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【美術解説】長井朋子「ドールハウス・アート」

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長井朋子 / Tomoko Nagai

ドールハウス・アート


概要


生年月日 1982年
国籍 日本
表現媒体 絵画、インスタレーション
関連サイト

長井朋子公式ブログ

Artsy(プロフィール、作品販売)

長井朋子(1982年愛知県生まれ)は日本の画家。2006年に愛知県立芸術大学を卒業したあと、おもに小山登美夫ギャラリーで個展を開催している。現在、愛知県豊橋市を拠点に制作活動を行う。海外では、ヴェネツィア・ビエンナーレ関連企画展の「Future Pass – From Asia to the World」や、ソウル、グルノーブル、ベルリンでのグループ展に参加。

 

長井朋子の作品は、繰り返し描かれる少女的なモチーフや、かわいらしい動物(特に猫と熊が多い)で構成された高密度のパステルカラーの空間が特徴。具象と抽象、平面性と立体性が入り乱れる。少女らしい長井独特の装飾的フレームも人気が高い。

 

最近はインスタレーション表現も得意としており、彼女が作る空間は、現実的な空間と非現実的な空間の両方の世界を同時表現する。たとえば、本物の椅子のとなりに絵の観葉植物が置かれたり、壁には架空の窓やカーテンが設置され、架空の景色が描かれる。本物の机の上に絵の鏡や絵の花瓶が設置される。子どものころに楽しんだドールハウス箱庭を等身大レベルにまで拡張したような世界が空間となる。

 

また、世界中にファンを多く持ち、彼女の作品は高橋コレクション(日本)をはじめ、オルブリヒト・コレクション(ドイツ)、ザブラドウィッチ・コレクション(イギリス)、ジャピゴッツィコレクション(スイス/アメリカ)などに収蔵されている。

 




【美術解説】豊田奈緒「物語としての芸術」

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豊田奈緒 / Nao Toyoda

物語としての芸術


概要


豊田奈緒(1990年生まれ)は日本の画家。東京造形大学卒業、現在、東京藝術大学大学院在学中。

 

豊田が絵画で表現するものは「物語」である。古典の資料の切れ端をはじめ、映画のワンシーン、雑誌などの現代のメディアまであらゆる媒体から、ふと「物語」を想起させるものをすくいあげ、それらを題材に絵画を構成していく。

 

その構成の仕方はコラージュに近い。コラージュは既成物をそのまま切り抜いて使用する表現だが、豊田の場合は、気になるモチーフを自分自身のカラー(抽象的)に合うように変形して描き出し、それらを合成し、そこに物語を想起させる。ペインティング時の横尾忠則と通じるものがある。

 

公式サイト:http://toyodanaopro-work.jimdo.com/


【美術解説】アンダーグラウンド・アート「サブカルチャー・アート」

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アンダーグラウンド・アート / Underground Art

サブカルチャー・アート


バンクシーのグラフィティ。
バンクシーのグラフィティ。

概要


アンダーグラウンド・アートは広義的な意味では、アート・ワールドにおいて従来の規範から外れた芸術形態を指す。サブカルチャー・アート。

 

アンダーグラウンド・アートは、もともとは『OZ』『インターナショナル・タイムズ』『イースト・ビレッジ・アザーランド』『サンフランシスコ・オラクル』といったアンダーグラウンド・プレス(地下出版物)やアメリカ西海岸のunderground comixなどで掲載された芸術のこと。"comix"という綴りは、メインストリームの"comics"と区別するために造語された綴りであり、XはX指定のことを意味している。その前身はビート・ジェネレーションとパリの実存主義など西洋サブカルチャーの歴史にある。

 

最近ではアンダーグラウンド・アートという言葉は、グラフィティやコミック・ストリップ・アートのようなサブカルチャー・アートを表現するのに使われている。

 

また、ヴィジョナリー・アートサイケデリック・アートのようなドラッグを利用した絵画制作や、グラフィティやストリート・アートなど公共空間への落描き、人権を侵害するような暴力的な芸術な芸術制作のことも指す。

 

アンダーグラウンド・アートの多くは、ギャラリーや美術館で展示されることは少なく、多くはインターネット上で公開される。

 

1990年代後半からインターネットがアンダーグラウンド・アートのプラットフォームとなり、そのおかげでこれまでのアート団体やメディアのサポートを受けずに無料で多くの鑑賞者と作者がコミュニケーションをとれるようになった。

 

ほかには「バーニング・マン」や「レインボー・ギャザリング」などのレイブやロック・ミュージックフェスティバルなど屋外イベントで展示される。

関連項目



■参考文献

https://www.tate.org.uk/art/art-terms/u/underground-art、2020年5月4日アクセス

https://en.wikipedia.org/wiki/Underground_art、2020年5月5日アクセス


【コラム】タロットカードや家系図を使ったホドロフスキーの心療活動

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ホドロフスキーと心療活動

タロットカードや家系図を使った心療


ホドロフスキーは、16世紀から18世紀頃のヨーロッパで神秘主義者やオカルティズムの影響が強いマルセイユ版タロットカードの研究とそのオリジナルの復元に役10年ほど費やしている。

 

タロットカードの研究を通じて、ホドロフスキーは、「サイコマジック」「サイコジャ二ラジー(心霊学)」「イニシアティック・マッサージ」という3つ分野でより心療的な活動を深めていくようになった。

サイコマジック


サイコマジックは、ホドロフスキーが創始した心療行為の名称である。

 

芸術、東洋哲学(特に禅)、神秘主義、近代哲学を融合した思想で、心に問題を抱える患者を癒やすことを目的としている。ホドロフスキーは、自身をフロイトと対置した上で、サイコマジックは科学が基礎とされる精神分析的なセラピーではなく、アートとしてのアプローチから生まれたセラピーであると語る。

 

この心療行為では、無意識のパフォーマンスを作用させて抑圧されているトラウマを解放する。真実の抑圧によって無意識に発生した象徴的な行為を認識する。その噴出した無意識的な象徴行為は、非理性的な衝突を解決する手助けになるという。

 

2020年に公開されたホドロフスキーの映画『ホドロフスキーのサイコマジック』にその詳細が描かれている。

これらのパフォーマンスは次に紹介するサイコ・ジャ二ラジーで、患者の性格や家系図を研究した後、セラピストの指示に従って行われる。

サイコ・ジャ二ラジー


サイコ・ジャ二ラジー(心の系譜学)は、患者の潜在能力を発揮できるようにするため、また患者が生きてい行く上で、正しい行動(納得の行く行動)を選択できるようにするために、患者自身の性格や家系図を研究し、患者のアイデンティティの強化や回復をはかるものである。

 

家系図を作っていくことで、隠されていた物事が明らかになる。たとえば、祖先の誰かのある感情や欲望が私達と共通の無意識層に渦巻いていて、親や祖父母たちと同じように自分たちも不幸な出来事を繰り返す。それを避けようと必死にあがいているにもかかわらずある。

 

それら、自分が怖れていることや忌み嫌っていることは、実は深層心理のなかでは欲していることの可能性があるからであるという。そういうことを積極に知っておくことで、意識と無意識のバランスがとれるようになる。

 

これとよく似たものでは、バート・ヘリンガーが創始した「ファミリー・コンステレーション」があり、現象論的方法を利用した心理医療である。

 

サイコ・ジャ二ラジーについて、家系における共通的無意識においてホドロフスキーはこう話す。

 

「全ての人間がこれをするべきだ。そうでないと、自分を知ることができない。

我々は個々に独立して生きていると思っている。家族と絶縁したとしても、我々の中にはこの家族が生き続ける。

 

僕は母との関わりを恐れた。母は父ともに多くの問題を抱えていた。母は決して私に優しく接したことはなかった。僕は、1953年にチリの家族のもとを去った。それ以降は電話さえしたことはなかったんだ。しかし彼等は僕を無意識層のうちで活発に支配し続けていた

 

50歳のときに夢を見た。母がソファに寝そべって私に話しかけている。「アレハンドロ、私は死んでいる。」それで心の呪縛は解放した。夢が覚めたあと、連絡のとらなくなった母に手紙を書いて送ってみると、手紙は母が死んだ次の日に到着したんだ。驚いたことに夢で母が出てきた告げた死は本当だった。

 

それで僕は無意識に気づいたんだ。死んでも私達に生き続けていると。少なくともひいおじいさん、ひいおばあさんの代から今に至る家族全員(親戚ももちろん含めて)欲望や憎しみ悲しみなどの感情が、我々の深層心理で生き続けているということ」と話す。 

パリを中心に開催される講義


ホドロフスキーは治療に関する本をいくつか出版しており、その中には『サイコ・マジック:神聖な罠』や自伝『リアリティティのダンス』など、かなりの本を出版している。

 

データによれば、小説、哲学論文、数十のインタビュー記事を含めて20冊以上の本を出版している。ホドロフスキーの著作はスペイン語圏とフランス語圏で広く読まれているものの、英語圏ではほとんど読まれていない。

 

約四半世紀以上、ホドロフスキーはフランスを中心に世界中のカフェや大学などで、無料の「サイコマジック」の教室や講義を開いてきた。基本的な講義はタロット占いを使ったトークショーのようなもので、水曜日の夕方に開催される。そこには何百という客が集まり、客を巻き込むかたちで、サイコ・マジックやサイコ・ジャ二ラジーのライブ・デモンストレーションが行われる。

 

悩みを持っている客の話を聞いて、タロットカードをひかせる。そこから、客の生い立ちをずっと聞きながら、ホドロフスキーがトラウマとなっているものに関して助言するという流れとなる。

 

心療セラピーの講義でホドロフスキーは、家族や親戚など数多くの世代間で育まれてきた無意識は、大人になっても精神に作用し強迫観念を引き起こすサイコ・ジャニラジーを生徒たちに教え、ホドロフスキーの哲学を受け継ぐ学生たちを中心とした基盤を育んできた。

 

この四半世紀にわたるホドロフスキーの心療セラピー活動は、ホドロフスキーの全活動のなかで最も重要であると考えている。

 

