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artnet「世界最大のアート販売サイト」

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アートネット / artnet

インターネット最大のアートマーケット


概要


設立 1989年
本社 ニューヨーク、ベルリン、ロンドン
産業 アート・マーケット
重要人物 ヤコブ・パブスト(CEO)

「Artnet.com」は、米国ニューヨークに本社を置くアートネット・ワールドワイド・コーポレーション(Artnet Worldwide Corporation)が運営している世界最大の美術売買サイト。

 

フランクフルト証券取引所に上場しているベルリンに本社を置くドイツの上場企業であるアートネット社(Artnet AG)が所有している。2015年には、アートネットは新規登録数が120%増加し、販売された作品点数が顕著に増加。

 

本社はアメリカのニューヨークに存在する。所有はドイツを基盤にしている株式会社「Artnet AG」。この会社はフランクフルト証券取引所に登録されている。ほかに、ロンドンに小会社「artnet UK Ltd.」が、パリに小会社「artnet France sarl」が存在する。 

社史


同社は1989年に、フランスのコレクターのピエール・サーナットが「セントレックス株式会社」という社名で立ち上げる。彼はもともとソフトウェア開発者で市場価格と関連する芸術作品の画像をデータベース化するソフトを開発していた。

 

ドイツの美術商であるハンス・ノイエンドルフが、1990年代に同社に投資を行い経営に参加。1992年に会長となり、1995年にCEOとなり、同年社名を現在の「アートネット・ワールドワイド・コーポレーション」に変更。

 

1998年に事業は「Artnet AG」が引き継がれる。ノイエンドルフの息子のヤコブ・パブストが2012年にCEOとなる。

ウェブサイト


美術品だけでなく、装飾芸術やデザインも取り扱う。透明性を重視しており、ユーザーが美術品を調査したり、ギャラリーに直接連絡したり、美術品市場の価格を知ることができるようにしている。

 

2008年にオンライン・オークション・プラットフォームの提供を開始。現在オークションが同社の主要サービスとなっている。2008年10月、Artnet はフランス語のウェブサイト artnet.fr を開設した。また、フランスのアート市場の批評的な概観を提供するフランス語の雑誌も発行している。

 

2014年2月にはアートワールドの最新ニュースを24時間配信する「Artnet News」を開始。元Louise Blouin Mediaの編集長であるベンジャミン・ジェノッキオが編集長に就任した。なお、2017年11月、ベンジャミン・ジェノッキオは、主にArtnetの編集長時代に発端となるセクハラ行為を複数の女性から告発された。

サービス


この事業の主なサービスは、アートネットのオンラインオークションである。アートネット美術・デザイン価格データベース」と「アートネット装飾美術価格データベース」には、1700以上の国際オークションハウスから1985年までの1,000万件以上のオークション落札結果が収録されており、美術品の価格を網羅した最も包括的なデータベースとなっている。美術品の市場価値や長期的な価格推移をオンラインで調べることができる。

 

もう一つの重要な製品は、世界中のギャラリーとコレクターをつなぐオンラインプラットフォームであるArtnet online Gallery Networkである。世界中に35,000人以上のアーティストと2,200の国際的なギャラリーを擁する。この種のネットワークの中では最大のものであり、幅広い視聴者を集め、真剣なコレクターと初めての購入者の両方から問い合わせが寄せられている。 コレクターは、アーティスト、ムーブメント、媒体で検索し、出品者に直接連絡を取ることができる。

 

このようなサービスは、電子メールによる新着作品のお知らせ、オンラインオークション、アーティスト作品カタログのデジタルライブラリー、分析レポート、国際展カレンダーなどのサービスによって完結している。

コラボレーション


2004年には、アートネットと国際的なオークションハウスであるサザビーズとのコラボレーションが始まった。 2007年には、アートネットとアートバーゼル/アートバーゼル・マイアミビーチとの緊密なコラボレーションが始まった。 アートネットはまた、世界の主要なアートフェアの多くと提携している。



【作品解説】パブロ・ピカソ「ドラ・マールと猫」

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ドラ・マールと猫 / Dora Maar With Cat

100億以上する猫と女性のペアリング作品


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1941年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 128.3 cm × 95.3 cm 
コレクション 個人蔵

《ドラ・マールと猫》は、1941年にパブロ・ピカソによって制作された油彩画。描かれている女性はピカソの愛人ドラ・マールで、マールの肩近くの椅子の上に小さな黒猫が描かれている。この作品は世界で最も高価格で一般市場で取引されている。

 

ピカソは55歳のとき、29歳のドラ・マールと恋愛関係になるや、すぐに彼女と同棲しはじめた。この絵は1941年に制作されたもので、その年は、ナチスがフランスに侵攻した年だった。

 

多重のレイヤーと豊かな筆使いで、多面的に構成されキュビスム様式で描かれた彼女の身体や表情は、このポートレイトに威風堂々した彫刻的な質感を与えている。

 

ピカソは以前に《アフガニスタンの猫》という絵を描いており、本作において、マールの魅力や気性とアフガニスタンの猫の性格をリンクさせたものだといわれている。ヨーロッパの芸術史において猫と女性のペアリングは、謀略的な女性や性的アピールを暗喩したものである。たとえばマネの《オリンピア》が代表的な猫と女性のペアリング絵画といえる。

 

また、マールの長い指ととがった爪にも注目したい箇所で、マールのよく手入れされた手は、マールの最も美しい身体パーツであり、また攻撃性を意味するものである。

マネ「オリンピア」。右側に黒猫がいる。
マネ「オリンピア」。右側に黒猫がいる。
ピカソは小さな時から猫をずっと飼っている。
ピカソは小さな時から猫をずっと飼っている。

1940年代、この絵はシカゴのコレクターであるリーとメアリー・ブロック夫妻に購入された。彼らは1963年にこの絵を売却し、その後、21世紀の現在までアートマーケット上に流通している。

 

2005年から2006年まで本作は、シカゴのジェラルド·ギッドウィッツが所有し、ロンドンや香港、ニューヨークのササビーズの展示の一部として広く一般公開されていたが、2006年5月3日のサザビーズの「モダニズム/印象派」のオークションで売りだされ、オークション史上最高価格を付けた。2012年版フォーブス世界長者番付では153位(資産64億ドル)のグルジアの富豪ビジナ・イヴァニシヴィリが,2006年に9520万ドル(108億円)で購入した。


【作品解説】パブロ・ピカソ「鏡の前の少女」

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鏡の前の少女 / Girl Before A Mirror

少女から女への移行


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1932年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 162.3 cm x130.2 cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《鏡の前の少女》は、1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。162.3 cmx130.2 cm。ニューヨーク近代美術館が所蔵している。ピカソの愛人で、1930年代前半におけるピカソの主要な主題の1つであるマリー・テレーズ・ウォルターを描いたものである。

 

1927年、ピカソ(46歳)は17歳のマリー・テレーズと恋愛関係になる。ピカソが古代ギリシャ彫刻のなかに見出していた理想の女の顔をマリー・テレーズに見たのである。

 

テレーズの白い顔に差し込む後光は、顔の右半分を滑らかなラベンダー・ピンク色で照らして穏やかに描かれている。しかし、光が当たらない左半分は三日月のような顔をしており、緑のアイシャドウやオレンジの口紅などラフな厚化粧がほどこされている。

 

おそらく、これは、テレーズの昼と夜の両方の表情、また落ち着きと生命力の両方を表現しており、さらに純粋な少女から世俗的な大人の女性へ移行するテレーズ自身の性的成熟を表現している。満月や新月ではなく三日月形になっている表情が「移行」を象徴していると思われる。

 

また化粧テーブルの鏡に映るテレーズの姿は異形的である。顔はまるで死体の頭のように黒々としており、まるでテレーズは死に直面しているように見える。それは少女の魂少女の未来少女の恐怖を表している。彼女の身体はねじ曲がる。

 

そしてダイヤ柄の壁紙は、ピエロの衣装を思い起こさせる。ピエロは、コメディアン的な自分自身を表現するときにピカソがよく使うモチーフである。つまり、この絵には、少女の精神を描くことに喜びを見出すピカソの姿も描かれているのである。


【作品解説】パブロ・ピカソ「読書」

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読書 / La Lecture

原色を大胆に使った「熱愛の時代」の作品


パブロ・ピカソ「読書」(1932年)
パブロ・ピカソ「読書」(1932年)

概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1932年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 65.5 cm × 51 cm
コレクション 個人蔵

《読書》は1932年1月にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。65.5cm×51cm。個人蔵。ピカソの愛人でミューズのマリー・テレーズ・ウォルターがモデルとなっている。膝の上に本を置いて椅子の上で裸姿でうたた寝しているテレーズの姿のである。

 

この絵は、ピカソの妻オルガ・コクラヴァが、パリで開催された回顧展で、顔の特徴が自分ではないことに気づき、ピカソとの関係に亀裂が入りはじめるきっかけとなった作品でもある。

 

ピカソは1931年12月から1932年1月にかけて、この絵を制作。美術批評家たちはこの時代の作品を「熱愛の時代」と名づけている。黄と緑など明るい原色を大胆に使っているのが特徴で、ほかにこの系統とよく似た作品では《夢》がある。

 

「ガーディアン」紙のマーク・ブラウンは、テレーズの膝の上にある本は「セクシャル・シンボル」で、官能的なエロティシズムと幸福を表現していると批した。またこの時代は、ピカソ作品の市場的価格でも、ピカソの全生涯において最も好条件だったという。

 

《読書》は、1989年にオークションで580万ドルで売りだされた。1996年に、再びニューヨークのクリスティーズに売り出される。当初は600〜800万ドルを見積もっていたものの、480万ドルまでしか値が上がらなかったため、このときは売却に失敗。

 

