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【イベント】Juxtapoz ✕ Superflat

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村上隆と『Juxtapoz』が企画する特別グループ展がシアトルで開催



2016年8月4日から8月7日まで、シアトルのセンチュリーリンク・フィールドで開催されるシアトルアートフェアの第二版「Pivot Art + Culture」で、村上隆と有名な美術誌『Juxtapoz』が共同で特別展示企画『Juxtapoz ✕ Superflat』を開催する。

 

23人以上のアーティストの作品が展示されるグループ展で、今最も注目の視覚芸術の芸術たちを、アンダーグラウンドからアートワールドの中心まで幅広く一望するのに役立つ展示になる予定。

 

村上が以前に企画した「スーパーフラット」や「リトルボーイ」は、1つの空間にファイン・アートとサブカルチャーなど本来ジャンルの異なる表現を意図的にごちゃまぜにするスーパーフラット理論の拡大に貢献した展示だった。今回の展示は、それらの延長のようなものとなるだろう。

 

Juxtapoz編集長のエヴァン・プリコは「Juxtapozはアンダーグラウンドとして始まった雑誌だが、最近、誌面において現代美術の読者人気が高まっており、今では現代美術、デザイン、ファッション業界における最新表現に出会う重要メディアとなりつつある。そして、雑誌の理念は、「Juxtapoz(並列)」という誌名の通り、“ハイ”と“ロウ”の文化のフラットにすることだ。」と話している。

 

今回、村上隆が選んだアーティストは、青島千穂、ウルス・フィッシャー、浜名一憲、ジェームス・ジェーン、JH科学、フリードリッヒ・クナス、中村一美、大谷工作室、マーク・ライデン、デイビット・シュリグリー、寺田克也、トイレットペーパー・マガジンによる作品、上田勇児、上野雄次、何翔宇、ZOER&VELVET。

 

Juxtapoz編集長のエヴァン・プリコが選んだのは、トレントン・ドイル・ヘンコック、トッド・ジェームズ、オースティン・リー、レベッカ・モルガン、エリザベス・ヒギンズ・オコナー、ペイコ・ポーメ、パラ、クリスチャン・レックス・ヴァン・ミラン、エリン・M・リレイ、デヴィン・トロイ・ストラーダー、セージ・ヴァン、ベン・ヴェノム。

 

詳細は公式サイトで確認しよう。


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村上隆
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【美術解説】ナイーブ・アート「美術教育を受けてないが向上心はあるアウトサイダー・アート」

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素朴派 / Naïve art

美術教育を受けてないが向上心はあるアウトサイダー・アート


アンリ・ルソー《ライオンの食事》1907年
アンリ・ルソー《ライオンの食事》1907年

概要


ナイーブ・アートとは、通常、プロの芸術家が受ける正式な教育や訓練(解剖学、美術史、技術、遠近法、見方)を受けていない人が制作した視覚芸術と定義されている。日本では「素朴派」と呼ばれ、アウトサイダー・アートの系統に属する。代表的な作家はアンリ・ルソーである。

 

正統な美術教育受けた芸術家がナイーブ・アートに影響を受け、模倣するように制作した作品はプリミティヴィスム、疑似ナイーブ・アート、または偽ナイーブアートと呼ばれる。ポール・ゴーギャンパブロ・ピカソの作品が代表的なプリミティヴィスムである。

 

フォーク・アート(土着芸術)と異なるのは、その土地固有の明確な文化的背景や美術の伝統の形跡が見られないことである。また、独学の芸術家によって作られたものであり、実用的な用途を持つものはフォーク・アートの下位にあると認識されている。しかし、この区別は論争の的となっている。

 

次にナイーブ・アートは子どものようにシンプルで率直な作品が多い。

 

フォーク・アートは大衆文化の文脈や伝統に由来するものではない。アルフォンス・ミュシャロートレックを例にとれば、実際先進国においては、印刷革命以降は版画やポスターといった大衆文化でもその土地のファインアートの美術教育を基盤に制作して制作している。

 

特徴的なのはナイーブ・アートの芸術家たちは、展覧会に出品するなど主流のアートの世界に接近しようと努力しており、さまざまな公募に作品を出品する。あくまでファインアートと同等の立場に立とうとする傾向があることである。

 

しかし、ナイーブ・アートの芸術家たちは、遠近法や構図の規則などの「ファインアート」の規則を認識しているが、それを使いこなすことができないか、理由はわからないがあえて習わない、使わないでいることだろう

 

対照的に、アウトサイダー・アート(アール・ブリュット)の芸術家たちは、ナイーブ・アート似たような文脈の作品でありながら、主流のアート世界との接触が最小限にとどまっている。

 

この用語の定義や、フォーク・アートやアウトサイダー・アートといった類似用語との境界線についてはいくつかの論争を巻き起こしてきた。

 

日本では「ヘタウマ」と呼ばれる作家たちの性質がナイーブ・アーティストたちとよく似ている。

 

特徴


ナイーブ・アートは、正式な(あるいはほとんどない)訓練や学位を受けていない人によるアウトサイダー・アートとして見られることが多い。これは20世紀以前にも当てはまったが、現在ではナイーブ・アートのためのアカデミーが存在する。

 

しかし、現在は世界中のアートギャラリーで展示されている、完全に認識された芸術のジャンルの1つになっている。

 

ナイーブアートの特徴は、特に遠近法の3つのルールを尊重しておらず、伝統的な絵画の様式と不協な関係になることである。

 

距離に比例して物体の大きさが小さくなる。

距離に応じて色を変える。

距離に応じて細部の精度を変える。

 

結果としては、幾何学的に誤った遠近法の効果、パターンの執拗な使用、構図全体にわたる粗悪な色使い、遮蔽されるべき背景も含めて細部にまで均等な精度がある。

 

繊細さよりもシンプルさの方が、ナイーブ・アートにおける共通の価値観とされている。しかし、ナイーブ・アートが人気になると多くのナイーブ・アートは疑似ナイーブのスタイルになってしまう。

 

現在、ハンガリーのケスケメート、ラトビアのリガ、スペインのイェン、ブラジルのリオデジャネイロ、フランスのヴィック、パリにナイーブアートのための美術館がある。

運動


最初のナイーブ・アーティストがいつ登場したのかを正確に知る人はいないが、遅くとも1912年に表現主義のグループ青騎士が『青騎士』という年鑑を出版して以来、20世紀美術史の中で「公式」な評価を得てきた。

 

ワシリー・カンディンスキーとフランツ・マルクは年鑑でアンリ・ルソーの絵画の複製画6点を他の絵画例と比較して紹介した。

 

しかし、ほとんどの専門家は、ナイーブ・アートが「発見された」年は1885年であり、画家のポール・シニャックがアンリ・ルソーの才能に気づき、彼の作品の展覧会をいくつかの有名なギャラリーで開催することに着手した年であることに同意している。

地球グループ


地球グループ(Grupa Zemlja)は、1929年から1935年までザグレブで活動していたクロアチアの芸術家、建築家、知識人からなる集団である。このグループはマルクス主義的な思想がありり、部分的には「新即物主義」をモデルにしており、より様式化された形態のナイーブ・アートの出現につながっていた。

 

地球グループは、社会問題への答えを模索していた。彼らのプログラムは、独立した創造的な表現の重要性を強調し、外国のスタイルを無批判に模倣することに反対した。芸術のために芸術を制作するのではなく、生活の現実と現代社会のニーズを反映したものでなければならないと考えていた。

 

グループの展示会での活動は、当時の政府への挑発的なものとなり、1935年には禁止された

フレバイン・スクール



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Na%C3%AFve_art、2020年5月26日アクセス


【美術解説】アンリ・ルソー「素朴派の代表で元祖ヘタウマ芸術家」

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アンリ・ルソー / Henri Rousseau

素朴派の代表で元祖ヘタウマ芸術家


概要


生年月日 1844年5月21日
死没月日  1910年9月2日
国籍 フランス
表現媒体 絵画
表現スタイル 素朴派プリミティヴィズム後期印象派

アンリ・ルソー(1844年5月21日-1910年9月2日)はフランスの後期印象派画家。税関職員。独学の日曜画家であり、プリミティブ・アート、ナイーブ・アート(素朴派)の祖として位置づけられている。

 

普段は「ル・ドゥアニエ」(税関職員)として知られる。ルソーの作品は、パブロ・ピカソやカンディンスキーなどの前衛芸術家に影響を与えた。

 

絵画における「素朴派」とは、プロのうまい絵に対するアマチュアや素人のへたな、稚拙な絵であるが、同時にそのへたさ加減や、稚拙さが魅力になっているような絵である。日本では「ヘタウマ」ともいわれることがある(ただし、ルソーはうまい)。


素朴絵画が近代に始まるのは、市民が初めて余暇に恵まれ、趣味で描く画家、いわゆる日曜画家が急増したことと無関係ではない。その近代の素朴絵画の元祖かつ第一人者がアンリ・ルソーである。


単なる稚拙に終わらないルソーの型破りな芸術の真価をいち早く見抜いたその一人がピカソで、まだ無名だったルソーの作品をパリの骨董屋で二束三文で買っている。

 

抽象絵画の元祖カンディンスキーも、ルソーのように対象を「徹底的に単純に描くこと自体、その内面にあるものを響かせることである」として、彼を現代美術の先駆者の一人に数えている。

重要ポイント


  • 素朴派(ナイーブ・アート)の始祖
  • 日本の「ヘタウマ」のルーツ
  • ピカソやカンディンスキーや近代美術家に大きな影響

略歴


幼少期


アンリ・ルソーは1844年、フランスのラヴァルの配管工の家庭で生まれた。貧しい家庭だったためルソーは幼少時から働くことを与儀なくされていた。その後ルソーの父は借金を背負い、家を差し押さえられたため一家はラヴァルを去ることになる。

 

高校の成績は平凡だったが、美術や音楽は得意だった。高校卒業後、ルソーは弁護士になるため法律の勉強をするが、ささいな偽証がきっかけで軍隊に入る。兵役を終えて父親が死去すると1868年にパリへ移動。公務員として働き、未亡人となった母親の生活を支援。

 

1868年に、地主の15歳の娘、クレメンス・ボイタードと結婚。彼女との間に6人の子どもをもうけた(生き残ったのは1人)。1871年にルソーはパリの物品関税の取り立て人となり、パリに輸入されてくる商品の関税検査の職務に就く。ボイダードが1888年に死去し、1898年にジョセフィン・ヌリーと再婚する。

 

40代前半に絵画に目覚め絵を描きはじめる。49歳で退職すると、一日中絵を描くことに没頭しはじめた。

 

ルソーは絵は独学だと主張していたが、フェリックス・オーギュスト・クレマンとジャン=レオン・ジェロームといったアカデミック美術の画家から“いくらか助言”をもらっていることをあとで認めている。美術史の位置づけとして、基本的にはルソーは独学であり素朴派、もしくはプリミティヴィズムの画家とみなされている。

絵の源泉


ルソー作品の大半はジャングルが描かれているが、ルソーはフランスを離れてジャングルに行った経験は一度もない。

 

ルソー研究者の間では、軍役時代にメキシコのフランス遠征軍に参加してジャングルに入っている可能性があるとされている。

 

しかし、もっぱらルソーの絵の源泉は、児童本の中に描かれているイラストレーションやパリの植物園だと考えられている。ジャングル内に描かれている野生動物も同様に考えられる。美術批評家のアーセン・アレクサンドルによれば、ルソーはよくパリ植物園に通っていたという。

 

ほかに、メキシコへフランス遠征軍として渡ったさいに兵士と出会い、兵士から亜熱帯の国に関する話を聞いたのが絵のきっかけだとも考えられている。

また、ルソーはポートレイト絵画に新しい要素をもたらした。まず自分の好きな都市の風景を描き、その後、前景に好きな人物を描いているという。そのため背景の建物や人物に比べると、前景の人物があまりにも巨大化したおかしな絵になってしまっている。画業の当初は批評家たちの嘲笑の的となっていたものの、晩年には独創的な絵画として高評価へと一変した。

『私自身:肖像=風景』(1890年)
『私自身:肖像=風景』(1890年)

サロン・ド・アンデパンダンに参加


ルソーの平面的で稚拙な絵画は多くの批評家から見くびられた。しかし彼の極端な無邪気さや虚栄心や絵画に対する熱意は多くの鑑賞者をひきつけた。

 

1886年からルソーは定期的にサロン・ド・アンデパンダンに参加したが、彼の作品はあまり目立つように配置されることはなかった。1891年に展示された《熱帯雨林の中の虎》でルソーは初めて評価を上げる。1893年にルソーはモンパルナスにスタジオを移し、そこで1910年に死去するまで絵を描きつづけた。

 

1897年には代表作である《眠るジプシー女》を制作。1905年にルソーは巨大なジャングル風景画《飢えたライオン》をサロン・ド・アンデパンダンで展示。当時、アンリ・マティスのような前衛若手作家が参加しており、フォービスム作品が初めて展示されていた。ルソーの絵はフォービスムというネーミングに影響を与えていた可能性もある。

 

1907年にルソーは芸術家のロバート・ドローネーの母ベルトの会社「コンテス・ド・ドローネー」と契約を結び《蛇使い》を制作。

『熱帯雨林の中の虎』(1891年)
『熱帯雨林の中の虎』(1891年)
『眠るジプシー女』(1897年)
『眠るジプシー女』(1897年)
『飢えたライオン』(1905年)
『飢えたライオン』(1905年)

ピカソ主宰のルソー祭り


ピカソは路上販売されていたルソーの絵に出会い驚く。瞬時にルソーの才能を理解したピカソはルソーに会いに行く。1908年、ピカソはルソーを賛美するためのイベント『ルソー祭』を企画し、当時、ピカソのスタジオがあったアパート「洗濯船」で開催。ゲストにギヨーム・アポリネール、ジャン・メッツァンジェ、ファン・グリス、マックス・ジャコブ、マリー・ローサンサン、アンドレ・サルモン、モーリス・レイナル、ダニエル・ヘンリー・カーンワイラー、レオ・ステイン、ガートルード・ステインなどが招待された。こうして、ルソーの名前は美術業界の間に広まっていった。

ルソーのポートレイト絵画とピカソ
ルソーのポートレイト絵画とピカソ

晩年


1893年にルソーは退職した後、パートタイムの仕事とわずかな年金収入で生活を行いながら、路上で絵を販売していた。ほかにフランスの新聞『ル・プチ・ジャーナル』でイラストレーションの仕事をしたこともある。

 

ルソーは1910年3月に、サロン・ド・アンデパンダンで最後の作品《夢》を展示し、同月に放置していた脚の蜂窩織炎に苦しみ始める。8月にルソーはパリのネカー病院で脚の壊疽が原因で入院。1910年9月2日、手術後に死去。葬儀にはポール・シニャック、マヌエル・オルティス・デ・サラテ、ロバート・ドローネー、ソニア・ドローネー、ブランクシー、家主のアルマン・クエヴァル、ギヨーム・アポリネールら7人が出席し、ブランクシーは墓石の碑文が書かれた。

 

ルソーさん、聞こえていますか?