2011年からは月に一度のペースで開催されており、現在ではパリの「リブレアリー・レ・セント・シエル」で開催されている。



【コラム】ホドロフスキーと漫画

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ホドロフスキーと漫画


ホドロフスキーとメビウスの漫画『アンカル』
ホドロフスキーとメビウスの漫画『アンカル』

漫画作家としてデビュー


ホドロフスキーは1966年なかばからメキシコで、マヌエル・モロが絵を担当する漫画作品『アニバル5』シリーズを始めで、漫画作家としてデビューする。

 

また、メキシコ新聞紙エル・ヘラルド・デ・メヒコで週刊連載漫画『ファビュラス・パニキャス』を開始。こちらはホドロフスキー自身が絵を描いていた。

 

ほかにもメキシコ滞在中に、漫画用のオリジナル原作を少なくとも2〜3作は書いている。『ロス・インポターバブルズ・ボーボラ』はそれらの中の1つである。

 

4作目の長編映画『Tusk』のあと、ホドロフスキーはメビウスと『アンカル』の連載を開始。このグラフィック小説は、タロットとの関わりが深い。たとえば、インカルの主人公ジョン・デフルはフールカードが元ネタとなっている。『アンカル』は、Humanoids Publishingから出版された同じスペースオペラ『ジョドバース』(または「メタバロン宇宙」)を舞台にしたSFコミックのシリーズの第一作である。

『アニバル5』
『アニバル5』
ホドロフスキー自身が描いた漫画『ファビュラス・パニキャス』
ホドロフスキー自身が描いた漫画『ファビュラス・パニキャス』
メビウスとの共作『アンカル』
メビウスとの共作『アンカル』

フィフス・エレメント問題


メビウスとホドロフスキーは、1997年に公開された『フィフス・エレメント』の監督のリュック・ベッソンを告訴、『アンカル』からストーリやグラフィックを借用していると主張。しかし、この訴訟は敗訴した。

 

『アンカル』の共同原作者であるホドロフスキーの承認を得ないまま、メビウスが『フィフス・エレメント』の制作に進んで参加し、ベッソンに雇われており、またホドロフスキーには権利の話をしていなかったので、曖昧な状態の訴訟となった。

 

10年以上過ぎて、ホドロフスキーは、盗作したリュック・ベッソンを訴えるために出版社のル・ヒューマノーズ・アソシエに圧力をかけたものの、出版社側は最終的な訴訟結果に恐れて拒否した。

漫画リスト


  • Astéroïde Hurlant (2006)
  • Mégalex, artwork by Fred Beltran, Les Humanoïdes Associés
    • L'anomalie, 1999
    • L'ange Bossu, 2002
    • Le cœur de Kavatah, 2008
  • Le Cœur couronné, artwork by MoebiusLes Humanoïdes Associés
    • La Folle du Sacré Cœur, 1992
    • Le Piège de l'irrationnel, 1993
    • Le Fou de la Sorbonne, 1998

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Alejandro_Jodorowsky、2020年5月5日アクセス

 


【作品解説】寺山修司「田園に死す」

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田園に死す / Pastoral: To Die in the Country

シュルレアリスティックに過去を虚構化


概要


『田園に死す』は1974年に寺山修司の監督により制作された長編映画。寺山の映画作品の中で代表的作品であり、寺山の幼少の頃を描いた半自伝的映画である。

 

青森、恐山、田園、因習、サーカス団、エロス、水子、イタコ、「母殺し」の思想、東京と青森、現在と過去などのイメージが混在してシュルレアリスティック描かれる。

 

土着のイメージばかりが語られるケースが多いが、「田園に死す」は「過去の虚構化」が主題となっているのも大きな特徴である。多くの芸術家が子ども時代の原体験を芸術創作のインスピレーションとすることに対して当然のように思っているが、寺山は原体験を虚構化することにジレンマを抱いている。「田園に死す」の「過去の虚構化」とよく似た映画として、最近はアレホンドロ・ホドロフスキーの『リアリティのダンス』が挙げられる。

寺山修司はホドロフスキーに嫉妬していた

 

また、寺山修司の歌集『田園に死す』の短歌をが主人公が詠うシーンが随所で挿入される。詩と映像が一体化した作品ともなっている。

あらすじ


映画の前半では、「現在の私」が幼少の頃の話をそのまま事実として描くのではなく、美しく書き換えた自伝映画となっている。


たとえば、実際には村人から忌み嫌われ、間引きされた奇形の赤ちゃんは、健常な元気な赤ちゃんとして描かれる。また、実際には左翼の愛人の男と心中した隣の若い人妻は、母を捨てた「過去の私」とかけおちする話となっている。


映画後半パートの冒頭で、本当の少年時代の暗い真実が語られ、「現在の私」が幼少の頃の話を美化することに悩む。「過去」を書く対象化にしたとたんに、厚化粧した過去になると。もし、過去、原体験を書く対象にしなければ真実の過去としてしまっておけたかもしれないという。


それに対して映画評論家は、過去を虚構化することで作者は過去から自由になれる。過去は首輪みたいなのもので、人間は記憶から解放されない限り自由になれない。記憶を自由に編集できれなければ本物の芸術家といえないと「現在の私」を諭す。


最後に映画評論家は、私に「もし、君がタイムマシーンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなると思うか」と尋ねる。


そして「現在の私」は過去へ戻り、母親を殺せば現在の自分がどうなるのかを知るためにやって来る。しかし結局、虚構の世界でも母親を殺すことができず、母親という呪縛を背負ったまま、現在の私の場所が交差する場所(新宿の交差点)がシュルレアリスティックに描かれて映画は終わる。


【コラム】ホドロフスキーと子どもたち

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ホドロフスキーと子どもたち


アレハンドロ・ホドロフスキーの映画には、監督自身が役者として登場するだけでなく、実の子どもたちもよく登場する。ホドロフスキーには5人の子どもがいる。そこでホドロフスキーの5人の実の子どもを紹介してみよう。

 

ブロンティス・ホドロフスキー


ブロンティス・ホドロフスキー(1962年10月27日チリ生まれ)はホドロフスキーの長男。チリ・フランスの役者、劇場ディレクター。母はフランスの女優バーナデット・ランドル。

 

1970年に公開された『エル・トポ』で、エル・トポ(ホドロフスキー)の息子役(幼少時)で登場。なぜか裸で服を着ていない不思議な設定で、鑑賞者に強烈な印象を与えた子役である。

 

12歳のときには、幻となった超大作『Dune』で主役のポール・アトライズ役として出演する予定だったという。当時、ブロンティスはポール役をこなすために1日6時間の武術修行を365日休まず2年間も強制させられたという。そのとき学んだ武術は、フランスで有名な日本武術家ジャン=ピエール・ビグナから教わった柔術、空手、柔道、合気道。ほかにもナイフ術や剣術も習わされたという。ブロンティスはこのときの訓練は辛く、無慈悲だったと話しており、ホドロフスキー自身もやりすぎた事を反省している。

 

その後、ブロンティスはおもに演劇方面で活動するようになり、多くの演劇作品に出演した、また劇作家として活躍。活動場所の中心はパリで、シアター・ド・ソレイユを基盤に演劇活動をしている。

 

1991年に娘、アルマ・ホドロフスキーが誕生。彼女はフランスのモデル、歌手、女優として活躍している。

 

2014年に公開されたホドロフスキーの自伝的映画『リアリティのダンス』で、ブロンティスはホドロフスキーの父で自分の祖父役として出演している。ブロンティスの祖父はブロンティスが生まれる前に死んでいたので、一度も祖父の姿を見たことはなかったという。 

ユジニア・ホドロフスキー


ユジニア・ホドロフスキー(1963年チリ生まれ)は、ホドロフスキーの長女。家族から離れて住んでいる唯一の子どもで、特に芸術的キャリアはなし。

クリストバル・ホドロフスキー


クリストバル・ホドロフスキー(1965年メキシコ生まれ)はサイコシャーマン、サイコ・マジック、詩人、画家、映画監督、劇場ディレクター、ホドロフスキーの次男。


子どもの頃からアレハンドロ・ホドロフスキーが創設した心療セラピー「サイコ・マジック」の教えを受ける。


現在はパリを中心にホドロフスキーのサイコ・マジックのアシスタントをしながら、メキシコ、チリ、ペルー、コロンビア、ベネズエラ、インドネシア、フィリピン、インドに行者として心理セラピーを実践している。


『サンタ・サングレ』で主人公フェニックスの大人の役で主演、『リアリティのダンス』では行者として出演として活躍。また画家としてフランスやヨーロッパ諸国で個展を開催。

テオ・ホドロフスキー


テオ・ホドロフスキー(1971年メキシコ生まれ)はメキシコの俳優。ホドロフスキーの三男。1995年、24歳で交通事故で死去。『サンタ・サングレ』にも出演している。

アダン・ホドロフスキー


アダン・ホドロフスキー(1983年10月生まれ)はフランスのミュージシャン、ディレクター、俳優。ホドロフスキーの四男。


アダンはこれまで7つの映画に出演している。最も有名なのは『サンタ・サングレ』の主人公フェニックスの少年期の役で、1989年の「サターン若手俳優賞」を受賞している。


アダンは音楽方面で才能を開花させている。

アダンは6歳のときにピアノの始めた。7歳のときにコンサートの楽屋でジェームズ・ブラウンに会い、ブラウンはアダンにダンスを教えたという。


アダンがギターを最初に習ったのはビートルズのジョージ・ハリスンからだった。16歳のときにパンク・パンド『ザ・ヘルボーイズ』に加入。そこで彼はヤロル・ポウパーやエイドリアン・ポーリーに出会い、別の音楽ジャンルに興味を抱き始め、ベースを弾き始めた。


2006年10月30日に、アダンはアダノスキーという名前で1stソロ・アルバム「Étoile Éternelle」をリリース。またエル・ドロという名前で1stシングル「アイドル」をスペイン語でリリース。2007年にアダンは映画『パリ二日間』に俳優として出演。2008年に2ndアルバム「エル・ドロ」を発売し、このアルバムをきっかけに国際的に注目を浴びるようになったた。2011年に3rdアルバム「アマドー」をリリース。UFI賞で「ベスト国際アーティスト賞」や「ベスト・ライブ・ショー」を受賞。