2011年1月に、2011年2月8日にロンドンのサザビーズで開催される印象派と近代美術のオークションで、《読書》が再び売り出されることが告知。《読書》はコレクターの手に渡る前は、パリのピカソの展覧会で展示されて以来ヨーロッパでは一度も展示されたことがない作品だった。2月8日にサザビーズで1200〜1800万ドルで売り出されると、最終的に匿名の入札者によって2500万ポンド(4000万ドル、40億円)で売却された。


【作品解説】パブロ・ピカソ「アルジェの女たち」

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アルジェの女たち / Women of Algiers

伝統への理解と独立


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1954-55年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ 114 cm×146.4 cm
所蔵者 カタール王室

《アルジェの女》は1954年から55年の冬にかけてパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。1954年から1963年の間にピカソは古典巨匠のオマージュとなる連作をいくつか制作している。2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札された。

 

ハーレムの女性たちを描いたフランスの画家ドラクロワの《アルジェの女たち》のオマージュ作品で、「A」から「O」までの合計15作品の連作となる。

 

ピカソは1940年の頭頃にまずラフスケッチ版を制作、またドラクロワの作品を研究するために10年かけて、定期的にルーブル美術館に通っていたという。

 

そうしているなか、偶然1954年から発生したフランスの支配に対する独立への8年間に及ぶアルジェリア民族闘争が発生。この時事問題に触発されピカソは本格的に制作を始める。ピカソはまたムーア人が支配していた頃のスペイン時代のアルジェリアと、ピカソが生きている時代に発生したアルジェリアの独立戦争を関連付けるように描いた

 

またドラクロワが北アフリカ旅行時に、同地の強烈な陽光によって表れた光と色彩の重要性を発見したように、ピカソもまた北アフリカで発見したプリミティブで原始的な魅力を描いて、ドラクロワの《アフリカ発見》を関連づけている。

 

そうした背景のもと制作されたこの絵の主題は、伝統のよりよい理解と同時にそこからの自由・独立である。古典巨匠、独立闘争、アフリカ(プリミティブ)の発見、娼婦街の女、これらさまざまな要素とピカソ自身の来歴を関連づけた傑作といえる

パブロ・ピカソに戻る

 

■参考文献

Les Femmes d'Alger - Wikipedia、2017年6月24日アクセス

The Women of Algiers, 1955 by Pablo Picasso 、2017年6月24日アクセス


【美術解説】ポール・デルヴォー「一人の女描き続けた画家」

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ポール・デルヴォー / Paul Delvaux

同一の女性をひたすら描き続けた画家


ポール・デルヴォー「人魚の村」(1942年)
ポール・デルヴォー「人魚の村」(1942年)

概要


生年月日 1897年9月23日
死没月日 1994年7月20日
国籍 ベルギー
スタイル シュルレアリスム
表現媒体 絵画
関連サイト WikiArt(作品)

ポール・デルヴォー(1897年9月23日-1994年7月20日)はベルギーの画家。シュルレアリスティックな女性ヌード画でよく知られている。

 

ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画やルネ・マグリットのデペイズマンなどの絵画表現に影響を受け、シュルレアリスム運動に参加。パリやアムステルダムで開かれた『国際シュルレアリスム展』に参加する頃から、一般的にシュルレアリスムの作家として知られていくようになる。

 

ただしデルヴォーは、当時政治色の強かったシュルレアリスムグループと、同じ政治運動を推進する熱烈な同士として積極的な関わりをもつことはなかった。デルヴォーは極めて私的に表現を楽しんだ。

 

デルヴォーの絵の中に描かれるいつも同じ顔女性は、母親によって強引に引き離されたタムである。デルヴォーは母親の呪縛に苦しみながら、タムの亡霊をひたすら描き続けていた。

 

そして絵画表現を通じた「タムの王国」の創造が目的だったのである。

重要ポイント

  • ベルギーを代表するシュルレアリスム画派
  • 描かれている女性はすべてタム
  • 死や虚無感、女性に対する魅惑と恐れといった内面が描かれている

作品解説


人魚の村
人魚の村
「月の位相」と「森の目覚め」
「月の位相」と「森の目覚め」
森
ジュール・ベルヌへのオマージュ
ジュール・ベルヌへのオマージュ


略歴


若齢期


ポール・デルヴォーは1897年にベルギーのリエージュ州アンティに生まれた。父は弁護士で厳格、母のロール・ジャモットは厳しいブルジョア出身の女性。7つ下の弟はきわめて優秀だった。デルヴォーは幼少の頃から内気で夢想家抑圧だった。

 

母親の外部の危険や悪い女性からの誘惑を排除しようとする態度は、彼の思春期に大きな影を落とすことになった。その一方で母親はポールを非常に可愛がった。それは溺愛といえるほどで、子どもにとっても少々やりきれないほどだった。

 

この母親のポールへの抑圧と溺愛は、後年、ポールのコンプレックスとなり、のちの「タムの王国」の扉を開くことになる。初期のデルヴォーの女性像は、目が落ち窪んで影を作り、その表情を確認することができないが、母親の女性への抑圧に対する影響だと思われる。

 

幼少期のデルボーは、芸術では絵画よりも音楽を学び、語学ではギリシャ語、ラテン語を身につけ、ジュール・ヴェルヌの小説やホメロスの詩に影響を受けた。

 

デルヴォーの絵画作品はこれらの本の影響が大きく、初期のドローイングにおいてはホメロスの神話の場面がよく見られる。ジュール・ヴェルヌの文学『地底旅行』で登場する地質学者のオットー・リーデンブロックは、自身を投影する形で頻繁に作品中に現れる。

 

デルヴォーは、ブリュッセルにある美術学校アカデミー・ロワイヤル・デ・ボザールに通う。ただ、両親の反対から建築科に進むことになった。

 

それにもかかわらずデルヴォーは、画家で教師のコンスタント・モンタルドやベルギーの象徴派画家のジャン・デルヴィの絵画教室に通って、絵描きになることを目指した。

ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』原著に掲載されたリーデンブロック博士の挿絵。
ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』原著に掲載されたリーデンブロック博士の挿絵。
『大きな裸婦』(1929年)
『大きな裸婦』(1929年)

タムの王国の始まり


 1929年、デルヴォーは人生を決定づける女性と出会う。アントンウェルペン出身の、アンヌ=マリー、愛称「タム」との出会いだった。

 

二人は会った瞬間から強く惹かれ合ったが、デルヴォーの両親から交際を強く反対されて別離させられることになった。

 

その反動からかデルヴォーは、1930年から32年にかけて、彼女の不在を埋め合わせるかのようにおびただしい数のタムの絵を描いて、それに類する作品を手がけた。「タムの王国」の始まりである。 

 

1920年代後半から1930年代前半のデルヴォーの絵画は、風景のなかに佇む裸体の女性画が特徴で、それらの絵画はコンスタント・ペルメケやグスタフ・デ・スメットといったフランドルの印象派画家から強く影響を受けていた。また、この頃はベルギー表現主義が流行していた。

 

この表現主義的な様式は1934年頃まで見られるが、その後、こうした要素は、彼の奥底にある欲望と詩的要素を絵画に定着させる重要な役割を担った。 

『海』(1934年)
『海』(1934年)
『レディーローズ』(1934年)
『レディーローズ』(1934年)

シュルレアリスム


1933年ごろに、ジョルジュ・デ・キリコ形而上絵画に影響を受けた絵画スタイルに変更。なお、キリコの影響は1926年か1927年ごろから見られる。

 

1930年代にデルヴォーはブリュセルフェアへ訪れ、スピッツナー博物館の医療博物館のブースへいく。そこで、赤いベルベットのカーテン内にあるウインドウに陳列された骸骨の模型や機械的なビーナス像といった医療器具に強い影響を受ける。このときの体験は、彼のその後の作品を通じて現れるモチーフである。

 

その3ヶ月後に母が死去。彼は愛と尊敬と恐れの対象であった母の死と直面し、さらにその4年後には父の死も続いた。それは彼にとって「死」そのものを内在させたオブセッションとなり、それ以降は『眠れるヴィーナス』をはじめ多数の横たわった人物や骸骨を描くことになる。

 

1930年代中ごろ、デルヴォーは友人のベルギーの画家ルネ・マグリットのスタイル、デペイズマン表現を自分でも利用するようになる。

 

1934年にブリュッセルで開かれた『ミノトール展』に参加し、シュルレアリスム絵画にさらに影響を受け、38年にパリやアムステルダムで開かれた『シュルレアリスム国際展』に参加。この頃から一般的にシュルレアリスム作家としてデルヴォーは知られていく。

 

デルヴォーはシュルレアリスムと接触することによって合理性という束縛から解き放たれ、内部にあるイメージを日常の意味から切り離して絵画の中に配置させることによって、非日常へと転化していった。

 

しかし、デルヴォーは当時政治色の強かったシュルレアリスムグループと、同じ政治運動を推進する熱烈な同士としての積極的な関わりをもたなかった。

 

デルヴォーは、ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画やルネ・マグリットのデペイズマンなどの絵画表現、そして絵画表現を通じた「タムの王国」の創造が目的だったのである。

 

この時代の代表作品は《人魚の森》

 

山高帽の黒服男が一人、左右に待機する黒服の女性の間を通過していく。

山高帽の男の先に見えるビーチを見てみよう。

ビーチには通りの女性たちとよく似た人魚の集団が見える。

人魚は次々と海へ飛び込もうとしている。

山高帽の男はビーチへ向かう。

 

デルヴォーは言う。

「自分のビジョンを見つけるには長い時間がかかった」

『人魚の森』(1942年)
『人魚の森』(1942年)
『The Musee Spitzner』(1934年)
『The Musee Spitzner』(1934年)

タムとの再会


1947年、デルヴォーは煙草を買いに入った商店で、18年前に両親によって引き離された恋人のタムと偶然の再会をする。まだ愛し合っていた二人は一緒に暮らすようになる。それによって、彼のオブセッションとなっていた女性に対する魅惑と虚無感といったものが薄れ、彼の作品の根幹にあった性的な緊張は消滅し、この頃からデルヴォーの作品は光彩に満ちてくる。

