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【作品解説】パブロ・ピカソ「泣く女」

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泣く女 / The Weeping Woman

ゲルニカと女の苦しみ


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1937年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 60 cm × 49 cm
コレクション テート・モダン

《泣く女》は1937年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。60 cm×49 cm。ピカソは「泣く女」という主題に関心を抱き、その年に何度も同じテーマの作品を制作、100種類以上のバリエーションが存在している。

 

本作は「泣く女」シリーズの最後の作品で、最も完成度の高い作品とされている。1987年以来、イギリスのテート・モダンが所蔵している。

 

モデルとなっているのは愛人のドラ・マールである。ドラ・マールは1936年にピカソと出会い、プロ写真家として生活していた。彼女はピカソが1937年に制作した《ゲルニカ》に唯一立ち会い、ピカソの制作に協力した写真家だった。彼女との関係は1944年まで続いた。

 

ドラ・マールは感情的な女性で、すぐにシクシクと泣く人だった。

「私にとってドラはいつも「泣いている女」でした。数年間私は彼女の苦しむ姿を描きました。サディズムではなく、喜んで描いているわけでもなく。ただ私自身に強制されたビジョンに従って描いているだけです。それは深い現実であり、表面的なものではありませんでした。」

 

そして「泣く女」は、ドラのポートレイトであると同時に、同年に制作されたスペイン市民戦争におけるドイツ軍による空爆図《ゲルニカ》の後継作であることも重要である。「泣く女」と「ゲルニカ」は互換性のある作品で、ピカソは空爆の被害を受けて悲劇的に絶叫する人々の姿、特に死んだ子どもを抱いて泣く女を基盤にして描いたのが「泣く女」である。ドラ・マールをはじめ泣く女とをダブル・イメージで描いていた。

 

ちなみに抱いている子どもはピカソとマリー=テレーズの間の子どもであるとされ、隣の牛はピカソ自身を表している。この時期、ピカソは自分自身の象徴するものとして、それまでの道化師からミノトールに移り変わっていた。

パブロ・ピカソに戻る

 

■参考文献

The Weeping Woman - Wikipedia

・テート・モダン



【作品解説】ポール・デルヴォー「人魚の村」

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人魚の村 / The Village of the Mermaids

山高帽の男と人魚たち


ポール・デルヴォー「人魚の村」(1942年)
ポール・デルヴォー「人魚の村」(1942年)

概要


作者 ポール・デルヴォー
制作年 1942年
サイズ 104.3 x 124.1 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 シカゴ美術館

《人魚の村》は1942年にポール・デルヴォーによって制作された油彩作品。どこか憂鬱した表情の長い黒ドレスを着た同じ表情の女性が、通りの左右に並んで座っている不思議な風景の作品である。

 

タイトルの「人魚」はデルヴォーの代表的なモチーフで、さまざまな作品に描かれている。作品の女性は足元まですっぽり覆う長いドレスを着ているため分からないようになっているが、タイトルから察するおそらくドレスの下は人魚の下半身だろうと思われる。

 

この絵は、どこか娼婦街の女性が待機しているように思える。

どの女性も胸が妙に強調されている。

しかし、女性たちは客を望んでいるようには見えない。

ただ待機している。

皆、一様な顔である。

 

通りの前景は影で暗いが、通りの向こう側には対照的に、強い日光で照らされた海や山が見える。

山高帽の黒服男が一人、左右に待機する黒服の女性の間を通過していく。

山高帽の男の先に見えるビーチを見てみよう。

ビーチには通りの女性たちとよく似た人魚の集団が見える。

人魚は次々と海へ飛び込もうとしている。

山高帽の男はビーチへ向かう。

 

デルヴォーは言う。

「自分のビジョンを見つけるには長い時間がかかった」

 

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【作品解説】パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」

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アヴィニョンの娘たち / Les Demoiselles d'Avignon

前衛美術の初期発展に多大な影響エポック作


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1907年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 243.9 cm × 233.7 cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《アヴィニョンの娘たち》は、1907年にパブロ・ピカソによって制作された大型の油彩作品。243.9 cm × 233.7 cm。ニューヨーク近代美術館が永久所蔵している。バルセロナのアヴィニョン通りに存在した売春宿にいた5人の売春婦のヌード画である。

 

5人の人物は、これまでの伝統的な人物造形からすると、当惑させられるような女性造形でまったく美しくない。女性たちは少し威嚇するように、また身体は角ばっており、関節が外れたような身体で描かれている。

 

左の人物は、エジプトや南アジア風の顔と服装をしている。隣接する二人の人物は、ピカソの出身地スペインのイベリア風、右の二人はアフリカの仮面のような特徴を付けている。

ピカソによれば、アフリカの仮面に潜む部族のプリミティヴィスム性が「説得力のある、野蛮な力の全く独創的な芸術的なスタイルを解放する」という。

 

プリミティヴィスムの導入や従来の遠近法を無視したフラットで二次元的な絵画構成において、ピカソはこれまでの伝統的なヨーロッパの絵画へのラディカルな革命行動を起こした。この原初的なキュビスムの作品は、キュビスムと近代美術の初期の発展に大きな影響を与えたと考えられている。

 

プロト・キュビスムといえるこの作品は、キュビスムだけでなく近代美術全体の初期発展において、強い影響力を持つことになった。また大変な物議をかもし、ピカソの親友や美術仲間でさえ、この作品において、憤りと美的感性の不一致を引き起こしたという。

 

たとえば、ピカソの生涯のライバルで親友でもあったアンリ・マティスは、《アヴィニョンの娘たち》について悪いジョークだろうとみなしたが、ピカソ自身は1908年のマティスの作品《亀と水浴者》から着想を得たものだという。

 

また、後のキュビスム仲間のジョルジュ・ブラックは、当初誰よりもこの作品を嫌ったが、のちに誰よりもキュビスムの理解者となり、キュビスムの表現者となった。

 

ポール・スザンヌの《大水浴図》、ポール・ゴーギャンの彫刻《オヴィリ》、エル・グレコの《第五の封印》などが本作と関連のある作品として、広く美術批評家の討論の題材に挙げられる。

 

なお制作されたのは1907年だが、一般に公開されたのは1916年7月にサロン・ドートンヌが最初である。当時のオーガナイザーは詩人のアンドレ・サーモン。当初「アビニヨンの売春宿 Le Bordel d'Avignon」と題されて出品予定だったが、不道徳的であるという理由で助言により「アヴィニョンの娘たち」に改題された。1937年にニューヨーク近代美術館が作品を購入し、現在所蔵している。

背景と展開


20世紀の最初の10年間はピカソにとって自分自身が偉大な芸術家になろうとしていたころだった。ピカソはスペインからパリに到着した世紀の変わり目の頃、若い、名声を得ようとしている野心的な画家だった。

 

最終的には友人や親戚、人脈のほとんどをスペインに置いてきたが、彼は定期的にフランスとスペインを往復しながら生活し、絵を描き続けた。数年間、彼はバルセロナ、マドリッド、スペインの田舎に住んで仕事をしたり、パリに頻繁に旅行したりした。

 

1904年までには、彼は完全にパリに定住し、いくつかのスタジオを設立し、友人や同僚との重要な関係を築くようになっていた。1901年から1904年の間に、ピカソは「青の時代」の画風を確立させた。

 

「青の時代」はおもに世紀の変わり目にスペインやパリで見た風景をもとに、貧困や絶望を描いたものである。主題は、痩せた家族、盲人、個人的な出会いなどであり、他には友人を描いたものもあるが、その多くは青さと絶望感を反映している。

 

「青の時期」の成功に続いて、1904年から1907年にかけて発展した「ばら色の時期」の作品には、官能性とセクシュアリティの強い要素が取り入れられている。

 

ばら色期の曲芸師、サーカス団員、演劇の登場人物の描写は、暖かく明るい色彩で描かれており、パリの前衛とその周辺のボヘミアンな生活を描いた希望と喜びに満ちたものとなっている。

 

「ばら色の時代」には、2つの重要な大作が生まれている。グスタフ・クールベエドゥアール・マネの作品を彷彿とさせる《サルタンバンクの家族》(1905年)と、セザンヌの《水浴者》やエル・グレコの《聖マルタンと乞食》を彷彿とさせる《馬を駆ける少年》(1905-06年)である。

 

1906年の半ばにはすでにかなりの支持者を得ていたが、ピカソは、ポール・ゴーギャンの作品を彷彿とさせる巨大な裸婦や記念碑的な彫刻の人物を描いた作品でさらなる成功を収め、原始美術(アフリカ、ミクロネシア、ネイティブ・アメリカン)へ興味を示すようになった。

 

その後、ピカソはベルテ・ヴァイルやアンブロワーズ・ヴォラールのギャラリーで作品を発表し、モンマルトルやモンパルナスの芸術家たちの間で評判と支持を集めるようになる。

 

ピカソは、1905年頃からアメリカの美術コレクター、ガートルード・スタインとその弟レオのお気に入りになった。スタインの兄マイケルと妻サラもまた、ピカソの作品のコレクターとなった。ピカソは、ガートルード・スタインと彼女の甥アラン・スタインの両方の肖像画を描いた。

 

ガートルード・スタインは、ピカソの絵や絵画を手に入れ、パリの自宅の非公式サロンで展示するようになった。

 

1905年に彼女が集まったある会合で、ピカソはアンリ・マティスと出会う。スタイン家はピカソをクラリベル・コーンと妹のエタ・コーンに紹介したが、これもアメリカの美術コレクターで、ピカソとマティスの絵画を購入するようになった。

 

やがてレオ・スタインはイタリアに移り、マイケル・スタインとサラ・スタインはマティスの重要な後援者となり、ガートルード・スタインはピカソ作品の収集を続けた。

ポール・スザンヌ《水浴者》1885-1887年
ポール・スザンヌ《水浴者》1885-1887年
エル・グレコ《聖マルタンと乞食》1597–1600年
エル・グレコ《聖マルタンと乞食》1597–1600年
パブロ・ピカソ《馬を駆ける少年》1905-06年
パブロ・ピカソ《馬を駆ける少年》1905-06年

マティスとのライバル関係


1905年のサロン・ドートンヌでは、アンリ・マティスフォーヴィスムの作品が注目を集めた。批評家のルイ・ヴォーセレスが「野獣の中のドナテッロ」という言葉で彼らの作品を批評したことからフォービスムができた。

 

ピカソが尊敬していた画家で、フォーヴ派ではなかった日曜芸術家のアンリ・ルソーは、マティスの作品の近くに彼の大きなジャングルの場面の絵画作品《飢えたライオン》を展示していたが、これがマスコミが使った「野獣派」という言葉に影響を与えたのかもしれない。

 

ヴォーセレスのコメントは、1905年10月17日付の日刊紙ギルブラスに掲載され、一般的に使われるようになった。

 

最も攻撃を受けたのはマティスの《帽子の女》で、ガートルードとレオ・スタインがこの作品を購入したことは、作品の評判の悪さから精神的に落ち込んでいたマティスに非常に良い影響を与えた。

 

そうして、マティスは、1906年から1907年にかけて、近代絵画の新しい運動のリーダーとしての名声と優位性を築き上げ、ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンテなどの芸術家たちを惹きつけた。

 

ピカソの作品は「青の時代」と「ばら色の時代」を経て、かなりの支持を得ていたが、ライバルのマティスに比べれば、彼の評判はおとなしいものだった。

 

「黄金時代」を探求したマティスの《生きる喜び》などの大きなテーマは、歴史的な「人間の時代」というテーマと、20世紀の時代が提示した挑発的な新時代の可能性を想起させた。同じように大胆で、同じようなテーマの絵画である1905年のドランの《黄金時代》は、人間の時代の移り変わりをより直接的に示している。

 

さらに悪いことに、マティスとドランは1907年3月に開催された独立芸術家協会で、マティスは1907年初頭に完成した《青い裸婦》を、ドランは《浴場》を発表し、再びフランス国民に衝撃を与えた。《青い裸婦》は、後にニューヨークで開催された1913年のアーモリーショーで国際的なセンセーションを巻き起こした作品の一つである。

アンリ・マティス《飢えたライオン》1905年
アンリ・マティス《飢えたライオン》1905年
アンリ・マティス《青い裸婦》1907年
アンリ・マティス《青い裸婦》1907年

ピカソが《アヴィニョンの娘たち》の準備を始めた1906年10月から1907年3月の完成までの間に、ピカソはマティスと近代絵画の新たな指導者としての地位を争っていた。

 

完成後、その衝撃と衝撃はピカソを論争の渦中に巻き込み、マティスとフォーヴィスムを打ちのめし、翌年には事実上のフォーヴィスムは終焉を迎えた。

 

1907年、ピカソは、ダニエル・ヘンリー・カーンワイラーがパリにオープンしたばかりの画廊に参加。カーンワイラーはドイツの美術史家、美術コレクターで、20世紀を代表するフランスの美術商の一人となった。彼は1907年からパリでパブロ・ピカソの最初の支持者の一人となり、特に彼の絵画《アヴィニョンの娘たち》で決定的な支持者となった。

 

しかし、《アヴィニョンの娘たち》の衝撃を受うけた後、マティスは再びアヴァンギャルドの扇動者であることは間違われることはなかった。マティスの《生きる喜び》への返答であると同時に、《アヴィニョンの娘たち》が派生した伝統ヨーロッパ芸術への攻撃であると理解していた目利きたちを驚愕させ震撼させた奇怪な絵で、ピカソは前衛的な野獣の役割を効果的に利用したのである。

 

マティスは、ジョルジョーネ、プーサン、ワトーからイングレス、セザンヌ、ゴーギャンに至るまでのヨーロッパ絵画の長い伝統に基づいて、《生きる喜び》で牧歌的な楽園の現代版を描いていたのに対し、ピカソは《アヴィニョンの娘たち》で奇妙な神々と暴力的な感情の冥土の世界を描くために、プリミティブな異質な伝統に目を向けていたのである。

 

また、《生きる喜び》の神話的なニンフと『アヴィニョンの娘たち』のグロテスクな肖像を比較するとどちらがより衝撃的であるか疑問はなかった。

 

ピカソは、近代の芸術と文化に計り知れない影響を及ぼすであろう感情の脈を解き放ったのに対し、マティスの野望は、彼が『画家のノート』の中で述べているように、より限定された、つまり美的快楽の領域に限定されたものに見えた。

 

このようにして、世紀の最初の10年、そして二人の偉大な芸術家の作品の中には、現代の芸術を私たちの時代にまで分け続けてきた溝が開かれた。

影響


原始芸術


ピカソは、1907年夏にパリで描く予定の最終作品に向けて、何百ものスケッチや習作を制作した 。この作品はアフリカの部族の仮面やオセアニアの芸術の影響を受けていると批評家たちは批評しているが、ピカソはその関連性を否定している。多くの美術史家たちは彼の否定について懐疑的である。

 

ピカソは1906年10月の夜、マティスが所有していたコンゴのテケ像をじっくりと研究していた。この夜、ピカソは《アヴィニョンの娘たち》の最初の習作を制作した。

 

いくつかの専門家は、少なくともピカソが1907年の春にトロカデロ民族誌美術館(後にオム美術館として知られる)を訪れたのは、作品を完成させる直前の1907年のことだと主張している。ピカソはもともとこの美術館を訪れたのは、中世の彫刻の石膏模型を研究するためだが、当時は「原始的な」芸術の例を研究すると思われていた。

エル・グレコ


 

1907年、ピカソが《アヴィニョンの娘》の制作を始めたとき、彼が非常に尊敬していた古典巨匠の一人がエル・グレコだった。当時、エル・グレコは主に無名で評価は低かったとされている。

 

ピカソの友人イグナシオ・ズロアーガは、1897年にエル・グレコの傑作《第五の封印の扉》を1000ペセタで手に入れたという話を聞く。ピカソはパリのアトリエに友人イグナシオ・ズロアーガを訪ね、エル・グレコの《第五の封印の扉》を見せてもらい研究した。

 

《アヴィニョンの娘たち》と《第五の封印の扉》の関係は、1980年代初頭、両作品の様式的類似性やモチーフと視覚的に識別できる性質との関係が分析されたことで明らかにされた。

 

ピカソがズロアーガの家で繰り返し研究したエル・グレコの絵は、《アヴィニョンの娘たち》の大きさ、形式、構図だけでなく、その終末的な力にも影響を与えた。

 