映画『リアリティのダンス』ではアナーキスト役として出演。またサウンドトラックを担当した。ホドロフスキーの子どものなかで一番出世している。

アルマ・ホドロフスキー


アルマ・ホドロフスキー(1991年9月26日生まれ)はフランスの女優ファッションモデル、歌手。

 

長男ブロンティスの長女で、ホドロフスキーの孫娘にある。母はコメディアン女優のヴァレリー・クルーゼ。


アルアは、幼少の頃からパリの劇場で女優としてのトレーニングを積み、2011年にニューヨーク・フィルム・アカデミーのワークショップに3ヶ月参加、2013年にフランスのスタジオ・シアター・アニエールを卒業。


現在は、ファッション業界やテレビや映画などを中心に活動している。またパリで活動しているポップ・バンド「Burning Peacocks」のボーカリスト、作詞を担当。


【作品解説】マルセル・デュシャン「裸体、汽車の中の悲しげな青年」

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裸体、汽車の中の悲しげな青年 / Nude (Study), Sad Young Man on a Train

汽車とデュシャンの平行表現


マルセル・デュシャン《裸体、汽車上の悲しげな青年》1911-1912年
マルセル・デュシャン《裸体、汽車上の悲しげな青年》1911-1912年

概要


作者 マルセル・デュシャン
制作年 1911-1912年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 100 x 73 cm
コレクション ニューヨーク・グッゲンハイム美術館

《裸体、汽車上の 悲しげな青年》は、1911年から1912年にかけてマルセル・デュシャンによって制作された油彩作品。

 

デュシャンのセルフ・ポートレイト作品であり、1912年に発表した《階段を降りる裸体 No.2》の試験的作品。キャンバスの裏には「裸のマルセル・デュシャン(スケッチ)」と記されており、試験作だったことが分かる。

 

当時のデュシャンはキュビスムに関心を抱いており、落ち着いた色調、平面体で構成されたフラットな画面、抽象的な構図が強調されている。さらに《階段を降りる裸体.No2》で導入されたモーションピクチャーのような線も見られる。

 

当時、キュビスムを簡略化した線の反復とデュシャンは解釈しており、動く人物の位置の変化に着目し、並行線によって動きを表現することがキュビスムだと考えていたという。

 

また「裸体、汽車上の悲しげな青年」における主題は、汽車と通路を行ったり来たりする悲しい青年の2つの動きの並行表現であるという。前方へ向かってくる汽車の造形とうなだれた青年の反復的な形態が重なるように描かれている。まだシュルレアリスム(1924年)は現れていない頃だが、汽車とデュシャンのダブル・イメージのようなものである。

 

青年(パリからルーアンへ帰る汽車の中でパイプを吸うデュシャン)のデフォルメがあり、それはある種の形を分解した状態、つまりお互いに平行に移動しながら形を変え、直線的なパネルの上を扇型に広がっていくようなものである。

 

本作品と《階段を降りる裸体 No.2》を描き終えたあと、デュシャンはキュビスムや絵画への関心をなくし、言語遊びや機械的なオブジェに関心を移していく。

 

 

■参考文献

Nude (Study), Sad Young Man On A Train

 

マルセル・デュシャンに戻る



【作品解説】マルセル・デュシャン「Tu m'」

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Tu m'

お前は私を〜


マルセル・デュシャン《Tu m'》1918年
マルセル・デュシャン《Tu m'》1918年

概要


作者 マルセル・デュシャン
制作年 1918年
メディウム 油彩、キャンバス、瓶ブラシ、ピン、ボルト
サイズ 69.8 x 303 cm
コレクション エール大学ギャラリー

《Tu m’》は、1918年にマルセル・デュシャンによって制作された油彩作品。1913年の《チョコレート磨砕器 No.2》から5年ぶりに描いた油彩作品であり、デュシャン最後の油絵。これ以降、油絵は描いていない。この作品はデュシャンがそれまでしてきたことの集大成として、カタログの形で、視覚化されている

 

デュシャンの後援者であるキャサリン・ドライヤーの書斎の本棚の上の空間を埋めるために依頼された作品のため、横長になっている。

 

横長の画面いっぱいに3つのレディ・メイド作品《自転車の車輪》《コルクの栓抜き》《帽子掛け》の影が描かれている。この影は実際にキャンバスの上へレディ・メイドの影をうつし、その形のとおりに丹念に鉛筆をなぞったものである。

 

左上にはカラーの四角形が永遠と並んでいる。手前のチャートを留めているように見えるナットは本物。その下には《3本の停止原理》の曲線定規が、重なりあって描かれている。中央の裂け目のようなものは、だまし絵風に描かれたもので、そのだまし絵の裂け目を本物の3本のピンが閉じようとし、そこから本物の瓶ブラシが飛び出して、その影が画面に映っている。

 

その下に看板描き職人に頼んで描いてもらった右を指している手があり、その手の方向には「停止原理」で引かれた曲線に、小さな四角のカラーチャートが幾何学的に遠近を持って描かれている。この四角のカラーチャートと停止原理は対応している。

 

《Tu m'》という題名についてデュシャンは「母音で始まる動詞であれば、何でも好きな言葉を置いてかまわないのです」とコメントしている。《Tu m'》を直訳すると「お前は私を〜」となる。

 

タイトルでよく言われるのは「Tu m'ennuies」で「おまえは私を退屈させる」と読む。デュシャンは一度捨てた油絵をキャサリン・ドライヤーの依頼でまた描かされており、「おまえ(油絵やキャサリン)は私を退屈にさせる(うんざりさせる)」と読むのが一般的な解釈である。

 

マルセル・デュシャンに戻る

 

■参考文献

・マルセル・デュシャン展 高輪美術館 西武美術館

Tu m’ : http://artgallery.yale.edu/collections/objects/50128


【作品解説】ユーリ・ノルシュテイン「霧の中のハリネズミ」

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霧の中のハリネズミ / Hedgehog in the Fog

美しくも不気味なロシアの霧


概要


作者 ユーリ・ノルシュテイン
制作年 1975年10月23日
時間 10分29秒
製作国 ソ連
表現媒体 アニメーション

「霧の中のハリネズミ」は、1975年にソビエト連邦のユーリ・ノルシュテイン監督によるアニメーション。制作はモスクワのアニメーション制作会社ソユーズムリトフィルム。セルゲイ・コズロフの同名の著書「霧の中のハリネズム」をアニメーション化したもの。2006年にはコズロフと共著で「霧の中のハリネズミ」の絵本を出版している。


アニメーションの霧は、細かい紙片である。紙片を舞台上において、1フレームごとに少しづつカメラを動かすことによって表現されている。


内容は、小さなハリネズミが、友だちのコグマを訪ねる道中でさまざまな現象に遭遇する物語である。ハリネズミとコグマは、毎晩出会い、コグマの家でサモワール(給湯器)で淹れたお茶を飲んでいた。彼らはお茶を飲みながら一緒に星を数えるのだった。


ある日、ハリネズミははコグマの大好きないちごのジャムを持っていく途中、霧の中に美しい白い馬がいるのを発見する。ハリネズミは好奇心にかられて、霧のに入って行くと、自分自身の足も見えないほどの濃い霧に包まれて、ワシミミズク、ガ、コウモリなど怖い動物やカタツムリや犬などの優しい動物などさまざまな生物に出会う。


そこは、静寂とかすかな音、暗闇、そして背の高い草に覆われたシュルレアリスティックな世界だった。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Hedgehog_in_the_Fog、2020年5月6日アクセス


【美術解説】ジョエル=ピーター・ウィトキン「アウトサイド・ファンタジー」

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ジョエル=ピーター・ウィトキン / Joel-Peter Witkin

アウトサイド・ファンタジー


概要


ジョエル・ピーター・ウィトキン(1939年9月13日-)はアメリカの写真家。ニューメキシコ州アルバカーキ在住。

 

アウトサイダー、障がいの人たちを被写体に、それらを宗教的なエピソードやクラシック絵画を彷彿させるオブジェや小道具と組み合わせて、暗く薄汚れたセットを背景に、ひとつのイメージにまとめあげる。

 

ウィトキンは個人的な体験から内部に形成されたダークなヴィジョンをダイレクトに視覚化するのではなく、西欧の美術や文学、神話や歴史の基盤にして制作している。特に大きな影響を与えているのは、クリムト、フェリシアン・ロップス、アルフレッド・クービンらに代表される19世紀末の象徴主義である。シュルレアリスムでマン・レイやマックス・エルスントに大きな影響を受けている。

 

撮影技法に関しては初期のダゲレオタイプならびにE・J・ベロック(E. J. Bellocq)の作品から学んでいる。ネガには擦り傷や引っかき傷をつけたり、わずかにセピアがかったソフトなトーンを出すために、印画紙に非常に薄いティッシュのような紙を重ねるといった技巧を施している。

 

1961年から1964年の間のベトナム戦争時に戦場写真家として働き始める。ベトナム戦争終結後、ウィトキンはフリーランスの写真家となり、City Walls Inc.の公式カメラマンとなった。

略歴


ウィトキンは、1939年にニューヨークのブルックリンで生まれた。父親はユダヤ系で母親はカトリックだった。ウィトキンは三つ子の兄弟のひとりとして生まれおり、そのうち無事に生き延びたのは男の兄弟ふたりで、 もうひとりの女の子は流産している。

 

両親は兄弟がまだ幼い頃に離婚。ウィトキン兄弟は母親の厳格なカトリックの環境のなかで育てられた。父親は定期的に養育費を支援するだけだった。

 

ウィトキンは6歳のとき、強烈な出来事に遭遇する。それは、兄弟が母親に手を引かれて教会に向かう途上で起きた3台の車の衝突事故だった。横転した車から小さな女の子の首がウィトキンの足元に転がってきたのだ。彼はかがみ込んでその首に触れ、話しかけようとしたが、その前に誰かに引き離されてしまったという。

 