 

タムと再会したときの作品が1948年の《森》である。

 

「作品を生み出す芸術家の心は、周囲の人々や生活の仕方、人間関係、その他の変化に関わっている。さらには、様々な出来事、私の場合なら劇的な出来事、のはっきりした影響も考慮しなければならない」

 

1930年から40年代までが最もデルヴォーらしいといわれる理由はここにある。新たなるデルヴォーの旅はここから再起動するのである。

ポール・デルヴォー《森》1948年
ポール・デルヴォー《森》1948年

骸骨の時代


1950年代になるとデルヴォーは、裸婦をほとんど描かなくなる、代わりにそれまで脇役のように登場していた骸骨が絵の主役となる。デルヴォーにとって骸骨は「自身の過去」であるという。

 

デルヴォーは骸骨を描くことで、両親や過去から決別しようとする意志があったという。骸骨についてデルヴォーは、アンソールを通して「死のバロック」と呼ばれた、ネーデルラントの北方の歴史、ボスやブリューゲルの骸骨表現の伝統にまで彼の意識はつながっている。

 

また50年代なかばになると、場面が古典建築から次第に駅舎へと移行してゆく。列車や路面電車も骸骨と同じく過去のデルヴォーの作品に登場していたが、今までのように裸婦の背景などにではなく、単独で、背景自体が絵の中心になり始める。

 

これまでの後ろ向きの少女が夜の静かな駅舎に立っており、月光がホームを照らすという構図が増えた。列車はデルヴォーが幼少の頃にブリュッセルで初めて見た時から不思議な感覚を持っていたもので、決して関心がなくならないモチーフだという。

『磔』(1952年)
『磔』(1952年)
『聖夜』(1956年)
『聖夜』(1956年)
『駅と森』(1960年)
『駅と森』(1960年)

晩年


晩年になると、デルヴォーはシュルレアリスムから生じる不調和を排除し、それに代わって神秘的な雰囲気をたたえた絵を描くようになる。

 

「私はたぶんこれまで不安を描いてきたのだと思う。今では美を描きたい。それも神秘的な美を」とデルヴォーはいう。

 

裸婦をはじめとする、過去のモチーフが大集合してくるが、輝くような光が神秘的に降り注ぐようになる。

 

また、1966年からは痩せ型の学生モデル、ダニエル・カネールを描くようになったことで、それまでのタムの豊穣な女性像から雰囲気を一変させることになった。

 

1959年にデルヴォーはブリュッセルにあるコングレスパレスで壁画を制作。1965年にブリュッセル王立美術アカデミーのディレクターに就任。1982年にベルギーでポール・デルヴォー美術館が設立。1994年に死去。

『ダニエルの習作』(1982年)
『ダニエルの習作』(1982年)
『トンネル』(1978年)
『トンネル』(1978年)

略年譜


■1897年 0歳

9月23日、ベルギーのリエージュ州ユイ近郊のアンテイで、父ジャン・デルヴォーと母ロール・ジャモットの子として生まれる。父はブリュッセル控訴院付きの弁護士。

 

■1901年 4歳

一家はブリュッセルのエコス通り15番地に転居。

 

■1904年 7歳

弟アンドレ生まれる。のちに弁護士となる。サン=ジル小学校に入学。学校の博物教室で音楽の授業が行われ、人体標本と、人や猿の骨格標本に惹きつけられる。

 

■1907年 10歳

ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』を読む。

 

■1910年 13歳

サン=ジル高等学校に入学。ホメーロスの『オデュッセイア』に出会い、読みひたる。神話を題材にした素描を多数制作。

 

■1912年 15歳

この頃、トラムの模型を自作する。飛行機にも夢中になる。

 

■1913年 16歳

ブリュッセルのモネ劇場でリヒャルト・ワグナーのオペラ『パルシファル』を観る。絵や素描も多く描いたが、音楽にも傾倒。母からはグランドピアノを贈られる。

 

■1916年 19歳

ブリュッセルの美術アカデミー建築学科に入学するが、学年末試験で数学を落第し、建築の勉強を放棄する。

 

■1919年 22歳

夏に家族とともにゼーブリュージュに滞在する。そこで著名な画家で男爵位を持つフランツ・クルテンスと出会い、画家になるよう励まされる。クルテンスの助言により、両親も

アカデミーで装飾絵画の勉強をすることを認める。ブリュッセルの美術アカデミーに入学。象徴主義の画家コンスタン・モンタルドに師事する。そこでロベール・ジロンと終生変わらぬ友情を結ぶ。

 

■1920年 23歳

兵役につく。夜はブリュッセルの美術アカデミーでジャン・デルヴィルの授業を受ける。

 

■1921年 24歳

ブリュッセル近郊のソワーニュの森のはずれで、画家のアルフレッド・バスティアンと出会う。

 

■1923年 26歳

両親の自宅の一室を改装し、アトリエを構える。

 

■1925年 28歳

ブリュッセルのブレクポット画廊、ロワイヤル画廊でロベール・ジロンとの二人展を開催。ある弁護士が購入した『家族の肖像』以外は後に画家の手によって処分された。以降、ほぼ年一回のペースで展覧会を開催する。

 

■1926年 29歳

この頃、アンソールの影響を受ける。

 

■1927年 30歳

パリで初めてデ・キリコの作品を見て、圧倒される。

 

■1928年 31歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展を開催。この頃から級友だったポール=アンリ・スパークの弟で、詩人・作家のクロード・スパークとの交友が始まる。

 

■1929年 32歳

のちに生涯の伴侶となるアントウェルペン出身のアンヌ=マリー・ド・マルトラールとの結婚を望むが、両親に反対され、いったん関係を断つ。

 

■1930年 33歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

 

■1931年 34歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

 

■1932年 35歳

ブリュッセルの見本市でスピッツネル博物館に陳列されていた蝋人形に触発される。

 

■1933年 36歳

母、脳内出血により急死。ブリュッセルで個展。『眠れるヴィーナス』が酷評される。

 

■1935年 38歳

ブリュッセルのマグリットの自宅も訪ね、シュルレアリストたちを紹介される。

 

■1936年 39歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。

 

■1937年 40歳

父ジャンが死去。7月、シュザンヌ・ピュルナルと結婚。デルヴォーの芸術に理解を示す知的な女性で、41年にはパレ・デ・ボザール館長となっていたロベール・ジロンの秘書になる。

アントンウェルペン、ロンドン等で展覧会に出品。ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展。前年に制作した『陵辱』がミノトール誌に掲載される。

 

■1938年 41歳

「国際シュルレアリスム展」に出展。ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで開催された「ベルギー現代美術」展に出品。この時出品した12点全てをメザンスが購入。またロンドンの画廊で個展を開催し、ローランド・ペンローズとペギー・グッゲンハイムが作品を購入。

 

■1940年 43歳

メキシコで開催された「国際シュルレアリスム展」に参加。

 

■1941年 44歳

ブリュッセルの自然史博物館に通って骸骨の素描に励む。ニューヨークでのシュルレアリストの展覧会に出品。

 

■1942年 45歳

ニューヨークで開催された「シュルレアリスム国際展」に出品。

 

■1944年 47歳

ブリュッセルのパレ・デ・ボザールで大規模な回顧展。

 

■1946年 49歳

ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で個展。

 

■1947年 50歳

サンティデスバルドに滞在中にタムと偶然再会する。その後も定期的に会い、文通を続ける。

 

■1948年 51歳

ポール・エリュアールと共作した詩画集『詩・絵画・素描』がジュネーブとパリで刊行される。ヴィネツィア・ビエンナーレに出品。ロンドンの「現代絵画の40年 1907-1947」展、ブエノスアイレスの「ベルギー現代美術」展に出品。

 

■1949年 52歳

ニューヨーク、ブリュッセル、パリで相次いで個展が開催される。デルヴォーとタム、ブリュッセルのボワフォールの友人宅に部屋を借りる。

 

■1950年 53歳

ブリュッセルの国立美術建築学校の絵画部門教授に任命される。パリでのクロード・スパークの2つの舞台作品の舞台装置を担当する。

 

■1951年 54歳

この年に始まったサンパウロ・ビエンナーレにベルギーより出品。アントウェルペンの「現代芸術サロン」展に以降55年まで毎年出品。

 

■1952年 55歳

キリストの受難のテーマを骸骨で描く作品をさかんに制作する。オステンドにある保養所の娯楽室の壁画を制作。クノックのカジノでマグリットと展覧会を開催。10月にタムと正式に結婚。

 

■1989年 92歳

すでに寝たきりであったタム夫人なくなる。この日を境にデルヴォーは筆を置き、再び制作することはなかった。

 

■1994年 96歳

7月20日、フェルヌの自宅にて死去。


■参考文献

・ポール・デルヴォー展 夢をめぐる旅図録

https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Delvaux、2020年5月20日アクセス

【作品解説】パブロ・ピカソ「ゲルニカ」

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ゲルニカ / Guernica

世界で最も有名なピカソの反戦芸術


パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)

概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1937年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 349 cm × 777 cm
コレクション ソフィア王妃芸術センター

《ゲルニカ》は、1937年6月に完成したパブロ・ピカソによる壁画サイズの油彩作品。縦349cm×横777cm。スペインのソフィア王妃芸術センターが所蔵している。

 

《ゲルニカ》は、スペイン市民戦争に介入したナチスドイツやイタリア軍が、スペイン・バスク地方にある村ゲルニカの無差別爆撃した出来事を主題とした作品。

 

多数の美術批評家から、美術史において最も力強い反戦絵画芸術の1つとして評価されており、内戦による暴力や混沌に巻き込まれて苦しむ人々の姿を描いている。

 

作品内で際立っているのは、血相を変えた馬、牛、火の表現。絵画全体は白と黒と灰色のみの一面モノクロームとなっている。

 

