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【美術解説】デビッド・ホックニー「同性愛を主題とした英国ポップ・アーティスト」

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デビッド・ホックニー / David Hockney

自身の同性愛を主題とした英国ポップ・アーティスト


《芸術家の肖像 -プールと2人の人物-》1972年
《芸術家の肖像 -プールと2人の人物-》1972年

概要


生年月日 1937年7月9日
国籍 イギリス
表現媒体 絵画、版画、舞台デザイン、写真
ムーブメント ポップ・アート新表現主義

デビッド・ホックニー(1937年7月9日生まれ)はイギリスの画家、版画家、舞台デザイナー、写真家。

 

1960年代のイギリスのポップ・アートムーブメントに最も貢献した人物で、最も影響力のある20世紀のイギリスの画家の一人とみなされている。

 

1964年以降、アメリカのロサンゼルスをおもに活動拠点してたこともありアメリカでも人気が高い。母国イギリスでも人気は高い。ロンドンのケンジントンに自宅とアトリエをかまえ、またカリフォルニアに2つの住居を持ち、30年以上芸術家として生活をしている。

略歴


若齢期


デビッド・ホックニーはイギリスのブラッドフォードで、ローラ&ケネス・ホックニー夫妻のあいだに5人兄弟の4番目の子どもとして生まれた。

 

ウェリトン小学校、ブラッドフォード高等学校、ブラッドフォード美術大学を経てロンドン王立美術大学に入学。そこでロナルド・B.キタイと出会う。ホックニーは大学にいる間、学校を自宅のように感じ、作品制作に誇りを持っていたという。

 

ロンドン王立美術大学でホックニーは、若手美術家に絞った展覧会「ヤング・コンテポラリーズ」展に参加し、しだいに注目を集めるようになる。また並行してピーター・ブレイクやキタイらとともにイギリスのポップ・アート運動を始める。ホックニーはポップ・アート運動の作家として語られることが多いが、彼の初期作品は表現主義的な色合いが強く、特にフランシス・ベーコンの作品から影響を受けていたと思われる。

 

1962年にロンドン王立美術大学が彼を落第させようとしたとき、ホックニーは抗議のための作品「卒業証書」を制作する。卒業試験で必要なエッセイを書くことを拒否したのが原因だと、エッセイを提出しなかった理由としてホックニーは「作品についてのみ評価するべきだ」と主張したという。

 

当時、ホックニーの才能が世の中に認められ、評判が高まっていたこともあり、ロンドン王立美術大学は学校の規則を変更し、結局卒業証書を授与することにしたという。ロンドン王立美術大学卒業後、ホックニーは一時的にメードストン美術大学で教鞭をとる。

芸術家として活動


大学卒業後、ホックニーはアメリカのカリフォルニアを旅行し、1964年から数年間滞在することにする。現地の家庭に設置されているスイミング・プールからインスピレーションを得て、スイミングプールの絵画シリーズを制作し始める。当時、新しく普及しはじめたアクリル絵の具をいち早く使い、活力に満ちた写実的な明るいスタイルでスイミングプールの絵画を描いた。

 

《大きな水しぶき》1967年
《大きな水しぶき》1967年

1968年にロンドンへ戻る。1973年から1975年までパリに滞在する。1974年にホックニーはその後数十年にわたる長い個人的な関係を築くことになるグレゴリー・エバンスと出会う。1978年に再びロサンゼルスに移るのを期に、2017年の現在までエバンスはホックニーのビジネスパートナーを勤めている。

 

 

1978年にロサンゼルスに移住するときに利用する家を借り、のちにその家を購入し、スタジオとして使うため改修増築を行った。またホックニーはほかにマリブのカリフォルニア州道1号線沿いにある1643平方フィートのビーチハウスを所有していたが、1999年には150万ドルで売却している。

自身の同性愛の姿を探求


ホックニーは自身がゲイであることをカミングアウトしているが、親友であり同じ同性愛者でありポップアーティストだったアンディ・ウォーホルと異なり、積極的に自身のポートレイト作品内で同性愛の本質を表現していた。

 

たとえば、1961年の作品《私たち2人の少年はいちゃつく》では、アメリカの詩人のウォルト・ホイットマンの同性愛を言及する詩からの引用である。1963年作品《ドメスティック・シーン》や《ロサンゼルス》なども同性愛に言及した作品である。1966年夏、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で教鞭をとっているときに、当時美大生だったホックニーはピーター・シュレジンジャーと出会う。シュレジンジャーはホックニーの作品のモデルとなり、また愛人となった。

《私たち2人の少年はいちゃつく》1961年
《私たち2人の少年はいちゃつく》1961年
《ドメスティックシーン》1963年
《ドメスティックシーン》1963年

アシスタントの死亡事故


2013年3月18日の朝、ホックニーの23歳のアシスタントであるドミニク・エリオットがホックニーのブリドリントン・スタジオでドレーンクリーナーを飲んで亡くなった。彼はほかに早くからアルコール中速で、ほかにコカイン、エクスタシー、テマゼパムなどの覚せい剤や抗うつ剤を使用していた。エリオットはブリドリントン・ラグビー・クラブの選手だったという。

 

報告によれば、ホックニーのパートナーがエリオットを総合病院へ連れていき、その後亡くなったという。検死の結果、エリオットは変死扱いとされ、ホックニーが事故に関与した疑いはないとされている。

現在の生活


2015年11月、ホックニーはイギリスのブリドリントンの自宅を62万5000ポンドで売却し、これまで住んでいた町との関係をすべて断ち切った。現在はロンドンにスタジオ、カリフォルニアのマリブに家を所有している。

 

ホックニーは60年以上のヘビースモーカーで、1990年以降、心臓発作を何度か起こしている。またホックニーは医療目的で大麻を購入すための「カリフォルニア医療大麻証明カード」を保有している。1979年以来補聴器を使用しているが、ずっと以前から耳が遠くなったという。

 

毎日30分泳ぎ、イーゼルの前に6時間立つことが日課だという。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/David_Hockney、2020年6月4日アクセス



【美術解説】ミスター・ブレインウォッシュ「バンクシーにプロデュースされたストリート・アーティスト」

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ミスター・ブレインウォッシュ / Mr. Brainwash

バンクシーにプロデュースされたストリート・アーティスト


※1:マドンナの『セレブレーション』のカバーアートに使用されたブレインウォッシュの作品。
※1:マドンナの『セレブレーション』のカバーアートに使用されたブレインウォッシュの作品。

概要


生年月日 1966年
国籍 フランス
活動基盤 ロサンゼルス
表現形式 ストリート、版画、写真加工、社会活動
ムーブメント ポップ・アートストリート・アート
関連人物 バンクシーシェパード・フェアリー、マドンナ
※2:ミスター・ブレインウォッシュ
※2:ミスター・ブレインウォッシュ

ミスター・ブレインウォッシュはロサンゼルスを基盤として活動するフランス人ストリート・アーティスト。

 

2010年にバンクシーが監督した映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』でバンクシーに撮影された男性として知られている。本名はティエリー・グエッタ。

 

ジョン・レノンやビリー・ホリデイなど、著名なアーティストをアイコンにしたアート作品で知られている。2009年にマドンナは自身のアルバム『セレブレーション』のカバーアートとしてグエッタのマリリン・モンローを主題とした作品を利用した。

 

グエッタはもともと古着屋のオーナーで、アマチュアの映像作家だった。いとこのストリート・アーティストであるインベーダーをきっかけにストリート・アートに関心を持ちはじめる。

 

2000年代のストリート・アートシーンを記録撮影していたが、バンクシーのすすめで数週間後、彼自身もストリート・アーティストに転身する。この経緯は映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』に収められている。

 

多くの批評家たちは、ウォッシュバーンはバンクシーのコンセプトやスタイルをかなり模倣していると認識しており、また、グエッタの存在はバンクシーによって緻密に計画されたやらせ的なアーティストであると見なされている。

 

しかし、バンクシーは公式サイトで『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』はやらせではなく正真正銘のドキュメンタリーであり、グエッタはおふざけではないと主張している。

 

ウオッシュバーンの作品は、2008年6月18日、カリフォルニア州ロサンゼルスで自己資金によるデビュー個展『Life Is Beautifu』で展示された。過剰な宣伝や加熱したストリート・アート市場、またバンクシーやシェパード・フェアリーらの推薦の乱用のおかげで、来場者は約5万人にのぼり、ロサンゼルスの人気雑誌「LA Weekly」の表紙を飾るなど多くの注目を集め、総額5桁の売上を記録し、大成功に終わった。

 

翌年にマドンナの『セレブレーション』のカバーアートに作品が使用されたほか、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやザ・ブラック・キーズ、リック・ロスなど、多くの有名ミュージシャンたちが彼にジャケットデザインを依頼している。

 

2013年10月サーチ・ギャラリーで、グエッタはベン・ムーアによるキュレーション展「アート・ウォーズ」に参加。グエッタはストーム・トルーパーのヘルメットを改造したアートを出品した。



【美術解説】キース・ヘリング「80年代NYストリート・アートの代表」

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キース・ヘリング / Keith Haring

80年代NYストリート・アートの代表


《Radiant Baby》
《Radiant Baby》

概要


 

生年月日 1958年5月4日
死没月日 1990年2月16日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画、グラフィティ
ムーブメント ポップ・アートストリート・アート、彫刻
関連人物 アンディ・ウォーホルジャン・ミシェル・バスキア、マドンナ
公式サイト

http://www.haring.com/

キース・アレン・ヘリング(1958年5月-1990年2月16日)はアメリカの芸術家。おもに1980年代のニューヨークのストリート・カルチャーから発生したポップ・アートやグラフィティ・アート運動活躍したことで知られる。

 

ヘリングはニューヨークの地下鉄内で自発的に描いたグラフィティ作品を通じて人気を集めた。

 

チョーク・アウトライン形式(犯罪現場で被害者の位置を書き記しするための線)でシンプルな絵画が特徴で、活動初期は地下鉄の広告板に黒いシートを貼って描いていた。

 

ヘリングがよく描いたモチーフは「Radiant Baby(光輝く赤ん坊)」「円盤」「犬を象徴するもの」などである。

 

ヘリングの絵画は「多くの人が認知しやすいビジュアル言語」の要素があり、また後期作品においては政治的、社会的なテーマ、特にホモセクシャルAIDSなどのテーマが含まれるようになった。ホモセクシャルやエイズはヘリング自身の象徴でもあった。