ウィトキンは16歳のときに初めてカメラを手にし、写真に関する何冊かの本を読み、写真を撮りはじめた。彼が強い関心を示したのは、コニー・アイランドのフリークス・ショーだった。 彼はそのショーに足しげく通い、3本の足を持つ男や小人、両性具有者の写真を撮り、しかもそれだけにとどまらず、最初の性体験の相手としてその両性具有者を選んでもいる。

 

60年代に入り、写真技術者として職を得たウィトキンは、一方でニューヨークにある美術学校クーパー・ユニオンで彫刻を学ぶ。その後、徴兵され、写真班として訓練を受け、アメリカ諸州やヨーロッパを回り、 テキサスの陸軍写真班として兵役を終える。彼の任務のひとつは、訓練中の事故で死亡したり自殺した兵士の肉体を撮影することだった。

 

退役後、ウィトキンはクーパー・ユニオンに戻るが、今度は、東洋の神秘主義や瞑想に熱中し、インドに渡ってヨガを学ぶ。74年に美術の奨学金を受け、ニューメキシコ大学に大学院生として迎えられた彼は、 以後、家族とともにアルバカーキに住み、神秘のベールに包まれた創作活動を続けている。

 



【作品解説】ルネ・マグリット「これはリンゴではない」

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これはリンゴではない /This is not an apple

これは絵具と観念であり虚像にすぎない


概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1964年
サイズ 141.7 x 100.8 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 Scheringa Museum of Realist Art

「これはリンゴではない」は、1964年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。「これはパイプではない」の系譜にあたる作品。

 

絵の中のリンゴがいかにも本物らしくて食べたくなるほどだったとしても、それは絵具に過ぎない。そして「リンゴ」という言葉もまた、リンゴの絵と同様、誰かが好き勝手に決めた観念にすぎない


【コラム】横尾忠則「サルバドール・ダリとの面会の顛末」

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サルバドール・ダリとの面会の顛末



横尾忠則はダリに会うためには一年前から手続きを取る必要があるという。スペインに来たけど、ダリとの会見は諦めるとしてもダリ美術館だけは観たいと思った。しかしダリ美術館に来た以上、やはりダリに会って帰りたい。

 

「ダリに会わせてもらえませんか」

「あなたは誰ですか?」

「スペイン政府の招待できている日本のアーティストです」

「政府の?」

 

「政府」という言葉に敏感に反応したダリ美術館の館員が目の前で直接ダリに電話をしたのには驚いた。

 

「午後二時にカダケスのダリの自宅に来るようにといっています」

 

といって地図を書いてくれた。

 

ダリの自宅にいき、訪問を告げると、ダリは昼寝をしているようだった。スペインでは四時までシェスタタイムといって昼寝の時間である。約束は二時なのにけしからんと思ったが、この位のことはダリなら平気でやるかもしれないと思うとそれほど腹も立たなかった。結局、家の中に入るのに4時間もかかった。やっと勝手口のドアが開けられた。

 

写真でよく知っているバロック趣味の部屋を抜けて、曲がりくねった狭い廊下を通ってプールの端の天蓋付きのソファーに案内された。すでにニースから来たという男性モデルが一人腰掛けていた。

 

やがてダリの霊感の源泉であるガラ夫人が頭に大きい蝶々のような黒いリボンを結んで、セーラー服のようなファッションで口元にシワをいっぱいよせて元気よくやってきた。ガラに会えたのは幸運だと思った。だけど次の瞬間この考えは打ち消されてしまった。

 

「あなた達何かダリにお土産を持ってきた?」

 

あまりの咄嗟にお土産のことまで頭になかった。

 

「あっそう。持ってきてないのね。何も持ってきていなくてもここに座っているハンサムな男性はわれわれにちゃんと『美』を持ってきているわよ」

 

礼節をとがめられているようで恥ずかしくなった。そこで付き添いの多田さんがポケットから自分の娘の写真をガラに見せた。

 

「あーら、この子は可愛いけど、こっちの子はブスね」

 

二人の娘のどちらかがくさされて、彼はムッとしてガラの手から写真をもぎとって、すばやくポケットの中に戻した。全く失礼な奴だと思った。

 

やがてダリがやってきた。白いケープのような衣装を着て、手にこれも写真でよく見るあの有名なステッキを持ってやや猫背で早足にプールの脇を通ってぼくのほうにやってきた。信じられないが、本物のサルバドール・ダリだ。

 

「君かね、アーティストは?」

「わしのダリ劇場は観たかね。わしの作品は好きかね」

「はい大好きです」

「それはいい、ところでわしは君の作品は嫌いだね」

 

だけどダリの横にいるマネージャーがあんまり熱心にぼくの作品集を見ているのが気になるのか、ぼくの目を盗んでチラチラ何度も横から覗き込んでいる

 

多田さんが写真を撮ってもいいかとダリに聞いた。

 

「この前アメリカの『プレイボーイ』が写真を撮りにきたけど一セントもくれなかったから、ダメ

 

ガラが横から唐突に変なことをいった。

 

「それより私と寝ない?」

 

返事のしようがなく、ぼくも多田さんも戸惑ってしまった。ぼくは招かねざる客のようにイヤーな気分にさせられてしまった。(ぼくなりの遊び方、行き方 横尾忠則自伝)


【美術解説】幻想耽美「日本のアンダーグラウンド・アート」

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幻想耽美-Japanese Erotica Contemporary Art

日本のアンダーグラウンド・アート


概要


アンダーグラウンドな作家達の作品集


「幻想耽美 Japanese Erotica in Contemporary Art」は、2014年9月21日にパイインターナショナルから刊行された美しくも退廃的なアンダーグラウンド・アートの世界観を描き出す50名の作品を収録したオムニバス作品集である。アート・イラストレーション・ドール・フィギュア・コミックなどさまざまなジャンルの人気作家から新進気鋭の作家まで横断的に紹介されている。

客体性憧憬


成熟の拒否という日本独自の自己愛


序文は高原英理。高原としては「幻想耽美」よりも「客体性憧憬」というタイトルを提案している。

 

「客体性憧憬」とは、主体性を求めるのではなく、自己の客体性の幻視を望む傾向という意味。美的に描こうとする自己愛である。また客体性憧憬はその手法にこそローカリティはないものの、描かかれる映像的想像の展開には明らかな日本特有の自意識の歴史が反映したものである。

 

そして高原は、日本特有の美的に描こうとする自己愛である「客体性憧憬」とは「成熟の拒否」で、鑑賞者は未来的発展や成熟を放棄した少年・少女たちの運命的無力とともに訪れる死と破局の影を慈しむという。なお欧米美術における「客体性憧憬」の主題は「アンチ・ヘテロセクシャル」だという。

  • 日本の客体性憧憬=成熟の拒否(幼児性愛)
  • 欧米の客体性憧憬=異性愛の拒否(同性愛)

澁澤龍彦から顕在化する客体性憧憬


客体性憧憬(成熟の拒否)は日本において昔から潜在的にありはしたが、顕在化してきたのは1960年代に澁澤龍彦がシュルレアリスムを「異端芸術」と紹介し始めた時期であるという。この「異端芸術」という言葉は極めて不正確で、それはキャッチ・コピーのような使われ方しかしていなかったものの、当時紹介された、四谷シモン、金子國義、宇野亜喜良らは日本の客体性憧憬を表現した代表的な作家と高原は指摘する。稲垣足穂、横尾忠則、篠山紀信にもそれらの傾向が見られる。

かわいいと成熟の拒否


70年代にはいると若い女性のあいだで「かわいい」ものに客体性憧憬を見出す傾向が始まる。80年代に入るとファッション誌『Olive』が「成熟を拒否せよ、少女であることは美しい」というメッセージを明確に伝え、その理想は女性たちに受容された。

 

また音楽のジャンルで「ゴシック・ロック」、漫画では「ガロ」で丸尾末広や花輪和一に受け継がれていったが、ゴシック・ロックはそれを求める若い女性のあいだへ「ゴシック・ロリータ」として、丸尾末広や花輪和一に影響を与えた高畑華梢や伊藤彦造らはいずれも戦前の美少年美少女憧憬文化を形成した画家で、「かわいい」文化と密接な関連がある。

 

90年代に入ると「ゴス」「ゴシック」という言葉が広まり始める。この時代に四谷シモンから始まった日本の球体関節人形の独自発展が開花し始める。恋月姫、清水真理、三浦悦子などが代表的な作家であり、ここに四谷シモンや澁澤龍彦経由で客体性憧憬の遺伝子が入り込んでいる。

 

90年代後半から00年代にかけて、過剰な憧憬や過剰な装飾といった傾向は抑えられつつあるが、2010年前後からまた客体性憧憬の表出は再び発動し始め、今日に至るという。


■参考文献

「幻想耽美」パイインターナショナル


【美術解説】アルベルト・ジャコメッティ「20世紀モダニズム彫刻の代表、実存主義の不安」

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アルベルト・ジャコメッティ / Alberto Giacometti

20世紀モダニズム彫刻の代表、実存主義の不安


概要


生年月日 1901年10月10日
死没月日 1966年1月11日
国籍 スイス
表現媒体 彫刻、絵画、ドローイング
ムーブメント シュルレアリスム、表現主義、キュビスム、フォーマリズム
配偶者 アネット・アーム
関連サイト The Art Story(略歴)

アルベルト・ジャコメッティ(1901年10月10日-1966年1月11日)はスイスの彫刻家、画家、素描画家、版画家。戦後のフランスの彫刻界において最も高い評価を得る。父は後期印象派の作家のジョヴァンニ・ジャコメッティ。父の影響のもと幼少期から芸術に関心を持つ。

 

1922年からおもにパリに住み、仕事をしていたが、定期的に故郷のボルゴノヴォを訪れ、家族に会いにいったり、作品を制作していた。

 

ジャコメッティは20世紀を代表する彫刻家の一人である。彼の作品は、特にキュビスムシュルレアリスムなどの芸術様式の影響を受けている。人間の状態についての哲学的な疑問、実存論的、現象学的な議論が彼の作品に重要な役割を果たした。

 