1937年のパリ万国博覧会で展示されたあと、世界中を巡回。会場に設置された《ゲルニカ》は当初、注目を集めなかった。それどころか依頼主である共和国政府の一部の政治家から「反社会的で馬鹿げた絵画である」と非難を浴びた。

 

万博終了後、作品はノルウェーやイギリスといったヨーロッパを巡回。巡回で得られた資金はスペイン市民戦争の被害救済資金として活用された。

 

《ゲルニカ》が本格的に注目をあつめるようになったのは第2次世界大戦以降である。ゲルニカは世界中から喝采を浴び、結果として世界中へスペイン市民戦争に対して注目を集める貢献を果たした。

重要ポイント

  • 美術史において最も有名な反戦絵画
  • スペイン内戦時の暴力や混沌に苦しむ人々を描いている
  • 最初は評価されず、第二次世界大戦後に再評価

制作概要


1937年1月、スペイン共和国政府は、ピカソにパリで開催されるパリ万国博覧会 (1937年)のスペイン館へ展示するための絵画制作を依頼する。当時、ピカソはパリに住んでおり、プラド美術館の亡命名誉館長職に就いていた。

 

ピカソが最後にスペインに立ち寄ったのは1934年で、以後フランコ独裁が確立してからは一度もスペイン戻ることはなかった。

 

「ゲルニカ」の初期スケッチは、1937年1月から4月後半にかけてスタジオで丹念に行われた。しかし、4月26日にゲルニカ空襲が発生。この事件を詩人のフアン・ラレアはピカソに主題にするようアドバイスをすると、ピカソはそれまで予定していたプロジェクト(フランコの夢と嘘)を中止し、「ゲルニカ」制作のためのスケッチに取り組み始めた。

 

1937年5月1日に制作を開始。6月4日に完了。写真家で当時のピカソの愛人ドラ・マールは、1936年からピカソの「ゲルニカ」制作に立ち会った唯一の人物で、当時のピカソの制作の様子を多数撮影している。

 

これまで、ピカソは作品制作中にスタジオに人を立ち入らせることはほとんどなかったが、「ゲルニカ」制作時は影響力のある人物であれば、積極的に製作中のスタジオに案内し、作品経過を公開した。理由は、作品を見てもらったほうが反ファシストに対して同情的になると信じていたためである。

制作状況を公開するピカソ。
制作状況を公開するピカソ。

ゲルニカ爆撃と人類の核心


ゲルニカはスペインのバスク州ビスカヤ県にある町。スペイン市民戦争時における共和党軍の北部拠点であり、またバスク文化の中心地として重要視されていた。

 

共和党軍はさまざまな派閥(共産主義者、社会主義者、アナーキストなど)から構成されており、それぞれ最終目標とするところは異なっていたものの、フランコ将軍率いる保守派に反対という立場で共通の目標を抱いていた。

 

保守派は、法律、秩序、カトリックの伝統的な価値に基いて共和党以前のスペインに回帰しようとしていた。

 

爆撃対象となったゲルニカは、当時のスペイン内戦の前線から10キロ離れた場所に位置し、またビルバオの町と前線の中間にあり、共和国軍のビルバオへの退却とフランコ軍のビルバオへの進軍の通過地点だった。

 

当時のドイツの空軍の規定では、輸送ルートや軍隊の移動ルートとなる地域は合法的に軍事標的と定められており、ドイツにおいてゲルニカは共和党の攻撃目標の要件を満たしていた。

 

ドイツ軍人ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンの日記の1937年4月26日の日記で「4月25日にマルキナから退却する際に敗残兵となった共和国軍の多くは、戦線から10キロ離れた場所にあるゲルニカへ向かった。

 

K88戦闘機はここを通過する必要がある敵兵を停止させ、また混乱させるためにゲルニカを攻撃目標に定めた。」と書いている。

 

しかし、ゲルニカにおける重要な軍事標的は、本来ならば郊外にある軍需製品を製造する工場のはずだが、その工場は爆撃を受けなかった。また、共和党軍として戦うために、町の男性の大半はいなかったため、爆撃時の町はおもに女性と子どもたちによって占められていた。

 

ドイツ空軍の攻撃規定と食い違いがあるため、ゲルニカ爆撃の動機は共和国軍への威嚇・恫喝だとみなされている。 はっきりと保守派には、伝統的なバスク文化や無実な市民から成り立つ町に対して彼らの軍事力を誇示することによって、共和党軍や民間人たちの士気をくじこうとする意図があった。

 

当時のゲルニカ人口構成比は、ピカソの「ゲルニカ」の絵に反映されている。女性と子どもはゲルニカの無垢性のイメージをそのまま反映したものであるという。また女性と子どもはピカソにおいて人類の完璧さを表すことがある。

 

その女性と子どもへの暴力行為は、ピカソの視点から見ると、人類の核心へ向けられている。人類の核心とは画面中央したに描かれた壊れた剣と花である。

「ゲルニカ」画面中央下にある壊れた剣と花。
「ゲルニカ」画面中央下にある壊れた剣と花。

 1937年4月30日付けの記事によれば

 

「最初のドイツ・ユンカース飛行団がゲルニカ到着すると、すでに煙が巻き上がっており、誰も橋、道、郊外を目標とせず町の中心に向かって無差別爆撃を繰り返した。250キロ爆弾や焼夷弾が家屋や水道管を破壊し、この爆撃で焼夷弾の影響が広まった。当時住民の多くは休暇で町から離れており、残りの大部分も爆撃が始まるとすぐに町を去った。避難所に非難した少数の人が亡くなった。」

 

バスク地域の共和国軍に同情を示す『Time』記者のジョージ・ステラは、ゲルニカ爆撃を国際的に紹介し続け、それがピカソの作品に注目を集めるきっかけとなったが、ステラは4月28日付けの『Time』と『The New York Times』、29日付けの『L'Humanité』で以下のように書いている。

 

「バスクの古都でありバスク文化の中心であるゲルニカは、昨日の午後、反乱軍の襲撃によって完全に破壊された。線の背後にあったこの開かれた町への爆撃は3時間ほど行われ、そのとき、3種類のドイツの爆撃機が飛来し、1000ポンドの爆弾を町に落とした。」

 

ほかの記事では、爆撃の当日は定期市が開催されていたこともあり、町の住民は市の中心に多く集まってたという。爆撃が始まったとき、既に橋が壊されて逃げられず多大な犠牲者を出したと報告している。

 

第二次世界大戦時のナチ占領下にあったパリにピカソが住んでいたとき、あるドイツ役人がピカソのアパートで「ゲルニカ」作品の写真を見て、「これはお前が描いたのか?」と質問されたとき、ピカソは「ちがう、お前たちがやった(空爆)」と答えたという。

破壊されたゲルニカ(1937年)
破壊されたゲルニカ(1937年)

絵の構成


絵の場面は部屋の中であり、画面左端が絵画の開始位置となる。

 

左端には死んだ子どもを抱えて悲しんでいる女性が描かれており、その女性の上には、目を細めた牛が描かれている。

 

画面中央には槍を突き刺されて苦しんでいる馬が描かれ、下には死んで解体された兵士が横たわっている。馬の顔の横にある大きな穴の空いた傷は、この絵のポイントである。切断された兵士の右手には壊れた剣と花があり、左手のひらにはキリストの傷跡と思われる思われる殉教の象徴が描かれている。馬の頭にある電球は邪悪な光を放っており、爆撃を連想させる。机の上の鳥は精霊や平和の象徴であるとされている。

 

馬の右上には、眼前で起きた出来事に恐怖に怯える女性の顔が描かれている。彼女は手にランプを持ち、窓から部屋を覗き込んで、現場の惨状を目の当たりにして驚いているように見える。ランプは希望の象徴だが、そのランプは不気味な電球のすぐ近くに対象的に置かれている。

 

右から畏敬の念を浮かべた女性が、浮遊する女性の顔の下から中央上に向かって顔を伸ばし、彼女の視線の先はちょうどランプと電球へ向かっている。右端には、日につままれて恐怖の顔を浮かべ腕を上げた女性が描かれている。彼女の右手は飛行機の形をしていることから爆撃の被害であることがわかる。

 

右端のドアは開いているので、絵画の終わりであることを意味している。

死んだ子供を抱える母親とキリストの聖痕らしき手のひらの傷。
死んだ子供を抱える母親とキリストの聖痕らしき手のひらの傷。
煌々と不気味に光る電球は太陽。ランプは希望を表しているという。
煌々と不気味に光る電球は太陽。ランプは希望を表しているという。

ゲルニカの解釈


ゲルニカの解釈は多様であり、正しい解釈はない。

 

美術史家のパトリシア・フォーリングは「牛と馬、ともにスペイン文化を象徴する重要なキャラクターである。ピカソはきっと自身を牛や馬に投影し、さまざまな役割を演じているのだろう。牛と馬の具体的な意味についてはピカソのこれまでの作品を通じてさまざまな表現がなされてきた。」と批評している。

 

ゲルニカについてピカソは質問されたときこう答えている。

「牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。・・・もし私の絵のに何か意味をもたせようとするなら、それは時として正しいかもしれないが、私自身は意味を持たせようとはしていない。君らが思う考えや結論は私も考えつくことだが、私の場合は、それは本能的に、そして無意識の表出だ。私は絵のために絵を描くのであり、物があるがままに物を描くのだ。」

 

パリ万博のために作成した物語シリーズ「フランコの夢と嘘」においてピカソは、最初フランコを食い散らす馬として表現し、のちに怒り狂った牛(共和国軍やピカソ)と戦う馬として描いていた。この絵はゲルニカ爆撃前に描かれており、その後さらに4つのパネルが追加され、そのうち3つはゲルニカの絵画に直接関連している。

 

学者のビバリー・レイによれば、以下に並べた解釈リストが、美術批評家たちの共通要素とされている。

 