重要ポイント

  • ストリート・アートやグラフィティの先駆け
  • 同性愛やAIDSを主題とした作品
  • チョーク・アウトライン形式のシンプルで大胆な線

略歴


幼少期


キース・ヘリングは1958年5月4日、ペンシルバニア州レディングで生まれた。母はジョアン・ヘーリング、父アレン・ヘーリング。父アレンはエンジニアでアマチュアの漫画家だった。また、ケイ、カレン、クリステンの3人の妹がいた。

 

キース一家はキリスト教の一宗派「ゴッド・オブ・ユナイテッド・チャーチ」に入信していたといわれる。

 

高い技術のドローイングを制作していた父の影響で、キースは幼少期から芸術に関心があった。子どものころは、ウォルト・ディズニーの漫画や絵本作家のドクター・スース、『ピーナッツ』の作者チャールズ・M・シュルツ、アニメシリーズ『ルーニー・テューンズ』などが好きだったという。

 

10代初頭、ヘリングはキリスト教会の中におけるヒッピー的な要素である「ジーザス・ムーブメント」に出会い影響を受ける。自身の宗教的背景を捨て、ヒッピー文化の影響でヘリングは全国へヒッチハイクの旅に出た。

 

旅では自身で制作したグレイトフル・デッドやアンチ・ニクソンTシャツを売って日銭を稼いでいたという。またこのころにドラッグを試みるようになった。

 

1976年から1978年までピッツバーグにあるアイビー・プロフェッショナル芸術学校に通び商業藝術を学ぶが、あまりおもしろくなく興味をを失う。

 

1923年のロバート・ヘンライの著作『アート・スピリット』を読み影響を受け、自分自身の芸術を追求することを決心する。

 

ヘリングはピッツバーグ芸術センターでメンテナンスの仕事をしながら、ジャン・デビュッフェジャクソン・ポロック、マーク・トビーらの美術を研究する。

 

このとき、ヘリングが受けた最も重要な出来事は、1977年のピエール・アレンスキーの回顧展と1978年の彫刻家クリストの講義だったという。

 

国際表現主義グループ「コブラ」と連動したアレンスキーの作品は、ヘリングに大きなカリグラフィー作品を創作することに対して自信を与えた。また、クリストからは芸術を通じて公衆を巻き込む可能性を学んだ。

 

ヘリングの最初の重要な個展は、1978年にピッツバーグにあるアート・センターで開催された。

 

ヘリングは1978年にニューヨークへ移り、スクール・オブ・ビジュアル・アーツで絵画を学ぶ。ビデオやパフォーマンとアートの可能性を探求するとともにビル・ベックリーから記号学も学んだ。

 

この時期にヘリングはDanceteriaというナイトクラブで皿洗いや給仕のアルバイトをしていたという。

 

また、ウィリアム・S・バロウズの著作物から多大な影響を受け、イメージの相互参照や相互接続を行う実験からインスピレーションを受けた。

芸術家キャリア


ヘリングは最初、地下鉄の駅にあった未使用の広告板に黒い背景の紙を貼ってチョークでドローイングを描くパブリック・アートで、一般の人から注目を集めるようになった。

 

キースは地下鉄を実験作品を制作するための「実験室」と見なしていたという。

 

1980年代初頭、ヘリングはクラブ57で個展を開催。その様子は写真家の曾廣智が撮影している。この時代に「ラディアント・ベイビー」は彼のシンボルとなった。ヘリングの太い線、鮮やかな色彩、動きのある造形は生命と結束の強いメッセージ性を掲げている。

『ラディアント・ベイビー』
『ラディアント・ベイビー』

また、ヘリングはタイムズ・スクエア・エキシビジョンに参加し、はじめて動物や人間の顔を描いた。同年、ヘリングはコピー機で複写したテキストをカットアップして『ニューヨーク・ポスト』風の挑発的なコラージュを作ったことで話題になった。

 

1982年までにヘリングは、グラフィティ・アーティストのフーツラ、ケニー・シャーフ、マドンナ、ジャン・ミシェル・バスキアといった同世代の新興アーティストたちを友好関係を築く。1982年から1989年の間にヘリングは世界中の都市で50以上の公共作品を制作した。

 

ヘリングはよく運動性や活力、ハッピーな状態を強調表現するために力強い大胆な線を利用して絵を描いた。輝く愛を抱いた2人の人物像を描いた1982年の初期作品の1つ『無題』は、批評家らに同性愛と彼らの文化を大胆に表現したもの解釈されている。

ヘリングはアンディ・ウォーホルとも親交を持つようになり、『アンディ・マウス』をはじめさまざまなウォーホルをテーマにした作品を制作している。ウォーホルとの友好関係はヘリングがアーティストとして成功する決定的な要素となった。

『アンディ・マウス』
『アンディ・マウス』

国際的なアーティストに


1984年にヘリングはオーストラリアを訪問し、メルボルンやシドニーで壁画を描いた。

 

メルボルンにあるビクトリア国立美術館やオーストラリア現代美術センターからの依頼で、国立美術館のウォーター・カーテンを一時的にヘリングの壁画に置き換えた。

 

ほかにヘリングは、リオデジャネイロやパリ市立近代美術館、ミネアポリス、マンハッタンで絵画制作を行っている。

 

また、このころからヘリングは政治と連動した芸術制作をはじめるようになる。1985年には南アフリカを解放を啓発するポスターを制作している。

 

1986年春、ヘリングはアムステルダムのアムステルダム市立美術館で最初の美術館での個展を開催し、当時の美術館の収容施設大の壁画を描いた。

 

1986年10月23日、ヘリングはドイツのチェックポイント・チャーリー博物館からの依頼でベルリンの壁に絵を描いた。そのときの壁画は300メートルの長さにおよび、黄色を背景にして赤と黒で連結された人物造形の絵が描かれた。その色はドイツの国旗や東西ドイツ間の統一を象徴をあらわすものだった。

 

ヘリングは子どもたちと作業することに関心を持ちはじめる。これは、のちに自由の女神像100周年を記念したプロジェクトで1000人の子どもたちと協力して制作した作品『Citykids Speak on Liberty』の創作のインスピレーション元になったという。

 

1986年4月、ソーホーにヘリングがデザインした店「ポップ・ショップ」がオープン。ここでは、リーズナブルな価格で購入可能なキースの作品が販売された。

 

作品の商業販売についてたずねられた際、ヘリングは「少し絵を描くだけで価格が上がるが、この店は私が地下鉄で絵を描いていたことの延長線上であり、ハイアートとロウアートの境界線を破壊しているとおもう」と話している。 

政治・社会活動家として


ポップ・ショップが現れたころ、彼の作品には反アパルトヘイト、エイズの啓発、コカインの蔓延といった社会的・政治的テーマが反映された作品がより強くなっていった。アブソルート 、コカ・コーラ、ラッキー・ストライクといった商品から影響を受けたポップ・アート作品もいくつか制作している。

 

1987年にヘリングはアントワープやヘルシンキをはじめ世界中で個展を開催。同年、10月12日にリリースされたマドンナらが参加したクリスマス音楽アルバム『クリスマス・エイドI』のカバーワークを手がけている。

 

1988年にはシャトー・ムートン・ロートシルトのワインラベルのデザインを手がけた。

 

ヘリングは公共用の壁画も制作している。たとえば、ブルックリンのフラッシング・アベニューにあるウッドフル病院の外来診療のロビーで壁画を制作している。現場で撮影された珍しいヒーリングの映像では、彼のエネルギッシュな動きとスタイルが見られる。

 

キースは「私は動くことを重要し始めている。動きの重要性は絵画がパフォーマンスになることを深める。同時にパフォーマンス(絵を描く行為)は出来あがる絵において重要な要素になる」と話している。

ウッドフル病院の外来診療のロビー
ウッドフル病院の外来診療のロビー

友人バスキアとの関係


キースの友人であるジャン・ミシェル・バスキアは、1988年にニューヨークでオーバードーズで亡くなり、キースは彼に敬意を表した作品『A Pile of Crowns, for Jean-Michel Basquiat』を制作した。

バスキアとヘリング
バスキアとヘリング
『A Pile of Crowns, for Jean-Michel Basquiat』
『A Pile of Crowns, for Jean-Michel Basquiat』

ゲイとAIDS啓発


ヘリングはゲイであることをカミングアウトしており、安全な性行為を強く主張していた。しかしながら、1988年、彼はエイズを患う。1982年から1989年までヘリングは100以上の個展やグループ展に参加し、また数多くの慈善団体、病院、デイケアセンター、孤児院のために50以上の公共芸術作品を制作した。

 

ヘリングは晩年、自身の病気エイズ問題に関して話し、予防啓発のために自身のイメージをおおいに活用した。

 

1989年にヘリングは「見ざる、聞かざる、言わざる」というテーマを中心に、「多くの動機をともなう反抗」というキャッチを通じてAIDSのような社会的問題の回避を批判しはじめる。

 

1989年にはレズビアン・ゲイ・コミュニティ・サービス・センターの招待を受け、ニューヨーク13番通り西208にある建物で開催されたショーでヘリングは、とのコミュニティ特有の作品を制作。ヘリングは壁画『Once Upon a Time keith』を建物の二階の壁に描いている。

 

6月、イタリアのピサにあるサンタントーニオ教会修道院の後壁に、彼の人生最後の公共作品となった壁画『Tuttomondo』を描いた。

『Once Upon a Time keith』
『Once Upon a Time keith』
人生最後の公共作品となった壁画『Tuttomondo』
人生最後の公共作品となった壁画『Tuttomondo』

キース・ヘリング財団


1989年、ヘリングはAIDS団体と子どもの教育プログラムへの資金提供を目的とした「キース・ヘリング財団」を創設する。

 

財団の目的は彼の遺産、工芸、芸術を引き継ぐことだけでなく、恵まれない青少年を教育し、またHIVやAIDSに関して個々に知らせることを目標とした非営利団体に対して、助成金と資金を提供をすることでもあった。

 

財団は、展覧会、出版物、イメージ・ライセンス事業に積極的に参加し、一般層に対するヘリングの認知拡大を試みた。

コラボレーション活動


ヘリングはアンディ・ウォーホルを通じて出会った歌手で女優のグレイス・ジョーンズとコラボレーションを行っている。

 

