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【美術解説】前衛芸術「アヴァンギャルド」

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前衛芸術 / Avant-garde Art

アヴァンギャルド


パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」

概要


前衛の意味


前衛(アヴァンギャルド)とは、おもに芸術、文化、政治の分野における実験的、革新的な作品や人々のことを指す言葉である。

 

芸術や文化における前衛表現の特徴は、現在の規範や常識と思われている事象の限界点や境界線的な部分を前面に押し出す、または越境する傾向が見られる。現在も多くの芸術家は、前衛運動に参加しており、いまだ前衛は有効な言葉である。

 

前衛はもともと軍事用語で12世紀より本隊に先駆けて敵と対峙する前衛部隊のことを指していたが、19世紀より政治において、また20世紀初頭より文化や芸術に転用され、「大胆不敵さによって、先駆者の役割を果たす(と自負する)運動や集団」という意味を持つようになった。

 

転用されたのは1825年。サン=シモン派の社会主義者オランド・ロドリゲスが自身のエッセイで仲間に対して「アヴァンギャルド」と呼んだのが起源である。ロドリゲスは、社会的、政治的、経済改革のために「芸術の力は最も直截的、かつ最速の方法である」と主張し、芸術家を召集した。

前衛美術とは


前衛美術は、19世紀末から20世紀にかけて発生した視覚美術の革命で、1870年代の印象派から始まる。ギュスターヴ・クールベが美術的な意味での前衛を使ったのが前衛美術の起源とされる。

 

クールベは、それまでの美術においては決して描かれることのなかった貧民や労働者、理想化されたものではない普通のヌード絵画「世界の起源」を積極的に描いた画家として、当時、常識を逸脱した前衛的な画家だった。 

 

クールベの言語使用から考えても、「前衛」は、「意味がわからない」や「シュール」といった意味ではなく、その時代の常識を逸脱した先駆的な行為のことを指す。ただ逸脱するのではなく、”先駆性”が前衛にとって重要である。

写実と印象派の否定


なお、「美術」と「芸術」のちがいであるが、「美術」は、絵画や彫刻など中世から続く視覚形式の表現一般のことを指し(ビジュアル・アートという)、対して「芸術」は、音楽や文学、ダンス、パフォーマンスなどあらゆる表現形態のことを指す。このページでは、おもに前者の「前衛美術」についての解説をおこなう。

 

前衛美術は当初、国家権力や資産家の注文(王立アカデミーによって規定された絵画の様式、貴族の肖像、神話的題材)を断って、芸術家が発注側の規範に従わず、独自の自由創作を進める意味だった。

 

芸術家が、自分の思考や世界観を作品に投影し、その制作のプロセスの最初から最後まで自分でコントロールすること。このような芸術家の主張に対して、世界中の哲学者や資産家が支持した。これが前衛美術ムーブメントの始まりである。

 

こうした背景の仲、前衛美術家の多くは、古典的な写実主義を否定して、色や平面性などを中心に純粋な視覚性を目指す方向へ進む。生まれた絵画様式が、 印象派フォーヴィスムキュビスムダダイスムシュルレアリスム表現主義デ・ステイルロシア・アヴァンギャルドなどである。

アンリ・マティス『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)。フォーヴィスムが20世紀から始まる前衛美術の火蓋を切ったと言われる。その前の印象派に対する反発もあった。
アンリ・マティス『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)。フォーヴィスムが20世紀から始まる前衛美術の火蓋を切ったと言われる。その前の印象派に対する反発もあった。

大衆芸術への反発


しかし戦後になると前衛美術は、王様や貴族への反発から大衆芸術へ反発する形に変化する。

 

クレメント・グリーンバーグは、論文『アヴァンギャルドとキッチュ』で、前衛芸術を観客の批評能力を高めるものとする一方で、具象的な表現を多用する大衆芸術(映画、マンガ、イラストレーションなど)を、観客に刹那的な快楽を与えるだけで批評能力を鈍らせる後退的な「キッチュ」として批判した。

 

美術史家や批評家が、「前衛」「歴史的前衛」などの言葉を使うときは、おおよそこれらの芸術のことを指している。また日本の美大で教えられる美術も古典的な写実主義から前衛芸術までである。

 

また前衛美術は「モダン」「近代美術」「20世紀美術」「モダンアート」とも言われるが、さほど差異はない。

クレメント・グリーンバーグは、戦後アヴァンギャルドの定義を「大衆芸術(キッチュ)への対抗文化」と書き換えた。なお彼が支持していた具体的な芸術は抽象表現主義である。
クレメント・グリーンバーグは、戦後アヴァンギャルドの定義を「大衆芸術(キッチュ)への対抗文化」と書き換えた。なお彼が支持していた具体的な芸術は抽象表現主義である。

前衛美術と現代美術


前衛美術は、現代美術と部分的に重なりもするが、基本的に違う性質のものであると考えられている。

 

現代美術は、作品における視覚性を否定して、哲学的な考察や社会批判の要素が重要視される。また「観念」や「言葉」の部分が重要である。現代美術は「コンテンポラリーアート」「ポストモダン」とも言われる。

 

その起源はマルセル・デュシャンの「レディ・メイド」が現代美術の始まりとされ、抽象表現主義、ミニマルアート、コンセプチュアル・アート、フルクサス、ランドアートなど前衛美術と重なってもいる。前衛美術と現代美術のちがいは、「ヨーロッパ前衛美術とアメリカ前衛美術」、また「ヨーロッパ王侯貴族文化とアメリカの市民富裕層文化」の違いといえなくもない。

 

なお、前衛美術と現代美術は、基本的に同じマーケットで扱われる。大手ギャラリーの取扱う美術説明においては「modern and contemporary」と記載されることが多い。しかし、デザインやイラストレーションといった応用美術や、マンガやアニメーションなどのサブカルチャーと同じマーケットで扱われることは現在はない。 

現代美術のルーツとなるのは、ダダイスム時期のマルセル・デュシャンの作品「泉」(1917年)とされている。
現代美術のルーツとなるのは、ダダイスム時期のマルセル・デュシャンの作品「泉」(1917年)とされている。

おもな前衛美術家


おもな前衛美術の文脈


フォーヴィスム

ドイツ表現主義

キュビスム

ピュリスム

オルフィスム

セクションドール

未来派

・ヴォーティシズム

エコール・ド・パリ

ロシア・アヴァンギャルド

ロシア構成主義

シュプレマティズム

ダダイズム

デ・ステイル

バウハウス

形而上絵画

シュルレアリスム

・ヨーロッパ構成主義

・新即物主義

・アール・デコ

・メキシコ壁画運動

抽象表現主義

ネオ・ダダ

ポップ・アート

ミニマル・アート

コンセプチュアル・アート

 

・アングリー・ペンギン:Angry Penguins

・偶然性の音楽:Aleatoric music

・筆記体:Asemic writing

・純映画:Cinema pur

・コブラ:COBRA

・クリーシオニスモ:Creacionismo

・ドロップ・アート:Drop Art

・叙事演劇:Epic theater

・フルクサス:Fluxus

・グラフィティ:Graffiti

・具体:Gutai group

・ハプニング:Happening

・ハンガリー世代:Hungry generation

・イマジニズム:Imaginism

・イマジズム:Imagism

・印象派:Impressionism

・写真落描き:Incoherents

・ランド・アート:Land art

・レトリスム:Lettrisme

・ナビ派:Les Nabis

・叙情抽象:Lyrical abstraction

・メール・アート:Mail art

・ミュジーク・コンクレート:Musique concrète

・ネオアヴァンギャルド:Neoavanguardia

・ネオダダ:Neo-Dada

・ネオイズム:Neoism

・新スロバキア・アート:Neue Slowenische Kunst

・オルフィスム:Orphism

・ポストミニマリズム:Postminimalism

・プラカルパーナ:Prakalpana

・プリミティヴィズム:Primitivism

・レイヨニスム:Rayonism

・セリエル音楽:Serialism

・国際シチュエーショニスト:Situationist International

・ストリデンティスム:Stridentism

・スーパーフラット:Superflat

・スーパーストローク:Superstroke

・シュプレマティスム:Suprematism

・象徴主義:Symbolism

・タシスム:Tachisme

・即興演劇:Theatre of Cruelty

・国際構成主義:Universalismo Constructivo

・ウィーン行動派:Viennese Actionism

・ヴォーティシズム:Vorticism

おもな前衛写真家、映像作家


・ジョン・アブラハム(インドの映像作家)

・ケネス・アンガー(アメリカの映像作家)

ダイアン・アーバス(アメリカの写真家)

・ベレニス・アボット(アメリカの写真家)

・マシュー・バーニー(アメリカの現代美術家)

・ヨルダン・ベルソン(アメリカの映像作家)

・パトリック・ボカノウスキー(フランスの映像作家)

・スタン・ブラッケージ(アメリカの映像作家)

ルイス・ブニュエル(スペインの映像作家)

・ジョン・カサヴェテス(アメリカの映像作家)

・ヴェラ・ヒティロヴァ(チェコスロバキの映像作家)

・ジャン・コクトー(フランスの詩人)

・ブルース・コナー(アメリカの映像作家)

・トニー・コンラッド(アメリカの映像作家)

・マヤ・デレン(アメリカの映像作家)

・ナサニエル・ドースキー(アメリカの映像作家)

・ジェルメーヌ・デュラック(フランスの映像作家)

・ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(ドイツの映像作家)

・デイビット・ガッテン(アメリカの映像作家)

・アーニー・ジェ(アメリカの映像作家)

・ジャン=リュック・ゴダール(フランスの映像作家)

・フィリップ・グランドリュー(フランスの映像作家)

・ピーター・ハットン(アメリカの映像作家)

・ケン・ジェイコブス(アメリカの映像作家)

アレハンドロ・ホドロフスキー(チリの映像作家)

・メアリー・ジョーダン(アメリカの映像作家)

ヤロミル・イレシュ(チェコの映像作家)

・ハーモニー・コリン(アメリカの映像作家)

・カート・クレン(オーストリアの映像作家)

・ヨルゲン・レス(デンマークの映像作家)

デビッド・リンチ(アメリカの映像作家)

ロバート・メイプルソープ(アメリカの写真家)

・ジョナス・メカス(リトアニアの映像作家)

・オットー・ミュール(オーストリアの映像作家)

・ダッドリー・マーフィー(アメリカの映像作家)

・中村隆太郎(日本の映像作家)

・ニコス・ニコライディス(ギリシアの映像作家)

・押井守(日本の映像作家)

・ピエル・パオロ・パゾリーニ(イタリアの映像作家)

マン・レイ(アメリカ・フランスの写真家)

・アラン・レネ(フランスの映像作家)

・ジャン・ルーシュ(フランスの映像作家)

・ルドルフ・シュワルツコグラー(オーストリアの映像作家)

・ジャック・スミス(アメリカの映像作家)

・マイケル・スノー(カナダの映像作家)

・園子温(日本の映像作家)

・ペリー・マーク・ストレシーチャンク(カナダの映像作家)

・フィル・ソロモン(アメリカの映像作家)

・レオポルド・シュルヴァージュ(フランスの芸術家)

寺山修司(日本の劇作家、映像作家)

・ラース・フォン・トリアー(デンマークの映像作家)

アンディ・ウォーホル(アメリカの現代美術家)

・ピーター・ウェイベル(オーストリアの映像作家)

ジョエル・ピーター・ウィトキン(オーストリアの写真家)

・フレッド・ワーデン(アメリカの映像作家)

・山本悍右(日本の写真家)

 

