美術大学で教鞭をとりながら、アーティストとして最初のパフォーマンスを行う。

 

1971年から1976年までの間、彼女はネシャ・パリポヴィッチと結婚していたが、1976年にアムステルダムでパフォーマンスを上演したあと、ユーゴスラビアを去り、アムステルダムへ移った。

 

1990年から1995年までは、パリの芸術アカデミーとベルリン芸術大学の客員教授を務めた。1992年から1996年までハンブルク芸術大学客員教授、1997年から2004年までブラウンシュヴァイク芸術大学教授を務めている。

キャリア


Rhythm 10, 1973


1973年にアブラモヴィッチはエジンバラで最初のパフォーマンス「リズム10」を行う。それは20本のナイフと2つの録音機を使って、リズミカルに手の指にナイフを突き刺すロシアンのナイフ・ゲームだった。

 

アブラモヴィッチは、ときどき失敗して指を傷つけるたびに、並べている20本のナイフから別のナイフに取り替えてナイフ・ゲームの続行した。このナイフ・ゲームの音をテープで録音し、20回失敗して指を傷付けたあと、ゲームを中断し、ナイフを突き刺す音を録音したテープを聴く。同じ動きを繰り返し、過去と現在を融合させながら、失敗を再現しようとした。

 

このパフォーマンスでアブラモビッチが意図していたことは、敗した過去の動作(録音したテープ)と現在の動作を融合して、身体の物理的、精神的な探求を行うことだった。この作品でアブラモヴィッチは、パフォーマーの意識の状態を考え始めた。

「Rhythm 10」1973年
「Rhythm 10」1973年

Rhythm 5, 1974


「リズム5」は1974年に行われたパフォーマンス。次にアブラモビッチは極端な身体の痛みを再喚起しようと試みた。

 

大きな星型の枠の中に石油を流し込んで火を付け、炎で共産主義の象徴である赤い星を作る。アブラモビッチは炎の星の外側に立ち爪や髪を切り、それらを炎の中に投げ込む。その行為はアブラモビッチの過去の政治的伝統に対する物理的、また精神的な浄化を表現しているという。

 

そしてパフォーマンスの最後には、アブラモヴィッチがその炎の星の中心に横たわって政治的メッセージを表現しようとした。しかしその際、酸素不足から意識をなくし、医者と観客は星の枠から彼女を助けだしたという。あやうく命を落としかける事態となった。

 

アブラモビッチはパフォーマンス後にこう話している。「物理的な限界があることを理解していたので、とても腹が立ちました。意識を失うと、存在することができなくなり、パフォーマンスすることができなくなります」。

「Rhythm 5」1974年
「Rhythm 5」1974年

Rhythm 2, 1974


『リズム5』で意識を失ったことをきっかけに、無意識の状態をパフォーマンスに取り入れるために2部構成の『リズム2』を考案し、1974年にザグレブの現代美術ギャラリーで発表した。

 

50分間の第1部では、彼女は「緊張症の患者に投与され、体の位置を強制的に変えるための薬」を摂取したと説明している。摂取後、彼女の筋肉は激しく収縮し、何が起こっているのかを意識しながらも、自身の体を完全にコントロールできなくなってしまったという。

 

10分間の休憩の後、彼女は「暴力的な行動障害を持つ統合失調症の患者を落ち着かせるために投与される薬」を服用した。パフォーマンスは5時間後、薬が切れたところで終了した。

「Rhythm 2」1974年
「Rhythm 2」1974年

Rhythm 4, 1974


このパフォーマンスでは、アブラモヴィッチは、高出力の工業用扇風機が設置された部屋の中で、一人で裸でひざまづいていた。彼女はゆっくりと扇風機に近づき、できるだけ多くの空気を吸い込み、肺の限界に挑戦したが、程なくして彼女は意識を失った。

Rhythm 0, 1974


「リズム0」は、鑑賞者とパフォーマーの関係の臨界点を実験したもので、アブラモヴィッチのパフォーマンスで最もよく知られている1974年の作品。彼女は客体となり、主体となった鑑賞者が彼女に対して起こすアクションの実験しようとした。


テーブルの上に、大小の鎖、ベルト、鞭、鳥の羽でできたはたき、ロウソク、拳銃72個のさまざまなオブジェが用意され、鑑賞者はそれらから好きなオブジェを手にしてアブラモヴィッチの身体の上でそれを自由に使うよう指示された。アヴラモヴィッチは自身を「物体」化することにしたという。


このアクションは6時間続き、アブラモヴィッチは観客によって上半身が脱がされ、手にはポラロイド写真を握らされ、乳房に薔薇の花びらが貼られ、腹には赤い色で文字が書かれた。最後に、アブラモヴィッチが客体(物体)の状態から主体へ戻り観客に向かって歩き出すと、観客は怯えて、会場から逃げ出した。ホテルに帰った彼女の髪の一部は恐怖のあまり白髪になったと言われている。

ウライとのコラボレーション作品


1976年にアブラモヴィッチはアムステルダムへ移動した後、西ドイツのパフォーマンス・アーティストのウライに出会う。アブラモヴィッチとウレイはコラボレーションを始めるようになる。この年から二人は同棲し、パフォーマンス活動を始めた。

 

コラボレーションが始まったときの2人のおもななコンセプトは、自我と芸術アイデンティティだった。彼らは不断の動き、変化、プロセス、そして「アート・バイタル」を特徴とする「関係性のある作品」を探求した。

 

これは10年に及ぶ影響力の高いコラボレーション・ワークの始まりだった。2人とも個々の文化的遺産の伝統や儀式的欲望に関心をもっていた。その結果、2人は「The Other」と呼ばれる共同の芸術スタイルを採用することにした。彼らはそれを「双頭体」のようなものと話し、発表した。

 

2人は同じ服を着て、まるで双子のようにふるまい、完全な信頼関係を生成する。2人はこの幻影的なアイデンティティを定義したことにより、本来ある個々のアイデンティティは小さくなっていったという。

 

アブラモビッチとウレイのパフォーマンスは、身体の限界に挑戦したり、男性と女性の原理、サイキックエネルギー、超越的な瞑想と非言語的なコミュニケーションを探求した。

マリーナ・アブラモヴィッチとウライ。1978年
マリーナ・アブラモヴィッチとウライ。1978年

批評家の中には、フェミニストの主張として両性具有的な存在状態という考えを探求しているのではないか批評するものもいるが、アブラモヴィッチ自身は、意識的に両性具有的な存在を探求しようとは考えていない。

 

彼女のパフォーマンスの歴史の中でのこの段階について、彼女は次のように述べています。"この関係の最大の問題は、二人のアーティストのエゴをどうするかということでした。私も彼と同じように自分の自我をどうやって捨てていくかを探さなければならなかったし、私たちが『死の自己』と呼んでいる二卵性の存在のような状態を作り出すためには、どうすればいいのかを探さなければならなかった」。