ドロネー、奥様、ムッシュー・ケヴァル、そして私です

私たちの荷物は天国の門を通って 免税で通過させてください

筆と絵の具とキャンバスを持ってきます

神聖な余暇を過ごせるように

絵画の光と真実。

かつてあなたが星とライオンとジプシーに面した私の肖像画を描いたように


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Henri_Rousseau、2020年5月26日


【美術解説】マッジ・ギル「迷宮の女主人」

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マッジ・ギル / Madge Gill

迷宮の女主人


《無題》,1950年代頃
《無題》,1950年代頃

概要


生年月日 1882年1月19日
死没月日 1961年1月28日
国籍 イギリス
ムーブメント アウトサイダー・アート
公式サイト http://madgegill.com/

マッジ・ギル(1882-1961)はイギリスのアウトサイダー・アーティスト。世界で最も有名なアウトサイダー・アーティストの1人で、多くのアウトサイダー・アーティストと同様に、1961年の死後も名声を得続けている。

 

ギルは38歳のときに突然デッサンに目覚め、その後40年間に何千もの霊媒主義的と言われる作品を制作したが、そのほとんどが白黒のインクで描かれた。彼女は「ミルニーネレスト」(私の内なる休息)と呼ばれる霊に導かれて描いていると主張し、作品にはこの霊の名前を入れている。

 

評論家によれば、スピリチュアル系の芸術家によくあることだが、自分の能力や意志で絵を描いているのではなく、霊界からの意思を伝えるための物理的な媒介物と自身を考えていたと思われる。

 

彼女の作品は、アウトサイダー・アートの展示と支援の中心的な場の一つであるスイスのローザンヌのアール・ブリュット美術館のパーマネント・コレクションの一部である。 

略歴


画家になるまで


1882年1月19日、エセックス州イーストハムで私生児として生まれる。出生証明書では母親の名前エマ・イーズをとってモーデル・エセル・イーズとなっている。父親の名前は不明。

 

ビクトリア王朝時代のイギリスはまだ保守的で、私生児を持つ家庭は恥ずべき存在とみなされていた。そのため、マッジは母方の祖父の厳しい監視下のもと、母親と叔母のキャリーらと世界から隔離した人里離れた場所で年の大半を過ごす。

 

まだ母親が生存中でもあるにも関わらず、恥ずかしさ耐えられなくなった祖父は、マッジを7歳のときにバーナルド孤児院に強制的に入れられる。5年間孤児院で過ごした後、孤児院が計画した大規模なイギリスのホームチャイルド計画にそって、数百人の子どもたちともに新世界のカナダに強制移住させられた。10代のマッジはオンタリオ州の農場で奴隷のベビーシッターになった。当時はマッジのような若い移民奴隷は虐待されることが一般的だったという。

 

18歳のとき、無事大西洋をわたってロンドンに戻ると、マッジは叔母のケイトと暮らしはじめ、またホイップス・クロス・ユニバーシティ病院で看護婦として職を見つける。叔母からスピリチュアルや占星術を教わるようになる。

 

1907年に25歳で、叔母のケイトの息子で従兄弟にあたる投資家のトーマス・エドウィン・ギルと結婚。しかし結婚生活はおもわしくなく、二人の関係はよくなかった。6年間で二人は三人の子ども(ローリー、レジェ、ボブ)に恵まれるが、二人目の子レジェはスペイン風邪で1918年に死去。翌年にマッジは奇形の女の子を死産する。またマッジ自身も危篤状態に陥いり、突然目が見えなくなり、数ヶ月寝たきり生活を送り、義眼を付けるようになる。

作家活動


1920年、病気の間、ギル(現当時38歳)は突然デッサンに熱中し、その後40年間に何千もの霊媒主義的と言われる作品を制作したが、そのほとんどが白黒のインクで描かれていました。

 

作品はハガキサイズのものから巨大な一枚の布まで、あらゆるサイズのものがあり、長さが30フィート(9.1メートル)を超えるものもあった。彼女は「ミルニーネレスト」(私の内なる休息)と呼ばれる霊に導かれていると主張し、作品にはしばしばこの名前でサインを入れていた。

 

アメリカの学者ダニエル・ウォジックによれば、「他のスピリチュアリストのように、ギルは自分の芸術は自分の能力で描かれたものではなく、霊界を表現するための物理的な媒介物と考えていた」という。また、彼女は編み物、執筆、編み物、かぎ針編みの仕事を含む様々なメディアで実験を行っていた。

 

一晩で何十枚ものドローイングを完成させることができるほどの多作だった。彼女の絵には緻密なドレスを着た若い女性の姿は何千回も登場するが、自分自身や失われた娘の姿を表していると思われがちだが、一般的には女性を題材にした作品が多い。

 

彼女のドローイングは、幾何学的な市松模様と有機的な装飾が特徴で、女性の顔の無表情な目と流れるような服が、周囲の複雑な模様に織り込まれる。

 

1972年にアウトサイダー・アートという言葉を生み出したロジャー・カーディナルは、最新の伝記『マッジ・ギルの生涯』の中でこう書いている。

 

「ギルの熱狂的な即興演奏は、ほとんど幻覚を見ているような質を持っていて、それぞれの面が市松模様で埋め尽くされ、目まぐるしく、準建築的な空間を暗示している。これらの渦巻く増殖の上に浮かんでいるのは、明らかに美への関心があるにもかかわらず、淡々とスケッチされた無名の女性たちの青白い顔であり、驚きの表情を浮かべている」

 

1922年、トーマス・ギルが妻の精神的健康を心配してエセックス盲人協会に連絡したことをきっかけに、ギルはヘレン・ボイル博士の患者となった。ボイル博士は、進歩的で親切な女性の治療で知られるホーブのレディー・チチェスター病院の治療のためにギルを入院させ、ギルの芸術作品の制作を奨励したと考えられている。

 

1939年、彼女はホワイトチャペル・ギャラリーで作品を展示した。幅40メートルにも及ぶ彼女の作品の中では最大級のもので、ギャラリーの壁一面を覆うような大きさであった。彼女は1947年までホワイトチャペル・ギャラリーで毎年作品を発表し続けた。

晩年


彼女は自分の作品を展示することはほとんどなく、霊の「ミルニーネレスト」の怒りを恐れて作品を売ることもなかった。

 

1958年に長男のボブが亡くなった後、彼女は酒を飲み始め、絵を描くことをやめた。1961年の死後、彼女の自宅から何千枚ものドローイングが発見されたが、そのコレクションはロンドンのニューアム市が所有し、同市のヘリテージ・アンド・アーカイヴ・サービスの管理下にある。 

 

これまでに、ロサンゼルス郡美術館(1992年)、マナーパーク美術館(1999年)、ホワイトチャペルギャラリー(2006年)、スロバキア国立ギャラリー(2007年)、ハレ・サンピエール美術館(アール・ブリュット&アール・シングリエ美術館)、パリ(2008年、2014年)、クンストハレ・シールン(2010年)、アール・ブリュットコレクション(2005年、2007年)、ローザンヌ(2005年)などで作品を発表している。

その他


2013年には、ファンであるデヴィッド・チベットは、彼自身がアウトサイダー・アーティストであることから、彼女の作品のみに特化した古書風の本を出版しました[12]。

 

2018年3月8日、1882年に生まれ1890年まで住んでいたWalthamstow, 71 High Streetにギルを記念するブルー・プラークが建立された。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Madge_Gill、2020年5月27日アクセス


【美術解説】ロウブロウ・アート/ポップ・シュルレアリスム

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ロウブロウ・アート/ポップ・シュルレアリスム

サブカルチャー・アート


概要


ロウブロウアートとは


ロウブロウ(Lowbrow)、もしくはロウブロウ・アート(Lowbrow art)とは、1970年代後半にカリフォルニア州のロサンゼルス周辺で起こった地下視覚美術運動を指す言葉である。

 

アンダーグラウンド・コミックス(comix)パンク・ミュージック、ホット・ロッドのストリートカルチャーにそのルーツを持つ大衆文化運動で、ファイン・アート側からは、しばしばポップ・シュルレアリスムという名称で呼ばれることもある。

 

ロウブロウ・アートの定義は、地域や場所によって違いが生じるものの、基本的には「ロウブロウ(無教養)」という言葉が示しているように、アカデミックな美術教育を受けていない美術家、またはファイン・アートの形式から外れた美術作品のことをさす。

 

ロウブロウ・アートでよく見られるモチーフやスタイルは、油彩(またはアクリル)イラストレーション、ユーモア、いたずらっぽさ、アイロニー、風刺性、エロティシズム、グロテスクなどである。一般的な表現形式は絵画であるが、ほかに、グラフィティ(壁画)、玩具、人形、デジタルアート、彫刻、雑貨などメディアは多種多様となっている。

 

ロウブロウ・アートの初期のアーティストは、ロバート・ウィリアムスやゲイリー・パンターといったアンダーグラウンドの漫画家たちである。初期の展示は、ニューヨークやロサンゼルスにあるオルタナティブ・ギャラリーによって行われた。ロウブロウ・ムーブメントは、始まりと同時に着実に広がっていき、何百というアーティストがこのスタイルを採用した。

 

有名な画廊は、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにある ジャスバー・カストロが開設したサイケデリック・ソリューション・ギャラリー。またハリウッドにあるビリー・シャインが開設したラ・ルス・デ・ジーザス、同じくハリウッドでジョン・ポクナが開設した01ギャラリーである。ジュリー・リコ・ギャラリーとベス・カトラー・ギャラリーの2つの画廊は、特に重要なロウブロウ・アートの個展を開き続け、「ロウブロウ」として定義された美術分野の拡大に貢献した。

 

1994年には、ロバート・ウィリアムス編集のロウブロウ・アート情報雑誌『Juxtapoz』が創刊、その雑誌がロウブロウ・アートの情報や価値観を共有する中心地となり、またムーブメントの成長に貢献した。なおこの頃からロウブロウ・アートはポップ・シュルレアリスムとも呼ばれるようになってきた

JUXTAPOZ / MAGAZINE 2010年5月号 #112
JUXTAPOZ / MAGAZINE 2010年5月号 #112

ロウブロウ・アートの起源


『Juxtapoz』の2006年2月号の記事によると、「ロウブロウ」という言葉はロバート・ウィリアムスの絵画に対して名付けられたのが始まりだという。

 

ウィリアムスによると、1979年に「Rip-Off Press」社のギルバート・シェラトンがウィリアムスの作品集を制作し出版する。そのときに自分自身の短所を自覚するかたちで『The Lowbrow Art of Robt.Wiliams,』というタイトルを本に付けた。

 

それまでは、美術関係者は誰もウィリアムスの「アート」だと見なしていなかったため、「ロウブロウ」は「ハイブロウ」に対抗するかたちでウィリアムスによって使用された。

 

アート・ジャーナリストたちによれば、「ロウブロウ・アート」の定義は、地域や場所によって違いがあると指摘している。たとえば、アメリカ西海岸におけるロウブロウ・スタイルは、ほかのどこの地域よりもアンダーグラウンドコミックやホット・ロッドカルチャーから多大な影響を受けていることが明確であるが、ロウブロウ・アートが世界中に広まると、その地域に元々ある視覚美術(日本であればオタク文化)を融合させて、地方独自のロウブロウスタイルを確立させているという。

 

ロウブロウ・アートは世界中に発展するにしたがって、地方独自のスタイルや全く新しい芸術運動へと分岐していく可能性があるかもしれない。

 

ロウブロウ・アートそのものは1970年代から始まるものであるが、それに近いムーブメント(ファイン・アートに対抗した形の芸術)を探すと、19世紀の「アーツ・アンド・クラフツ運動」にその要素が見られる。これは、イラストレーターやポスター画家、すなわち応用芸術の職人たちにより美術的価値の向上をはかる運動である。「生活と芸術の一体化」をモットーにしていた。この運動を起点として、アール・ヌーヴォー、ウィーン分離派、ユーゲント・シュティールなどが栄えた

ポップ・シュルレアリスム


ロウブロウはまたにポップ・シュルレアリスムと呼ばれることもある。ポップ・シュルレアリスムという言葉は、アルドリヒ現代美術館(The Aldrich Contemporary Art Museum)が、1998年にそのタイトルで展覧会をおこなったときに初めて現れた言葉である。

 

その展覧会では、グレゴリー・クルードソン、森万里子、アシュリー・ビカートン、アート、アート・スピーゲルマン、トニー・オースラー、シンディ・シャーマンといったおもにファイン・アートで活躍しているアーティストが参加したものだった。1999年に発刊されたリチャード・クレイン著の同タイトルの本『Pop Surrealism』に展示の詳細が記述されている。

 

アートフォーラムのレビューによると「シュルレアリスム的な内的な性表現とグロテスクと没個性的なポップアートが結婚した奇妙な展示だ」という。またニューヨーク・タイムズでは「はじめシュルレアリスムとポップカルチャーは水と油のように思った。シュルレアリスムは無意識下の夢であり、一方でポップカルチャーは表層的な表現である。しかし最近は「ハイ」と「ロウ」が実際には関連していることを証明するための展示会が行われ始めたようだ」と報告している。

 

また、クリスチャン・アンダーソンは、2冊目の『Pop Surrealism』という本を編集し、ロウブロウとポップ・シュルレアリスムは内容的にはかわりないが、全く別のムーブメントであると論じた。

 

しかしながら、ポップシュルレアリストの画集『Weirdo Deluxe』の著者であるマット・デュークス・ジョーダンは、ロウブロウとポップ・シュルレアリスムは、互いに同じで置き換え可能な言葉であるとみなしている。

 