 ピカソはこのように話している。

「いずれにしても、処刑だけが重要なのだ。このことから、キュビスムはスペインに起源を持ち、私がキュビスムを発明したと言うのが正しい。私たちはセザンヌにスペインの影響を探さなければなりません。ヴェネツィアの画家エル・グレコの影響を探す必要がある。"彼の構造はキュビスムだ」

 

また、ティツィアーノの《ディアナとカリスト》や、プラドにあるルーベンスの同主題との関係も議論されている。

エル・グレコ《第五の封印の扉》1608-1614年
エル・グレコ《第五の封印の扉》1608-1614年
パブロ・ピカソ《ヌード》1905年
パブロ・ピカソ《ヌード》1905年

セザンヌとキュビズム


ポール・ゴーギャンポール・セザンヌは、1903年から1907年にかけてパリのサロン・ドートンヌで大規模な回顧展を開催し、ピカソに大きな影響を与え、《アヴィニョンの娘たち》の制作に大きく貢献した。

 

イギリスの美術史家、コレクターであり、『キュビズムのエポック』の著者でもあるダグラス・クーパーによると、この2人のアーティストは、キュビスムの形成に特に影響を与え、1906年と1907年の間にピカソの絵画に特に重要な影響を与えたという。

 

クーパーは、《アヴィニョンの娘たち》はしばしば誤って最初のキュビスムの絵画と呼ばれていると言ると説明している。

 

「《アヴィニョンの娘たち》は、一般的に最初のキュビスムの絵と呼ばれている。これは誇張ですが、それはキュビスムへの主要な最初のステップだったが、それはまだキュビスムではない。この作品の破壊的で表現主義的な要素は、離散的で現実的な精神で世界を見ていたキュビスムの精神にさえ反しています。それにもかかわらず、この作品は、新しい絵画的形式の誕生を記録している。ピカソは暴力的に既成の慣習を覆し、その後に続くすべてのものは、この作品から派生したため、キュビスムの出発点として語るにおいて合理的な作品でもある」

 

1906年以前はセザンヌは一般にはあまり知られていなかったが、セザンヌの評判は、アンブロワーズ・ヴォラールが彼の作品を展示・収集することに興味を示し、レオ・スタインが興味を示したことからもわかるように、アヴァンギャルド界隈では高く評価されていた。ピカソは、ヴォラールの画廊やスタインの画廊で見たセザンヌの作品の多くに精通していた。

 

1906年にセザンヌが死去した後、1907年9月にパリで彼の絵画が美術館のような大規模な回顧展を開催された。

 

1907年のサロン・ドートンヌでのセザンヌの回顧展は、パリのアヴァンギャルドの方向性に大きな影響を与え、19世紀の最も影響力のある芸術家の一人としてのセザンヌの地位とキュビスムの出現に信憑性を与えた。

 

1907年のセザンヌ展は、セザンヌの思想が特にパリの若い芸術家たちの心に響く重要な画家としての地位を確立する上で大きな影響力を持っていた。

ポール・セザンヌ《水浴者》1906年
ポール・セザンヌ《水浴者》1906年

ピカソもブラックも、自然が立方体、球体、円柱、円錐のような基本的な形で構成されているかのように観察し、自然を見て扱うことを学ぶべきだと言ったポール・セザンヌに原始キュビスム作品のインスピレーション見いだしている。

 

セザンヌの幾何学的単純化と光学現象の探求は、ピカソ、ブラック、メッツィンガー、グレイス、ロベール・ドローネ、ル・フォコニエ、グリなどにインスピレーションを与え、同じ対象をより複雑な複数の視点から見るときは、最終的には形の分断を試みるようになった。

 

セザンヌはこのようにして、20世紀の芸術研究の中で最も革命的な分野の一つに火をつけ、近代美術の発展に大きな影響を与えることになった。

ゴーギャンとプリミティヴィズム


19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの文化的エリートたちは、アフリカ、オセアニア、ネイティブアメリカンの芸術を発見した。

 

ポール・ゴーギャン、アンリ・マティス、ピカソなどの芸術家たちは、これらの文化の力強さとシンプルなスタイルに興味をそそられ、インスピレーションを受けた。

 

1906年頃、ピカソ、マティス、ドランをはじめとするパリの芸術家たちは、パリの前衛界で突如として中心的な地位を獲得したポール・ゴーギャンの魅力的な作品の影響もあって、プリミティヴィズム、イベリア彫刻、アフリカ美術、部族の仮面などに関心を寄せていた。

 

1903年にパリのサロン・ドートンヌで開催されたゴーギャンの強力な死後回顧展や1906年に開催されたさらに大規模な回顧展は、ピカソの絵画に衝撃的かつ強力な影響を与えた。

 

1906年秋、ピカソはポール・ゴーギャンの原始的作品を想起させる特大の裸婦画や記念碑的な彫刻の人物を描き、

 

ピカソの1906年からの巨大な人物の絵画は、ゴーギャンの彫刻、絵画、そして彼の文章にも直接影響を受けていた。ゴーギャンの作品によって喚起された野蛮な力は、1907年に《アヴィニョンの娘たち》に直接つながっていく。

 

ゴーギャンの伝記作家デビッド・スウィートマンによると、ピカソは、1902年には早くもゴーギャンの作品の愛好家になり、パリで外国人のスペイン人彫刻家、陶芸家パコ・デュリオと出会って親交を深めた。デュリオは、彼がゴーギャンの友人であり、彼の無給エージェントだったため、ゴーギャンの作品をいくつかを持っていた。

 

デュリオは、タヒチの貧困に苦しむ友人を助けようと、パリで彼の作品を宣伝した。二人が出会った後、デュリオはゴーギャンの石器をピカソに紹介し、ピカソの陶器制作を助け、ピカソに『ノア・ノア:ポール・ゴーギャンのタヒチジャーナル』のラ・プルーム版をわたした。

『ノア・ノア:ポール・ゴーギャンのタヒチジャーナル』
『ノア・ノア:ポール・ゴーギャンのタヒチジャーナル』

デイヴィッド・スウィートマンとジョン・リチャードソンは、ゴーギャンの彫刻作品《オヴィリ》(文字通り「野蛮人」を意味する)は、ゴーギャンの墓のために意図されたタヒチの生と死の女神の陰惨な男根の表現を指摘している。

 

1906年の回顧展で初めて展示されたこの作品は、《アヴィニョンの娘たち》に直接影響を与えたと考えられている。スウィートマンはこう書いている。

 

「1906年に展示されたゴーギャンの彫刻《オヴィリ》は、ピカソの彫刻と陶芸への興味を刺激するものでした。一方、ゴーギャンの木版画もピカソの版画への関心を強めることになるが、すべての作品に見られる原始的な要素がピカソの芸術の方向性を最も決定づけた。このような関心は、将来の発展に影響を与え《アヴィニョンの娘たち》で最高潮に達することになっただろう」

ポール・ゴーギャン《月と地球》1893年
ポール・ゴーギャン《月と地球》1893年
ポール・ゴーギャン《オヴィリ》1894年
ポール・ゴーギャン《オヴィリ》1894年

【美術解説】ドラ・マール「泣く女」のモデルとなった女性

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ドラ・マール/ Dora Maar

ピカソの「泣く女」のモデルとなった愛人


パブロ・ピカソ「泣く女」(1937年)
パブロ・ピカソ「泣く女」(1937年)

概要


生年月日 1907年11月22日
死没月日 1997年7月16日
国籍 フランス
表現媒体 モデル、写真、絵画
ムーブメント シュルレアリスム
関連人物 パブロ・ピカソ

ドラ・マール(1907年11月22日-1997年7月16日)はフランスの写真家、詩人、画家、パブロ・ピカソの愛人で「泣く女」のモデルとして知られる。

 

マン・レイの助手として芸術キャリアをスタートし、シュルレアリスムの写真家として類まれな才能があり、また知的な美学論争もできた美術家だった。

 

しかし、ピカソに出会ってから人生を狂わされる。ピカソに見捨てられてからは情緒不安定になり、仕事もその才能もうまくいかせなくなった。ピカソ喪失後は心の拠り所を求めてローマ・カトリック教会に入る。修道女のよう禁欲的な生活を送り、ピカソの作品に囲まれたまま、貧困のうちに生涯を終える。

モデル作品

ドラ・マールと猫
ドラ・マールと猫
泣く女
泣く女

略歴


ピカソとの出会い


ドラ・マールはクロアチア生まれ。父はユダヤ系クロアチア人で、南米で有名な建築家。母はフランスのトゥレーヌでカトリック家庭出身。

 

マールは子供のころは南米のアルゼンチンで育った。ピカソに出会う前、マールはシュルレアリスムの写真家として知られており、それなりに将来が期待された芸術家だった。一時はマン・レイの助手として、またモデルとして活動しており、彼女を被写体にした作品も数多く残されている。

 

運命を大きく変えたのはピカソの出会いだった。

 

1936年1月、パリのサン・ジェルマン・デ・プレにあるシュルレアリストたちが集まるカフェ「カフェ・ル・ド・マゴ」のテラスで、ドラはピカソと出会う。当時、彼女は28歳でピカソは54歳だった。

 

詩人ポール・エリュアールがピカソにマールを紹介したという。ピカソは彼女の美貌や手の自傷行為に大変魅了された。(マールの指が傷だらけだったのは、テーブル上でナイフで指と指の間を高速に刺すゲームをよくしていたためである。また、ピカソは彼女の血糊がついた手袋をもらいアパートの棚に飾っていた。)

 

ほかにマールは、アルゼンチン育ちで流暢にスペイン語が話せたため、スペイン人のピカソとうまくコミュニケーションができたことも大きかった。

ピカソとドラ・マール
ピカソとドラ・マール

泣いてばかりいるドラ・マール


ドラ・マールといえばピカソの名作「泣く女」のモデルである。

 

「泣く女」は1937年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。ピカソは「泣く女」という主題に関心を抱き、その年に何度も同じテーマの作品を制作、100種類以上のバリエーションが存在している。

 

「泣く女」のモデルとなっているのがドラ・マールである。ドラ・マールは感情的な女性で、すぐにシクシクと泣く人だった。ピカソにはそれが印象的だった。

 

「私にとってドラはいつも「泣いている女」でした。数年間私は彼女の苦しむ姿を描きました。サディズムではなく、喜んで描いているわけでもありません。ただ私自身に無意識に強制されたビジョンに従って泣いているドラを描いているだけです。それは深い現実であり、表面的なものではありませんでした。」 

 

また、マールはピカソの当時の愛人、マリー・テレーズ・ウォルターをライバル視するようになる。マリー・テレーズにはピカソとの間に「マーヤ」という娘がいたが、マールはよく自分とピカソの間に子どもができず、女性としての劣等感をかんじて悲しそうな表情をしていたという。そんなドラをピカソは描き、彼女を「プライベート・ミューズ」とよんだ。

 

こうした背景から、マールはピカソの名作『泣く女』のモデルとなり、作品は生まれた。

ドラ・マールがモデルとなった絵。1939年ごろのピカソのアトリエ。
ドラ・マールがモデルとなった絵。1939年ごろのピカソのアトリエ。
パブロ・ピカソ「緑色の爪のドラ・マール」(1936年)
パブロ・ピカソ「緑色の爪のドラ・マール」(1936年)

マリー・テレーズとの戦い


ドラとマリーが、ピカソのアトリエでかちあったことがあった。二人は言いあったあと、ピカソに詰め寄った。ピカソは、「どちらかに決めるつもりはない。闘え」といった。

 

すると二人は、絵の具や絵筆の散乱する床の上で大格闘のケンカを始めた。やがてドラは、彼女のカメラが壊されることを恐れ、ケンカをやめた。マリーは静かに、ゆっくりと出て行った。

 

ドラとピカソがつきあった時代は、ドイツでヒトラーが台頭して、世界大戦への道をすすんでいる時代であった。フランスがドイツとの戦いに敗れ、ピカソは住まいを追われて困窮する。カフェというカフェがドイツ軍によって閉鎖され息苦しくなってゆく。しかしそのような状況でドラ・マールはたくましかった。彼女は物資を探してくる名人だった。

 

しかし、1943年にピカソの新しい愛人フランソワーズ・ジローが現れる。自分への関心が失われつつある雰囲気に、マールは苦しみ始めた。ピカソとエリュアールは、精神不安定なマールを知り合いの精神分析家で哲学者のジャック・ラカンに診てもらうことにした。

ドラ・マールのアトリエ。1946年。
ドラ・マールのアトリエ。1946年。

ピカソとの別れ


ピカソと別れたあと、マールは自分の感情の安定を取り戻すのに苦労する。

 

また1946年にマールの親友でポール・エリュアールの妻であるヌシュ・エリュアールが急死したためさらに感情が不安定になった。同様に1941年に彼女の母親も急死していた。

 

結局、マールはかつて自分が参加していた有名な社交家や美術のパトロンが集まる社会サークルに戻る。またそのころから心の拠り所をローマ・カトリックに求めるようになり、それから禁欲的な生活に入るようになる。その後も、彼女はほかにゲイ作家のジェームス・ロードのような男性友達と暮らしたことがあったが、誰もピカソに取って代われる人はいなかったようである。

 

俗世との交渉を立ち、美術界から距離を置きながらも芸術活動を続ける。1980年までに彼女の友達はほとんどいなくなったが、まだ詩を書いたり写真を撮っていた。1990年に彼女の絵画の個展がMarcel Fleiss galleryで開催され、好評を得た。ほかに1995年にスペインのバルセロナでも個展を開催した。

 

1997年7月16日、89歳でパリで死去。オードセーヌの墓地に埋葬された。

 

■参考資料

Dora Maar - Wikipedia 


【アートモデル】ピカソ・モデル「ジャクリーヌ・ロック」

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ジャクリーヌ・ロック / Jacqueline Roque

ピカソの最後の妻


「腕を組むジャクリーヌ」(1953年)
「腕を組むジャクリーヌ」(1953年)

概要


生年月日 1927年2月24日
死没月日 1986年10月15日
国籍 フランス
職業 モデル
関連人物 パブロ・ピカソ

ジャクリーヌ・ピカソまたはジャクリーヌ・ロック(1927年2月24日-1986年10月15日)はパブロ・ピカソの二番目の妻。

 

ピカソが80歳頃に結婚し、ピカソが死去する91歳の11年間付き添った。ピカソはジャクリーヌのポートレイト作品を400作品以上制作しており、これまでのどの愛人よりも多い。

 

ジャクリーヌは1927年にパリで生まれた。父親は母親と4歳の弟を放棄したため、母子家庭だった。ジャクリーヌは決して父親を許したことはなかった。母はシャンゼリゼ通り近くの狭い集合住宅でジャクリーヌを育て、お針子の長時間労働をしていた。ジャクリーヌが18歳のとき母親は心臓発作で死去。

 

母の死後、ジャクリーヌは機械工のアンドレ・ユタンと結婚。1946年に娘のカテリーナ・ユタン・ブレイをもうける。ユタンの仕事の都合で若い夫婦はアフリカに移る、4年後にフランスに帰国、離婚した。ジャクリーヌは南フランスのフレンチ・リヴィエラへ移動し、従兄弟の店で働くことになった。

 

1953年にジャクリーヌはパブロ・ピカソと出会う。当時ジャクリーヌは26歳でピカソは72歳だった。ピカソはジャクリーヌに惚れ、彼女の家にチョークで鳩の絵を描きはじめたり、毎日バラの花を持って行くなどの求愛行動が始まり、6ヶ月後に付き合い始めた。1955年に別居していた最初の妻のオルガが死去すると、ピカソは結婚が自由になり、1961年に2人は結婚した。

 

ピカソの絵のなかでジャクリーヌの姿は1954年5月から現れ始めている。これらのポートレイトは首を長く伸ばした猫の顔のように描かれているのが特徴で、ジャクリーヌの特徴をよくとらえているという。彼女の黒い瞳と眉、高い頬骨、古典風の横顔はピカソの後期作品でよく知られるシンボルとなった。

『花とジャクリーヌ』(1954年)
『花とジャクリーヌ』(1954年)

2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札された「アルジェの女」は、ドラクロワの「アルジェの女たち」からの引用だが、描かれているモデルはジャクリーヌからインスパイアされたものである。

 

ピカソは作品について「ドラクロワはジャクリーヌと出会っていた」とコメントしている。ほかに、1955年にマネのスペインの踊り子の絵「踊り子ローラ」を引用して描いた作品がいくつかある。1963年にピカソは160回彼女のポートレイトを描き、また1972年まで抽象的フォームを増しながら彼女を描きつづけた。