年譜表


年代  
1905年

・ドレスデンでブリュッケ結成。

・フォーヴィスムの登場。

・スティーグリッツ、前衛芸術のギャラリー「291」開設。

1907年

・ピカソ『アヴィニョンの娘たち』を制作。

・カーンワイラーがパリに画廊を開く。

・ミュンヘンでドイツ工作同盟結成。

1908年

・キュビスムが誕生。

1909年

・マリネッティ「未来主義宣言」を発表。

・分析的キュビスム

・カンディンスキーら、ミュンヘンで新芸術家協会を設立。

1910年

・ボッチョーニら「未来主義画家宣言」。

・ロンドンで「マネと後期印象派」展開祭。後期印象という言葉の由来となる。

・表現主義雑誌「シュトゥルム」創刊。

1911年

・アンデパンダン展で第二世代のキュビストがデビュー。

・ミュンヘンでカンディンスキーら「青騎士」結成。

1912年

・ボッチョーニ「未来主義彫刻技術宣言」。

・セクションドール展開催。

・『キュビスム論』刊行。

・総合的キュビスム。

・カーンワイラーがピカソ、ブラックと独占契約。

1913年

・ニューヨークでアーモリー・ショー開催。

・ブリュッケ解散。

・シュープレマティスムの運動が始まる。

・デュシャン、最初のレディ・メイド作品を制作。

1914年

・サンテリア「未来派建築宣言」

1915年

・マレーヴィッチの「シュープレマティスム宣言」。

1916年

・チューリヒでダダイスム誕生。

1917年

・デュシャンの『泉』、アンデパンダン展で展示を拒否される。

・アポリネールがシュルレアリスムという言葉を初めて使う。

・ドースブルフを中心に、デ・ステイルの活動開始。

・デ・キリコらが形而上絵画派を結成。

1918年

・ル・コルビュジェ、オザンファンがピュリスムを創始。

1919年

・ワイマールにバウハウス設立

1920年

・ピュリスムの機関誌「レスプリ・ヌーヴォー」創刊。

・キャサリン・ドライヤーがソシエテ・アノニムを設立。

・ベルリンで「ダダ」展。

・モスクワで「ロシア構成主義」展。

1921年

・ワシントンにフィリップス・コレクション開館。

1922年

・パウル・クレー、バウハウスの教授となる。

・カンディンスキー、バウハウスの教授となる。

・ミラノでノヴェチェント・イタリアーノ・グループ結成。

・フィラデルフィアにバーンズ財団創設。

1923年 ・シュヴィッタース「メルツ建築」を構築。
1924年

・ブルトン「シュルレアリスム宣言」を発表。

1925年

・パリで「近代の装飾および産業芸術の国際展」(アール・デコ展)開催。

・マンハイム市立美術館で「新即物主義」展。

1929年

・ニューヨーク近代美術館創設。

1930年

・ブルトンが雑誌「革命に奉仕するシュルレアリスム」創刊。

1931年

・パリで「抽象・創造」グループ結成。

1933年

・バウハウス閉鎖。

1935年

・アメリカでれんぽう芸術事業開始。

1937年

・ピカソ『ゲルニカ』制作。パリ万博のスペイン館に展示。

・ナチスが「頽廃芸術展」と「偉大なるドイツ美術展」を開催。

1939年 ・ニューヨークに非対象絵画美術館(後のグッゲンハイム美術館)開館。
1942年 ・ペギー・グッゲンハイム、ニューヨークに画廊開設。
1947年 ・ポロック、ドリッピングの技法を披露。
1948年 ・コブラ・グループ結成。
1954年 ・ジャスパー・ジョーンズ『旗』制作。
1956年 ・「これが明日だ」展にハミルトンがポップ・アートの先駆けとなる作品を発表。
1962年 ・ウォーホル『キャンベル・スープ』を制作。

 

参考文献



【美術解説】オードリー・カワサキ「L.Aアートシーンの耽美派」

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オードリー・カワサキ/Audrey Kawasaki

L.Aアートシーンの新星


概要


生年月日 1982年3月31日
国籍  アメリカ
活動地域 ロサンゼルス
スタイル ポップシュルレアリスム
表現媒体 絵画、イラスト
関連サイト

公式サイト

Facebook

ThinkSpaceギャラリー(取扱画廊)

Arsty

オードリー川崎(1982年3月31日、カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ)は、ロサンゼルスを拠点としている画家、ポップシュルレアリスト。性衝動の強い思春期少女のエロティックなポートレイトが代表的な作品。

 

「VOGUE」や「Y ArtsMagazine」をはじめ、海外メディアでは「L.Aシーンの新世代アーティスト」「コンテンポラリーアートの旗手」として高い評価を受けている。

 

エロティックさとイノセンスさの両面を持ち合わせた思春期少女を日本のマンガ的な線で描く。特徴はその目つき。彼女の絵に出てくる少女の目つきはほぼ一貫して色目。まず色目を描いて、そのあと輪郭や身体など周りのパーツを書き加えているのではないかと思うほど目に凝っている。そのあたりはグスタフ・クリムトミュシャの影響が大きい。


また、マンガを中心とした日本のサブカルチャーに影響を受けて育ったこともあり、日本人に親しみやすい絵柄である。実際のところ、最初はマンガ芸術家になりかったという。

 

キャンバスに利用しているのはウッドボード。木目が生み出すナチュラルなユラユラ感が、幻想的で耽美な世界観をより引き立てている。そこには19世紀末の有機的な自由曲線を利用したアール・ヌーボーの影響が見受けられる。

「It Was You」
「It Was You」
「Always Here」
「Always Here」

最近の活動


絵画(ゼルダ30週年記念イベント用作品)

「Dreaming of Koholint Island」(2016年)
「Dreaming of Koholint Island」(2016年)

グラフィティ(Pow! Wow! Hawaii! 2016)

「The Siren」23ft x 37ft (2016年)
「The Siren」23ft x 37ft (2016年)

立体(ボックス作品グループ展「In Box」)

略歴


幼少期


オードリー川崎は、1982年3月31日にカリフォルニア州ロサンゼルスで、ともに日系アメリカ人の両親の間に生まれ、日本とアメリカ両方の倫理観と考え方、文化の中で育つ。控えめな内気さや感情抑える日本人的なところと、新しい実験的な表現に挑戦するアメリカ人の両方を内在しているという。


子どもの頃は、毎週土曜日に日本人学校に通っており、そこで日本のマンガを読んだり、日本のテレビ番組を見たり、日本のポップ・ミュージックを聞いていたという。そのため日系二世にしては日本語はかなり流暢に話せる。


絵は、子どもの頃にマンガの影響からドローイングを描き始め、中学生の頃から意識的にファンアートの勉強をし始めたという。

美大時代


川崎は高校卒業後、ハンボルト・レッドウッドという小さな町に移るが、すぐにロサンゼルスへ戻り、続いてヨーク市マンハッタン、ブルックリンにある私立美術学校「プラット・インスティテュート」に入学。

 

2年間ファイン・アートの勉強するが退学する。退学理由は、教授から個人的な絵画スタイルをやめるよう指導を受けたこと。学校が重視する伝統的な美術表現的手法とは全く違っていたためである。


川崎自身は、そもそもニューヨークの学校が“コンセプチャル”なニューヨーク・アートの原理原則に沿って追求する姿勢であることは分かっていた。ただ入学後、川崎にとってファイン・アートは敷居が高く、とても到達できないことが分かったため自主的に退学したという。

Pratt Institute
Pratt Institute

ロサンゼルスへ移動


退学後、ロサンゼルスを中心としたロウブロウな西海外であれば若いアーティストを受け入れてくれるだろうと思い、ロサンゼルスに活動の場を移す。

 

2003年にロサンゼルスの喫茶店「Rooms Cafe」。壁面での展示だった。そこでギャラリーオーナーと出会い、23歳のときに正式の初個展となる。

 

2006年ごろから評価を高め、L.Aアートシーンの新星と評価されるようになった。またインターネットでの露出の機会が多いこともあって、ソーシャルメディア、アート関係のウェブサイト、ブログ、フォーラム等で多くの人に注目してもらえたという。


2005年にはアリス・スミスの『For Lovers, Dreamers & Me.』のジャケットを担当。2011年にはシンガー・ソングライターのクリスティーナ・ペリーが川崎の作品「My Dishonest Heart」が、アメリカで最も有名な彫師Kat Von Dの手により右腕に彫られたことが話題になった。

アリス・スミス『For Lovers, Dreamers & Me.』
アリス・スミス『For Lovers, Dreamers & Me.』
クリスティーナ・ペリー。右腕に川崎の絵が彫られている。
クリスティーナ・ペリー。右腕に川崎の絵が彫られている。

日本での活動


2009年5月には、日本でもSpace Yuiにて個展が行われた。日本で展覧会期を発表すると同時に作品予約が殺到という前代未聞の世界中にファンを持つオードリー・カワサキ。世界各国のファンが集まった。



影響


日本の文化


マンガ:いくえみ稜、矢沢あい、楠桂の「鬼切丸」、田村由美、CLANPの「Tokyo Babylon」「X」

映画:岩井俊二「スワロウテイル」

テレビドラマ:「未成年」

古典美術


様式:アール・ヌーボー

画家:アルフォンス・ミュシャ、グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ

【美術解説】ベルリン・ダダ

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ベルリン・ダダ / Berlin Dada

政治性や社会性と密接なダダ運動


概要


ベルリンのダダグループは、ほかのダダ運動ほど「反芸術」の主張はなく、彼らの行動と芸術はおもに政治性・社会性と密接なものだった。

 

政治的主張が極めて高く、辛辣なマニフェストやプロパガンダ、風刺、公共での実演などの表現が中心だった。これはヨーロッパから距離が離れていたため戦争の影響が少なかったニューヨークでダダ運動と政治との関わりが薄かったことと真逆の理由であると考えられる。

 

1918年2月、ヒュルゼンベックはベルリンで最初のダダのスピーチを行い、4月にドイツにおけるダダ宣言を行った。この宣言にはツァラ、アルプ、ヤンコ、バルらも署名している。

 

ハンナ・ヘッヒやゲオルゲ・グロッスはダダを第一世界大戦後の共産主義の共鳴表現として利用した。また、この時期にグロスはジョン·ハートフィールドやラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘッヒらとフォトモンタージュを開発した。

 

ドイツのダダイストたちは過激な政治雑誌を発行し、1920年には「第一回国際ダダ展覧会」を開催した。ベルリンのダダイストとしてよく知られているのは、リヒャルト・ヒュルゼンベック、ゲオルゲ・グロッス、ジョン・ハートフィールド、ラウル・ハウスマン、ヨハネス・バーダー、ハンナ・ヘッヒ、ヴァルター・メーリング、ゲルハルト・プライス、ヴィーラント・ヘルツフェルデなどである。

 

なおダダ展示会にはマックス・エルンストやフランシス・ピカビアも参加した。そのなかには、1937年のナチスの頽廃芸術展に出展されたものもいる。

あわせて読みたい


【作品解説】マルセル・デュシャン「処女から花嫁への移行」

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処女から花嫁への移行 / The Passage from Virgin to Bride

純粋芸術からエロティシズムへの移行


マルセル・デュシャン「処女から花嫁への移行」(1912年)
マルセル・デュシャン「処女から花嫁への移行」(1912年)

概要


作者 マルセル・デュシャン
制作年 1912年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 59 cm x 54 cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《処女から花嫁への移行》は、1912年にマルセル・デュシャンによって制作された油彩作品。《階段を降りる裸体 No.2》《花嫁》の間の時期に描かれた作品で、ミュンヘンに2ヶ月間滞在していた時期に描かれた作品群《処女 No.1》《処女 No.2》《処女から花嫁への移行》《花嫁》《飛行機》の1つに当たる。

 

本作では、それまでデュシャンが基盤としていたキュビスムや運動の変化を表現する線が消え、それまでと違った視点を取り入れようとしている。その違った視点とは、この後の《大ガラス》をはじめ、デュシャンの作品に頻繁に現れはじめる機械的要素である。肉体を機械のオブジェとしてとらえはじめた移行期の作品である。

 

処女とはキュビズム以前の絵画を、花嫁とはキュビズム以降の作品のことを指している。その間の移行期にある作品だから《処女から花嫁への移行》というわけである。

 

デュシャンは、《階段を降りる裸体 No.2》をパリで発表したとき批難を受け自主的に作品を取り除き、キュビズムグループから距離をとりはじめた。その後、二ヶ月間ミュンヘンに滞在しているが、そのときな詳細なプライベートな生活に関する記録は残っていない。

 

キュビスムを捨てて、コンセプチュアル・アートへと移行しはじめたこの作家としての行く末を左右する二ヶ月間に、デュシャンが何を考え、何をしていたかについてはほとんどわかっていないし、デュシャンもまたそうであってほしいと願うモラトリアムの時期だったと思われる。外の世界からすっかり切りはなされた暮らしをしたいという衝動が、デュシャンにあったといわれる。

 

デュシャン自身「ミュンヘンでの滞在では、わたし自身の完全な解放の好機となった。なぜなら、このときに、私は大きな作品(大ガラス)の基本的なプランをたてたからである」と語っているように、この二ヶ月間で、それまでデュシャンが影響を受けていた美術知識やキュビズムを一気に捨ててしまうようになる。そうした状況下で制作された作品である。