1985年、ヒーリングとジョーンのふたりは、ニューヨークにあるパラダイス・ガレージでツーマン・ライブパフォーマンスを行っている。その公演についてロバート・ファリスは「ブラックダンスの震源地」と評している。また、何度かヒーリングはジョーンズのボディ・ペインティングも行っている。

 

ほかに、ヒリングはファッション・デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドやマルコム・マクラーレンらと1983年と1984年のウィッチズ・コレクションでコラボレーションを行っており、ヘリングがデザインしたファッションはマドンナがよく着用していたことで知られている

 

たとえば、イギリスのポップ・ミュージック番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」やアメリカのTVダンス番組「ソリッド・ア・ゴールド」で、マドンナはヘリングがデザインしたピンクの衣装とピンクのウィッグを着け、「ライク・ア・バージョン」を歌っていた。

死去


1990年2月16日、へリングはAIDSに関連した合併症で死去。ヘリングはエイズ・メモリアル・キルトに記念されている。

 

マドンナは1990年に開催したブロンド・アンビジョン・ツアーのニューヨーク公演でヘリングの生涯を讃え、ヘリングの追悼コンサートで得た収益をアルファ・ヘルスやamfARなどのAIDS慈善団体に寄付した。

 

その様子は1991年のマドンナのドキュメンタリー映画『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』に記録されている。



【美術解説】ニック・ウォーカー「山高帽の紳士キャラで人気のストリート・アーティスト」

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ニック・ウォーカー / Nick Walker

山高帽の紳士キャラで人気のストリート・アーティスト


※1:『ヴァンダル』ブリストル、ネルソン・ストリート
※1:『ヴァンダル』ブリストル、ネルソン・ストリート

概要


※2:ニック・ウォーカーと山高帽の紳士「ヴァンダル」
※2:ニック・ウォーカーと山高帽の紳士「ヴァンダル」

ニック・ウォーカー(1969年生まれ)はイギリス、ブリストル出身のグラフィティ・アーティスト。山高帽を被った紳士のキャラクター「ヴァンダル」の作者として知られている

 

ウォーカーは1980年代から始まったロバート・デル・ナジャを中心としたステンシル・グラフィティ運動の一躍を担った芸術家で、またバンクシーに影響を与えた人物の1人として評価されている。

 

1999年にはスタンリー・キューブリック作品『アイズ ワイド シャット』の撮影のために、ニューヨークのグラフィティが描かれたストリートを再現している。

 

ほかに、彼の作品はヒップホップグループのブラック・アイド・ピーズに影響を与えている。

 

2006年にウォーカーのスプレー・ペインティング作品『モナ・リザ』は、ロンドンのオークションハウスのボナマスで、予想外の5万4000ポンドで売買された。

 

2008年にロンドンのブラック・ラット・ギャラリーでの個展では作品が75万ポンドで売買され、また、何十人もの人たちが作品を鑑賞するためのギャラリーの外で一晩を過ごしたという。

 

ウォーカーは2011年にブリストルのグラフィティ・アートのイベント「See No Evil」に参加し、ネルソン・ストリートにある高層建築物の壁に、おそらくイベントで最も印象的な作品『ヴァンダル』を描いた。この作品は現在も残っている。

※1:『モナ・リザ』ノルウェー、スタンヴァゲル
※1:『モナ・リザ』ノルウェー、スタンヴァゲル
※1:『I Love NY』ニューヨーク
※1:『I Love NY』ニューヨーク


【美術解説】世界で最も高額な絵画ランキング【2019年最新版】

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高額美術作品の歴史


《モナリザ》が最も高額と推定されている


有名な美術作品、特に1803年以前の巨匠たちのマスターピース作品は一般的に美術館が保持している。美術館が所有している作品は一般市場に売り出されることがほとんどないため、それら作品については価格を付けることができない。

 

正確な価格はわからないがギネス世界記録では、レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナリザ》が美術作品において最高の保険価値が付けられているという。

 

パリのルーブル美術館で常設展示されている《モナリザ》は、1962年に12月14日に1億ドルと査定された。インフレーションを考慮して2019年の価格で査定すると最低でも約8億3000万ドルになると推定されている。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》1503-1506年。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》1503-1506年。Wikipediaより。

以下に記載したランキングリストで、一番古い販売日は1987年3月に一般市場で売買され、安田火災海上(現・損保ジャパン日本興亜)が落札した、フィンセント・ヴァン・ゴッホの作品《ひまわり》だが、この作品は当時、2,475万ポンド(2019年価格だと約6840万ポンド)で落札された。

 

この売上価格、安田火災海上が落札した《ひまわり》は、それ以前のアートの売買記録の3倍以上の価格に達し、アート市場に新しい時代をもたらすきっかけとなった。

 

この作品以前の美術作品の最高価格は、1985年4月18日にロンドンのクリスティーズで、J・ポール・ゲッティ美術館が810万ポンド(2019年価格だと約1890万ポンド)落札したアンドレア・マンテーニャの《マギの礼拝》だった。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》(F457)(1889年)東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館所蔵。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》(F457)(1889年)東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館所蔵。
アンドレア・マンテーニャ《マギの礼拝》1462年。Wikipediaより。
アンドレア・マンテーニャ《マギの礼拝》1462年。Wikipediaより。

ドル・インフレーションを考慮する場合、1987年以前において最も高額な作品となるのは、1967年2月にワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アートが、リヒテンシュタイン公家から購入したレオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》である。これは当時500万ドルで落札されたが、2019年現在の価格に換算すると3,800万ドルである。

レオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474年 - 1478年頃。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474年 - 1478年頃。Wikipediaより。

しかし、ファン・ゴッホの『ひまわり』の落札は、それまでアート市場を支配していた古典美術の巨匠と異なり「近代美術」の作品として初めて記録を更新したことがエポックメイキングだった。

 

例外的な売上記録は現代グラフィティ・アーティストのデビッド・チョーの作品で、設立間もないFacebookの本社にグラフィックアートをペインティングしたときに株式で支払いを受けた。当時、彼が所有していたFacebookの株はほとんど価値がなかったが、2012年のFacebookの株式公開後、彼の作品は株式換算で2億ドルの価値と査定された。

ゴッホ、ピカソ、ウォーホルが代表的な高額作家


フィンセント・ファン・ゴッホパブロ・ピカソアンディ・ウォーホルは高額ランキングに位置づける代表的な近代美術家である。

 

ピカソとウォーホルは生存中に売れっ子作家となり非常に裕福だったが、ファン・ゴッホは生前は印象派の女流画家のアンナ・ボックに400フラン(現在の価格で2000ドル)で売った作品《赤い葡萄畑》1枚しか売れず無名だった。

 

2019年までのインフレーションに合わせて価格調整を行った場合、以下のリストに記載されているゴッホの9枚の作品を合計すると約9億ドル以上になるといわれている。

最も高額な女性作家ジョージア・オキーフ


最も高額な女性画家はジョージア・オキーフである。2014年11月20日にサザビーズのオークションで、アメリカの水晶橋美術館が彼女の1932年の作品《Jimson Weed/White Flower No. 1》を4440万ドル(2019年価格だと4700万ドル)で落札した。

非欧米圏の高額作家


高額美術作品89点のうち、非欧米圏の美術家の作品は3点だけで、それらは中国の美術家で斉白石(1864-1957年)と王蒙(1308-1385年)の作品ある。特に注目に値するのは斉白石の作品《12の風景画》で、2017年に1億4080万ドルで売買され、世界ランキング21位に位置づけられている。

 

なお、リストには載っていないが、中国系フランス画家の趙無極の油彩作品《Juin-Octobre 1985》は2018年に6500万ドルで売買された。

斉白石の作品《12の風景画》。Yahoo!ニュースより。
斉白石の作品《12の風景画》。Yahoo!ニュースより。

2019年時点の高額絵画ランキング


2019年現在、最も高額で取引された絵画は、2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで競売がかけられたレオナルド・ダ・ヴィンチ《サルバトール・ムンディ》の4億5000万ドルである。

 

続いて、2015年11月にデヴィッド・ゲフィンからケネス・C・グリフィンに個人間取引されたウィレム・デ・クーニング《インターチェンジ》の3億ドル。ケネス・C・グリフィンは《ナンバー17A》も2億ドルでデヴィッド・ゲフィンから購入している。

 

また、2015年2月にルドルフ・シュテへリンからカタール王室(匿名とされている)に個人間で取引されたポール・ゴーギャンの《いつ結婚するの?》も3億ドルとみなされている。

 

カタール王室は2011年4月にギリシャの海運王、故ジョージ・エンブリコスからポール・セザンヌの《カード遊びをする人々》を2億7200万ドルで購入している。

1位:サルバトール・ムンディ

調整価格 4億6030万ドル
元の価格 4億5030万ドル
作品名 サルバトール・ムンディ
作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ

制作年

1500年

売買日

2017年11月15日
売り手 ドミトリー・リボロフレフ
買い手 アブダビ観光局(複数あり)
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

《サルバトール・ムンディ(救世主)》は1490年から1519年ごろにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。世界の救世主としてイエス・キリストの肖像が描かれたもので「男性版モナリザ」と呼ばれることがある。ルネサンス風の青いローブを着用したキリストが右手を上げ指をクロスさせ、左手に水晶玉を持ち祝祷を行っている。(続きを読む

2位:インターチェンジ

調整価格 3億1700万ドル
元の価格 3億ドル
作品名 インターチェンジ
作者 ウィレム・デ・クーニング
制作年 1955年
売買日 2015年9月
売り手 デヴィッド・ゲフィン
買い手 ケネス・グリフィン
オークション プライベート・セール

《インターチェンジ》は1955年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。2015年にデヴィッド・ゲフィン財団が、アメリカのヘッジファンドマネージャーであるケネス・グリフィンへ個人間取引で3億ドルで売却したことで、2015年当時、最も高額な油彩作品として記録を更新した。現在は作品はシカゴ美術館に貸出し展示が行われている。(続きを読む

3位:カード遊びをする人々

調整価格 2億7800万ドル
元の価格 2億5000万ドル
作品名 カード遊びをする人々
作者 ポール・セザンヌ
制作年 1892〜93年
売買日 2011年4月
売り手 ジョルジュ・エンビリコス
買い手 カタール王室
オークション プライベート・セール

《カード遊びをする人々》は1894年から1895年にかけてポール・セザンヌによって制作された油彩作品。「最後の時代」と呼ばれる1890年代初頭のスザンヌ晩年のシリーズ内の作品。2011年にはカタール王室が《カード遊びをする人々》の1点(最後の作品)を2億5000万ドルから3億ドルで購入した。(続きを読む

4位:いつ結婚するの?