現在、マーク・ライデンが「ポップ・シュルレアリムの父」という名称をアメリカで与えられているが、マーク・ライデンの経歴をざっくり書くと、美術学校でアカデミックな教育を受けたあと、商業絵画・イラストレーターとして活躍。その後、画家としてもデビューを果たして今日に至っている。マーク・ライデンの推薦人はロウブロウ・アートの起源であるロバート・ウィリアムスである。

 

筆者の感覚でいえば、ロウブロウアートはエログロナンセンス的なカラーが強く非常に男性的なイメージだったが、近年のポップシュルレアリスムは、どちらかといえば女性的で耽美なイメージが強い。実際に、ロウブロウ時代よりも女性作家の活躍が目立っている。

 

2000年代から2020年の現在において、特に人気の高い女性作家は、1980年前後生まれ世代のオードリー川崎カミラ・D・エリコエイミー・ソル「ヤング・ポップシュルレアリスト」世代と言われている。

Richard Klein「Pop Surrealism」1999/3 発行
Richard Klein「Pop Surrealism」1999/3 発行
Kirsten Anderson編「Pop Surrealism: The Rise Of Underground Art 」2004/10発行
Kirsten Anderson編「Pop Surrealism: The Rise Of Underground Art 」2004/10発行
Matt Dukes Jordan「Weirdo Deluxe: The Wild World of Pop Surrealism & Lowbrow Art」 2005/3/3発行
Matt Dukes Jordan「Weirdo Deluxe: The Wild World of Pop Surrealism & Lowbrow Art」 2005/3/3発行

日本とロウブロウ・ポップシュルレアリスム


言葉の起源


ロウブロウ・アートという言葉自体には、アメリカで発祥した1970年代にそのまま日本でも現代美術の1つの流れとして何度か紹介されている。しかし、特に日本独自のロウブロウ・アートシーンは生まれなかった

 

その後、2014年に東京・銀座にあるヴァニラ画廊で開催された人形作家の清水真理の個展『ポップ・シュルレアリスム宣言』で、「ポップ・シュルレアリスム」という言葉が使用されていることが確認できる。

 

清水によれば、2013年にイタリア旅行した際、たまたまクリスチャン・アンダーソンの『Pop Surrealism』に出会い影響を受け、その後、自分の属性を表明する意図として、2014年のヴァニラ画廊の個展で同語を引用。

 

90年前にナチス影響下のドイツで作られたハンス・ベルメールの作品と現代日本の球体関節人形をいつまでも同じ地平で語ることに疑問を感じ、区別する意図もあったという。

 

また「アートフェア東京2014」のギャラリー戸村ブースで「Pop Surrealism」というタイトルで、それに相当する日本人作家で何人か紹介されている。1人は上野陽介で、上野は山口県出身の日本人作家であるが、おもにアメリカのロウブロウ・ムーブメントの本流で活動してきた作家である。

 

世界で活躍する日本人芸術家


現地ロサンゼルスで最も人気の高い日本人のポップシュルレアリストは高松和樹である。高松はこれまで日本を中心に活動してきた作家であるが、2013年よりアメリカやイタリアなど海外で積極的に活動を始めており、ポップ・シュルレアリスムの雑誌『Juxtapoz』などでも定期的に取り上げられたことできっかけで人気が爆発した。

 

2015年には、2008年より国分寺の自宅ガレージを改装して運営していた「mograg garage」が、ロウブロウ・アート専門のギャラリー「mograg gallery」を開廊。ロウブロウ・アートを扱う画廊はこれまでもたくさんあったが、ロウブロウ・アートを強く前に押し出したギャラリーは日本で初めてである。

 

アジアでロウブロウ・アーティスを積極的に紹介するギャラリーでは、台湾の「マンガシック」がある。マンガシックは、元々はマンガ喫茶だが、2015年にスペースを拡張してギャラリーを併設。台湾、日本、香港などアジアのロウブロウ・アーティストを積極的に紹介している

 

 

高松以外にロウブロウ・ムーブメントの流れている活躍している日本人作家としては、ドルバッキー・ヨウコ、水野純子、ナオト・ハットリ、下田ひかりなどがいる。水野は日本でマンガ家として活躍したのち、アメリカへ移動してにロウブロウ系のギャラリーで作品を展示している。

 

ハットリは横浜生まれで東京でグラフィックデザインを勉強したあと、ニューヨークの美術学校へ入学してイラストレーションを専攻し、BFA(美術学士)を取得。その後アメリカを中心に活動している日本人作家である。下田ひかりは高松と同じく現地のキュレーターやメディアに取り上げられ、徐々に人気が高まっていった。

高松和樹
高松和樹

ヘタウマ


 日本には明確なロウブロウ・シーンではないが近いグループはある。70年代に広告業界から発祥した「ヘタウマ」系である。ヘタウマとは、技巧の稚拙さがかえって個性や味となっている芸術。

 

 

ヘタウマは美術業界ではなく、漫画家、イラストレーター、グラフィックデザイナーらが中心に活躍する広告業界から広まっている。代表的なヘタウマ作家としては、湯村輝彦、蛭子能収根本敬、みうらじゅんなど、おもにガロ系作家である。ヨーロッパのナイーブ・アートともよく似ている。

 

2014年にはフランスで、自費制作書店タコシェとLe Dernier Criによるヘタウマに関する2つの展覧会『HETA-UMA』『MANGARO』が開催され、湯村輝彦をはじめ、今日までの作家約50人+フランス内外の作家を加えて100人規模の作家が紹介された。

「HETA-UMA」「MANGARO」公式サイト 

ヘタウマ界のグル、特殊漫画大統領こと根本敬。
ヘタウマ界のグル、特殊漫画大統領こと根本敬。

幻想耽美系


「ヘタウマ」以外には、「幻想耽美」系というものがある。近代美術とイラストレーションとエロティシズムが融合した具象形式で日本のファイン・アートの流れの1つとなっている。代表作家には山本タカト丸尾末広である。

 

また、ほかの世界のロウブロウ・シーンと異なるのは、幻想耽美系では球体関節人形の作家の人気が高いことである。ハンス・ベルメールの影響を受けて球体関節人形をつくりはじめた四谷シモンを始祖とし、その後、天野可淡、恋月姫、清水真理などの球体関節人形系の作家があてはまる。 

幻想耽美
幻想耽美

ロウブロウ・アートVSファイン・アート


美術館、美術批評家、有名ギャラリーなどはファイン・アートにおけるロウブロウの位置付けについてはっきりした態度を示しておらず、今日、ロウブロウに対しては基本的に扱わない姿勢のように見える。しかしながら、彼らの作品を購入するコレクターもいる。

 

批判的である理由の1つは、多くのロウブロウ・アーティストは、イラストレーション、タトゥー、マンガといった、一般的に、ファインアートと見なさない分野から活動を始めているためである。多くのロウブロウアーティストは独学で、美術館のキュレーターや美術学校のアカデミックな世界とは程遠いものであるという。

 

しかしながら、初期はロウブロウのギャラリーで展示を始めたアーティストの多くは、後に有名ファインアートギャラリーで個展をするようになっている。たとえば、ジョー・コールマン、マーク・ライデン、ロバート・ウィリアムス、クレイトン兄弟などの例である。マーク・ライデンは日本では、ファイン・アートのギャラリーである小山登美夫ギャラリーで個展をしている。

 

ロウブロウのような美術に対するアプローチの起源は、20世紀初頭の芸術運動をたどり、特に、ダダイストの活動やトマス・ハートベントンのようなアメリカ土着芸術運動とよく似ており、そのようなアートムーブメントは「ハイ」と「ロウ」、「ファイン」と「フォーク」、「ポップカルチャー」と「ハイカルチャー」を区別すべきかが議論になった。1960年代から70年代初頭のポップアートとよく似ているといわれることもある。

 

そしてまた、「ロウ」と「ハイ」の境界線をあえて超えて戦略的に活動するアーティストは、ファイン・アーティストでも増えている。リサ・ユスカベージ、ケニー・シャーフ, 村上隆, グレッグ・コルソン、Inka Essenhigh、 ジム・ショー、,ジョン・カリン、マイク・ケリー, Nicola Verlato, マーク・ブライアンなどである。

ロウブロウアートとファインアートと融和


2016年はカリフォルニアのロウブロウアートと日本のファインアートの巨匠が積極的にコラボレーションをした年だった。

 

まず、5月に少女のポートレイト画家として世界的に人気の現代美術家奈良美智が、米国バージニア現代美術館(MOCA)で開催されたロウブロウ・アート雑誌『Hi-Fructose』の回顧展「Turn the Page: The First Ten Years of Hi-Fructose」に参加。

 

この展覧会は、ここ10年間で『Hi-Fructose』の雑誌・ウェブマガジンに掲載されたアーティストのグループ展で。奈良美智の作品が、本家カリフォルニアのロウブロウアートの人気作家、マーク・ライデン、オードリー・川崎、カミュ・ローズ・ガルシア、レイ・シーザー、ティム・ビスカップ、トッド・ショア、ヴィム・デルボア、マリオン・ペック、ジェフ・ソトなどに混じって展示されていることは興味深い。なおこの展示には、ほかに日本人作家として高松和樹が同企画に参加している。

また、2016年8月4日から8月7日までシアトルのセンチュリーリンク・フィールドで開催されたシアトルアートフェアの第二版「Pivot Art + Culture」で、村上隆とロウブロウアート誌『Juxtapoz』が共同で特別展示企画『Juxtapoz ✕ Superflat』を開催。

 

村上隆とJuxtapozが、今最も注目の視覚芸術の芸術たちを、アンダーグラウンドからアートワールドの中心まで幅広く紹介するというもの。

 

村上が以前に企画した「スーパーフラット」や「リトルボーイ」は、1つの空間にファイン・アートとサブカルチャーなど本来ジャンルの異なる表現を意図的にごちゃまぜにするスーパーフラット理論の拡大に貢献した展示だったが、本展示はそれらの延長のような展示。

 

村上のセレクトは、Urs FischerやFriedrick Kunathのような現代アートシーンの中心を担う作家から、中国の現代アート界の新星・He Xiang Yu、Maurizio Cattelanが主宰する「TOILET PAPER」誌からの作品、さらに、Mark RydenやDavid Shrigley、グラフィティ・アーティスト、花道家・上野雄次や日本の陶芸作家まで、まさに「スーパーフラット」なラインアップ。

 

これに加えて、村上が「自分と同じような感性を感じる」と語る、「Juxtapoz」誌の編集長で共同キュレーターを務めるEvan Priccoも、刺激的で幅広いアーティストを抜擢。グラフィティ界のレジェンドTodd James、Juxtapoz創立者でもあるRobert Williamsら大御所から、Ipadや3Dプリンタを駆使するAustin Leeら若手アーティストまで、「Juxtapoz」ならではのキュレーション。

 

同時期に開催されるシアトル・アートフェアとも「コインの裏表」の関係を成すような、期間限定のスペシャルな展覧会となった。

 

Juxtapoz編集長のエヴァン・プリコは「Juxtapozはアンダーグラウンドとして始まった雑誌だが、最近、誌面において現代美術の読者人気が高まっており、今では現代美術、デザイン、ファッション業界における最新表現に出会う重要メディアとなりつつある。そして、雑誌の理念は、「Juxtapoz(並列)」という誌名の通り、“ハイ”と“ロウ”の文化のフラットにすることだ。」と話している。


代表的なアーティスト


  • オードリー・カワサキ
  • マーク・ライデン
  • ロバート・ウィリアムス
  • カミュローズ・ガルシア
  • トッド・ショア
  • エリザベス・マクグレイス
  • ミス・ヴァン
  • ソニャ・フー
  • アナ・バガヤン
  • SHAG (Josh Agle)
  • Anthony Ausgang
  • Tim Biskup
  • Niagara
  • Yiste
  • Raymond Pettibon
  • CHCMGRN
  • Jeff Soto
  • Gary Taxali
  • Gary Panter
  • Joe Coleman
  • Coop
  • David "Squid" Cohen
  • Von Dutch
  • Pedri Autero
  • Michael Hussar
  • Luis Viera
  • Felipe Bedoya (Doya)
  • Victor Castillo
  • Nate Williams
  • Heri Dono
  • Joe Sorren
  • Joe Coleman
  • Ron English
  • Roby Dwi Antono

よく使われるモチーフ


  • リーフレット
  • アシッドハウス
  • パンフレット
  • アニメーション
  • アニメ(ジャパニメーション)
  • サーカス
  • マンガ
  • エロティシズム
  • ポップカルチャー
  • グラフィティアート
  • 浮世絵(日本画)
  • 中国画
  • キッチュ
  • カスタム・カルチャー
  • シュルレアリスム
  • メールアート
  • プロパガンダ
  • パンクロック
  • イラストレーション
  • 宗教絵画
  • SF
  • サーフィー
  • タトゥー
  • おもちゃ
  • テーブルゲーム

ギャラリー


メディア


  • Juxtapoz
  • Hi-Fructose
  • Beautiful/Decay
  • beautiful.bizarre

【作品解説】ルネ・マグリット「大家族」

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大家族 / The Large Family

鳥と空の選択的親和性


ルネ・マグリット《大家族》(1963年)
ルネ・マグリット《大家族》(1963年)

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1963年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 61.4 cm × 49.6cm
コレクション 宇都宮美術館

《大家族》は1963年に制作されたルネ・マグリットによる油彩作品。マグリット晩年の作品。日本の宇都宮美術館が所蔵している。オープン準備中の1996年に600万ドル(約6億円)で購入したという。サイズは61.4 cm X 49.6 cm。

 

周囲のどんよりとした環境とは対照的に、中央には大きな平和の象徴である白い鳥とその中に広がる夏の空が描かれ、鳥はカットアウトしたような表現で描かれている。

 

尾の形などからカササギとみなされており、この鳥は、家族単位内の愛と団結象徴するものである。カササギはブリュッセル郊外では日常的に見られる中型の鳥で、マグリットにとっては親近感のある鳥だった。

 

マグリット作品において鳥は、《幸福のきざし》をはじめいくつかの作品において、基本的にポジティブなモチーフとして使われている。

選択的類似性


ここでは鳥が、空を大きく切り抜いた形で表現されている。マグリットによれば、大空と鳥には選択的親和性》があるという。

 

選択的親和性とは「似ている」という意味ではなく「連想させる」という意味で、サルバドール・ダリの偏執狂的批判的方法(ダブル・イメージ)に近いものだと思われる。

 

マグリットは大空を見ると鳥を連想し、また鳥を見ると大空を連想しがちだったという。そのため快晴の青空ではなく、一目で空だと分かるように雲の浮かんだ空を採用している。

大家族というタイトル


一見すると、作品内に「家族」や「人間」のような絵の要素が見当たらないため「家族」というタイトルが適当であるか疑問に感じられる。

 

しかし、マグリットは《イメージの裏切り》のように、「言葉」と「言葉が指し示す内容」の相違で、鑑賞者を困惑させるのが得意としているので(そのため哲学的な画家といわれる)、マグリット作品ではタイトルについて深く考える必要はないだろう。

 

《大家族》は、曇りがかった寂しげな空と嵐を予兆する波際の風景で、どこか危機感を呼び起こす。地平線上にうっすら輝くピンクの光は「終焉」や「希望」を意味するのかもしれない。そうするとタイトルの「家族」とは、しばしばともに耐える必要がある試練や苦難を象徴するものであると解釈もできる。

 

また、翼を広げた包容力のありそうな大きな鳥の姿と、意外に違和感なくマッチしているようにも思える。

ルネ・マグリットに戻る

 

■参考文献

The Large Family, 1963 by Rene Magritte 

・マグリット展2002 Bunkamuraミュージアム図録

 


【作品解説】ルネ・マグリット「ピレネーの城」

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ピレネーの城 / The Castle of the Pyrenees

浮遊する山と頂上にある城の正体は?