純粋美術とエロティシズムの融合


デュシャンにおける「処女」とは、キュビスムをはじめとした当時流行していたカンディンスキーの純粋美術のことを暗喩している。純粋芸術という言葉はギヨーム・アポリネールがつけたという。

 

ミュンヘンに滞在時、デュシャンはロシアの偉大な画家であり理想化であるカンディンスキーの純粋芸術絵画を目の当たりにしていたが、これら抽象芸術の画家やドイツ表現主義にほとんど興味を覚えなかった。むしろ、抽象芸術に対する皮肉な反応をした作品ともいえる。

 

デュシャンは20世紀美術の最重要課題である「純粋」な抽象の問題に無関心だった。デュシャンにとって「抽象」や「具象」や表現する際の道具に過ぎず、それが「イズム」「思想」になるとは思えなかった。実際に、大ガラスでも、花嫁の部分は抽象的に表現されているが、独身者の部分は抽象とは程遠く、具象オブジェである。

 

そして、デュシャンは「純粋美術にエロティシズム」入れるというアイデアを考えた。デュシャンにとって「セックス」とは「機械」に置き換えられることが多々ある。現にこのあとに制作された《花嫁》は人間的な移動の力学を捨て去って、科学装置のような冷たい精密さと動物のような肉感のある色調で描かれている。

マルセル・デュシャン《花嫁》1912年
マルセル・デュシャン《花嫁》1912年

■参考文献

・マルセル・デュシャン自伝(カルヴィン・トムキンズ)

・デュシャン 人と作品(フィラデルフィア美術館)

MoMa「処女から花嫁への移行」

https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/art/great-works/duchamp-marcel-the-passage-from-virgin-to-bride-1912-801476.html、2020年5月16日


【作品解説】マルセル・デュシャン「アネミックシネマ」

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アネミックシネマ / Anemic Cinema

視覚的錯覚と言語的錯覚の融合した実験映像


概要


作者 マルセル・デュシャン
制作年 1926年
メディウム ドローイング、映像
長さ 7分

《アネミックシネマ》は1926年にマルセル・デュシャンによって制作された実験映像。マン・レイが撮影協力をしている。

 

《ロトレリーフ》と呼ばれるデュシャンのドローイング作品を回転させたアニメーションで、10枚の「螺旋のある円盤」と9枚の「地口を書いた円盤」が、交互にひとつずつゆっくり回転しながら映しだされる。

 

「地口を書いた円盤」の方には「ローズ・セラヴィ」に収められたような語呂合わせが、ひとつずつ螺旋を描いて書き込まれている。題名のアネミックシネマ(Anemic Cinema)は、反対から読んでも同じように聞こえ、一見、回分のようなアナグラムによる言葉遊びがされている。視覚的な錯覚と言語的な錯覚をひとつに組み合わせた作品である。

 

なお、デュシャンは1920年に「回転ガラス板」という光学装置を作っており、《アネミックシネマ》は、その「回転ガラス板」の系譜に当たる作品である。

 

デュシャンによれば、「回転する機械を組み立てるかわりに、なぜフィルムを回さないのか、それのほうが回転する機械を作って錯視遊びをするより、ずっと楽だろう」と思いつき、制作にいたったという。

 

なお、映像にはデュシャンの女装用の名前であるローズ・セラヴィの名前がサインされている。


 ■参考文献

・「マルセル・デュシャン」カルヴィン・トムキンズ

 

 


【美術解説】ドナルド・ジャッド「ミニマリズム」

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ドナルド・ジャッド / Donald Judd

近代純粋彫刻の創造者


「無題」(1989年)
「無題」(1989年)

概要


生年月日 1928年6月3日
死没月日 1994年2月12日
国籍 アメリカ
表現媒体 彫刻
スタイル ミニマリズム
公式サイト

ドナルド・ジャッド財団

デビッド・ズワイナーギャラリー公式ページ

MoMA公式ページ

ドナルド・クラレンス・ジャッド(1928年6月3日-1994年2月12日)はアメリカの美術家。ミニマリズム・ムーブメントの中心的人物であり(彼自身はミニマリズムという言葉を否定している)、戦後のアメリカ美術に最も変革をもたらした芸術家の1人。

 

ジャッドはこれまでのヨーロッパの彫刻の表現を根本的に変革し、近代彫刻の新しい流れを決定づけた事で一般的に知られる。アルミニウムやコルテン鋼など産業素材と呼ばれるものを芸術に導入し、抽象的な彫刻を制作。色彩、形態における純粋性、空間と作品の関係性を追求した。

 

ジャッドは、これまでの物語や象徴のための芸術を脱して、制作された物体が周囲の環境と関係づけられずに、作品が自律する純粋芸術を目指した。そのため作品にタイトルを付けることはなくほとんどが「無題」であり、また、キュレーターの企画によって作品が意味づけられて展示したり、時代を俯瞰する展覧会への出品を拒否していた。

 

ジャッド自身はミニマル・アートとのレッテルを貼られることに対して否定的だったが、一般的には「ミニマリズム」の代表者とみなされており、またミニマリズムの重要な美術理論書「明確な物体(スペシフィック・オブジェ)」(1964年)の著者として認識されている。

 

ジャッドは『アーツ・イヤーブック8』の中で、自身がミニマリズムと認識されることに対して批難している。

 

「新しい立体作品は、ムーブメントや流派、スタイルをなしていない。共通点とされるのがあまりに大雑把であり、ムーブメントとして定義するには共通点が少なすぎる。類似点よりも相違点の方が大きい」

 

また、ジャッドはファイン・アート作品とは別に、家具や建築のデザインもしていた。

 

1964年にダンサーのジュリー・フィンチと結婚(のちに離婚)。2人の間に2人の子どもを儲けている。1994年、2月12日、ニューヨークにて悪性リンパ腫により死去。

重要ポイント


  • ミニマリズムの代表的な芸術家(自身は否定)
  • 素材に産業素材を用いた
  • 環境や言葉に従属せず作品単体として自律する純粋芸術を追求した
「無題」(1968年)
「無題」(1968年)
「無題」(1991年)
「無題」(1991年)

略歴


若齢期


ドナルド・ジャッドは、1928年6月3日、アメリカ、ミズーリ州エクセルシアースプリングズで生まれた。10代半ばまでに6度の転居を経験。教師の勧めで11歳の時に美術教室に通い始める。高校卒業後、1946〜47年に軍隊生活で朝鮮戦争に参加する。


1948年にウィリアム・アンド・メアリー大学で哲学を学ぶ。1949年にニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグの夜間クラスで絵画を学び、昼はコロンビア大学で哲学を学んだ。この頃、論理実証主義やプラグマティズムに傾倒し、哲学の学位を取得している。


1950年代には絵画に取り組んだが、この時期の風景画や風景に基づく抽象絵画は、カタログ・レゾネ(全作品目録)には収録されていない。


1952年にニュージャージーで最初のグループ展を開催し、1957年にニューヨークのパノラマ画廊で抽象表現主義の初個展を開催するも、自作に不満を抱える。1950年台なかばから1961年まで、ジャッドはウッドカット素材を研究を始めたのをきっかけに、ますます抽象的なイメージの方向へ進んでいった。

明確な物体


「無題」1962年
「無題」1962年

アーティストとしての活動のかたわら、57〜62年にかけてコロンビア大学の修士課程でメイヤー・シャピロらのもと美術史を学ぶ。ルネサンス建築から20世紀美術まで幅広く研究した。

 

在学中から美術雑誌『アーツ』誌に展覧会評を書いて収入を得るようになる。抽象表現主義以後の展開へもさかんに言及。きわめて旺盛な活動により批評家として一定の認知を得るようになる。

 

この頃から、ジャッドは従来の物語的な絵画様式から離れ絵画の物質そのものが自律する方向へ移行し始めた。

 

62年に絵画制作をやめ、レリーフ状の作品、さらに床に置かれる自律した作品の制作を始める。62年に木とパイプを組み合わせ、メッキを施し、もしくは金属を用いて床面に設置する箱型の作品を制作した後、箱型を発展し上積みして構成する「スタック(=積み重ね)」や、特定の数列に基づいて構成される「プログレッション(=数列) 」作品のシリーズへと発展して行く。

 

以後30年間のその独自のスタイルにこだわり続けた。これらの作品は63年末から始まったグリーン・ギャラリーでの個展は発表された。

 

63年にグリーン・ギャラリーでの個展までジャッドは個展をしておらず、ジャッド自身も作品の展示をしようと思わなかったという。

 

1965年に初めて「スタック」が制作され、床から天井まで同型の薄い箱状の鉄の立体が縦一列に並べられた。また同年1964年、自らの芸術作品が従来の絵画や彫刻とは異なるゆえんを論じたテクスト、『明確な物体(スペシフィック・オブジェクト)』を発表。エッセイでジャッドはアメリカ現代美術の新しい領域のスタート地点を発見し、また同時にこれまでのヨーロッパ的な美術価値観を拒否した。

 

作品の大半は「明確なオブジェ」で解説されたようなシンプルな構造で、空間と空間の使い方を追求した反復した形態で、素材には金属やプレクシグラス、工業用塗料、コンクリートといった素材が使われている。それらの作風は一般的に「フロア・ボックス・ストラクチャー」と呼ばれることがある。

 

1968年にジャッドはニューヨークで五階建てのビルを自前で購入し、そこで、美術館やギャラリーに展示するのと同じように自身の作品を常設展示をし始めた。ジャッドは展覧会での一時的な展示は、キュレーターによって構成されているため、キュレーターの介入が入らないような状態にしたかったという。ジャッドにとって芸術と建築にとって一番良いのは、それが描かれ、置かれ、建てられた場所に永久に留まることだという。

 

 

成熟期


1970年代初頭になると、ジャッドの作品はより規模が大きくなり、また複雑化していった。

 

ジャッドは、ジャッド自身の遊び場や物理的な体験ができるような部屋サイズのインスタレーション作品を制作し始めた。1970年代から1980年代にかけてジャッドは、ヨーロッパの古典的な具象彫刻の理想と正反対の過激な彫刻作品を制作し始める。

 

1976年に、全米芸術基金やノーザンケンタッキー大学から支援を受け、ジャッドは2.7メートルにアルミニウム彫刻作品を学校のキャンパスの真ん中に設置した。また1984年にはローメイヤー彫刻公園では鉄筋コンクリート製の3つの作品『無題』が設置された。

 

ジャッドは1972年頃から素材に合板を用い始める。耐久性が高い構造の作品素材として人気が出始めた頃で、ジャッドにとって合板は作品の歪みの問題を回避しつつ、作品の大きさを拡大させることを可能にしてくれたという。1980年代には、大規模な屋外作品制作の素材としてコルテン鋼を使いはじめた。

「BOX」(1975-1977年)
「BOX」(1975-1977年)
「無題」(1984年)
「無題」(1984年)

晩年期


晩年期のジャッドは、家具、デザイン、建築の仕事も始めた。しかし、デザイン業とアート作品は別々のものであるよう注意していた。

 

最初の家具制作はジャッドがニューヨークからマーファに移動した1973年に制作された。イス、ベッド、棚、机、テーブルの制作が行われた。マーファで販売されていた家具のデザインに不満を持ち、ジャッド自身が家具のデザインをしはじめたのが家具制作のきっかけだったという。

 

当初はラフに自分で作っていたが、次第に木製家具の制作に夢中になり、洗練しはじめる。さらに職人をを雇いだし、世界中の技術と材料、さまざまな方法を使って家具製作をしはじめた。

ジャッド・ファニチャー



重要な展示


・1957年にパノラマ・ギャラリーでジャッドは初個展を開催。

・1968年にニューヨークのホイットニー・アメリカ美術館が回顧展を開催。

また、1968年から数十年間ジャッドは、ジョン・シモン・グッゲンハイム記念財団をはじめ多くの支援者から受けてきた。

 

・1975年にオタワにあるカナダ国立美術館はジャッドの展覧会と作品集を出版。

・1980年に初めてヴェネチア・ヴィエンナーレに参加し、1982年にカッセルのドクメンタに参加。

・1987年にオランダのファンアッベ市立美術館での大規模な個展を開催。この展覧会は、デュッセルドルフ、パリ、バルセロナ、トリノへ巡遊した。

 

・ホイットニー美術館は1988年に2回目の巡遊回顧展を開催。

・2004年にテイト・モダンで展覧会が行われた。

 

 