調整価格 2億2220万ドル
元の価格 2億1000万ドル
作品名 いつ結婚するの?
作者 ポール・ゴーギャン
制作年 1892年
売買日 2014年9月
売り手 ルドルフ・シュテヘリン
買い手 カタール王室
オークション プライベート・セール

《いつ結婚するの》は1892年のポール・ゴーギャンによって制作された油彩作品。約半世紀の間スイスのバーゼル市立美術館へ実業家でコレクターだったルドルフ・シュテヘリンが貸し出していたが、2015年2月にカタール王室のシェイカ・アル・マヤッサに約3億ドルで売却。世界で最も高額に取引された美術の1つである。(続きを読む

5位:Number 17A

調整価格 2億1100万ドル
元の価格 2億ドル
作品名 Number 17A
作者 ジャクソン・ポロック
制作年 1948年
売買日 2015年9月
売り手 デヴィッド・ゲフィン
買い手 ケネス・グリフィン
オークション プライベート・セール

《Number 17A》は1948年にジャクソン・ポロックによって制作された作品。絵具缶から絵具を直接滴らせるドリッピ・ペインティングと呼ばれる方法で描かれており、本作はポロックのドリッピングシリーズのなかでも初期の作品にあたる。(続きを読む

6位:水蛇Ⅱ

調整価格 1億9770万ドル
元の価格 1億8380ドル
作品名 水蛇Ⅱ
作者 グスタフ・クリムト
制作年 1904-1907年
売買日 2013年
売り手 イブ・ブヴィエ
買い手 ドミトリー・リボロフレフ
オークション プライベート・セール

《水蛇Ⅱ》は1904年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。80 x 145 cm。ロシアの実業家ドミトリー・リボロフレフが、2013年にスイスの画商イブ・ブヴィエから1億8380万ドルで購入した作品で、現在個人蔵扱いとなっている。(続きを読む

7位:ナンバー6(すみれ、緑、赤)

調整価格 1億9700万ドル
元の価格 1億8600万ドル
作品名 ナンバー6(すみれ、緑、赤)
作者 マーク・ロスコ
制作年 1951年
売買日 2014年8月
売り手 クリスチャン・ムエックス
買い手 ドミトリー・リボロフレフ
オークション プライベート・セール(イブ・ブヴィエ経由)

《No.6(すみれ、緑、赤)》は1951年にマーク・ロスコによって制作された油彩作品。抽象表現主義作品のカラーフィールド・ペインティングとみなされている。《No.6》はこの時期のロスコのほかの作品と同じように、全体的に不均衡でかすみがかった薄暗い色味で描かれている。(続きを読む

8位:マーティン・スールマンズとオーペン・コピットのペンダント肖像画

調整価格 1億9000万ドル
元の価格 1億8000万ドル
作品名 マーティン・スールマンズとオーペン・コピットのペンダント肖像画
作者 レンブラント・ファン・レイン
制作年 1634年
売買日 2015年9月
売り手 エリック・デ・ロスチャイルド
買い手 アムステルダム国立美術館とルーブル美術館
オークション プライベート・セール

9位:アルジェの女

調整価格 1億8960万ドル
元の価格 1億7900万ドル
作品名 アルジェの女
作者 パブロ・ピカソ
制作年 1955年
売買日 2015年5月11日
売り手 匿名
買い手 ハマド・ビン・ジャーシム・ビン・ジャブル・アール=サーニー
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

《アルジェの女》は1954年から55年の冬にかけてパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。1954年から1963年の間にピカソは古典巨匠のオマージュとなる連作をいくつか制作している。2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札された。(続きを読む

10位:赤いヌード

調整価格 1億8010万ドル
元の価格 1億7000万ドル
作品名 赤いヌード
作者 アマデオ・モディリアーニ
制作年 1917-1918年
売買日 2015年11月9日
売り手 ジャンニ・マッティオリ
買い手 劉益謙
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

《赤いヌード》は1917年にアメディオ・モディリアーニよって制作された油彩作品。モディリアーニの代表作で最もよく複製され、また展示されている作品の1つ。2015年11月9日のニューヨーク・クリスティーズで約1億7000万ドルで落札され、これまでのモディリアーニ作品では最高価格を記録した。購入者は中国の実業家である刘益谦(Liu Yiqian)。(続きを読む

11位:ナンバー5(1948)

調整価格 1億7400万ドル
元の価格 1億4000万ドル
作品名

ナンバー5(1948)

作者 ジャクソン・ポロック
制作年 1948年
売買日 2006年11月2日
売り手 デビッド・グリフィン
買い手 デイビット・マルティネス
オークション プライベート・セール(サザビーズ)

12位:女性 3

調整価格 1億7400万ドル
元の価格 1億3750万ドル
作品名

女性 3

作者 ウィレム・デ・クーニング
制作年 1951-1953年
売買日 2006年11月18日
売り手 デビッド・グリフィン
買い手 スティーブン・A・コーヘン
オークション プライベート・セール(ガゴシアン)

《女性 3》は1953年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。デ・クーニングの1951年から1953年に制作された女性を主題としたシリーズ6作品の1つ。2006年11月に、デビッド・グリフィンがスティーブン・A・コーヘンに1億3750万ドルで売り払った。(続きを読む

13位:マスターピース

調整価格 1億6870万ドル
元の価格 1億6500万ドル
作品名

マスターピース

作者 ロイ・リキテンスタイン
制作年 1962年
売買日 2017年1月
売り手 アグネス・ガンド
買い手 スティーブン・A・コーヘン
オークション プライベート・セール

《マスターピース》は1962年にロイ・リキテンスタインによって制作された作品。ベンデイ・ドット技法やフキダシが使われている。その後のリヒテンシュタインの成功を予言した物語的内容で知られている。2017年にアメリカのコレクターでMoMA PS1董事長であるアグネス・ガンドが、1億6500万ドルで著名コレクターのスティーブン・A・コーエンに個人間取引で売却。(続きを読む

14位:アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

調整価格 1億6780万ドル
元の価格 1億3500万ドル
作品名

アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

作者 グスタフ・クリムト
制作年 1907年
売買日 2006年6月18日
売り手 マリア・アルトマン
買い手 ロナルド・ローダー
オークション プライベート・セール(クリスティーズ)

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》は1907年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。金が多用されている。クリムトによるブロッホ=バウアーの全身像は二作存在するが、これは最初の作品で、クリムトの「黄金時代」後期における最も完成度の高い作品である。2006年6月に156億円でエスティ・ローダー社社長(当時)のロナルド・ローダーに売却され、現在はニューヨークのノイエ・ギャラリーが所蔵している。(続きを読む

15位:夢

調整価格 1億6670万ドル
元の価格 1億5500万ドル
作品名

作者 パブロ・ピカソ
制作年 1932年
売買日 2013年3月26日
売り手 スティーブンA.ウィン
買い手 スティーブン・A・コーヘン
オークション プライベート・セール

「夢」は1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。130×97cm。当時のピカソは50歳。描かれている女性は22歳の愛人マリー・テレーズ・ウォルター。1932年1月24日の午後のひとときを描いたものである。シュルレアリスムと初期のフォーヴィスムが融合した作風。(続きを読む


■参考文献

List of most expensive paintings - Wikipedia、2019年6月11日アクセス


【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「悲しみ」

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悲しみ / Sorrow

愛人シーンを描いたドローイング作品


概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1882年
メディウム 紙、ドローイング
サイズ 44.5cm×27.0cm
コレクション ウォルソール新美術画廊

ゴッホのベストモデル「シーン」を描いた作品


《悲しみ》は、1882年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作されたドローイング作品。44.5cm×27.0cm。イギリスのウォルソール新美術画廊のガマン・ライアン・コレクションの1つ。カタログ・レゾネではF929aとなっている。

 

ゴッホが画家になる決心をして2年後に描かれた作品で、ゴッホのドローイング作品において最もよく知られているマスターピース。描かれている女性は、ゴッホの当時の愛人で娼婦だったクラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)。

 

彼女はゴッホの手紙の中で数多く言及されている女性で、彼女を描いたドローイングシリーズは、ゴッホ自身が重要な作品と考えており、「私が描いたモデルのなかでベストだ」と表明している。1882年のゴッホの手紙では「私はさまざまな人々に触れるドローイング作品を作りたい。《悲しみ》は小さな始まりで、少なくとも私自身の心に直接的に何か触れるものがある」と書いている。

 

シーンはゴッホが画家になる決心をし、1881年から1883年までハーグに滞在し、いとこで画家として成功していたアントン・モーブのもとで絵の学んでいるときに出会った女性である。ゴッホと出会った当時の彼女は1人娘を持った娼婦であり、さらに妊娠中だった。

 

ゴッホはモーブから石膏デッサンによる絵の練習をすすめられていたが、実際のモデルを使ったデッサンに固執したため二人は仲違いになる。そんな孤独な状況にあるゴッホと出会ったのがモデルと娼婦を兼ね備えていたシーンだった。彼女をモデルにして描いた作品の多くは、当時のゴッホの家庭生活や貧困労働者の苦悩が反映されている。

 

二人は結婚しようとしたが、ゴッホの両親に反対される。また同棲後のシーンとの喧嘩も絶えず、ゴッホにとって家族の生活はあまり幸せと感じられず、家庭生活と芸術的発展は相容れないと感じ、結局は1883年に二人は別れることになった。

 

ゴッホと別れたあとのシーンは、裁縫、清掃、売春などで生計をたてる。1901年に結婚するが、1904年11月12日、54歳のときにスヘルデ川で入水自殺。なお、1883年にゴッホは「何か悪いムードが迫りつつある。私は水に飛び込んで終わることになるだろう」と予言めいたことを話していたという。

自然と女性とゴッホの並列的表現


「悲しみ」はおそらく1882年の春、その年の1月にシーンと出会い、7月に妊娠していた子どもを出産するまでの間に描かれた。この作品は、1882年4月10日付けのテオへの手紙で言及されている。また前景に描かれている春の花から制作時期を推測することができる。

 