 

●『宇宙の中の関係』(1976年)では、1時間に渡って何度もぶつかり合いながら、男性と女性のエネルギーを「あの自分」と呼ばれる第三の成分に混ぜていく。

『移動中の関係』(1977)では、二人は美術館の中で車を365周走らせる。車からは黒い液体がにじみ出し、一周ごとに一年を表す彫刻のような形を形成させる。(365周した後、二人はニューミレニアムに入ったと考えている)。

『時間の関係』(1977年)では、彼らはポニーテールで縛られて16時間、背中合わせに座っていた。そして、一般の人を部屋に入れて、一般の人のエネルギーを使って自分たちの限界をさらに押し広げることができるかどうかを試した。

『Breathing In/Breathing Out』(1977年)では、二人のアーティストは口をつなぎ、酸素を使い切るまでお互いの吐く息を吸い合うという作品を考案した。パフォーマンス開始から17分後、二人は意識を失い、肺に二酸化炭素が充満した状態で床に倒れた。この個人的な作品は、他人の生命を吸収し、交換したり破壊したりする個人の能力についての考えを探求している。

『Breathing In/Breathing Out』(1977年)
『Breathing In/Breathing Out』(1977年)

『インパラビリア』(1977年、2010年に再演)では、二人の異性のパフォーマーが全裸で狭い出入り口に立っている。一般の人々は通過するために二人の間に挟まなければならず、その際に二人のうちのどちらかを選ばなければならない。

●『In AAA-AAA』(1978)では、2人のアーティストが向かい合って立ち、口を開けたまま長い音を出した。2人は徐々に距離を縮めていき、最終的にはお互いの口の中で直接叫ぶまでになった。

●『休息のエネルギー』

1980年、ダブリンで開催されたアートエキシビションで、 ウレイはアブラモビッチの心臓に矢を向けた弓と矢を使って、お互いにバランスをとるパフォーマンス『休息のエネルギー』を披露した。ウレイはほとんど力を入れずに、指一本で簡単にアブラモヴィッチを殺すことができました。

 

これは、男性が女性に対してどのような優位性を持っているかを象徴しているように思える。また、弓の柄はアブラモビッチが持ち、自分に向けている。弓の柄は弓の中で最も重要な部分です。

 

これがウレイがアブラモビッチに弓を向けているのであれば、全く別の作品になるが、彼女が弓を持つことで、自分の命を握りながら彼を支えているかのようにも見える。

●『ナイトシーの交差点』は1981年から1987年までの間に22回の公演を行った。1日7時間、椅子を挟んで黙々と座り続けた。

●「恋人たち」

1988 年、アブラモヴィッチとウレイは、数年間の緊張した関係を送ったあろ、二人の関係に終止符を打つたためにスピリチュアルな旅に出ることを決意した。「恋人たち」と呼ばれる作品で二人はそれぞれ万里の長城を歩いた。

 

アブラモビッチはこう説明している。「歩行は完全に個人的なドラマになりました。ウレイはゴビ砂漠から、私は黄海からあるきはじめました。それぞれが2500キロを歩いた後、途中で出会い、さよならと言いました」。

 

彼女はこのウォーキングを夢の中で思いついたと言っており、このパフォーマンスは神秘主義、エネルギー、魅力に満ちた関係にふさわしい、ロマンチックな結末だと思うものを与えてくれたという。

 

のちにアヴラモヴィッチは「我々はお互いに向かって歩き、この長大な距離を歩いた後、ある特定の形態での終了を必要としていた。それは非常に人間的である」と話している。「それはある意味では、よりドラマチックで、より映画のエンディングのようなものです... 最終的には何をするにしても、あなたは本当に一人なのですから」。

 

彼女は歩いている間に、物理的な世界や自然とのつながりを再解釈を考えていたという。地面にある金属が彼女の気分や存在状態に影響を与えていると感じた。 また、万里の長城が中国政府の許可を得るまでに8年を要し、その間に二人の関係は完全に解消していた。

 

●「The Artist Is Present」

2010年3月14日から5月31日まで、ニューヨーク近代美術館で、アブラモヴィッチのパフォーマンスを再現する回顧展が開催された。これはMoMAの歴史においてパフォーマンス・アートに最大の展覧会である。

 

展示期間、アブラモヴィッチは736時間30分、沈黙のまま、訪れる鑑賞者と椅子すわって向かい合うパフォーマンス「The Artist Is Present」を行った。オープニングナイトでは、かつてのパートナーのウライが現れて彼女を驚かせた。

●裁判問題

2015年11月、ウレイはアブラモヴィッチが彼らの共同作品の売上を補償する1999年の契約の条件に従い、不十分なロイヤリティの支払いが行われたと主張して裁判所に訴えた。

 

2016年9月、オランダの裁判所は、アブラモヴィッチに対して元共同創作者であり恋人でもあるUウレイに、彼らの共同作品をめぐる芸術的なコラボレーションの売上の取り分として25万ユーロを支払うよう命じた。

 

アムステルダムの裁判所はその判決の中で、ウレイが1999年のオリジナル契約書に明記されていたように、彼らの作品の売り上げの20%の純額のロイヤリティを受け取る権利があると判断し、アブラモヴィッチに25万ユーロ以上のロイヤリティと2万3000ユーロ以上の訴訟費用を遡って支払うよう命じた。

 

さらに、1976年から1980年までの期間をカバーする「ウレイ/ブラモヴィッチ」、1981年から1988年までの期間をカバーする「アブラモヴィッチ/ウレイ」と記載された共同作品については、完全な認定を行うよう命じられた。

Cleaning the Mirror, 1995


『鏡の掃除』は、5台のモニターに映し出された映像の中で、アヴラモヴィッチが膝の上で汚れた人骨をこすり洗いしています。

 

それぞれのモニターは、頭部、骨盤、肋骨、手、足など各部位に特化して映し出されている。

 

それぞれの映像は、それぞれの音で撮影されており、オーバーラップしている。骨格がきれいになっていくにつれて、アブラモビッチ自身は、かつて骨格を覆っていた灰色の汚れに覆われるようになる。

 

この3時間のパフォーマンスは、弟子たちが自らの死と一体となるための準備をするチベットの死の儀式のメタファーに満ちている。

 

この作品は3つのシリーズで構成されている。『鏡の掃除 #1』は、MoMAで上演された3時間の作品である。『鏡の掃除 #2』は、オックスフォード大学で上演され90分で構成されている。『鏡の掃除 #3』は、ピットリバーズ美術館で5時間上演された。

Spirit Cooking, 1996


アブラモヴィッチは、1996年、ヤコブ・サミュエルと共同で「スピリット・クッキング」と呼ばれる「媚薬のレシピ」のレシピ本を制作した。

 

