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【写真】フランチェスカ・ウッドマン「早逝のシュルレアル・フォトグラファー」

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フランチェスカ・ウッドマン / Francesca Woodman

早逝のシュルレアル・フォトグラファー


概要


生年月日 1958年4月3日
死没月日 1981年1月19日
国籍 アメリカ
表現媒体 写真
ムーブメント 芸術写真
関連サイト Artnet

フランチェスカ・シュテルン・ウッドマン(1958年4月3日-1981年1月19日)はアメリカの写真家。

 

女性モデルまたは自分自身をモデルにしたモノクローム写真が特徴。写真の多くはヌードでぼやけ、周囲の背景と境界性があいまいで融合したような状態で、顔は全体または一部が隠れた状態になっている。

 

ウッドマンは、象徴主義、シュルレアリスム、バロック、ファッション写真の影響を受けており、モロクロームと撮影地の無機質さもあいまって、どこか時代や時間を超越したものとなっている。

 

ウッドマンは異なるさまざまなカメラやフィルム形式を利用しているが、写真の多くは2-1/4✕2-1/4インチの四角の中判カメラを使っていた。少なくとも10000枚のネガを生存中に作成しており、それらは両親は保管している。ウッドマンの作品は両親とロンドンのヴィクトリア・ミロ画廊、ニューヨークのマリアン・グッドマン画廊が管理している。

 

現在、ネガのうち800枚ほどが印刷され、120ほどの作品が一般に流通したり、展示されている。ウッドマンの写真作品の多くは8✕10インチ(20✕25cm)のサイズで小さい。これは「鑑賞者と写真の間に親密な経験を生成するため」のサイズだという。

 

13歳のときから写真を撮り始め、若くから批評家から称賛され、注目を集めていたが、1981年の22歳で投身自殺。

略歴


ウッドマンはコロラド州デンバーで、アーティストのジョージ・ウッドマンとベティ・ウッドマン(旧姓アブラハムス)の間に生まれた。 母はユダヤ人、父はプロテスタントの出身である。兄のチャールズは後に電子美術の准教授になった。

 

ウッドマンは13歳で初めて自画像を撮影し、亡くなるまで写真を撮り続けた。1963年から1971年までコロラド州ボルダーの公立学校に通っていたが、2年生になるまではイタリアに通っていた。

 

1972年にマサチューセッツ州の私立全寮制学校であるアボット・アカデミーで高校に入学。そこでは、彼女は彼女の写真撮影技術につとめ、さらに芸術に興味を持つようにもなった。

 

アボット・アカデミーが1973年にフィリップス・アカデミーと合併したあと、ウッドマンは1975年に公立のボルダー・ハイスクールを卒業。 1975年まで、彼女は家族と一緒に夏をイタリアで過ごした。

 

1975年からロードアイランド州プロビデンスのロードアイランド・スクール・オブ・デザイン(RISD)に通い、1977年から1978年にかけてRISDの優等生プログラムでローマに留学。

 

1977年から1978年にかけて、RISDの優等生プログラムでローマに留学。流暢なイタリア語を話していたため、イタリアの知識人や芸術家と親しくなることができた。

 

1979年にニューヨークに移住。1979年の夏、ワシントン州スタンウッドで過ごした後、ピルチャック・グラス・スクールでボーイフレンドを訪ねる。「写真のキャリアを築くために」ニューヨークに戻る。

 

作品のポートフォリオをファッション写真家に送ってみたが、どこからも返信はなかったという。1980年の夏、彼女はニューハンプシャー州ピーターバラのマクダウェル・コロニーでアーティスト・イン・レジデンスに参加する。

 

1980年後半、ウッドマンは仕事で注目を集めることができなかったことと、壊れた人間関係のためにうつ病になる。1980年秋に自殺未遂を起こしたが、その後はマンハッタンで両親と一緒に暮らしていた。

 

1981年1月19日、ウッドマンは22歳でニューヨークのイーストサイドにあるビルのロフトの窓から飛び降りて自殺。彼女の父親は、ウッドマンの自殺は、全米芸術基金(National Endowment for the Arts)からの資金援助申請が拒否されたことと関係していると示唆している。

 

彼女の写真に対する周囲の反応の鈍さと、壊れた人間関係が、彼女を深いうつ状態に追い込んだ。

作品


写真:1972-1980


ウッドマンはそのキャリアの中で様々なカメラやフィルムフォーマットを使用していたが、彼女の写真のほとんどは中判カメラで撮影されたもので、2-1/4×2-1/4インチ(6x6cm)の正方形のネガが撮影されている。

 

ウッドマンの両親が管理しているウッドマンの財産は800点以上のプリントで構成されているが、2006年の時点では約120点しか公開・展示されていない。

 

ウッドマンのプリントのほとんどは8インチから10インチ(20cmから25cm)以下のもので、「見る者と写真の間に親密な体験を生み出すように働きかけている」という。

映像:1975-1978


RISDではウッドマンはビデオカメラとVTRを借りて、彼女の写真に関連したビデオテープを作成している。自分の裸体を方法論的に白くしたり、胴体を古典的な彫像のイメージと比較した映像を制作している。

 

これらのビデオ作品の一部は、2005年にフィンランドのヘルシンキ市立美術館とマイアミのシスネロス・フォンタナルス美術財団で、2007年から2008年にロンドンのテート・モダンで、そして2011年にはサンフランシスコ近代美術館で上映された。

 

2011-2012年の展覧会では、「フランチェスカ×2」、「彫刻」、「コーナー」、「トレース」、「マスク」と題して、それぞれ23秒から3分15秒の長さのビデオ作品が上映された。


■参考文献

Wikipedia

TATE



【画集解説】山本タカト「ヘルマフロディトゥスの肋骨」

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耽美画家への成長を遂げた記念碑作品

2008年発売の第五画集


吸血鬼シリーズ


「ヘルマフロディトゥスの肋骨」は山本タカトの第五作品集。2008年にエディション・トレヴィルより発行(発売:河出書房)。出版社の説明によれば日本の耽美アートを代表する画家へと成長を遂げた記念的作品集であるという。また山本タカト画集デビュー10年目に放った記念碑的モノグラフ。

 

本書で収録されている作品で最も多いのは「吸血鬼」シリーズ。吸血鬼はもともと山本タカトが幼少の頃に最も影響を受けており、創作の原点となる主題。ページの3分の1ほどは吸血鬼作品で占められている。耽美な少年吸血鬼や眠れる森の王子が現れる。

「吸血鬼」(2006年)
「吸血鬼」(2006年)

緊縛少女シリーズ


次に目立つのは緊縛少女シリーズ。吸血鬼シリーズは比較的BLカラーが強く、身体の露出は少なめだが、緊縛少女シリーズでは露骨に乳房や性器が描かれている。

 

臓物や植物に身体がグロテスクに変形といったデフォルメや、ナイフやドクロやさまざまな小道具やオブジェが配置されるといった詩的表現は少なく、純粋にエロティシズム性の強いSM絵画となっている。

「霧の中」(2006年)
「霧の中」(2006年)
「囚われて」(2006年)
「囚われて」(2006年)

ヘルマフロディトゥス


後半は表紙にもなっている「ヘルマフロディトゥス」シリーズ。おそらく本作品の一番の見どころ。

 

前作品集では身体部分がグロテスクに植物化していたが、本作品では以前の植物化された身体が骨、皮、内臓、血管、肉に変容して再身体化。色彩全体は炎や血のように赤みがかっており、山本タカト作品においてはかなりグロテスクなシリーズに属する。

 

ちなみにヘルマプロディートスはギリシア神話に登場する両性具有の神である。

「ヘルマフロディトゥスの醸成」(2008年)
「ヘルマフロディトゥスの醸成」(2008年)
「聖域の生成変化」(2008年)
「聖域の生成変化」(2008年)

【美術解説】サルバドール・ダリ「ダリの夢」

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ダリの夢 / Dreams of Dalí

ダリ作品を仮想現実空間で楽しめる


概要


『ダリの夢』は、サルバドール・ダリが1933年から1935年にかけて制作した絵画『古典解釈 ミレーの「晩鐘」』を元にした仮想現実体験空間。

 

2016年にフロリダ州セントピーターズバーグにあるサルバドール・ダリ美術館で行われている展覧会「Disney and Dalí: Architects of the Imagination(ディズニーとダリ:想像の建築)」で楽しむことができた。

 

鑑賞者は、3D化されたダリの仮想現実空間を360度歩きまわることができ、塔の中を歩いたり登ったりすることも可能。元の作品には存在しない宇宙象縄跳びをする少女も登場するという。

 

また、ネット上でYouTubeに360度視点を変えながら見ることができるPV『ダリの夢:360°』が公開されている。プレイヤーをマウスで左右上下にドラッグすることで視点を変更することができる。2029年12月31日まで遊ぶことができる。

『古典解釈 ミレーの「晩鐘」』とは


サルバドール・ダリ『古典解釈 ミレーの「晩鐘」』(1933-1935年)
サルバドール・ダリ『古典解釈 ミレーの「晩鐘」』(1933-1935年)

『古典解釈 ミレーの晩鐘』は19世紀のフランスの巨匠のジャン=フランソワ・ミレーの『晩鐘』をダリが独自に解釈した作品。

 

ダリは若かった頃、世界で最も有名な絵画の1つであるジャン=フランソワ・ミレーの『晩鐘』の絵は、ポストカードやティーカップやインク入れなどさまざまな日用品に印刷されていた。19世紀後半のこの絵は、農作業を終えた農地で頭を垂れて祈りを捧げる経験な夫婦を描いたものである。

ミレー『晩鐘』(1855−57年)
ミレー『晩鐘』(1855−57年)

多くの人はこの絵に対して普通、センチメンタルなものを感じるだろう。しかしダリは少し異なる。

 

ダリの解釈によれば、胸に祈りを捧げて頭を垂れている女性は、無意識の性的欲求を示しており、カマキリのポーズを示して男性を襲おうとする女性の性的パワーのあらわれだという。ダリは女性の中に眠る官能性に秘められて危険性とカマキリに関連付けている。

 

一方の男性は帽子で股間を隠しており、頭をうなだれているが、これは男性の性的抑圧、または性的不安を表現しているものだという。

 

本作では、この夫婦は月明かりに照らされたフィゲラス近郊のアンボルダ平原にそびえたつ古代の建築物の廃墟として描いている。本来は岩石だが廃墟に置き換えている理由として、アーノルド・ベックリンの「死の島」を参照している可能性が大きい。