  • 身体の形状や姿勢は反発を示している。
  • 黒、白、グレーの塗料を使用していることから、ピカソの憂鬱な気分が反映されており、また苦しみや混沌を表現している。
  • 炎上する建物や崩壊した壁は、ゲルニカの破壊を表すだけでなく内戦の破壊的な力をも表現している。
  • 絵画にコラージュ的に使われている新聞紙はピカソがゲルニカ爆撃の事件をどのようにしったかを反映している。
  • 電球は太陽を表している。
  • 絵の下部に中央に描かれている壊れた剣は人類の敗北を示している。

 

アレハンドロ・エスカロナはこのように述べている。「混沌や虐殺は閉鎖された場所で発生しており、この悪夢のような場から逃げ出す方法はない。しかしながら、中央にゲルニカ事件を報じる新聞紙が貼られていることから分かるように、戦争の悲惨なイメージが現代世界では、メディアを通じて生き生きとして高解像度でリビングルームに映し出される。」

「フランコの夢と嘘」(1937年)
「フランコの夢と嘘」(1937年)

ドラ・マールやマリー=テレーズの肖像


「泣く女」は、ドラのポートレイトであると同時に、同年に制作された「ゲルニカ」の後継作であることも重要である。「泣く女」と「ゲルニカ」は互換性のある作品で、ピカソは空爆の被害を受けて悲劇的に絶叫する人々の姿とドラ・マールをはじめ泣く女とをダブル・イメージで描いていた。

 

実際に、ゲルニカ作品で右端に描かれている絶叫している女性はドラ・マールであり、左端で子どもを抱えている女性はマリー=テレーズである。ちなみに抱いている子どもはピカソとマリー=テレーズの間の子どもで、隣の牛(ミノトール)はピカソ自身を表している。この時期、ピカソは自分自身の象徴するものとして、それまでの道化師からミノトールに移り変わっていた。

「泣く女」
「泣く女」
ピカソとドラ・マール
ピカソとドラ・マール

ドラ・マールの写真から影響


写真家のドラ・マールは1936年からピカソと制作をしてきた女性で、当時のピカソの愛人でもあった。マールはピカソのスタジオで「ゲルニカ」の制作過程の写真を撮りつつ、時には製作中のピカソもカメラに収めた。

 

また、カメラを用いず印画紙の上に直接物を置いて感光させる「フォトグラム」の手法をピカソに教えたりもしていた。

 

マールの白黒写真の撮影テクニックはピカソのゲルニカ制作において影響を与えた。ゲルニカがモノトーン一色であるのは、モノトーンが生み出す即時性効果やインパクトを作品に与えるためだった。また、ピカソがゲルニカ爆撃の写真を初めてみたときにショックを受けたのが白黒カラー報道写真だったともいわれ、報道的な側面を強調したかったと思われる。

 

そのためこの作品は、ピカソの要求に応じて特別に調合された艶消し塗料を使用して塗られている。同様の手法は1951年に描いた《朝鮮の虐殺》でも採用されている。

「朝鮮の虐殺」(1951年)
「朝鮮の虐殺」(1951年)


【作品解説】パプロ・ピカソ「女性の胸像」

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女性の胸像(マリー・テレーズ)

Bust of a Woman (Marie-Thérèse)


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1931年
メディウム 彫刻

《女性の胸像(マリー・テレーズ)》は1931年にパブロ・ピカソが制作した彫刻作品。当時のピカソの愛人マリー・テレーズ・ウォルターを表現している。2016年にアメリカの画商ラリー・ガゴシアンとカタール王室の間で所有権問題を起こした作品として知られている。

 

サルバドール・ダリのダブルイメージのような表現が使われており、鼻の部分がピカソのペニスになっており、ウォルターの額の上にもたれかかっている。

 

1年前にピカソが作っていた彫刻作品に《女性の頭部》があるが、一見すると題名の通り女性の頭部で、マリー・テレーズを表現しているが、同時に全体、および顔の各パーツがピカソの性器となっている。鼻の部分が陰茎で目の部分が睾丸なのである。男性器と女性の身体を同一視した表現はほかに、ピカソの勃起したペニスとテレーズの身体と融合した状態を、ダブルイメージで描いている《夢》がある。

『女性の頭部』
『女性の頭部』

批評家のブレイク・ゴピックはピカソのウォルターへの、また男性優位主義的な態度を批判しているが、作品のできについては称賛せざるを得ないと批評している。

 

また、ピカソの自伝家のジョン・リチャードソンはこの彫刻を見て「彫像の胸の部分はかがんでいるスフィンクスのように見える」と感じたという。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Bust_of_a_Woman_(Marie-Th%C3%A9r%C3%A8se)、2020年5月20日アクセス



【美術解説】ハンス・ベルメール「日本に衝撃を与えた球体関節人形」

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ハンス・ベルメール / Hans Bellmer

日本に衝撃を与えた球体関節人形


概要


生年月日 1902年3月13日 ドイツ帝国時代カトヴィツェ
死去 1975年2月24日(72歳)
国籍 ドイツ
表現媒体 人形、写真、彫刻、絵画、詩
代表的作品 Die Puppe(1934年、書籍)、「Popee」(1935年、書籍)
表現スタイル シュルレアリスム、ベルリン・ダダ

ハンス・ベルメール(1902年3月13日-1975年2月23日)はドイツの画家、版画家、オブジェ作家、写真家。1930年なかばに制作した等身大の少女人形作品が一般的には知られている。

 

それまでは絵描きだったが、ナチスへの反発をきっかけに1933年から人形制作を始める。グロテスクでエロティシズムな球体関節人形を制作し、それらを演劇仕立てにして野外撮影した自費出版の写真集としてが、パリのシュルレアリスム・グループから注目を集めるようになる。

 

ベルリンからパリへ亡命後、シュルレアリスム運動に参加したあと、積極的に自身に眠るエロティシズムを探求するようになる。

 

ベルメールの人形は、日本の球体関節人形の創生に大きな影響を及ぼしている。1965年に雑誌『新婦人』で澁澤龍彦がハンス・ベルメールの作品を誌面で紹介。その記事を見た四谷シモンが多大な影響を受け、本格的な球体関節人形の創作を始める。

 

以後、球体関節人形は少しずつ日本のアンダーグラウンドや幻想耽美系で球体関節人形作家は広まっていき、四谷シモンをはじめ、吉田良、天野可淡、恋月姫、清水真理などの現代人形作家シーンを生み出した。

 

なお美術史的には、ベルメールは人形作家ではなく、シュルレアリムの写真家、画家として位置づけられている。球体関節人形は、ベルメールの長い芸術活動の中の一部であり、スカルプチャーとして認識されている。

 

一般的にはファーストドールとセカンドドールのみ知られている(三体あるらしい)。特に晩年はウニカ・チュルンをモデルにしたドローイングの画家として評価を高めた。

重要ポイント


  • 日本の球体関節人形の創生に多大な影響
  • 人形作家ではなく、本業は画家、写真家
  • 二体の人形作品(ファースト&セカンド)しか知られていない

作品解説


「人形」(1936年)
「人形」(1936年)

略歴


若齢期


 ハンス・ベルメールは、1902年 、シュレジエン地方・カトヴィッツの裕福な技師の長男として生まれた。

 

父親はプロテスタントの優秀なエンジニアで、典型的なブルジョア道徳の体現者だった。性格は厳格で冷淡、家庭では独裁的な権力をふるっていたという。一方で母親は父親とは真逆で、少女のように優しく、可愛らしい外見で、ハンスと一緒に玩具を集めたりして遊んでいた。

 

このような極端な異なる性格の両親を持つ家庭環境はベルメールの大きな影響を与えた。ベルメールは恐ろしく厳格で厳しい外部の世界と、優しい小児的で少女的な内部の世界というアンビバレンツな感情を育てていった。この頃の環境が、のちに人形制作に反映される。

 

ベルメールは、1926年までに広告会社を設立し、ダダイストのヴィーラント・ヘルツフェルデが設立した出版社を中心に本の印刷やデザインの仕事をして生計をたてていた。

 

人形作りを始めたきっかけは、1933年のナチスの政権掌握。ベルメールはファシズムに抗議するため、また社会貢献の一貫として労働を放棄し、人形制作を始めたのだという。できあがった奇妙な形態のベルメールの人形は、当時ドイツで盛んだった行き過ぎた健康志向を批判したものであるという。

 

なお、ベルメールの人形作りには、1925年にオスカー・ココシュカがハーミー・ムーズに宛てた手紙に書かれていた等身大の人形の作り方を参考にしという

ファースト・ドール


Sketch for the "Die Puppe" series, 1932
Sketch for the "Die Puppe" series, 1932

ファーストドールは1933年に制作された。ドール制作のきっかけとなるのはナチスですが、ベルメールの幼少期における父親に対する恨みや反抗心も大きく関わっている。

 

ベルメールの父親は厳しく、暴力的で、幼少の頃から実用的な仕事に就くようベルメールを教育してきた。こうした環境でベルメールは、父親に対して反抗心を持ち始める。

 

ベルメールのなかで、男性的(父親的)なものとは、とりも直さず、実用性や有用性であり、社会的なものとみなしました。それはもちろん厳格な父親の姿を結びつけたものだった。

 

その一方で、女性(母親)とは、子どもをむすぶ楽園であって優しく、それは父親と敵対する抑圧されたものだった。後年、彼がナチスに対して激しい憎悪を燃やしたのも、この父的なものに対する反発だった。

 

こうした心理的背景のもと、ベルメールは球体関節人形の制作に取り組み始めた。彼の人形制作の動機は父親への挑戦だったため、個人的な欲望の対象と同時に、社会的にも性的にも白無用な存在と見なされている「少女」を人形のモチーフとして選ぶことにした。

 