たとえば、あるレシピでは「13,000グラムの嫉妬心」と書かれており、別のレシピでは「新鮮な母乳と新鮮な精子の乳を混ぜる」と書かれていた。

 

この作品は、幽霊が光や音、感情などの無形のものを餌にしているという一般的な信念に触発されて制作したものだという。

 

1997年、アブラモヴィッチはマルチメディア作品「スピリット・クッキング」を制作した。これはイタリアのローマにある「Zerynthia Associazione per l'Arte Contemporanea」に設置された作品で、豚の血を使って「謎に満ちた暴力的なレシピの指示」がギャラリーの白い壁に描かれた。

 

アレクサ・ゴットハルトによると、この作品は「私たちの生活を整理し、正当化し、私たちの身体を封じ込めるための儀式への人間性の依存についてのコメント」であるという。

 

アブラモヴィッチはまた、「スピリット・クッキングという」レシピ本を出版した。「スピリット・クッキング」はのちに、アブラモヴィッチがコレクター、寄付者、友人のために時折行うディナーパーティーのエンターテイメントの形に発展した。

Balkan Baroque, 1997


アブラモヴィッチは、1990年代にバルカン半島で起こった民族浄化にちなんで、何千頭もの牛の血まみれの骨を4日間かけて精力的に掻きむしった。この作品は、ヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞した。

Seven Easy Pieces


2005年11月9日から開始されたニューヨークのグッゲンハイム美術館におけるアブラモヴィッチの個展「Seven Easy Pieces」では、アブラモヴィッチは、7時間7連泊で、彼女は60年代から70年代に行なわれた5人のアーティストの代表的パフォーマンスを、アブラモビッチが再演するというイベントであった。これらのパフォーマンスは、肉体的にも精神的にも非常に集中力を要する骨の折れるものだった。7日間にわたって行われたパフォーマンスリストは以下のものとなる。


・ブルース・ナウマン 「ボディー・プレッシャー」

・ビト・アコンチ 「シードベッド」

・バリー・エクスポート 「アクション・パンツ:生殖パニック」

・ジーナ・ペイン 「コンディショニング 自画像における3つの段階における第一段階」

・ヨーゼフ・ボイス 「死んだうさぎに写真をどう説明するか」

・マリーナ・アブラモビッチ「リップス・オブ・トマス」

マリーナ・アブラモビッチ「他の世界への侵入Entering the other side」

(参考サイト:http://www.shinyawatanabe.net/writings/content57.html

MoMAで回顧展


2010年3月14日から5月31日まで、MoMAでは、クラウス・ビーゼンバッハのキュレーションによるパフォーマンス・アートの展覧会として、アブラモヴィッチの作品の大規模な回顧展とパフォーマンス・レクリエーションが開催された。

 

展覧会の期間中、アブラモヴィッチは736時間30分にもわたる静的で無音の作品「The Artist Is Present」を上演し、美術館のアトリウムで動かずに座っていた。その間、観客は交互に彼女の向かい側に座ることができた。

 

アブラモヴィッチは、MoMAの2階アトリウムの床にテープで描かれた長方形の中に座り、照明が椅子に座っている彼女と向かいの椅子に照らした。

 

展覧会の開場から数日後には、アトリウムに人だかりができ、毎朝、開場前からアブラモヴィッチと一緒に座るために、列に並んでいた人たちの中には、より良い場所を求めて駆けつける人もいました。

 

ほとんどの来場者は5分ぐらいアブラモヴィッチと一緒に座っていたが、中には丸一日アブラモヴィッチと一緒に座っていた人もいた。

 

アブラモヴィッチは、このショーが彼女の人生を「完全に変えた」と言います。レディー・ガガがこのショーを見て宣伝した後、アブラモヴィッチは新しい鑑賞者を発見したという。12歳、14歳から18歳くらいまでの子供たち、普段は美術館に行くこともなく、パフォーマンス・アートに興味もなく、何が何なのかも知らないような一般の人々が、レディー・ガガの宣伝を見て、やってきたという。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Marina_Abramovi%C4%87、2020年4月28日


【美術解説】マルレーネ・デュマス「人種差別や性を主題としたポートレイト」

$
0
0

マルレーネ・デュマス / Marlene Dumas

人種差別や性を主題としたポートレイト


概要


生年月日 1953年8月3日生まれ
国籍 南アフリカ共和国
表現媒体 絵画
関連サイト http://marlenedumas.nl/

マルレーネ・デュマス(1953年8月3日生まれ)は南アフリカ共和国生まれの芸術家、画家。現在はオランダのアムステルダムで活動している。

 

彼女の作品は、セクシュアリティや人種、罪悪感と無邪気さ、暴力や優しさなど、より深刻な問題やテーマに焦点を当てている。

 

南アフリカのケープタウンがアパルトヘイト(人種隔離政策)の下にあったこともあり、おもに人種差別を主題とした作品を描くことで知られる。デュマスの絵画は肖像画として見られているが、それは人物を表すものではなく、人が置かれているであろう感情的な状態を表している。

 

デュマスは、友人や恋人のポラロイド写真を参考にして描くことが多く、ほかに雑誌やポルノグラフィも参考にしている。著名な政治家を描くこともある。

 

また、子供の肖像画やエロティックなシーンも描き、現代アートの世界に影響を与えている。彼女の作品の多くが非常に親密な性的な作品であるため、オリジナル作品として高い評価を得ている。

 

絵画スタイルは、より古いロマン主義の影響を受けており、薄い絵の具の層と厚い絵の具の層を組み合わせたウェット・オン・ウェットの技法を好んで使用している。

 

ヴェニス・ビエンナーレ(1995,2005)、ドクメンタ(1982,92)などの国際展で高い評価を得ている。

略歴


人種差別


デュマスは1953年に南アフリカのケープタウンに生まれ、父親がブドウ畑を営んでいた西ケープ州のクイルズ川で育った。

 

デュマスは1973年に絵を描き始め、南アフリカのアフリカーンス系の白人女性としての政治的不安やアイデンティティへの反省を表現している。

 

1972年から1975年まで南アフリカ共和国のケープタウンにあるケープタウン大学で学ぶ。その後、1976年にオランダのアムステルダムに移住し、1979年から1980年までアムステル大学に入学し、絵画と心理学を学んだ。

 

1984年に現在にいたる頭部や全身のポートレイト絵画を始める。1980年代のなかばには「夜の生物の目」というタイトルの絵画シリーズを発表し、人種問題や倫理的不寛容性をコンセプトにした作品を探求するようになり、このコンセプトは以後のデュマスの芸術コンセプトとなった。

 

1985年の「ホワイト病」は、医療写真を元にした青い目の病気を患わった南アフリカ人女性の絵の作品で、アパルトへイドにおける病気を投影したもので、デュマス自身のお気に入り作品の1つだという。

 