コレクション


ジャッドの作品は、オーストリア国立工芸美術館(ウィーン)、テヘラン現代美術館(イラン)、スイス近代美術館(スイス)、テイト・モダン(ロンドン)、シカゴ現代美術館(シカゴ)、サンフランシスコ近代美術館(カリフォルニア)、ヒューストン美術館(ワシントン)、イスラエル美術館(エルサレム)など世界中の美術館で収蔵されている。

 

 


【美術解説】ジョセフ・クレパン「未来を預言する霊媒画家」

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ジョゼフ・クレパン / Joseph Crepin

未来を預言する霊媒画家


『dessin n°8』(1939年)
『dessin n°8』(1939年)

概要


生年月日 1875年
死没月日 1948年
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント シュルレアリスムアール・ブリュット

ジョゼフ・クレパン(1875年~1948年)は、フランスのトタン屋根職人。民間医療施術者。アール・ブリュットの画家。


クレパンは一種の民間療法の医者で、段ボール紙をハート型に切り抜いて、これを病人の患部にのせることで治療をしていたという。

 

しかし、当然ながら医療法にひっかかることになり、その筋の追求を受ける。ただ彼は治療の代金を受け取ることなく、妙な薬を調合するわけでもなかったので、当局からは大目に見られた。

 

クレパンの描く絵は、左右対称シンメトリーの奇怪な偶像、あるいはインドやエジプト風の寺院の絵である。絵は63歳から描き始める。

 

1938年のある晩、楽譜を写していると、彼の手が五線紙のあいだの音符を書くことをやめ、ひとりでに手が動き出して、自分でもよくわからない不思議な幾何学的な図形を描き始めたという。翌年、数冊のノートが寺院や壺や彫刻や星のドローイングで埋め尽くされたとき、クレパンはお告げを受けた。

 

「お前が300枚目の絵を描き上げたら、戦争が終わるだろう」というのである。

 

クレパンは、霊的で芸術的な力が引き出されると信じながらお告げに従いこの仕事に専念した。事実、1945年5月7日、ドイツが降伏したその日が彼が300枚目の絵に署名をした日であった。

 

さらにその後、同じお告げの声が「45枚のシリーズを描きあげた日に、お前の仕事と運命が完成されるだろう」と語った。

 

クレパンは、1947年10月に第二のシリーズにとりかかった。そして、1948年、彼の死の数日前に43点が完成されたところでクレパンは死んだ。

『Composition n°151』(1941年)
『Composition n°151』(1941年)
『Composition n°6』(1938年)
『Composition n°6』(1938年)
『Dessin n°8』(1939年)
『Dessin n°8』(1939年)
『Sans titre』(1941年)
『Sans titre』(1941年)
『Sans titre』(1938年)
『Sans titre』(1938年)
『Sans titre』(1939年)
『Sans titre』(1939年)

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Crepin、2020年5月17日アクセス

・澁澤龍彦 西欧芸術論集成(河出書房)


【美術解説】米倉寿仁「文明崩壊と第2次世界大戦の予兆」

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米倉寿仁 / Hisahito Yonekura

文明崩壊と第二世界大戦の予兆


《ヨーロッパの危機》1936年
《ヨーロッパの危機》1936年

概要


生年月日 1905年
死没月日 1994年
国籍 日本
ムーブメント 戦後日本の近代美術

米倉寿仁(1905-1994)は日本の画家。山梨県甲府市生まれ。名古屋高等商業学校卒業。大正15年、名古屋高等商業学校を卒業後、郷里に帰り教職につくかたわら、絵を独学で学ぶ。

 

1931年、「ジャン・コクトオの『夜曲』による」が、第18回二科展初入選。1935年より独立展に出品。福沢一郎と知己になる。1936年個展(銀座、紀伊国屋画廊)、1937年阿部芳文と二人展を二回開催(銀座、日本サロン)、またグループ「飾画」に参加。詩集『透明ナ歳月』を刊行(西東書林)。1938年創紀美術協会結成に参加。1939年美術文化協会結成に参加。戦後は1951年美術文化協会を脱退し、翌年サロン・ド・ジュワンを結成して活動。

 

サルバドール・ダリの影響が濃く見られる。代表的な作品は1936年に発表した《ヨーロッパの危機》。発表時の題名は「世界の危機」。ダリのおなじみのモチーフである卵からコンパスや機械など合理性を彷彿させるモチーフが飛び出している。背景はダリのカダケスの風景とよく似ている。

 

米倉はこの作品について「ヨーロッパ的物質文明の崩壊による第二次大戦への予感」と回想している。

『破局(寂滅の日)』(1939年)
『破局(寂滅の日)』(1939年)
『早春』(1940年)
『早春』(1940年)

■参考文献

・「地平線の夢 昭和10年代の幻想絵画」



【作品解説】ジョルジョ・デ・キリコ「通りの神秘と憂愁」

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通りの神秘と憂鬱 / Melancholy and Mystery of a Street

光と闇の狭間を不安げにひた走る少女


ジョルジョ・デ・キリコ《通りの神秘と憂愁》1914年
ジョルジョ・デ・キリコ《通りの神秘と憂愁》1914年

概要


作者 ジョルジュ・デ・キリコ
制作年 1914年 
メディウム キャンバスに油彩
サイズ 87×73cm
所蔵者 個人蔵

少女と影を通してのみ存在が分かる彫像の二人の出会い


《通りの神秘と憂鬱》は1914年にジョルジョ・デ・キリコによって描かれた油彩作品。87×73cm。個人蔵。

 

作品は輪を回して走っている少女と影を通してのみ存在が分かる彫像の二人の出会いを表現している。少女は右の暗い建物の後ろから差し込む光源の方向へ輪を回しながら走っており、左の建物のアーケードは対照的に明るく照らしだされている。

 

地平線まで伸びる黄色に光り輝く道は、光と闇の2つの建物を分離する。少女はひたすらグルグルグルグルと輪を回転させながら、怪しげな影の向こうにある方向へ不安げに進む。

 

画面左側の永遠に続く円形アーケードの明るい壁と少女が回す輪が対応し、また右側の途切れる暗い壁は、奥に見える彫像の影と対応している。手前にあるのは馬車である。

 

この作品は第一次世界大戦が始まった直後の1914年に描かれたものであり、またキリコが従軍する前年に描かれたもので、戦争に対する不安が反映されているように見える。少女はキリコ自身、大きな彫像の影は戦争や死を暗喩していると思われる。

 

「戦争の結果は、おそらくこのような絵のものになる」だろうとキリコはこの絵に関してコメントしている。

トリノのポルチコの街並みから着想


描かれている場所はイタリアのトリノです。当時のトリノの街には、きわめて特徴的な全く同じ長いアーケードの建物「ポルチコ」がたくさんあったという。トリノではポルチコが18 km にわたって伸びており、観光名所となっている。

複数の消失点が違和感を生じさせている


この作品でキリコは意図的に1つの絵画のなかに消失点を複数取り入れている。

 

左側の白い壁のほうの消失点は並列するアーチが続く方向にあるが、右側の黒い建物消失点は手前の馬車の屋根の中心あたりに設定されている。

 

この消失点の違いが非現実的なパラレル空間を生み出す効果を担い、のちのシュルレアリスム運動にも大きな影響を与えた。

形而上絵画運動の始まり


シュルレアリスム運動の前身であるジョルジョ・デ・キリコは、アーケードやレンガの壁に囲まれた街の広場などの虚構空間を意図的に破壊し、謎めいた体験を生み出し、現実に反発した。

 

キリコはドイツの哲学者、特にフリードリヒ・ニーチェに影響を受け、永劫回帰と神話の再演の概念に興味を持つようになった

 

デ・キリコの作品を最初に「形而上学的」と呼んだのはフランスの詩人ギヨーム・アポリネールであり、ジョルジョ・デ・キリコやカルロ・カッラを指導者とする形而上学的芸術運動はここから始まったと言われている。



【作品解説】マルセル・デュシャン「なりたての未亡人」

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なりたての未亡人 / Fresh Widow

ローズ・セラヴィ署名の初作品


マルセル・デュシャン《なりたての未亡人》1920年
マルセル・デュシャン《なりたての未亡人》1920年

概要


作者 マルセル・デュシャン
制作年 1920年
メディウム 木枠、黒い革
サイズ 77.5 x 44.8 cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《なりたての未亡人》は1920年にマルセル・デュシャンによって制作されたオブジェ作品。フランス窓のミニチュアで、ペンキ塗りの木枠に8枚の黒い革がはめられている。デュシャンの扉・窓系作品の代表的なもの。ニューヨーク近代美術館が所蔵している。

 

ミニチュア自体はニューヨークの指物師へ発注して作ったもので、デュシャン自身がした作業は、仕上げとして窓ガラスを黒革のパネルに取替えただけである。デュシャンによれば「毎日磨いてもらいたい」という気持ちで、ガラスを黒革に取り替えたという。

 

《なりたての未亡人》の原題は「Fresh Widow」で、両開き式のフランス窓の「French Window」から由来している。フレッシュのrをlにすれば「肉欲」という意味になり、肉欲に飢えたフランスの両開きという意味にもなる。

 

《なりたての未亡人》が制作されたころは、第一次世界大戦直後で、パリの街では戦死した夫の喪に服する数多くの未亡人たちの姿がたくさん見られたという。そして戦時中、空爆に備えて貼られていた窓の黒い目隠しは、戦後には喪を示すために利用されていた。

 

《なりたての未亡人》は、夫の喪失と同時に「毎日磨いてもらいたい」フランスの未亡人をかけあわせている作品であるという。なお、この作品はデュシャンがローズ・セラヴィという女装用のPNで署名した最初の作品でもあるため、女性の心性を表現しているのは明らかである。

マルセル・デュシャンに戻る

 

■参考文献

・マルセル・デュシャン展 高輪美術館 西武美術館


【作品解説】マルセル・デュシャン「グリーンボックス」

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グリーンボックス / The Green Box

バラバラのメモを集めて共通する概念を提示


マルセル・デュシャン「グリーンボックス」(1934年)
マルセル・デュシャン「グリーンボックス」(1934年)

概要


作者 マルセル・デュシャン
制作年 1934年(1911-20年)
メディウム 印刷

サイズ

33 x 28.3 x 2.5 cm

コレクション

メトロポリタン美術館

《グリーンボックス》は1934年にマルセル・デュシャンによって制作されたメモ集作品。

 

緑色のスウェードを貼った1つの箱の中に、1923年の作品《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(大ガラス)の制作に関係するスケッチ、メモ類、写真などが整理されず、綴じられずに、ばらばらに保存された形式となっている。1911−20年に書き溜めたもので全部で94点ある。

 

デュシャンは《大ガラス》について、出来上がった視覚美術だけで終わらず、完了にいたるまでの「思考のプロセス」も美術だと主張した。そのため《大ガラス》の制作期間(パリとニューヨーク滞在中)におけるデュシャンの創造的思考のプロセスがメモから分かるようになっている。

 

デュシャンは、制作メモがただのバラバラな状態で終わらず、それぞれが同じ表現概念の異なるパーツのようにして関係していることを《グリーンボックス》で表現したかったという。

 

それらバラバラのアイデアを一所に集めて全体に共通するコンセプトが浮かびあがるように見せることがこの作品のポイントである。読者は自由に94点のメモを選び、配列して、自分自身のストーリーを作ることができる。

 

グリーンボックスは通常版とメモの原本を一点ずつ添えた特装版10部をくわえて1934年9月に最初の箱が出版された。その年に、特装版10部と通常版35部が売れて、印刷費はほぼ回収できたという。

 

グリーンボックスのメモを誰よりも読みふけったのはアンドレ・ブルトンだった。「ミノトール」1934年12月号で、ブルトンは「花嫁の燈台」というタイトルのエッセイで、グリーンボックスのメモを参照に《大ガラス》を解読し、現代美術の最高峰に位置づけた。


マルセル・デュシャンに戻る

 

■参考文献

・マルセル・デュシャン自伝

・マルセル・デュシャン展 高輪美術館 西武美術館

メトロポリタン美術館


【作品解説】マルセル・デュシャン「自転車の車輪」

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自転車の車輪 / Bicycle Wheel

デュシャンの最初のレディ・メイド作品


マルセル・デュシャン「自転車の車輪」(1916-1917年)
マルセル・デュシャン「自転車の車輪」(1916-1917年)

概要


作者 マルセル・デュシャン
制作年 1913年
メディウム レディ・メイド(自転車の車輪、木製スツール、ネジなど)
サイズ 1.3 m x 64 cm x 42 cm
コレクション オリジナルは消失