「アルジェの女たち」(1954年から1963年)
「アルジェの女たち」(1954年から1963年)

1973年にピカソが死ぬと、1943年から1953年までピカソの愛人だったフランソワーズ・ジローやパロマやクラウドなどのピカソの子どもたちとジャクリーヌはピカソの財産権争いに入る。ジャクリーヌはクロードやパロマたちの葬儀出席を妨害するなどして、ピカソの遺産を守る。最終的に財産争いはパリでピカソ美術館を設立することで合意。

 

ピカソを失ったジャクリーヌは、その後、落ち込み1986年にピストル自殺。59歳だった。

 

■参考文献

Françoise Gilot - Wikipedia


【アートモデル】ピカソ・モデル「フランソワーズ・ジロー」

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フランソワーズ・ジロー / Françoise Gilot

最も社会的に成功したピカソの愛人


『花の女』(1946年)
『花の女』(1946年)

概要


生年月日

1921年11月26日
国籍 フランス
職業 画家、モデル、キュレーター、批評家
関連実 パブロ・ピカソ

フランソワーズ・ジロー(1921年11月26日ー)はフランスの画家、作家。1944年から1953年までのパブロ・ピカソの愛人で、ピカソとのあいだのクロードとパロマの2人の子どもをもうけている。

 

ピカソ死後、ピカソの妻のジャクリーヌ・ロックと遺産争いを行う。ジローは、ピカソと別れたあと、アメリカのウイルス学の開拓者ジョナス・ソークと結婚。

 

ピカソの数ある愛人のなかでも、非常に頭がよく社会的にも成功したのが特徴で、ジローはピカソの愛人であり、ピカソの間に二児をもうけた母であり、モデルであり、展示企画者であり、相談相手であり、芸術家であり、芸術批評家であり、ホステスだった。

 

1973年にジローは学術雑誌『バージニア・ウルフ・クォータリー』のアートディレクターに任命される。1976年には南カリフォルニア大学で美術学部の組織員となった。ジローは大学でサマー・コースを企画し、1983年まで組織上の責任者に就いた。1980年代から1990年代にかけて、ジローはニューヨークのグッゲンハイムで舞台衣装デザインやマスクのデザイン業を行なった。1990年にフランスでレジオンドヌール勲章を受賞。

ピカソとジローの息子、クロード・ピカソ
ピカソとジローの息子、クロード・ピカソ
ピカソとジローの娘、パロマ・ピカソ
ピカソとジローの娘、パロマ・ピカソ


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【アートモデル】ピカソ・モデル「オルガ・コクラヴァ」

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オルガ・コクラヴァ / Olga Khokhlova

ピカソ第一夫人


「椅子に座るオルガ」
「椅子に座るオルガ」

概要


生年月日 1891年5月17日
死没月日 1955年2月11日
国籍 ロシア
職業 バレエ・ダンサー

オルガ・コクラヴァ(1891年5月17日-1955年2月11日)はロシアのバレエ・ダンサー、パブロ・ピカソの最初の妻で、有名ポートレイト作品「椅子に座るオルガ」のモデルとしてよく知られている。

 

オルガ・コクラヴァは、ロシア帝国時代のニズフィンで生まれた。オルガはフランスでマダム・スローソンとの演技を鑑賞して、バレリーナになろうと決意。その後、セルゲイ・ディアギレフのロシア・バレエ団の一員として活躍するようになる。

 

1917年5月18日、ジャン・コクトー脚本、パブロ・ピカソが美術・衣装を担当するロシア・バレエ団が上演した『パラード』で、オルガはピカソと出会う。ピカソと出会ったあと、オルガはバレエ団を去り、南アメリカを旅行し、バルセロナでピカソと暮らしはじめる。

 

ピカソは家族にオルガを紹介すると、ピカソの母はピカソに対して、外国人と結婚することに対して不安を感じるともらしたので、ピカソはオルガをスペインの女として描いた作品『マンティラを着たオルガ』を見せたという。のちに、オルガはピカソとパリへ戻り、ル・ラ・ブティで暮らしはじめた。

「マンティラを着たオルガ」
「マンティラを着たオルガ」

1918年7月12日にアレクサンドル・ネブスキー大聖堂でピカソと結婚式を挙げる。ジャン・コクトーとマックス・ヤコブが彼らの証人となった。結婚後、ピカソは生活費が必要になったため、ユダヤ画商のポール・ローゼンバーグと関係を持ち、真面目に絵の商売を考えはじめる。

 

ローゼンバーグはピカソに好意的だったので、ローゼンバーグ自身がパリでピカソたちが住むためのアパートの家賃を工面した。そのアパートはローゼンバーグの家の隣にあった。ピカソとローゼンバーグは兄弟のような深い関係で、ローゼンバーグはピカソの代理人となり巨万の富を築いた。2人の関係は第2次世界大戦まで続いた。

 

またオルガは、ピカソを上流階級のディナー・パーティへ連れ、1920年代のパリのリッチ層たちに紹介した。ただし、ピカソのもともと自由奔放でボヘミアン的な性格が災いしてか、この上流階級の世界はピカソの肌にはあわず、オルガと衝突を起こしたという。

 

1921年2月4日に、オルガはピカソの長男ポールを出産。そのころからオルガとピカソの関係は亀裂が入りはじめる。1927年にピカソは17歳のフランス人女性マリー・テレーズ・ウォルターに熱を入れはじめる。

 

オルガは友達からマリー・テレーズがピカソの子どもを身ごもっていることを聞くやいなや、息子のポールを連れて家を出て、南フランスで別居する。ピカソに離婚を申請したものの、ピカソは相続問題を理由に離婚を拒否。その後、オルガは1955年にがんで死去するまで別居状態のまま過ごした。

 

■参考文献

Olga Khokhlova - Wikipedia


【作品解説】パブロ・ピカソ「舟を持つ少女(マヤ・ピカソ)」

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舟と少女(マヤ・ピカソ) / Girl with a Boat (Maya Picasso)

ピカソと娘マヤの作品シリーズ


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1938年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 46 cm × 61 cm
コレクション ローゼンガルト・ギャラリー

《おもちゃの舟を持つ少女(マヤ・ピカソ)》は、1938年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。46 cmx61 cm。様式はシュルレアリスムと分類されている。モチーフは娘のマヤ・ピカソ。

 

苦痛や残酷性をテーマにすることが多いピカソだが、1938年に描かれた本作品はきわめて日常的な明るい作品であると思われる。

 

この絵のテーマは、子どもの無邪気さである。ピカソといえば思春期の少女や大人の女性を中心に描いていたが、本作は「子ども」が主題となっている。思春期以前の世界のまだ苦悩のない大きな目のお下げ髪の少女がおもちゃの舟を遊んでいる絵である。

 

この時期のピカソといえば、マリー・テレーズと小さな娘マヤ・ピカソという彼の家族と過ごした時期である。

 

「暗いことばかりに興味があるのではない。」とピカソは言っている。

 

同系統の作品に《人形とマヤ》がある。

パブロ・ピカソ「人形とピカソの娘」(1938年)
パブロ・ピカソ「人形とピカソの娘」(1938年)
パブロ・ピカソ「人形とマヤ」(1938年)
パブロ・ピカソ「人形とマヤ」(1938年)

パブロ・ピカソに戻る

 

■参考文献

・パブロ・ピカソ タッシェン



【歴史】シュルレアリスムと日本

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日本のシュルレアリスムの歴史

1925年 文学から紹介され始める


西脇順三郎
西脇順三郎

日本にシュルレアリスムがもたらされたのは、まず文学からである。アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表した翌年、1925年にイギリス留学から帰国した詩人の西脇順三郎が紹介しはじめたといわれる。

 

明確な形で残っているのは、1927年に創刊された詩誌『薔薇魔術学説』と、西脇を中心とする慶應大学の文学サークルに集まった瀧口修造らが出版した詩誌『馥郁タル火夫ヨ』による。

日本で最初に発行されたシュルレアリスムの詩誌。 稲垣足穂、上田敏雄、富士原清一、上田保譯などが寄稿。
日本で最初に発行されたシュルレアリスムの詩誌。 稲垣足穂、上田敏雄、富士原清一、上田保譯などが寄稿。

美術評論家 森口多里による紹介


森口多里。『ミレー評伝』の翻訳や『恐怖のムンク』などの著書で最新のヨーロッパ美術を紹介,パリ留学後には美術史学研究も手がけた
森口多里。『ミレー評伝』の翻訳や『恐怖のムンク』などの著書で最新のヨーロッパ美術を紹介,パリ留学後には美術史学研究も手がけた

絵画のシュルレアリスムが紹介されはじめたのは、1928年3月に、マックス・エルンストのコラージュ作品の図版が掲載された『山繭』3巻3号である。この記事では、エルンストのコラージュとフロッタージュの方法や意図が正確に紹介されている。

 

また、美術評論家の森口多里が、1925年にパリのピエール画廊で開催された「シュルレアリスム絵画」展のカタログを日本に持ち帰り、美術雑誌「アトリエ」1928年9月号で出品作品を転載した。

 

ただし、この時の記事は、フランス絵画の傾向を述べたものであり、シュルレアリスムそのものには全く触れておらず、挿絵としてシュルレアリスム絵画が紹介されていた。

 

このとき紹介されていた絵画は、「シュルレアリスム絵画」展のカタログから転載されたハンス・アルプ、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、パウル・クレー、パブロ・ピカソ、ジョアン・ミロ、アンドレ・マッソンの7作品である。

 

またこの年、雑誌「美術新論」5月号において仲田定之助が、「超現実主義の画家」と題した記事を書いており、これはフランスで起こったシュルレアリスムの絵画運動を日本で初めて紹介した記事であった。

 

ただし、このとき掲載されたジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロの作品は、これらは必ずしもシュルレアリスムの絵画運動を紹介するのにふさわしいイメージではなかった。シュルレアリスムの文脈から選ばれたものではなく、該当作家の作品図版を探しだして集めたといった感じが強い。

古賀春江


古賀春江《海》(1929年)
古賀春江《海》(1929年)

日本の美術家が作品にシュルレアリスム風の表現を発表し始めたのは1929年の二科展である。古賀春江、東郷青児、川口軌外などの作品にその傾向が見られる。ただし皆、シュルレアリスム理論をもとにして描いたものとは思えるものではなかった。

 

二科展で古賀春江が発表した作品「海」が、一般的に日本で始めてのシュルレアリスム絵画と評価されている。この作品は、『科学画報』の帆船とツェッペリン号、ドイツの潜水艦の図解、『原色写真新刊西洋美人スタイル第九集』の絵葉書の中のグロリア・スワンソンの水着写真などをコラージュした作品である。

瀧口修造と福沢一郎


アンドレ・ブルトンと瀧口修造
アンドレ・ブルトンと瀧口修造

1930年1月、美術雑誌「アトリエ」が出した「超現実主義研究号」は、日本で初めて本格的にシュルレアリスムの美術を取り上げた出版物として出版される。なお、その掲載図版は半数以上がブルトンの著作からの転載と考えられる。 

 

また、1930年6月、このブルトンの著作「シュルレアリスムと絵画」の日本語訳が、瀧口修造の翻訳によって出版される。日本で刊行された翻訳書がシュルレアリスム絵画のイメージを広めるのに、大きな貢献をした。

 

また、1929年、パリで実際にシュルレアリスム運動と接した福沢一郎が、1931年の独立美術協会の第一回展で発表したマックス・エルンストの『百頭女』に影響を受けたと思われる37点の作品群を発表している。これは話題を集めることになった。

 

福沢はそれ以後、1939年まで独立美術協会会員として発表し続け、新聞や雑誌などのメディアへの露出も多く、若い画家たちに多大な影響を及ぼし、日本におけるシュルレアリスム絵画の牽引者となった。

 

1932年12月に開催された「巴里東京新興美術展」で、フランスのシュルレアリスム絵画作品が初めて日本で展示。企画者の峰岸義一がフランスでパリの画家たちを積極的に訪ね、パリにおける最新の諸美術動向を紹介しようとした。実物のシュルレアリスム作品が

初めて日本で展示され、日本の若手画家たちにシュルレアリスムは多大な影響を与えたという。

 

1933年に古賀春江が死去。一方独立美術協会点で、福沢一応の影響を受けた若手画家たちがシュルレアリスムの関心を強める。しかしながら、実際にはシュルレアリスムよりもフォーヴィスムや表現主義の影響が強く、福沢のシュルレアリスムとは傾向が異なっていた。

世界に認められた日本人シュルレアリスト


岡本太郎《傷ましき腕》1938年
岡本太郎《傷ましき腕》1938年

1936年にロンドンで大規模なシュルレアリスム展「第一回国際シュルレアリスム展」が開催され、その二年後の1938年にパリで第二回展が開催される。そのパリでのシュルレアリスム展に唯一日本人で参加したのが岡本太郎だった。

 

出品した作品は「傷ましき腕」。しかし彼の作品はほとんど無視された。ちなみに、この展覧会で評判を呼んだのは、マルセル・デュシャンによる主会場の展示空間のディスプレイやダリの「雨降りタクシー」だった。

 

また同年、アンドレ・ブルトンとポール・エリュアールが編集した『シュルレアリスム簡約辞典』が出版され、瀧口修造と山中散生の名前が辞典に掲載された。このときに日本人シュルレアリストとして海外に認められているのは、岡本太郎瀧口修造山中散生の3人である。

 

また、1938年に、日本におけるシュルレアリスム運動の成熟に寄与するグループ「創紀美術協会」が誕生。古沢岩美、北脇昇、小牧源太郎たちは積極的に内的世界を探求して、シュルレアリスムに積極的に関わるようになった。

 

しかし、日本のシュルレアリスムは第二次世界大戦の開戦とともに弾圧されていく。

戦後シュルレアリスム


中村宏《円環列車・A-望遠鏡列車》(1968年)
中村宏《円環列車・A-望遠鏡列車》(1968年)

戦後、ふたたびシュルレアリスム的な表現が現れる始めるのは1950年代なかばである。1953年には「前衛美術会」の主導によって、シュルレアリスム的動向をもつ作家たちが「青年美術家連合」を結成している。

 

中村宏、河原温、池田龍雄、福田恒太、山下菊二らが参加している。1960年に東京国立近代美術館で、日本のシュルレアリストたちを集めた大規模なシュルレアリスム展「超現実絵画の展開」が開かれる。参加作家は以下の通りである。

 

(50音順)

浅原清隆(1915-1945)

阿部展也(芳文)(1913-1971)

安部真知(1926-1993)

靉光(1907-1946)

飯田操朗(1908-1936)

池田龍雄(1928)

泉茂(1922-1995)

伊藤好一郎(1926-1998)

今井大彭(1911-1983)

上野省策(1911-1999)

上村次敏(1934-1998)

歌川国芳(1797-1861)

瑛九(1911-1960)

大塚耕二(1914-1945)

大塚睦(1916-2002)

岡本太郎(1911-1996)

織田リラ(1927-1998)

小山田二郎(1915-1991)

葛飾北斎(1760-1849)

桂ゆき(1913/10/10-1991/02/05)

桂川寛(1924-2011)

加藤清美(1931-)

加納光於(1933-)

川口軌外(1892-1966)

河原温(1933-)

北脇昇(1901-1951)

古賀春江(1895-1933)

駒井哲郎(1920-1976)

小牧源太郎(1906-1989)

佐久間阿佐緒(1928-)

下郷羊雄(1907-1981)

白木正一(1912-1995)

杉全直(1914-1994)

鷹山宇一(1908-1999)

立石鉄臣(1905-1980)

谷中安規(1897-1946)

玉置正敏(1923-2001)

土屋幸夫(1911-1996)

鶴岡政男(1907-1979)

寺田政明(1912-1989)

利根山光人(1921-1994)

中村宏(1932-)

野田好子(1925-)

浜田知明(1917-)

浜田浜雄(1915-1994)

早瀬龍江(1905-1991)

福沢一郎(1898-1992)

古沢岩美(1912-2000)

堀田操(1921-1999)

本田克巳(1924-)

松沢宥(1922-2006)

間所紗織(1924-1966)

真鍋博(1932-2000)

三岸好太郎(1903-1934)

水谷勇夫(1922-2005)

三井永一(1920-)

宮城輝夫(1912-2002)

森克之

矢崎博信(1914-1944)