ルネ・マグリット「ピレネーの城」(1959年)
ルネ・マグリット「ピレネーの城」(1959年)

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1959年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 34.5 cm x 53.5 cm
コレクション イスラエル美術館

《ピレネーの城》は、1959年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。イスラエル美術館所蔵。頂上に城がある巨大な山が海上を浮遊している。

 

画面の半分以上が浮遊する山で占めており、自然と視点は山の方へ向かう。その際、画面の中心、つまり山の中心ではなく、城が設置されている画面上部へ中心から上方へ見上げるように視線移動するよう画面が構成されている。この視線移動によって山が浮遊しているということが分かる。

 

なお、画面下部は波打ちぎわが分かるものの、陸が見えないよう描かれている。絵全体で陸が分かるものは浮遊する山のみである。線上にはうっすらと大気のようなものが描かれており《大家族》の背景の海とよく似ている。

山へは空想によって入ることができる


マグリットは作品についてこのようなコメントをしている。

 

「巨大な岩の浮遊は、普通に考えると重力に逆らうありえない事象である。ここで考えることがあります。山は空中にあり土台はない。本来は山は地球の一部であるが、この絵では山は地球と分離されている。どのようにして頂上の城に入ることができるのだろうか? 山へ入る入口もない。海からも陸からも登ることができない。空や想像力によってのみ入ることができる

ピレネーの城とは


ピレネーは南西ヨーロッパにある山脈の名前でフランスとスペインを隔てる自然の境界線である。

 

その語源はギリシャ神話によれば、ピュレネはナルボンヌ地方の王べブリクスの娘の名前となっている。王の宮廷でヘラクレスに犯されたピュレネは、次の日、みごもり蛇を産みあした。驚いてピュレネは山へ逃れるが野獣に殺されてしまう。ヘラクレスは彼女の死骸を発見して、埋葬し、山にピレネーという名前を付けたという。

 

おそらくピレネーの城は、ピレネーの墓、もしくは彼女が隠れた山のことかもしれない。


【作品解説】ルネ・マグリット「人の子」

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人の子 / The Son of Man

緑のリンゴで隠された男


《人の子》1964年
《人の子》1964年

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1964年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 116 cm × 89 cm
コレクション プライベートコレクション

《人の子》は、1964年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。マグリットはこの作品をセルフ・ポートレイトとして位置づけている。

 

海と曇り空を背景にして、低い壁の前にオーバーコートと山高帽を身につけた男が立っている絵である。男の顔の大部分は緑のリンゴで隠されている。しかしながら、男の目は緑のリンゴの端からチラッとのぞくように目が出ている。この絵のなかでもうひとつ不思議な箇所は左腕の関節が後ろに曲がっているように見えるところである。

 

マグリットはこの絵についてこのようなコメントを残している。

 

「少なくとも、それが顔であることは分かっているものの、リンゴが顔全体を覆っているため、部分的にしかわかりません。私たちが見ているものは、一方で他の事を隠してしまいます。私たちはいつも私達が見ることで隠れてしまうものを見たいと思っている。人は隠されたものや私たちが見ることができない事象に関心を持ちます。この隠されたものへの関心はかなり激しい感情の形態として、見えるものと見えないものの間の葛藤となって立ち合われるかもしれない。」

類似作品


《人の子》とよく似たマグリットのほかの作品に《世界大戦》がある。両方とも共通して海が見える壁の前に立っているが「世界大戦」のほうは女性で、手に傘を持ち、顔はすみれで隠されている。

 

ほかに似た作品では《山高帽の男》があり、こちらは人の子と同じ山高帽の男性でだが、顔はリンゴではなく鳥で隠されている。

《世界大戦》
《世界大戦》
《山高帽の男》
《山高帽の男》

ポップカルチャーと「人の子」


・アレハンドロ・ホドロフスキーの『ホーリー・マウンテン』で、富豪の1人の家の中に「人の子」が飾られている。

 

・アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の第一話で《人の子》から影響を受けた演出が見られる。

 

・映画『トーマス・クラウン・アフェアー』でルネ・マグリットの絵が現れ、また全体的にマグリットの影響が濃く見られる。

 

・ノーマン・ロックウェルの作品『ミスター・アップル』というマグリットから引用した作品がある。

『魔法少女まどか☆マギカ』第一話の魔女との戦闘シーン。
『魔法少女まどか☆マギカ』第一話の魔女との戦闘シーン。
映画『トーマス・クラウン・アフェアー』
映画『トーマス・クラウン・アフェアー』
『ホーリー・マウンテン』富豪芸術家の家(左下)。
『ホーリー・マウンテン』富豪芸術家の家(左下)。
ノーマン・ロックウェル『ミスター・アップル』
ノーマン・ロックウェル『ミスター・アップル』



【作品解説】ルネ・マグリット「自由の扉で」

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自由の扉で / On the Threshold of Liberty

さまざまなモチーフのパネルと一台の大砲


ルネ・マグリット「自由の扉で」(1929年)
ルネ・マグリット「自由の扉で」(1929年)

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1929年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 238.8 cm × 185.4 cm 
コレクション ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館

《自由の扉で》は、1929年と1937年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。異なる主題やパターンが描かれたパネルが壁にはめられた部屋の絵。

 

各パネルには、空、炎、木目、森、建物、装飾パターン、女性の胴体、鈴などが描かれており、これらはマグリットが作品中で頻繁に用いるモチーフである。そして部屋の中には一台の大砲が置かれている。

 

オリジナルの作品は、1929年に完成し、現在はロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館に所蔵されている。セカンドバージョンが1937年に制作された本作であり、コレクターでマグリットのパトロンだったエドワード・ジェームズが購入して、現在はシカゴ美術館に所蔵されている。

「自由の扉で」(1946年)
「自由の扉で」(1946年)

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/On_the_Threshold_of_Liberty、2020年5月27日アクセス


【美術解説】コンセプチュアル・アート「概念芸術」

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コンセプチュアル・アート / Conceptual art

概念芸術


ジョセフ・コスース「一つと三つの椅子」(1965年)
ジョセフ・コスース「一つと三つの椅子」(1965年)

概要


コンセプチュアル・アートとは


コンセプチュアル・アートは、1960年代後半から70年代にかけて現れた前衛美術ムーブメントである。

 

ミニマルアートをさらに推し進めて、もはや絵画や彫刻という形態をとらなくても、構想や考えだけでも芸術とみなすというものである。概念芸術ともいわれる。そのルーツは、マルセル・デュシャンのレディメイド作品「泉」までさかのぼることができる。

 

ただ、コンセプチュアル・アートは、完全に手仕事、画家が自ら絵を描くことがなくなるため前衛美術とはいえない。コンセプチュアル・アートから「現代美術」「ポストモダン・アート」とみなしてよいだろう。

観念の芸術


「こんなものはアートではない!」と多くの日本人を激高させるのが得意な美術が、「コンセプチャルアート」である。

ここに便器があるとする。私たちはふつう、便器を見たときに「排泄するための道具」であると認識する。これが「観念」である。


意識作用の向かう直接の対象は物質ではなくて、もともと自分の心の中にもっている「観念」であるという。そして、観念は外界の事物を代理的に「表象」する。外的対象は観念によって表象されるという。
 
美術館に便器が展示されているとする。プレートには「泉」、作者はマルセル・デュシャンと書かれている。このとき私の知覚は「便器」という表象から「オブジェ」という表象に変化する。これは私たちが「アート」という観念をもって、便器を見ているからである。もし便器が便所に置かれていたら私たちは「アート」と認識しないだろう。「排泄するための道具」であると認識する。


デュシャンはいう。

 

「私が興味の的になったのは表題のおかげです。中身の意味はありません。「処女」「花嫁」「裸体」などのタイトルを使っていれば興味をひくだけです。特に裸体に向かい合っていれば、スキャンダラスなものに見えたのです。裸体は尊重されなければいけませんからね!(デュシャンは語る)」


つまりデュシャンは、何も描かれていなかったり、モザイクだけが描かれた絵画でも、タイトルに「裸体」など、人が興味をひく言葉を入れることで必死に鑑賞するだろうということ。それは、目の芸術ではなく脳の芸術なのである。

マルセル・デュシャン「観念の芸術」
マルセル・デュシャン「観念の芸術」

ジョゼフ・コスース


コンセプチュアル・アートの起源はマルセル・デュシャンだが、「コンセプチュアル・アート」という言葉が現れたのは1960年代になってからで、1967年にソル・ルウィットが使ったとされる。

 

コンセプチャル・アートの代表作家は、ジョゼフ・コスースである。彼の代表作品『1つと3つの椅子』は、実物の折りたたみの椅子と、その椅子の原寸大の写真、そして辞書から引いた「椅子」の説明文からなりたっている。

 

 実物の椅子は、知覚の対象としての知覚の対象としての「折り畳み椅子」(物体)と、個人の心理的象徴による「折り畳み椅子」(表象された観念)の2つに よって「椅子という記号」を形成している。

 

一方、写真と辞書のそれは、それぞれ物体の代用物と表象された観念の代用物であって「椅子のメタ記号」といえる。

 

そこでは椅子の形の美しさが示されるのではなく、実物の椅子とその写真、椅子を定義する言語的な記述と3つの構成要素の間の関係 を無意識のうちに読み取られる。

 

表現したいこと、その表現単体(=物質的側面)やそのものよりも、表現に至るまでの手段、過程(観念的側面)に着目したアートである。


■参考資料

Conceptual art - Wikipedia 


【美術解説】トーマス・ルフ「コンセプチャル・フォトグラフィー」

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トーマス・ルフ / Thomas Ruff

コンセプチャル・フォトグラフィー


概要


生年月日 1958年2月10日
国籍 ドイツ
表現媒体 写真
ムーブメント 芸術写真コンセプチュアル・アート

トーマス・ルフ(1958年2月10日生まれ)はデュッセルドルフ在住のドイツの写真家。「編集されたイメージと新たに想像するイメージの巨匠」と呼ばれる。

 

ローレンツ・ベルジュ、アンドレアス・グルスキーらと、元発電所だったスタジオをシェアして、活動している。

 

ルフは一般的に写真表現をコンセプチュアルアートへと発展させたことで評価されている。パスポート写真のようなありふれた人物写真を拡大したり、何気ないインテリアや都市の風景写真を拡大することで、どこか不可思議でシュルレアリスティックな作品に見えてくるというもの。

略歴


若齢期と教育


トーマス・ルフは1958年にドイツ・シュヴァルツヴァルト、チェル・アム・ハーマスバッハで生まれた。ほかに5人の兄妹がいる。

 

1974年夏にルフは初めてカメラに関心を持ち始める。撮影の基本を学ぶ写真学校夜間クラスに通い、アマチュア写真雑誌で見られるような撮影を模倣しながら腕を伸ばした。模倣で腕を伸ばす方法はアカデミーに入ってからも続いた。

 

デュッセルドルフ芸術アカデミーに入ると、ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻のもとで5年間学ぶ。この頃からヨーゼフ・ボイスマルセル・デュシャンらのコンセプチュアルな作品に大きく影響を受け、ルフ自身が写真表現をコンセプチュアル・アートへと発展させていく。ほかにステファン・ショア、ジョエル・マイヤーウィッツ、新しいアメリカの写真作家にも影響を受けたという。

 

はじめは、風景を中心に写真撮り始めたが、その後1950年代から70年代のドイツ一般家庭のインテリアの写真に移行し、続いてデュッセルドルフのアートやミュージックシーンの友人たちのポートレイトや建物の撮影する。

 

1977年から1985年までデュッセルドルフ芸術アカデミーでベルントとヒラ・ベヒャーから写真を学び、アンドレアス・グルスキー、カンディダ・ホーファー、トーマス・ストルース、アンジェリカ・ヴェングラー、ペトラ・ヴンダーリッヒなどの写真家に師事。

 

1982年には、パリの国際芸術大学で6ヶ月間を過ごす。1993年にはローマのヴィラ・マッシモに奨学生として滞在。 

作品


影響を受けたものについてルフは「私の師匠であるベルント&ヒラ・ベッヒャーは、スティーブン・ショア、ジョエル・マイヤーウィッツ、そして新しいアメリカの写真家の写真を見せてくれた」と述べている。

ポートレイト


1981年から1985年の間、ルフは同じ手法で60もの半身像ポートレイト写真を撮影。頭部の少し上に写真の上端が来る9cm✕12cmのパスポート写真のようなブレのないイメージで、撮影されている人物はおおよそ25歳から35歳ぐらい。

 

初期作品はモノトーン調で小さかったが、のちにカラーに切り替え、人物背景は単色カラーだった。1986年から、大サイズの写真作品に切り替わり、最終的には210✕165cmの写真作品となった。

 

1987年までにルフは、これらの作品をいくつかの方法で洗練させ、ほぼ正面からの全景で撮影する方法に落ち着き、完成した作品は記念碑写真を比率にまで拡大した。美術評論家のチャールズ・ヘーゲン氏はニューヨーク・タイムズ紙にこう書いている。「壁の大きさに膨らませた写真は、東欧の独裁者の巨大な旗のように見えた」