初期はシュルレアリスムの作家だったが、1935年ころから離れて独特の人間像を模索し始める。極力、余分なものをすべてそぎ落とし、本質に迫ろうとするその彫刻は、逆に周囲の空間をすべて支配してしまう不思議な存在感を放つ。

 

ジャコメッティはシュルレアリスム運動のキーパーソンであるが、彼の作品を簡単にシュルレアリスムと分類することはできない。ある人は表現主義と呼び、ある人はフォーマリズムと呼ぶ。20世紀のモダニズムと実存主義における空虚で意味を喪失したモダンライフを反映していると批評もされた。

 

ジャコメッティは定期刊行物や展覧会のカタログに文章を書き、ノートや日記に自分の考えや記憶を記録していた。彼の自己批判的な性格は、自分の作品や自分の芸術的なアイデアを正しく表現する能力に大きな疑問を抱かせたが、それは大きな創作の原動力となった。

 

1938年から1944年までの間、ジャコメッティの彫刻の高さは最大で7センチだった。その小ささは芸術家とモデルとの実際の距離を反映していたという。この文脈の中で、彼は自己批判的に次のように述べている。「しかし、自分が見たものを記憶から創造したいと思っていた私の恐怖のために、彫刻はどんどん小さくなっていった」

 

第二次世界大戦後、ジャコメッティは彼の最も有名な彫刻を制作した。彼の非常に高く細い人形である。これらの彫刻は、想像上のものでありながら現実のものであり、有形のものでありながらアクセスできない空間の間で、彼の個人的な鑑賞体験の対象であるという。

 

ジャコメッティの全作品の中で、絵画はごく一部を占めるにすぎない。しかし、1957年以降は、彫刻と同様に具象的な絵画も制作されるようになった。晩年の彼のほとんど単色の絵画は、近代の他の芸術様式には言及していない。

 

実存主義哲学家のジャン・ポール・サルトルはジャコメッティの作品に注目し、早い時期に論文を書いた。

チェックポイント

  • 初期はフロイトから影響を受けたシュルレアリスム彫刻家
  • 展示空間をよく考慮して制作された細い人物造形
  • 近代と実存主義における空虚さを表現

作品解説


指差す男
指差す男

略歴


シュルレアリスム時代


ジャコメッティは、スイスのイタリア国境に近いボルゴノーヴォ(現在グラウビュンデン州マローヤ地区のスタンパの一部)に生まれ、近郊のスタンパの町で育った。スイスの異端審問を逃れたプロテスタント難民の家系だったという。

 

父はジョヴァンニ・ジャコメッティで後期印象派の画家として知られており、そんな家庭環境の中ジャコメッティは幼い頃から芸術に親しんでいた。兄弟のデェイゴとブルーノも美術家として知られている。従兄弟のザッカリア・ジャコメッティはのちにチューリヒ大学の憲法学の教授で学長となるが、1905年に12歳のときに孤児になったため、ジャコメッティ一家とともに育った。

 

ジャコメッティは、高等学校卒業後、1919年にジュネーヴ美術学校に入学するが、入学後数日で絵画には見切りをつけ、ジュネーヴ工芸学校のモーリス・サルキソフの下で彫刻を学ぶ。

 

1920年にヴェネツィア、1921年にはローマに滞在した後、1922年にパリへ移住し、ロダンの弟子のアントワーヌ・ブールデルのもとで彫刻を学ぶ。この頃、ジャコメッティはキュビスムやシュルレアリスムの手法を導入しはじめ、次第にシュルレアリスム彫刻家として知られていくようになった。パリではピカソ、エルンスト、ミロ、バルテュスらと交友があった。

 

最初の個展は、1927年にスイスのGalerie Aktuaryusで開かれている。鳥かご、キネティック、抽象、多色といった強烈な実験彫刻を繰り返しており、当時はまだ定まったスタイルがなかった。1930年から35年にシュルレアリスム運動に参加する。

小さく、小さく、破壊、細く、長く、


アルベルト・ジャコメッティ「Man Pointing 」(1947年)
アルベルト・ジャコメッティ「Man Pointing 」(1947年)

1935年頃からシュルレアリスムから離れて、1936年から1940年までのあいだ、ジャコメッティは人間の頭部の彫刻制作に没頭し続けた。

 

彫刻は余計な部分が削られて、どんどん小さくなっていった。最後には破壊してしまう作品も多かった。なお1935年から1947年の間、ジャコメッティは一度も個展をしていない。

 

モデルに妹や芸術家のイザベル・ローズソーン(ベーコンのモデルとしてでも有名)を選ぶことを好んだ。ジャコメッティの細長い彫像は、彼女の細長い手足を強調したように制作されている。

 

1946年にアネット・アームと結婚した後、今度はジャコメッティの彫刻はどんどん大きくなっていった。われわれがよく見かける、大きく細長い彫刻は1947年から始まる。ジャコメッティは自身の作品について、女性を見たときに感じる感覚を表現していると説明している。

 

何度も再加工した結果として、ジャコメッティの彫像は孤立してひどく衰弱しているように見える。またジャコメッティがほかに好んだモデルでは、彼の弟であるディエゴ・ジャコメッティでと弟のブルーノ・ジャコメッティがいる。

アルベルト・ジャコメッティ「歩く3人の人」(1949年)
アルベルト・ジャコメッティ「歩く3人の人」(1949年)

ミニマルな生活


1958年ジャコメッティは、ニューヨークに建設中のチェイス・マンハッタン・バンクの記念碑彫刻の制作を依頼された。


ジャコメッティは、昔から公共空間での彫刻制作への野心をずっと抱いていたもの、一度もニューヨークに足を踏み入れてことはなく、急速に進展する大都市での生活について何一つ知っていたことはなかったという。ジャコメッティの伝記作家ジェームス・ロードによると、ジャコメッティは生涯において摩天楼の超高層ビルを見たこともなかったという。


ジャコメッティの終生の住居兼アトリエがあったイポリット・マンドロン通りは、当時のパリの中でも貧しい界隈であり、小さな工場や材木置き場が立ち並んでいるところだった。ジャコメッティは、裕福になってからも、住居とアトリエを変えることはなく、小さな村の貧しいアトリエを使っていたといわれる。


この理由として、父ジョバンニの影響が大きく、ジョバンニはスイスにの有名な画家の一人だったが、青年時代の数年間をパリで過ごした以外は、終生スイスの山間の小さな村スタンパを離れることなく、制作してたようである。


ジャコメッティは生前、次のような言葉を残している。

「小さな空間さえあれば。非常に大きな作品を作る時でもそうだ。大きな作品を作るために大きなアトリエがいるという人がいるが、それは間違っている。大きな作品のために必要なものは小さな作品のために必要なものと全く同じだ」(矢内原伊作『ジャコメッティとの会話』彩古書房)


1960年にジャコメッティのも記念碑彫刻は、彼の最も巨大な作品で4人の女性像の彫刻Grande femme debout I through IV (1960)」に決定したものの、仕事はうまくいかなった。彫刻と設置場所の関係においてジャコメッティに不満があり、結局このプロジェクトは破綻した。

晩年


1962年に、ジャコメッティはヴィネティア・ヴィエンナーレの彫刻部門でグランプリを受賞したのをきっかけに世界中に名が知れわたるようになった。


有名になってから作品の需要が増えてからも、ジャコメッティは彫刻を再加工し続け、また破壊したりしていた。


ジャコメッティによって制作された版画はよく見落とされるが、晩年には絵画、版画など平面芸術への回帰もみられる。版画集『終わりなきパリ』は1958年から1965年にかけて制作した石版画150点を収録し、ジャコメッティ自身によるテキストを付したもので、晩年の代表作である。


1966年にジャコメッティは、スイスのチューリヒで心臓疾患にかかり慢性閉塞肺疾患で死去。

現在の100スイス・フランの表
現在の100スイス・フランの表
現在の100スイス・フランの裏
現在の100スイス・フランの裏

美術分析


《歩く三人の男(Ⅱ)》,1949年
《歩く三人の男(Ⅱ)》,1949年

ジャコメッティの彫刻技法について、メトロポリタン美術館によれば、1949年に制作された《歩く三人の男(Ⅱ)》の荒々しく、侵食され、重く加工された表面は、ジャコメッティの技術の特徴を生かした代表的な作品である。芯まで削ぎ落とされたこれらの人物は、葉を落とした冬の孤独な木を想起させる。

 

このスタイルの中で、ジャコメッティは、「歩く男」「立っている裸の女性」「胸像」という、彼が没頭した3つの主題から逸脱することはほとんどなく、あるいは3つすべてのさまざまな要素を融合していた。

 

ピエール・マティスへの手紙の中で、ジャコメッティは「人物は決してコンパクトな塊ではなく、透明な構造物のようなものであった」と書いている。また、手紙でジャコメッティは、若い頃の写実主義的で古典的な胸像を懐かしみながら振り返ったこと、そして、彼の特徴的なスタイルを生み出した実存的な危機の話を書いている。

 

「私は、人物を使った作品を作りたいという願望を再発見した。そのためには、頭の構造や人物全体の構造を理解するのに十分な程度の、自然の中から 1 つか 2 つの習作を作らなければならなかった(すぐに私は考えた。この研究には 2 週間かかると思っていましたが、そうすれば私は自分の構図を実現することができます。頭部は、私にとって全く未知の、寸法のない物体となった。」

 

ジャコメッティは思春期初期に卓越した技術でリアリズムの彫像制作を成し遂げていたため、大人になってから人物像に再アプローチすること難しさについて、技術的な欠陥というよりも、意味を求める実存的な葛藤の表れだとして一般的に理解されています。

 

学者のウィリアム・バレットは、『非合理的な人間』(Irrational Man, A Study in Existential Philosophy, 1962)の中で、ジャコメッティの人物像の減衰した形は、20世紀のモダニズムと実存主義の見解を反映していると主張している。「現代生活がますます空虚で意味を持たないものになっている。今日のすべての彫刻は、過去の彫刻と同様に、いつかバラバラになって終わるだろう......だから、自分の作品をその小さな凹みの中で注意深く作り、物質のすべての粒子に生命をチャージすることが重要なのだ」