 

またダリにとっての女性とは支配的なパートナーであるため、本作の女性は「晩鐘」の女性よりも背が高く描かれている。

 

絵画の前景には、大人と子どもの小さなシルエットが描かれている。この子どもがダリで、大人はダリの父親である。なお廃墟の横に座っているのはダリの乳母だという。


サルバドール・ダリに戻る

 

参考文献

・ダリ回顧展生誕100週年記念 上野の森美術館

オキュラスリフトで散策する、「ダリの夢」


【作品解説】マン・レイ「涙」

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涙 / Tears

芝居じみた大きな涙


マン・レイ「涙」(1932年)
マン・レイ「涙」(1932年)

概要


作者 マン・レイ
制作年 1932年
サイズ 22.9 × 29.8 cm
メディウム ゼラチン、シルバープリント

《涙》は、1932年にかけてマン・レイによって制作された写真シリーズ。マン・レイ作品の中で最も評価の高い作品の1つ。

 

オリジナルプリントは、ロンドンのサザビーズで、2000万円で落札された。片目だけにトリミングされたバージョン「ガラスの涙」も存在している。

 

この作品の趣旨は「芝居」であるという。女性は苦悩を表すため悲しげに上方を見つめ、マスカラで装飾された目から涙を流している。しかし、大きく光り輝く涙は、一見すると悲しみを誇張するためのように見えるが、これは本物の涙ではなくガラス玉である。

 

なお、この女性の顔は人間ではなくファッションマネキンだという。マネキンを利用しているのは、偽りの涙を演出させるためだという。また、マン・レイは静物写真に挑戦することによって、現実と非現実を探求していたといわれる。

 

これは1932年に別れたマン・レイの恋人リー・ミラーとの関係が深い作品で、彼女と別れた後にすぐに制作された。マン・レイは彼女への復讐として、この作品を制作したといわれる。

 

マン・レイの作品において、目は内面を表現するための重要なモチーフで、彼の美術哲学における中心的なコンセプトである。


マン・レイに戻る

 

■参考文献

Larmes (Tears) (Getty Museum)、2020年5月9日アクセス

https://www.manray.net/、2020年5月9日アクセス


【画集解説】山本タカト「キマイラの柩」

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平成耽美主義シリーズ最終形態

過去、現在、そして未来を象徴する第六画集


概要


「キマイラの柩」は山本タカトの第六作品集。2010年に2008年にエディション・トレヴィルより発行(発売:河出書房)。

 

肉体そのものが宿す荘厳なバロック的様式美の発見、マニエリスム的装飾美の追求、キャンバスほか新たな画材の採用等、幻想画家山本タカトの新生面を開示する意欲的作品群を収録。爛熟を極めた平成耽美主義による表題志向的作品群の集大成

 

<グロテスク><アラベスク>の画家山本タカトの過去、現在、そして未来を象徴する第6作品集!

 

本作品集を山本タカトは「平成耽美主義の集大成」と位置づけているように、過去作品集で描かれたさまざまな表題(ヘルマフロディトス、アリス、吸血鬼、双生児、環、江戸の怪奇譚、戦国時代)が現れる。また「キマイラの柩」から使用している画材やキャンバスが変化。そのため、これまでよりポップな色調になっている。

 

発展するヘルマフロディトス


「双児の薔薇」
「双児の薔薇」

目玉は前作の「ヘルマフロディトス」シリーズの延長にある作品群。ヘルマフロディトスは両性具有という意味。

第五集では、あくまで1つの身体に男性器と女性器が融合した両性具有者としてヘルマフロディトスは描かれていたが、今回は男女のおかっぱシャム双生児として描かれている。いまだ結合しているものの、男性の身体と女性の身体の分離が始まっているように感じるのが大きな違いである。

 

そして全体的にはシャム双生児の左右対称性にあわせるかのようにアラベスク的な幾何学模様が特徴である。

 

少し気になるのは「永劫回帰の扉」で、耽美な雰囲気のなかに違和感があるようにクマのぬいぐるみが描かれていることだ。

「永劫回帰の扉」
「永劫回帰の扉」

グロテスクからアール・ヌーヴォーへ


前回のような赤いヘルマフロディトゥス作品もかなりの点数が収録されているが、内臓、肉、血管といったグロテスクな印象は薄れ、アール・ヌーヴォー的な流線的装飾に変化、さらに画材の変化とあわせてこれまでよりポップ調に。「INNOCENCE」が代表的な作品だが、これは京極夏彦の「死ねばいいのに」の挿絵としても使われていることもあり、いつもより商業用に描いているのかもしれない。ほかに「思春期」などがある。

「思春期」
「思春期」

なお山本タカトの代名詞である「平成耽美主義」シリーズは、第六作品「キマイラの柩」をもって完結とされている。2015年に発売された「ネクロファンタスマゴリア ヴァニタス」はこれまでの平成耽美主義シリーズのオムニバス画集(プラス新作)であり、シリーズ最新画集とは少し異なる点に注意したい。平成耽美主義シリーズのまとめて見たいという初心者には「ネクロファンタスマゴリア ヴァニタス」をおすすめする。

【作品解説】アンリ・マティス「緑の筋のあるマティス夫人の肖像」

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緑の筋のあるマティス夫人の肖像 / Green Stripe

マティスの最も有名な前衛ポートレイト


概要


作者 アンリ・マティス
制作年 1905年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 40.5 cm × 32.5 cm
コレクション コペンハーゲン国立美術館

《緑の筋のあるマティス夫人の肖像》は、1905年にアンリ・マティスによって制作された油彩作品。アンリ・マティスの代表作であり、20世紀初頭の前衛ポートレイト作品の代表。40.5cm×32.5cm。現在はデンマークのコペンハーゲン美術館が所蔵している。

 

フォーヴィスムを代表する作品の1つで、伝統に縛られない色彩の自立、画家の感情が造形よりも強烈な色彩で表現している。

 

顔の真ん中に太い緑のすじが描きこまれており、顔の左右、背景の左右と上下は赤や緑を中心として黄、紫、紺などの原色の激しい筆使いで描かれている。明るい色と冷たい色を同時に強調して使うことにより、マティス自身、またはマティス夫人の内面を表現している。

 

モデルはマティス夫人ことアメリー・パレイルである。アメリーの顔は実際はこんな顔ではないが、アメリーの印象を説明するためにこのような表現になったという。

 

マティスは作品について「こんな人に出会ったら私も逃げ出すだろう」と他人事のように話している。

画面中央がマティス夫人。左はマティス。
画面中央がマティス夫人。左はマティス。

【美術解説】カミラ・D・エリコ「不気味な生物と少女の不安」

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カミラ・D・エリコ / Camilla d'Errico

少し不気味な生物と少女の不安


概要


カミラ・D・エリコはイタリア系カナダ人のマンガ家、イラストレーター、画家、美術家。ポップシュルレアリスト。現在、カナダのバンクーバーを基盤に活動をしている。

 

D・エリコは、「不安」という概念に関心を抱き、「不安」とを形状化し、また色や質感を与えて具現化している。マンガに最も影響を受けた造形で、タコやイカなど海中生物を中心とした少し不気味な生物がまとわりついた少女のポートレイトが特徴。

 

アート活動基盤の中心は美術業界、およびマンガ業界。おおよそマンガ、イラストレーション、画業の3つで生計を立てているという。ただ、非常に多作なアーティストとしてよく知られており、最近では長編映画やビデオゲームなどのエンタテイメント企業とも仕事をしたり、ライセンス事業を通じて雑貨や家具関係の仕事もしている。その彼女の膨大な仕事履歴はレジュメを参照。

 

仲のよい同世代のポップシュルレアリストとして、オードリー・川崎エイミー・ソルがいる。D・エリコを含めてこの3人がヤング・ポップシュルレアリスト(1980年前後生まれ)の代表的なアーティストとみなされている。

略歴


D・エリコは、オンタリオ州のオタワで生まれた。両親はカナダに移住してきたイタリア出身の移民だった。子ども時代にD・エリコは土曜の朝に放送されるカートゥーン・アニメやマンガ、ファンタジックな要素の入った落描きに関心を持っていた。

 

キャピラノ大学に入学し、アドビ・フォトショップといったデジタル・アートの技術を学び、本格的に芸術活動を始める。また同時に、ドローイング、物語創作、マンガ創作なども独学で勉強をしていたという。

 

出勤して朝の9時から夕方の5時まで働く生活だけは嫌だったため、マンガ家になることを決意。1998年に毎年カリフォルニア州サンディエゴで開催されるアメリカ最大のコミケ『コミコン・インターナショナル』に初参加する。これ以降、本格的な創作活動を始める。

 

2001年にマンガを描きはじめる一方で、キャピラノ大学でイラスト&デザインの学部を卒業。その後、初めてプロとしてマンガの仕事を始めたのは、シアトル・ニューヨークを基盤としたマンガの出版社『Committed Comics』の『Threads』シリーズだった。

 

絵描きとしてのキャリアは2006年から。ギャスタウンにあるバンクーバーズ・エイデン・ギャラリーの展示が初めてとなる。2007年からD・エリコは、ロサンゼルス、ニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴ、バンクーバーなどアメリカとカナダの両国をメインに絵描きとしての活動を積極的に始める。この頃からポップシュルレアリストとして認知されるようになった。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Camilla_d%27Errico、2020年5月9日アクセス


【美術解説】清水真理「ポップでゴシックな球体関節人形」

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清水真理 / Mari Shimizu

ポップシュルレアリスム・ドール


概要


清水真理は日本の人形作家。熊本県天草出身。西欧・東欧の宗教美術や日本の土着的文化を取り入れて作品を制作している。見世物小屋、牢獄、鳥かごのようなものを身体に宿したシュルレアリスム風な球体関節人形が特徴である。人形作家以前はアニメーション作家として知られている。

 

2000年に、バンド『ムック』のCDジャケットに人形写真が使われ注目を集めるようになる。テレビドラマ『赤い糸の女』(東海テレビ)や「カラマーゾフの兄弟」(フジテレビ)などさまざまなメディアへ人形を提供。

 

2014年に架空の人形と自身のリアリティを融合したシュルレアリム個展「ポップ・シュルレアリスム宣言」を開催。清水によれば、2013年にイタリア旅行した際、たまたまクリスチャン・アンダーソンの『Pop Surrealism』に出会い影響を受け、その後、自分の属性を表明する意図として同語を引用。90年前にナチス影響下のドイツで作られたベルメールの作品と現代日本の球体関節人形をいつまでも同じ地平で語ることに疑問を感じ、区別する意図もあったという。