《自転車の車輪》は1913年にマルセル・デュシャンによって制作されたレディ・メイド作品。自転車の前輪を取り外して、木製の台所用の椅子の上に逆さまにしてネジ留めし、立てかけている。

 

1913年にパリのスタジオにいるとき、なんとなく自転車の車輪を逆さまにして台に乗せて回して見ているときにこのアイデアを考えたという。当時は、特にレディ・メイドを意図して制作されたものではなく偶然できあがったもので、これが最初のレディ・メイド作品として知られるようになった。

 

タイヤを回すとスポークがぶれて、やがて目には見えなくなり、回転が遅くなるにつれてまた見えてくる車輪がデュシャンの気持ちをなごやかにしてくれたという。デュシャンはこのようにコメントしている。「車輪が回転しているのを見ると和やかな気分になった。それはまるで暖炉の火を眺めているときのように」

 

オリジナルの《自転車の車輪》をパリに残したまま、デュシャンは1915年にニューヨークに移る。そしてここでも「スタジオに一種の創造された雰囲気をかもしだす」ために、レプリカ「自転車の車輪」セカンドバージョンを制作。この頃に「レディ・メイド」という言葉も思いついたという。

 

また《自転車の車輪》は最初のキネティック・アートともみなされている。

 

1913年に制作オリジナル版は消失、セカンドバージョンも紛失している。1951年にレプリカ版が制作されており、ニューヨーク近代美術館に所蔵されている。


■参考文献

MoMA | Marcel Duchamp. Bicycle Wheel. New York, 1951 (third version, after lost original of 1913) 

Bicycle Wheel - Wikipedia 

・マルセル・デュシャン展 高輪美術館、西武美術館


【作品解説】マルセル・デュシャン「泉」

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泉 / Fountain

20世紀美術のランドマーク作品


マルセル・デュシャン「泉」(1917年)
マルセル・デュシャン「泉」(1917年)

概要


作者 マルセル・デュシャン
制作年 1917年
メディウム セラミック製男性用小便器
サイズ 61 cm x 36 cm x 48 cm
コレクション オリジナルは消失、レプリカ複数あり

《泉》は1917年にマルセル・デュシャンによって制作されたレディ・メイド作品。

 

近代美術から現代美術、ヨーロッパ近代芸術からアメリカ現代美術、視覚的な芸術から観念的な芸術へと価値観が移行するターニングポイントとなる作品である。それゆえ作者のマルセル・デュシャンは「現代美術の父」「ダダイズムの父」とみなされている。

 

セラミック製の男性用小便器に「R.Mutt」という署名と年号が書かれ、「Fountain」というタイトルが付けられている。このタイトルは、ジョゼフ・ステラとウォルター・アレンズバーグが決めたともいわれる。

 

この作品は、1917年4月にニューヨークのグランド・セントラル・パレスで開催された独立芸術家協会の年次企画展覧会に出品予定の作品だった。この展覧会では、手数料さえ払えば誰でも作品を出品できたにも関わらず、《泉》は委員会から展示を拒否されてしまう。

 

その後、作品はアルフレッド・スティーグリッツの画廊「291」で展示され、撮影され、雑誌『ザ・ブラインド・マン』上で批評が行われたが、オリジナル作品は消失している。1950年代から1960年代にデュシャンの委託によって16点のレプリカが作られ現存している。

 

本作は前衛芸術の美術史家であり理論家であるピーター・バーガーにより、20世紀の前衛美術の最も主要なランドマーク作品とみなされている。 

 

2004年12月、デュシャンの《泉》は、英国の美術界の専門家500人が選んだ20世紀で最も影響力のある作品に選ばれた。第2位はピカソの《アヴィニョンの娘たち》(1907年)、第3位はアンディ・ウォーホルの『マリリンのディスパッチ』(1962年)であった。

制作と展示まで


マルセル・デュシャンは《泉》を制作する2年前にアメリカへ移住し、フランシス・ピカビアマン・レイ、ベアトリス・ウッドらと関わりニューヨーク・ダダムーブメントの中心人物として活動していた。

 

1917年初頭には、デュシャンがアメリカで開催される史上最大の近代美術展「第一回独立芸術家協会展」に向けて、「チューリップ・ヒステリー・コーディネイティング」というタイトルのキュビスム絵画を制作しているという噂が広まっていた。

 

しかし、小便器の形をした既製品で "R.Mutt "というペンネームで署名された《泉》の出品が拒否されたことで、当時、この美術展の審査員でもあったデュシャンは、その報復としてデュシャンは展示予定だった絵画を取りやめ、またディレクターを辞任することになった。

 

展示委員は送られてきた《泉》を会場の仕切りの裏に置いて、カタログにも掲載しなかった。デュシャンはこのことに抗議し、展覧会の委員を辞任。この一連の出来事を「リチャード・マット事件」という。

 

現在、写真で残っているオリジナルの《泉》は、アルフレッド・スティーグリッツのスタジオで展示されて撮影されたもので、雑誌『ザ・ブラインド・マン』第2号に掲載された。

 

なお、オンライン・ジャーナルの「Tout-Fait」上で記者のロンダ・ローランド・シアラーは、スティーグリッツが撮影したとされる《泉》の写真は異なる写真の合成であると指摘している。

 

 

展覧会が終了したあと、オリジナルの《泉》は消失。デュシャンの伝記作家のカルヴィン・トムキンスによれば、デュシャンの初期レディメイド作品と同じく、スティーグリッツがゴミとして廃棄したと書いている。

 

 

1950年のニューヨークの展示の際に初めて、デュシャン公認で《泉》のレプリカが制作された。1953年と1963年にさらに2つの作品が制作され、その後、1964年には8個のレプリカが作られた。これらレプリカ作品は、インディアナ大学ブルーミトン、サンフランシスコ近代美術館、カナダ国立美術館、テート・モダン、パリ・ポンピドゥー・センターなどに収蔵されている。 

 

『ザ・ブラインド・マン』第2号に掲載された《泉》、ニューヨーク、1917年
『ザ・ブラインド・マン』第2号に掲載された《泉》、ニューヨーク、1917年

デュシャン制作説と他者作品説


●デュシャン制作説

《泉》の制作には2つの説がある。1つはデュシャンが1人で制作したという説。デュシャンはニューヨーク5番街118番地の衛生器具店「J.L.モット鉄工所」で、標準的なベッドフォードシャー・モデルの男性用小便器を購入し、33 West 67th Streetにあるスタジオに持ち帰ったあと、通常の使用位置から90度傾け、排水口の部分が正面に来るようにし、正面に "R. Mutt 1917"と署名したという制作過程である。《泉》の制作には、画家のジョセフ・ステラやコレクターのウォルター・アレンズバーグも関与したとされている。これが、一般的に広く浸透している説。デュシャンは作品制作の意図にに対してこう話している。

 

「Mutt は Mott Worksという大手衛生機器メーカーの名前から来ています。しかし、Mottはあまりにも身近だったので、当時目にしていた、誰もが知っている「Mutt and Jeff」という漫画にちなんで、Muttとしました。このように、最初から、太っていてちょっと変な男のMuttと、背の高い痩せた男のJeffがからみあっていたのです......。私はどんな古い名前でもいいので、リチャード(Richard)という名前を付けました。リチャードはフランス語のスラングで「成金」という意味がある。小便器にしては悪くない名前でしょう。分かるか?貧乏の反対語の意味だ。でも、そこまでする必要はないとおもって。ただ「R.Mutt」とつけたたんだ」

 

●他者作品説

もう1つは、《泉》の作者はデュシャンではないという説。本来は独立芸術家協会に出品予定だった女性芸術家の友達の作品を手助けしたものだったという。1917年4月11日付けの妹シュザンヌに宛てた手紙で、デュシャンは《泉》の出品に関する経緯を書いている。そこには「「リチャード・マット」という男性のペンネームを使って、私の友人の一人が私に彫刻作品として送ってきた」と記載されていた。

 

デュシャンは決して協力した人物を公表することはなかったが、現在2人の人物が真の作者として考えられている。1人は同じニューヨークの女性ダダイストのエルザ・フォン・フライターク・ローリンホーヴェン。彼女の美術的価値や作品はデュシャンのレディ・メイドと極めて似通っている。

 

もう一人はルイズ・ノートン。彼女は1917年に発行された『ザ・ブラインド・マン』第2号の誌上に泉に関する解説文を執筆したとされる人物。彼女は当時、夫と離婚して両親とニューヨーク西88番街のアパートに住んでいた。この住所はスティーグリッツの写真で見られるが、オブジェ横に付いている入場券の紙に記載されている住所と同じであるという。

 

結局、デュシャンが考えて一人で作ったのか、他人の作品をアシストして出品したものなのかよくわかっていない。

 

レディ・メイドの制作意図


1917年5月に、雑誌『ザ・ブラインド・マン』第2号でデュシャンは匿名で抗議文を投稿し、そこに《泉》の作品意図を寄稿している(しかし、この文章を書いたのはデュシャンではなくルイズ・ノートンと見られている)。

 

『ザ・ブラインド・マン』とは、アンリ=ピエール・ロシェ、ベアトリス・ウッドと発行していた雑誌で、ダダイスムの情報誌のようなものだった。雑誌では次のような抗議文が匿名で掲載された。

 

「リチャード・マット事件。6ドルの出品料を払った作家は誰でも出品できるという。リチャード・マット氏は《泉》を送った。この品物は間違いなく消え失せ、金輪際陳列されなかった。マット氏の《泉》を拒否する根拠は何であったか。

 

(1)ある連中はそれが不道徳で卑俗だと主張した。

(2)別の連中はそれが剽窃であり、たんなる衛生器具にすぎないと主張した。

 

さて、マット氏の《泉》は不道徳ではない。そんなことはばかげている。浴槽が不道徳でないのと同じだ。それは衛生器具屋のショー・ウインドウで毎日見かける設備である。

 

マット氏が《泉》を自分の手でつくったかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのである彼は生活の中の日常的な品物をとりあげ、新しい題名と新しい観点のもとでその有用な意味が消え去るように、それを置いたのである

 

つまり、あの物体に対する新しい思考を創り出したのだ。衛生器具云々というのはまったくお笑いぐさである。アメリカが生み出した芸術品といえば、衛生器具と橋だけではないか」

 

この抗議文を書いたのはデュシャンとされているが、実際はルイーズ・ノートン、ベアトリス・ウッドなど当時の編集スタッフらで書かれたものとみられている。ただし、デュシャンのレディ・メイドの意図に関してははっきりと表明されている。

 

レディ・メイドの意図は以下の3点になる。

  • 選択という行為
  • 日常的な機能の剥奪
  • 新しい思考の創造

 

『ザ・ブラインド・マン』2号,1917年,ルイーズ・ノートンによる文章
『ザ・ブラインド・マン』2号,1917年,ルイーズ・ノートンによる文章

「選択」-偶然性と中立性を高める


真の制作者が誰なのかともかく、《泉》の意義を考えてみよう。

 

●選択という行為

デュシャンは泉の制作について、まず趣味という問題を試験してみるところから生まれたと話している。デュシャンの趣味というの「視覚的に無関心」なオブジェである。全く人の気をひかないものを選ぶというのがデュシャンの趣味で、その延長で男性小便器が選択されている。「偶然性」の実験と「中立性や公平性」を高める態度を象徴する。

 

「わたしの”泉”=”便器”は、趣味という問題を試験するという考えから生まれた。つまり、全く好かれそうもないものを選ぶということだった。便器を素晴らしいと思う人は、およそ、いないだろう。つまり危険なのは「芸術(アート)」という言葉なのだ。「芸術」といえば、本当は、なんだって芸術を思わせることができるのだ。それで、レディ・メイドとして選択されるオブジェのポイントは、私にとって視覚的に魅力的でないオブジェを選ぶことでした。選択するオブジェ対象は、「見かけ」が私にとって無関心であることでした。(マルセル・デュシャン)」

 

すなわち、選択行為とは精神の客観的な状態、個人的な趣味を停止した状態で行わねばならない。言い換えれば、もしレディ・メイドとともに、つくることが選ぶことにとって代わるのであれば、意図とともに選ぶこともまた無関心とともに選ぶことに取って代わらねばならない。デュシャンの解釈では、選択とは芸術家の、あるいは彼の感情、好み、そして欲望などの個人的な側面を反映したり、表現したりしてはならないものなのだ。

 

こうした意図のもと、普段見ているモノに対して「新しい思考」の創出をデュシャン提示した。この考え方は後にデュシャンの意図とはともかく、コンセプチュアル・アートポストモダンアートへと発展し、このデュシャンの「新しい思考」の創出というのが現代美術の基本的なルールになる。