マーケット・ニュース


「指差す男」は1947年にアルベルト・ジャコメッティによって制作されたブロンズ像。2015年5月11日にクリスティーズで史上最高額の1億4100万ドルで売買されたことで話題になった。

 

ジャコメッティは「指差す男」を6体制作しており、ニューヨーク近代美術館やテイト・ギャラリー1体ずつ、ほか2体も美術館に所蔵されている。1体は財団のコレクションで、最後の1体は個人蔵となっている。2015年にクリスティーズに出品されたのは個人蔵のもので、45年間所持されていたものだった。

 

クリスティーズは「今回、ジャコメッティの非常に希少なマスターピースで、彼のイコン的作品が出品される。」とアナウンスを行なった。


 

■参考文献

Alberto Giacometti - Wikipedia



【美術解説】リー・ミラー「モデルにしてシュルレアリスム写真家」

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リー・ミラー / Lee Miller

モデルにしてシュルレアリスム写真家


Dressed for war (David E. Scherman) , 1942–1942
Dressed for war (David E. Scherman) , 1942–1942

概要


本名 エリザベス・ミラー
生年月日 1907年4月23日
死没月日 1977年7月21日
国籍 アメリカ
タグ 写真家、ジャーナリスト、モデル
スタイル シュルレアリスム芸術写真
配偶者 アジズ・エルーイ・ベイ、ローランド・ペンローズ
関連サイト

リー・ミラー・アーカイブ

artnet

エリザベス・リー・ミラー(1907年4月23日-1977年6月21日)はアメリカの写真家、フォトジャーナリスト、ファッションモデル。

 

1920年代のニューヨーク・ファッションシーンでモデルとして活躍したあと、パリにわたりファッションとファインアートの写真家として活躍した。

 

第二次世界大戦時にミラーは、『Vogue』専門の戦争写真家となり、ナチス・ドイツがイギリス対して行なった大規模な空襲「ロンドン大空襲」をはじめ、1944年の「パリの解放」、ブーヘンヴァルト強制収容所やダッハウ強制収容所を取材撮影した。

略歴


幼少期


リー・ミラーは1907年4月23日、ニューヨークのポキプシーで父セオドア・ミラーと母のフローレンス・ミラー(旧姓マクドナルド)のあいだに生まれた。父はドイツ系では母カナダ系、ほかにスコットランドとアイルランド系の血も混じっているという。ミラーには弟のエリック、兄のジョンの2人の兄弟がいた。

 

父はいつもリーを可愛がり、よく彼女をモデルにしてアマチュア写真を撮影して雑誌などに投稿していたという。リーは10代を父のヌード・モデルとして過ごす。リーと父親の異常な関係はかなり長期にわたって続き、リーがマン・レイと交際するようになってからも、父親はパリに出向き、リーのヌードを撮影している。

 

なお、7歳のときに、リーはブルックリンの家族友だちと滞在しているときにレイプされ、淋病に感染しているが、事件の真相はよく分かっていない。父親が犯人ではないかとも思われている。リーは幼少期に正規の教育に問題を抱えていて、ポキプシー地区に住んでいた間はほとんどすべての学校から退学している。

 

1925年、18歳でパリに移り、ラディスラス・メジェスの舞台芸術学校で照明、衣装、デザインを学ぶ。 1926年にニューヨークに戻り、「実験的演劇」の先駆者であるハリー・フラニガンが指導するヴァッサー・カレッジの実験的演劇プログラムに参加した。

 

その後まもなく、ミラーは19歳で家を出て、マンハッタンのニューヨーク美術学生同盟に入学し、ドローイングと絵画を学んだ。

ファッションモデル時代


 

19歳のとき、マンハッタン通りを歩いているときに『Vogue』の編集者のコンデ・モントローズ・ナストに声をかけられモデルの仕事を始める。1927年3月15日号の『Vogue』の表紙でリーはイラストレーション化した形で登場する。イラストレーターはジョージ・ルパプ。これをきっかけにリーは一気にファションモデル業界で活躍しはじめる。

 

次の2年間で、リーはニューヨークで最も人気のモデルに成長し、エドワード・スタイケン、アーノルド・ゲンテ、ニコラス・ムイイ、ジョージ・ホイニンゲン=ヒューンなどの著名写真家たちが次々と彼女を撮影した。

 

しかし、エドワード・スタイケンが撮影した写真がコーテックス社の生理用品の広告に写真が使用されてしまうスキャンダルを起こしたため、ファッションモデルとしては廃業に追い込まれることになる。

 

その後、1929年にファッションデザイナーに雇われ、ルネサンス期の絵画のファッションを描くイラストレーションの仕事をしいていたが、これに飽き飽きし、写真に関心を持ち始める。

『Vogue』1927年3月15日号
『Vogue』1927年3月15日号
コーテックス社の広告
コーテックス社の広告

パリとシュルレアリスム時代


1929年、ミラーはシュルレアリストで写真家のマン・レイのもとへ弟子入りするため、パリへ移る。初めマン・レイは弟子はとらないつもりだったが、ミラーはすぐにマン・レイのモデルでコラボレーターとなり、また愛人でミューズにもなった。

 

パリ滞在中、彼女は自分専用の写真スタジオを立ち上げ、マン・レイが絵画制作で写真の仕事に取り掛かれないときに、仕事を引き継いでいたという。

 

またマン・レイとともに、彼女は「ソラゼリーション」という写真技法を発明し、シュルレアリスム運動にも積極的に参加した。

 

2人はソラゼリーションを駆使して、独特なビジュアルの写真を多数撮影した。たとえば、1930年頃にパリで撮影されたマン・レイのソラリゼーションによるミラーのポートレイトや、シュルレアリスムの仲間であるメレット・オッペンハイム(1930年)、ミラーの友人ドロシー・ヒル、無声映画のスターのリリアン・ハーヴェイ(1933年)のポートレイトなどがその一例である。

 

ソラリゼーションは、無意識の偶然が芸術に不可欠であるというシュルレアリスムの原則に合致するだけでなく、ポジティブとネガティブの極性の反対を組み合わせることで、このスタイルの非合理性や逆説的な魅力を喚起している。

 

シュルレアリスム運動参加時の彼女の親友といえば、マン・レイのほかに、パブロ・ピカソ、ポール・エリュアール、ジャン・コクトーなどがいる。ジャン・コクトーの実験映画「詩の血」でミラーは彫像姿で出演している。


マン・レイ撮影 リー・ミラー

ジャン・コクトー『血の詩』に出演するリー・ミラー(1930年)

写真家としてアメリカで独立


マン・レイのもとを去ったあと、1932年にリーはニューヨークに戻り、兄のエリック(ファッション写真家トニ・フォン・ホーンの下で働いていた)を暗室作業のアシスタントとして助手として雇い、ポートレイト写真や商業写真のスタジオを立ち上げる。

 

ミラーはラジオシティ・ミュージックホールから1ブロックのビルに2つのアパートを借りる。アパートの1つは彼女の自宅となり、もう1つはリー・ミラー・スタジオにした。

 

同年1932年に、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で開催された「近代ヨーロッパ写真展に参加。また、ブルックリン博物館で開催された「ラースロー・モホリ=ナギー、セシル・ベアトン、マーガレット・バーク=ホワイト、ティナ・モドッティ、チャールズ・シーラー、レイ、エドワード・ウェストンとの国際写真家展」に参加。

 

この展覧会を見たキャサリン・グラント・スターンは1932年3月に『パルナッソス』誌にレビューを書き、ミラーは「パリの雰囲気の中で、よりアメリカ人らしい性格を保っている」と批評している。

 

翌年の1933年にはジュリアン・レヴィ画廊で個展を開催。ミラーが撮影したポートレイト写真ではジョゼフ・コーネル、女優のリリアン・ハーヴェイやガートルード・ローレンス、ほかにヴァージル・トムソンのオペラ劇『Four Saints in Three Acts』での黒人アメリカ人などが有名である。

リー・ミラー撮影 ガートルード・ローレンス
リー・ミラー撮影 ガートルード・ローレンス
『Four Saints in Three Acts』 (1934年)
『Four Saints in Three Acts』 (1934年)

カイロとパリ


1934年にリーは、スタジオを閉め、エジプト鉄道の建築資材を購入するためにニューヨークに来ていたエジプトの実業家アジズ・エルーイ・ベイと結婚。

 

この時代リーはプロの写真家としての仕事はしていなかったが、1937年の《空間の肖像》をはじめエジプト滞在期間に撮影したプライベート写真にはシュルレアリスム的な芸術評価の高い作品が多く含まれている。

 

1937年までにリーはカイロでの生活に退屈になり、パリに戻ってくる。そこで彼女はイギリスのシュルレアリスム画家でキュレーターのローランド・ペンローズと出会う。彼とはのちに結婚した。

 

彼女の写真のうち4点《エジプト》(1939年)、《ルーマニア》(1938年)、《リビア》(1939年)、《シナイ》(1939年)が、1940年にロンドンのツヴェマー・ギャラリーで開催された展覧会「シュルレアリスムの日々」に出品された。

 

その後、彼女の写真作品が展覧会に出品されるのは1955年になってからで、ニューヨーク近代美術館の写真部門のキュレーター、エドワード・スタイケンが企画した展示「The Family of Man」で展示された。

《空間の肖像》1937年
《空間の肖像》1937年

戦場写真ジャーナリストとして活躍


第二次世界大戦が勃発してロンドン空爆が始まったとき、ミラーはローランド・ペンローズとロンドンのハムステッドに住んでいたが、友人や家族からアメリカへ戻ってくるよう請われるが、ミラーは無視する。

 

むしろこれをチャンスにして『Vogue』公式の戦場写真ジャーナリストとして新しい仕事を始めるようになる。そうして、『ロンドン空爆』の様子を見事に写真に収めて有名になった。

 

また、リーは1942年12月からアメリカを本国とする多国籍雑誌出版企業コンデナスト・パブリケーションズの従軍記者として、米軍とともに行動し、リーは『LIFE』で活躍していたアメリカの写真家デヴィッド・シャーマンとチームを組んだ。