 

2015年には映画監督・蜂須賀健太郎によるダーク・ファンタジー映画『Alice in Dreamland アリス・イン・ドリーム』へ人形を提供。この映画は清水の球体関節人形を撮影、キャプチャし、コンピュータ上でフラッシュ技法とカット・アウトという技法を併用して作ったアニメーションである。清水は映画用に約20体の人形を制作。

 

2016年にはロサンゼルスで個展を開催。現地でポップシュルレアリスムの源流に触れる。

 

また2000年より人形教室アトリエ果樹園開講している。人形教室生徒募集中。

おもな個展


2016年 清水真理個展「アリス・イン・ドリームランド」(台北・ジュンク堂光復南路店)

2016年 清水真理個展「滅びの美学」(ロサンゼルス・HIVE Gallery and Studio)

2016年 清水真理個展「Wachtraum〜白昼夢〜」(東京・スパンアートギャラリー)

2014年 清水真理 個展「Beauty & The Beast」(大阪・乙画廊)

2014年 清水真理個展「INNOCENT」(東京・銀座人形館Angel Dolls)

2014年 清水真理個展「驚異の小宇宙 vol.1 ルドルフの本棚」(東京・JUDITH ARTS & ANTIQUES)

2014年 清水真理個展「ポップ・シュルレアリスム宣言」(東京・ヴァニラ画廊)

2013年 清水真理個展「Labyrinthos~迷宮~」(大阪・乙画廊)

2013年 清水真理個展「Memories~思い出の少女たち~」(東京・銀座人形館Angel Dolls)

2013年 清水真理20週年記念個展1993〜2013「St.Freaks 異なる異形」(東京・ギャラリー新宿座)

2012年 清水真理個展「えすぺらんさ〜希望〜」(香川県小豆島・MeiPAM)

2012年 清水真理個展「Epiphany〜礼賛〜」(大阪・乙画廊)

2012年 清水真理個展「Primavera〜プリマヴェーラ〜」(東京・銀座人形館Angel Dolls)

2012年 清水真理個展「Metamorphose〜変容〜」(東京・ヴァニラ画廊)

2011年 清水真理個展「花物語」(東京・銀座人形館Angel Dolls)

2011年 清水真理個展「NIRVANA~涅槃〜」(東京・パラボリカ・ビス)

2011年 清水真理個展「奇妙な動物園」(東京・ペイ・デ・フェ)

2010年 清水真理個展「片足のマリア〜Strange Angel Garden〜」(東京・パラボリカ・ビス)

2010年 清水真理個展「Secret Garden」(東京・銀座人形館Angel Dolls)

2009年 清水真理個展「Victorian Nightmare Garden〜もう一つのアリス」(東京・パラボリカ・ビス)

2009年 清水真理個展「Blue Monday」(東京・銀座人形館Angel Dolls)

2008年 清水真理個展「聖書と木馬」(東京・青木画廊)

2008年 清水真理個展「ノスタルジア」(東京・銀座人形館Angel Dolls)

2006年 清水真理個展「Fairy Tail」(東京・銀座人形館Angel Dolls)

 

 

おもなグループ展


2015年 「華宵少女と人形幻想展」~清水真理と弟子たち~(愛媛・高畠高畠華宵大正ロマン館)

2015年 「幽霊少女/GHOST LOLITA」(東京・画廊 珈琲 Zaroff)

2015年 ザッヘル=マゾッホに捧ぐ「毛皮を着たヴィーナス」― 倒錯されたエロチシズムの光と影 ―(東京・スパンアートギャラリー)

2014年 清水真理×泥方陽菜×林美登利 三人展「エレゲイア」(東京・ヴァニラ画廊)

2014年 「夜想#人形展」(東京・パラボリカ・ビス)

2014年 「人形偏愛主義〜ヒトガタへの受胎告知〜」(東京・Bunkamura Gallery)

2014年 「夢―こんな夢を見た」(東京・画廊 珈琲 Zaroff)

2014年 清水真理×向川貴晃 二人展「吸血鬼幻想」(東京・スパンアートギャラリー)

 

 

人形提供・コラボレーション


【映画】「Alice in Dreamland アリス・イン・ドリームランド」

【舞台】虚飾集団廻天百眼「少女椿」ほか

【音楽】ムック CDアートワーク


その他 セーラー服おじさんの撮影

略歴


清水真理は、チチハル出身でバブル後にアルコールとギャンブル依存症で借金を抱え、現在は生活保護を受けている父と、次々と新興宗教に入信してはお布施を繰り返していた母のあいだに、熊本県天草で生を受けた。

 

祖父は中国に満州があった時代にハルピンでキャバレーを経営し、戦後は天草でキャバレーを開業。祖父母、叔父、叔母、両親すべて離婚歴があり、ほかに児童養護施設で育った従兄弟、近親婚とトラウマで成人してから発狂した親戚などの血統を持つという。

 

清水は、こうした家庭環境に嫌気がさして、家出同然で上京し、多摩美術大学美術学部二部芸術学科映像コースに入学する。大学時代にブラザーズ・クエイやヤン・シュヴァンクマイエルの人形アニメーションに影響を受け、自身も人形アニメーションの制作を始めるようになる。

 

人形を被写体に選択した理由はほかに、暗い家庭環境を背景にもつ清水にとって、当時流行していた自分や自分の家族を撮るといったナルシズム的な映像表現に違和感をかんじ、その反発として人形を被写体として選んだのだという。

 

その後、清水は夢に現れた娼婦人形「アニマ」から「敗北した人間を、敗者の真実を代弁せよ」と告知を受け、自分はもちろんのこと、貧困者、ネグレクト、児童虐待、社会から見捨てられた人々を代弁するかたちで本格的に人形創作を始める。彼女の人形の特徴のひとつである見世物小屋のような下半身は、祖父が経営していた天草のキャバレーを象徴するものであるという。

 

幼少の頃から天草のキリスト教文化に触れてきた清水は、ヨーロッパ旅行でキリスト教の聖女たちの絵画や彫刻にインスパイアを受け、その後は西洋古典絵画やキリスト教文化を題材に制作することが増えている。2013年には、天草市立天草キリシタン館の「天草四郎展」に清水真理制作の天草四郎の人形が展示、寄贈。

 

また人形制作を始めて20年の節目の年にあたる同年の2013年、学生時代のスケッチやアニメーション作品、20年間清水の作品を撮影してきた田中流の写真作品などの資料とともに振り返る回顧展『清水真理20周年記念個展1993~2013「St.Freaks ~聖なる異形~」』が、ギャラリー新宿座で開催された。

 

2014年には、架空の存在である人形と現実のファクターを結び付ける試みる表現として、シュルレアリスムに焦点を当てた個展「ポップ・シュルレアリム宣言」を開催。ブルトンの「シュルレアリスム宣言」から90年経つ現在、ヨーロッパで美術や文学において90年前に生まれたシュルレアリスムという言葉をもう一度問い直してみるという試みだった。


■参考文献

・樋口ヒロユキ『死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学』

 

 



【美術書籍】幻想耽美II「人気アングラアート画集の第二弾」 

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幻想耽美Ⅱ

さらにディープなアンダーグラウンド・アートの世界、待望の第2弾! 


概要


「幻想耽美Ⅱ」は、2016年3月16日にパイ・インターナショナルから刊行されたアンダーグラウンド・アートのオムニバス集。2014年に発売された「幻想耽美」の続編となる。

 

ライナップを見ると、前号にくらべてコンテポラリー・アートで活躍する作家(川島秀明ややなぎみわ)や、近代美術系で活躍する作家(川島優、入江明日香など)を中心に画家と写真家がかなり補強され、丸尾末広や山本タカトといったマンガ・イラストレーターは外されたように思える。

 

<概要>

ゴシック趣味やデカダンス、ドーリーなど幅広い世代に支持される耽美アートの世界。本書は、現代アート、超絶写実絵画、フェティッシュ・退廃写真、スチームパンクなどのジャンルで活躍する日本の人気作家・若手作家の作品を多数紹介。無限の〈美〉とフェティシズムを追求した、さらにディープな作品集第2弾です! 

 

【掲載作家】 小林美佐子、川島優、やなぎみわ、上原浩子、平野実穂、佐久間友香、川上勉、NEON O'CLOCK WORKS、Yuko Shimizu、イヂチアキコ、一紅、入江明日香、井村一巴、岩﨑永人、笹本正明、濵口真央、七戸優、西牧徹、川島秀明、片山真理、木下雅雄、橋爪彩、中尾直貴、卯野和宏、塩谷亮、石黒賢一郎、野波浩、谷敦志、二階健、中村趫、大坂寛、堀江ケニー、一鬼のこ、池谷友秀、酒井孝彦、島隆志、中島圭一郎、亜真里男、村田兼一、Shin3.、TOMO、河野真起子、岩倉知伸、並河学、Chasuke、赤松和光(Karzworks)、マンタム


【美術解説】ヘタウマ「下手くそだけど個性的な芸術」

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ヘタウマ / HETAUMA

下手くそだが個性的な絵


概要


ヘタウマとは、技巧の稚拙さがかえって個性や味となっている芸術。美術業界ではなく、漫画家、イラストレーター、グラフィックデザイナーらが中心に活躍する広告業界から広まった言葉である。代表的なヘタウマ作家としては、湯村輝彦、蛭子能収根本敬、みうらじゅんなどおもにガロ系作家である。

 

明確な言葉の起源はわかっていないが、イラストレーターの山藤章二によれば、1970年前後に銀座かどこかの百貨店で開催されいていたイラストレーション展に出席した際、知り合いのベテランイラストレーターと会話したときに聞いたのが初めてだったという。

 

山藤:「いやぁ、面白いですねぇ。どういう一派なんですか。グループ名はあるんですか?」

 

ベテラン:「そういうのはないでしょう。私たちは勝手に〈ヘタウマ派〉とよんでいますがね。自然発生的に生まれたんですよ

 

山藤:「ヘタウマ?」

 

ベテラン:「本当は描けばみんなウマいんだけど、わざとヘタに見えるようにしてる。言葉の順でいえばウマヘタなんだけど、それじゃ説明的でインパクトがないので逆にしてヘタウマ。うまくすると新しいムーブメントになるかも知れないけど、一過性の現象で終わるかも知れない」(『ヘタウマ文化論』山藤章二より)