エゴン・シーレやレオン・ゴラブといった巨匠美術家の影響がデュマス作品には見られると言われている。半透明の白色の塗料は、幽霊のような陰影を帯びさせ、描かれている人物が病気であることほのめかしている。

妊娠と赤ちゃん


1980年代後半から1990年初頭に、デュマスは妊娠と赤ちゃんを主題にした作品制作を始めるようになる。これは1987年にデュマスが娘ヘレナを出産したことが作品へ影響を与えている。このシリーズで最も有名な作品は「現生人類」で、赤ちゃんのポートレイトシリーズである。

ポルノ


1990年代なかばになると、デュマスはアパルトヘイトを主題にした作品に戻る。1998年から2000年にわたって、写真家のアントン·コービンとコラボレーション活動を始め、デュマスは「ストリッピング・ガールズ」というプロジェクトを開。

 

それはアムステルダムにおけるストリップクラブやピープショーなどポルノを主題にした作品で、コービンがショーで写真を展示する一方、デュマスはポラロイド撮影を行い、その写真を元に絵画制作を行った。

その他の活動


デュマスはいくつかの映画にも出演している。『ミス・インタープリテッド』(1997年)、『アリス・ニール』(2007年)、『ケントリッジとデュマの会話』(2009年)、『未来は今! (2011)、『ねじ込まれた』(2017)などに出演している。

 

1985年制作の《Jule-die Vrou》の売買で、デュマスは100万ドル以上で取引された3人の現存する女性芸術家のうちの1人となった。

 

デュマスは、ティルブルクの「芸術産業アカデミー」(AKI)、アムステルダムの「国立芸術アカデミー」、アムステルダムの「アトリエ」(チュートリアルとコーチング)で教鞭をとっている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Marlene_Dumas、2020年4月29日アクセス


【美術解説】トリスタン・ツァラ「ダダ宣言」

$
0
0

トリスタン・ツァラ / Tristan Tzara

ダダ宣言


「ダダ宣言1918」が表明された集会のポスター
「ダダ宣言1918」が表明された集会のポスター

概要


生年月日 1896年4月16日
死没月日 1963年12月25日
国籍 ルーマニア、フランス
表現媒体 詩、エッセイ、脚本、パフォーマンス、作曲、美術、映画
ムーブメント 象徴主義、前衛芸術ダダイズムシュルレアリスム

トリスタン・ツァラ(1896年4月16日-1963年12月25日)は、ルーマニア人、またフランス人の前衛詩人、エッセイスト、パフォーマンス・アーティスト。ほかにジャーナリスト、劇作家、小説家、美術批評家、作曲家、映画監督などの活動もしている。数多くのキャリアにおいて代表的なのはダダイスト。ツァラはスイスのチューリヒで"反芸術"を掲げたダダ・ムーブメントの創設者であり、また中心人物の1人である。

 

エイドリアン・マニウの影響下、思春期のツァラは象徴主義に興味を持つようになり、アイアン・ビニアや画家のマルセル・ジャンコらとともに象徴主義の美術雑誌『Simbolul』を発行する。第一次世界大戦時にスイスのチューリヒへ移動し、そこでツァラはキャバレー・ヴォルテールやZunfthaus Zur Waagでさまざまなショーを行う。詩を読んだり、アート・マニフェストを掲げた。このマニフェストでは初期ダダイスム的な側面が見られた。

 

1916年に雑誌『キャバレー・ヴォルテール』を発行し、ダダ活動を開始。この雑誌で初めてダダという言葉が使用されたが、この時は正式にダダのマニフェストは出していない。1917年に雑誌『ダダ』を創刊し、1918年にダダの集会で「ダダ宣言1918」を発表し、正式にダダの本格的な活動が行われるようになった。

 

「ダダ宣言1918」を発表後、ブルトンの招きに応じて1919年にパリに移動。ツァラはダダの重要メンバーの1人として、雑誌『文学』に編集として参加。のちのシュルレアリスム・ムーブメントを起こす最初のステップとなった。しかしツァラは、アンドレ・ブルトンやフランシス・ピカビアと決裂。またルーマニアのビエラやジャンコらの折衷主義にも反対。ツァラの芸術ビジョンは、彼のダダ演劇「ガスハート」(1921年)や「雲のハンカチ」(1924年)でよく示されている。

 

しかし、オートマティスムの先駆者でもあるツァラは、最終的にブルトンのシュルレアリムと提携し、オートマティスムの影響のもとツァラはユートピア詩「おおよその男」を書いた。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Tristan_Tzara、2020年4月29日アクセス


【作品解説】グスタフ・クリムト「裸のヴェリタス」

$
0
0

裸のヴェリタス / Nuda Veritas

ウィーン分離派運動と女性の性的欲求の啓蒙


※1:《裸のヴェリタス》1899年
※1:《裸のヴェリタス》1899年

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1899年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 252×56,2 cm
コレクション オーストリア演劇博物館

《裸のヴェリタス》は1899年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。日本画における平面的表現に移行する以前の、象徴主義的なスタイルで描かれた女性ポートレイト作品。

 

裸の赤毛の女性が真実の手鏡を手に持ち、その鏡を鑑賞者の方へ向けている。彼女の上部にはドイツの詩人フリードリヒ・シラーの「歓喜に寄す」からの引用文、「もし、あなたの行いと芸術で数多くの人びとを満足させることができないならば、少数者を満足させるために行為と芸術を行え。多数の人が喜ぶことは悪いことなのだ。」が記されている。

 

アメリカの「I Want You」のポスターのような、どこかプロバガンダを彷彿させる、メッセージ性の高い攻撃的なデザインは、そのまま女性が手に持つ鏡に映る鑑賞者に向けられている。

 

おそらくこれは、当時のウィーン分離派運動に関係したもので、鑑賞者に対して啓蒙的な意味合いがあるのだろう。また、この引用文は、ウィーン分離派におけるエリート意識を明白にしており、文字の両サイドからこぼれ落ちる小さな円がエリート意識を表している。

 

さらに、これはウィーン分離派運動のプロパガンダと同時に女性の内面の性的欲求と性的抑圧の解放を啓蒙したものともいえる。女性の下部には、セックスを暗喩する黒い不気味な蛇と、精子を暗喩した2つのタンポポが描かれている。なお、この作品の対となるのが「パラス・アテネ」で、これはウィーン分離派に対する理解を示さない家父長的な伝統主義者を攻撃を示す絵画であるという。

 

《裸のヴェリタス》のドローイング版は、分離派の機関誌『Ver Sacrum』に掲載された。裸の真理」は劇作家で評論家のヘルマン・バールが購入した。バールはウィーン分離者発足時からの忠実なサポーターであり、『Ver Sacrum』の編集ドバイザーでもあった。

 

グスタフ・クリムトへ戻る

 

 


■参考文献

https://it.wikipedia.org/wiki/Nuda_Veritas 2019年1月16日

https://www.gustav-klimt.com/Nuda-Veritas.jsp 2019年1月16日

 

■画像引用

※1:https://it.wikipedia.org/wiki/Nuda_Veritas 2019年1月16日


【注目のアーティスト】M!DOR!「コラージュロマン」

$
0
0

M!DOR!