 

1986年から1991年にかけて撮影されたポートレイトは、色の影響が強すぎると感じたため、ルフは背景を明るく中性的なものにした。

 

フィリップ・ポコックとの対談では、ルフのポートレイトと1970年代の「ドイツの秋」テロ事件でのドイツの警察の観察方法との関連について言及している。実際、ラフは1992年に合成顔の実験をしていたときに、1970年代にドイツの警察が合成肖像画を作成するために使用していた「ミノルタモンタージュユニット」という画像生成装置に出会ったという。

 

鏡の組み合わせによって、4人のポートレイトが機械に送り込まれ、1枚の合成写真が作られるもので、ルフは顔の復元写真から始めたが、その後、現実には存在しないが、いるるかもしれない男性と女性の特徴を組み合わせた人工的な顔を構築することの方が面白いことに気付きはじめたという。

 

ルフは、約8×10インチのカラーポートレートのグループをまとめて吊るすことを意図しているの、バラエティをつけるため一人一人を色の違う背景で撮影している。

 

「ハウザー」シリーズ


「ハウザー」シリーズは1987年から1991年にかけて制作された。ルフの建築物ポートレイトも同様にシリーズ化されており、デジタル編集により障害となるディテールを取り除き、イメージに模範的な特徴を与えている。

 

これらのうち、ルフは「この種の建物は、過去30年間の西ドイツ共和国のイデオロギーと経済を多かれ少なかれ表している」と指摘している。

 

建築家のヘルツォーク&ド・ムーロンはすぐにこの建築写真の形式に気づき、ルフを1991年のヴェネチア・ビエンナーレの建築のエントリーにリコラのための建物写真で参加するように招待した。

 

1999年、ルフはミース・ファン・デル・ローエのモダニズム建築をデジタルで改変した写真シリーズを制作した。建築家のイニシャルであるl.m.v.d.r.シリーズは、1999年から2000年にかけて、ドイツのクレフェルトにあるランゲハウスとエステルハウスの改修に関連してルフに依頼されたものである。

 

1980年代半ばから建築を題材にした仕事をしてきたルフは、クレフェルドの建物やバルセロナのパビリオン、ブルノのヴィラ・トゥゲンドハットの撮影に参加した。

星・夜・新聞の写真


これらの最初のシリーズに続いて1989年には、ルフの写真ではなく、彼がチリのアンデスにあるヨーロッパ南天天文台のアーカイブ画像(「南天のカタログ」、600枚のネガを含む)を元にした夜空の画像、スターンが登場した。

 

これらの星の写真は、特別に設計された望遠鏡レンズで撮影されたもので、一日の正確な時間と正確な地理的位置が記載され、カタログ化されている。これらの写真から、ラフは、彼が均一な壮大なスケールに拡大した特定の詳細を選んだ。

 

第一次湾岸戦争中の1992年から1995年にかけて、ルフは、湾岸戦争中に軍用と放送テレビ用に開発された暗視赤外線技術を用いて、建物の外観や建物の夜景を撮影した「ナハト」シリーズ(1992年から1996年)を制作した。

 

1994年から1996年にかけては、ステレオスコピーの映像が続き、1990年代には、新聞の切り抜きを元の字幕なしで拡大したツァイトゥングスフォトス(Zeitungsfotos)というシリーズもあった。

ヌード


2003年、ルフはフランスの作家ミシェル・ユエルベックのテキスト付きの写真集『ヌード』を出版した。ここに掲載されているルフのイメージは、カメラや伝統的な写真装置を使わずにデジタル処理され、隠蔽されたインターネット・ポルノグラフィをベースにしている。

 

2009年、アパーチャ財団は、インターネットで撮影した画像をJPEG形式で圧縮し、ピクセル単位で拡大した彼の記念碑的なシリーズに特化した大規模な書籍『JPEGs』を出版しました。

 

日本のマンガやアニメの画像を元にした「サブストラット」シリーズ(2002年~2003年)は、ウェブ上でデジタル的に改変された絵の探求を続けている。

 

しかし、彼の作品は、元の素材の視覚的な記憶を持たないまま、形や色の抽象化された作品となるよう素材を改変したり操作したりしている。

 

2011年2月7日、ニューヨーク・マガジンの表紙に彼のヌード写真が掲載された。

ジュークレス、カッシーニ、ma.r.s.


シリーズ「ザイクルス」と「カッシーニ」は、科学的な情報源に基づいて描かれています。ザイクルスは、ラフが19世紀の電磁気学の本で見つけた銅版画との出会いに触発された数学的な曲線の3Dレンダリングをベースにしている。

 

ルフは、3Dコンピュータモデリングプログラムを介してこれらの画像を翻訳したが、彼の通常の平坦化の代わりに、2Dにボリュームを与えている。

 

その結果、キャンバスに色のついた線や渦巻きの大きなインクジェットプリントができあがった。カッシーニの作品は、NASAが撮影した土星の写真を基にしている。ルフは、生の白黒プリントを飽和色の挿入で変換した。

 

ma.r.s.シリーズでは、同じくNASAのウェブサイトから入手した写真を基盤にしている。火星の生の白黒の断片的な表現を、彩度の高い色を挿入して変換した。彼はまた、遠近法をデジタル的に変更している。

近年


 最近のルフは、マン・レイやモホリ=ナジ・ラースローら20世紀初頭のカメラを用いずに紙の上に直接物を置いて感光させるフォトグラム(レイヨグラフ)を発展させた作品を制作している。一見すると透明度や照度の異なるランダムな形状が、螺旋や抽象的な形状や線で表現されるものである。

 

従来のフォログラムがモノクロームだったのに対し、ルフのフォトグラムはコンピューター上で仮想的な「暗室」空間を使って、物体の配置と彩色をデジタル操作できるのが大きな違いである。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Ruff、2020年5月28にアクセス


【作品解説】アント二・ガウディ「サグラダ・ファミリア」

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サグラダ・ファミリア / Sagrada Família

世界最大のスペインの教会建築


2017年8月のサグラダ・ファミリア
2017年8月のサグラダ・ファミリア

概要


設計 アントニ・ガウディ
着工 1882年3月19日〜
場所 スペイン、バルセロナ
様式 ゴシック・モダニズム
公式サイト https://sagradafamilia.org/

サグラダ・ファミリアはスペインのカタルーニャ・バルセロナにある巨大なローマ・カトリック教会。正式名称はサグラダファミリアのバシリカ(The Basílica de la Sagrada Família)。スペインの建築家のアントニ・ガウディが設計、現在も建設中であるが、既にユネスコ世界遺産に登録されている。

 

また2010年11月には、ベネディクト16世 (当時のローマ教皇)が礼拝に訪れて、正式にローマ・カトリック教会として認定するミサを行い、着工から128年目にして大聖堂(カテドラル)とは異なる上位の教会「バシリカ」となる。

 

サグラダ・ファミリアの着工は1882年に始まっている。1882年3月19日、建築家フランシスコ・デ・パウラ・デル・ビジャールの指揮下でサグラダ・ファミリアの建設が始まった。しかし、1883年にビジャールが辞任するとガウディが主任建築士に任命され、建設計画を独自の方向へ変更した。

 

就任後、ガウディはゴシック様式と曲線的なアール・ヌーヴォー様式を組みわせたゴシック・モダニズム様式路線に変更。直線、直角、水平がほとんどない外観が特徴である。

 

ガウディは1923年、76歳の最晩年まで精力的にこの建設企画に関わったが、彼が生きている間に完成することはできなかった。なお、ガウディの亡骸はサグラダ・ファミリアに埋葬されている。1926年に彼が亡くなった時には、プロジェクトの4分の1以下が完成していた。

 

サグラダ・ファミリアの建設は、個人の寄付金のみに頼っていたが、スペイン内戦の影響で工事が遅れ、中断された。1936年7月、革命家たちが地下室に火を放ち、作業場に侵入したため、ガウディのオリジナルの図面や図面、石膏模型が一部破壊され、16年の歳月をかけてオリジナルの設計図の断片をつなぎ合わせる作業が行われた。

 

建設は1950年代に断続的に再開された。その後、コンピュータ支援設計やコンピュータ数値制御(CNC)などの技術の進歩により、より速い進歩が可能となり、2010年には半分が完成した。

 

プロジェクトの最大の課題は、新約聖書の重要な聖書の人物を象徴する10本の尖塔を建設することだという。1980年代には、完成までに300年くらいはかかると言われていたが、IT技術などの進展により、現在ではガウディ没後の2026年の完成が見込まれている。

 

美術批評家のライナー・ツェルプストは、「全地球の美術史においてこのような教会建築は前代未聞である」と批評しており、またアメリカの建築批評家のポール・ゴールドバーガーは「中世以来のゴシック様式において最も異常で個人的なカラーの強い建築物」と批評している。

 

サグラダ・ファミリアはバルセロナの住民の間で長い間意見が分かれてきた歴史がある。当初はバルセロナの大聖堂と競合する可能性があったこと、ガウディのデザインそのものをめぐって、ガウディ死後の作業がガウディのデザインを無視したものである可能性があったこと。

 

2007年には直下にフランスとつなぐスペインの高速鉄道を建設するという提案があり、安定性が損なわれる可能性があった。着工時の建築許可が更新されず失効していたことから、130年以上にわたって違法建築状態が続いていた。

歴史


背景


サグラダ・ファミリアの建設は、「聖ヨセフ信者の霊的な協会」の創設者である本屋のジョセップ・マリア・ボカベラの構想がルーツとなっている。

 

1872年にバチカンを訪問したボカベラは、ロレートにあるサントゥアリオ・デッラ・サンタ・カーザに影響を受けて、イタリアに戻ると教会の建設を企画する。教会の地下礼拝堂が、1882年3月19日の聖ヨセフ祭の日に、建築家フランシスコ・デ・パウラ・デル・ビジャールの設計で寄付金により建設された。当初は標準的なゴシック・リヴァイヴァル建築になる予定だった。

 

地下礼拝堂は1883年3月18日にビジャールが辞任する前に完成していたが、アントニ・ガウディがデザインの責任を担当するようになると、当初の設計を根本的に変更した。ガウディは1883年に教会の工事を開始したが、1884年まで建築家の総監督には任命されなかった。

建設


建設期間が非常に長くなることについて、ガウディは次のように語ったと言われている。「クライアントは急いでいない」。1926年にガウディが亡くなったとき、教会は15〜25%の完成度だった。

 

ガウディの死後は、1936年のスペイン内戦で中断されるまで、ドメネク・スグラネス・イ・グラスの指揮の下で工事が続けられた。

 

未完成のバシリカとガウディの模型と工房の一部は、内戦中にカタルーニャのアナーキストによって破壊された。現在のデザインは、火災で焼失した図面を復元したものと、現代的にアレンジしたものをベースにしている。

 

1940年以降は、建築家のフランチェスク・キンタナ、イシドレ・プイグ・ボアダ、ルイス・ボネット・イ・ガリ、フランチェスク・カルドナーが事業を引き継いできた。

 

イルミネーションはカルレス・ブイガスがデザインした。現在のディレクターであり、リュイス・ボネットの息子でもあるジョルディ・ボネで、1980年代から設計や建築のプロセスにコンピュータを導入している。ニュージーランドのマーク・バリーがエグゼクティブ・アーキテクト兼研究員を務めている。

 

ジャウマ・ブスケッツや外尾悦郎による彫刻や物議を醸したジュセップ・マリア・スビラクスらが幻想的なファサードを装飾している。2012年にはバルセロナ出身のジョルディ・フォーリが建築監督に就任した。

 

2000年には中央の身廊のヴォールトが完成し、それ以降の主な作業は、トランセプトのヴォールトとアプスの建設だった。2006年の時点では、イエス・キリストの主尖塔と中央身廊の南側の囲い(グローリーファサードとなる)の横断面と支持構造に集中して工事が行われていた。

 

サグラダ・ファミリアは、1909年にガウディが建設作業員の子供たちのために設計したサグラダ・ファミリア・スクールと建物と敷地を共有していたが、2002年に敷地の東側の角から南側の角に移設され、現在は展示室となっている。

サグラダ・ファミリア完成モデル
サグラダ・ファミリア完成モデル
サグラダ・ファミリアの新しい石工は、汚れて風化した古い部分と対照的なのがはっきりとわかる。
サグラダ・ファミリアの新しい石工は、汚れて風化した古い部分と対照的なのがはっきりとわかる。
1905年
1905年
1915年
1915年
1930年
1930年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Sagrada_Fam%C3%ADlia、5月29日アクセス


【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を一覧!モナリザ、最後の晩餐など作品完全解剖

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レオナルド・ダ・ヴィンチの作品一覧

ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの主要作品について解説します。レオナルドの概要や略歴を知りたい方はこちらへ。


《モナ・リザ》
《モナ・リザ》

《モナ・リザ》、または別名《ラ・ジャコンダ》はレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された上半身が描かれた半身肖像画。盛期イタリア・ルネサンスの傑作の1つと評価されている。「世界で最も有名で、多くの人に鑑賞され、書かれ、歌にされ、パロディ化された」芸術作品と言われている。(続きを読む



《最後の晩餐》
《最後の晩餐》

《最後の晩餐》は、15世紀後半にイタリアの画家レオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された壁画作品。ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描かれており、西洋世界で最も有名な絵画の1つと認識されている。(続きを読む



《サルバトール・ムンディ》
《サルバトール・ムンディ》

《サルバトール・ムンディ(救世主)》は1490年から1519年ごろにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。世界の救世主としてのイエス・キリストの肖像が描かれたもので「男性版モナリザ」と呼ばれることがある。ほかに「ラスト・ダ・ヴィンチ」と呼ばれることもある。(続きを読む



《洗礼者ヨハネ》
《洗礼者ヨハネ》

《洗礼者ヨハネ》は1513年から1516年ころにかけてレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。完成作品の中では彼の最後の作品で、実質的な遺作とみなされている。また、レオナルドのスフマート技法が最高潮に達した頃の作品である。サイズは69 cm × 57 cm。パリのルーブル美術館が所蔵している。(続きを読む



《受胎告知》
《受胎告知》

《受胎告知》は1472年から1475年ころにレオナルド・ダ・ヴィンチが制作した油彩作品。レオナルドの実質的なデビュー作品として知られている。また、彼の油彩作品の中では最大のサイズのひとつである。(続きを読む