 

2人はフランスを約1ヶ月取材し、サン・マロ城包囲戦、ノルマンディー上陸作戦、パリ開放、アルザス戦、そしてブーヘンヴァルト強制収容所やダッハウ強制収容所などのナチスの恐怖現場を写真におさめた。ミュンヘンにあったアドルフ・ヒトラーのバスタブに入って撮影したミラーの写真(撮影:デヴィッド・シャーマン)は、最も有名な写真の1つになった。

晩年


中央ヨーロッパからイギリスに戻ったあと、リーはうつ病を発症する。戦争取材が原因とするPTSDだった。その後、リーはアルコール中毒になり、将来に対して悲観的になる。

 

気休めに1946年にリーはローランド・ペンローズとアメリカを旅行し、そこでカリフォルニアにいるマン・レイのもとを訪ねる。なお、アメリカでペンローズとの間に一人息子のアントニーが妊娠していることが発覚すると、ベイとは離婚。1947年5月3日にペンローズと再婚し、彼らの息子であるアントニー・ペンローズは1947年9月に産まれた。

 

1949年に2人は、東サセックスにファーリー・ファーム・ハウスを購入。1950年代から1960年代にかけて、ファーリー・ファームは、ピカソやマン・レイ、ヘンリー・ムーア、アイリーン・エイガー、ドロテア・タニング、マックス・エルンスト、ジャン・デビュッフェといったアーティストが訪れ、芸術家たちのメッカとなった。

 

リーは『Vogue』の写真の仕事を続けつつ、写真から少しずつ距離を置くようになる。暗室に使っていたキッチンを廃棄して、料理に興味を覚え、またローランドが書いたピカソやアントニ・タピエスな伝記用の写真を撮る。しかしながら、戦争の写真、特にナチスの強制収容所の写真はずっとリーを悩ませ続け、後にアントニーは当時のリーについて「下方スパイラルが始まっていた」と話している。またリーのうつ病は、夫のダイアン・デリーアスの不倫で悪化したといわれている。

 

リーは、1977年70歳で、東サセックスのファーリー・ファーム・ハウスでがんで死去、火葬され遺灰はファーリー・ファーム・ハウスの庭に埋葬された。

リー・ミラーの自宅でシュルレアリスト達のサロンとなった「ファーリー・ファーム・ハウス」
リー・ミラーの自宅でシュルレアリスト達のサロンとなった「ファーリー・ファーム・ハウス」

年譜表


■1907年

ニューヨーク州のプーキプシーで生まれる。

 

■1925年

18歳でパリにわたり照明、衣装、舞台美術を学ぶ。

 

■1926年

アメリカに帰国。エドワード・スタイケン、ニコラス・マレイ、アーノルド・ゲンスらのモデルとして活躍。

 

■1929年

再度ヨーロッパへわたり、フィレンツェ・ローマを経てパリに落ち着く。マン・レイの弟子となり、かつ愛人となる。

 

■1930年

モンパルナスにスタジオを開設し、シャネルなどのファッションデザイナーの仕事を行う。またジョージ・ホイニンゲン=ヒューンの助手をする。

 

■1932年

マン・レイと別れ、ニューヨークに戻り、スタジオ設立。

 

■1934年

エジプト人実業アジズ・エルイ・ベイと結婚、カイロへ。

 

■1937年

ローランド・ペンローズと出会う。

 

■1939年

エルイ・ベイと実質的に離別し、イギリスへ。

 

■1940年

イギリス版『ヴォーグ』にて活躍。主としてポートレートとファッション写真。

 

■1941年

写真集『灰色の栄光 戦火のイギリス写真集』に22点の作品が掲載。

 

■1942年

戦場カメラマンとなりイギリスやドイツの戦争の写真・収容所の写真を撮影する。『ライフ』のカメラマン、デヴィッド・E・シャーマンとチームを組み多くの取材を行う。

 

■1945年

写真集『海軍婦人部隊』刊行。

 

■1947年

エルイ・ベイと正式に離婚し、すでに交際していたローランド・ペンローズと結婚、9月に長男アントニーを出産。

 

■1950年

PTSDに陥り、写真の仕事や『ヴォーグ』から離れるようになる。

 

■1953年、展覧会「頭部の驚異と戦慄」(Wonder and Horror of the Human Head)をローランド・ペンローズと企画(ロンドン・現代美術研究所)。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Lee_Miller、2020年5月7日アクセス


【美術解説】天野可淡「早逝の球体関節人形作家」

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天野可淡 / Katan Amano

早逝の球体関節人形作家


概要


生年月日 1953年
死没月日 1990年11月1日
国籍 日本
表現媒体 スカルプチャー、絵画

天野可淡(1953年-1990年11月1日)は日本の人形作家。球体関節人形作家、画家。

 

東京の世田谷区で生まれる。1974に女子美術大学に入学し、在学中より人形製作開始。手先が器用で、衣装なども瞬時に作り上げたという。

 

1981年に銀座小松アネックス「更染沙ギャラリー」初個展。1988年、ドールスペース・ピグマリオンのスタッフとなり、代表者であり人形作家である吉田良一(現在、吉田良に名前改め)とともに活動を続ける。異様なまでの気魄に満ちた球体関節人形でカリスマ的な人気を博すようになる。

 

1989年に人形作品写真集『KATAN DOLL』、1990年に『KATAN DOLL fantasm』を出版。

 

しかし、1990年11月1日午前11時10分、可淡は37歳の若さで事故により永眠。没後も人気は衰えることなく、1992年に追悼作品集『KATAN DOLL RETROSPECTIVE』が刊行され、萩尾望都、綾辻行人、高山宏、大塚英志が言葉を寄せるなど、球体関節人形の第一人者で在り続けている。

 

なお、3冊の作品集は2007年に再出版されており、2015年には人形博物館「マリアの心臓」が所蔵する人形作品を片岡佐吉が撮影した形で作品集「天野可淡 復活譚」を出版。

作品集


天野可淡 復活譚
天野可淡 復活譚
第一作品集『KATAN DOLL』
第一作品集『KATAN DOLL』
第二作品集『KATAN DOLL fantasm』
第二作品集『KATAN DOLL fantasm』
追悼人形作品集『KATAN DOLL RETROSPECTIVE』
追悼人形作品集『KATAN DOLL RETROSPECTIVE』

略年譜


 ■1953年

東京都世田谷区に生まれる。

 

■1962年

東映児童研究所第4期生となる。

 

■1974年

女子美術大学(洋画専攻)卒業(在学中より人形製作開始)。

 

■1977年

劇団民藝による「炎の人」に人形協力(人形が小道具として巡回)。

 

■1981年

12月、銀座小松アネックス「更染沙ギャラリー」にて個展。

 

■1982年

11月、吉祥寺PARCO「パルコギャラリー」にて個展。

 

■1983年

12月、渋谷PARCO「PARCOVIEW」にて個展。

 

■1984年

「第二回創作人形協会展」に出品。グランプリ受賞。

個展(画廊「荘」)

 

■1985年

「第十六回齣展」に出品(東京都美術館)。

「第一回人形達展」に出品(プランタン銀座)審査員特別賞受賞。

個展(ドイツ文化会館・OAGハウス 東京渋谷)

国立に創作人形教室設立。

 

■1986年

「東京ファッション・ウィーク 人形アーティスト56人展」に出品(池袋サンシャインシティ)

「第十七回齣展」に出品(東京都美術館)

個展(画廊「荘」、国立市)

「第二回人形達展」に出品(プランタン銀座)テクニック賞受賞

「第十二回現代童画展」に初出品(東京都美術館) 奨励賞受賞 /会友推挙により88年、89年と出品。

 

■1987年

 

「第十八回齣展に出品(会員となる/東京都美術館)

 

■1988年

ドールスペースピグマリオンのスタッフとなる。

日活ロッポニカ「悪徳の栄え」にて吉田良一氏と人形協力。

「アリスの国のアリス展」に協力出品(池袋西武)

個展(画廊「荘」、国立市)

「第十三回現代童画展」に出品

 

■1989年

「第二十回齣展」に出品(東京都美術館)

「ピグマリオン展」に出品(プランタン銀座)

10月、第一人形作品集『KATAN DOLL』(トレヴィル)出版。

12月、六本木ストライプ美術館にて個展。

「第一四回現代童画展」に出品 

 

■1990年

「第二十一回齣展」に出品(東京都美術館)

「不思議の国のアリス展」に出品(所沢西武)

8月、第二人形作品集『KATAN DOLL fantasm』(トレヴィル)出版。

東宝系映画『咬みつきたい/ドラキュラより愛を』タイトルバック用人形制作。

「アガサ・クリスティーのミステリー王国展」へ出品。(名古屋PARCO・パルコギャラリー)(船橋西武10Fアートフォーラム)(大阪八尾西武ホール)

11月1日、午前11時10分 永眠。

11月、「第十五回現代童画展」に遺作出品。

12月、国立画廊「壮」にて遺作展示会。

 

■1992年

天野可淡追悼人形作品集『KATAN DOLL RETROSPECTIVE』出版(トレヴィル)

 

■2002年

「天野可淡展」(人形博物館・マリアクローチェ 東京御徒町)

 

■2004年

「球体関節人形展」へ親族および関係者の協力を得て17点出品(東京都現代美術館)

 

■2007年

「天野可淡展」(人形博物館・マリアの心臓 東京渋谷)

作品集『KATAN DOLL』、『KATAN DOLL fantasm』、『KATAN DOLL RETROSPECTIVE』再出版(トレヴィル)

 

■2015年

「天野可淡展」(人形博物館・マリアの心臓 京都大原)

 

■2016年

マリアの心臓企画展「聖キアーラの予兆 」(東京・銀座)


■参考文献

・「天野可淡 復活譚」片岡佐吉著 KADOKAWA


【現代美術】エルネスト・ネト「ポスト抽象ミニマリズム」

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エルネスト・ネト / Ernesto Neto

ポスト抽象ミニマリズム


概要


エルネスト・ネト(1964年生まれ)はブラジルの現代美術家。

 