 

なお、この展覧会で展示されていた作者は、川村要助、湯村輝彦、安西水丸、渡辺和博だったという。また、ヘタウマ運動にはコピーライターの糸井重里が強く関わっている。

 

 

2014年にはフランスで、タコシェとLe Dernier Criによるヘタウマに関する2つの展覧会『HETA-UMA』『MANGARO』が開催され、湯村輝彦をはじめ、今日までの作家約50人+フランス内外の作家を加えて100人規模の作家が紹介された。

 

「HETA-UMA」「MANGARO」公式サイト 

HETA-UMA


『HETA−UMA』は、へたうま以降の日本のアンダーグラウンドな作家や作品を紹介する展示会で、2014年10月18日〜2015年3月1日まで、南フランスのmiam Musée International des Arts Modestesで開催された。

 

●参加作家

スージー甘金、Marthes Bathory 、Antoine Benhart、Mark Beyer、Pakito Bolino、Andy Bolus、Laetitia Brochier、Marc Brunier Mestas、沖冲、Craoman、Dave 2000、Mathieu Desjardins、Mike Diana、Victor Dunkel、蛭子能収、Fredox、福士千裕、Pyoshifumux Fumix、後藤友香、Carmen Gomez、Mischa Good、Dave Guedin、Céline Guichard -Matti Hagelberg、Emu Et Arizono Hamadaraka、花くまゆうさく、塙将良、早川モトヒロ、 Ichasu、市場大介、Laurent Impudeglia – Kanado Inuki、伊東篤宏、伊藤桂司、石川次郎、Judex & Cedric Cailliau、Jurictus、瘡原亘 、駕籠真太郎、河村康輔、Olaf Ladousse- Mathias Lehmann、Leo • Ludovic Levasseur、Pascal Leyder、Liquide、Vida Loco、Maki、Keenan Marshal Keller、丸尾末広、Jérome Minard、本秀康、Tomi Musturi、ねこじるY、根本敬、Nirotaka、二艘木洋行、抜水摩耶、Nuvish、小田島等、オカダシゲヒロ、太田螢一、Picopico Progeas – Remi – Riton La Mort、Arnaud Rochard、逆柱いみり、 Samrictus、Vincent Sardon、セキンタニ・ラ・ノリヒロ、しりあがり寿、Stumead、 Caroline Sury、田名網敬一、俵谷哲典、Gwen Tomawak、友沢ミミヨ、都築響一、Tagami 、マディ上原、Nadia Valentine、湯村輝彦、Zven 

MANGARO


『MANGARO』は漫画雑誌『ガロ』とそれに関連した展示会で、2014年10月17日〜2015年2月2日まで、南フランスのFRICHE belle de maiで開催された。


【美術解説】マリオン・ペック「マーク・ライデンの妻」

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マリオン・ペック / Marion Peck

マーク・ライデンのパートナー


概要


生年月日 1963年10月3日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画
ムーブメント ポップシュルレアリスム
関連サイト http://www.marionpeck.com/

マリオン・ペック(1963年10月3日生まれ)はアメリカの画家、ポップシュルレアリスト。

 

フィリピンのマニラ生まれ。家族構成は4人姉弟の一番下で、父や母は世界中を旅してまわっており、ペックは幼少期をおもにワシントン州のシアトルで育った。

 

1985年、18歳でロードアイランド・スクール・オブ・デザインのBFAを取得。その後、ニューヨークのシラキュース大学とローマのテンプル大学で2つの異なるMFAを取得。2009年10月24日から、長年のパートナーである夫であるマーク・ライデンと結婚、ロサンゼルスで暮らしている。

 

ペックはおもにポップシュルレアリスム運動で名前を知られるようになり、ロサンゼルス、ニューヨーク、サンフランシスコ、パリ、シアトル、ローマなどでこれまで展示活動を行っている。またオレゴン州ポートランドで活躍するロックグループ『Sophe Lux』のアルバム『Waking the Mystics』に作品を提供。夫のマーク・ライデンと共著で『Sweet Wishes』という本を出版している。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Marion_Peck、2020年5月10日アクセス


【美術解説】ラ・ルス・デ・ジーザス「ロウブロウアートの聖地」

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ラ・ルス・デ・ジーザス / La Luz de Jesus

ロウブロウ&ポップシュルレアリスムの聖地


概要


ラ・ルス・デ・ジーザスギャラリーはロサンゼルスにある企画画廊。ロウブロウアート、カスタムカルチャー、ポップシュルレアリスムに特化した企画画廊である。

 

ラ・ルス・デ・ジーザスはロサンゼルスで1986年に、起業家でアートコレクターのビリー・シャインによって設立。

 

最初のギャラリーはメルローズ・アベニューに立地するピンクの建物『ソープ・プラント&ワッコー』の2階にあったシャインの雑貨店だった。この雑貨店は、パンク・ロック文化のアクセサリーや陶芸、本などを販売しており、その中でロウブロウアートの作品を展示していた。

 

この2階を1986年に『ラ・ルス・デ・ジーザスギャラリー』として開廊。ただ、メルローズ・アベニューは次第に高級街になっていたたため、画廊はバーモント・アベニュー近郊のハリウッド通りにあるシルバーレイク地区ロス・フェリスに移転。

 

その後、ロウブロウアート運動の中心的な画廊として活動。2005年4月にシャインは、カリフォルニア州クレバーシティに姉妹画廊として『ビリー・シャインファインアーツ』を設立した。

 

ラ・ルス・デ・ジーザスは、展示スペースを提供するのと同時に、ロウブロウ&ポップシュルレアリスムのアーティストたちをサポートする場となった。ギャラリーの使命はアンダーグラウンド・アーティストとカウンターカルチャーを一般の人たちに広げることだった。1988年の『ロサンゼルス・タイムス』のインタビューで『人々による人々のためのアート。“娯楽”“挑戦”“自分が見ている世界を変革する”ものである』と自身のギャラリー哲学を話している。

 

ロウブロウアートとポップシュルレアリスムが中心であるが、ほかに、フォーク、アウトサイダー・アート、宗教芸術、オルナティブ・エロチックアートなどに焦点を当てた展覧会を開催してきた。

 

ラ・ルス・デ・ジーザスで紹介されてきたおもな芸術家としては、マニュエル・オカンポ、ジョー・コールマン、ロバート・ウィアムス、シャグなどがいる。

 

●場所


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/La_Luz_de_Jesus、2020年5月10日アクセス


【美術解説】カジミール・マレーヴィッチ「シュプレマティズムの旗手」

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カジミール・マレーヴィッチ / Kazimir Malevich

シュプレマティズムの旗手


「黒い四角」(1915年)
「黒い四角」(1915年)

概要


生年月日 1878年2月23日
死没月日 1935年5月15日
国籍 ロシア、ソビエト連邦
表現媒体 絵画
スタイル シュプレマティズム

カジミール・セヴェリノヴィッチ・マレーヴィチ(1878年2月23日-1935年5月15日)はロシアの画家、美術理論家。ロシア・アヴァンギャルドの1つ「シュプレマティズム(絶対主義、至高主義)」の代表的な芸術家として知られ、その先駆的な作品と著作は、20世紀の抽象芸術の発展に大きな影響を与えた。

 

キエフのポーランド人家庭に生まれ、「純粋な感情の志向性」や「精神性」に到達するために、自然の形(客観性)や主題からできるかぎり離れた表現をしようとしたのが、彼が創始したシュプレマティズムのコンセプトである。

 

マニフェストとして『キュビスムからシュプレマティズム』を出版。シュプレマティズムでは、対象物を描くという制約から解き放たれた絵画は絶対的自由を獲得し、抽象作品の到達点である「無対象絵画」になるという。

 

マレーヴィッチは、ウクライナ生まれのアーティストによって形成されたウクライナ前衛集団(アレクサンドル・アルキペンコ、ウラジーミル・タトリン、ソニア・ドローネ、アレクサンドラ・エクスター、デイヴィッド・ブルリュクらとともに)の一員であると認識されている。

 

初期には、マレーヴィッチは様々なスタイルで活動し、その後、印象派、象徴主義、フォービズムの動きと連動して、1912年にパリを訪問した後は、キュビスム風の画風だった。徐々に作風をシンプルにしていき、ミニマルな背景の中で、純粋な幾何学的形態とその関係性からなる主要な作品のアプローチを展開した。

 

白地に黒の正方形を描いた《黒い四角》(1915年)は、これまでに制作されたことが知られている中で最もラディカルな抽象絵画で、「古い芸術と新しい芸術の間に、越えられない線」を引いたという。

 

シュプレマティズムの絵画である《白の上の白》(1918年)は、かろうじて区別されたオフホワイトの正方形をオフホワイトの地面に重ね合わせたもので、純粋な抽象化という彼の理想を論理的な結論へと導いている。

 

1904年に父親が死ぬとモスクワへ移り、モスクワ絵画・彫刻・建築学校に入学。ロシアの前衛芸術家をはじめ、キュビズム、未来派などさまざま前衛芸術の影響を受けて、自らはそれら複数のスタイルを融合させた「立体未来主義(クボ・フトゥリズム)」を標榜した展覧会「標的展」を開催する。

 

 

マレーヴィチの軌跡は、1917年のウラジミール・レーニンによるロシア革命を取り巻く数十年間の混乱を多くの点で反映していた。その直後には、至高主義やウラジーミル・タトリンの構成主義といった前衛的な運動が、政府内のトロツキスト派によって奨励された。

 

マレーヴィチは、いくつかの著名な教職に就き、1919年にモスクワで開催された第16回国展で個展を開催した。1927年にはワルシャワとベルリンで個展を開催し、その知名度は西欧に広がった。1928年から1930年にかけてキエフ美術研究所でアレクサンダー・ボゴマゾフ、ヴィクトル・パルモフ、ウラジーミル・タトリンらと教鞭をとり、ハリコフの雑誌『新世代』に記事を発表した。

 

しかし、ウクライナで知識人に対する弾圧が始まったことで、マレーヴィッチは現代のサンクトペテルブルクに戻ることを余儀なくされる。1930年代の初めから、近代美術はヨーゼフ・スターリンの新政府の支持を得られなくなっていた。

 

マレーヴィチは教職を失い、作品や原稿は没収され、美術制作を禁止された。 1930年には、ポーランドとドイツへの旅行で提起された疑惑により、2か月間投獄された。1935年に56歳で癌で亡くなるまでの数年間は、抽象画を断念せざるを得ず、具象的なスタイルで描いていた。