籔内正直(1916-)

米倉寿仁 

 

こうして1960年代の前衛ムーブメントと合流していくことになる。

美術業界から大衆への紹介


瀧口修造と澁澤龍彦


美術業界だけでしか使われなかった言葉だったシュルレアリスムを広く一般世間に紹介した人物は、瀧口修造澁澤龍彦である。

 

瀧口修造は、戦前からヨーロッパのシュルレアリストと直接交友があり、1930年にはアンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳もしている人物で、特に文学と美術批評においてその名が知られている

 

瀧口は自身も自動記述系のシュルレアリストであったことから、特にジョアン・ミロなどの自動記述系の芸術家を中心に彼のシュルレアリスム美術論を展開していった。ダリやいろんな作家に共感を覚えてはいるけれども、瀧口の核はミロとマルセル・デュシャンだったとされている。

 

澁澤龍彦は瀧口とちがって、ポール・デルヴォーサルバドール・ダリなど、デペイズマン系の具象芸術家を中心にシュルレアリスム美術論を展開した人物である。同じ平面の上で意外な二項が結びついている状態こそシュルレアリスムだと強く主張していたのが澁澤だった。

 

逆に澁澤は瀧口の自動記述系や抽象系作家がきわめて苦手で、たとえばシュルレアリストでもジョアン・ミロには一言も触れていない。澁澤は見て何なのかすぐわかるいわゆる具象的な絵画しかとりあげなかったのが特徴である。

 

抽象系作家がダメな代わりとして、ハンス・ベルメールピエール・モリニエマックス・ワルター・スワンベルクのような傍流のシュルレアリストの紹介へ澁澤は走っていったという。

 

また、澁澤自身が意図していたかどうかは知らないが、一般大衆でも入りやすい具象作家やフェティシズムの作家を中心に紹介したため、もともと美術にあまり関心のない層、特にサブカルチャーといわれているに層にシュルレアリスムの作家名が知られるようになった。

 

今日の日本で取り上げられるシュルレアリスムの絵画は、瀧口修造の自動記述とは異なる澁澤龍彦の方向に進んでおり「幻想絵画」または「耽美系」と言われることが多い。澁澤のほうが瀧口より著作物が一般大衆に広く読まれるようになったので、その影響も大きいと思われる。

 

澁澤のハンス・ベルメールの紹介は四谷シモンに影響を与え日本の球体関節人形史の創設にもつながった。
澁澤のハンス・ベルメールの紹介は四谷シモンに影響を与え日本の球体関節人形史の創設にもつながった。

大衆文化に浸透した日本独自の「シュール」


シュルレアリスムは西洋で発展した芸術運動で、当時日本にもシュルレアリスムは美術界に影響を与えて「超現実主義」という訳語を与えられ、最新の前衛芸術スタイルとして一大旋風を巻き起こした。

 

ところが、ほかの国と違って日本の美術家たちは、西洋のシュルレアリストと直接交流を持たず、つまり指導者のアンドレ・ブルトンの理論や目的を離れ、独自の解釈とスタイルで発展した。

 

スタイルが微妙に異なるので、これまでのシュルレアリスム展といえば、「西洋のシュルレアリスム」「日本のシュルレアリスム」というように分離した展覧会ばかりだった。

 

しかし、2019年から2020年にかけて箱根のポーラ美術館で開催された「シュルレアリスムと絵画-ダリ、エルンストと日本の「シュール」は、本来、横並びになるはずがない両方のシュルレアリスム作品を同時に展示した。

 

また、この展覧会では美術上の「シュルレアリスム」から離れ、「シュール」という言葉で漫画、特撮などの日本の大衆文化で一人歩きするようになったシュルレアリスム作品も紹介している。

 

つげ義春の『ねじ式』やウルトラマンの造形など美術以外のメディアで発生した「シュール」束芋の映像インスタレーション作品など現代美術内で見られるシュルレアリスム表現も並列して紹介された。

つげ義春『ねじ式』
つげ義春『ねじ式』

年譜表


■1925年

・9月、堀口大学、フィリップ・スーポーの詩を訳詩集『月下の一群』を翻訳して日本で紹介する。

・11月、パリ、ピエール画廊で開催されたシュルレアリスム展を福沢一郎と森口多里が鑑賞。

 

■1927年

・5月、『文芸耽美』4号、ポール・エリュアールとルイ・アラゴンの詩を紹介。

・11月、北園克衛、上田敏雄らが『薔薇魔術学説』創刊。

・12月、瀧口修造らが参加していた『馥郁タル火夫ヨ』創刊。

 

■1928年

・3月、フランツ・ロオ「マックス・エルンストと接合的絵画」が『山繭』に訳出される。

・5月、仲田定之助「超現実主義の画家」を『美術新論』に発表、シュルレアリスム美術に関する最初の包括的紹介となる。

・9月、春山行夫を中心とした季刊誌『詩と詩論』創刊。シュルレアリスムについての議論が活発になる。

 

■1929年

・6月、『詩と詩論』に北川冬彦がブルトンの『シュルレアリスム宣言』を翻訳。

・9月、第16回二科展で古賀春江、阿部金剛、東郷青児、中川紀元らが新傾向の作品を発表、日本で最初の超現実主義絵画と評される

・11月、西脇順三郎『超現実主義詩論』刊行。

 

■1930年

・1月、『アトリエ』超現実主義研究号。

・6月、瀧口修造、ブルトンの『超現実主義と絵画』翻訳刊行。

・6月、阿部金剛、『シュールレアリズム絵画論』刊行。

 

■1931年

・1月、第1回独立美術協会展。福沢一郎が、マックス・エルンストの影響の下に描いた作品を多数発表。

 

■1932年

・12月、巴里東京新興美術展、東京で開催され、翌年にかけて全国を巡回。マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ、イヴ・タンギーなどの実作が日本で初めて公開される。

 

■1933年

・9月、古賀春江、死去。

・9月、東郷青児、阿部金剛、峰岸義一ら「アヴァンガルド洋画研究所」開設。

 

■1934年

・4月、独立美術協会から若手画家たちが脱退し、新造形美術協会結成。

・6月、「JAN」結成。

 

■1938年

1月、パリの国際シュルレアリスム展で岡本太郎が『傷ましき腕』を出品。

 

■1941年

・4月、瀧口修造、福沢一郎、治安維持法違反の嫌疑で検挙。

 

■1948年

・11月、『岡本太郎画文集アヴァンギャルド』刊行、「対極主義」を提唱。

 

■1953年

・12月『抽象と幻想』展(国立近代美術館)。

 

■1960年

・4月、「超現実絵画の展開」(国立近代美術館)。

 

■1968年

・12月、中村義一『日本の前衛絵画 その反抗と挫折-Kの場合』(美術出版社)刊行。北脇昇を中心としながら日本におけるシュルレアリスム受容全体の問題を扱う。

 

■1973年

・3月、本間正義『近代の美術 3 日本の前衛美術』(至文堂)刊行。

 

■1977年

・6月、「現代美術のパイオニア展」(東京セントラル美術館)。

 

■1978年

・11月、浅野徹『原色現代日本の美術 8巻 前衛絵画』(小学館)刊行。

 

■1985年

・9月、「東京モンパルナスとシュールレアリスム」展(板橋区立美術館)。

 

■1990年

・10月、「日本のシュールレアリスム1925〜1945」(名古屋市美術館)。包括的な展覧会として最も重要

 

■1999

・『コレクション・日本シュールレアリスム』全15巻(本の友社、1999年〜2001年)刊行。



【作品解説】グスタフ・クリムト「メーダ・プリマヴェージの肖像」

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メーダ・プリマヴェージの肖像 / Portrait of Mada Primavesi

クリムト後期の傑作


《メーダ・プリマヴェージの肖像》1912年
《メーダ・プリマヴェージの肖像》1912年

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1912年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 149.9 cm × 110.5 cm
コレクション メトロポリタン美術館

《メーダ・プリマヴェージの肖像》は1912年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。149.9cm✕110.5cm。メトロポリタン美術館所蔵。

 

モデルはクリムトやウィーン幻想派の大型パトロンだったオーストリアの実業家で銀行家のオットー・プリマヴェージの9歳の娘。

 

クリムトは本作を描く前に、彼女の異なるポーズや背景に関する膨大な数の予備スケッチを行っている。ほかの女性ポートレイトと比べて装飾模様が少なく、輪郭線を中心に質素に描かれているのが特徴。これは、金を多用し装飾性に力を入れていた「黄金時代」が終了し、フォーヴィズムの影響が強い時期に移行したためである。

 

また、女性的なものに関する新しいクリムトの視点、すなわち女性と花の装飾を混ぜあわせて一体にした表現方法が現れている。モデルの肢体各部がそれ自身が装飾となり、装飾が各肢体なのである。

 

ちなみにオットーの妻であり、メーダの母にあたるオージニアの肖像も描いており、これは豊田市美術館が所蔵している。


グスタフ・クリムトに戻る

 

■参考文献

Gustav Klimt | Mäda Primavesi (1903–2000) | The Met 2019年1月17日アクセス

 

■画像引用

https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436819 2019年1月17日アクセス

【作品解説】グスタフ・クリムト「ダナエ」

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ダナエ / Danaë

赤毛の女に降りかかる黄金の金貨と精子の雨


《ダナエ》
《ダナエ》

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1907-1908年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 77 cm × 83 cm
コレクション ギャラリー・ヴュルトレ

《ダナエ》は1907年から1908年にかけてグスタフ・クリムトによって制作した油彩作品。77cm✕83cm。現在、ウィーンのギャラリー・ヴュルトレが所蔵している。

 

モデルはクリムト作品でエミーレ・フレーゲに続いてよくモデルにされている“赤毛のヒルダ(Red Hilda)”という女性。彼女の詳細については分かっていない。ダナエとは、ギリシア神話に登場するアルゴスの王女の名前で、1900年前後に多くの芸術家たちの主題として扱われている。ダナエは愛の神の代表的なシンボルとして描かれることが多い。

 

ダナエは父のアルゴス王の命令で男を近づかせないよう青銅の塔に幽閉されていた。しかし、ゼウスが黄金の雨に姿を変えて幽閉されたダナエのもとへ訪れ、ダナエと関係を持ち、息子ペルセウスを産む。

 

クリムト作品において黄金の雨に姿を変えたゼウスは、ダナエの太もも間に黄金の精子と金貨が混じった状態で表現されている。一般的なダナエを主題とした絵画では窓や上方から金貨のように降り注ぐように描かれており、太ももの間に描くようなことはしない。

 

豪奢で高貴な紫のヴェールに包まれていることから彼女は高貴な血統の女性であると思われる。そのヴェール内で丸く曲がっていることから父親(アルゴス王)によって「幽閉」されていることを暗喩している。

 

ただし、かかとにストッキングがかかっていることや左手の位置から、この絵は自慰行為であるとの指摘もあり、精子と金貨の混じった黄金の雨はダナエの妄想であるともいわている。ダナエの頬は紅潮し、愛のエクスタシーの瞬間が表現されている。

フランスの画家レオン・コメルによる「ダナエ」(1908年)。
フランスの画家レオン・コメルによる「ダナエ」(1908年)。
フランスの画家アレクサンドル・キャトルンによる「ダナエ」(1891年)
フランスの画家アレクサンドル・キャトルンによる「ダナエ」(1891年)

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Dana%C3%AB_(Klimt_painting) 2019年1月17日

・クリムト NBS-J (タッシェン・ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)

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【美術解説】ジョルジュ・ブラック「ピカソとともにキュビスムを創設」

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ジョルジュ・ブラック / Georges Braque

ピカソとともにキュビスムを開発


『クラリネットのある静物』(1913年)パピエ・コレ。
『クラリネットのある静物』(1913年)パピエ・コレ。

概要


生年月日 1882年5月13日
死没月日 1963年8月31日
国籍 フランス
表現形式 絵画、彫刻、版画
ムーブメント フォーヴィスムキュビスム
関連人物 パブロ・ピカソアンリ・マティスポール・セザンヌ
関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

ジョルジュ・ブラック(1882年5月13日-1963年8月31日)はフランスの画家、彫刻家、版画家。

 

1906年にフォーヴィスムに参加し前衛芸術運動に参加。その後、パブロ・ピカソとともにキュビスムの発展に貢献。

 

ポール・セザンヌの多視点のアイデアを基盤にしながらキュビスムを発展。ピカソが移動に要する時間の差から生じる複数の視点に関心があったのに対し、ブラックは静止したオブジェを複数の視点から見つめることに関心があった。

 

1908年から1912年までのブラックは、ピカソと密接に共同制作されていたこともあり、両者の作品の区別が付かないものも多数あるという。

略歴


幼少期


ジョルジュ・ブラックは1882年5月13日にフランスのヴァル=ドワーズ県アルジャントゥイユで生まれた。ル・アーヴルで育ち、装飾芸術職人だった父や祖父と同じく、幼少から装飾芸術を学んだ。

 

しかしまた、1897年から1889年にはル・アーヴルにあるエコール・デ・ボザールで夜間の美術学校で絵画を学ぶ。その後、パリで装飾芸術の修行をして1902年に卒業すると、パリにあるハンバート美術大学に入学して、1904年まで絵を学んだ。大学ではフランシス・ピカビアやマリー・ローランサンと出会った。

フォービスム〜原始キュビスム時代


ブラックの初期作品は印象派だったが、1905年にフォービスムの展示を見た後、影響を受けてスタイルを変更する。アンリ・マティスやアンドレ・ドランなどで構成されたフォーヴィスムは鮮やかな色彩と感情を大胆に表現した絵画スタイルだった。

 

ブラックはラウル・デュフィやオットン・フリエスらと交友を深め、彼らとともに、やや落ち着いた感じに改良したフォーヴィスムを開発した。

 

1907年5月、ブラックはサロン・ド・アンデパンダンでフォービスムの作品を展示して成功する。同年11月には詩人ギヨーム・アポリネールと共にピカソのアトリエを訪れ『アヴィニョンの娘たち』を見で衝撃を受ける。さらに同年に開催されたポール・スザンヌの回顧展で影響を受ける。ピカソとセザンヌの影響を受けて、ゆっくりとキュビスムのスタイルに変化していった。

 

ピカソとブラックはピカソが《アヴィニョンの娘たち》を完成した直後に、詩人アポリネールに紹介されたのをきっかけに、1909年から共同制作を始めた。互いに助けがなければ二人ともキュビスムを発展させることはできなったことは間違いない。

 

 

1908年から1912年までのブラックの作品は、幾何学や複数の視点から同時に対象物を見るという要素を反映した作品だった。ブラックはセザンヌの絵画理論を基盤に、光の効果・視点・技術的方法に対する研究を深め、遠近法といった最も伝統的な技法に問題を提起。

 

たとえば、ブラックの村の風景画では建築物本来のフォルムが単純化され、平面的なものとなった。例えば、村の風景画では、ブロックはしばしば建築物を立方体に近い幾何学的な形に縮小し、イメージを断片化することで平面的で立体的に見えるように陰影をつけています。彼はこれを《レスタックの家々》という絵画で示している。

《レスタク近郊のオリーブ》1906年
《レスタク近郊のオリーブ》1906年
《レスタックの家々》1908年
《レスタックの家々》1908年

ピカソとのキュビスム時代


●分析的キュビスム

1909年から1911年頃の二人の作品は分析的キュビスムといわれる。1909年のはじめ、ブラックは原始キュビスムを発展させていたパブロ・ピカソと共同制作を始める。当時、ピカソはゴーギャン、スザンヌ、アフリカ彫刻、リベリア彫刻に影響を受けていた。一方のブラックはおもにセザンヌの複数の視点で絵を描くアイデアを発展させようとしていた。

 

1908年のピカソとブラックの作品を比較すると、ブラックにとってはピカソとの出会いが絵画発展におけるモチベーションとなり、またセザンヌの多角的な視点というアイデアの発展を深めたことは間違いなかった。

 

この頃のピカソ、ブラックの作品は人体にしろオブジェにしろ、形態は小さな切り子面あるいは断片として分解されており、それはあたかも万華鏡をのぞくようなかんじだった。セザンヌの理論を発展させたもので自然の形態をいくつもの小さな面の集積と見て、これらを積み重ねることで対象を構成するという方法だった。

 

また画面に統一感を与えるため、キュビスム絵画の色彩は通常モノクロームに近い褐色ないし灰色に統一されていた。

 