また「少女」というモチーフを選ぶにあたって、1932年に出会った従姉妹の10代の美しい少女ウルスラの影響が大きいといわれている。ベルメールは彼女に性的な関心を抱いていたという。ウルスラは彼の人形に非常に似ていることから、人形のモデルであると言われてる。ウルスラへの愛着と父親に対する憎悪がごちゃまぜになってできたのがグロテスクでエロティックな球体関節人形だった。

 

ウルスラとともに、マックス・ラインハルト演出のオペラ「ホフマン物語」を観劇して、人形師コッペリウスと自動人形オリンピアからインスピレーションを得る。ベルメールの作品が演劇仕立てになっているのはホフマン物語を基盤にしているためである。この話は主人公が自動人形に恋をする話であり、主人公ナタニエルの父親に眼球をとられるというエディプス・コンプレックス的な話でもあった。

 

制作する人形の腹の中には、ベルメールの夢想の「パノラマ」が設置された。へそにはめ込まれたガラスの球体から内部をのぞくと、エピナールの版画だの、少女の痰のついたハンカチだの、極地の氷山のなかに閉じ込められた船だのが見える。そして左乳首を押すと、パノラマの景色が変わるのだった。

 

へその孔からパノラマが見える人形くらい社会にとって無益なものはなかった。ナチスはこれを頽廃芸術と呼ぶに違いない。無用な少女人形によって、ベルメールは、有用性への反発、ナチスへの反発、社会への反発、ウルスラへの愛情、性的関心、そして父への復讐を紐付けるように果たしたのである。

シュルレアリスム運動に参加


1933年にファースト・ドールを制作。ベルメールは制作の様子を写真撮影していたおかげで、バラバラのパーツが組み上がっていく姿を正しく理解することができたという。

 

身長は約16インチで、亜麻繊維、接着剤、および石膏などの材料で作られた胴体と頭部、ガラスの眼球、長ほうきの柄か杖を使って作られた両脚、ボサボサのかつらを組み合わせて人形は作られた。また肘や膝と言った関節部分は石膏管で作られている。

 

翌年34年、モノクロの人形の写真10枚と短い序文をおさめた『The Doll(Die Puppe)』をカールスルーエのTh・エックシュタイン社より自費出版する。「活人画」シリーズといわれるもので、ベルメールのファースト・ドールの写真が収められています。ベルメールのクレジットはなく、匿名で出版されなかった。1人でこっそりと制作した本だったので、ドイツで知られることはなかった。

 

しかし、この自主制作本はソルボンヌ大学に入学したウルスラによって、パリのシュルレアリストたちのもとへわたり、それがシュルレアリストたちから熱狂的な支持を受けます。ついに、当時のシュルレアリム機関誌『ミノトール』でベルメールの作品が掲載されました。これをきっかけにベルメールとシュルレアリスム運動の公式な接触が始まり、その名声は世界中に広がっていった。

 

ベルメール掲載されたのは、『ミノトール』1935年の冬に出た6号。何よりも、ハンス・ベルメールの登場が、断然、異彩を放っている。見開き2ページに、あの、惨劇のあとを思わせるベルメールの人形たちが、ずらりと並べられている。

 

シュルレアリスム美術のなかで、もっとも生臭く、低俗すれすれのところであえて勝負したベルメールの人形は、シュルレアリスムの本質にある二流志向を、極端にまで実行してみせた。

 

マイナーな人形作家とシュルレアリストとの仲立ちをしたウルスラの存在がなくては、ベルメールはシュルレアリスムの歴史に存在しなかったかもしれない。なおファーストドールは、球体が使われているがパーツとしての役割だけで、実際には動かすことができないため不完全な「球体関節人形」だった。

雑誌「ミノトール」6号。ベルメールが見開きで紹介。
雑誌「ミノトール」6号。ベルメールが見開きで紹介。

セカンド・ドール


1935年、プリッツェルとともに訪れたカイザー・フリードリヒ美術館に展示されていたデューラー派の人形からヒントを得て、球体関節を採用したセカンド・ドールの制作を始まりである。

 

セカンド・ドールは腹部が球体関節であることが大きな変化となっている。またファーストは技術的にも理論的にもまだ未熟な面があったが、セカンド・ドールではそれらの面も大幅に進歩。

 

この人形作品は、身体の各パーツをバラバラにしたり、組み立てたりして台所、階段、庭など様々な環境の中で120点あまりの写真を残された。おそらく、一般的によく知られているベルメールの人形はセカンド・ドールのほうだろう。

 

ベルメールの球体関節の哲学とは、あらゆる角度から造形的に追求されたもの。人間のエロティックな解剖学的可能性を、快楽原則によって再構成することが、ともするとベルメールのひそかな野心だったのかもしれない。

 

そのために、ありとあらゆる肉体の変形に適応するような人形を創作した。ベルメールの人形哲学によれば、女体の各部分は転換可能である。身体の相互互換、入れ替えが可能になるので、奇妙な人形がたくさん作られた。

 

最も有名なのは、二セットの脚が胴体にくっついて頭部が存在しない蜘蛛のような不気味な球体関節人形だろう。

第二次世界大戦と戦後


 第二次世界大戦が勃発すると、ベルメールは偽パスポートを作ってドイツからフランスにわたり、フランス・レジスタンスに参加し、ナチス・ドイツに抵抗sた。しかし、1939年9月から1940年のまやかし戦争が終戦するまで、ベルメールはフランス南部にあるエクス=アン=プロヴァンスのミルズ収容所に収監され、煉瓦工場で強制労働させられた。

 

戦後、ベルメールはパリで終生を過ごすことになる。人形制作はやめ、残りの数十年をおもにエロティックでシュルレアリスム風のドローイング画や版画の制作、それに加えて写真表現が中心になる。私たちが目にするファースト・ドールとセカンド・ドールは1930年代の一時的なものだった。

 

ベルメールは1951年に画家のウニカ・チェルンと出会う。彼女は1970年に自殺するまで愛人・モデルとなった。ベルメールの芸術制作は1960年代まで続いた。

 

1975年2月24日、膀胱がんで死去。ベルメールは「ベルメール-チュルン」と碑銘され、ペール・ラ・シェール墓地のウニカ・チュルンのそばに埋葬された。

「ベルメールとチュルン」シリーズ
「ベルメールとチュルン」シリーズ
「ベルメールとチュルン」シリーズ
「ベルメールとチュルン」シリーズ

ベルメールの影響


ニューヨークで活動するポスト・パンク・バンドの「ベルメール・ドールズ」はベルメールから名前を引用している。

 

2003年の映画『ラブ・ドール』にはベルメール作品の影響がはっきりと現れている。たとえば主人公のリサ・ベルメールという名前は、ベルメールから引用している。

 

2004年のアニメ映画『攻殻機動隊2:イノセンス』では、ベルメールのエロティックや不思議な人形の要素が見られる。さらに監督の押井守は映画製作の際にベルメールからインスピレーションを得たと発言している。

 

2001縁のビデオゲーム「サイレントヒル2」にはベルメールの人形と非常によく似たマネキンというキャラが現れる。しかし、イラストレーターの伊藤暢達は、マネキンのデザインはベルメールから影響を受けておらず、日本の伝統人形からインスピレーションを得ていると話している。

「攻殻機動隊2 イノセンス」
「攻殻機動隊2 イノセンス」
左:ベルメールのセカンドドール 右:サイレントヒル2のマネキン
左:ベルメールのセカンドドール 右:サイレントヒル2のマネキン

作品集


  • Die Puppe, 1934.
  • La Poupée, 1936. (Translated to French by Robert Valançay)
  • Trois Tableaux, Sept Dessins, Un Texte, 1944.
  • Les Jeux de la Poupée, 1944. (Text by Bellmer with Poems by Paul Eluard)
  • "Post-scriptum," from Hexentexte by Unica Zürn, 1954.
  • L'Anatomie de l'Image, 1957.
  • "La Pére" in Le Surréalisme Même, No. 4, Spring 1958. (Translated to French by Robert Valançay in 1936)
  • "Strip-tease" in Le Surréalisme Même, No. 4, Spring 1958.
  • Friedrich Schröder-Sonnenstern, 1959.
  • Die Puppe: Die Puppe, Die Spiele der Puppe, und Die Anatomie des Bildes, 1962. (Text by Bellmer with Poems by Eluard)
  • Oracles et Spectacles, 1965.
  • Mode d'Emploi, 1967.
  • "88, Impasse de l'Espérance," 1975. (Originally written in 1960 for an uncompleted book by Gisèle Prassinos entitled L'Homme qui a Perdu son Squelette)

●参考文献

Tate

Wikipedia-Hans Bellmer

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【作品解説】パブロ・ピカソ「裸体、緑葉と胸」

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裸体、緑葉と胸像 / Nude, Green Leaves and Bust

テレーズとの秘密の愛人関係を暗喩


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1932年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 162 cm ×130 cm
コレクション 個人蔵

《裸体、緑葉と胸像》は、1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。162 cm×130 cm 。愛人マリー・テレーズがモチーフとなっており、生き生きとした青とライラック色が印象的なテレーズシリーズの中でも最も大きな作品である。

 

ピカソは1927年1月に初めてマリー・テレーズと出会った。その後の数年間、ピカソは親友たちや妻のオルガでさえ全く知らなかったほど秘密裏にテレーズと愛人関係を続ける。1931年から1932年にかけて、ピカソはマリー・テレーズの絵画や彫刻のシリーズを制作しつづけることになるが、本作は1930年に購入したボワジュルー城のアトリエで制作されたものである。

 

フィロデンドロンの豊かな緑のフォルムと、マリー・テレーズの豊かな身体フォルム、そして彫像の頭部とテレーズの頭をダブルイメージ的に描いている。

 

暗く影がかかった胸像はテレーズの内面を表現するのはもちろんのこと、後景のカーテンとも関連付けることができる。このカーテンは当時の「秘密の愛人関係」を暗喩するものである。またフィロデンドロンは観葉植物であるが、これも同じく「秘密の愛人関係」を暗喩するものである。