絵の全体の雰囲気は荒涼としているが、前景に咲く春の花の存在は救済の可能性を示唆しているといえるだろう。ゴッホは人生で傷ついた女性としてシーンを描写し、また自然の中の冬の枯れた木々や荒廃した自然を、自身の内面と並列し、関連付けていた。

 

ほかに、自然とゴッホ自身の内面を関連付けた作品の代表例としては、1882年の「砂地の木の根」がある。この作品についてゴッホは「私は枝のある黒い幹の木々と白くスレンダーな女性の身体の両方を、私自身の人生の闘争として表現したかった」解説している。

フィンセント・ファン・ゴッホ「砂地の木の根」(1882年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「砂地の木の根」(1882年)

【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」

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星月夜 / The Starry Night

ゴッホの代表作と同時に西洋美術史の代表作


フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」(1889年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」(1889年)

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1889年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 73.7cm×92.1cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《星月夜》は、1889年6月にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された後期印象派の油彩作品。73.7cm×92.1cm。ニューヨーク近代美術館が所蔵している。

 

月と星でいっぱいの夜空と画面の4分3を覆っている大きな渦巻きが表現主義風に描かれている。ゴッホの最も優れた作品の1つとして評価されており、また世界で最もよく知られている西洋美術絵画の1つである。

 

《星月夜》は、サン=レミのサン=ポール療養院にゴッホが入院しているときに、部屋の東向きの窓から見える日の出前の村の風景を描いたものである。「今朝、太陽が昇る前に私は長い間、窓から非常に大きなモーニングスター以外は何もない村里を見た」と、ゴッホは弟のテオに手紙をつづり、《星月夜》の制作背景を説明している。

 

激しい筆致で描かれた星空の下には、それとは対照的に教会を取り巻く謙虚なムードの家屋が広がっている。また、教会の尖塔は背景に波立つ青黒い山々を貫くように誇張して描かれている。

 

前景にある大きな木は糸杉である。糸杉はまるで炎のようでキャンバスの下端から上端まで描かれており、それは土地と空を視覚的に接続する役割を果たしている。 天と地を接続している糸杉は、一般的に天国と関連して、死の架け橋の象徴とみなされている。また糸杉は墓地の木ともみなされており、哀悼の意を表しているという。

 

《星月夜》は、精神病院の窓から見える風景が基盤になっているが、実際にこのような風景は存在していない。ゴッホの過去の記憶がコラージュされており、たとえば中央に見える教会はフランスの教会ではなく、ゴッホの故郷であるオランダの教会が描かれている。

 

1941年にアメリカのコレクターのリリー・P・ブリスからニューヨーク近代美術館に遺贈されたあと、現在まで同美術館が所蔵している。

この作品のポイント


  • ゴッホの代表的作品であり西洋絵画の代表的作品
  • 精神病院入院中、部屋の窓から見える風景からインスピレーションを得て制作した
  • ゴッホの過去の記憶がコラージュ的に表現されており現実的風景ではない

制作背景


「星月夜」は精神病院入院中に描かれた


1888年12月23日、フランス南部のアルルで、かの有名なゴッホの左耳自己切断事件が発生する。本格的にゴッホの精神状態がひどくなってきたため、翌年の1889年5月8日に、サン=レミのサン=ポール療養院に自主的に入院することに決めた。

 

この病院ではゴッホが入ったときの収容人数は半分以下で、また裕福な人には手厚い食事を提供をしていた。ゴッホは2階建ての寝室だけでなく、絵画のアトリエとして1階の部屋も自由に使うことができ、かなり快適な環境だったため、入院先として選んだとみられている。

 

療養院に入院している間、ゴッホはここで精力的に絵を描く。この時代に最も有名な作品を多数産みだしているその1つが本作の《星月夜》である。ほかに1889年5月に《アイリス》、1889年9月に《青い自画像》を制作している。

 

《星月夜》は6月18日ごろに描かれた。そのとき、弟のテオに星空シリーズの新しい習作を思いついたと手紙を書いている。

サン=レミのサン=ポール療養院
サン=レミのサン=ポール療養院

現在は精神病院は閉鎖し観光名所に


現在の正式な名称は「サン ポール ド モゾール修道院」である。ゴッホがアルルで耳切り事件を起こしたあと、この修道院に併設されていた精神病院にゴッホは入院していた。修道院の前は、オリーブ畑やひまわりを持っているゴッホの像があり、中に入ると、美しい回廊、庭園、ゴッホの部屋(再現)などがある。

療養院のゴッホの部屋。この窓から見える風景をゴッホは描いた。
療養院のゴッホの部屋。この窓から見える風景をゴッホは描いた。

21作品も存在する鉄格子窓から見た風景


《星月夜》を含めて少なくとも21作品の東向きの鉄格子の窓から見て描いた風景画が現在、見つかっている

 

ゴッホは、日の出、月の出、日差しを浴びた日中、曇の日、風の強い日、雨の日など天気の異なるさまざまな時間帯の同一風景を描いていた。《星月夜》は二階のベッドルームの窓からから見た東向きの風景であることには間違いない。

 

ただ入院当時、病院の職員から二階の寝室で油絵を描く許可は与えられておらず、ゴッホは部屋の一階のアトリエで昼間に絵画制作をしていたといわている。そのため《星月夜》は夜に見た風景の記憶を頼りに描いているのだろうと思われることがある。

 

しかし、単純にそう考えるのは間違いである。油絵制作は寝室できなかったものの、インクや木炭で紙の上にスケッチすることは可能だった。

 

こうした点からゴッホは、室で夜にスケッチ画をし、昼間にスケッチ画を元にして油絵を描いていたと思われる。

 

ゴッホは1889年5月23日ごろ、弟のテオに手紙で「窓から四角形の小麦畑が見える。朝になるとその栄光に満ちた小麦畑の上に朝日が昇る」と書いている。

 

なお、これらの東向きの窓から描かれた絵画に共通する要素は、画面右側に描かれたアルピーユ山脈のなだらかな丘の対角線である。また、21作品あるバージョンのうちの15作品は、小麦畑を囲む壁を越えて伸びる大きな糸杉の木が描かれている。

 

さらに糸杉の作品の中でも6作品は、本来よりも糸杉を拡大した形で描いている。拡大された糸杉が現れる最も有名な作品は《糸杉と小麦畑(F717)》と《星月夜》で、通常よりも手前に近づけて描いている。

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と小麦畑(F717)》(1889年)。画面右側に見える大きな糸杉が東向きの窓から描かれた絵画シリーズの目印の1つ。本来よりも糸杉を拡大した形で描いている。
フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と小麦畑(F717)》(1889年)。画面右側に見える大きな糸杉が東向きの窓から描かれた絵画シリーズの目印の1つ。本来よりも糸杉を拡大した形で描いている。

東向きの窓から見える風景シリーズの中で有名な作品の1つである《サン・レミーの裏にある山の風景(F611)》は、現在コペンハーゲンに存在するが、ゴッホはこの絵画のスケッチをたくさん描いている。

 

たとえば《嵐の後の小麦畑(F1547)》などが典型的である。ただし、この絵がアトリエか外で描かれたのかどうかははっきりしていない。

フィンセント・ファン・ゴッホ《サン・レミーの背後にある山岳風景(F611)》(1889年)
フィンセント・ファン・ゴッホ《サン・レミーの背後にある山岳風景(F611)》(1889年)
フィンセント・ファン・ゴッホ《嵐の後の小麦畑(F1547)》(1889年)
フィンセント・ファン・ゴッホ《嵐の後の小麦畑(F1547)》(1889年)

大きな糸杉が意味するものは?


絵の中で目立つ要素として中央を下から上まで貫いた大きな糸杉がある。

 

糸杉というモチーフは常に当時のゴッホの頭の中を占領していたもので、糸杉に対して「美しい線」を見出し、古代エジプトの記念碑として有名なオベリスクに相当する扱いとして見ていたという。

 

糸杉をモチーフにしたゴッホの代表作としては《糸杉と星の見える道》が挙げられる。美術史家によれば、《糸杉と星の見える道》は、プロテスタント世界でもっともよく読まれた宗教書の『天路歴程』から影響を受けていると指摘している。『天路歴程』に糸杉と大きな道のシーンがあるという。

 

ゴッホは1888年にアルルに滞在したころから糸杉が見える夜景の絵画を制作しはじめた。

フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と星の見える道》(1890年)
フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉と星の見える道》(1890年)

三日月と巨大過ぎる不自然な星々


《星月夜》の重要な要素はやはり星空である。

 

ゴッホはヴィクトル・ユーゴーやジュール・ベルヌの著作物が好きだったこともあり、星や惑星を「死後の世界」のイメージとして描いていると思われる。またゴッホは生涯の間、天文学に興味を持ち、かなり高度な天文学の知識と議論ができたという。

 

天文学的な記録からすると、ゴッホが当時描いた月は半円よりふくらんだ状態から欠けていく状態の月であり、ゴッホが描いた月は天文学上では正しくはないと指摘されている。また、当時三日月型であったとしても間違っているが、これはゴッホがデフォルメして描いたものだと考えられる。

 

《星月夜》は月以外に巨大な星々が印象的であるが、これもまた金星をデフォルメ化したものだと考えられている。1889年の春、プロヴァンスでは夜明けに金星がはっきりと見え、この作品が描かれた時期は金星がもっとも輝く時期であったという。そのため、糸杉の木の周辺に輝く大きな星群は、実際は金星である。

 

渦巻状の星雲が描かれているが、これは当時人気だったカミーユ・フラマリオンの天文学書に掲載されていたイラストレーションを元に描かれたものだと考えられている。

ゴッホが「星月夜」を描いた時期の星。金星が画面左側に存在する。
ゴッホが「星月夜」を描いた時期の星。金星が画面左側に存在する。

中央に見える村々は本当は存在しない?