新コラージュロマン


概要


M!DOR!(1986年横浜市生まれ)は日本のグラフィックデザイナー、コラージュアーティスト。高校時代にロシア・アヴァンギャルドに影響を受け、独自にコラージュ作品を作り始める。

 

文化女子大学 編集デザインコースを卒業後、5年間デザイン事務所やデザイン会社に勤務。企業広告や販売ツールのデザイン制作を通じてグラフィックデザイン技術を習得。仕事の傍らも日々コラージュを制作。 2010年よりコラージュアーティストとして活動開始し、現在に至る。

 

コラージュ素材の多くは1900〜40年ごろに欧米で発行された雑誌、カッターと糊のみを使用したアナログな手法で作品を制作する。MiDOR!は、作品のことを「住人」と呼ぶ。「住人」とは「感情・感覚」のことで、自分の感情や感覚をそのまま反映させている。

 

またロシア・ヴァンギャルドの影響やグラフィックデザイン技術があることから、ほかのコラージュアーティストよりも、作品におけるデザイン性や幾何学的抽象性が高い

 

ロックバンドGLAYのライブツアーのパンフレットのデザイン、山内マリコ「かわいい結婚」のブックデザイン、各種イベントのフライヤー、ファションブランドとのコラボレーション、コラージュ作品の個展など幅広く活動している。


【作品解説】アンディ・ウォーホル「マリリン二連画」

$
0
0

マリリン二連画 /  Marilyn Diptych

25のマリリン・モンローの明るい顔と暗い顔


概要


作者 アンディ・ウォーホル
制作年 1962年
サイズ 205.44 cm × 289.56 cm
メディウム キャンバスにアクリル
所有者 テート

《マリリン二連画》は1962年にアンディ・ウォーホルによって制作されたシルクスクリーン作品。ウォーホルの代表作品の1つでカミーユ・パミラをはじめ多くの批評家から賞賛されている。

 

この作品は1962年8月にマリリン・モンローが死去した直後に制作されたもので、キャンバスに50ものモンローの顔を描かれている。描かれているモンローの顔は1953年に公開されたマリリン・モンロー主演のカラー映画『ナイアガラ』の宣伝広告用の写真を元にしている。

 

画面左側に敷き詰められた25のモンローの顔は明るく着色されているが、画面右側の25のモンローの顔は黒と白のモノクローム調になっている。キャンバスの"左右の関係性"やモンローの"生と死の関係性"など、モンローの人生における出来事や意味を多重的に見せる形で画面が構成されているのがポイントである。これに近い表現方法は、シュルレアリストことサルバドール・ダリのダブルイメージやマルセル・デュシャンの作品群などがある。

 

《マリリン二連画》は現在テートが所蔵している。2004年12月の『ガーディアン』紙の記事において、本作品は500人の芸術家、批評家たちのアンケートで、現代美術で最も影響力のある作品の1つとして選ばれた。

 

 

アンディ・ウォーホルに戻る

 

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Marilyn_Diptych、2020年4月29日アクセス


【美術解説】流井幸治「境界線上を漂うオブジェ」

$
0
0

流井幸治 / Ryui Koji

境界線上を漂うオブジェ


概要


流井幸治(Ryui Koji)1976年京都生まれ。オーストラリア在住。

シドニーを拠点とする彫刻家、流井幸治にとって、アートとは物事にかたちや用途を超えた性格を吹き込む知覚の枠組だという。

 

そこでは、生命のないオブジェたちも、目に見える物質としての存在を超えた力を持ちます。アニミズム文化が自然のかたちに癒しを見いだし、お守りが幸運や無事を保証し、あるいはコピー機があなたのことを気にくわないかのように言うことをきかなくなる。同様に、わたしたちはアート作品にまるで意志があるかのような特徴-独創性、ひらめき、偉大な知識、洞察力、想像力-の痕跡を見つけ出すことがある。

科学的事実と人間の知覚のあいだに生じる日常的なズレ。流井はこれを茶目っ気あふれるやり方で扱い、アート作品と単なるモノのとの境界線上を漂うオブジェを創りだす。そこでは既存の製品(レディメイド)が、イメージにかたちを与え、かたちに意味を与えます。彼の作品で重要なのは、抽象と具象、中心と背景、形式と内容といった対立関係と繊細な戯れでもある。

『六本木クロッシング2013』での出品作は、シンプルな木製フレームに有名人のしわくちゃな複製写真がぶら下がるシリーズと、レジ袋に詰められた粘土の塊たちが、間違って組み立てられたIKEAの棚にさまざまな並び方で展示されるシリーズである。棚のさまざまな表面が織りなす空間に配置され、ハッピーフェイスは宇宙的なスケールから眺めた小さな世界の住人になる。

 

一方、垂直にぶら下がる有名人たちの写真でも、もともとの理想化されたイメージが判然としないものにされ、そのグロテスクな様相は視覚的な興味を掻き立てられる。この流れのなかでは、3つ目の作品、ハンガーの彫刻にも擬人的な性格が感じられます。これらのオブジェは、私たちがそこに投影する情緒的印象を反映しているだけなのだろうか。あるいはオブジェ自体がそうした印象を生み出しているのだろうか。いたずらっぽく、挑発的に、流井は疑問をそのままに私たちに向けて提示している。

 

<関連リンク>

Sarah Cottier Gallery

シドニー・ビエンナーレ注目作は? 社会派も抽象芸術も


【作品解説】ジョルジョ・デ・キリコ「モンパルナス駅」

$
0
0

モンパルナス駅 / Gare Montparnasse

幸福へ向かうのか悲しみへ向かうのか


ジョルジョ・デ・キリコ「モンパルナスの謎」(1914年)
ジョルジョ・デ・キリコ「モンパルナスの謎」(1914年)

概要


作者 ジョルジュ・デ・キリコ
制作年 1914年
サイズ 140 cm × 184.5 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 ニューヨーク近代美術館

「モンパルナスの謎」は、1914年にジョルジョ・デ・キリコによって制作された油彩作品。

 

キリコの作品は、旅行時にインスピレーションを受けて制作されたものが多く、本作はタイトルの「モンパルナス」が示すとおり、パリに住んでいた時にモンパルナス駅にインスピレーションを受けて制作されている。

 

キリコ独自の様式である形而上絵画の初期作品で、夕焼けのような明るい金色の光と、長く伸びた黒い影のコントラストの対比、時計台、アーチや巨大柱に焦点を置いたギリシア古代建築を想わせる建物、人影、汽車といったキリコ定番のモチーフが配置されている。