 

影を落とす彫像と対比するような前景の真っ白なテレーズの裸体や赤い果実は、部屋全体を照らすイルミネーションとなっている。

 

本作はロサンゼルスのアートコレクターのシドニー&フランセーズ・ブロディ夫妻が60年近く所蔵していた。フランセーズ・ブロディが2009年11月になくなると、2010年5月4日にニューヨークのクリスティーズで絵が売りだされる。9500万ドルで落札されたが、買い手のプレミアムを含めて価格は1億600万ドルに達した。


【作品解説】パブロ・ピカソ「朝鮮虐殺」

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朝鮮虐殺 / Massacre in Korea

信川虐殺事件を基にした政治性の高い作品


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1951年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 110 cm × 210 cm
コレクション パリ国立ピカソ美術館

《朝鮮の虐殺》は1951年1月18日に完成させたパブロ・ピカソによる油彩作品。110cm x 210cm。パリ国立ピカソ美術館が所蔵している。

 

朝鮮戦争におけるアメリカの軍事介入を批判した内容である。1950年に信川虐殺事件の虐殺事件を主題としており、《ゲルニカ》《納骨堂》《戦争と平和》《サビニの女たちの略奪》と並んで、ピカソ作品のなかでは政治メッセージの強い作品。

 

美術批評家のキルスティン・ホービング・キーンは本作を「アメリカの残虐行為のニュースの影響とピカソの共産主義的な作品の1つ」と解説している。

 

本作は、マドリード市民の暴動を鎮圧したミュラ将軍率いるフランス軍を描いたフランシスコ・ゴヤの作品《マドリード、1808年5月3日》や、エドヴァール・マネが1869年に制作した《皇帝マキシミリアンの処刑》を基盤としている。

 

画面左側に並ぶ犠牲者は人物は、母親と子供、妊婦に置き換えられているが、これは「信川虐殺」の最も悲劇的な事件である「400オモニ(母親)の墓」「102子供の墓」からの引用である。

 

画面右側に並ぶ兵士たちは、中世から近代にかけてのさまざまな防具を寄せ集めたような不格好な姿で、近代的ロボットのようにも見える。しかし、下半身は尻や性器が丸出しで装備されていない。銃でもなく槍のようでもない武具の先は蝋燭台のようで、これは女性たちが裸で妊婦として描かれていることで際立っている。多くの鑑賞者は兵士と認識しているが、銃は性器を暗喩していると思われる。

フランシスコ・ゴヤ『マドリード、1805年5月3日』
フランシスコ・ゴヤ『マドリード、1805年5月3日』
エドヴァール・マネ『皇帝マキシミリアンの処刑』
エドヴァール・マネ『皇帝マキシミリアンの処刑』

【アートモデル】ピカソ・モデル「フェルナンド・オリヴィエ」

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フェルナンド・オリヴィエ / Fernande Olivier

ピカソが有名になる前を知る唯一の女性


『オリヴィエのポートレイト』
『オリヴィエのポートレイト』

概要


生年月日 1881年6月6日
死没月日 1966年1月26日
国籍 フランス
職業 画家、モデル
関連人物 パブロ・ピカソ

フェルナンド・オリヴィエ(本名:アメリー・ラン:1881年-1966年)はフランスの芸術家、ピカソのモデルとしてよく知られており、ピカソは60作品以上の彼女のポートレイトを描いている。有名になる前のピカソを唯一知っている女性で、またピカソを出世させた女性として重要視されている。

 

オリヴィエは、若い少女の母と既婚の男とのあいだに産まれた非嫡出子だった。2歳のときに父方の叔母に育てられ、叔母がすすめた男性と結婚する予定だったが、18歳のときに叔母のもとを逃げ出して別の男と結婚する。

 

しかし、結婚した男は彼女に性的虐待をくわえたため、1900年19歳のときに正式な離婚届けを出さないままオリヴィエは夫の元を去り、パリへ移る。パリでオリヴィエは夫から身を隠すように本名のアメリー・ランからフェルナンド・オリヴィエに名前を変えた。

 

パリでオリヴィエは生活のためにアート・モデルとして働きはじめる。最初は作家のギヨーム・アポリネールの知り合いの芸術サークルの専属モデルとして働いた。そのころにそのサークルにいたポール・レオトー、キース・ヴァン・ドンゲン、エドモンド・マリー・プーランらと知り合いになる。特にヴァン・ドンゲンは彼女をモデルにした作品を数多く制作している。

 

1904年にパリのモンマルトルにあった安アパート「洗濯船」でオリヴィエはピカソと出会う。翌年までに彼らは同棲をはじめ、オリヴィエは芸術家サークルから身をひいて、ピカソ専属のモデルとなった。2人の関係は7年間、1911年まで続いた。ともに激しい嫉妬家だったため、常に喧嘩が激しく、暴風雨のような状態だったという。

 

オリヴィエは1907年から1909年のピカソのキュビスム時代のおもなモデルで、《アヴィニョンの娘たち》の5人のモデルの1人とされている。ほかに《女性の頭部》もオリヴィエがモデルの可能性がある。

 

彫刻作品『女性の頭部』
彫刻作品『女性の頭部』
『アヴィニョンの娘たち』
『アヴィニョンの娘たち』

『女性の胸(アヴィニョンの娘たちの習作)』
『女性の胸(アヴィニョンの娘たちの習作)』
『女性の頭部』
『女性の頭部』


1907年4月にオリヴィエは地元の孤児院にいき、13歳の少女レイモンドを養子にする。養子をともなったピカソとの小さな家族はその後長く続かず、オリヴィエは彼女を孤児院へ戻しすことになったが、この養子レイモンドの話は、のちに出版する彼女の回顧録で書かれることはなかった。しかし、レイモンドはピカソのドローイングモデルとしていくつか作品が残っている。

 

ドローイング『レイモンドの頭』
ドローイング『レイモンドの頭』

ピカソが画家として成功すると、ピカソはオリヴィエから急速に関心を失いはじめる。オリヴィエはピカソを有名にした女性だったが、同時にピカソにとって不遇の時代を呼び起こす存在だったためだ。

 

1912年に2人は別れるが、元々、ピカソとは結婚をしていないのでオリヴィエはピカソに対して合法的に何らかの財産権を得る手段がなかった。それどころかオリヴィエは法的には前夫と結婚した状態になっていた。ピカソと別れた後、生活のためにオリヴィエは、肉屋のレジ打ちやアンティークの販売などさまざまな仕事をする。絵画教室を開いて収入を賄った。

 

別れて20年経った1930年に、オリヴィエはピカソと付き合っていたころの回顧録『ピカソと友人たち』を出版。出版時はピカソの黄金時代だったので、それなりに商業的な成功をおさめた。しかし、ピカソはこの本に強い抗議をし、弁護士を雇い、出版の差止めを行う。本の印税で彼女の生活水準は一時的に向上したが、すぐにお金はなくなり、元の貧しい生活に戻ってしまう。

 

その後、オリヴィエは聴覚障害と関節炎に苦しんだりしたが、ピカソが個人的な事をこれ以上外部に口外しない代わりに生活援助を行う約束を取りつけ、ある程度の年金生活が過ごせるようになる。

 

1966年に死去。ピカソが1973年に死去し、1988年に回顧録の完全版が出版された。


【作品解説】ポール・デルヴォー「月の位相」と「森の目覚め」

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森の目覚め / The Awakening of the Forest

鉱物学者がのぞく森の世界とは!?


「森の目覚め」(1939年)
「森の目覚め」(1939年)

概要


作者 ポール・デルヴォー
制作年 1939年
サイズ 170.2 × 225.4 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 シカゴ美術館

《森の目覚め》は1939年にポール・デルヴォーによって制作された油彩作品。ジョルジョ・デ・キリコやサルバドール・ダリ、ルネ・マグリットなどに影響を受けて、自己の内面世界を描くためにシュルレアリスムを積極的に問入れた始めた頃の作品である。

 

デルヴォーは幼少の頃の記憶を表現にする事が多く、本作は1864年のジュール・ヴェーヌの小説「地底旅行」内のエピソードから着想を得て描いている。本作で引用されているエピソードは、オットー・リンデンロック教授と甥のアクセルは地球の奥深くにある巨大キノコの森を発見するシーンであると思われる。

 

デルヴォーの場合、「地底旅行」のキノコの森が女性の森に置き換えられている。デルヴォーの全作品を振り返って、主題として女性へのエロスを描いている事から、原始的な森と女性の裸体を同一視していると思われる。画面左にいるオットー教授と背面に描かれているアクセルの顔は、驚くほどデルボー自身に似ていることから、この2人はデルボー自身を描いていると見てよいだろう。

 

満月の下、背景にはたくさんの機械のような裸体の女性が密集して描かれており、前景では植物と組み合わせた形で女性が描かれている。中程左にいる女性と中間にいる赤い服を着た女性は、二人ともビクトリア朝のドレスを着て、ランプを手に持っている。

 

オットー・リンデンロック教授は、本作以外にも本年から制作を開始する「月の位相」シリーズで頻繁に登場する。リンデンロック教授は、いつも何かを覗いている手振りをしているが、それはリーデンブロック博士は鉱物学者であるためである。その鉱物学者と女性に対するのぞき行為をかけていると思われる。

 

澁澤龍彦はデルヴォーに関してこのような評をしている。

 

「一言をもってすれば、デルヴォーの絵は、オナニストの想像力に媚びる絵だ。オナニスト的基質の芸術家には、デルヴォーのエロティックな裸女は、追い払っても消えない甘美な幻想となり、その心の無意識の片隅に、半ば羞恥と半ば渇望の念とをもって、現れる」。

「月の位相」シリーズ


【作品解説】パブロ・ピカソ「母と子」

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母と子 / Mother and Child

ピカソ新古典主義時代の代表作


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1921年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 142.9 cm x 172.7 cm
コレクション シカゴ美術館