《キリストの洗礼》
《キリストの洗礼》

《キリストの洗礼》はレオナルド・ダ・ヴィンチによる油彩作品。ウフィツィ美術館が所蔵している。イタリアのルネッサンス期に画家アンドレア・デル・ヴェロッキオのアトリエで1472年から1475年頃に制作した絵画で、一般的にはヴェロッキオとの共同作品とみなされている。(続きを読む



《カーネションの聖母》
《カーネションの聖母》

《カーネションの聖母》は1478年から1480年ころにかけてレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。《受胎告知》のすぐ後、ほぼ同時期に描かれた作品で、そのためか、2枚の絵のマリアはよく似ている。人物の表情や不安定な構図には、まだ稚拙が残る。(続きを読む



《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》
《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》

《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》は、1474年から1478年ころにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。リヒテンシュタイン公爵から当時の美術品最高価格となる500万ドルで購入。南北アメリカにおける公共の場で鑑賞可能な唯一のレオナルドの油彩作品である。(続きを読む



《ブロアの聖母》
《ブロアの聖母》

《ブロアの聖母》は、1478年にレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された作品。アンドレア・デル・ヴェロッキオのもとで徒弟修業を積んでいたレオナルドが、画家として独り立ちして最初に描いた作品の可能性がある。(続きを読む



《東方三博士の礼拝》
《東方三博士の礼拝》

《東方三博士の礼拝》は1481年にレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。フィレンツェのスコペートにあるサン・ドナト・ア・スコペト修道院のアウグスティニア修道士から依頼を受けたものだが、翌年にミラノに旅立つことになったため未完成の状態で終わった。(続きを読む



《荒野の聖ヒエロニムス》
《荒野の聖ヒエロニムス》

《東方三博士の礼拝》は1481年にレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。フィレンツェのスコペートにあるサン・ドナト・ア・スコペト修道院のアウグスティニア修道士から依頼を受けたものだが、翌年にミラノに旅立つことになったため未完成の状態で終わった。(続きを読む



《リッタの聖母》
《リッタの聖母》

《リッタの聖母》は1490年にレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作されたテンペラ画。《カーネーションの聖母》のように、2つのアーチ型の開口部がある暗い屋内に人物が描かれており、部屋の向こうには上空からの山の風景が描かれている。(続きを読む



《岩窟の聖母》
《岩窟の聖母》

《岩窟の聖母》はレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された作品。同じタイトルの作品が2点存在しているが、一部の重要な点を除いて構図は同じである。(続きを読む



《白貂を抱く貴婦人》
《白貂を抱く貴婦人》

《白貂を抱く貴婦人》は1489年から1490年ころにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。描かれている人物は、当時レオナルドが奉仕していたミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの愛妾チェチリア・ガッレラーニで、ルドヴィーコの要請で描かれた。(続きを読む



《ミラノ貴婦人の肖像》
《ミラノ貴婦人の肖像》

《ミラノの貴婦人の肖像》は1490年から1496年ころにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。62 cm × 44 cm。パリ、ルーブル美術館が所蔵している。《見知らぬ女性の肖像》という絵画名でも知られている。(続きを読む



《聖アンナと聖母子》
《聖アンナと聖母子》

《聖アンナと聖母子》は1502年から16年にかけてレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。10年以上かけて制作されたもので、丁寧なスフマート技法が使われている。聖アンナの右足やマリアの顔は未完成になっている。(続きを読む


《女性の頭部》
《女性の頭部》

《女性の頭部》は1508年にレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。《ほつれ髪の女性》と呼ばれることもある。木製パネルに高度なルネサンス様式で描かれた未完成の作品である。(続きを読む



【美術解説】サルバドール・ダリとエヴァンゲリオン

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サルバドール・ダリとエヴァンゲリオン

まるでそっくり!エヴァとダリの世界観



人気アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」には、ダリの絵画を基にしたと思われるカットが多数現れます。

 

たとえば、ダリの「十字架の聖ヨハネのキリスト」は上空からイエス・キリストの「磔刑」を見下ろすという当時としては画期的な構図の絵ですが、エヴァンゲリオンにおいても初号機がはりつけられ上空から見下ろす構図が現れます。

 

さまざまなダリとエヴァの類似性をまとめた動画「サルバドール・エヴァ」がありますのでぜひ参考にしてみてくだい。個人的には、偶然の類似ではなく、明らかにダリの世界観を参考にしていると思っています。


【美術解説】クリスト「環境アートの代表的芸術家」

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クリスト / Christo

環境アートの代表的芸術家


『雨傘 1991』(日本)
『雨傘 1991』(日本)

概要


ジャンヌ・クロードとクリスト(2009年)
ジャンヌ・クロードとクリスト(2009年)
生年月日 1935年6月13日
死没月日 2020年5月31日(クリスト)、2009年11月18日(ジャンヌ=クロード)
国籍

・クリスト/ブルガリア生まれ、ニューヨークで死去

・ジャンヌ/モロッコ生まれ、ニューヨークで死去

ムーブメント ヌーヴォー・リアリズム、環境アート
公式サイト http://christojeanneclaude.net/

クリスト・ウラジミロフ・ジャヴァチェフ(1935年-2020)年はブルガリア生まれの芸術家。一般的に「クリスト」の名前で知られ、妻のジャンヌ=クロードと共同で環境芸術を制作している。二人は同じ生年月日である。美術史の文脈ではヌーボー・リアリズムや環境アートとして評価されている。

 

都市のランドマークとなるものや風景を布で包んだ作品がクリストの特徴である。ベルリンの国会議事堂、パリのポンヌフ橋、カリフォルニアの全長39キロのアートワーク『ランニング・フェンス』、ニューヨークのセントラルパークの『ゲート』などの作品が知られている。

 

ブルガリアとモロッコで生まれた二人は、1958年にパリで出会い恋に落ち、共同制作をはじめる。当初は二人で「クリスト」と名乗り制作していたが、屋外でのインスタレーション作品から「クリストとジャンヌ=クロード」と分けるようになった。

 

二人の作品は視覚的なインパクト大きく、その規模の大きさから物議を醸していた。しかし、二人は自分たちのプロジェクトには視覚的なインパクト以上の深い意味が含まれていると繰り返し主張してきた。

 

二人は単に喜びや美しさだけでなく、見慣れた風景に対して新しい見方を提示していると主張している。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Christo_and_Jeanne-Claude、2020年6月1日アクセス



【作品解説】サルバドール・ダリ「茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)」

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茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)

Soft Construction with Boiled Beans(Premonition of Civil War)

スペイン内乱を的中させた予言的作品


サルバドール・ダリ《茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)》,1936年
サルバドール・ダリ《茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)》,1936年

概要


作者 サルバドール・ダリ
制作年 1936年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 100 cm × 99 cm
コレクション フィラデルフィア美術館

《茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)》は、1936年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。100 cm×99 cm。元々はアメリカ人コレクターのウォルター・アレンズバーグ夫妻のコレクションだったが、現在はフィラデルフィア美術館が所蔵している。

 

1936年から始まるスペイン内乱の不安を察知してダリが描いた作品である。この絵画を描いてから6ヶ月後に実際に内乱が勃発した。そうしてダリは「潜在意識には予言力がある」と気付いたという。ダリは次に説明する予言を証明するために、戦後にタイトル「内乱の予感」に変更した。

 

1936年制作とされているが、最近の研究では1934年制作という説もある。

スペイン内戦を予言


 ダリによれば、迫りつつあるスペインの内戦の不安を表現したもので、実際にこの作品が描かれたあとにスペイン内乱が勃発。ダリの不安事に対する予言力が発揮された作品で、ダリは理性で考えた未来よりも、潜在意識・無意識におけるイメージの予言力の高さを認識したという。

 

ほかに予言力を発揮したダリの有名作品では、《新人類の誕生を見つめる地政学の子供》があり、これは第二次世界大戦中の1943年、当時、アメリカに亡命していたときに描いた絵で、第二次世界大戦後のアメリカ繁栄の時代を見事に的中させた。

《新人類の誕生を見つめる地政学の子ども》 1943年
《新人類の誕生を見つめる地政学の子ども》 1943年

今にも分裂しそうな身体と内乱のダブルイメージ


 手と足だけの奇妙な怪物が、首と足と乳房だけの怪物のような生物と取っ組み合いをしている不思議な作品。一見すると2体のように見える、実際は1つの身体であり、これは自己分裂・矛盾を起こし始めているという内面を表現している。

 

怪物の手足や指先が茹でたインゲン豆に見えることから、この題名が付けられており、今にも弾けだそうとするインゲン豆と、今にも起こりそうなスペインの内乱をダブルイメージ表現している。なぜインゲン豆なのかというと、内戦状態にあり貧困に苦しむスペイン人がよく食べていたのがインゲン豆を茹でたスープだったという。

 

また、美しいカタルーニャの空を伝統的な技法で描くと同時に革命的な前衛表現を作品に取り込み、前衛と伝統が対照的となっている。

迫りくる不安を分析する


怪物は木や茶色の箱の上に立っている。背景の空は曇りがかっており、いくらかは暗い部分があり、それも迫りくる不安を表現している。

 

わかりづらいが、画面左下の背後にいるひげ面の人物は、科学雑誌に掲載されていた「心臓マッサージ器の実地指導をしている医師」のイラストからの引用である。また、内戦へと向かいつつあるスペインの内面を診断するダリ自身やジグムント・フロイトを象徴しているともいわれる。

スペイン内戦勃発後のダリ周辺


スペイン市民戦争が発生する2年前の1934年、ダリとガラはゼネストやカタルーニャ分離独立派の武装蜂起の影響を受け、カタルーニャに閉じ込められていた。そのときにスペインの内乱を予感したという。その後、2人はパリへ逃亡し、そこで結婚する。

 

ダリとガラをパリへ誘導してくれた護衛は、2人をパリへ誘導したあとスペインに戻り、スペイン市民戦争で戦死した。

 

内戦後、ダリがスペインに戻るとポルトリガトにあった家は戦争で破壊され、また妹のアナ・マリアは共産主義兵士たちに投獄され拷問を受け、学校以来のダリの友人である詩人のフェデリコ・ガルシーア・ロルカは、ファシストによって銃殺されたことに大変なショックをうけたという。


【美術解説】ジャン=ミシェル・バスキア「アメリカで最も重要な新表現主義の画家」

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ジャン=ミシェル・バスキア / Jean-Michel Basquiat

アメリカで最も重要な新表現主義の画家


※1:《無題》1982年。前澤友作所蔵作品。
※1:《無題》1982年。前澤友作所蔵作品。

概要


生年月日 1960年12月22日
死没月日 1988年8月12日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画、グラフィティ、音楽
ムーブメント グラフィティストリート・アート新表現主義
関連人物 アンディ・ウォーホル前澤友作
公式サイト http://basquiat.com/
関連サイト WikiArt(作品)
※2:バスキアの肖像写真
※2:バスキアの肖像写真

ジャン・ミシェル・バスキア(1960年12月22日-1988年8月12日)は、20世紀における最も重要なアメリカ人アーティストの1人。ハイチとプエルトリコ系にルーツを持つ両親の間に生まれる。

 

1970年代後半に、ニューヨーク、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドのヒップ・ホップ、ポスト・パンク、非合法なストリート・アートなどが一緒になったアンダーグラウンド・シーンで、謎めいたエピグラム(詩)の落描きをするグラフィティ・デュオ「SAMO」の1人として悪評を成した。

 

1980年代にバスキアの新表現主義の作品は、国際的に認知されるようになり、さまざまなギャラリーや美術館で展示されるようになった。1992年にはホイットニー美術館で回顧展も開催されている。

 

バスキアの芸術観は「金持ち」と「貧乏」「分離」と「統合」「外側」と「内側」など、二分法に焦点を当てて制作する「挑発的二分法(suggestive dichotomies)と呼ばれるものである。

 

バスキアは、歴史的な事件や現代社会問題を主題として、詩、ドローイング、絵画などテキストとイメージを織り交ぜながら、抽象的あるいは具象的に描く。

 

また、「個々に対する深い真実を出発点」として、作品内にそれらの要素を社会批評を通して表現する。詩は非常に政治的であり、遠まわしに植民地主義を批判し、また階級闘争を積極的に支援していることもある。

 

1988年、27歳のときにスタジオでヘロインのオーバードーズが原因で死去。

 

バスキアはよく高価なアルマーニスーツ姿で絵を描き、公衆の前でもアルマーニスーツ姿で現れる事が多かったという。

 

2017年5月18日のサザビーズのオークションで、実業家の前澤友作がドクロを力強く描いたバスキアの1982年作《無題》を1億1050万ドル(約123億円)で落札。バスキア作品として、またオークションでのアメリカ人アーティストとして最高落札額を更新した。

 

ほかに、バスキア作品を所有している著名人としては、デビッド・ボウイ(ミュージシャン)、マドンナ(ミュージシャン)、レオナルド・ディカプリオ(俳優)、ジョニー・デップ(俳優)、ラーズ・ウルリッヒ(ミュージシャン)、スティーヴン・コーエン(投資家)、ローレンス・グラフ(宝石商)、ジョン・マッケンロー(プロテニス選手)、デボラ・ハリー(ミュージシャン)、ジェイ・Z(ラッパー)などがいる。

重要ポイント

  • 新表現主義の代表的画家
  • 挑発的二分法という独自の芸術観を持つ
  • 前澤友作が作品を1億1050万ドルで落札している

作品解説


《無題(頭蓋骨)》


《無題(頭蓋骨)》1981年
《無題(頭蓋骨)》1981年

頭蓋骨に焦点を当てた作品は、バスキアの代表作品の中でよく見られる特徴である。

 

ザ・ブロード美術館が所蔵する1981年の《無題(頭蓋骨)》や、前澤友作が所蔵する1982年の《無題(頭蓋骨)》の2枚が代表的な作品であるが、これは、バスキアが7歳のときに母親から渡され影響を受けた『グレイの解剖学』のイメージを基盤に描いている

 

《無題(頭蓋骨)》は、バスキアが20歳ころに描いた初期キャンバス作品の一例として評価が高い。

 

ニューヨークの初個展で展示された1981年版は、当初タイトルがなく《無題》とされていたが、現在は一般的に《頭蓋骨》と呼ばれている。

 

バスキア作品の多くは数日で作られていたが、《頭蓋骨》の制作には数ヶ月と長期間を要している。この制作していたころのバスキアは初個展前であり、商業的成功のプレッシャーがあったためだという。