 

芸術の概念を「物質的な工芸(ハンドメイド)」から「知的な解釈」に変えるとともに、「選択」という行為、それに付随する観念が重要になった。

日常的な機能の剥奪-オブジェクトからアートへ


●日常的な機能の剥奪

デュシャンは本来であれば有用であるものを選んだ。その代表が日常的品物だった。日常的品物で本来は有用である便器をとりあげ、新しい題名「泉」と新しい視点のもとで、本来の意味を消え去るように展示した

 

「便器を日常の文脈から引き離して、芸術という文脈にそれを持ち込んで作品化したこと」が重要である。この考え方は、シュルレアリスムのコラージュポップ・アートと同じものとおもえばよい。

 

コラージュは、雑誌から切り抜いた素材を使って新しい視覚芸術を創造するための錬金術といわれている。ポップ・アートもまた新聞、雑誌、広告、写真など身近な大衆メディアや日用品を活用したことで「これが芸術?」というような文脈から現れた。レディ・メイドも同じである。

 

ルドルフ・E・クエンツリは、『ダダとシュルレアリスム映画』(1996年)の中でレディメイドについて次のように述べている。

 

「オブジェクトの機能的な場所のこの脱文脈化は、オブジェクトに付与された設定と位置の選択によって、その芸術的な意味の創造に注意を喚起する」

 

続けてオブジェクトに名前をつけること(タイトルをつけること)の重要性を説明している。物体の選択、タイトル、そしてそれが「通常の」位置や場所からどのように変更されたか、という三つの要因が少なくとも関わっている。

 

今回の展覧会では、小便器を台座に置くことで、作品のような錯覚を起こしていた。

そのほかの解釈


●美術の作者は鑑賞者

「泉」はまた、美術の作者は美術家ではなく鑑賞者であることを提示した。本来「美術の作者は美術家」であり、そして鑑賞者は美術家の意図を理解するというのが常識的な見方だった。

 

そういった美術の古典的なルールに疑問をもったデュシャンは、大量生産された何の思想もメッセージも込められていない便器を美術展に投入。すると本来何もメッセージも視覚的に面白くもないはずの便器が、鑑賞者を誤読させ、解読が始まり、それについて語られ美術化されていく。そのため、デュシャンは、R. Mutt(リチャード・マット)という偽名を使って、作者の意図が分からないようにしていた。

 

●古典絵画のマリアや座禅を組んだ仏陀

「泉」は展示されなかったこともあり、制作関係者以外に実物を見た人はほとんどおらず、アルフレド・スティーグリッツが撮影した唯一の写真でのみ確認できる。特定の角度で映された便器をよく見ると、その緩やかな曲線と形から隠されたヴェールを付けたの古典絵画のマリアや座禅を組んだブッダの彫刻、ほかにブランクシーのエロチックな形態の彫刻を連想させる。

 

●独身者

また便器を「泉」と付けた経緯だが、泉は独身者にも置き換えられる。この小便器に向かって放尿すると、それは手前の穴から流れでて、その人自身に尿のとばっちりが及ぶことになる。これは鏡の反射を表している。満たされることのない欲望を抱えた独身者たちがそれに向かって性器を露出し、同時に、性器から放出される液体を受け止め、受け止めた液体がまた穴から戻ってくる。自己愛でありオナニズムである。

 

またデュシャンはこのようなメモ書きを残している。

 

「これしかない。雌としては公衆小便所、そしてそれで生きる。」

実際に評価されたのは第二次世界大戦後


デュシャンがアメリカで評価されはじめたのは戦後1950年代からで、アーティストへの影響力は飛躍的に高まっていった。

 

『ライフ』誌は、1952年4月28日に発表された長い記事の中で、彼を「おそらく世界で最も著名なダダイスト」、ダダの「精神的指導者」、「ダダの父」と呼んだ。 50年代半ばまでには、デュシャンのレディメイドはアメリカの美術館のパーマネント・コレクションに展示されていた。

 

1961年、デュシャンはダディストの仲間であるハンス・リヒターに手紙を書き、その中でダダとネオ・ダダの違いを次のように述べている。

 

「ネオ・ダダは、ニュー・リアリズム、ポップ・アート、アッサンブラージュなどと呼ばれてますが、彼らはダダがしてきた手法を軽々と使っています。私がレディメイドを発見したとき、私はこれまでの美学を否定しようとした。ネオダダは私のレディメイドを持ち上げ舞楽を発見しました。私はボトルラックと小便器を彼らの顔に挑発するように投げ込みますが、今や彼らはそれらを賞賛します」

 

しかし、デュシャンは1964年にポップ・アートを好意的に書いているが、ポップ・アーティストのユーモアや素材には無関心だった。

 

「ポップアートとは、シュルレアリスムを除けば、クールベ以降、網膜画を支持して事実上放棄された「コンセプチュアル」な絵画への回帰である。キャンベルのスープ缶を手に取り、それを50回繰り返すならば、網膜画には興味がないだろう。興味があるのは、キャンベルスープの缶を50個、キャンバスの上に置きたいという概念である」

関連動画解説



■参考文献 

Wikipedia

テート・モダン

・マルセル・デュシャン展 高輪美術館 西武美術館 1981年

・デュシャン 人と作品 フィラデルフィア美術館


【作品解説】マルセル・デュシャン「ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?」

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ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない? / Why Not Sneeze Rrose Sélavy?

この小さな鳥篭は角砂糖で一杯だ…


マルセル・デュシャン《ローズセラヴィ、何故くしゃみをしない?》(1921年)
マルセル・デュシャン《ローズセラヴィ、何故くしゃみをしない?》(1921年)

概要


作者 マルセル・デュシャン
制作年 1921年
メディウム 修正レディ・メイド(鳥かご、大理石、温度計、イカの甲など)
サイズ 11.4 x 22 x 16 cm
コレクション フィラデルフィア美術館

《ローズ・セラヴィ、何故くしゃみをしない?》は、1921年にマルセル・デュシャンによって制作されたレディ・メイド作品。修正レディメイドの1つ。デュシャンのコレクターであるキャサリン・ドライヤーによる依頼で、彼女の妹のプレゼント用に制作された。フィラデルフィア美術館所蔵。1963年と1964年にレプリカが制作されている。

 

角砂糖のようなたくさんの大理石の立方体、温度計、そしてイカの甲が、手ごろな大きさの古い長方形の鳥篭の中に詰まっている。この作品に残されたデュシャンのサインはデュシャンの女装用のペンネーム「ローズ・セラヴィ」(Rose Selavy)。それが《ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?》である。

 

デュシャン自身は、次のような解説を残している。

 

「この小さな鳥篭は角砂糖で一杯だ…しかし角砂糖は大理石でできていて、鳥篭を持ち上げた時には予測できなかった重さに驚かされる。温度計は大理石の温度を示すためのものだ。」

 

詳細な解説は残されていないが、さまざまな憶測がされている。たとえば、制作依頼者であるキャサリン・ドライヤーはキュビズムのパトロンとして有名だった。そのため、大理石の立方体はキュビズム=ヨーロッパ芸術=キャサリン・ドライヤーの好みのことを指しているという。また、152個の大理石には「Made in France」の刻印が押してあるが、152とは英知的な意味があるという。

 

ずっしりと重い大理石は、同時に角砂糖にも見え甘そうである。その甘さは快楽や女性を暗示し、また女性とは、女装したローズ・セラヴィであり、デュシャン自身のことでもある。

 

そして鳥篭から半分はみだしたイカの甲は大理石と同じ石灰質。しかし鳥篭から脱出しようとしているところから、角砂糖と似て非なるものであることを主張している。そのイカの甲はたデュシャン自身でもある。

 

つまり、ヨーロッパ美術の世界からニューヨークの新しい美術の世界へ脱出しようとしているデュシャン自身を表現した作品だとされている。

 

また、イカの甲はフランス語では「Os de Seiche」で、甲=「Os」は発音は[O]であり、[O]はゼロともいえる。温度計には普通、摂氏と華氏の目盛りが付いているが、摂氏0度とは華氏32度。0度か32度か分からない、評価(温度)の分からない私はくしゃみができない。

 

くしゃみをするという観念とくしゃみをしない?という観念との間には、はっきりした隔たりがある。なぜなら、人は結局のところ、自分の意思でくしゃみをすることはできないからである。くしゃみという行為は、たいてい意に反して勝手にしてしまうものである。

 

ローズ・セラヴィ(マルセル・デュシャン)は、ヨーロッパで不遇扱いされている。この鳥篭から飛び出しニューヨークへ向かうことかもしれない。

 

この作品は300ドルでキャサリン・ドライヤーの妹に販売したが、彼女はこの作品が気にいらず姉のキャサリンに転売する。キャサリンも短い間しか所有せず、同じ値段でアレンズバーグに譲った。


■参考文献

Why Not Sneeeze, Rrose Selavy?

・マルセル・デュシャン展 高輪美術館 西武美術館


【作品解説】ポール・デルヴォー「ジュール・ベルヌへのオマージュ」

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ジュール・ベルヌへのオマージュ / Tribute to Jules Verne

裸女と学者の対比


ポール・デルヴォー《ジュール・ベルヌへのオマージュ》1971年
ポール・デルヴォー《ジュール・ベルヌへのオマージュ》1971年

概要


作者 ポール・デルヴォー
制作年 1971年
サイズ 150 x 120 cm
メディウム キャンバスに油彩

《ジュール・ベルヌへのオマージュ》は、1971年にポール・デルヴォーによって制作された油彩作品。

 

幼少のころからずっとジュール・べルヌ作『地球の中心の旅』を愛読していたデルヴォーは、その主人公である生真面目な学者オットー・リーデンブロックをしばしば絵の中で描き、裸女たちと対照させている。

 

本作では画面左側で何か顕微鏡のようなものを手に持ち、のぞき見している男性がオットー博士である。この学者はおそらくデルヴォー自身と化したものであり、孤独な科学者の象徴である。

 

この作品は、デルヴォーにインスピレーションを与え続けた愛読者の作者ジュール・ベルヌへの讃歌である。

 

「私のタブローに出てくる学者、いつも何かを見つめている、あれはジュール・ベルヌ作『地球の中心への旅』の挿絵をそのままコピーしたものです。(ポール・デルヴォー)」


■参考文献

・埼玉県立近代美術館「ポール・デルヴォー展 夢をめぐる旅」 


【作品解説】アンリ・マティス「帽子の女」

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帽子の女 / Woman with a Hat

フォーヴィスムの原点となったエポック作品


アンリ・マティス《帽子の女》1905年
アンリ・マティス《帽子の女》1905年

概要


作者 アンリ・マティス
制作年 1905年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 80.65 cm × 59.69 cm
コレクション サンフランシスコ現代美術館

《帽子の女》は1905年にアンリ・マティスによって制作された油彩作品。80.65cm×59.69cm。サンフランシスコ現代美術館が所蔵している。

 

1905年の第二回サロン・ドートンヌで展示するために描かれたもので、マティス周辺の画家たちが“フォーヴィスム”と呼ばれるきっかけとなったエポック的な作品である。

 

批評家のルイス・ボークセルズは、アンドレ・ドランやそのほかのメンバーたちと展示していた部屋で、その原色を多用した強烈な色彩の絵画とほかのマティスのルネッサンス風の彫刻を比較して、「この彫像の清らかさは、乱痴気騒ぎのような純粋色のさなかにあってひとつの驚きである。野獣(フォーヴ)たちに囲まれたドナテロ!」と叫んだという。ボークセルズのこのコメントは新聞『Gil Blas』の1905年10月17日号に掲載され、話題を呼んだ。

 

また、マティスが初期に影響を受けていた印象派の分割描法からシフトしたターニング作品でもある。

モデルは当時の妻アメリー


 モデルとなっているのはマティスの妻のアメリー。アメリーはフランスのブルジョアジー女性の典型的な象徴として、手の込んだ衣装を身につけて描かれている。手袋を身につけ、手には扇子を持ち、頭に豪華な帽子を被っており、彼女の衣装は非常に鮮やかな色合いで、純粋であり、豪奢な感じが出ている。

 

のちにマティスに、当時マティス夫人が絵のモデルをしているときに着ていた実際の服の色合いを尋ると「もちろん、チープなブラックさ」と答えたという。

 