 

それにもかかわらず、彼の作品や文章は、エル・リシツキー、リュボフ・ポポポワ、アレクサンドル・ロトチェンコなどの同時代の作家や、アド・ラインハルトやミニマリストなどの後の世代の抽象芸術家に影響を与えた。

 

近代美術館(1936年)、グッゲンハイム美術館(1973年)、アムステルダムのステデライク美術館(1989年)などで大々的に展示され、死後に称賛された。

 

1990年代に入ると、多くのマレーヴィチ作品の所有権をめぐる美術館の主張が相続人によって論争されるようになった。

『白の上に白』(1918年)
『白の上に白』(1918年)
『シュプレマティズム』(1916年)
『シュプレマティズム』(1916年)
『モスクワの英国紳士』(1914年)
『モスクワの英国紳士』(1914年)

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Kazimir_Malevich、2020年5月10日アクセス


【美術解説】アントニ・ガウディ「カタルーニャ・モダニズムの最大の先駆者」

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アントニ・ガウディ / Antoni Gaudí

カタルーニャ・モダニズムの最大の先駆者


サグラダ・ファミリア
サグラダ・ファミリア

概要


生年月日 1852年6月25日
死没月日 1926年6月10日
国籍 スペイン
表現媒体 建築
代表作

・サグラダ・ファミリア

・カサ・ミラ

・カサ・バトリョ

関連サイト

https://sagradafamilia.org/

アントニ・ガウディ・イ・コルネ(1852年6月25日 - 1926年6月10日)は、カタルーニャ・モダニズムの最大の先駆者として知られるカタルーニャ人の建築家。

 

ガウディの作品は、非常に個性的でオンリーワンのスタイルを持っている。主な作品であるサグラダ・ファミリア教会を含め、そのほとんどがバルセロナにある。

 

ガウディの作品は、彼の生活において情熱だったこと(建築、自然、宗教)から影響を受けている。作品の細部を考慮し、セラミック、ステンドグラス、鍛造や大工などの工芸品を建築に統合した。また、廃棄された陶磁器の破片を利用したトレンカディスなど、材料の処理に新しい技術を導入した。

 

ネオゴシック美術と東洋の技術の影響を受けて、ガウディは、19世紀後半と20世紀初頭にピークに達していたモダニスタ運動の一部となり、自然の形に触発された有機的なスタイルで最高潮に達する主流のモダニズムを超越した。

 

ガウディはほとんど彼の作品の詳細な計画を描くことはなかったが、3次元のスケールモデルを作成した。

 

ガウディの作品は世界的な人気を博しており、建築家たちから賞賛と研究が続いている。1984年から2005年の間に、彼の作品のうち7つがユネスコの世界遺産に登録された。ガウディは生前からカトリック信仰を強めており、作品の多くに宗教的なイメージが見られる。これにより、「神の建築家」というニックネームを得ている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Antoni_Gaud%C3%AD、2020年5月11日アクセス


【美術解説】ル・コルビュジエ「ピュリスムを創始」

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ル・コルビュジェ / Le Corbusier

ピュリスムの創始者


サヴォア邸(1931年)
サヴォア邸(1931年)

概要


生年月日 1887年10月6日
死没月日 1965年8月27日
国籍 スイス、フランス
表現媒体 建築、デザイン、絵画、著述
スタイル ピュリスム

シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ(1887年10月6日-1965年8月27日)、通称ル・コルビュジェは、スイス出身のフランスの建築家、デザイナー、画家、都市計画者、著述家。パリを拠点に活躍。フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエとともに近代建築三大巨匠の1人とされている。

 

スイスで生まれ育ったが、1930年にフランス市民権を獲得。50年以上にわたってル・コルビュジエが設計したビルはヨーロッパ、インド、アメリカなど世界中で建築された。

 

「住宅は住むための機械である」という思想のもと、鉄筋コンクリートを使った建築作品を数多く発表。混雑した都市住民が快適に生活できる環境を提供した。初期はピュリスム(純粋主義)の画家として前衛芸術運動にも関わる。1920年にダダの詩人のポール・デルメ、ピュリスムの画家のアメデ・オザンファンと共にピュリスムの機関雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』(L'esprit Nouveau)を創刊した。

 

都市計画に大きな影響を与え、また『CIAM(近代建築国際会議)』のメンバーの1人ともなった。ル・コルビュジエはインド北部の都市チャンディーガルの都市計画マスタープランを準備し、いくつかの建物の設計を担当した。

 

代表的な建築物は、サヴォア邸(パリ)、ヴィラ・ラ・ロッシュ(パリ)、ユニテ・ダビタシオン(マルセイユ)、国立西洋美術館(日本)など。また、ル・コルビュジエが建築した計17件(日本、フランス、ドイツ、スイス、ベルギー、アルゼンチン、インドにある17件が世界文化遺産に登録されることになった。

「静物」(1920年)
「静物」(1920年)
「静物」(1922年)
「静物」(1922年)
「垂直ギター」(1920年)
「垂直ギター」(1920年)

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Le_Corbusier、2020年5月20日アクセス



【美術解説】ラウル・ハウスマン「ベルリン・ダダ」

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ラウル・ハウスマン / Raoul Hausmann

ダダゾーフ(ダダ哲学者)


「ABCD」(1923-1924年)
「ABCD」(1923-1924年)

概要


生年月日 1886年7月12日
死没月日 1971年2月1日
国籍 オーストリア
表現媒体 コラージュ、著述、詩、パフォーマンス
ムーブメント ダダイズム

ラウル・ハウスマン(1886年7月12日-1971年2月1日)はオーストリアの美術家、著述家、詩人、理論家、政治論客、ジャーナリスト、歴史家、編集者、舞踏家、パフォーマー。ベルリン・ダダ重要人物の1人。アナーキストで「ダダゾーフ(ダダ哲学者)」と呼ばれた。

 

生活の中にプロパガンダを取り入れ、女流ダダイストのハンナ・ヘッヒとともにモンタージュを発明。無意識を表現するシュルレアリストのコラージュと異なり、ハウスマンのフォトコラージュは、政治や社会に対する辛辣なアイロニーを込めているのが特徴だった。ハウスマンの最も有名な作品は『機械的な頭部』(1920年)と『美術批評家』(1920年)。

 

1920年末には『ダダイスムの歴史』など、これまでのダダの動きを総括するかのような2冊の著書を出版し、歴史家として活躍。

 

さらにハウスマンは、ポスター用の大きな木版活字を使って「fmsbwtozau」「fmsbw」などの「ポスター詩」「文字詩」と呼ばれる作品群を制作。これらの文字は、通常の言葉の役割から切り離されて別の活字と並べられ、視覚的な楽しみと音響的な効果を産みだした。ハウスマンはこれらの詩を暗唱しながら踊るなどのパフォーマンスも行う。

 

また、音と光の現象に興味を持ち、視覚音声論を書き一方で、1935年に音波と光波を照応させる「オプトフォン」という機械を発明した。

「美術批評家」(1920年)
「美術批評家」(1920年)

略歴


若齢期


ラウル・ハウスマンはウィーンで生まれたが、1901年に14歳のときに両親とベルリンに移動した。初期の芸術訓練は父とプロの修復師と画家から教わった。

 

その後、ヨハネス・バーダーという風変わりな建築家でダダのもう一人の未来のメンバーになる男と1905年に出会う。同じころに彼はバイオリニストのエルフライドシェファーと出会い、1908年に娘のベラが生まれてから1年後に結婚した。同年、ハウスマンはベルリンの私立芸術学校に入学したが、そこで彼は1911年までいた。

 

1912年にヘルヴァルト・ヴァルデンのギャラリーDer Sturmで表現主義の絵画を見た後、ハウスマンはエーリッヒ・ヘッケルのスタジオで表現主義の版画制作を始め、またウォルデンの雑誌の編集者になった。この雑誌が『Der Sturm』と呼ばれ、芸術の確立に対する彼の初期の論争的な執筆をするためのプラットフォームとなった。

 

表現主義者の仲間たちと同じように、彼も当初は戦争を歓迎し、硬直化した社会を浄化するために必要なことだと信じていたが、ドイツに住んでいたオーストリア市民である彼は徴兵を免れた。

 

ハウスマンは1915年にハンナ・ヘッヒに出会い、彼女と分かれた1922年まで「芸術的に生産だが乱れた絆」を生み出し、不倫関係に乗り出した。関係の混乱はハウス漫画ヘッヒを殺す空想にまで達した。

 

ハウスマンは政治から芸術にいたるまで、あらゆることについて彼女に上から目線で意見を語っていたが、ダダ運動の他の芸術家たちが自分たちの展覧会から彼女を締め出そうとしたときのみ彼女を助けようとした。

 

彼女の芸術を擁護し、第一国際ダダフェアに参加させることを主張した後でさえ、彼はヘッヒに対して「決してクラブの一部ではなかった」と言っていたが、ハウスマンは繰り返しヘッヒに妻と別れて一緒になる予定だと話していたが、結局分別れることはなかった。

 

1916年にハウスマンは彼のその後のキャリアに重要な影響を与えるであろう二人の人に会った。精神分析が革命のための準備であると信じた精神分析家オットー・グロースと無政府主義者の作家である。

 

現在、彼の芸術サークルには、作家のサロモ・フリードレンダー、ハンス・リヒター、エミー・ヘニングス、『Die Aktion』誌の編集者が参加しており、この時代『Der Sturm』やアナキストのペーパー『Die FreieStraße』でハウスは多数の論文を投稿していた。

 

「創造の行為としての破壊の概念はハウスマンのダダ哲学、ベルリン・ダダへの彼の理論的成果の出発点であった」

ダダイズム


ベルリン・ダダ


24歳の医学生リヒャルト・ヒュルゼンベックがヒューゴ・バルの親友であり、ダダ創設者の一人で、1917年にベルリンに戻ったとき、ハウスマンは彼のまわりに形成されはじめたベルリン・ダダの若い不満を持った芸術家グループの一人になっていた。

 

ヒュルゼンベックは、1918年1月22日、ベルリンのクアフュルステンダム沿いにあるIB・ニューマン画廊で「ドイツにおける最初のダダ・スピーチ」を行った。次の数週間の間に、ハウスマン、ヒュルゼンベック、ジョージ・グロス、ジョン・ハートフィールド、ハンナ・ヘッヒ、ウォルター・メーリングらがクラブ・ダダを始めた。