 

『グレイの解剖学』のほかに、ブードゥー教から影響を受けて制作していると見られている。頭蓋骨はブードゥー教のシンボルであり、またハイチ人であったバスキアの父が信仰していた宗教だった。

《無題(黒人の歴史)》


※13:《無題(黒人の歴史)》1983年
※13:《無題(黒人の歴史)》1983年

アンドレア・フローネによれば、バスキアの1983年の絵画《無題(黒人の歴史)》は、エジプト人をアフリカ人として再評価し、かつ古代エジプト文明の概念を西洋文明の発祥地であることを示唆しているという。バスキアは絵画の真ん中に、エジプトの神オシリスの導きでナイル川を船でくだるエジプト人の姿を描いている。

 

絵画の右側のパネルには、「 Esclave、Slave、Esclave(奴隷)」という言葉が伏字のようにして描かれている。また、「Nile」という言葉が消されているとフローネは指摘しており、「その言葉は、たぶんエジプト人が黒人で、黒人が奴隷だったことを都合よく忘れようとする歴史学者の行動を、走り書きや伏字のようにして表現している」と批評している。

 

絵画の左側のパネルには2人のヌビア人の顔が描かれている。ヌビア人は歴史的に肌が黒く、エジプト人の奴隷として扱われていたという。

 

そのほかの部分は、大西洋の奴隷貿易のイメージと何世紀も前のエジプトの奴隷貿易のイメージを並列して描いている。中央パネルに描かれいてる鎌は、アメリカの奴隷貿易やプランテーション制度における奴隷労働に対して直接的に言及したものと見なされている。

 

左側のパネルに描かれた「salt(塩)」という言葉は、当時、大西洋の貿易で奴隷とともに取引されていたもう1つの重要な商品だった塩を指している。

《黒人警察官のアイロニー》


※14:《黒人警察官のアイロニー》1981年
※14:《黒人警察官のアイロニー》1981年

《黒人警察官のアイロニー》(1981年)は、アフリカ系アメリカ人が白人社会によって支配されているというバスキアの考えを表現したものである。

 

バスキアはジム・クロウ法(有色人種法)の時代が終わったあと、「制度化された白人社会や腐敗した白人政権」の建設に共謀したアフリカ系アメリカン人の姿を描写しようと考えているうちに、「黒人の警官」という皮肉なコンセプトを発見したという。

 

バスキアによれば、警察官は彼の黒人の友人、家族、先祖たちに同情すべきだが、まだ警察官は白人社会によって設計された制度に従っていうろいつ。バスキアは黒人の警察官に対して「黒い肌だが白い仮面を被っている」と話している。

 

作品内でバスキアは黒人警察官を「過大な総合力」を示唆するため大きく描いているが、一方で警察官の身体は細分化され、壊れたように描かれている。

 

黒人警察官の頭部を覆う山高帽は、当時のアフリカ系アメリカ人の白人社会における窮屈で独立した感覚や、白人社会内でにおける黒人警察官自身の窮屈な感覚を象徴している。

 

また、山高帽燕尾服を着た男の姿はハイチのブードゥー教において、死神「ゲーデ」を表し、バスキアのルーツであるハイチの伝統文化を引用している。

略歴


幼少期


ジャン=ミシェル・バスキアは、1960年12月22日にニューヨークで生まれた。兄のマックスが亡くなった直後に生まれたという。

 

バスキアは、母マチルダ・アンドラーデス(1934年7月28日ー2008年11月17日)と父ジェラルド・バスキア(1930年ー2013年7月7日)の間に生まれた4人兄弟の次男だった。バスキアの下には、ジーイーン(1964年生まれ)とリセイン(1967年生まれ)という二人の妹がいる。

 

父ジェラルド・バスキアはハイチのポルトープランスで生まれた。母マチルダ・バスキアはニューヨークのブルックリンでプエルトリコにルーツを持つ家庭に生まれた。

 

母マチルダは大の芸術好きだったので、バスキアは幼いころにによく彼女に美術館へ連れられ、また、ブルックリン美術館のジュニア会員にもされたという。

 

バスキアは4歳までに読み書きを覚える早熟な子どもであり、芸術家としての才能が見られた。バスキアの教師だったホセ・マチャドは、彼に芸術的才能を見い出し、母マチルダもバスキアに芸術的才能を伸ばすよう励ました。

 

1967年にバスキアは、芸術専門の私立校として名高いニューヨークの聖アンズ学校に入学する。この時代に友人マーク・プロッツォと出会い、二人で児童用の本を制作している。プロッツォがイラストを描き、バスキアは文章を書いている。

 

バスキアはスペイン語、フランス語、英語の本を読む多読家であり、11歳までにバスキアは、フランス語、スペイン語、英語を流暢に話すようになっている。また有能なアスリート選手でもあり、陸上競技のトラック競技に出場して活躍した。

 

1968年9月、バスキアは7歳のとき、道路で遊んでいるときに交通事故にあう。腕を骨折し、内臓も破裂する大怪我で、脾臓除去手術を受けることになった。

 

療養中の間、母マチルダはヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』をバスキアに手渡す。これがきっかけで、バスキアは解剖学に関心を持つようになる。母が手渡した『グレイの解剖学』は、バスキアの将来の芸術観に大きな影響を与えた。

※3:バスキアに影響を与えたヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』
※3:バスキアに影響を与えたヘンリー・グレイの『グレイの解剖学』

同年、バスキアの両親が別居。バスキアと2人の妹は父親に預けられ、家族はブルックリンのボアラム・ヒルで5年間過ごしたあと、1974年にプエルトリコのサンフランへ移る。2年後、バスキアの家族は再びニューヨークへ戻った。

 

13歳のとき、バスキアの母は精神病院に入院し、その後、施設内外で彼女は過ごすことになる。

 

15歳のときにバスキアは家出をする。おもにニューヨーク、マンハッタンにあるトンプキンス・スクエアのベンチで寝て、日々を過ごしていたが、警察に逮捕されて父親の保護監察下となった。

 

バスキアは17歳のとき、エドワード・R・ムロー高等学校10学年時に退学する。その後、退学した美学生の多くが通うマンハッタンにあるシティ・アズ高校へ転入する。

 

父親は退学したバスキアを家から追い出したため、バスキアは友人のもとに居候する。当時、バスキアはTシャツやポストカードを手作りして販売して、生計を支えていたという。

グラフィティ・ユニット「SAMO」


バスキアはホームレスで失業状態からほんの数年間で、1枚の絵を最高額で25,000ドルで販売するまでになった。

 

1976年、バスキアと友人のアル・ディアスは、「SAMO」というユニットを結成し、匿名下でグラフィティ作品の制作をはじめる。マンハッタンの下層地区の建物に塗装スプレーを使ったグラフィティ・アートを多数描いた。

 

このころからバスキアは、SAMOのユニット名で、政治的で詩的なグラフィティを制作するアーティストとして次第に知られるようになる

 

1978年、バスキアは昼のあいだはノーホー区のブロードウェイ718番地の芸術地区にあるユニーク・クロシング倉庫で働き、夜になると近隣の建物にグラフィティ作品を制作して過ごす。

 

ある夜、ユニーク・クロシングの社長ハーベイ・ラッサックが建物に絵を描いている途中のバスキアに偶然居合わす。それから二人は意気投合し、ハーベイはバスキアの生活費を支えるために仕事を依頼するようになる。

 

1978年12月11日、『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌がグラフィティ・アートに特集を組む。

 

その後、バスキアとディアスの友好関係が終わると、同時にSAMOのグラフィティ活動も終了する。1979年にソーホーの建物の壁には碑文「SAMO IS DEAD」が刻まれた。

※4:1978年『『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌グラフィティ特集ののSAMOに関する記事。
※4:1978年『『ザ・ヴィレッジ・ボイス』誌グラフィティ特集ののSAMOに関する記事。
※5:ソーホーの建物の壁に刻まれた碑文「SAMO IS DEAD」。
※5:ソーホーの建物の壁に刻まれた碑文「SAMO IS DEAD」。

バンド活動「Gray」


1979年にバスキアはグレン・オブライエン司会の公衆TV番組「TV Party」に出演し、それがきっかけで二人は親交をはじめ、以後、バスキアは彼の番組に数年間定期的に出演するようになる。

 

同年、バスキアはノイズ・ロック・バンド「Test Pattern」(のちに「Gray」に改名)を結成し、おもにアレーン・シュロス広場で活動する。

 

Grayはシャロン・ドーソン、ミシェルホフマン、ニック・テイラー、ウェイン・クリフォード、ヴィンセント・ガロらで構成され、マックスズ・カンザス・シティやCBGB、ハレイ、ムッドクラブなどのナイトクラブで演奏をしていた。

※6:ノイズバンドGrayで演奏するバスキア。1979年
※6:ノイズバンドGrayで演奏するバスキア。1979年

映画やミュージックビデオに出演


1980年にバスキアはオブライエンのインディペンデント映画『ダウンタウン81』に出演する。同年、アンディ・ウォーホルとレストランで会う。バスキアはウォーホルに自作のサンプルをプレゼントし、ウォーホルはバスキアの才能を瞬時に見抜く。2人はのちにコレボレーション活動を行うようになる。

 

1981年にバスキアはブロンディのミュージックビデオ「Rapture」にナイトクラブのDJ役での出演する。

現代美術家として成功


1980年代初頭、バスキアはグラフィティ作家から、ドローイングやペインティングを中心とした美術家として本格的に活動をはじめる。

 

バスキアが初めて公的な展示会に参加したのは、1980年にニューヨーク7番街41番地の空き家の建物で開催されたグループ展「タイム・スクエア・ショー」である

 

このグループ展ではほかに、デイビット・ハモンズ、ジェニー・ホルツァー、リー・キュノネス、ケニー・シャーフ、キキ・スミスらが参加しており、Colabやファッション・モーダが後援していた。この展覧会がさまざまな美術批評家や学芸員の目に留まるようになった。

 

特にイタリア人ギャラリストのエミリオ・マッツォーリがこの展覧会でバスキアの作品に感動し、その後、バスキアをモデナ(イタリア)に招待して、最初の国際的な個展を開催した。この個展は1981年5月23日から1981年12月まで開催された。

 

1981年2月15日から4月5日まで、ニューヨークのロング・アイランド・シティにあるMoMA PS11で開催された『ニューヨーク・ニューウェーブ』展で、ナイトクラブ「マッド・クラブ」の創設者でアートキュレーターはディエゴ・コルテッツによって紹介された。

 

この展覧会はグループ展で、バスキアのほかにはウィリアム・S・バロウズ、キース・ヘリング、デヴィッド・バーン、ナン・ゴールディン、ロバート・メープルソープなど118人のさまざまな分野のアーティストの作品が展示された。

 

1981年12月、ルネ・リチャードが『Artforum』誌で『眩しい子ども』というタイトルでバスキアを紹介したのがきっかけで、世界中で注目を集めるようになった。

※7:『Artforum』1981年12月号で「眩しい子ども」として紹介されたバスキア。
※7:『Artforum』1981年12月号で「眩しい子ども」として紹介されたバスキア。

新表現主義グループ


1981年9月に、バスキアはアニーナ・ノセイ・ギャラリーと契約を交わし、1982年3月6日から4月1日まで開催される同ギャラリーでのバスキアのアメリカの初個展に向け、ギャラリー内で制作を行う。

 

このころまでにバスキアは、ほかの新表現主義と呼ばれるアーティストらとともに作品を定期的に展示するようになっていた。当時、バスキアとともに活動していた新表現主義作家は、ジュリアン・シュナーベル、デイビット・サル、フランチェスコ・クレモント、エンツォ・クッキらである。

 

1982年3月、バスキアは再びイタリアのモデナに滞在し、2度目の個展を開催する。また、同年11月からラリー・ガゴシアンがヴィネツィアやカリフォルニアに建てたギャラリーの一階展示スペースで制作をはじめる。

 

1983年に開催された展示のための絵画シリーズがここで制作されたものだという。ほかにスイスの画商ブルーノ・ビショフベルガーを通じてヨーロッパで作品を展示、販売していた。

 

バスキアは、当時無名の野心家だった歌手マドンナと交際しており、よくギャラリーに連れ込んでいたという。マドンナは1980年代前半に交際していたジャン=ミシェル・バスキアとの写真をインスタグラムに投稿している。

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ガゴシアンは当時について「すべてうまくまわっていた。バスキアは絵を描き、私はバスキアが描いた絵を売り、みんな非常に楽しんでいた」と話している。

 

また、「しかし、バスキアはある日「恋人が私と住みたがっている」と言ったので少し心配した。どんな人かと聞くと、「名前はマドンナで、彼女は大スターになるだろう」とバスキアは言った。そのときのこと決して忘れなかった。その後、マドンナがギャラリーに現れ、数ヶ月間滞在し、私たちは幸せな大家族のように過ごした」と話している。

 

このころ、バスキアはウェスト・ハリウッドにあるGemini 版画工房で、ロバート・ラウシェンバーグが制作していた作品に関心をもち、何度か彼を訪ねて、自身の創作におけるインスピレーションを得ていた。

 

1982年、短期間だけバスキアはデビッド・ボウイとコラボレーション作品を制作したこともある。

 

主要なバスキア作品の展覧会となったのは、1984年にスコットランドのエディンバラにあるフルーツマーケットギャラリーで開催された『ジャン=ミシェル・バスキア:絵画 1981-1984』で、ロンドンのイギリス現代美術館(1984年)、オランダのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館(1985年)、ドイツのケストナーゲゼルシャフト美術館(1987, 1989年)を巡遊する国際的な展覧会となった。

 

初回顧展は、バスキア死後に1992年10月から1993年2月にホイットニー美術館で開催された『ジャン=ミシェル・バスキア展』である。

音楽プロデュース


1983年にバスキアは、ヒップホップアーティストのラメルジーやK-Robに焦点を当てた12インチのシングルレコードを制作。「ラメルジー  VS K-Rob」と銘打たれたそのレコードには、同じ曲のボーカル版とインストゥルメントの2つのバージョンが収録されていた。

 

このレコードはタートゥン・レコード・カンパニーの一度限りのレーベルから限定500枚で発売された。現存しているレコードは300枚程度で、オークションで$1,500~2,000ドルの値段で取引されていたことがある。

 