ただし、二人には微妙な差異があった。ブラックの本質的な主題はいつもオブジェにあった。ピカソは移動に要する時間の差から生じる視点に対して関心があったのに対して、ブラックは静止したオブジェを複数の視点から見つめることに関心があったという。

 

またピカソは三次元のフォルムに興味を抱いていた。ブラックはピカソによる新しいフォルムの処理法を補う新しい空間の概念をつくりだした。

 

●総合的キュビスム

1912年、ピカソやブラックの作品にはステンシルによる文字、新聞の切り抜き、木目を印刷した壁紙、ロープなど、本来の絵とは異質のオブジェが導入された。

 

こうした技法はコラージュとよばれ、紙だけのものはパピエ・コレと呼ばれた。これらは形態を分解して、細分化する分析的キュビスムに対し、総合的キュビスムといわれる。

 

ブラックはコラージュの断片を論理的に用いており、大部分は写実的に使っていた。それに対してピカソのコラージュは、断片をつじつまの合わない使い方を楽しみ、ひとつの物を別の物に転化させたり、新しくつなぎ合わせたものの形から、思いがけない意味を引出したりしていた。このピカソのコラージュが、後年シュルレアリスムの画家たちに慕われることになった。ブラックのコラージュには、ピカソのような錬金術的傾向はみられなかった。

《果物皿とクラブのエース》1913年
《果物皿とクラブのエース》1913年
《ギターを弾く女性》(1913年)
《ギターを弾く女性》(1913年)

1908年11月14日、フランスの美術評論家ルイ・ヴォーセレスは、カーンワイラーのギャラリーで開催されたジョルジュ・ブラックの展覧会を評して、ブラックを「すべてのもの、場所、人物や家を幾何学的なスキーマや立方体に還元する」という、形態を軽視する大胆な人物と評した。

 

1909年3月25日、ヴォーセレスは、サロン・ド・アンデパンダンでブラックの絵を見た後、「bizarreries cubiques」(立方体の奇妙さ)という言葉を使った。

 

「キュビスム」という言葉は、1911年に最初に現れ、サロン・ド・アンデパンダンに出展していたアーティストを指すようになり、すぐに広く使われるようになったが、ピカソやブラックは当初はこの言葉を採用しなかった。

 

美術史家のエルンスト・ゴンブリッヒは、キュビスムを「曖昧さを消し去り、絵の一つの読み方を強制する最も急進的な試み、つまり人工的な建造物、色のついたキャンバスのこと」と表現している。

 

キュビスム様式は、パリを皮切りにヨーロッパに急速に広まっていった。

 

二人の芸術家の生産的なコラボレーションは続き、1914年の第一次世界大戦が始まるまで続いたが、1915年5月のカレンシーでの戦いで頭部に重傷を負い、一時的に失明した。1915年5月、カレンシーでの戦闘で頭部に重傷を負い、一時的に失明した。頭蓋骨に穴があき、絵画制作を中断し長い療養期間を必要することになった。

後期


1916年後半に絵画制作を再開。一人で制作していたブラックは、これまでのキュビスムのようなかたい抽象性を緩和するようになった。鮮やかな色彩、質感のある表面、そしてノルマンディーの海岸に移ってからは、人間の姿の再登場を特徴とする、より個人的なスタイルを確立した。

 

この間、ブラックは構造を重視しながらも、多くの静物画を描いた。その一例として、アレン記念美術館に展示されている1943年の作品《ブルー・ギター》が挙げられる。回復期には、キュビズム・アーティストのフアン・グリと親しくなった。

 

彼はその後も活動を続け、かなりの数の絵画、グラフィック、彫刻を制作しました。ブラックはマティスとともに、パブロ・ピカソをフェルナン・ムールロに紹介したとされ、1940年代から50年代にかけて彼自身が制作したリトグラフや書籍の挿絵のほとんどがムールロ・スタジオで制作された。

 

1962年には、版画の巨匠アルド・クロメリンクと共同で、詩人サン=ジョン・ペルセのテキストを添えた「L'Ordre des Oiseaux(鳥の秩序)」と題されたエッチングとアクアチントのシリーズを制作した。

 

ブラックは1963年8月31日にパリで亡くなった。彼がデザインした窓のあるノルマンディーのヴァレンゲヴィル=シュル・メールにある聖ヴァレリー教会の墓地に埋葬されている。現在、彼の作品は世界中の主要な美術館に展示されている。

《青い水差し》1946年
《青い水差し》1946年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Georges_Braque、2020年5月21日アクセス


【作品解説】グスタフ・クリムト「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ」

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アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ / Portrait of Adele Bloch-Bauer II

クリムトが唯一、二度描いた女性モデル


《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅱ》1912年
《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅱ》1912年

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1912年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ 190 cm × 120 cm
所蔵者 プライベートコレクション

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ》は1912年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。アデーレ・ブロッホ=バウアー(1881−1925)はクリムトの親友でありパトロンである。またウィーンの芸術愛好家サロンに出入りしていた女性で、クリムトが唯一、絵のモデルとして描いた人物である。もうひとつの作品が、《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅰ》で、一般的にはこちらのほうが有名である。

 

アデーレ・ブロッホ=バウアーは、産業界で成功した実業家フェルナンド・ブロッホ=バウアーの妻である。ブロッホ=バウアー夫妻はともに美術愛好家だった。アデーレの肖像画は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツに略奪されるまで、ブロッホ=バウアーに飾られていた。

 

その後、ヒトラーから退廃芸術として廃棄するか、売却するかの命令がくだると、1941年にウィーンのベルヴェデーレ宮殿内にあるオーストリア・ギャラリーに売り払われることになり廃棄はまぬがれた。 1945年に夫フェルナンドが亡くなると、自身の資産の後継者としてアメリカに亡命していたマリア・アルトマンを含む甥や姪を指名する。

 

こうした経緯があって、戦後オーストリア政府とアメリカ在住の姪マリア・アルトマンでクリムト作品の所有権争いが発生する。裁判の結果、マリア・アルトマンにクリムトの絵5点(そのうちの1つが本作)の所有権を認めることになり、クリムトの絵5点はアメリカに送られることになった。

 

2006年11月、クリスティーズのオークションで《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ》が競売にかけられ、8800万ドルで落札された。購入したのはアメリカの俳優で司会者のオプラ・ウィンフリである。

 

2014年の秋にアデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅱ》はニューヨーク近代美術館に特別に長期間の貸出が行われた。

 

2016年夏オプラ・ウィンフリは匿名の中国のコレクターに1億5000万ドルで売却。なお本作は同年9月に、アメリカ・ニューヨークにあるヌイ・ギャラリーで開催された「クリムトとウィーン黄金時代の女性たち 1900-1918」展に貸出し展示がされている。2017年9月以降に中国人コレクターのプライベート美術館で展示される予定となっている。



■参考文献

Portrait of Adele Bloch-Bauer II - Wikipedia、2017年8月1日

 

■画像引用

https://en.wikipedia.org/wiki/Portrait_of_Adele_Bloch-Bauer_II 2019年1月16日

【作品解説】ウィジェーヌ・ドラクロワ「民衆を導く自由」

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民衆を導く自由 / Liberty Leading the People

フランス革命を記念して描かれた近代絵画


ウィジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由》1830年
ウィジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由》1830年

概要


作者 ウィジェーヌ・ドラクロワ
制作年 1830年
サイズ 260 cm × 325 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 ルーブル美術館

《民衆を導く自由》はフランス国王シャルル10世を打倒した1830年7月革命を記念してウジェーヌ・ドラクロワが制作した作品。日本では《民衆を導く自由の女神》と訳されているが原題は『La Liberté guidant le peuple』である。ここでは《民衆を導く自由》と表記する。

 

「自由」の概念を体現したフリジア帽をかぶった民衆の女性が、フランス革命の旗を掲げて、バリケードと倒れた人々の遺体を越えて、変化に富んだ人々の集団を前方に導いている。フランスの国旗となった三色旗を片手に、もう片方の手に銃剣付きのマスケット銃を手にしている。

 

自由の人物は、フランスとマリアンヌとして知られるフランス共和国の象徴としても見られている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Liberty_Leading_the_People、2020年5月21日アクセス


【美術解説】オーブリー・ビアズリー「耽美主義と装飾芸術の融合」

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オーブリー・ビアズリー / Aubrey Beardsley

耽美主義と装飾芸術の融合


概要


生年月日 1872年8月21日
死没月日 1898年3月16日
国籍 イギリス
表現媒体 イラストレーション
表現スタイル アール・ヌーヴォー耽美主義

オーブリー・ビンセント・ビアズリー(1872年8月21日-1898年3月16日)は、イギリスのイラストレーター、グラフィックデザイナー、作家。

 

黒色のドローイング作品は、日本の浮世絵からの影響が大きく、またグロテスク性や退廃性、エロティシズムを強調した表現となっている。オスカー・ワイルドやホイッスラーを含めた耽美主義の中心的な芸術家の一人である。

 

アール・ヌーヴォーの発展においても多大な影響力を持ち、ほかの画家たちが次々とそのビアズリーのスタイルを模倣し、アール・ヌーヴォーを展開したことから、アール・ヌーヴォーの創始者の一人として位置づけられている。

 

日本では、水島爾保布、米倉斉加年、佐伯俊男、山名文夫たちの作品にビアズリーの影響が濃厚である。漫画家では山岸凉子や魔夜峰央がビアズリーからの影響を自認しているほか、手塚治虫もその作品『MW』で彼の作品の模倣を行なっている。

 

結核で亡くなるまでのキャリアが短いにもかかわらず、アール・ヌーヴォーやポスターの発展に大きく貢献した。

重要ポイント


  • 耽美主義ムーブメントの中心人物
  • アール・ヌーヴォーの創始者としても位置づけられている
  • 日本の浮世絵や平面画の影響が強い

略歴


若齢期


エミール・ブランシュによるビアズリー。1895年
エミール・ブランシュによるビアズリー。1895年

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリーは、1872年8月21日、イギリス南部のブライトンで生まれ、1872年10月24日に洗礼を受けた。

 

父親のヴィンセント・ポール・ビアズリーはクラーケンウェルの宝石商の息子、母親のエレン・アグネスはピット家という裕福な中産階級出身だった。

 

インディアン軍のウィリアム・ピット軍曹の娘でピット家はブライトンの名家である。ビアズリーの母親は、予想されていたよりも社会的地位の低い男性と結婚した。

 

彼結婚後まもなく、ヴィンセントは、別の女性との結婚の約束違反の請求を解決するために、財産の一部を売却せざるを得なくなった。

 

ビアズリーが生まれた当時、1歳年上の姉メイベルを含むビアズリーの家族は、バッキンガム・ロード12番地にあるエレンの家族の家に住んでいた。バッキンガム・ロードの家の番号は12だったが、番号が変更され、現在は31になっている。

 

幼少時から父親から工芸技術を教わり、また音楽の家庭教師をしていた母親から音楽教育をほどこされる。7歳になった1879年の秋、寄宿学校入学の頃までに、オーブリーは非常に読み書きができ、音楽的才能にも恵まれていた。

 

1879年頃から結核の兆候が現れる。1881年、病気のためにハミルトン・ロッジを退学し、保養のため一家でロンドン南郊のエプソムに転居する。家族は2年間そこにとどまった。

 

この時期の終わりごろに、ビアズリーが初めて絵の注文を受けて、報酬を得る。それは、当時ビアズリー家を援助していたヘンリエッタ・ペラム夫人からの注文で、ケイト・グリーナウェイの絵本からの模写だった。

 

1884年、金銭上の問題のため、オーブリーと姉のメイベル、母親の三人は再びブライトンに戻り、そこで裕福な親戚のサラ・ピットとともに暮らし始める。この地でビアズリーはブライトン・グラマースクールに通う。

 

 

スクールでは寮長アーサー・ウィリアム・キングがビアズリーの才能を認めて奨励し、ビアズリーの絵を集めて保存したり学校の雑誌に発表するなど多くの援助を行う。ビアズリーはこの頃から演劇に関心を持っていく。オペラも含めたあらゆる演劇がビアズリーのインスピレーションの源泉となる。また、彼の最初の詩、ドローイング、漫画は、学校の雑誌『Past and Present』に掲載された。

 

16歳になったビアズリーは、1889年からロンドンのガーディアン保険会社で働きはじめる。当時のビアズリーの関心事は本と演劇で仕事に対しては熱心でなかったという。1890年になると結核の容態が悪化し、保険会社を辞めることになる。

 

21歳の時に母方の祖父が不動産開発業者であったことから得た遺産からの個人的な収入に頼り、結核だったこともあり、その後はヴィンセント自身が仕事をすることはなかった。

絵描きへ


エドワード・バーン=ジョーンズ
エドワード・バーン=ジョーンズ

1891年、健康を回復し、仕事と絵の制作に復帰。この頃の重要な出来事としてはエドワード・バーン=ジョーンズとの出会いがある。バーン=ジョーンズは画家であり、イラストレーターであり、デザイナーでもあった。

 

姉メイベルと共にバーン=ジョーンズを訪問し、作品を見せたところ、才能を認められ、勤めを辞して画家になることを勧められる。

 

バーン=ジョーンズは、ビアズリーに適切な美術学校を見つける約束をし、考慮した末、1891年にウェストミンスター美術学校の夜間クラスの入学を勧められ、通うことになる。

 

この学校の校長は印象派画家フレデリック・ブラウンだった。ビアズリーの正規の美術教育はこの1年の夜間クラスとなった。

 

またバーン=ジョーンズを訪ねた一週間前に、ビアズリーはもうひとつ決定的な刺激を受けている。芸術パトロンのフレデリック・レイランドの絵で見かけたラファエル前派の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッテイの絵だった。そして耽美主義のホイッスラーにも大きな影響を受けた。

ビアズリー様式の確立


「シガール夫人の誕生日」1892年
「シガール夫人の誕生日」1892年

1891年後半から92年前半にかけて描かれた他の作品は、バーン=ジョーンズの影響に加えて、マンテーニャやウォルター・クレインの影響もある。

 

しかし、1892年に病気から回復した後には、ホイッスラーの近代性と日本美術の影響が色濃く現れ始める、ビアズリー様式が確立し始める。

 

ビアズリーはパリに旅行し、そこでアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックのポスターアートと日本の浮世絵の流行を見たのが要因だという。

 

1892年に描いた「シガール夫人の誕生日」や「詩人の残骸」は、白と黒の関係を効果的に取り入れ、また装飾的なモチーフが使われるようになったビアズリー様式の基本的で完成度の高い作品である。

 

ビアズリーにとって白と黒は、趣味だった演劇やオペラから影響が大きく、広い空白に黒を旋律的に配置することで画面を音楽的に構成し、さらにたった一本のはずむような輪郭線で形にきめてしまうという表現思想があった。

 

初期は彼の作品はほとんどが無署名である。1891年から1892年にかけて、彼は自分のイニシャルであるA.V.B.を使用するようになった。

アーサー王の死


「アーサー王の死」挿絵「愛の媚薬を飲むトリスタン」1893年
「アーサー王の死」挿絵「愛の媚薬を飲むトリスタン」1893年

ビアズリーの友人で書籍を商い、写真家でもあったフレデリック・エヴァンスが、出版業者J.M.デントをビアズリーに紹介知る。

 

デントは「アーサー王の死」の挿絵を描く人を探しており、中世風の様式に仕立てようと考えていた。ビアズリーはデントの要請ですぐに「聖杯の発見」を描き上げ、それを見たデントは、順次発行していく予定の「アーサー王の死」2巻全体の挿絵の契約を結ぶ。

 

その後、「名言集」など他の小さな仕事の注文で収入が入り出すようになり、保険会社を辞める。

ステューディオ


1892年11月、当時『アート・ジャーナル』の副編集長であり、『ステューディオ』という美術雑誌の創刊を計画中であったルイス・ハインドを紹介される。


ハインドは、創刊号のため何か目をひくものを探していたが、ビアズリーの作品がそれにぴったりだと考え、『ステューディオ』の表紙デザインを注文する。


そうして『ステューディオ』創刊号に「アーサー王の死」や「シガール夫人の誕生日」などを含むビアズリーの業績を網羅する8枚の作品が掲載され、一気にイギリス中で注目を集めるようになる。

サロメと全盛期


『サロメ』挿絵『踊りの褒美』1893年
『サロメ』挿絵『踊りの褒美』1893年

出版業者ジョン・レインからの依頼でビアズリーは、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』英語版の挿絵を描くという大仕事を引き受けることになる。