 

ほかの作品と異なるは手前にバナナの束が配置されていること。この作品以外にもバナナが主題となる作品は「詩人の不確かさ」などいくつかあり、バナナの束はキリコにとって黄金と甘く完熟した贅沢な食べ物で「幸福」を象徴している。

 

なお、キリコにとって汽車は「故郷」や「子供時代」を象徴しており、後景遠くに汽車が置かれ、前景にバナナが置かれ、そしてその中間に人影が配置されている。時間は午後1時30分。夕焼けというにはまだ早い時間。人影は前に向かって進んでいるのか、後方に進んでいるのか…… バナナの側の大きな影が不安を呼び起こす。

 

ジョルジョ・デ・キリコへ戻る


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Gare_Montparnasse_(The_Melancholy_of_Departure)、2020年4月29日アクセス


【美術解説】ウィリアム・トーマス・トンプソン「元百万ドルのマヒ画家」

$
0
0

ウィリアム・トーマス・トンプソン / William Thomas Thompson

ミリオネアからギラン・バレー症候群画家へ


概要


生年月日 1935年
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画
ムーブメント ビジョナリー・アートアウトサイダー・アート

ウィリアム・トーマス・トンプソン(1935年生まれ)はアメリカのアウトサイダーアーティスト。

 

脳内に浮かび上がるイメージの大群をひたすらキャンバスに叩きつけていくことしか頭にないオートマティスム系画家。 制作点数はすでに1000点を超えるともいわれており、いくつかのバージョンが制作された代表作『黙示録』は、全体を展示すると横幅が90メートル以上にもなる超大作。

 

ウィリアム・トーマス・トンプソンは、サウスカロライナ州の信心深い農家に生まれ、13歳のときにプロテスタントのバプテスト派の洗礼を受ける。

 

1950年代に高校を卒業したあと、兵役を務めるためアメリカ陸軍信号隊に入隊。除隊後、1957年にグリーンヴィルで「ファイブ・アンド・タイム」の店を開き、造花の卸売業を始めた。ビジネスは大成功し、トンプソンはヨーロッパやアジアから製品を輸入したり、彼自身が飛行機で移動して、香港に事務所をかまえもした。ついにミリオネアにもなった。

 

しかし70年代にはいるとトンプソンのビジネスは失速しはじめる。41才でギラン・バレー症候群、膝の下がマヒする難病を発症し、手も部分的に動かなくなりはじめ、翌年に事業が破綻し破産。

 

1989年に香港から本土へ戻る際、なんとかビジネスを続けようとマヒ状態の治療を受けるため、ハワイのオアフ島へ移動。そこで、日曜日の朝に教会のミサに出席していたところ突如、神様からのお告げを受ける。絵画道具一式を購入。持病による肩、手、足の震えは改善の兆候もないままに、絵画制作に没入しはじめる。


■参考文献

http://www.avam.org/our-visionaries/william-thomas-thompson.shtml、2020年4月30日アクセス


【美術解説】加藤泉「プリミティブ絵画の復権」

$
0
0

加藤泉 / Izumi Kato

プリミティブの復権


概要


加藤泉(1969年生まれ)は日本の画家、彫刻家。武蔵野美術大学造形学部油絵科卒業。学生時代にプリミティブ・アートやアール・ブリュットの影響を受ける。

 

不穏な顔をした子供、手足の発達した胎児、不明確な形をした体に閉じ込められた幽体。加藤泉が描き出す生き物たちは、謎に包まれている。欧米で発達抽象絵画とプリミティブ・アートを折衷したような作風が特徴である。

 

加藤の制作の源泉には子どものころから慣れ親しんだ八百万の神々や妖怪の姿があるという。原始的な芸術を想起させる表情は、トーテムや、アニミズムの信仰を想起させる。理性よりも直感に頼らない原始的で普遍的な人間性を体現した不思議な存在たちは、見る者を自己認識へと誘う。

 

加藤は1992年に武蔵野大学油画科を卒業。2000年代以降、国内外で展覧会を開催し、革新的なアーティストとして注目を集めてる。2007年、第52回ヴェネチア・ビエンナーレ国際展(ロバート・ストー・キュレーション)に招待された。東京都現代美術館、国 立国際美術館、箱根彫刻の森美 術館等、展覧会に多数参加している。

 

 

2007年、イタリアの第52回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際企画展に招待をきっかけに、現代美術家として注目を集めるようになる。

略歴


加藤泉は1969年、島根県に生まれた。父は地元の工場の溶接工でミドルクラスの家庭で育った。

 

近隣には、国引きの神話と八百万の神々の集いで知られる出雲大社や、伝奇作家・小泉八雲の旧宅や、妖怪漫画の巨匠・水木しげるの故郷があった。そのためか、古い宗教がある土地でアニミズムのような考え方、そしておばけや妖怪の文化が日常的にあふれていた。

 

また、自宅が海の近くであり、山も川も神社も多く、こうした独特な地にルーツを持ったことがのちの加藤の創作活動にも多大な影響を与えているという。

 

加藤によれば、「島根は自分の思想的な部分に大きく影響を与えていて、東京は外国に住んでいるような気分で住んでいいて、田舎で人が干渉する島根と違い東京はいい意味であまり人に干渉されません。それは制作の環境においてすごく都合が良い」という。

 

高校時代、教育実習に来た美大生に感化され、武蔵野美術大学造形学部油絵学科に入学。在学中は芸術にあまり興味がなく、音楽活動をしていたという。ちなみに現在も創作のかたわら、THE TETORAPOTZという覆面ロックバンドを組んでドラムを叩いている。

 

ただ、日本経済が良いこともあって日常的に美術館で世界的な芸術をたくさん見ていたという。在学中に、加藤が影響を受けた芸術家としては、キーファー、クレメンテ、大竹伸朗、奈良美智、長谷川繁などが挙げられる。

 

1992年に、同大学を卒業すると、建設業やアルバイトをしながら絵を描き、定期的に貸し画廊で作品を発表する。当時の日本はまだコマーシャル・ギャラリーはほとんどなく、金を貯めて貸し画廊で発表するのが一般的だった。

 

30歳くらいのときに、思いのほか芸術への興味が冷めなかったため、本格的に芸術活動に専念しはじめる。

 

2003年から絵に行き詰まりを感じはじめスランプ気味になってきたので、絵画と並行して木彫制作を始めるようになる。加藤は「彫刻は人のかたちだけ作ると勝手にこの世界と接続する。絵画は四角の面のなかに世界と交わる要素を作らなきゃダメだから難しい。絵画は二次元の中に、私たちのいる世界(=三次元)に匹敵する世界を描かなければなりません。でも彫刻はそのものが三次元の立体物なので、自動的に日常の世界(三次元の世界)に接続します」と繰り返し話している。

 