カバーはバスキアが担当しており、レコード・コレクターとアート・コレクターの両方で人気を博した。

※8:Rammellzee VS K-Rob / Beat Bop
※8:Rammellzee VS K-Rob / Beat Bop

アンディ・ウォーホルとのコラボレーション活動


1984年から85年の間は、あまり一般的に美術的評価がされなかったが、バスキアはアンディ・ウォーホルとのコラボレーション活動を重点を置いていた時期だった。

 

スイスの画商ブルーノ・ビショフバーガーの提案により、ウォーホルとバスキアは1983年から1985年にかけてコラボレーション作品を制作している。最も有名なのは1985年に制作された『オリンピック・リング』で、前年にロサンゼルスで開催された夏季オリンピックから影響を受けて制作したものである。

 

ウォーホルは元の原色をレンダリングしたオリンピック五輪のさまざまなバージョンを制作、一方のバスキアは抽象的で様式化した五輪ロゴに反発するようにドローイングを行った。

※9:《Olympic Rings》 1985
※9:《Olympic Rings》 1985

晩年


1986年までにバスキアは、ソーホー区にあるアニーナ・ノセイ・ギャラリーから離れ、ソーホーのメアリー・ブーン・ギャラリーで展示するようになる。

 

1985年2月10日、バスキアは「ニューアート、ニューマネー:アメリカン・アーティスト市場」というタイトルの『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の表紙になった。バスキアはこの時代に芸術家として成功をおさめたが、この時期にヘロイン中毒が悪化し、個人的な交友関係が壊れはじめていた。

 

1987年2月22日にアンディ・ウォーホルが亡くなると、バスキアは孤立を深め、さらにヘロインに依存するようになり、うつ状態が悪化する。ハワイのマウイに旅行している間は薬物はやめていたが、1988年8月12日にマンハッタンのノーホー地区近隣のグレート・ジョーンズ・ストリートにあるスタジオでヘロインのオーバードーズで死去。27歳だった。

 

バスキアはブルックリンのグリーン・ウッド墓地に埋葬され、ジェフリー・デッチが墓地が追悼スピーチを行った。

 

バスキアの遺産は、父ジェラール・バスキアが管理している。ジェラールはまたバスキア作品を鑑定する委員会を監督し、1993年から2012年のあいだに1000以上の作品鑑定を行った。鑑定された作品の多くはドローイング作品だった。

※12:1983年から1988年までバスキアが過ごした、マンハッタン・ダウンタウンのグレート・ジョーンズ・ストリート57番地にあるスタジオ。ここではバスキアは亡くなった。2016年7月13日、グリニッジビレッジ歴史保存協会によりバスキアの人生を捧げる盾が置かれた。
※12:1983年から1988年までバスキアが過ごした、マンハッタン・ダウンタウンのグレート・ジョーンズ・ストリート57番地にあるスタジオ。ここではバスキアは亡くなった。2016年7月13日、グリニッジビレッジ歴史保存協会によりバスキアの人生を捧げる盾が置かれた。

バスキアの芸術表現


ドローイングと絵画について


短い生涯のうちにバスキアは1500枚のドローイング作品、600枚の絵画、そのほかに彫刻やさまざまなメディウムを利用した作品を制作している。

 

バスキアは絶えず絵を描いており、紙が手元にないときは、しばしば周囲にある適当なものに直接描いていた。

 

かなり若いころからバスキアは、ファッションデザインやスケッチなど美術趣味があった母親と一緒にマンガ風の絵を描いていたいう。芸術家の才能があったため、絵を描くことが仕事の中心となった。

 

バスキアのドローイングは、インク、鉛筆、フェルトペン、マーカー、オイルスティックなど多くの異なるメディウムを使ってドローイングを制作されている。ときどき、自身のドローイング作品の断片をゼロックスコピーを使って、大きな絵画作品のキャンバスに貼り付けることもあった。

※10:《無題( (Axe/Rene) 》1984年
※10:《無題( (Axe/Rene) 》1984年

グラフィティ的な要素


絵画を描く以前のバスキアのキャリアといえば、パンクに影響を受けたポストカードを作っては路上販売をしたり、グラフィティ・シーンで「SAMO」という名前で政治的なグラフィティ作品を制作することで知られていた。

 

グラフィティ・アーティストとして活動を続けていくなかで、バスアキは絵画の中によくテキストを加えるようになった。

 

彼の絵は一般的に、単語、熟語、数字、絵文字、ロゴ、地図記号、図などあらゆる種類のテキストやコードで構成されている。またバスキアは建物だけでなく、さまざまなオブジェや物体にランダムに絵を描いている。

 

ある日、バスキアは恋人のドレスに「Little Shit Brown」という言葉を書いたが、バスキアは紙だけでなく、紙がなければそのあたりにあるもの、さらに他人の所有物にまで絵を描いていた。

 

あらゆるメディウムを利用して、それらを混ぜにして制作するスタイルはバスキア芸術の本質の1つである。 すべての媒体を利用した彼の芸術は、その創造のプロセスにプリミティヴィズム性を感じさせる。

 

生涯を通じてバスキアが影響を受け、絵画制作の参考にしていたのが、7歳のとき、交通事故で入院しているときに母親から与えられた『グレイの解剖学』の本である。イメージとテキストが混在したバスキアの絵、この解剖学の本の影響である点が大きい。

 

ほかに、ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』、レオナルド・ダ・ヴィンチのメモ帳、ブレンチェスの『アフリカン・ロック・アート』などにも影響を受けている。

ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』
ヘンリー・ドレイフスの『シンボル事典』

1982年後半から1985年中ごろまで、バスキアはマルチパネルの絵画や木枠がむき出しになった個々のキャンバスに焦点を当てた作品を制作している。



■参考文献

Jean-Michel Basquiat - Wikipedia 2019年1月10日アクセス

http://www.jean-michel-basquiat.org 2019年1月10日アクセス

https://nme-jp.com/news/65280/ 2019年1月10日アクセス

 

 

■画像引用

※1:https://www.theguardian.com/artanddesign/2017/may/19/jean-michel-basquiat-110m-sothebys 2019年1月10日アクセス

※2:http://basquiat.com/ 2019年1月10日アクセス

※3:https://amzn.to/2shkRDB 2019年1月10日アクセス

※4:http://upnorthtrips.com/post/82840540812/samo-graffiti-boosh-wah-or-cia-village-voice 2019年1月10日アクセス

※5:http://flavorwire.com/226300/vintage-shots-of-jean-michel-basquiats-samo-graffiti/15 2019年1月10日アクセス

※6:https://www.abc.net.au/news/2018-07-10/basquiat-playing-with-band/9968124 2019年1月10日アクセス

※7:http://culturalghosts.blogspot.com/2015/04/jean-michel-basquiat-and-joy-of.html 2019年1月10日アクセス

※8:https://www.discogs.com/ja/Rammellzee-K-Rob-Beat-Bop/release/1190926 2019年1月10日アクセス

※9:https://gagosian.com/exhibitions/2012/jean-michel-basquiat-and-andy-warhol-olympic-rings/ 2018年1月10日アクセス

※10:https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Michel_Basquiat 2019年1月10日アクセス

※11:https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Michel_Basquiat 2019年1月10日アクセス

※12:https://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Michel_Basquiat 2019年1月10日アクセス

※13:http://thisisniceyeah.blogspot.com/2010/07/jean-michel-basquiat-untitled-history.html 2019年1月12日アクセス

※14:http://www.jean-michel-basquiat.org/irony-of-negro-policeman/ 2019年1月12日アクセス

【美術解説】インキー「ブリストルで最も重要なグラフィティ・アーティスト」

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インキー / Inkie

ブリストルで最も重要なグラフィティ・アーティスト


※1:Inkie – Mural
※1:Inkie – Mural

概要


生年月日 1969もしくは1970年
国籍 イギリス
ムーブメント ストリート・アートブリストル・アンダーグラウンド
公式サイト https://inkie.bigcartel.com/

インキーはロンドンを基盤にして活動する画家、ストリート・アーティスト。ブリストル、クリフトン出身。バンクシー3Dニック・ウォーカーとともにブリストルのグラフィティ・シーンを形作った芸術家の1人と評価されている。

 

インキーは1983年にクライム・インコーポレイテッド・クルー(CIC)で、フェリックスやジョー・ブラウンらとともに働きはじめる。1984年に、映画『ワイルド・スタイル』に影響を受け、フリーハンドでグラフィティを描きはじめ、本格的に活動を開始する。

 

インキーは1989年にイギリスで最大のグラフィティ一斉摘発「アンダーソン作戦」で逮捕されたアーティストたちの主犯格と当局からみなされている。

 

インキーはバンクシーとともに1998年、のちにブリストル・センターとなる場所で『Walls of Fire』フェスティバルを企画した。その後、インキーはビデオゲーム業界に入り、セガのクリエイティブ・デザイン部長をなどをつとめ、アクションゲーム『ジェットセットラジオ』の制作に携わっている。

 

インキーはバンクシーのに関する情報を集めた非公式ファンブック『HOME SWEET HOME』の刊行時のライブ・ペインティングに参加したアーティストの1人だった。インキーはグラフテック・アーティストとしてトレーニングを費やした時間を、クラシック・ミュージシャンのトレーニングにたとえている。

 

現在、インキーは子どもや大学生にアートやグラフィックデザインを教えている。



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Inkie 2019年2月5日

BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOME

 

■画像引用

※1:https://www.widewalls.ch/artist/inkie/ 2019年2月5日

【美術解説】アーバン・アート「現代都市社会で発達した視覚芸術の総称」

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アーバン・アート / Urban art

現代都市社会で発達した視覚芸術の総称


NYブルックリンにあるC215のステンシル作品。Wikipediaより。
NYブルックリンにあるC215のステンシル作品。Wikipediaより。

概要


アーバン・アートはストリート・アートとグラフィティを連結した名称で、しばしばしば、都市建築や現代の都市生活様式に触発され、都市部で発達したあらゆる視覚芸術を要約するときに使われる言葉である。

 

「アーバン・アート」の概念はおもにグラフィティ文化とその関連が深いストリート・アートから発展した。

 

ほかの芸術と異なりアーバン・アートは公共空間上に無許可に設置されるのが特徴で、破壊行為や私有地の器物損害行為と見なされることもある

 

アーバン・アートはもともと移民が集まる地域をはじめさまざまな異なる文化の人々が共生する限定された区域で発生したが、今日では世界のいたるところにアーバン・アーティストたちが存在する国際的な芸術形態となっている。

 

多くのアーバン・アーティストは世界中の都市から都市へと移動して、世界中の都市で制作するだけでなく社会的な面でも関与している。

 

アーバン・アートは、追加すると正式なギャラリー・スペースでも展示活動を行う合法的なストリート・アーティストや、油彩や彫刻など伝統的なメディアを使用して現代的な都市文化や政治問題を主題として扱うロウブロウ・アーティストなど幅広い階層の芸術家たちを示すこともある。

 

フランスのパリの11区にあるオベルカンフ通りにある「Le Mur」は、今日において現代のアーバン・アートのスポットである。2007年には公式なストリート・アートの展示スペース区域と指定された。

違法から合法へ変化するアーバン・アート


アーバン・アートはもともと違法なアンダーグラウンド運動としてはじまったが、バンクシーやアダム・ニートのようなアーバン・アーティストが今やメインストリームの地位を得て、今度はポップ・カルチャーのほうがアンダーグラウンドではずのアーバン・アートへ入り込んでいった

 

ストリート・アートのメインストリームの地位獲得のエビデンスの一例は、2008年の夏にテイトからテムズ・サイドのギャラリーに対して屋外作品の制作のためにストリート・アーティストに対して呼びかけを行ったことなどがある。

 

違法であるはずの落書きのような都市のムーブメントが徐々に公衆から受け入れられるにつれて、人々の認識は変化しはじめた。東京都では違法落書きであるはずのバンクシーの作品を国が大切に保管し、都庁で展示もされ、知事は笑顔で記念写真を撮影するまでになった。

アンダーグラウンド・アートからファイン・アートへ


この違法アートであるはずのストリート・アートが大衆の介入により認められ、ついには国家が保護するにいたる経緯は、イギリスの社会学者ディック・ヘブディッジのサブカルチャー理論がそのままあてはまる。

 

ヘブディッジによれば、サブカルチャーの集団が大きくなると、最終的には必ず実業家たちが、彼らの文化や音楽に対してビジネスチャンスを嗅ぎ取り、その後、メインストリームにもサブカルチャーの要素が現れはじめ、最終的には「反抗的」「破壊的」「過激」という要素がメインストリームのコンテンツの1つとなり、サブカルチャーはマジョリティ市場に飲み込まれて死を迎えるという。 

オークションで高額商品となり死を迎えたバンクシーのアーバンアート「愛はゴミ箱の中に」。

 

特に、音楽を基盤としたサブカルチャーは、特にこのようなプロセスを経て崩壊することが多い。ジャズ、ゴス、パンク、ヒップホップ、レイブなどのようなサブカルチャーは、短期間のうちに大衆文化、そしてファインアートに飲み込まれたサブカルチャーの代表といえる。

 


■参考文献

Urban art - Wikipedia、2019年6月27日


【美術解説】インベーダー「ビデオゲームキャラを描くストリート・アーティスト」

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インベーダー / Invader

ビデオゲームキャラを描くストリート・アーティスト


※1:イギリス、マンチェスターにある建物の壁に描かれたインベーダーの作品。
※1:イギリス、マンチェスターにある建物の壁に描かれたインベーダーの作品。

概要


生年月日 1969年
国籍 フランス
ムーブメント ストリート・アート

インベーダー(1969年生まれ)はフランスのストリート・アーティスト。「スペース・インベーダー」と呼ばれることもある。

 

1970年代から1980年代の8ビットビデオゲームの粗いピクセル絵画を模範にした作品を制作している。もちろん、彼のPNは1978年からアーケードゲームの『スペース・インベーダー』から由来している。

 

作品の多くはビデオゲームのキャラクターから影響を受けたもので、正方形のセラミック・タイルで構成される。

 

インベーダーは匿名であることを好むが、彼の作品は世界33カ国以上、65以上の都市の多くの人の目に付く場所に描かれている。

 

インベーターは都市に描き終えたグラフィティ作品を「侵略」と称して記録化し、同時に描いた場所を紹介するための本をロケーション入りのマップとともに定期的に出版している。



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Invader_(artist) 2019年1月30日

 

■画像引用

※1:https://en.wikipedia.org/wiki/Invader_(artist) 2019年1月30日

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