マティスによれば現実の色合いをリアルに描く必要なく、作者の心や感情を軸に、自由きままに色彩表現されていればよい。それこそが、フォーヴィスム表現である。

マティスとアメリー。
マティスとアメリー。

作品の所有者


作品はマティスやピカソのコレクターで知られるガートルード&レオ・ステインが購入している。そのため当時は不評を買った作品だったが、マティスにとって大コレクターが購入してくれたことは大きな励みとなった。

 

最終的にはガートルードとレオの弟のミヒャエルの妻であるサラ・ステインが購入者となった。レオ・ステインははじめこの絵が好きではなかったという。

 

マダム通りにあったサラ&マイケル夫妻の自宅で、この絵が飾られていた。また1950年代に作品はアメリカ、カリフォルニア州、パロ・アルトにあるサラの自宅の目玉作品として飾られていた。

 

その後、ハース一族が絵を購入し、1990年にエリス・S・ハースがサンフランシスコ近代美術館に「帽子の女》を含む約40のマティス作品を寄贈した。


【作品解説】アンリ・マティス「赤いハーモニー」

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赤いハーモニー / Harmony in Red (The Red Room)

フォーヴィスム時代の最高傑作


アンリ・マティス《赤いハーモニー》1908年
アンリ・マティス《赤いハーモニー》1908年

概要


作者 アンリ・マティス
制作年 1908年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 180 cm×220 cm
コレクション エルミタージュ美術館

《赤いハーモニー》は、1908年にアンリ・マティスによって制作された油彩作品。180 cm×220 cm。現在はロシアのエルミタージュ美術館が所蔵している。1908年から1913年にかけてのフォーヴィスムの時期において最も完成度の高いとされているマティス作品で、別名「赤い部屋」呼ばれることもある。 

構図


本作は装飾性、絵画性、そして前衛性の3つの要素を持ちあわせている。

 

ねじれた青い蔓草模様とラズベリー・レッドの壁紙とテーブルクロスが、壁とテーブルの境を曖昧な状態にし、部屋本来の3次元空間を消失させ全体を1つのフラットな赤い空間にすることで、装飾性の高いキャンバスになっている。

 

しかし、窓から見える赤とは対照的な緑の庭、青い空、果物が入ったボールを動かそうとする女性などの存在が、鑑賞者の視線を移動させ、絵画的な奥行きを出している。さらに、赤、黒、青、オレンジ、紫という鮮やかで大胆なフォービスム的な色彩構成になっている。

 

描かれている風景は、パリにあったマティスのアトリエで、窓から見える景色は、スタジオの窓から見える修道院の庭である。またテーブルや果物のレイアウトをしているメイドは、色や構図を考えているマティス自身を表している。

最初は緑の部屋だったが最後に赤になった


《赤いハーモニー》は、ロシアの大コレクターのセルゲイ・シチューキンの依頼で制作した装飾パネルとして制作されたもので、セルゲイが住んでいたモスクワのマンションのダイニングルームに飾るためのものだった。

 

この絵画は3つの過程を経ている。はじめは赤ではなく緑の部屋だった。その後、シチューキンの要望で青色に塗りつぶされて「青いハーモニー」というタイトルになったが、そのできに対しマティスは不満だったため、最終的にはマティスが好きな赤色で塗りつぶして《赤いハーモニー》となった。


【美術解説】エル・リシツキー「20世紀グラフィックデザインの革新者」

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エル・リシツキー / El Lissitzky

20世紀グラフィックデザインの革新者


概要


生年月日 1890年11月23日
死没月日 1941年12月30日
国籍 ロシア帝国、ソビエト連邦
スタイル ロシア・アヴァンギャルドシュプレマティズム
媒体 絵画、デザイン、写真、建築

ラーザリ・マールコヴィチ・リシツキー(1890年11月23日-1941年12月30日)こと、通称エル・リシツキーは、ロシアの画家、デザイナー、写真家、タイポグラファー、建築家、論争家。

 

ロシア・アヴァンギャルドの最重要人物で、メンターであるカシミール・マレーヴィチとともにシュプレマティズムやロシア構成主義の発展に貢献。特にタイポグラフィやデザイン上の実験において、20世紀のグラフィックデザイン史にも多大な影響を及ぼした

 

リシツキー芸術信念は「ゴール・オリエント・クリエイション」という言葉に要約されている。それは芸術家とは変化を起こす代理人であるという。

 

リトアニア系ユダヤ人だったリシツキーは、反ユダヤ法が廃止されて大規模な変化が起こりつつあった帝政ロシア時代において、当時ユダヤ人文化振興のために生産されたイディッシュ語の児童文学のイラストレーターが芸術キャリアの始まりである。またリシツキーの人生の大半は教職仕事か本の装丁である。

 

ロシアの前衛芸術運動シュプレマティスム・グループ「UNOVIS」に参加していたころ、グループのリーダーであるマレーヴィチの影響を受ける。その後、リシツキーがシュプレマティスムを独自に発展させた『プルーン』という連作作品を発表。これがリシツキーの代表作で「絵画から建築へ移行する状態」というリシツキーの美術理論の核となるものだった。

 

「プルーン」は2D的な絵画から3D的な建築への発展を意識した作品で、この作品における立方体や遠近法的な線の構成にその意図は現れている。現実生活において有用な芸術を目指したリシツキーは、「プルーン」以後、次第にインダストリアル・デザインの分野に方向転換していった。

 

1921年までワイマール時代のドイツでロシアの文化大使を務めた頃にバウハウスやデ・ステイルムーブメントに多大な影響を及ぼす。その後、タイポグラフィ、展示デザイン、フォトモンタージュ、装丁などのジャンルで重要なイノベーションを起こす。特に展示デザインにおいては国際的に高い評価を得るに至った。

 

また、1941年の晩年期の作品であるソ連のプロパガンダポスターは、ナチス・ドイツとの戦争のために多くの人々を結集させる起爆剤となった。

重要ポイント

  • ロシア・アヴァンギャルドの最重要人物
  • 平面的な絵画から立体的な建築へ発展
  • 20世紀グラフィックデザインの父

略歴


若齢期


リシツキーは1890年11月23日、ロシア帝政時代のスモンレスク町から50キロ離れた場所にある小さなユダヤ・コミュニティ、ポチノクで生まれた。

 

子ども時代のリシツキーはヴィーツェプスク(現在のベラルーシの一部)で過ごす。そのあと10年ほど、祖父母とともにスモランスクで過ごしながら、スモランスクの文法学校に通い、夏になるとヴィーツェプスクに戻ってバカンスを過ごした。

 

幼少の頃からリシツキーは絵の才能があり、13歳のときに地方のユダヤ系芸術家イェフダ・ペンから絵画を学んでいたが、15歳になる頃にはリシツキー自身が絵画教師となり、生徒を擁していたという。

 

1909年にサンクトペテルブルクの美術大学を受験するも入学を拒否される。試験に合格はしてはいたが、当時のロシアではユダヤ人学生の数に制限をかけていたため(反ユダヤ法)、入学ができなかったのが原因だった。

 

そこでリシツキーは、当時のロシア帝国に住んでいた多くのユダヤ人と同じく、ドイツへ留学することにする。1909年にドイツのダルムシュタット工科大学で建築工学を学び、1912年の夏にリシツキーはヨーロッパ中を放浪しながら自由研究を行う。パリやイタリアを中心に1200キロを歩行し、美術を独学で学ぶ。旅行時に気になった建築物や風景をスケッチしていたという。

 

古代ユダヤ文化に関心を持ち始める。リシツキーの古代ユダヤ文化への関心は、子ども時代から生涯死ぬまで友人だった彫刻家のオシップ・ザッキン率いる、パリを中心に活動していたロシア系ユダヤ人グループの影響が大きいといわれる。

 

なお、注目すべき芸術家への最初のステップとなる展示がこの頃に行われる。1912年にサンクトペテルブルク芸術連盟の展示で、初めてリシツキーの作品が展示された。

 

リシツキーは第一次世界大戦が始まるまでドイツに滞在していたが、戦争が始まるとスイスやバルカン半島を経由してロシアへ強制的に帰国することになった。ほかに、帰国した同胞にはワシリー・カンディンスキーマルク・シャガール、そしてロシア帝国生まれの海外在中員などがいた。

 

モスクワに戻るとリシツキーは、徴兵を逃れるためリガ工科大学に入学。同時期にボリス・ヴェリコフスキーやローマン・クレインの建築会社で働くようになる。この仕事の間、反ユダヤ主義ロシア帝政が幕を閉じたこともあり、さらにユダヤ文化への関心を高めて、積極的にユダヤ文化の復興活動に取り組むようになる。

 

反ユダヤ法が廃止されるやいなやリシツキーは、ユダヤ人文化の復興活動を身を捧げ、地方のユダヤ人芸術家の作品の展示活動を企画を行なったり、マリヒョウに旅行して伝統的な建築や古いシナゴーグの装飾品を見学して見聞を深める。

 

また、多くのイディッシュ語の児童文学の挿絵の仕事をした。イディッシュ語による児童文学の挿絵は、リシツキーの初期のブックデザインの主要作品とみなされおり、リシツキーの経歴において非常に革新的なもの評価されている。

 

リシツキーが最初にデザインを手がけた本は、1917年の『Sihas hulin: Eyne fun di geshikhten (An Everyday Conversation)』である。この本でリシツキーは、アール・ヌーヴォー風にアレンジしたヘブライ文字を絵の中に組み込んだ。

 

次の本は、1919年の伝統的なユダヤ歌謡『Had gadya』を視覚的にした絵本。この本でリシツキーはタイポグラフィの腕前を見せ、物語の中のキャラクターの色とマッチしたフォントを組み込んだ。この本ではロシア革命におけるボルシェビキの勝利とユダヤの救済物語を結びつけている。

 

最終ページではユダヤシンボルである『ファーティマの手』とボルシュビキの勝利を同一視したような作品が見られるが、別の視点では、ボルシェビキの国際化はユダヤ文化の破壊に繋がるという警告であるともとられている。

 

また、1924年のリシツキーのセルフ・ポートレイトのモンタージュ作品『The Constructor』でも、『ファーティマの手』が利用されている。

『Sihas hulin: Eyne fun di geshikhten (An Everyday Conversation)』(1917年)
『Sihas hulin: Eyne fun di geshikhten (An Everyday Conversation)』(1917年)
『Had gadya』(1919年)の最終ページ。
『Had gadya』(1919年)の最終ページ。
『The Constructor』(1924年)
『The Constructor』(1924年)

マレーヴィチとシュプレマティスムの出会い


1919年5月、ヴィーツェプスクの芸術総務長に任命されたマルク・シャガールは、リシツキーを教師として招待。リシツキーは、グラフィックデザイン、印刷、建築の教鞭をとることになり、ヴィーツェプスクへ移動することになった。

 

また、同時にそこで共産党のプロパガンダ・ポスターのデザインや印刷作業にも従事する。のちにリシツキーはこの時代について沈黙している。その理由は制作ポスターの主題の1つが亡命したレオン・トロツキーに関するものだったからとされている。

 

なお、このプロパガンダ・ポスターの質は、政治性は別にリシツキー作品の中でも、独立した1つのジャンルと評価されて問題ないほどのクオリティだった。

 

シャガールはリシツキーのほかにも、画家で美術理論家のカジミール・マレーヴィチやリシツキーの以前の恩師であるイェフダ・ペンらを教師として招待する。なかでも、マレーヴィチとの出会いはリシツキーに多大な影響を与えた。マレーヴィチはリシツキーに「シュプレマティスム」という新しい斬新な芸術アイデアを数多くもたらした

 

しかしながら、マレーヴィチの美学はリシツキーには良い影響を与えたが、ヴィーツェプスクや具象芸術家や学校長のシャガールと芸術の方向性で衝突することになった。マレーヴィチは印象主義、プリミティヴィズム、キュビスムを通じて急進的な抽象絵画へ発展、主張していたためである。

 

1915年以来、マレーヴィチが提唱し続けてきたシュプレマティスムは、自然造形の模倣を拒否して、幾何学的な形態そのものの自立性に焦点を当てた芸術スタイルであり、具象芸術家たちとは相性が悪かった。

 

マレーヴィチやリシツキーは、古典教育と彼自身の芸術理論の授業を取り替え、さらに学校中にシュプレマティスム理論や技術を広げようとした。一方のシャガールはリシツキーに対して基本的な古典美術の教育を主張したが、二人の芸術の方向性は衝突し、引き裂かれることになった。

 

最終的にリシツキーはマレーヴィチのシュプレマティスムを全面的に支持。また、これまでの伝統的なユダヤ芸術から離れることにし、シャガールもまた学校を離れることになった。