《母と子》は1921年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。

 

1917年にピカソは、ロシアの芸術プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフの「ロシア・バレエ団」の舞台衣装をデザインするためにローマを旅行する。そのさいにピカソは古代ローマやルネサンスなどの古典様式に大変感銘を受け、自身の作品に古典様式を導入しはじめるようになった。これがピカソの新古典主義と言われるスタイルのころで、ドミニク・アングルの「オダリスク」やルノワールのヌード絵画からはっきりと影響を受けていた。

 

《母と子》は、アングルやルノワールの影響を受けて描かれた作品で、また1921年はピカソがロシアの踊り子であるオルガと結婚し、第一子が生まれた年でもある。

 

新しく父となったピカソは1921年から1923年にかけて「母と子」を主題とした作品を多数制作しており、少なくとも12作品は存在している。

 

この作品では母の膝の上に子どもが座って、母に触ろうとしている。ギリシア風ガウンに身を包んだ母親は、膝の上の子どもをじっと見つめる。背景はシンプルに描かれた砂場と海と空である。

 

母と子に対するピカソの視点は感傷的なものではない。この時代のピカソ自身の人生を絵に反映しており、家庭的な平穏と安定が見られる。

 


■参考文献

・『パブロ・ピカソ』タッシェン社


【作品解説】パブロ・ピカソ「サルタンバンクの家族」

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サルタンバンクの家族 / Family of Saltimbanques

ピカソの「バラ色の時代」の代表作


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1905年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 212.8 cm × 229.6 cm
コレクション ナショナル・ギャラリー (ワシントン)

《サルタンバンクの家族》は、1905年に描かれたピカソの「バラ色の時代」の代表作。「サーカスの時代」と呼ばれるときもある。

 

作品では、砂漠を背景として巡業するサーカス芸人のサルタンバンク一家が描かれている。常に一緒に行動しているように見えるサーカス芸人たちだが、絵の中の6人は互いに目を合わさず、コミュニケーションのようなものは感じられない。

 

サルタンバンクとは旅芸人のことで、通常のサーカス団とは違って、おもに路上で大道芸を披露していた人たちである。つまり芸人のなかでも、サルタンバンクはそのなかでも最下層に属していた集団といえる。

 

この作品は「青の時代」の後の1904年後半から1906年初頭に描かれた「バラ色の時代」の作品で、ピカソはサルタンバンクを主題にした作品に熱心取り組み、よくモントマトレのサーカス劇場に通っていた。

 

美術批評家たちの多くはこの作品について、サルタンバンク一家はピカソのポートレイトであり、サルタンバンク家族を通して「独立精神」「孤独」「貧しさ」「放浪」といったさまざな要素を象徴的に表現していると指摘する。そのため、背景はパリではなく砂漠に設定されている。

 

この作品は、1910年のヴィネツィア・ヴィエンナーレでスペインのブースから出展されたが、委員会の判断で不適切と見なされブースから取り除かれた。




【作品解説】パブロ・ピカソ「マンドリンを弾く少女」

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マンドリンを弾く少女 / Girl with Mandolin

ピカソの初期分析的キュビスムの代表作


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1909-1910年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 100 cm ×73.6 cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《マンドリンを弾く少女》は1909年から1910年にかけてパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。100 cm×73.6 cm。ニューヨーク近代美術館が所蔵している。

 

ピカソの初期分析的キュビズムの代表的な作品。モデルはピカソの当時の妻フェルナンド・オリヴィエ。1910年、当時のピカソとオリヴィエはカダケスで夏の休暇をとっており、そのころに描かれた作品が本作である。なお、これはマンドリンを持ったヌード絵画であるといわれている。

 

ピカソは立方体、正方形、長方形などさまざまな幾何学形を使って、対象であるオリヴィエの輪郭を分解している。一定の方向から対象を描くのではなく、可能な限り複数の方向からオリヴィエの裸体を描こうとしていた。

 

本作ではほぼライトブラウン単色のカラーパレットを使用しているが、これは統一された表面を形成するためである。また、少女の背景色も同じく、幾何学形を使ったライトブラウン単色で描かれており、ぱっと見る限り背景と人間の境界線が分からないようになっている。


【作品解説】パブロ・ピカソ「花と女性」

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花と女性 / Woman with a Flower

花と女性のダブルイメージ


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1932年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 162 cm x 130 cm
コレクション バーゼル市立美術館

《花と女性》は、1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。1927年から影響を受け始めたシュルレアリスムの技法が最も色濃く反映された作品である。

 

使われている技法は、ダリと同じダブル・イメージ。描かれているのは1927年に出会い、その後長らくピカソの愛人となったマリー・テレーズで、女と花を重ねあわせて描いている。

 

女の頭と花の房は両方とも豆のような形をしており、花の房が彼女の髪の毛と対応し、茎が腕と対応している。ピカソはシュルレアリスムから各々の物体をほかの物体に置き換えて表現することが可能であることを学んだのである。


【作品解説】パブロ・ピカソ「黒椅子の上のヌード」

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黒椅子の上のヌード / Nude in a Black Armchair

マティスの曲線と黒の引用


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1932年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 162 cm ×130 cm
コレクション ウェクスナー芸術センター

《黒椅子の上のヌード》は1932年3月9日にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。モデルはマリー・テレーズ・ウォルター。162cm×130cmの大型作品。

 

美術批評家のリチャード・ラケイヨは、アンリ・マティスの影響が色濃くある作品の代表作品としてよく引用しており、またピカソによれば、マティスの官能的な曲線と、喜びを表現するためのピンクの肌を強調するためにマティスの黒を借りたと話している。

 

MoMAキュレーターのウィリアム・ルービンは、「ぐにゃぐにゃゴムのような玩具」とこの絵を評している。またほかの批評家たちの多くは、女性の身体と植物が呼応しており、「生」を表現していると評している。

 


【作品解説】パブロ・ピカソ「老いたギター弾き」

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老いたギター弾き / The Old Guitarist

悲劇とわずかな希望をギター弾きで表現


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1903-1904年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 122.9 cm × 82.6 cm 
コレクション シカゴ美術館

《老いたギター弾き》は、1903年後半から1904年初頭にかけてパブロ・ピカソによって制作された油彩の絵画。ボロボロの擦り切れた服を身につけ、やつれてうなだれた盲目の老人が、スペインのバルセロナの通りでギターの演奏を弾いている情景を描いた作品である。シカゴ美術館所蔵。

 

《老いたギター弾き》の制作時期は、モダニズム、印象派、後期印象派といった絵画スタイルが融合され、また表現主義的なスタイルがピカソに大きく影響を及ぼしてきた頃である。さらに、エル・グレコのマニエリスム的な歪みや、ピカソの貧しい日常生活、親友カサジェマスの自殺といった悲しい要素がピカソに強い影響を与えている時期、一般的に「青の時代」といわれる時代の作品である。

 

本作は鑑賞者に瞬時に強い反応を引き起こすための要素が注意深く選ばれている。たとえば、モノクロームカラーの構成は、ギター弾きを時間と空間から乖離させたフラットで二次元的なフォルムを生成する。また全体的に抑えられた青色は憂鬱なトーンを引き出し、悲劇的テーマを強調する効果をもたらす。

 

ギター弾きにはすでに生命力がほとんどなく、死が迫っているようなポージングは、男の状況の悲惨さを強調している。一方で、手に持つ大きな茶色のギターは、青みがかった背景から最も離れたカラーで、鑑賞者の視点を中央に引き寄せる効果を持つだけでなく、ギターはその絶望状況下にあるギター弾きにとって、唯一、生存するための小さな希望を象徴したモチーフとなっている。

 

つまり、このギター弾きの主題は、ギターへの依存とそのギターから稼ぎ出すちっぽけな収入で、それはそのまま、当時のピカソの絵画への依存とそれが稼ぎ出すちっぽけな収入が反映されている。

 


■参考文献

The Old Guitarist - Wikipedia


【作品解説】パブロ・ピカソ「シカゴ・ピカソ」

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シカゴ・ピカソ / Cicago Picaso

シカゴ市のランドマークとなったピカソの彫刻


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1967年
メディウム

彫刻

製造者:アメリカン・ブリッジ

高さ

15メートル

場所

シカゴ・デイリープラザ

《シカゴ・ピカソ》は、アメリカ・イリノイ州のシカゴ市に設置されているパブロ・ピカソによる無題の記念碑彫刻の通称。1967年8月15日に、シカゴ市随一の市民センターであるリチャード・J・デイリーセンターに設定された。高さは15.2メートルあり重さは147トン。キュビスム様式の彫刻は当初シカゴのダウンタウンのパブリックアートの予定だったが、シカゴ市のランドマークとなった。

 

彫刻の上部はジャングルジムのような構造になっているのが特徴。下部は滑り台のようになっており、デイリー・プラザの訪問者は、よく彫刻の下部の部分に登ってすべり落りている。

 

彫刻プロジェクトは1963年にリチャード・J・デイリーセンターから依頼で始まった。デイリープラザの設計者ウイリアム・ハートマンが、ピカソに断られるのを覚悟で公共芸術の作成を依頼したところピカソは喜んで引き受けたという。なおリチャード・J・デイリー・センターの名称は1955年から1976年までの21年間シカゴ市長を務めた、リチャード・J・デイリーに因んで命名されている。

 

ピカソは1965年に彫刻の模型を完成させ、1966年に彫刻の最終的な模型案が承認された。1967年に制作。彫刻建設費用は35万ドルとなり、3つの慈善団体により支払いが行われたが、ピカソ自身は10万ドルだけを受けとった。ピカソとしては彫刻は贈り物にしたかったという。

 

なお《シカゴ・ピカソ》の南側にはジョアン・ミロ制作の彫刻《シカゴ・ミロ》が設置されている。

 



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