 

最初のイベントは1918年4月12日、ベルリン分離で、確立された芸術家ロヴィス・コリントによる絵画の回顧展を背景にした詩のパフォーマンスとレクチャーの夕べであった。

 

ヒュルゼンベックはダダ宣言を暗唱し、グロスはジャズをオマージュした "シンコペーション "を踊ったが、ハウスマンは彼のマニフェストである『絵画の新しい物質』The New Material In Paintingを今では暴徒に近い聴衆に向かって叫んで宴を終わらせた。

フォトモンタージュ


絵画の新しい素材への希求は同年後のち、ハウスマンとヘッヒがバルト海で休暇を取った時に実を結んだ。彼らが滞在していた客室にに兵士の肖像画があり、その上にパトロンが彼の息子の写真肖像画の頭を5回貼り付けていた。

 

「電撃が走った。写真を切り貼りして新たな写真を作ることができるということを瞬時に理解した。その9月にベルリンに戻って、私はこの新しいビジョンを実現するため、私は新聞や映画館からの写真を利用した」(ハウスマン,1958年)

 

フォトモンタージュはベルリン・ダダと最も関係の深い技術になり、ハウスマン、ヘッヒ、ハートフィールドらによって広く使用され、クルト・シュヴィッタースやエル・リシツキー、およびロシアの構成主義に決定的な影響を与えた。

 

また、グロス、ハートフィールド、およびバーダーは後の回顧録でこの技術を発明したと主張しているが、これらの主張を正当化するためにどの作品も明るみになっていない。

 

同時に、ハウスマンは「フォウニム」や「ポスター・ポエム」と呼ばれる音の詩を実験し始める。理性の介入なしにプリンタによって偶然に文字を並べるというものである。その後、単語を反転させたり、切り刻んだりして、さまざまな活字技術を駆使してタイプアウトしたりした。

「The phoneme kp' erioUM」(1919年)
「The phoneme kp' erioUM」(1919年)

ダダイズムの情報誌


1919年4月にハウスマンがイサク・ニューマンズ画廊で開催した最初のグループ展に参加したあと、ダダイズム情報誌『Der Dada』の初版が1919年6月に刊行された。

 

ハウスマンとバーダーが編集し、チューリヒのトリスタン・ツァラから名称を使用する許可を得た後、この雑誌はヒュルゼンベックからの重要な寄稿が特色だった。この定期刊行物には図面、極論、詩および風刺が含まれ、すべての活字はさまざまな逆フォントやサインが使われている。

 

1920年初頭、バーダーの『Oberdada』、ハウスマンの『Dadasoph』、ヒュルゼンベックの『Welt-Dada』は東ドイツとチェコスロバキアで6週間のツアーを行い、多くの観衆と困惑の批評を集めた。

 

プログラムには原始主義的な詩、バーダーとハウスマンによる同時詩のリサイタル、そしてハウスの 「Dada-Trot (Sixty-One Step) 」が含まれており、「疫病のように私達に降りかかってきた最も現代的なエキゾチックでエロティックな社交ダンスの本当に素晴らしいからかい」と表現された。

バーダーとハウスマンによる詩「ダダデジー」を含む『der Dada』vol1 の表紙。1919年。
バーダーとハウスマンによる詩「ダダデジー」を含む『der Dada』vol1 の表紙。1919年。

第一回国際ダダフェア


グロス、ハートフィールド、ハウスマンによって組織された第一回国際ダダ展は、ベルリン・ダダにおける最も有名な功績となった。

 

この国際展ではフランシス・ピカビア、ハンス・アルプ、マックス・エルンスト、ルドルフ・シュリヒターなどヨーロッパ中のダダイストたちの作品200点を展示し、かつグロスやヘッヒ、ハウスマンらベルリン・ダダの主要作品を特色としたものだった。

 

《タットリン・アット・ホーム》(1920年)という作品は、プロの写真家によって撮影された広報写真の一枚としてはっきり見ることができる。この展覧会は経済的には失敗に終わったが、アムステルダム、ミラノ、ローマ、ボストンなど世界中で知られた。

 

また、ナチスが1937年に開催した退廃芸術の展覧会「頽廃芸術展」の「Nehmen Sie DADA Ernst」、「Take Dada Seriously!」などのスローガンとともに内容やレイアウトにも大きな影響を与えた。

第一回国際ダダ展の様子。
第一回国際ダダ展の様子。

機械的な頭部


ハウスマンの最も有名な作品である《機械的な頭部》(1920年)は、ハウスマンが1919−20年頃に制作した唯一残存しているアッサンブラージュ作品である。美容師のウィッグ・メイキング人形を中心に、定規、懐中時計内の部品構造、タイプライター、いくつかのカメラセグメントとクロコダイルの財布を含む様々な測定装置が取り付けられている。

「機械的な頭部」(1920年)
「機械的な頭部」(1920年)

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Raoul_Hausmann、2020年5月12日アクセス


【美術解説】ハンナ・へーヒ「モンタージュを発明した女性ダダイスト

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ハンナ・ヘッヒ / Hannah Höch

モンタージュを発明した女性ダダイスト


概要


生年月日 1889年11月1日
死没月日 1978年5月31日
国籍 ドイツ
ムーブメント ダダイイズムベルリン・ダダ
表現媒体 コラージュ

ハンナ・ヘッヒ(1889年11月1日-1978年5月31日)はドイツの女性ダダイスト。フォトモンタージュを発明者の一人であり、彼女のワイマール時代の作品が最もよく知られている。

 

ハンナ・ヘッヒはドイツのゴータで生まれた。母は絵描き、父は保険会社の経営者だった。1904年に妹の世話をするために高校を退学するが、1912年にガラスデザイナーのハロルド・ベルゲンの指導の下、ベルリン応用芸術学校で勉強をしなおす。彼女は、父が勧めたファインアートよりむしろガラスデザインとグラフィックアートの授業を選択した。

 

1914年、第一次世界大戦が始まると、学校をやめて国際赤十字で働くためにゴータに戻る。1915年に学校へ戻り、ベルリンのシャルロッテンブルク工芸学校でEmil Orlik指導のクラスに入学して版画を勉強する。

 

また1915年にヘッヒはベルリン・ダダムーブメントのメンバーであるラウル・ハウスマンと出会って、関係を深めるようになる。ハウスマンはヘッヒともにフォトモンタージュを発明したアーティストとしてよく知られている。

 

ベルリン・ダダイストとしてのヘッヒの活動は1919年初頭から始まる。学校を出たあと、彼女は通信社ウルシュタイン出版の工芸品部門で、『Die Dame』や『Die Praktische Berlinerin』といった女性ファッション誌でイラストの仕事をしていた。このころの仕事や職業訓練で養ったさまざまなイメージは、のちに彼女の芸術作品のドレスのパターンやテキスタイルに影響をされているようである。

ダダ以後


1921年にハウスマンとプラハへ移り住む。しかし1922年にハウスマンと別れベルリンで個展を開催。へーヒは1922年に7年続いたハウスマンと別れる。

 

1926年に彼女は、クルト・シュヴィッタースを通じてオランダの作家で言語学者のマチルダ・ブルグマンと関係を持ち始めた。(右写真:猫とへーヒとブルグマン)1926年の秋までに、へーヒはブルグマンと同棲するためにハーグへ移り住み、そこで彼女らは1929年まで生活した。

 

へーヒはこのオランダ時代にクルト・シュヴィッタースやピエト・モンドリアンなどさまざまな前衛芸術家と親交を深めた。その後彼女らはベルリンに移動。へーヒとブルグマンの関係は1935年の9年間続いた。彼女らはレズビアンの関係をはっきりと言わなかったが、個人的な恋愛関係にはあったという。

 

1935年に、ヒーへはカート・マチスと関係を深め結婚するが、42年に離婚。45年にベルリンとニューヨーク近代美術館で個展を開催。78年にベルリンで死去。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Hannah_H%C3%B6ch、2020年5月12日アクセス


【美術解説】ウンベルト・ボッチョーニ「速度とダイナミズムの前衛彫刻」

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ウンベルト・ボッチョーニ / Umberto Boccioni

速度とダイナミズムの前衛彫刻


《空間における連続性の唯一の形態》1913年
《空間における連続性の唯一の形態》1913年

概要


生年月日 1882年10月19日
死没月日 1916年8月17日
国籍 イタリア
表現媒体 絵画、彫刻
ムーブメント 未来派
代表作

・空間における連続性の唯一の形態

・都市の夜明け

ウンベルト・ボッチョーニ(1882年10月19日-1916年8月17日)はイタリアの画家、彫刻家。前衛芸術運動「未来派」を支えた主要メンバーの1人として知られている

 

短い生涯にも関わらず、彼の造形のダイナミズムや脱構築的な構造は、死後も多くの芸術家に影響を与えており、作品は多くの美術館で展示されている。

 

1916年8月16日、騎兵隊訓練中に落馬して馬に踏みつけられ、その翌日に33歳で死亡。1988年にメトロポリタン美術館がボッチオーニの大回顧展を開催し、100以上の作品が展示された。

略歴


若齢期


ウンベルト・ボッチョーニは1882年10月19日にレッジョ・カラブリアで生まれた。彼の父親は、北部のロマーニャ地方出身のマイナーな政府職員で、イタリア全土での頻繁な転勤をしていた。

 

ウンベルトと姉のアメリアは、フォルリ(エミリア=ロマーニャ州)、ジェノバ、そして最後はパドヴァで育った。15歳の時、1897年、ウンベルトは父親とともにシチリア島のカターニアに移り、そこで彼は学校を卒業した。1898年以降、ローマに移り、ローマ芸術アカデミーのヌード学校で美術を学んだ。

 

ボッチョーニのローマ時代については、友人のジーノ・セヴェリーニ(1883-1966)の自叙伝の中に書かれている。1901年の二人は出会いと、ニーチェ、反逆、人生経験、社会主義について語り合ったという。

 

このころのボッチョーニの文章に、彼の生涯の特徴となるであろう「怒り」と「皮肉」の組み合わせがすでに見られる。彼の批判的で反骨的な性格と総合的な知的能力は、未来派の発展に大きく貢献することになる。

 

美術の基礎を学んだあと、印象派を通して古典を学び、ボッチョー二とセヴェリーニの両方が、現代の点描技法に焦点を当てた画家であるジャコモバラ(1871–1958)の弟子となり、混合色ではなくドットやストライプの分割点描で絵を描いた。