作家活動を始めた当初は、かたちが定まらない胎児を思わせる不思議な姿を描いていた。その後、徐々に形が明確化し、人体らしき形へと向かい始め、男性と女性のペアのポートレイトが中心となる。

 

しかし、結婚して子どもができたことで、男性と女性に子どもを加えるようになる。また「3」という数字の概念に関心を持ち始める。なお加藤は、筆ではなく自分自身の指を使って油彩画を制作をしている。

 

2005年にアメリカ合衆国ニューヨークのジャパン・ソサエティー・ギャラリーで行なわれた美術展「リトルボーイ:爆発する日本のポップカルチャー」で、ロバート・ストーの目に留まり、2007年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展に招待される。これをきっかけに国内外で評価を高め、注目を集めるようになる。

 

近年ではソフトビニール、石、ファブリックなど多様な素材を用いたインスタレーションを展開するほか、新たに版画制作にも取り組んでいる。「使えるものはなんでも使う」というプリミティブ芸術でおなじみのブリコラージュ手法を積極的に利用しはじめている。

 

2018年には北京・レッドブリック美術館(2018)で日本人初となる個展を開催。


■参考文献

・加藤泉 LIKE A ROLLING SNOWBALL

https://www.perrotin.com/artists/Izumi_Kato/177#biography、2020年4月30日アクセス


【美術解説】スティーブン・ジョンソン・リーバ「セックス表現主義の父」

$
0
0

スティーブン・ジョンソン・リーバ / Steven Johnson Leyba

セックス表現主義の父


概要


生年月日 1966年9月3日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画、ブックデザイン、パフォーマンス、音楽
ムーブメント ビジョナリー・アートアウトサイダー・アート
関連サイト Instagram

スティーブン・ジョンソン・レイバ(1966年9月3日生まれ)、アメリカの画家、著述家、アートブックデザイナー、パフォーマンス・アーティスト、音楽家。

 

カウボーイ、インディアン、現代美術界とあらゆる方面から排斥されることが名誉のインディアンと白人の混血アーティスト。アパッチ族、ナヴォホ族、チェロキー族、パイユート族、メノミニー族、さらにユダヤ系のルーツも持つ。

 

美術評論家からカルロ・マコーミックは「セックス表現主義の父(father of Sexpressionism)」と呼ばれている。

 

レイバは、先祖代々のネイティブアメリカンのモチーフである鉤十字やアパッチ・ガーン・ダンサー、ジェロニモなどのネイティブアメリカンの戦士のイメージ、人体の風景などからインスピレーションを受けている

 

レイバの作品は、商業主義から人間のセクシュアリティを「解放」しようとしている。人間の性器のイメージを再構成することで、美の美学的概念とセクシュアリティの政治性を強調している。

 

油絵具、アクリル、ビーズ玉といった一般的な画材を、精液、血液、小便、大便などの汚物をコラージュした華麗なアートブックシリーズを制作。重さ70ポンドにもなる彼のハンドメイドのアートブックは、キャンバスに描かれた絵画を束ねて構成されている。

 

パフォーマンス・アートでは、言葉による暴言、切断、ピアス、極端な堕落とサドマゾヒズム行為で構成されている。

 

ナチスの鉤十字のシンボルや性的なイメージを利用していると批判されてきたが、1992年、ナヴォホ族やチェロキー族の牧師から認定された。

 

1st作品集『My Stinking Ass(私の臭い肛門)』や、2nd作品集『Sex & Violence(セックス&バイオレンス)』などストレートなタイトルが示すとおりの内蔵破裂系サイケ、バッドトリップ路線一直線で、糞ツボに堕ちた超セレブの宝石箱をぶち撒けた宗教画家の風格あり。

 

年1度の世界的愚者の祭典「バーニングマン」で、SMキリスト受難パフォーマンスを披露するなど、時代無視の錯乱的な生の燃焼にすべてを賭け、H・R・ギーガーさえも舌を巻いた悪臭は正真正銘の本物臭い。

 

1992年にはアントン・ラヴェイから人間の肉欲的自己を是認することを使命とするカルト団体「サタン教会」の牧師に任命される。2007年には、芸術の最初の教会コヨテル教会 "創造的殺人の最初の教会 "を開始した。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Steven_Johnson_Leyba、2020年4月30日


【美術解説】プリミティヴィスム「原始主義」

$
0
0

プリミティヴィスム / Primitivism

原始主義


アンリ・ルソー《虎と水牛の熱帯林での戦闘》1908-1909
アンリ・ルソー《虎と水牛の熱帯林での戦闘》1908-1909

概要


プリミティヴィスムとは直訳すれば原始主義。原始的なものに対する関心、趣味、その研究、影響などを意味する。

 

西洋美術においてプリミティヴィスムとは、これまで「原始的」であると見られていた非西洋的または先史時代の人々から影響を受けた芸術を指すことが多い。

 

絵画や陶器にタヒチのモチーフを取り入れたゴーギャン、アフリカ民芸から影響を受けたピカソが代表的な作家である。

 

プリミティヴィスムは植民地征服を正当化するために批判されることもある。ヨーロッパ圏外の文化、芸術、いわゆる異文化に対するヨーロッパ人の関心は、15世紀末のコロンブスのアメリカ発見に始まる大航海時代に芽生え、近代では19世紀後半のジャポニズムが欧米を席巻した。

 

ヨーロッパ的な伝統とはまったく無縁の、とりわけ自然の模倣、再現というこだわりのまったくないアフリカやオセアニアの原始美術は、初期のピカソ、ブラック、フォーヴ時代のマチス、ドラン、ヴラマンテ、ドイツ表現主義そのほかに多大な影響を与えた。

 

また、プリミティヴィスムとは、農民芸術、素朴芸術、児童芸術、精神病者の芸術なども対象とすることがある。アンリ・ルソー、ミハイル・ラリオノフ、パウル・クレーなどのような民衆芸術のスタイルで活動しているプロの画家にも使われることもある。


■参考文献

・『すぐわかる20世紀の美術』千足伸行(東京美術)

https://en.wikipedia.org/wiki/Primitivism、2020年5月1日アクセス


【作品解説】ドロテア・タニング「誕生日」

$
0
0

誕生日 / Birthday

無限に続く開かれた扉


ドロテア・タニング《誕生日》1942年
ドロテア・タニング《誕生日》1942年

概要


作者 ドロテア・タニング
制作年 1942年
サイズ 102.2 x 64.8 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 フィラデルフィア美術館

《Birthday》は1942年にドロテア・タニングによって制作された油彩のセルフ・ポートレイト作品。彼女の30歳の誕生日記念に描かれたので作品名は「Birthday」となっている。

 

胸をはだけたタニングの背後には無限に続く開かれた扉が描かれており、それはタニングの無意識を反映しているといわれる。多くのがシュルレアリストが、迷宮のような建築構造を自己意識を表現するのに適したモチーフとして絵描くが、この無限に続く扉の絵画は最も代表的な作品といえる。