 

直接のきっかけとなったのは、『ステューディオ』に掲載された作品『ヨカナーンよ、私はおまえの唇に接吻した』である。

 

この絵は、1893年2月22日にパリとロンドンで同時に出版されたフランス語の『サロメ』を読んだ後で、ビアズリーがまったく自発的に描いたものであった。

 

これを見たワイルドは、ビアズリーの芸術と自身の戯曲との間に強い類似性を感じていることを感じ、献辞の手紙を送ってきたのである。

 

ワイルドは、当時この新進の芸術家とはほとんど面識がなかったはずであり、そんな見知らぬ人物に献辞を添えた本を送ったという事実からも、ワイルドがビアズリーに対して強い関心を抱いていたことがわかる。

 

ワイルドは1893年から『サロメ』の一連の挿絵を制作する。これらの作品は、ビアズリーの短い生涯のなかで、彼の最高傑作であり、全作品の中で最も創意にあふれた様式が展開されることになった

「イエロー・ブック」の創刊とその波及


『サロメ』以後、ビアズリーは聖書や中世の世界から遠ざかり、人生や芸術・文学に関する独自の視野を発展させていくことになる。つまり『イエロー・ブック』の時代に入っていくのである。

 

『イエロー・ブック』は、ビアズリーの言葉を借りれば「新しい文学と芸術のための季刊誌」である。友人ヘンリー・ハーランドとともにをはじめホイッスラーを取り巻く前衛芸術家の仲間が集め、1894年1月の手紙で「現在発行されている雑誌が、多くの才能あふれる若手作家を取り上げることは、まずあり得ないと見ていいでしょう。なにしろ彼らは知名度も低く、それに多少危機なこともあるからです」と書いている。

 

4月に『イエロー・ブック』創刊号が発売されると、保守的な新聞や雑誌は酷評した。しかし、今までロンドンの芸術仲間だけに知らされていたビアズリーの名は突如として一般大衆の間に広まり、有名となった。

 

最初の4版ではビアズリーはアート・エディターを務め、表紙のデザインや多くのイラストを手がけた。ビアズリーは、デカダンス象徴主義のイギリス的な対極にある美学派に属していた。

 

彼のイメージのほとんどはインクで描かれており、大きな暗い部分と大きな空白の部分のコントラストや、細かいディテールのある部分と全くない部分のコントラストが特徴的であうる。

 

このころ経済的に余裕ができたため、ピムリコ地区ケンブリッジ通り114番地に家を購入し、姉メイベルと同居。近親相姦説もささやかれた。

 

1895年4月5日、オスカー・ワイルドが猥褻行為で逮捕されると、ビアズリー周辺のデカダン派は突然終局を迎える。ワイルドがビアズリーの『イエロー・ブック』を読んでいたことがわかると、イエロー・ブックに非難の対象となる。ワイルドの『サロメ』の悪名高いイラストレーターだったビアズリーも非難の対象となった。その後、『イエロー・ブック』5号からビアズリーは解雇された。

 

4月20日、ビアズリーはパリにわたり、作家のアンドレ・ラファロビッチに助言と援助を依頼する。ラファロヴィッチはビアズリーの救済者となり、経済的援助を引き受けただけでなく、カトリックに改宗させた。

 

同年5月5日、パリから帰国後に、出版業者レナード・スミザーズと知り合う。スミザーズは社会的に爪弾きされている芸術家の作品を専門に出版していたため、これ以後ビアズリーと切っても切れない間柄となった(ワイルドはスミザーズを「ビアズリーの持ち主」と呼んだ)。

雑誌『イエロー・ブック』(1894年)
雑誌『イエロー・ブック』(1894年)
オスカー・ワイルド
オスカー・ワイルド

「サヴォイ」誌創刊


詩人のアーサー・シモンズは、『イエロー・ブック』がビアズリーを解雇した際に離れていった読者層を引き戻すために、新しい雑誌を創刊することを考えていた。そこで『サヴォイ』というタイトルの雑誌を1896年1月に創刊。

 

ビアズリーはもちろん美術を担当する。サヴォイの仕事のおかげで毎週25ポンドの支払い契約を結び、ビアズリーの生活は外面的にはある程度回復した。それでもワイルド逮捕後のビアズリーの評判は取り戻せないほど変わってしまった。

 

ビアズリーが制作した『サヴォイ』のデザインや『丘の麓で』の挿絵は、新たな飛躍的発展となったが、これはビアズリーが18世紀フランスの芸術や文学、風俗に対して特に関心を深めた結果であるという。この様式によってビアズリーの構図は、さらに均衡と調和が取れ、古典的なものになり、挿絵画家としての技量は絶頂期を迎えた。

『サヴォイ』(1896年)
『サヴォイ』(1896年)

晩年


1896年3月、ブラッセルで突然巣食っていた結核が猛威をふるい、彼は激しい吐血に見舞われる。これ以降ビアズリーの体調は急激に悪化する。

 

1896年6月後半から8月前半にかけて、スミザーズの依頼により、アリストパネスの『女の平和』の挿絵をエプソムのホテル「スプレッド・イーグル」にて制作。7月、遺言状を作成。同年12月、『サヴォイ』廃刊。

 

健康状態の悪化により経済的に困窮し、借金がかさみ、1897年にカトリックに改宗する。以降はカトリック詩人マルク=アンドレ・ラファロヴィチからの一季100ポンドの支援で露命をつないだ。

 

1898年1月、結核の進行により右手が動かなくなる。1月末以降は寝たきりとなり、詩「象牙の一片」を書く。カトリックの信仰に沈潜し、聖徒伝を読みふける日々が続く。

 

ベン・ジョンソン『ヴォルポーネ』挿絵(1898)同年3月16日、結核のためマントンにて死去。遺産は836ポンド17シリング10ペンス。ベン・ジョンソン作『ヴォルポーネ』のために描いた作品(未完)が絶筆となった。享年25歳。翌日、メントン大聖堂で鎮魂ミサが行われた後、彼の遺骨はトラブケ教会に埋葬された。

プライベート


ベアズリーは公私ともにエキセントリックだった。彼は「私の目的は一つ、グロテスクだ。グロテスクでなければ、私は何者でもない」と言っている。ワイルドは、ビアズリーの顔は「銀の斧のような顔で、髪の毛は草のような緑色」だったと言っている。

 

ビアズリーは服装に細心の注意を払っていた。鳩色のスーツに帽子、ネクタイ、黄色い手袋。朝のコートとコートシューズを履いて出版社に出向いた。

 

ビアズリーは、オスカー・ワイルドをはじめとするイギリスの美学者たちを含む同性愛者の集まりに属していたが、彼のセクシュアリティの詳細については疑問が残っている。彼のセクシュアリティについての憶測には、姉のメイベルとの近親相姦の噂も含まれている。

 

ビアズリーは美術キャリアの全期間中、結核の発作を繰り返していた。頻繁に肺出血を起こし、家から出ることもできなかった。

 

ベアズリーは1897年3月にカトリックに改宗した。翌年、彼が死ぬ前の最後の手紙は、彼の出版者レナード・スミザーズと親しい友人ハーバート・チャールズ・ポリットに宛てたものだった。

 

「1898年3月7日|イエスは私たちの主であり裁判官である|親愛なる友よ、私はあなたにリシストラータのすべてのコピーと悪い絵を破棄するように懇願します...すべての聖なるものによって、すべての卑猥な絵を破棄してください。| オーブリー・ビアズリー|私の死の苦しみの中で」

 

二人ともベアズリーの願いを無視し、スミザーズは実際にベアズリーの作品の複製品や贋作を販売し続けた。

略年譜


■1872年

8月21日、イギリス南部の保養地ブライトンで生まれる。

 

■1879年

ブライトンの寄宿学校入学。この頃から絵を描き始めるが、すでに結核の初期徴候が現れる。

 

■1884年

ブライトン・グラマー・スクール入学。寮長アーサー・ウィリアム・キングの奨励を受ける。

 

■1889年

同校卒業。ロンドンに移住。

 

■1890年

ロンドンで保険会社に就職。

 

■1891年

バーン=ジョーンズを訪問。励ましと美術教育の推薦を受ける。

 

■1892年

『シガール夫人の誕生日』『詩人の残骸』で独自の様式を打ち立てる。6月、作品を持ってパリに向かう。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌに会い、奨励を受ける。ロンドンに戻ると『アーサー王の死』の挿絵の注文を受ける。

 

■1893年

4月『ステューディオ』創刊号がビアズリーを賞賛するジョセフ・ペネルの記事を掲載し、8枚の作品を紹介。ワイルドの『サロメ』の注文を受ける。

 

■1894年

新雑誌『イエロー・ブック』の美術編集者に指名される。

 

■1895年

ワイルドの逮捕。ビアズリーは『イエロー・ブック』から解任。レナード・スミザーズと作品契約を結ぶ。

 

■1896年

スミザーズ、ビアズリー、アーサー・シモンズ協同で新雑誌『サヴォイ』創刊。この年『毛髪掠奪』『女の平和』など集中的に多くの作品を制作。

 

■1897年

多くの計画があったが、結核の進行が制作を妨げるようになり、医師のすすめでフランス・イタリア国境の地中海沿いの保養地メントンに滞在。

 

■1898年

3月15日から16日にかけての夜半、同地にて死亡。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Aubrey_Beardsley、2020年5月22日アクセス

・オーブリー・ビアズリー展図録



【美術解説】現代美術「ポストモダンアート」

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後期近代美術 / Postmodernart

近代美術の後の芸術


マリーナ・アヴラモヴィッチ
マリーナ・アヴラモヴィッチ

概要


ポストモダン・アート(近代美術の後の芸術)とは、近代美術の側面を否定、または近代美術の余波から出現または発展した芸術運動である。

 

一般的には、インターメディア、コンセプチュアル・アート、インスタレーション、マルチメディア、なかでもビデオ・アートが代表的なポストモダンアートとみなされている。現代美術(コンテンポラリー・アート)とも呼ばれる。

 

現在は1950年代以降に制作されたアートを指す言葉として「現代美術(contemporary art)」という言葉が主流となっている。

 

近代美術までは視覚的な形態によって良し悪しが判断されていたが、1960年代後半以降、哲学的な考察や社会批評要素が含まれる芸術が中心となりはじめた。それをコンセプチュアルアートという。美術批評家のアーサー・ダントーの定義ではポストモダンアートは多かれ少なかれ、このコンセプチュアルが基盤となっている。

 

ポストモダンアートはほかにも近代美術とは異なる特徴がある。ブリコラージュやレディメイドなど絵具ではなく既成物を利用した作品。極端に簡素化されたミニマリズム。パフォーマンス・アート。過去の美術スタイルや主題を現代の文脈に置き換える表現。ファイン&ハイアートとロウ&ポップカルチャーの境界線を曖昧にするといった表現などである。

 

なお、最近では近代美術とその後に来るポストモダンアートの両方を包括した美術全体を指す言葉として「近現代美術(modern and contemporary art)」と呼ぶときがある。

重要ポイント

  • 1950年代以降に制作されたアート全般のこと
  • 近代美術から生まれ近代美術や前衛を否定する運動
  • コンセプチュアルな要素を含む
  • 新旧、ハイとロウなど相反するものを並列する要素を含む

用語の起源や解釈


現在は1950年代以降に制作されたアートを指す言葉として「現代美術(contemporary art)」という言葉が主流となっている。

 

 

ただし、現代美術と呼ばれるすべての美術がポストモダン・アートではなく、より広義的な意味では、近代美術(moderart)や後期近代美術(late-modernart)の伝統を継承して活動しているアーティストと、それ以外の理由でポストモダンを拒否するアーティストも現代美術として含まれる

 

何が「後期近代(late-modern)」で何が「近代美術の後(post-modern)」なのかというコンセンサスはない。批評家の中には、現在のポストモダン・アートの多くは最新の前衛芸術であるが、それでも近代美術として分類されるべきだと主張する者もいる。

 

アーサー・ダントーは、「現代」という言葉はより広義的な意味であり、ポストモダンとは現代美術という枠における「サブセクター(下位部門)」を表していると主張している。

 

ほかには、ポストモダンは現代美術の特定の傾向を表すだけでなく、近代美術の一段階を表すためにも使われている。クレメント・グリーンバーグのようなモダニズムの擁護者や、モダニズムの「最後のあえぎ」と呼ぶフェリックス・ガタリのようなモダニズムの急進的な反対者もこの立場を採用している。

 

新保守派のヒルトン・クレーマーは、ポストモダニズムを「モダニズムの綱の終わりにあるモダニズムの創造」と表現している。また、フレデリック・ジェイムソンの分析では、ジャン=フランソワ・レオタールは、ハイ・モダニズムの時代とは根本的に異なるポストモダニズムの段階があるとは考えていない。その代わりに、ポストモダニズムのこのスタイル、あるいはそのハイ・モダニズムのスタイルへの不満は、ハイ・モダニズムの実験の一部であり、新しいモダニズムを生み出しているという。

 

 

多くの批評家は、ポストモダン・アートは近代美術から生まれたものだと考えている。近代からポストモダンへの移行の時期としては、ヨーロッパでは1914年、アメリカでは1962年、1968年などが挙げられている

 

ジェームズ・エルキンスは、モダニズムからポストモダニズムへの移行の正確な時期についての議論についてこのようなコメントしている。ポストモダンが今世紀後半に始まったのかどうかという議論は、マニエリスムの正確な時期が盛期ルネサンスの直後に始まったかどうか議論していた1960年代と似ているという。そしてエルキンスは、このような議論はアートの動きや時代に関しては常に行われているという指摘をしつつも、論議すること自体は悪いことでないと話している。

 

ジャン・ボードリヤールは、ポストモダンにインスパイアされた芸術に大きな影響を与え、新しい創造性の形の可能性を強調した。例えば、アーティストのピーター・ハレーは、彼のデイグローの色彩を「本物の色の超現実化」と表現し、ボードリヤールに影響を受けたと認めている。

 

ボードリヤール自身は1984年以降、現代美術、特にポストモダン美術は第二次世界大戦後のモダニズム美術に劣るとの見解を貫き、一方ジャン・フランソワ・レオタールは現代絵画を賞賛し、近代美術からの進化を指摘している。

 

20世紀の主要な女性芸術家は、彼らの作品の多くの理論的な芸術表現が、フランスの精神分析やフェミニスト理論から生まれたことから、ポストモダン・アートと結びついているという。

 

1また、980年代半ば以降、比較的特殊な素材や一般的な技法を用いた戦後のある種の「スクール」の作品を指す一種の略語としてこの用語が使われるようになったが、ポストモダニズムのエポック的、あるいは認識論的な分裂としての理論的基盤については、いまだに多くの議論がある。

 

ポストモダンという言葉の使用と美術への適用に批判的な人たちもいる。例えば、カーク・バーネドーは、ポストモダニズムのようなものは存在せずモダニズムの可能性はまだ尽きていないと述べている

 

 

ポストモダニズムという言葉が批判的な響きを失った1980年代末にポストモダニズムの時代が終わりアートの実践がグローバリゼーションと新しいメディアの影響に対処し始めたという。

ポストモダン・アートの定義


モダニズムから生まれモダニズムを否定する運動


ポストモダニズムとは、モダニズムの傾向から発生するが、モダニズムの傾向に反発したり拒絶したりする運動を指す。

 

モダニズムの特定の傾向に関する一般的な例証は、形式的な純粋性、媒体の特異性、芸術のための芸術、真正性、普遍性、独創性、革命的または反動的な傾向、すなわち「前衛」である。

 

しかし、パラドックスがおそらくポストモダニズムに対応した最も重要なモダニズムの思想である。パラドックスはマネが導入したモダニズムの中心的存在だった。

 

マネのさまざまな表象芸術への冒涜は、現実と表象、デザインと表象、抽象と現実などの相互の排他性を浮き彫りにした。このようなパラドックスの導入は、マネからコンセプチュアル・アーティストたちに大きな刺激を与えた。

 

前衛の地位が物議を醸している。多くの機関は、先見性があり、前向きで、最先端で、進歩的であることが、現在のアートの使命に不可欠であると主張している。それゆえにポストモダンの芸術は「現代の芸術」の価値と矛盾している。ポストモダニズムは、それ自体が芸術の進歩や進歩という概念を否定し、「前衛の神話」を覆すことを目指しているためである。

 