 

セヴェリーニは「このような人物に出会えたことは、私たちのキャリアのすべての方向性を決定づける大きな幸運だった」と書いている。

 

1906年にはパリに移り、印象派とポスト印象派を学んだ後、ロシアに3ヶ月間滞在し、市民の不安や政府の取り締まりを肌で感じた。

 

1907年にイタリアに戻り、ヴェネツィアのアカデミア・ディ・ベル・アルティで短期的にデッサンの授業を受ける。1901年にはミラノの芸術家協会Famiglia Artisticaを初めて訪れている。

 

都市から都市へと移動しながら、最も画期的な芸術活動と並行して、商業イラストレーターとしても活動した。1904年から1909年までの間、彼はリトグラフやガッシュ画を、ベルリンを拠点とするStiefbold & Co.などの国際的に有名な出版社に提供した。

 

この分野でのボッチョーニの作品は、セシル・アルディン、ハリー・エリオット、アンリ・カシエル、アルバート・ベルツなどのヨーロッパの現代イラストレーションを意識したものであり、当時の視覚芸術全般の現代的な傾向を知ることができる。

《セルフポートレイト》1905年
《セルフポートレイト》1905年

未来派宣言


ボッチョーニは1907年にミラノに移住。1908年の初め、彼はそこで分割絵画の画家ガエターノ・プレヴィアーティと出会う。1910年初頭には、前年に『未来主義宣言』を発表していたフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティと出会う。 

 

1910年2月11日、ボッチョーニは、バッラ、カルロ・カッラ、ルイジ・ルッソーロ、セヴェリーニとともに、未来派画家宣言に署名し、3月8日にトリノのポリテタマ・キアレッラ劇場でマニフェストを朗読した

 

1912年には、ジョルジュ・ロック、アレクサンダー・アルキペンコ、コンスタンティン・ブラシュイ、レイモン・デュシャン=ヴィヨン、アウグスト・アジェーロ、そしておそらくメダルド・ロッソのアトリエを含むパリの様々なアトリエを訪問し、彫刻家になることを決意した。

 

1912年には、他のイタリアの未来派の画家たちとベルンハイム=ジューン画廊で絵画を展示し、翌年にはラ・ボエティ画廊で彫刻作品を展示した。

 

展示された彫刻は、ボッチョーニが前衛彫刻の知識を深めるために、コンスタンティン・ブランシュイ、レイモン・デュシャン=ヴィヨン、アレクサンダー・アルキペンコなどのキュビスム彫刻家のアトリエで見たものをさらに発展させたものとなっている。

 

1914年、ボッチョーニは『Pittura e scultura futuriste』(ディナミズモ・プラスチックス)を出版し、未来派の美学を説明した。

 

「印象派がある特定の瞬間をとらえるために絵を描き、その瞬間への類似性に絵の生命を従属させるのに対し、私たちはあらゆる瞬間(時間、場所、形、色調)を合成して絵を描く」

 

ボッチョー二は未来派のグループともにロンドンで、1912年にサックビル・ギャラリーと1914年にドレ・ギャラリーで展覧会を開催した。この2つの展覧会は、多くのイギリスの若い芸術家、特にC.R.W.ネビンソンに深い印象を与え、運動に参加させるきっかけとなった。他のアーティストは、ウィンダム・ルイスを中心としたイギリスのよく似た芸術運動のボルティシズムに参加した。

 

「ボッチョーニの才能は、視覚芸術や文学における近代的な動きの本質をも定義するような方法で、現実に新鮮な目をもたらすことだった」 --マイケル・グローバー(美術評論家)

《都市の夜明け》1910年
《都市の夜明け》1910年
《3人の女性》(1910年)
《3人の女性》(1910年)
《サイクリストのダイナミズム》1913年
《サイクリストのダイナミズム》1913年
《人間のダイナミズムの合成》1913年
《人間のダイナミズムの合成》1913年

死去


第一次世界大戦へのイタリアの参戦は、1915年5月下旬、イタリアがオーストリア・ハンガリーに宣戦布告したことから始まった。

 

ボッチョーニが所属していた「ロンバルド大隊有志自転車・オートバイ大隊」は、6月初旬にミラノからガララーテを経て、トレンティーノ戦線後方のペスキエラ・デル・ガルダに向けて出発した。

 

1915年10月24日、ボッチョーニはドッソ・カッシーナの戦いに参加。1915年12月1日、大隊は一般的な再編成の一環として解散され、志願兵は一時的に解雇され、その後、階級と共にそれぞれが召集された。

 

1916年5月、ボッチョーニはイタリア陸軍に徴兵され、ヴェローナ近郊のキエーヴォのソルテで砲兵連隊に配属された。1916年8月16日、騎兵訓練中に馬から落馬し、踏みつけられる。 翌日、33歳でヴェローナ軍事病院で死亡し、同市の記念碑墓地に埋葬された。

ボッチョーニが致命傷を負ったキエーヴォのソルテにある記念碑
ボッチョーニが致命傷を負ったキエーヴォのソルテにある記念碑

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Umberto_Boccioni、2020年5月13日アクセス


【美術解説】葛飾北斎「近代美術に影響を与えた日本の浮世絵画家」

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葛飾北斎 / Hokusai Katsushika

近代美術に影響を与えた日本の浮世絵画家


「凱風快晴」
「凱風快晴」

概要


生年月日 1760年10月31日
死没月日 1849年5月10日
国籍 日本
表現媒体 浮世絵、版画、ドローイング

葛飾北斎(1760年10月31日-1849年5月10日)は日本の画家、浮世絵画家、江戸時代の版画家。雪舟をはじめ中国絵画の影響を受けたスタイルで、シュルレアリスティックに日本の風景や春画を描く。

 

最も代表的な作品は『富嶽三十六景』シリーズ(1831年)で、中でも1820年代に制作された『神奈川沖浪裏』は世界中で知られている版画作品である。

 

北斎は『三十六景』について、当時の江戸時代の国内旅行ブームを風景画として記録化する意図と、富士山に対する個人的な執着や強迫観念の両方が制作動機となっているという。このシリーズの中でも、特に『凱風快晴』は国内外の両方で北斎の知名度を高めた作品とされている。

 

次に有名なのが『北斎漫画』で、これは日常生活におけるさまざまな主題をスケッチしたもので、風景、花、動物、日常生活、人の仕草などのスケッチ絵である。

 

タイトルに含まれている「漫画」という言葉は、現代の物語形式の「マンガ」とは異なり、三色の木版画である。1814年、北斎が55歳のとき初編が発行され、その後1878年までに全十五編が発行された。

 

また、北斎が1834年に発表した『富嶽百景』は、風景図の中では一般的に最高傑作とされている。また、北斎の浮世絵は、江戸時代に都市部で流行した公家や役者を中心とした肖像画から、風景や動植物を中心としたより広い画風へと変化させた

 

北斎の画名や、富士山を頻繁に描いたことは、どちらも彼の信仰心に由来している。北斎(北斎)という名前は「北斎(北辰際)」または「北星工房」の略で、「北斎(部屋)」を意味する。北斎は日蓮宗の一派であり、北星を妙見菩薩と関連があると考えられている。

 

1830年代にヨーロッパに磁器、陶器の輸出の際、緩衝材として浮世絵と共に偶然に渡り、フランスの印象派の画家クロード・モネゴッホゴーギャンなどに影響を与えた。

影響


北斎の影響は、19世紀のヨーロッパでジャポニスムの影響を受けた西欧の同時代人にまで及んだ。1856年頃、フランス人画家のフェリックス・ブラクモンが、印刷屋の工房でスケッチブック『北斎漫画』のコピーを見つけたのが北斎ブーム始まりだった。

 

北斎は、ドイツではユーゲント・シュティールと呼ばれるアール・ヌーヴォー印象派に影響を与え、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールの作品にも北斎の作品と同じようなテーマが登場する。

 

ブルックリン・レール紙によると、「ドガ、ゴーギャン、クリムト、フランツ・マルク、アウグスト・マッケ、マネ、ゴッホなど、多くの芸術家が北斎の浮世絵を収集した」という。

 

ヘルマン・オプリストの鞭打ちのモチーフ、は明らかに北斎の作品から影響を受けている。

略歴


若齢期


北斎の生年月日は不明だが、宝暦10年9月23日(旧暦では1760年10月31日)に江戸の葛飾区の職人の家に生まれたとされている。本名は川村鉄蔵、幼名は時太郎である。

 

北斎の父は、幕府御用の鏡を製作していた鏡職人の中島伊勢だが実父ではない。北斎は4歳のころに養子となっている。北斎が絵を描き始めたのは6歳頃からで、鏡の周りの装飾絵を描いていた父から学んだといわれている。

 

12歳のとき、日本の都市部にある本屋や貸本屋の丁稚となる。この時に、貸本の絵に関心を持ち、画道を志したいう。

 

14歳で木彫師に弟子入りし、18歳で勝川春章の工房に入る。春章は、北斎が師事する浮世絵の画家であり、いわゆる勝川派の主宰者でもあった。勝川春章は当時、美人画において細密優美な作風で高い評価を得ていた浮世絵師だった。

 

1年後、19歳で北斎は師匠から「勝川春朗」という名をもらい名前を変えた。1779年に発表した役者絵「正宗娘おれん 瀬川菊之丞」で画家としてデビュー

 

春章の工房で作業していた10年の間に北斎は最初の妻と結婚してたが、1790年代初頭に亡くなったこと以外はほとんど知られていない。1797年に再婚したが、この二番目の妻もしばらくして亡くなった。この二人の妻との間に二人の息子と四人の娘をもうけている。三女の英は葛飾応為とも呼ばれ、北斎の元で助手・浮世絵師として身を立てた。

 

北斎は生涯で少なくとも30の名前を使っていた。複数の名前を使うことは当時の日本の芸術家の一般的な習慣であったが、北斎の偽名の数は日本の芸術家の中でだんとつに多い。

 

北斎は頻繁に名前を変えたのは、作品や作風の変化に関連していることや、自身の生涯を時代ごとに分けるために使っていた可能性もある。

成熟期


勝川派から破門されたあと、北斎は俵屋派と提携し、「俵屋宗理(北斎宗理)」と名乗るようになる。この間、摺物と呼ばれる筆画や狂歌絵本の挿絵を多く制作した。

 

1798年、北斎は弟子の琳斎宗二に名を譲り、初めて「北斎」と名乗り、派閥とのしがらみから解放されて独立した。

 