1988年にスコットランドで伸縮性のある布を使って作品を制作して活動を開始。1992年にサンパウロ近代美術館で個展を行い、1995年から海外を中心に個展も行う。

 

2001年にヴィネツィア・ヴィエンナーレに同じブラジルの美術家のヴィック・ムニーズと参加。ネトのインスタレーションはブラジル館で注目され、またベネチアアーセナルの国際展覧会に参加。

 

ネトの作品は「ポスト抽象ミニマリズム(beyond abstract minimalism)」と形容される。ネト自身は、1950年代から60年代にかけてブラジルで発生した前衛運動「新具体主義運動」を継承しているという。

 

作品は鍾乳洞のように巨大で、また柔らかく自然や生物のような形状をしており、彼の作品は鑑賞者が触ったり、突っついたり、中に入ったり、歩くことができる。「ライクラ」という伸縮性のある布に発泡スチロール小球や香辛料を詰めて臓器や粘膜を想起させる巨大なオブジェが特徴。

 

特に日本で人気が高い現代美術家で、2001年に「スペース・ジャック!」展(横浜美術館アートギャラリー)で初めて紹介された後、川村記念美術館、金沢21世紀美術館、越後妻有トリエンナーレ、豊田市美術館など、数多くのグループ展に参加している。

 

2012年には表参道のエスパス・ルイ・ヴィトン東京で「エルネスト・ネト展」を開催。精子を表す通路部分と卵子を表す居住空間という2つの要素で構成された巨大なインスタレーション作品『A vida é um corpo do qual fazemos parte(われわれは生という体の一部)』

は非常に独創的だった。


参考文献

Wikipedia

TANYA BONAKDAR GYALLERY


【美術解説】ヘルムート・ニュートン「戦後ファッション・ヌード写真家の第一人者」

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ヘルムート・ニュートン / Helmut Newton

戦後ファッション・ヌード写真家の第一人者


概要


生年月日 1920年10月31日
死没月日 2004年1月23日
国籍 ドイツ系オーストラリア
表現媒体 写真
関連サイト

公式サイト

Artsy

Artnet

ヘルムート・ニュートン(1920年10月31日-2004年1月23日)はドイツ出身のオーストラリアの写真家。

 

戦後のファッション・フォトグラファーとしておもにアメリカとヨーロッパで活動した人物。『Vogue』をはじめ『Playboy』『Harper's Bazaar』としたファッション誌上で活躍。

 

挑発的で、エロティックで、黒と白のコントラストの強い写真が特徴的で、サディズム、マゾヒズムとフェティシズムをともなったエロチックなスタイルの写真を確立。

 

1980年代の「ビッグ・ヌード」"Big Nudes" シリーズは、彼のエロチックな都市のスタイルというテーマが頂点に達した作品とされる。

略歴


幼少期


ニュートンは、ドイツのベルリンで、アメリカ人の母のクララとボタン工場経営のユダヤ系の父マックス・ノイシュテッターのあいだに生まれた。家族は敬虔なユダヤ教徒だった。

 

ニュートンはハインリヒ・フォン・トライチュケやベルリンにあるアメリカン・スクールに入学で。12歳のときに写真に興味をもちはじめ、カメラを購入。16歳のときにベルリンのシュルレアリスム写真家イーヴァ(エルザ・シモン)のもとで写真を本格的に学びながら働くようになる。

 

ニュルンベルク法の成立により、ドイツでユダヤ人に対して弾圧が始まると、ニュートンの父は工場を経営できなくなる。さらに1938年11月9日の「水晶の夜」事件でニュートンの父は拘束され強制収容所へ送られる。最終的にニュートン一家はドイツを去り、亡命することになった。

 

ニュートンの両親は南米へ亡命したが、ちょうどニュートンは18歳になり自分のパスポートが発行されたため、1938年12月5日にドイツを去り、中国へ向かうことにする。イタリアのトリエステ港でナチスから逃れる約200人の亡命者とともにコンテ・ロッソ船に乗り込んだ。

 

当初は中国へ行く予定だったが、シンガポールにとどまることになる。そこで最初は『海峡タイムズ』で写真家として一時的に働き、その後、ポートレイト写真家として活躍するようになる。

オーストラリアでの生活


オーストラリアのバレリーナことローレルマーティンのポートレイト(1952年)
オーストラリアのバレリーナことローレルマーティンのポートレイト(1952年)

ニュートンはシンガポールで、イギリス当局によって拘留され、1940年9月27日に客船クイーン・メリーでオーストラリアのシドニーへ送られる。

 

武装勢力の管理のもとタトラのキャンプで非抑留者として収容される。1942年に解放されると北部ビクトリアで果実摘みの仕事に一時的に就いたあと、1942年にオーストラリア軍隊に入隊。輸送部隊としてトラック運転手として働く。

 

1945年、終戦してからはイギリス人となり、名前をノイシュテッターからニュートンに変更。1948年に女優のジューン・ブラウンと結婚。のちに彼女もアリス・スプリングスという名前で写真家として成功をおさめている。

 

1946年にニュートンはメルボルンの流行に関心のある人が集まる街にスタジオを借り、戦後景気にのってファッション業界や劇場写真家として活躍しはじめる。作品は『PLAYBOY』誌を始めとする雑誌に載るようになる。

 

1953年5月に同じナチスに追われてオーストラリアに逃れたドイツ出身の写真家ヴォルフガング・ジーバースと共同展示を開催。『写真のニューヴィジョン』というタイトルでコーリン・ストリートにある連邦ホテルで展示を行なった。

 

おそらく、オーストリアにおいて初めての新即物主義の影がうかがえるものだったという。

ロンドン1950s


1956年にオーストラリアからロンドンへ移動し、雑誌『Vogue』と契約を結ぶ。この頃からファッション・フォトグラファーとしての評判を高めていく。1956年1月発行の雑誌『Vogue』別冊オーストリア・ファッション号で解説を行うなどして活躍。『Vougue』と12ヶ月間の契約が終了すると、ロンドンを去り、パリへ活動を拠点を移す。 

パリへ


1961年にパリに移動し、ファッション・フォトグラファーを続けながら、さらに広範囲な仕事を始める。一般的なニュートンの作品はパリ時代に仕事をしていたフランス版『Vougue』や『Harper's Bazaar』とされている。

 

この頃から、ニュートンはサディズム、マゾヒズムとフェティシズムをともなったエロチックなスタイルの写真を確立し始める

 

1980年代の「ビッグ・ヌード」"Big Nudes" シリーズは、彼のエロチックな都市のスタイルというテーマが頂点に達した作品とされる。

晩年


2003年10月、ニュートンは最愛の故郷であるベルリンのプロイセン文化財団に多くの写真コレクションを寄贈。晩年は、モンテカルロとロサンジェルスで暮らすことが多かった。

 

2004年1月23日、ハリウッド、シャトー・マーモントで自動車事故のため死去。遺灰はベルリンに埋葬された。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Helmut_Newton、5月7日アクセス

【雑誌】アンディ・ウォーホル「インタビュー」

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インタビュー / Interview

アンディー・ウォーホルの雑誌


ジョディ・フォスター,1977年
ジョディ・フォスター,1977年

概要


『インタビュー』は1969年後半にアンディ・ウォーホルとイギリス人ジャーナリストのジョン・ウィルコックが創刊したアメリカの雑誌。雑誌のニックネームは「ポップの水晶」。

 

世界で最も有名なセレブリティ、芸術家、ミュージシャンなどのクリエイターたちと濃密なインタビュー記事を行うのが特徴で、インタビューはいつも未編集かエキセントリックなウォーホルのデザインで編集される。

 

ただし、晩年にウォーホルが編集に関わらなくなると、ボブ・コレセロ主導の一般的な編集方針に変わった。初期の流通は身内の人だけに配られていた無料誌だった。

公式サイト

サルバドール・ダリ
サルバドール・ダリ
デヴィッド・ボウイ
デヴィッド・ボウイ

歴史


アンディ・ウォーホル時代


初期の頃は、『インタビュー』の無料コピーが「群衆」に配られることが多かった。これが雑誌の発行の始まりだった。 ウォーホルが雑誌の日常的な雑務から手を引くようになると、彼の生涯の終わりに向けて、編集者ボブ・コラセロののもとでより伝統的な編集スタイルで雑誌編集が行われるようになった。

 

しかし、ウォーホルは雑誌のアンバサダーとして活動を続け、路上で通行人に配布したり、ニューヨークのマンハッタンの路上でその場しのぎのサイン会を開催したりした。

 

この雑誌の特徴となった『インタビュー』のクリエイティブな表紙は、1972年から1989年までアーティストのリチャード・バーンスタインが担当した。

ブラント出版時代


雑誌のフォーマットは、60%が特集、40%が光沢のある広告だった。1987年にウォーホルが亡くなるとブラント出版社から発行されるようになる。イングリッド・シシーが編集をしていたが、彼女とピーター・ブラントの元妻サンドラが恋人同士となり雑誌をさるまでの18年続いた。その後は、ブラントの親会社であるブラント出版社の株式の半分を売却された。

2008-2018


『インタビュー』は2008年9月、共同編集ディレクターのファビアン・バロンとグレン・オブライエンのもとで、ケイト・モスを表紙にして再スタートした。ステファン・ムーラムとクリストファー・バロンがそれぞれ編集長と編集長を務めた。この出版物のコンテンツは、オンラインとiTunesで利用できるアプリ「Other Edition」を介して閲覧することができる。

 

2017年現在、ファビアン・バロンが編集長、カール・テンプラーがクリエイティブ・ディレクター、ニック・ハラミスが編集長を務めている。2013年12月、ステファン・ムーラムはインタビューを辞めて、Harper's Bazaarのエグゼクティブエディターに就任。キース・ポロックは2014年から2016年まで編集長を務めた。

 

2018年5月21日、出版物が休刊し、2018年末までに印刷版とウェブ版の両方の出版物を終了することが発表された。また、同出版は連邦破産法第7章に基づく破産と清算を申請した。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Interview_(magazine)、2020年5月8日アクセス


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