ロザリンド・クラウスは、「前衛主義は終わり、新しい芸術の時代とはポストリベラル、ポスト・プログレスである」という見解を打ち出した重要な論者の一人である。

 

グリゼルダ・ポロックは、ポストモダン美術を再定義すると同時に現代美術を見直す画期的な著作を次々と発表し、前衛と現代美術を研究し、対峙した。

ハイカルチャーとローカルチャーの境界線の消失


ポストモダン・アートの特徴の一つは、工業的な素材やポップカルチャーのイメージを用いて、ハイカルチャーとローカルチャーを混同していることである。

 

ローカルチャーの使用は、ニューヨーク近代美術館で開催されたカーク・ヴァーネドーとアダム・ゴプニックの1990-91年の展覧会「High and Low: Popular Culture and Modern Art」でも記録されているように、モダニズムの実験の一部でもあった。

 

ポストモダン・アートは、ファインアートやハイアートと一般的に見られるものと、ローアートやキッチュアートとの区別を曖昧にすることでも知られている。

 

このようなハイアートとローアートの「曖昧さ」や「融合」という概念は、近代美術の時代にも実験的に行われていたが、ポストモダンの時代になってから本格的に支持されるようになった。

商業主義、キッチュ、文脈の拒絶


ポストモダニズムは、その芸術的文脈の中に商業主義、キッチュ、一般的なキャンプ美学の要素を導入した。

 

さらに、ポストモダニズムは、ゴシック、ルネサンス、バロックなどの過去の時代のスタイルを取り、対応する芸術運動の中でのオリジナルの文脈を無視して織り交ぜた。このような要素は、ポストモダン芸術を定義するものに共通する特徴である。

 

古いものと新しいものの並置、特に過去の時代のスタイルを現代美術に取り入れ、それを元の文脈から外れた形で再構成することは、ポストモダン美術の共通の特徴である。

 

ひとつのコンパクトな定義として、ポストモダニズムはモダニズムの芸術的方向性という壮大な物語性を拒絶し、芸術の高低の境界を根絶し、衝突、コラージュ、断片化によってジャンルの慣習を破壊する。

 

ポストモダン・アート運動


コンセプチュアル・アート

・インスタレーション・アート

ロウブロウ・アート

スーパー・フラット/村上隆

・パフォーマンス・アート/マリーナ・アブラモヴィッチ

・デジタル・アート

・インターメディア&マルチメディア

・テレマティックアート

・新コンセプチュアルアート

・新表現主義/ジャン・ミシェル・バスキア


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Postmodern_art、2020年5月22日アクセス


【作品解説】ねずみ、風船の少女などバンクシーの作品完全解説

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バンクシーの作品一覧

ねずみ、風船の少女、シュレッダー作品などバンクシーがこれまで発表した作品について解説します。バンクシーの概要や略歴を知りたい方はこちらへ。


《東京2003》
《東京2003》

《東京 2003》は、2003年に東京都港区の東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の日の出駅付近にある東京都所有の防潮扉に描かれたバンクシーによるものと思われるストリート・アート。傘をさし、カバンを持ったネズミのステンシル作品。(続きを読む



《小さな植物と抗議する少女》
《小さな植物と抗議する少女》

《小さな植物と抗議する少女》(仮)は2019年4月末にロンドンのマーブル・アート付近の壁に描かれた作品。描かれた場所は環境保護団体「Extinction Rebellion(絶滅への反逆)」が4月15日から2週間におよぶ抗議を行っている場所である。(続きを読む



《愛はゴミ箱の中に》
《愛はゴミ箱の中に》

《愛はごみ箱の中に》は2018年10月にサザビーズ・ロンドンのオークション中にバンクシーによって介入された芸術作品であり、介入芸術の代表作の1つ。2006年にバンクシーが制作した風船少女シリーズの1つ《風船と少女》の絵画が、オークションで104万2000ポンドで落札された直後に介入された作品である。(続きを読む



《風船と少女》
《風船と少女》

『風船と少女』は2002年からバンクシーがはじめたステンシル・グラフィティ作品シリーズ。風で飛んでいく赤いハート型の風船に向かって手を伸ばしている少女を描いたものである。「風船少女」や「赤い風船に手を伸ばす少女」とよばれることもある。(続きを読む



《シリア移民の息子》
《シリア移民の息子》

《シリア移民の息子》は2015年に制作されたバンクシーの壁画作品。本作は留学移民としてアメリカに滞在していたシリア移民の息子のスティーブ・ジョブズを描いたものである。ジョブズは黒いタートルネックにジーパン、丸メガネのいつものジョブズ・ファッションで、手にはオリジナルのマッキントッシュ・コンピュータと荷物を持って立っている。(続きを読む



《Think Tank》
《Think Tank》

『Think Tank』は、2003年5月に発売されたイギリスのロック・バンドBlurの7枚目のアルバム。カバーアートにバンクシーのステンシル作品が使われている。 バンクシーは通常は商業作品を制作しないと主張していたが、のちにカバー作品の制作を養護した。(続きを読む



《Well Hung Lover》
《Well Hung Lover》

《Well Hung Lover》は2006年にバンクシーによって制作されたストリート・アート。イギリス、ブリストルのフロッグモア・ストリートに描かれた。全裸の男が窓に片手でぶらさがっており、窓にはスーツを着た男性が裸の男性に気づかずよそ見をしている。男性の隣には下着姿の女性がいる。(続きを読む



《ディズマランド 》
《ディズマランド 》

『ディズマランド』は2015年に企画・実行されたバンクシーによるプロジェクトアート。イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで開催。(続きを読む



《ピンク色の仮面をつけたゴリラ 》
《ピンク色の仮面をつけたゴリラ 》

《ピンク色の仮面をつけたゴリラ》は2001年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。初期作品のなかでも最も有名な作品の1つである。彼の故郷であるブリストルにあるソーシャルクラブで描かれた、特に政治的なメッセージ性のないシンプルなグラフィティ作品である。(続きを読む



《パラシュート・ラット》
《パラシュート・ラット》

《パラシュート・ラット》は、パラシュートで降下する飛行用グラスをかけた紫色のネズミの絵である。バンクシー作品は大雑把にいえば「反資本主義」と「反戦主義」を主題とし、それらを風刺的であり挑発的な方法で表現するのが特徴である。(続きを読む



《奴隷労働》
《奴隷労働》

《奴隷労働》は2012年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。122 cm ×152 cm。2012年5月、ロンドンのウッドグリーンにある1ポンドショップ「パウンドランド」脇の壁に描かれたものである。(続きを読む



《爆弾愛》
《爆弾愛》

『爆弾愛』は2003年にバンクシーによって制作されたプリント作品。戦争と愛という二項対立を探求したバンクシー初期の象徴的な作品。ポニーテールの無垢な少女が爆弾(軍用機用の爆弾)をクマのぬいぐるみのように抱いている絵である。(続きを読む



《子猫》
《子猫》

《子猫》は2015年初頭ころにバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。2014年夏、7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の受け廃墟化したガザ地区の家の壁に描かれている。(続きを読む



《アート・バフ》
《アート・バフ》

《アート・バフ》は2014年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。イギリスのフォークストンにある壁に描かれており、バンクシーによれば「フォークストーン・トリエンナーレの一部のようなもの」だという。(続きを読む



《パルプ・フィクション》
《パルプ・フィクション》

『パルプ・フィクション』は2002年から2007年にまでバンクシーによって制作されたグラフィティ作品シリーズ。2002年から2007年までロンドンのオールド・ストリート駅近郊の壁にステンシル形式で存在していた。(続きを読む



《マイルド・マイルド・ウェスト》
《マイルド・マイルド・ウェスト》

『マイルド・マイルド・ウェスト』は、1999年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。テディ・ベアが3人の機動隊隊員に向けて火炎瓶を投げている絵である。(続きを読む



【作品解説】ヨハネス・フェルメール「真珠の耳飾りの少女」

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真珠の耳飾りの少女 / Girl with a Pearl Earring

オランダで最も美しいフェルメールの絵画


ヨハネス・フェルネール《真珠の耳飾りの少女》1665年
ヨハネス・フェルネール《真珠の耳飾りの少女》1665年

概要


作者 ヨハネス・フェルメール
制作年 1665年
サイズ 44.5 cm × 39 cm
メディウム キャンバスに油彩
所蔵者 マウリッツハイス美術館

《真珠の耳飾りの少女》は、オランダ絵画の黄金時代の画家ヨハネス・フェルメールが1665年頃に描いたと推定されている油彩画。作品はキャンバスに油彩で、高さ44.5cm、幅39cm。「IVMeer」のサインがあるが正確な年代は不明。

 

この絵は17世紀にオランダで描かれたトロニー画で(オランダの黄金時代の絵画やフランドル地方のバロック絵画によく見られる作品)、肖像画ではなく「顔」を描いたものである。

 

数世紀にわたって様々なタイトルが付けられてきたが、20世紀末には描かれている少女が身につけていた大きな真珠の耳飾りにちなんで、現在のタイトルで知られるようになった。

 

1902年からハーグのマウリッツハイス美術館に所蔵されており、さまざまな文学的で論議の対象とされてきた。2006年には、オランダで最も美しい絵画に選ばれた。

重要ポイント

  • オランダで最も美しい絵画として知られている
  • 肖像画ではなく「顔(頭)」を描いたトロニー画
  • さまざまな国でさまざまなタイトルが付けられてきた

基本的な情報


この絵は17世紀にオランダで描かれたトロニーで(オランダの黄金時代の絵画やフランドル地方のバロック絵画によく見られる作品)、肖像画ではなく「顔」を描いたものである。エキゾチックなドレス、東洋のターバン、そしてありえないほど大きな真珠のイヤリングを身に着けたヨーロッパの少女を描いている。

 

2014年には、オランダの天体物理学者ヴィンセント・アイクがイヤリングの素材に疑問をていしている。鏡面反射、洋ナシの形、イヤリングの大きさを根拠に、真珠というよりも磨かれたズズのように見えると主張した。

 

1994年の最新の修復で、微妙な配色と、見る者を見つめる少女の親密なまなざしが大幅に改善されている。なお修復の過程で、現在ではやや濁っている暗い背景が、元々は深いエナメルのような緑色であったことが判明した。

 

この色彩効果は、現在見られる黒い背景の上に、薄く透明な絵の具(釉薬)を重ねることで得られたものだという。しかし、緑の釉薬の有機顔料である藍と溶着の2つの顔料は色あせてしまっている。

所有者の変遷


フェルメールの稀少な作品が海外に流出してしまうのを長年阻止しようとしていたヴィクトル・デ・スチュアースの助言により、アーノルドゥス・アンドリース・デ・トムベは、1881年にハーグのオークションでこの作品をわずか2ギルダー+30セントで(現在の購買力で約24ユーロ)で落札した。

 

当時、この作品の状態は悪く、デ・トンベには相続人がいなかった。デ・トムベには相続人がいなかったので、1902年にマウリッツハイス美術館に寄贈された。

 

1965年と1966年には、ワシントンD.Cのナショナル・ギャラリーで開催されたフェルメール展で展示された。

 

2012年には、マウリッツハウス美術館の改修・拡張工事における巡回展の一環として、日本では東京国立西洋美術館で、2013年から2014年にかけてアメリカではアトランタのハイミュージアム、サンフランシスコのデ・ヤング美術館、ニューヨークのフリック・コレクションで展示された。

 

その後、2014年にイタリアのボローニャで展示された。2014年6月にマウリッツハイス美術館に戻ってきた。

ハーグのマウリッツハイス美術館
ハーグのマウリッツハイス美術館

技術


地色は、チョーク、鉛白、黄土色、ごくわずかな黒で構成されており、濃密で黄色がかった色をしている。暗い背景には、ボーンブラック、ウエルド(ルテオリン、レセダ・ルテオラ)、チョーク、少量の赤黄土色、藍色が含まれている。顔とドレーパリーはおもに黄土色、天然のウルトラマリン、骨黒、木炭黒、鉛白を使って描かれている。

 

2018年2月から3月にかけて、美術の専門家からなる国際的なチームが2週間をかけて、美術館内に特別に作られたガラス張りの工房で、一般の人も見学できるようにしながらこの絵画の研究を行った。研究ではフェルメールが使用した手法や材料について詳しく知るために、作品を枠から外して顕微鏡やX線装置、特殊なスキャナーを使って解析した。

 

このプロジェクトは「スポットライトの中の少女」と名付けられ、マウリッツハイス美術館の保存修復士であるアビー・ヴァンディヴェール氏が主宰し、その成果がマウリッツハイス美術館によって発表された。ヴァンディヴェールのブログには、プロジェクトの詳細がたくさん書かれている。

 

その結果、繊細なまつげの存在、頭の後ろの緑のカーテン、変更点、使用した顔料とその由来の詳細などが判明した。

 

眉毛がなく、背景に特徴がないことから、フェルメールは理想化された顔や抽象的な顔を描いているのではないかと推測されていましたが、その後の発見により、実際の空間であり、実在した人物を描いていることがわかった。

 

ただし、真珠は輪郭がなく、また、少女の耳からそれをひっかけるフックがないため幻想だと説明している。

絵画のタイトル


この絵は何世紀にもわたって、様々な国で様々なタイトルが付けられてきた。元々は、フェルメールの没後の目録に記録されている「トルコ風に描かれた」(Twee tronijnen geschildert op sijn Turx)という2つのトロニー作品のうちの1つであったと考えられている。

 

1696年にアムステルダムで行われた絵画の販売に出品された可能性があり、当時のカタログには『アンティークの衣装を着た肖像画、並外れて芸術的』(Een Tronie in Antique Klederen, ongemeen konstig)と記載されている。

 

1902年マウリッツハイス美術館に遺贈された後、この絵は『ターバンを着けた少女』として知られるようになったが、そのタイトルの由来は1675年の目録にターバンがヨーロッパのトルコ人との戦争の間、魅力的なファッションアクセサリーになっていたことがメモされていたためである。

 

しかし、1995年までには現在の『真珠を付けた少女』というタイトルのほうが適切だと考えられるようになった。

 

真珠は、実際、フェルメールの絵のうち21点に描かれているが、その中でも《真珠のネックレスを付けた女性》では、真珠が非常に目立っている。

 

ほかに、《手紙を書く女性》《若い女性の習作》《赤い帽子をかぶった少女》《笛を吹く少女》にもイヤリングのみ描かれている。

 

一般的にこの絵の英語のタイトルは単に「Head of a Young Girl(少女の頭)」と呼ばれていたが、「The Pearl(真珠)」と呼ばれることもあった。ある評論家は、この名前はイヤリングのディテールからだけでなく、暗い背景の中で人物が内面的な輝きを放っていることから付けられたと説明している。

《真珠のネックレスを付けた女性》,1664年
《真珠のネックレスを付けた女性》,1664年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Girl_with_a_Pearl_Earring、2020年5月25日アクセス


【芸術運動】プロテスト・アート「政治メッセージ性が強い抗議芸術」

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プロテスト・アート / Protest art

政治メッセージ性が強い抗議芸術


2008年カリフォルニア州プロポジション8のポスター
2008年カリフォルニア州プロポジション8のポスター

概要


プロテストアートは活動家や社会運動によって生成された芸術。伝統的なコミュニケーションの手段であり、市民に情報を与え、説得するために利用される。

 

体制側のプロパガンダ・アートととことなり、おもにデモ活動に参加する抗議者が集会を宣伝したり、ときには警察や政府に対して反体制的なメッセージを投げかける役割を果たす。

 

プロテスト・アートは、パフォーマンス、インスタレーション、グラフィティ、ストリート・アートなど表現手法は多岐にわたる。また、は特定の地域や国に限定されたものではなく、むしろ世界中で使われている手法である。

 

プロテスト・アートは、参加者の基本的な感情を喚起するのに役立ち、緊張を高め、抗議活動への新たな機会を作り出す。また、最近の出来事を風刺的に表現することで、緊張を解き明るくコメディのような安堵感を与えることもある。さらに、抗議者の間の結束を示し、仲間の活動家を励まし、精神衛生上の意識を高める。

 

ベルリン・ダダ草間彌生のハプニングなどにプロテスト・アートの原型が見られる。また、より多くの観客にリーチするために、美術界の機関や商業的なギャラリー・システムを利用することも多い。パブロ・ピカソの『ゲルニカ』は政治的メッセージの強いプロテスト・アートとして見られることもある。