 

タニングの足元にいる鳥のような獣のような変な生物はガーゴイルで、ガーゴイルはこの作品の主題となっている。タニングによれば、ガーゴイルは死と関連付けられたモチーフだという。

 

またタニングは上半身は胸をはだけさせた状態で派手なアパレルの服を着ている。その一方で、下半身は地味で暗めのカラーで、不気味な木の根のようなスカートを履いている点に注目したい。この上下の不釣合いの衣服は、彼女の上半身と下半身の矛盾した精神を表現したものであるという。


【美術解説】アレックス・グレイ「サイケデリック・アートの巨匠」

$
0
0

アレックス・グレイ/ Alex Grey

サイケデリック・アートの巨匠


概要


生年月日 1953年11月29日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画、彫刻、パフォーマンス、インスタレーション
ムーブメント ヴィジョナリー・アート、サイケデリック・アート

 アレックス・グレイ(1953年11月29日生まれ)はアメリカのヴィジョナリー・アーティスト。チベット密教実践者。グレイの表現方法は、パフォーマンス・アートをはじめ、インスタレーション、彫刻、ヴィジョナリー・アート、絵画など多岐にわたる。

 

 積分心理学研究所のインテグラル研究所のメンバーでもあり、認知自由と倫理センターのアドバイザーでもあり、ウィズダム・ユニバーシティの芸術学部の委員長もつとめる。妻のアリソン・グレイは神秘主義組織「聖なる鏡の礼拝堂」の創立者である。

 

 アレックス・グレイは、1953年11月29日に、アメリカのオハイオ州コロンバスのミドルクラスの家庭で生まれた。父はグラフィック・デザイナーで、幼少の頃からグレイは父親から絵の教育を受けた。子どもの頃のグレイは昆虫採集や庭に埋められた動物の死骸を掘り起こして収集することに熱中した。すでにこの頃から、後の彼の作品のテーマとなる死と輪廻転生の片鱗が見受けられる。

 

 1971年から1973年の2年間、コロンバス美術大学に通い、ドロップアウトして、オハイオ州の塗装看板の仕事を始めるようになる。また同時期に1年ほどボストン美術学校に通い、そこで、コンセプチュアル・アーティストのジェイ・ジェロスラブや妻のアリソンと出会う。この時代に神秘主義やヒッピー・カルチャーにハマりだすようになる。グレイとアリソンはLSDで一緒にトリップしはじめる。LSDやDTMなど各種の向精神薬を大量に摂取して、光と闇の狭間で目覚めるサイケデリックな表現が持ち味になる。

 

その後、グレイは5年間ハーバード医科大学に通い、医学教室の死体置き場で、死体の解剖実習に携わる。活動初期の1970年代には、出血儀式や妻アリソンとの公開セックス儀式、ネズミの首切り技師などのパフォーマンスを行った。

 

1976年、万物エネルギーをひとつに結ぶシンメトリー構造の幻想に覚醒。以来、画家として宇宙愛エネルギーの解剖図と神秘学的解剖図を融合したサイケデリックなイメージの制作に熱中している。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Alex_Grey、2020年5月2日

【美術解説】ティム・ビスカップ「50年代童話絵本を呼び起こす画家」

$
0
0

ティム・ビスカップ / Tim Biskup

50年代童話絵本を呼び起こす画家


概要


生年月日 1967年9月21日
国籍 アメリカ
表現媒体 イラストレーション、プロダクトデザイン、絵画、彫刻
ムーブメント ロウブロウアート
公式サイト http://www.timbiskup.com/

ティム・ビスカップ(1967年9月21日生まれ)はアメリカの画家、イラストレーター、ロウブロウアーティスト。1950年代の絵本イラストレーションを呼び起こす古風な絵柄が魅力。

 

美術学校を中退し、大好きだったアニメ「Ren&Stimpy」の作者ジョン・クリクファルセーのスタジオに入り、腕を磨く。

 

最も影響を受けているのは、1940〜50年台のレコードジャケットイラストレーターのジム・フローラ。1980年代後半にサンフランシスコの中古レコード店でジム・フローラがてがけるLPレコードと出会って受けた衝撃が、現在の彼の作品が生まれる出発点になった。

 

ティムがアーティストになりたいと思ったのは、1984年に家族でポンピドゥー・センターを訪れた時だった。そこで彼は、ロバート・マッタ、ニキ・ド・サン・ファレ、ジャン・ティンゲリーの作品に触れた。

 

1986年にオーティス・カレッジ・アート・アンド・デザインのファインアート科に入学したが、1988年に中退した。彼はインタビューで、アートの作り方を学ぶというよりも、アートの概念に重きをおく教育に不満を感じたと語っている。

 

20世紀後半にシルクスクリーン、テキスタイル、ロトキャスト・ビニールなどの多様なメディアを介して、遊び心のある躍動感あふれるサイケデリックなイメージで名が知られるようになる。 アメリカのアパレルブランド「GAMA-GO」のデザインにも多数貢献している。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Tim_Biskup、2020年5月2日アクセス


【美術解説】ノバート・コックス「世界の破滅と再生を予言する黙示録画家」

$
0
0

ノバート・コックス / Norbert Kox

世界の破滅と再生を予言する黙示録画家


概要


生年月日 1945年8月6日
死没月日 2018年12月29日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画
ムーブメント ヴィジョナリー・アートアウトサイダー・アート

ノバート・コックス(1945年8月6日生まれ)は、アメリカのヴィジョナリー・アーティスト。世界の破滅と再生を予言する黙示録画家。

 

1945年8月6日、ウィスコンシン州グリーンベイで生まれる。誕生日にヒロシマに原爆が落ちた。17歳で陸軍に入隊すると、独学で絵の勉強とアルコールに没頭し始める。除隊後は、「アウトローズ」暴走族ギャングの一員として活躍。おもに、改造車製作で生活費を稼いでいた。改造車制作を機会に絵を描き始める。

 

30歳のときに麻薬過剰摂取で1度生死をさまよう。暴走族を脱退することに悩んだあげく、キリスト教原理主義派に入信して、聖書研究に没頭し始める。しかし「キリスト教の正体は異教の邪神信仰なり」と解釈すると、教会を捨ててひとり1975年から85年の間、森の中に入り、自分専用のキリスト教会「福音の道」を建設。

 

40歳でニーチェのツァラトゥストラのごとく森から出ると、大学に入学して本格的に絵を勉強し始める。グリーンベイに戻ってからも、彼は終末的でスピリチュアルな絵画を描き続け、2018年に死去。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Norbert_Kox、2020年5月2日アクセス

https://www.outsiderart.co.uk/artists/norbert-kox、2020年5月2日アクセス


Viewing all 1617 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>