ゴッホの寝室の東向きの窓からは絶対に見えなかった絵画の要素は村である。この村はサン=レミの村の丘からスケッチされた風景画を基盤にして、ゴッホが独自に付けたした要素だと思われる。

 

そのようなこともあって、美術史家のローナルド・ピクバンスは「さまざまなモチーフを意図的にコラージュしたもの」とし、《星月夜》ははっきりと「抽象絵画」と評している。

 

ピクバンスはゴッホが収容されていたから糸杉の樹は見えず、また、ほかに描かれている村や空の渦も含め、描かれてるモチーフのほとんどは実際の景色ではなく、ゴッホの想像の産物であると評している。

「F1541」スケッチ。丘の上から描いた村のスケッチ画を実際には見えないはずの小麦畑の風景画に付け足したと考えられる。
「F1541」スケッチ。丘の上から描いた村のスケッチ画を実際には見えないはずの小麦畑の風景画に付け足したと考えられる。

ゴッホにとっては抽象画の失敗作だった


ゴッホは膨大な手紙を書いているものの、《星月夜》への言及に関してはほとんどない。6月に星空を描いたという報告したあと、ゴッホは1889年9月20日ごろにテオに送った手紙で、その作品を「夜の習作」と書いている。

 

その後、9月28日、ゴッホが精神病院からテオに送った絵画のなかで、自分なりに少し良いと思っていたのは「小麦畑」「山」「果樹園」「青い丘とオリーブの木」「ポートレイト」「石場の入口」で、"残りの作品"に関しては特に感想はなかったとされている。

 

《星月夜》は、その"残りの作品"に含まれていた作品であり、ゴッホ自身はさほど関心はなかったようだ。ゴッホはテオに作品を実際に送付する際、郵便料金を節約するため、当初は《星月夜》に関しては送らず自分で所持をしていたという。

 

なお、1889年11月下旬ごろ、画家のエミーユ・ベルナードに送った手紙の中で、ゴッホは《星月夜》に関して失敗作であると説明している。また、バーナードへの手紙でゴッホは、星空上部中央に描かれた抽象現主義的に描かれた渦巻きについて「一度か二度は抽象的な方向へ向かおうとしたことがあったが、結局、間違いだった」と話している。

 

ゴッホは《星月夜》を抽象絵画作品の失敗とみなし、「星があまりに大きすぎる」とその理由を説明している。

医学的見地からゴッホは当時どういう状況だった?


ゴッホの伝記作家スティーブン・ネイファーとグレゴリー・ホワイト・スミスはゴッホの絵画を幻覚的風景と単純に呼ぶことに慎重で、《星月夜》に対して医学的な知見から論議を行っている。その結果、ゴッホは当時、側頭葉てんかん、もしくは潜伏性と診断された。

 

「古くから知られている病気のような、"落ちていく病気"と呼ばれる手足を揺らす症状から始まり身体が崩壊していく種類のものではない。精神的てんかんだ。思考、知覚、疑問、感情の崩壊が現れ、しばしば発作的な奇行を起こすことがある」と二人は話している。

 

ゴッホは1889年7月に二度目の発狂を起こすことになるが、ネイファーとスミスは、ゴッホの発狂の源は彼が《星月夜》を描いたときに、すでに現れはじめていると指摘し、作品の創作意欲を打ち破る勢いで狂気が現れていると説明している。6月半ばのある日、現実感覚を超える勢いで、ゴッホは星空の絵画を描くことに夢中になって制作を行っていた。

使用されている顔料


《星月夜》はロチェスター工科大学の科学者とニューヨーク近代美術館によって共同で調査されている。顔料分析では夜空はウルトラマリンとコバルトブルーで塗られ、星や月には希少なインディアンイエローや亜鉛イエローが使われていることが分かっている。

作品の流通


・1889年9月28日に、ゴッホはパリにいる弟テオに他いくつかの作品と一緒に《星月夜》を送付している。

 

・ゴッホが死去し、半年後の1891年1月にテオも死ぬと、テオの未亡人であるジョーがゴッホの遺産の管理人となり《星月夜》の所有者となる。

 

・1900年に、ジョーはパリの詩人ジュリアン・レクラークに《星月夜》を売り払う。

 

・1901年に、ジュリアン・レクラークはゴーギャンの古い友人であるエミール・シューフェネッカーに転売。

 

・ジョーがシューフェネッカーからこの作品を買い戻す。

 

・1906年に、ジョーはロッテルダムのオルデンジール画廊に再度売り払う。

 

・1906年から1938年まで、ロッテルダム在住のジョージエット・P・ファン・ストークが画廊経由で購入し所有する。

 

・1938年以後、ファン・ストークがパリとニューヨーク在住のポール・ローゼンバーグに売り払う。

 

・1941年に、ニューヨーク近代美術館がローゼンバーグから《星月夜》を購入して、現在にいたる。

大衆文化に登場する「星月夜」


・ドン・マクリーンの「フィンセント」は、ゴッホにささげられた曲。ゴッホの伝記を読んだ1971年に書かれたという。「Starry Starry Night」という歌詞で始まるが、これはゴッホの「The Starry Night(邦題:星月夜)」から由来する。

 

・シンディ・ローパーのファーストアルバム「シーズ・ソー・アンユージュアル」の裏表紙に写っているハイヒールの靴底には、ゴッホの《星月夜》の絵画がカットアウトで貼り付けられている。ちなみに裏表紙のアートワーク担当は写真家のアニー・リーボヴィッツである。

 

・1990年の黒澤明の映画「夢」に出てくる画廊で、ほかのゴッホの絵画とともに《星月夜》がかけられている。

 

・ウディ・アレンが監督をつとめた映画『ミッドナイト・イン・パリ』の映画ポスターに《星月夜》が利用されている。

 

・「ザ・シンプソンズ」の第20シリーズの20話のエンディングで、マギーは《星月夜》の絵を描いている。

 

・英国BBC放送のSFドラマ「ドクター・フー」の第五期の10話「フィンセントと医者」の11番目の医者は、エイミー・ポンドとゴッホの時代に戻り、宇宙人の絵を描いている。

 

・2009年のアニメーション映画「コララインとボタンの魔女 3D」で、《星月夜》から影響を受けたと思われる背景が登場する。

シンディ・ローパー「シーズ・ソー・アンユージュアル」
シンディ・ローパー「シーズ・ソー・アンユージュアル」
「ミッドナイト・イン・パリ」の映画ポスター。
「ミッドナイト・イン・パリ」の映画ポスター。

【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「アイリス」

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アイリス / Irises

日本画の影響を受けて描かれた花の絵


フィンセント・ファン・ゴッホ「アイリス」(1889年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「アイリス」(1889年)

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1889年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 71 cm × 93 cm
コレクション J・ポール・ゲティ美術館

《アイリス》は、1889年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。フランスのサン・ミレ修道院のサン・ポール・ドゥ・モウソーレ病院に入院しているときに描いた作品の1つ。

 

1889年5月に入院したあとゴッホは、すぐにアイリスのシリーズを描きはじめた。この作品は病院の庭に自然に咲いていたアイリスを描いたものである。この絵画では後期作品で特徴的だった表現主義的な傾向はほとんど見られない。

 

ゴッホは絵を描きつづけることで、どんどん頭がおかしくなってくると感じはじめていたので、この絵画を「病気の避雷針」と呼んだ。

 

また《アイリス》は日本の浮世絵の影響を色濃く受けている。浮世絵からの影響と思われるものに、輪郭線がはっきりしていること、西洋絵画らしくないアングルやクローズアップ、平面的な色の塗り方などがあげられる(露光を元にした描き方をしていない)。

 

《アイリス》は1889年9月に開催されたアンデパンダン展に《ローヌ川の星月夜》とともに展示された。

 

この絵を最初に所有したのはジュリアン・フランソワ・タンギーである。彼は画材屋兼画商を営んでおり、ゴッホは彼を3度モデルにして描いたことがある。1892年にタンギーは《アイリス》を、ゴッホの最初のファンの一人であった批評家のオクターヴ・ミルボーに300フランで販売。2012年にロサンゼルスにあるJ・ポール・ゲティ美術館が所有している。



【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」

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ひまわり / Sunflowers

ゴッホの珍しい楽観主義的な表現


フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」(F457)(1889年)東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館所蔵。
フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」(F457)(1889年)東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館所蔵。

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1889年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 100.5 cm ×76.5 cm
コレクション 東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館

2種類あるひまわりシリーズ


《ひまわり》はフィンセント・ファン・ゴッホの静物絵画シリーズ。ひまわりシリーズは2つある

 

初期シリーズは1886年から1887年ごろにパリで弟のテオと住んでいるときに制作されたもので、土の上にひまわりの花が寂しげな雰囲気で置かれた作品群である。後期シリーズはアルル滞在時の1888年制作されたもので、花瓶に活けられたひまわりの花束を描いた作品群である。種子頭の質感を出すように両方のシリーズとも絵の具を厚く塗布して描かれている。

 

ゴッホにとってひまわりとはユートピアの象徴であったとされている。しかし、ほかの静物画作品に比べるとゴッホの主観や感情を作品に投影させることに関心がなかったと見られている。ひまわりシリーズの制作は、ゴッホの友人だったゴーギャンと関わりの深い作品で、特に後期は自身の絵画技術や制作方法を披露することを目的に制作されていたという。

初期ひまわりシリーズ


初期のひまわりシリーズは、1886年から1887年にかけてパリ時代に制作したもので4点存在している。そのうちの2点は友人のゴーギャンが購入し、パリの彼のアパートのベッドルームに飾っていたという。

 

この時期は弟のテオと住んでいたため、手紙は存在しておらずゴッホの詳細な活動はほとんどわからないため、作品に対する注釈もわからない。しかし、この時期にすでにひまわりの絵を描いていたのは確かである。

 

なお、1890年代なかばにゴーギャンは旅費を工面するため作品を売り払っている。

フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」(F375)(1887年)。メトロポリタン美術館所蔵。
フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」(F375)(1887年)。メトロポリタン美術館所蔵。

後期ひまわりシリーズ


後期のひまわりシリーズは、1888年にアルル滞在時に制作さされたものである。1888年2月にゴッホはアルルに移住する。同年10月にゴーギャンもアルルにやってくる。パリ時代からゴーギャンとの共同アトリエを望んでいたゴッホは、二人が利用する予定の黄色い家のインテリア絵画として「ひまわり」を描いた。

 

これが後期の花瓶に活けられたひまわりシリーズである。このシリーズは、ゴーギャンを歓迎するゴッホの気持ちがあふれており、ゴッホ作品では非常に珍しい明るい作品である。東京の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館が所蔵しているひまわりは、このシリーズの7点のうちの1つである。

 

なお、ユートピアに満ちたゴーギャンとの共同生活は、たった2ヶ月で仲違いして破綻した。

フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」(F454)(1888年)ナショナル・ギャラリー所蔵
フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」(F454)(1888年)ナショナル・ギャラリー所蔵