香港プロテスト・アート


「5大要求、1つも譲らず」というスローガンを表す香港の抗議者たちのジェスチャー・アート。
「5大要求、1つも譲らず」というスローガンを表す香港の抗議者たちのジェスチャー・アート。

香港プロテスト・アートにおいておもに利用される手法はポスターである。絵画や壁画と異なりポスターは、市民が抗議活動に参加せずに自分たちの意見を表現するための平和的で代替的な方法とみなされている。

 

特に、香港の抗議活動のような匿名性が高くリーダー不在のプロテストとポスターの相性がよい。香港のプロテスト・アートのほとんどのアーティストは匿名のままか、運動のリーダー不在の性質に合わせてペンネームを利用している。

 

香港プロテスト・アートのデザインのアイデアは、LIHKGという掲示板上で不特定多数の人のアイデアから作り出されたものである。作成されたイメージは街中に設置されたレノンウォールやTelegramのチャンネル、AppleのAirDrop機能などを利用して広く配布される。

 

日本のアニメの芸術スタイルを採用していることが多いが、ほかにもさまざまなポップカルチャーメディアから影響を受けて制作されている。

 

香港バプテスト大学の学生組合の会長が警察に「レーザー銃」とみなされレーザーポインターを所持して逮捕されたとき、抗議者たちは「スター・ウォーズ」のライトセーバーの要素を取り込んだポスターを作成した。

 

ダン・バレット氏は、抗議者たちはディストピア的なテーマや反権威主義的なテーマをデザインに取り入れていると指摘している。

 

彼によると、「(ヒーローやヒロインが)乗り越えられないほどの困難にもかかわらず、悪の全体主義的な政権や支配者を打ち負かすことを描いたジャンルは、抗議運動の最前線にいる若い世代の香港人の間で特にモチベーションを高めているようだ」という。

 

また、多くのプロテスト・アートのデザインは、アルバムのカバーやハリウッド映画のポスターと似ている。

 

黄色のレインコートを着た男性(マルコ・レオンに似ている)、目から血が出ている女性(8月11日に女性抗議者の目が豆袋の丸で傷つけられたとされる事件を示唆している)、9月15日のノースポイント紛争で逮捕された抗議者のチャン・イーチュンなど、抗議活動に関わった著名な人物がプロテスト・アートによく登場する。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Protest_art、2020年5月25日アクセス


【漫画】ジャン・ジロー「メビウスの名で知られるフランスの巨匠漫画家」

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ジャン・ジロー / Jean Giraud

メビウスの名で知られるフランスの巨匠漫画家


概要


ジャン・アンリ・ガストン・ジロー(1938年5月8日-2012年3月10日)はフランスの芸術家、漫画家。ベルギー・フランスを中心とした地域の漫画バンド・デシネの作家。おもに『ブルーベリーズ』シリーズや絵画制作時に使用された“メビウス”というペンネームや、本名を短くした“ジロー”の愛称で親しまれ、世界中に多くの熱烈なファンを持つ。

 

とりわけ、フェデリコ・フェリーニ、スタン・リー、宮崎駿、大友克洋などへ直接的な影響を与えており、ベルギーの巨匠漫画家ジェ後に最もヨーロッパで影響を与えた漫画家である。

 

代表作品は作家のジャン・ミッシェル・シャリエ原作の西部劇アンチヒーロー作品『ブルーベリーズ』シリーズ。メビウス独自の高度な想像力、シュルレアリスム、抽象スタイルを利用し、SFからファンタジーまで幅広い表現を展開。これらの作風は『アルザック』や『密封されたガレージ』などに見られる。

 

また前衛映画監督のアレハンドロ・ホドロフスキーとのコラボレーションも有名で、漫画では『アンカル』、映画では『Dune』の制作に関わる。メビウスはほかに、『トロン』『エイリアン』『フィフス・エレメント』『アビス』など、さまざまなSF&ファンタジー映画においてコンセプト・デザインやストーリーボードの協力を行なっている。2004年にメビウスとホドロフスキーは、『フィフス・エレメント』は『アンカル』の影響を受けているとして、訴訟を行なったものの、曖昧な状態で訴訟は取り消しとなった。

略歴


幼少期


ジャン・ジローは、1938年5月8日、パリ郊外のヴァル=ド=マルヌ県ノジェント・シュル・マルヌで、保険代理店の父レイモン・ジローと代理店で働いていた母ポーリーヌ・ヴィンションの間に一人っ子として生まれた。

 

3歳の時に両親は離婚し、ジローはおもにに隣の自治体であるフォンテーヌ=スー=ボワに住んでいた祖父母に育てらる。その後、ジローが有名になった頃、1970年代半ばに自治体に戻って住んでいたが、祖父母の家を購入することができなかった。父と母の離婚は彼の心に消えないトラウマの種となり、それが本名と分離したペンネームを作った理由とジローは説明している。

 

最初は内向的な子供だったジローは、第二次世界大戦後、母親が住んでいた通りの角にあった小さな劇場に慰めを見出しいた。そこは、同時に戦後復興期のフランスの寂しい雰囲気からの逃避場所だった。

 

ここでは、アメリカのB級西部劇を数多く演じられており、当時のヨーロッパの多くの少年たちがこのジャンルに情熱を燃やして、ジローもまた夢中になって劇場に足繁く通っていた。

 

9~10歳ころ、ジローはイッシー・レ・ムーリノーのサン・ニコラス全寮制学校に2年間通いながら洋画を描き始めた。そこでスピルーやタンタンなどのベルギーの漫画雑誌に親しんだり、学校の仲間たちと楽しい生活を送った。

 

1954年、16歳の時に、デュプレ王立高等美術学校で唯一の技術訓練を受け、西洋のコミックの制作を始めた。

 

大学では、ジャン=クロード・メジエールやパット・マレットといったのちの漫画家たちと親交を深めた。特にメジエールとは、SF、西部劇、極西への情熱を共有していたこともあって、ジローは生涯にわたる親密な友情を育み、のちにメジエールについて「生涯冒険を続けている」と話している。

 

1956年、メキシコでメキシコ人と結婚した母を訪ねるため、卒業せずに美大を中退し、9ヶ月間滞在した。メキシコの砂漠、特にその果てしなく青い空と果てしなく続く平原の経験は、ほんの数年前に銀幕で西部劇を見たときに彼を夢中にさせた風景の本当の体験であり、それは彼に永遠の印象を残し、後のほとんどすべての作品で現れるようになった。

 

フランスに戻ってからは、カトリックの出版社フルーラスで常勤の画家として働き始め、少し前に出版社に就職していたメジエールに紹介された。

 

1959年から1960年にかけて、ジローは最初にフランスのドイツ占領地で、その後アルジェリアで兵役に就くことになっていた。しかし、幸いなことに、彼は何とか前線での任務から逃れることができた。当時、グラフィックの経歴を持つ唯一の軍人であった彼は、兵站業務に加えて、陸軍雑誌『5/5 Forces Françaises』のイラストレーターとして働くことになった。

 

アルジェリアはジローにとって二度目の馴染みの深い、メキシコと同じようにりエキゾチックな文化との交流があった。郊外の都会の少年として生まれた彼には,この経験がまた忘れがたい印象を与え,その痕跡を後のコミック,特に「メビウス」名義で制作されたものに残している。

作品


西洋コミック


18歳のジローは、雑誌『ファー・ウェースト』のために、モリスの影響を受けたユーモラスな西洋コミックの2ページの西部劇『フランク・エ・ジェレミー』を描いた。これが最初のフリーランスの商業作品となった。

 

雑誌編集者のマリジャックは、若きジローにはユーモラスなコミックの才能はあるが、現実的に描かれたコミックの才能はないと考え、「フランク・エ・ジェレミー」の流れを引き継ぐようにアドバイスした。

 

フルーラス(1956-1958)


ジローは最初の作品を出版したあと、1956年から1958年までフルーラス出版社に在職したが、同時に、リアルに描かれた西洋のコミック(フランスの歴的な性質のものをいくつかある)や、雑誌『Fripounet et Marisette』、『Cœurs Vaillants』、『fr: Âmes vaillantes』の社説用のイラストレーションを地道に描き続けていた。

 

すべての作品はフランスの思春期の若者を対象とした強い啓発的な性質を持っており、彼のリアルな画風は彼の長所となっていた。

 

彼のリアル西部劇の中には、『バッファローの王』と『ヒューロンの巨人』と呼ばれるコミックがあった。実際、「バッファローの王」を含む彼の西部劇のいくつかは、同じ主人公アート・ハウエルを主人公としており、これらはジローの事実上の最初のリアル西部劇シリーズとみられている。

 

ジローが最初の3冊の本の挿絵を描いたのは、フルーラスの仕事のためだった。この時期にすでに彼のスタイルは後のメンターとなるベルギーのコミックアーティスト、ジョセフ ・ジエ・ギランに多大な影響を受けている。彼は当時、ジローの友人のメジエールを含む若い世代のフランスの漫画家世代全体に影響を与えていた。

 

ジョセフ ・ジジェ・ギランがジローと同じ世代若い作家たちにどれほど大きな影響を与えたかは、彼らの作品がフルーラスの出版物に投稿されたことからも明らかであり、彼らの画風は互いに似ていた。例えば、ジローがフルーラスで出版した2冊の本は、フランス・ベルギーのコミック界で将来的に有名になると思われるギイ・ムヌーとの共作だったが、ジローの作品は彼のサインがあったからこそ識別できるのであるが、ムヌーはサインをしていなかった。

 

フルーラスでのジローの稼ぎは十分ではなかったが、コースや一般的な雰囲気、学問的規律に嫌気がさしたジローは、わずか2年で美術学校の教育を辞めることができたが、後の人生でその決断を多少後悔するようになった。

ジジェの見習い


兵役に入る少し前に、ジローはメジエールとマレは一緒に初めて師匠ジジェの家を訪れ、その後も師匠の仕事ぶりを自分の目で見ようと何度か訪れている。

 

1961年、兵役から戻ってきたジローは、「自分が進化したいのであれば、他のことをしな ければならない」と感じ、フルールに戻りたくなかったが、ジローが軍にいる間に芸術的な進歩を遂げているのを見て、ジジェの招きに応じて弟子となった。

 

ジエは当時ヨーロッパを代表する漫画家の一人でありジローを含む若い漫画家志望の若者たちのために、シャンプロサイに家族の家を開放してメンターとして振る舞ってくれていた。この点でジジェはベルギーのコミック界の巨匠ヘルジェに似ているが、ジジェとは異なり、ヘルジェは純粋に商業的な活動をしていただけで、自発的な活動をしていたわけではない。

 

ジローはジジェのもとで、いくつかの短編やイラストレーションを制作しているが、これは短期間の雑誌『ボヌー・ボーイ』(1960/61)に掲載されたもので、兵役後の最初のコミック作品であり、『ブルーベリー』に参加する前の最後の作品である。

アシェット社(1962-1963)


ジジェのもとで働いたあとジローは、友人のメジェールに再び声をかけられ、アシェット社の意欲的な複数巻の『L'histoire des civilisations history reference』のイラストレーターの参加をもちかけられた。

 

弟子にとって素晴らしい機会であると考えていたジジェに後押しされ、ジローはその仕事を受け入れることになった。歴史的建造物やイメージを油絵具で描かなければならないという大変な仕事ではあったが、これまでで最高の給料の仕事であると同時に、重要な仕事でもあった。

 

アシェット社でジローはガッシュでアートを制作するコツをつかんだ。このときの技術は、後にブルーベリーの雑誌やアルバムのカバーアートを制作する際、また、1968年のサイドプロジェクトであるジョージ・フロンヴァルの歴史書『Buffalo Bill: le roi des éclaireurs』のために、ジローは表紙を含むガッシュでのイラストレーションの3分の2を提供している。

 

アシェット社での仕事は、ジャン・ジロー とジャン=ミシェル・シャルリエによる本『Fort Navajo』に着手するため短縮された。つまり、ジローは本シリーズの最初の3〜4巻だけに参加し、残りはメジエールに任せた。

 

ピロート時代には、ジローは西部劇をテーマにした2つのレコード音楽作品のスリーブアートや、ルイス・マスターソン原作のモーガン・ケイン西部劇小説シリーズのフランス語版の最初の7作品の表紙も制作している。

 

ブルーベリーを含む、この時代の西洋をテーマにしたガッシュ画の多くは、1983年のアートブック『Le tireur solitaire』に収録されている。

 

プロフェッショナル的な点からジローのアシェット社での仕事は重要だったが、私生活においても重要だった。のちに妻となるアシェットの編集研究員であるクローディーヌ・コナンに出会っている。彼女は将来の夫を「面白くて、単純で、気さくで、隣の家のいい子」と評しましたが、一方では「ミステリアスで、暗くて、知的」であり、他の人よりもずっと前から彼が「先見の明のある人」の素質をすべて備えていることを認識していたという。

 

ジローがブルーベリーの作家として有名になった後の1967年に結婚し、二人はエレーヌ(1970年生まれ)とジュリアン(1972年生まれ)という2人の子どもをもうけた。

 

特に娘のエレーヌは父親のグラフィックの才能を受け継ぎ、アニメーション業界でグラフィック・アーティストとしてのキャリアを切り開き、2014年に父親がすでに1985年に受けていたのと同じフランスの文民騎士章を受賞した。

 

子育ての傍ら、妻のクローディーヌは夫のアートワークのビジネス・マネジメントだけでなく、時には色着け師としても活躍している。

 

1976年のフェミニスト・ファンタジー短編小説『La tarte aux pommes』は、彼女が旧姓で書いたものである。さらに、ジローのブルーベリーシリーズの後の主要キャラクターであるチワワ・パールは、一部クローディーヌが基盤になっていた。

Pilote (1963–1974)


 

1963年10月、ジローと作家のジャン=ミシェル・シャルリエは、コミック・ストリップ作品『ナバホ砦』の共同制作を始める。このとき、ジローとジジェの絵が非常によく似ていたのでジローが無断欠勤したきには代わりにジジェが数ページ描いていた。

 

事実上、「ナバホ砦」の連先が始まるとピローにはジローの盗作を非難する手紙が届いたが、これはジジェとジローが予想していたことだった。ジジェはそのように非難を避け、かつての教え子を励まし、自信を与えた。

 

ジジェがはじめてジローの代役をつとめたのは、第2話『西の雪』(1964年)の制作中のときである。まだ経験の浅いジローが、予定されいていた厳しい雑誌連載のスケジュールによるストレスで神経を消耗したので、代わりにジジェが28〜36版を代筆した。

 

二度目は一年後の『メキシコへのミッション(失われたライダー)』の制作中に起こったもので、ジローは予期せず荷造りをしてアメリカと再びメキシコを旅することになった。この時も、かつての師匠であるジジェが17-38版を鉛筆で描いてくれた。

 

西の雷』では両作家の画風がほぼ見分けのつかないものになっていた。しかし、ジローが「メキシコへの伝道」の39版で作業を再開した後には、明らかにスタイルの綻びが見られるようになり、ジローが独自のスタイルを確立しつつあったことを示している。恩師のジジェを凌駕するまでに成長したジローは、以前の弟子の成長に感銘を受け、のちに「ランボーのBD」と呼ぶようになった。

 

俳優ジャン=ポール・ベルモンドの顔をモチーフにしたブルーベリー中尉は、1963年にシャルリエ(シナリオ)とジロー(作画)によって『ピロート』のために制作された。『ナバホ砦』はもともと群像劇としての物語を意図していたが、すぐにブルーベリーを中心人物とする方向気に切り替わった。

 

のちにブルーベリー・シリーズと呼ばれるようになったもので、彼の特徴的な冒険は、のちにアレハンドロ・ホドロフスキーとのコラボレーション前にネイティブフランスと残りのヨーロッパでよく知られているジローの作品かもしれない。

 

初期のブルーベリーコミックは、ジジェと似たシンプルな線画スタイルと標準的な西部劇のテーマとイメージ(具体的には、ジョン・フォードのアメリカ騎兵隊西部三部作のもの)を利用していた。

 

しかし、ジローは次第に、1970年の『ソルジャー・ブルー』や『リトル・ビッグ・マン』(『アイアン・ホース』のストーリーアーク)、セルジオ・レオーネのスパゲッティ・ウエスタン、特にサム・ペッキンパのダークなリアリズム(『ロスト・ゴールドマイン』以降のストーリーアーク)に触発されて、よりダークでグリットなスタイルを確立した。

 


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Giraud、2020年5月6日アクセス


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