 

こうして芸術学校はマレーヴィチの指導のもと、シュプレマティスム運動の発展に深く関わっていくことになる。1919年から1920年にかけてリシツキーは、人民芸術学校の建築学部の総長となり、生徒のラザール・キデケルとともに平面からシュプレマティスムの研究に力を注いだ。

「レーニン・トリビュート」(1920年)
「レーニン・トリビュート」(1920年)

抽象的プロパガンダ『赤い楔で白を穿て』


この時代で、リシツキーの最も有名な作品は1919年のプロパガンダ・ポスター『赤い楔で白を穿て』である。作品は、一見するとシュプレマティスムの純粋絵画に思えるが、明確にプロパガンダ・ポスターを意図して制作されている

 

ロシアは当時内乱状態で、「赤(共産主義者)」と「白(保守者、リベラル派、ボルシェを革命に反対するほかの社会主義者)」に分かれていた。この絵は、赤いくさびが白いフォルムを打ち砕くイメージは、シンプルながらも、その意図を疑う余地のない力強いメッセージを伝えていた。

 

つまり、リシツキーはシュプレマティスムの色や形態を意味を持つ記号へと転用し、抽象絵画を政治的プロパガンダに応用したのである。

『赤い楔で白を穿て』(1919年)
『赤い楔で白を穿て』(1919年)

この作品は、軍事地図に使われているよく似た記号を暗示していると解釈されており、その政治的象徴性とともに、マレーヴィッチのシュプレマティズムからリシツキー自身のスタイルへと進歩する最初の大きな一歩となった。

 

リシツキーは次のように述べている。

「芸術家は筆で新しい象徴を構築する。この象徴は、すでに完成しているもの、すでに作られているもの、あるいは世界にすでに存在するものの認識可能な形ではなく、それは新しい世界の象徴であり、それは上に築かれようとしているものであり、人々の方法によって存在するものである」

前衛芸術グループ「UNOVIS」の創設


1920年1月17日、マレーヴィッチとリシツキーは、学生、教授、その他の芸術家による初期シュプレマチスト協会である「モルポスノヴィス(新しい芸術の若い信者)」を共同で設立。

 

しかし、「古い」世代と「若い」世代の間で短い間に嵐のような論争が起こり、2回の改名を繰り返した後、グループは2月に「UNOVIS(新しい芸術の探検家)」として再結成した。

 

マレーヴィッチの指導の下、グループはニーナ・コーガンの振付による「シュプレマティズム・バレエ」や、ミハイル・マチューシンとアレクセイ・クルシェンイクの1913年の未来派オペラ「太陽の上の勝利」のリメイクに取り組んだ。

 

リシツキーとグループは、グループ内で制作された作品のクレジットと責任を共有するため、ほとんどの作品に黒い四角のサインをした。これは、彼らのリーダーであるマレーヴィチの作品へのオマージュであり、共産主義の理想を象徴するものだった。

 

これが、個人名やイニシャルに代わるUNOVISの事実上の印となった。メンバーが胸章やカフスボタンとして身につけていた黒い四角は、ユダヤ教の聖書小箱に似ていたので、ヴィテブスクのシュテットル(ユダヤ人コミュニティ)では違和感の感じないものだった。

 

UNOVISは1922年に解散したが、ロシアや海外におけるシュプレマティスムのイデオロギーの普及においては極めて重要なもので、またリシツキーが前衛芸術における著名な人物の一人として認識されるようになったきっかけでもある。

UNOVISのシール。マレーヴィチの『黒い四角』とほぼ同じ。
UNOVISのシール。マレーヴィチの『黒い四角』とほぼ同じ。
UNOVISのメンバー。中央がマレーヴィチ。
UNOVISのメンバー。中央がマレーヴィチ。

プルーン


また、リシツキーはマレーヴィチのシュプレマティスムを独自に発展させ、抽象幾何学絵画シリーズ、『プルーン』と呼ばれる作品群を制作。“プルーン”の正確な意味は完全に明らかにしなかったが、「Proeket Unovisa」を短縮した言葉、または「Proekt utverzhdenya novog」を短縮した言葉と考えられている。

 

のちにリシツキーは「プルーン」について曖昧に「絵画から建築へ変化する状態」と説明した建築への応用を意識した作品であり、本質的には立体要素を伴うシュプレマティスムの視覚言語の探求であったといわれる。当時のシュプレマティスムはほとんどに2D平面だったが、リシツキーはそれを3D立体化し、さらに建築図面へと発展させようとしたという。

 

もう1つ、プルーンで重要なのはあらゆる角度から鑑賞できる絵画であること。絵画をさまざまな角度から眺めることで「絵画」から「建築物」になり、鑑賞者は空間を感じることが可能だという。あらゆる角度から鑑賞できる絵画は、従来の鑑賞方法から解放されることになった。インスタレーションの先駆けともいわれている。

 

有用な芸術を目指すリシツキーはこの後、次第に産業デザインの分野に方向転換する。

『太陽の征服』ポスター
『太陽の征服』ポスター
「プルーン」(1922年)
「プルーン」(1922年)
「プルーン」(1925年)
「プルーン」(1925年)

ロシア構成主義


1921年、前衛運動「UNOVIS」の終焉とほぼ同じ頃、シュプレマティスムは2つの派閥に分裂し始めていた。1つはユートピアや精神的な芸術を好むものたち。もう1つは社会に対して役立つ実用的な芸術を好むものたちだった。

 

リシツキーはどちらの派閥に肩入れしないことにし、1921年にヴィーツェプスクの芸術学校を去ることにした。その後、ロシア文化芸術振興の代表としてベルリンへ移動し、ロシアとドイツの芸術家たちの間で仲人をする仕事を行う。リシツキーは、国際的な美術雑誌や新聞にライターやデザイナーとして参加し、さまざまな画廊の展示を紹介し、前衛芸術の普及に務めた。

 

非常に短命な雑誌だったが、ユダヤ系ロシア人作家のイリヤ・エレンブルグとともに雑誌『Veshch-Gegenstand Objekt』を出版。この雑誌は西ヨーロッパにロシア・アヴァンギャルドを紹介することを意図したもので、シュプレマティスムやロシア構成主義の作品を中心に前衛芸術を掲載。ドイツ語、フランス語、ロシア語で出版された。

 

創刊号でリシツキーはこう宣言している。

 

「構成的な手法は私たちが存在するために不可欠なことです。それは新しい経済や産業の発展ためだけでなく、芸術における心理面においても不可欠である。『Veshch』は構成主義を支持し、人々の生活を確立し、また構造化するのに役立つだろう。」

 

この時代のリシツキーは、ほかにもウラジミール・マヤコフスキーの詩集『Dlia Golossa』や、ジャン・アルプとともに『Die Kunstismen』を出版するなど、グラフィック・デザイナーとして歴史的な重要な仕事を多数行なっている

 

またベルリン時代には、多くのリシツキーの支持者となる芸術家とも出会っている。特に仲が良かったのはクルト・シュヴィッタース、モホリ=ナジ・ラースロー、テオ・ファン・ドゥースブルフである。

 

シュヴィッタースやテオ・ファン・ドゥースブルフらとともに、リシツキーは構成主義を基盤とした国際的な芸術運動のアイデアを提示。クルト・シュヴィッタースとは前衛芸術雑誌『メルツ』を刊行。1921年にハノーヴァーで最初の『プルーン』シリーズを出版した後、シュヴィッタースはリシツキーをケストナー・ソサエティギャラリーに紹介し、リシツキーの初個展を開催した。

 

1923年にハノーヴァーで2番目の『プルーン」』シリーズを出版して成功する。その後、ケストナー・ソサエティギャラリーのディレクターでポール・キュッパースの未亡人だったソフィー・キュッパースと出会い、1927年に結婚した。

雑誌『Veshch-Gegenstand Objekt』
雑誌『Veshch-Gegenstand Objekt』
詩集『Dlia Golossa』
詩集『Dlia Golossa』
雑誌『Die Kunstismen』
雑誌『Die Kunstismen』
雑誌『メルツ』
雑誌『メルツ』

空の鎧


1923年から1925年に、リシツキーは水平構造と垂直構造を備えた超高層ビル建設『空の鎧』を計画する。この建築プランは実現されることなく「紙上の建築」として終わった。ドイツではフォトモンタージュでプランの段階を展示し、建築雑誌では論文とフォトモンタージュが掲載された。ほかに11点にわたる水彩スケッチや鉛筆による習作がある。



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/El_Lissitzky、2020年5月18日アクセス


【作品解説】エル・リシツキー「赤い楔で白を穿て 」

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赤い楔で白を穿て / Beat the Whites with the Red Wedge

抽象的なプロパガンダ芸術


エル・リシツキー《赤い楔で白を穿て》1919年
エル・リシツキー《赤い楔で白を穿て》1919年

概要


作者 エル・リシツキー
制作年 1919年
メディウム リトグラフ
ムーブメント ロシア構成主義、プロパガンダアート

《赤い楔で白を穿て》は1919年にエル・リシツキーによって制作されたソ連のプロパガンダポスター。一見するとシュプレマティスムの純粋絵画に思えるが、この絵は明確にプロパガンダ・ポスターを意図して制作されている。ロシア構成主義の一例としてよく紹介される。

 

ロシア内戦中に敵対勢力である白人運動を貫き、撃破しているボリシェビキを象徴している。ロシアは当時内乱状態で、「赤(共産主義者)」と「白(保守者、リベラル派、ボルシェを革命に反対するほかの社会主義者)」に分かれていた。この絵は、赤いくさびが白いフォルムを打ち砕くイメージは、シンプルながらも、その意図を疑う余地のない力強いメッセージを伝えていた。

 

つまり、リシツキーはシュプレマティスムの色や形態を意味を持つ記号へと転用し、抽象絵画を政治的プロパガンダに応用したのである。しかし、このイメージは、1921年にリシツキーがドイツに移住した際に欧米で人気を博した。西洋の出版物ではロシア内戦を象徴するものとされている。者の制作意図とは異なるかたちで西洋で受け入れられ評価された

 

この作品は、軍事地図に使われているよく似た記号を暗示していると解釈されており、その政治的象徴性とともに、マレーヴィッチのシュプレマティズムからリシツキー自身のスタイルへと進歩する最初の大きな一歩となった。

 

リシツキーは次のように述べている。

 

「芸術家は筆で新しい象徴を構築する。この象徴は、すでに完成しているもの、すでに作られているもの、あるいは世界にすでに存在するものの認識可能な形ではなく、それは新しい世界の象徴であり、それは上に築かれようとしているものであり、人々の方法によって存在するものである」


サザビーズのオンラインオークションは好調!過去最高の1370万ドルの売り上げを記録

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サザビーズのオンラインオークションは好調!過去最高の1370万ドルの売り上げを記録


奈良美智《魔女》1999年
奈良美智《魔女》1999年

5月4日から14日にかけて開催されたサザビーズの初のオンライン・オンリー・デイの現代アート・セールでは、過去最高の1370万ドルの売り上げを記録した。1ヶ月前に設定された500万ポンド(640万ドル)というサザビーズのオンライン・オークションの過去の記録を2倍以上に伸ばしたという。

 

Art Market Monitorによると、このセールでは117点が出品され、96%の販売率を達成した。オークションは、サザビーズの今年の世界的なオンライン販売総額を1億ドルの大台に押し上げ、2019年の同期間の総額の約5倍に達した。

 

このセールに参加した入札者は35カ国から集まり、購入者の29%は初めてサザビーズ経由で購入したという。

 

今回のセールでは、クリストファー・ウールのモノクロームのパターン画《Untitled》(1988年)が120万ドルで落札された。この作品は、ウールが以前の抽象表現主義の作品からの移行の一環として使用していた壁紙ローラーが特徴的である。

 

ブライス・マーデンの暖色系抽象絵画《ウィンドウ・スタディ No.4》(1985年)は、高額査定の90万ドルを突破し、8件の入札を経て110万ドルで落札された。

 

リチャード・エスティスのフォトリアリズム絵画《Broadway and 64th》(1984年)は、高額査定の40万ドルの倍以上の86万ドルで落札された。

 

奈良美智の代表的な被写体の一つである少女を描いた《魔女》(1999年)は74万ドルで落札された。

 

Artsyより

ブライス・マーデン《ウィンドウ・スタディ No.4》1985年
ブライス・マーデン《ウィンドウ・スタディ No.4》1985年

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