損保ジャパンにある「ひまわり」


1987年3月30日、ロンドンで行なわれたオークションにて、ゴッホの《ひまわり》(F457)を安田火災海上(現・損害保険ジャパン日本興亜)が58億円で落札。その後、東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で展示されることになる。

 

東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館は、1976年に開館した美術館で、損保ジャパン日本興亜本社ビル42階にある。東郷青児をはじめとする現代日本人洋画家の作品を中心に収集しており、1987年10月にはゴッホの《ひまわり》を追加。これらゴッホ、ゴーギャン、セザンヌの3作品は展示室最後のコーナーで常設展示されている。

 

現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する《ひまわり》をもとに描かれている。ロンドンの《ひまわり》と同じ構図で描かれているが、全体的な色合いやタッチなど、細かい部分は異なり、ゴッホが色彩や質感の研究のために制作に取り組んでいたことがうかがえる。

いつでも見れる「ひまわり」。
いつでも見れる「ひまわり」。


【作品解説】ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ「米軍募集ポスター」

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米軍募集ポスター / Uncle Sam recruitment poster

I WANT YOU FOR U.S. Army


ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ「米軍募集ポスター」(1917年)
ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ「米軍募集ポスター」(1917年)

概要


作者 ジェームズ・モンドメリー・フラッグ
制作年 1917年
表現媒体 ポスター

「米軍募集ポスター」は、1917年にアメリカの画家でイラストレーターのジェームズ・モンゴメリー・フラッグによって制作されたポスター作品。第一次世界大戦時にアメリカ陸軍への応募を促すために描かれた。「アメリカ陸軍に君が必要だ」(I Want YOU for U.S. Army)とキャプシャンがうたれている。

 

描かれている人物はアンクル・サムである。アンクル・サム(米国のイニシャル)とは、アメリカ政府またはアメリカ合衆国の国民を擬人化した架空の人物。伝説によれば1812年の戦争中に登場しているという。ニューヨークの精肉業者で1812年の戦争中に米軍兵士に食糧を補給したサミュエル・ウィルソンがモデルされているが、実際の起源はよくわかっていない。しかし、19世紀初頭からアンクル・サムはアメリカ文化の象徴であり、愛国的精神の象徴として使われている。

 

新聞とは異なる公的な文書における最初のアンクル・サムに関する研究資料としては、1816年に刊行されたフレデリック・アウグストゥス・フィドファディによって書かれたアレゴリー書「アンクル・サムの冒険、失われた名誉後の捜索」がある。

 

なお、構図は1914年に制作されたイギリス軍募集のポスター「キッチナーの募兵ポスター」を基盤にしている。

「キッチナーの募兵ポスター」(1914年)
「キッチナーの募兵ポスター」(1914年)

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Uncle_Sam、2020年6月4日アクセス


【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「夜のカフェテラス」

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夜のカフェテラス / Café Terrace at Night

青と黄が独特なゴッホの有名な夜街風景画


概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1888年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 81.0 cm×65.5 cm
コレクション クレラー・ミュラー美術館

《夜のカフェテラス》は、1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。81.0 cm×65.5 cm。クレラー・ミュラー美術館所蔵。

 

この作品を描いた翌年1898年にゴッホは耳切断事件を起こして入院することになるが、これは事件前に滞在していたフランスのアルル時代に制作されている。描かれているのはアルルの街の夜の風景。絵にゴッホのサインはないもののゴッホ自ら3通の手紙で作品解説がされている。

 

1891年に初めて展示されたときのタイトルは「夜のコーヒーハウス」で、星空を背景に使って制作した最初の作品だった。《ローヌ川の星月夜》で空を満面の星で塗りつぶし、翌年に《星月夜》を制作する。ほかに《ウジェーヌ・ボックの肖像》でも背景に星空を描いている。

 

なお、アルルのカフェを描いたゴッホの他の作品として《夜のカフェ》があるが、ここで描かれているカフェと《夜のカフェテラス》で描かれているカフェは全く別の店舗であることに注意したい。

「夜のカフェテラス」の習作画。
「夜のカフェテラス」の習作画。

現在も当時のカフェテラスの風景は残っている


絵の舞台となっているのはアルルにあるフォリュム広場という場所で、現在は「Le Cafe La Nuit(CAFE VAN GOGH)」という名前の喫茶店が立地し、ゴッホとゆかりのある観光地として有名になっている。

 

ゴッホは当時フォリュム広場の角に立ち、イーゼルを立てて絵を描いていた。ゴッホは広場の北東の角から南の方に位置する人気カフェの照明で照らされたテラスや、南の教会方面の闇へ向かって伸びていくパレ通りを描いた。パレ通りに沿った建物の向こう側に、以前は教会の塔が見えたという。(現在は宝石細工博物館になっている)。

 

画面の右側には照らされた店や広場を取り囲むように植えられた木々が描かれている。しかし、ゴッホはこの小さな店のすぐそばにあったローマ記念館の一部を省いている。

 

この当時の風景は今でも変わらず残っており、観光者はゴッホの視点を楽しむことができる。アルルにはここ以外にも「黄色い家」をはじめ、ゴッホとゆかりのある場所がいくつかあるので、訪れたらぜひ立ち寄ってほしい。

モーパッサンの「ベラミ」の始まりのシーン


ゴッホの静物画で描かれる本には「ベラミ」が出てくるものもある。
ゴッホの静物画で描かれる本には「ベラミ」が出てくるものもある。

ゴッホ美術館の学芸員によれば、モーパッサンの小説「ベラミ」で記述されている「明るい光で照らされた正面と騒がしい飲酒者」というシーンと《夜のカフェテラス》の絵画の風景ががよく似ているという。

 

ただし、モーパッサンの方はカフェテラスのみで、星空には言及していないので、そこがゴッホとの大きな違いといえる。

 

《夜のカフェテラス》を描いたあと、ゴッホは妹に手紙を書いている。

 

「ここ数日間、新しい夜のカフェの戸外の絵を描いていた。テラスで酒を飲む人々はほとんどいなかった。店の巨大な黄色のランタンの光がテラスや店の正面、床を照らし、通りの石畳みにまで光が伸びていた。照らされた石畳は紫色とピンク色を帯びていた。通りに面した家屋の切り妻壁は、星が散りばめられた青い空のもと、緑の木樹とともにダークブルーや紫の色を帯びていた。今ここに黒のない夜の絵画がある。美しい青、紫、緑と淡い黄色やレモングリーン色で照らされた広場だけがある。私は夜のこのスポットで絵を描くのが非常に楽しい。これまでもたくさん絵を描いており、昼間に描いたドローイングを元に油絵を描いている。ギ・ド・モーパッサンの小説「ベラミ」の始まりがちょうど、通りに面した照明付きのカフェがあるパリの星月夜の風景のだが、私がちょうど今描いている主題はこれと同じようなものだ」。

ルイ・アンクタン「クリシーの大通り」からインスパイア


1981年にボゴニャ・ウェルシュ~オルガルーブは「夜景だけでなく、漏斗状の遠近的風景と全体を覆っている青と黄の使い方もゴッホの特徴である」と批評している。また、少なくとも部分的にルイ・アンクタン《クリシーの大通り》からインスパイアされていると指摘している。

ルイ・アンクタン「クリシーの大通り」(1887年)
ルイ・アンクタン「クリシーの大通り」(1887年)

ゴッホ版「最後の晩餐」だった!?


国際アカデミズムフォーラム(IAFOR)が2013年に開催した「芸術と人間の欧州会議」では、ゴッホが生涯においてイエス・キリストに自身を投影していたことから、ゴッホはレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》を独自に解釈した形で新しい作風にしようとしていたのではないかと、斬新な解釈が発表された。

 

ゴッホが《最後の晩餐》を意識した作品としてはほかに《アルルのレストラン内のインテリア》や《アルルのレストラン・キャレル内のインテリア》がある。これは、アルル滞在時の同じ時期に制作したものである。

フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルのレストラン内のインテリア」(1888年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルのレストラン内のインテリア」(1888年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルのレストラン・キャレル内のインテリア」(1888年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「アルルのレストラン・キャレル内のインテリア」(1888年)


【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「医師ガシェの肖像」

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医師ガシェの肖像 / Portrait of Dr. Gachet,

ファン・ゴッホの最後の担当医


概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1890年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ 67×56cm
所蔵者 ジークフリート・クラマラスキー

《医師ガシェの肖像》は1890年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。ゴッホ死ぬ前の数ヶ月間、世話をしていたポール・ガシェ医師を描いたものである。

 

1890年6月にオーヴェル=シュル=オワーズで制作した2つのバージョンが存在し、両方ともガシェは右手をテーブルにひじをかけて頭を支えているが、色味や表現方法についてはかなり異なる。

 

1990年5月15日に最初のバージョンはニューヨークのクリスティーズ・オークションで8250万ドルで落札された。 

《医師ガシェの肖像》第2バージョン
《医師ガシェの肖像》第2バージョン

制作背景


1890年にファン・ゴッホの弟のテオは、当時ファン・ゴッホが入院していたサン・レミ療養所から退院したあとの生活場所を探していた。カミーユ・ピサロから、画家でもあり精神科の医師でもあるガシェが画家との共同作業に関心を持っていると知らされ、カミーユ・ピサロのすすめでゴッホはガシェのオーヴェル=シュル=オワーズへ移ることになる。

 

ファン・ゴッホのガシェの最初の印象はよくないものだったという。テオへの手紙でゴッホは「ガシェ医者は全く信頼できないとおもう。まず第一に彼は私よりも病気だとおもう。もしくは同じ程度だろうか、そういうことだ。盲人が別の盲人を導くと、二人とも谷に落ちはしないか?」と書いている。

 

しかしながら、二日後に妹のヴィルへの手紙では「非常に神経質で、とても変わった人だ。体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と書いている。

 

当時のゴッホは、精神病院に幽閉されたトルクァート・タッソを描いたウジェーヌ・ドラクロワの作品を思い描いていた。ポール・ゴーギャンとフランスのモンペリエを訪れたあと、ファーブル美術館にあるアルフレッド・ブリャスのコレクションを見たあと、ファン・ゴッホはテオにリトグラフ作品が手に入らないか尋ねている。

 