1800年になると、北斎は肖像画以外の浮世絵をさらに発展させていった。1805年に「葛飾北斎」という名前を使うようになる。葛飾北斎の「葛飾」とは北斎の生まれた江戸の地名であり、「北斎」とは北のアトリエを意味する。「葛飾北斎」の名で広く知られるようになった。また、自分の弟子を集めるようになり、生涯で50人の弟子を教えた。

 

1811年、51歳で「戴斗」と改名し、北斎漫画や各種絵絵本を制作する時代に入る。1812年に『群鷺』とともに始まった絵手本は『群鷺』はコストをかけず多くの弟子に絵の指南をするのに役立った。

 

漫画の近代形態に影響を与えた北斎の漫画・スケッチ・風刺画の第一集『北斎漫画』は1814年に刊行された。1820年以前に刊行された全12巻と、死後に刊行された3巻の漫画には、動物、宗教家、日常生活者など数千点にも及ぶ絵が描かれている。

 

ユーモラスな意味合いを持つことが多く、当時は非常に人気があった。その後、北斎は4コマ漫画を制作した。彼の漫画の多くは、金持ちの生活をユーモラスな手法で描いている。

 

1820年、北斎は再び「為一」と改名し、日本中に画家としての名声を確立する時期を迎える。『神奈川沖浪裏』を含む最も有名な作品シリーズ『富嶽三十六景』の制作を1830年初頭に開始。当初は36図だったが、好評により10図追加された。

 

北斎のマンガにおける視点研究の成果は、『神奈川沖浪裏』で見ることができ、西洋的な視点を用いて奥行きとボリュームを表現している。神奈川沖浪裏」は、それを見たゴッホが画家仲間宛ての手紙の中で賞賛したり、その後の西欧の芸術家に多大な影響を与えた。

絵手本『群鷺』
絵手本『群鷺』
『北斎漫画』より水浴者のイメージ。
『北斎漫画』より水浴者のイメージ。
『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』
『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』

晩年


晩年の1834年から北斎は「画狂老人」という名前で活動を行う。この頃、北斎はもう一つの重要な風景シリーズである『富嶽百景』を制作していた。この作品の追記で、北斎はこう書いている。

 

「6歳のときから物の形を模写することに熱中し、50歳になってからは多くの絵を発表してきたが、70歳までに描いた絵の中には、考慮に値するものは何もない。73歳のときには、動物、鳥、昆虫、魚の構造、草や植物の生命についても少しは理解していた。そして、86歳でさらに進歩し、90歳でその秘密の意味をさらに深く理解し、100歳までには、おそらく私は本当に驚異的で神聖なレベルに到達しているだろう。私が百110になったとき、一つ一つの点、一つ一つの線は、それ自体の生命を持っているだろう」

 

1839年、北斎のアトリエと作品の多くが火災で焼失した。この頃には、安藤広重などの若手作家の人気が高まり、北斎の制作は衰え始めていました。83歳のとき、北斎は裕福な農家の高井鴻山の招きで信濃国小布施(現長野県)に渡り、数年間滞在した。

 

小布施での滞在中、北斎は『男波』や『女波』などの傑作を制作した。 北斎は絵を描き続けることをやめず、87歳の時に『波の鴨』完成させている。

 

常により良い作品を求めていた北斎は、死に際に「あと10年だけ天が与えてくれれば...。あと5年あれば、本物の画家になれる」と死に際に叫んだという。

 

1849年5月10日(旧暦嘉永2年4月18日)に死去し、東京の聖教寺(台東区)に葬られた。

『女波』
『女波』


【作品解説】マルセル・デュシャン「階段を降りる裸体 No.2」

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階段を降りる裸体 No.2 / Nude Descending A Staircase, No. 2

キュビスム時代の集大成でデュシャンの出世作


マルセル・デュシャン「階段を降りる裸体No.2」(1912年)
マルセル・デュシャン「階段を降りる裸体No.2」(1912年)

概要


作者 マルセル・デュシャン
制作年 1912年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 147 cm × 89.2 cm
コレクション フィラデルフィア美術館

《階段を降りる裸体No.2》は、1912年にマルセル・デュシャンによって制作された油彩作品。147 cm × 89.2 cm。現在フィラデルフィア美術館内のルイス&ウォルター・アレンズバーグコレクションに所蔵されている。

 

本作はパブロ・ピカソの《アヴィニョンの娘たち》と並んで、最も近代美術を代表する作品の1つと広くみなされている。

 

1912年、パリのサロン・デ・アンデパンダンで初公開されたが、当時はデュシャンが所属していたキュビスム・グループから酷評された。その後、1912年4月20日から5月10日までバルセロナのダルマウ画廊が開催したキュビスム・グループ展で展示した。

 

しかし1913年に、ニューヨークのアーモリー・ショーで展示をおこなった際にセンセーショナルを巻き起こした。また、1913年に出版されたギヨーム・アポリネールの美術批評集『キュビスムの画家たち』に掲載され、しだいに注目を集めるようになる。

キュビスムを基盤にして制作


本作は一見したところ黄土色と茶色を中心に人物の抽象的な動きを表現したものとなっている。キュビスム未来派を融合させた状態で、デュシャンはこの作品で連続した人物イメージを重ねることで「動き」を表現しようとした。

 

1912年の発表した当時は、ピカソが1907年に発表した《アヴィニョンの娘》から始まったキュビスム・ムーブメントがちょうど下火になり始めているころだった。

 

キュビスムとは、ある対象をバラバラに分解し、分対象の特徴的なパーツを強調して再構成する手法である。万華鏡をのぞいた時の感じに近いともいえるが、細分化された個々のパーツにシンメトリーのような法則性はない点が異なる。

 

《階段を降りる裸体No.2》は、このキュビスム的手法を下敷きにして描かれている。デュシャンは元々キュビスム出身の画家で、パリのキュビズム派「セクション・ドール」と関わりの深い芸術家だった。ちなみにデュシャンの実兄であるジャック・ヴィヨンがセクション・ドールの中心的な人物だった。

時間を分解して平面的に表現


エドワード・マイブリッジ「階段を降りる女性」(1887年)
エドワード・マイブリッジ「階段を降りる女性」(1887年)

《階段を降りる裸体 No.2》が、これまでのキュビスムと異なるのは、「動き」「時間」といった四次元的な要素を分解して表現しようとした点である。二次元の画面に、三次元的立体性に加えて、さらに四次元性の時間的連続性を絵画に導入したのが大きなポイントとなる。

 

ちょうど同年の1912年に、デュシャンと同じく「動き」を表現する前衛芸術のグループ「未来派」が誕生しているが、デュシャンはそれより1年前にすでに油彩で「階段を降りる裸体」の下描きを描いているため、未来派の影響は受けていない。偶然、未来派と同じような表現を始めていたといってよいだろう。

 

また未来派の「動き」の概念とも異なる。未来派の「動き」の表現はイリュージョン的で、スピードを表現するような誇張的なものである。漫画でよくある足を何本も描くことで走っているように見せる表現というのが未来派の表現である。

 

対して、デュシャンの「動き」の表現は客観的で科学的な分析のようなものである。それは、変化していく対象の静止した表象の連続を写し取るもので、連続写真撮影やモーション・ピクチャーに近い

 

本作を制作する上で影響を受けていると思われる。フランスの生理学者で連続写真撮影機を発明したエティエンヌ=ジュール・マレーや、エドワード・マイブリッジが1887年に出版した「The Human Figure in Motion」内の「階段を降りる女性」の写真シリーズである。

未来派の画家ジャコモ・バッラ「つながれた犬のダイナミズム」。日本の漫画でキャラが走るときや手を動かす際にこのような表現が見られる。
未来派の画家ジャコモ・バッラ「つながれた犬のダイナミズム」。日本の漫画でキャラが走るときや手を動かす際にこのような表現が見られる。
エドワード・マイブリッジ「階段を降りる女性」(1887年)。デュシャンが影響を受けているのはこちらのほう。
エドワード・マイブリッジ「階段を降りる女性」(1887年)。デュシャンが影響を受けているのはこちらのほう。

ニューヨークで大反響


「階段を降りる裸体 No.2」は、1912年にパリのアンデパンダン展で始めて展示されたが、当時は大変な反発を受けた。おもな理由はその表題のせいだという。「階段を降りる裸体」とは、たいへんエロティックな興味をそそるタイトルだが、画面には裸体が見当たらない。それは仕方がない。デュシャンは、運動とともに変容する時空と物体を「線の移動」の連続として表現しているからである。

 

同展に参加していたデュシャンの兄たちは、仲間達からの苦情もありタイトルを変更するようデュシャンに要請したが、デュシャンはそれを拒否。なぜなら、アンデパンダン展にはもともと審査がないからである。

 

美術史家のピーター・ブルックによると、同じキュビスム・グループのアルベール・グレーズから、「本作を展示するかしないか、またはキュビスム・グループとして出品するかしないか、タイトルを変更するかしないか」というクレームがあったという。

 

デュシャンはのちに「私は兄のクレームに何も反論していない。クレームがあったとき、私はすぐにタクシーで会場にいって自分の作品を外して持ち帰った。この事件は私の人生におけるターニングポイントだったとおもう。私はその事件のあとキュビスム・グループへの関心がまったくなくなった」と話している。

 

翌年1913年にニューヨークのアーモリー・ショーで《階段を降りる裸体.No2》を展示する。この展覧会は公式には「国際近代美術展」という企画で、当時のアメリカの近代美術家と、パリで流行の近代美術が一同に集められた最初の主要な展覧会だった。

 

展示中に本作は、サンフランシスコの弁護士で画商のフレデリック・C・トレイが買い上げ、バークレイの自宅の階段の側に飾っていた。1919年にルイス&ウォルター・アレンズバーグ夫妻に売却され、1954年にフィラデルフィア美術館に遺贈された。

1913年アーモリー・ショー。キュビズムグループ展示。右から二番目が「階段を降りる裸体 No.2」
1913年アーモリー・ショー。キュビズムグループ展示。右から二番目が「階段を降りる裸体 No.2」
「階段を降りる裸体 No2」のパロディで地下鉄のラッシュを表したもの。「The New York Evening Sun」(1913年3月20日号)
「階段を降りる裸体 No2」のパロディで地下鉄のラッシュを表したもの。「The New York Evening Sun」(1913年3月20日号)
フレデリック・C・トレイの自宅に飾られてた頃の「階段を降りる裸体 No.2」
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