入院して3ヶ月半がたった後も、ゴッホは描きたかった肖像画の種類の代表例の1つとして、その作品を思い続けていた。「しかし、ドラクロワが試みて描きあげた牢屋のタッソの方がより調和に満ちている。他の多くの絵と同様、本当の人間を表現しているのだ。ああ、肖像画! 思想のある肖像画、その中にあるモデルの魂、それこそ実現しなければならないものだと思う。」とゴッホはテオに手紙を書いている。

 

ファン・ゴッホは1890年に妹に絵についてこのように書いている。「私は医者ガシェの肖像を憂鬱さを帯びた表現で描いた。見る人によっては顔をしかめるかもしれない。悲しいが優しく、はっきりと知性を感じさせる作品だ。おそらく100年後に評価されるかもしれない。」

ドラクロワ《フェラーラの聖アンナ病院のタッソ》
ドラクロワ《フェラーラの聖アンナ病院のタッソ》

精神科医ポール・ガシェとは


モデルになっているのフランスの精神科医のポール・ガシェ(1828年7月30-1909年1月9日)である。彼は美術愛好家であり、自身でも絵を描くアマチュアの画家であった。1958年、30歳のときに論文「鬱の研究」で医学博士号を与えられ、同年秋にパリのモントロン通りに診療所を開き、「女性と子どもの神経症の特別治療」を掲げて開業する。

 

1870年に父が死去すると、多額の金利収入が入るようになり、診療の仕事に不熱心になり、画家、詩人、音楽家との交流に傾斜するようになったという。

ポール・ガシェ
ポール・ガシェ

■参考文献

Portrait of Dr. Gachet - Wikipedia、2017年7月10日アクセス


【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「開かれた聖書の静物画」

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開かれた聖書の静物画 / Still Life with Bible

父と息子の異なる世界観の並列


概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1885年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 65.7cm x 78.5cm
コレクション ファン・ゴッホ美術館

《開かれた聖書の静物画》は、1885年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。65.7cm x 78.5cm。アムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館が所蔵している。

 

描かれている重厚な聖書はファン・ゴッホの父親が所有していたものである。ゴッホの父親はプロテスタントの牧師だった。ゴッホは本作品を父の死の直後に描いている。聖書の横に描かれている書物はエミール・ゾラの『生きる歓び』で、この本は当時、モダン・ライフの"聖書"といわれていた。この2つの本はゴッホと彼の父の異なる世界観を象徴している。

 

ゴッホはテオに、「黃茶色の前景と黒の背景の間にある、革で縛られた開かれた白い聖書の静物画」と説明しており、特に黒色を強調したかったという。

 

しかし、テオはキャンバス全体が暗すぎて悲観的だと思い、印象派のようにもう少し明るい色を使うようアドバイスをしたといわれている。


【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「夜のカフェ」

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夜のカフェ / The Night Café

緑と赤で人間の因業を表現した夜のカフェ


フィンセント・ファン・ゴッホ「夜のカフェ」(1888年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「夜のカフェ」(1888年)

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1888年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 72.4cm × 92.1cm
所蔵 エール美術大学画廊

《夜のカフェ》は1888年9月にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。72.4cm × 92.1cm。エール美術大学画廊が所蔵している。

 

アルルのラマルティーヌ広場30番地にあったゴッホが寝泊まりをしていたカフェ「カフェ・デ・ラ・ガール」の店内を描いた作品である。このカフェを経営していたのはジョゼフ・ミシェルとその妻マリー・ジヌーで、ゴッホは《黄色い家》を借りるまでこのカフェで寝泊まりしていた。

 

《夜のカフェテラス》と同時期に描かれたものだが、異なるカフェであることに注意。

後期印象派の代表的作品であり表現主義の先駆


一見すると、最も典型的な印象派風の作品のように見えるが、ゴッホ自身は印象派の「世界に対するニュートラルな姿勢」や「自然や時の瞬間への美の享受」などの美術哲学を作品に投影していない。

 

そうではなく、後期印象派作品の特徴である作者の内面感情が投影された作品である。のちの表現主義と呼ばれる作風の先駆的な作品でもある。

緑と赤のコントラストが絵のポイント


「私は赤と緑で人類の因業な感情を表現しようとした。部屋には血のような赤色と濃い黄色で覆われており、中央に緑色のビリヤード台がある。またオレンジと緑の光輝を発する4つのレモンイエローのランプがある。そして絵のどこを見ても異質な赤と緑のコントラストが衝突した状態にあり、ところどころに紫と青色がある、ガランとして殺風景の部屋の中で、ほとんど眠っている与太者たちがいる。(テオへの手紙)」

 

天井や壁の緑色と赤色の壁の完璧な対比性、オレンジと緑の光輝を発して光る不吉な感じの黄色のガスランプ、床全体の黄色など、鮮やかな色彩で塗料を厚塗と大胆な筆致はシュールな雰囲気を醸しだし、鑑賞者にどこか悲哀や絶望感を感じさせる。

 

なお、この赤と緑のコントラストの絵画制作を実験したあと、《黄色い家》の黄色と青のコントラストの着想を思いついたという。

 

床板やビリヤードテーブルの対角線など部屋の中にあるさまざまなラインの多くは、後方にあるカーテンがかかったドアに集中している。前景の部屋全体から漂う悲哀さを伴いながら鑑賞者を奥にあるカーテンで隠された人間のシルエットのような形になったドアへと視線を誘導させる。

落伍者と娼婦の巣窟だった当時の「夜のカフェ」


中央奥に見えるカーテンが半分かかった戸口の部屋はおそらくプライベートルームである。店内には5人の客がテーブルについており、部屋の中央にあるビリヤード台側に立っているライトコートを着たウェイターが1人立っている。このウェイターは鑑賞者の方向へ視線を向けている。

 

5人の客のうちの3人は、飲み疲れてテーブルの上で眠り、そのまま放置されている。左奥では男女のカップルが飲んでいる。学者の話言では「当時、このカフェはアルルの落ちぶれたならず者男と娼婦たちの夜の巣窟だった」という。

 

また、ゴッホが弟テオに書いた手紙では、作品制作の動機について店主のジョゼフ・ミシェルがゴッホからたくさん飲酒代を巻き上げていたので、その復讐としてカフェ内部の退廃したムードを描いたという。

 

またこの絵画はジョゼフへの債務返済と和解のために描かれている。ビリヤードテーブル脇に立っている真っ白な服を着ている浮いたようなウェイターが経営者のジョゼフだという。


【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「高級売春婦」

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高級売春婦 / The Courtesan

日本の浮世絵に影響を受けた娼婦作品


概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1887年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 100.7 cm x 60.7 cm
コレクション ファン・ゴッホ美術館

《高級売春婦》は、1887年にフィンセント・ファン・ゴッホが制作した油彩作品。100.7cmx60.7cm。アムステルダムのファン・ゴッホ美術館がしている所蔵。タイトルはのちに《英泉》に変更されている。

 

ゴッホはアントワープに住んでいた1885年に日本の浮世絵に多大な影響を受ける。その後、1886年にパリに移り住むとゴッホは、プロヴァンス通りにあるサミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集めるようになる。ゴッホが収集した浮世絵の数は数百点にのぼり、葛飾北斎や安藤広重の作品などを集めていたという。

 

本作《高級売春婦》は、1886年5月に刊行された『パリ・イリュストレ』日本特集号の表紙を飾った渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」の左右反転作品を、グリッドを使って拡大模写したものである。背景は、ほかの浮世絵の風景に基づいて描いた緑豊かな水庭と、それと対照的な明るい金色の背景が描かれている。

 

日本画に影響を受けた強い輪郭線と明るい色味の取り合わせはゴッホ成熟期のスタイルで、またゴッホ独自の後期印象派のスタイルでもある。

 

この庭にはカエルとツルが描かれている。カエルとツルは当時19世紀のフランスで「売春婦」の隠語であり、ゴッホは売春婦とカエルとツルをかけている。



【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「ローヌ川の星月夜」

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ローヌ川の星月夜 / Starry Night Over the Rhône

アルル滞在時に描いたゴッホの星空シリーズ


フィンセント・ファン・ゴッホ「ローヌ川の星月夜」(1888年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「ローヌ川の星月夜」(1888年)

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1888年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 72.5 cm × 92 cm
コレクション オルセー美術館

《ローヌ川の星月夜》は、1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。72.5cm × 92cm。パリのオルセー美術館が所蔵している。本作は1889年にパリのアンデパンダン展で《アイリス》とともに初めて展示された。

 

ゴッホがアルル滞在時に、夜のローヌ川の堤防の一角の風景を描いたものである。1888年2月にアルルに移ってからゴッホは夜景に関心を持つようになった。テオにも夜景を描こうと手紙で説明している。本作が制作されたのは1888年9月になってからである。

 

夜空や夜の街のライトアップは《夜のカフェテラス》《星月夜》など、ほかのゴッホの有名な絵画作品でもよく見られる主題である。この風景は当時ゴッホが借りていたラマティン広場にあった黄色い家から歩いて2~3分の場所である。

 

この絵画は、昼間ではなく夜に描いている。実際は夜景をスケッチした上でガス灯の下で夜間に描いている。

 

水面はロイヤルブルー、地面はモーブ、街は青と紫色を使っている。ガス灯は黄色で、水面の反射は小豆色の金から青銅色までを使っている。おおぐま座が見えるアクアマリンの空には緑とピンクの輝きがある。その控えめな星の光は、ガス灯のけばけばしい金色とは対照的である。前景には愛し合うカップルがいる。

どこで描かれた風景か


 ローヌ川東側の埠頭(水辺通り)から見える風景で、ちょうど西側へ向かって川筋が折れ曲がっていく川膝に当たる部分である。北側から南へと流れるローヌ川は、アルルの岩のような地形を迂回するようこの川膝で右(方角的には西)に曲がって流れていく。ゴッホが描いているのは川筋がアルルにぶつかって迂回する部分である。

ゴッホが描いたこの場所は、1888年から現在にいたるまでさほど変わっていないが、海岸線はややかなり変わっているという。背景には橋がかかっており、水面にはゴッホの絵と同じようにライトや星座が映る。

ゴッホが描いた風景とよく似た場所(2008年)
ゴッホが描いた風景とよく似た場所(2008年)

ゴッホは個人的に親しみがあり、意味がある場所をよく描く傾向があった。これとよく似た作品の《星月夜》は、1889年に精神病院に入院していた部屋の窓から見える風景をベースにして描かれている。《星月夜》はある種、狂気が発症する直前に描かれたものに対し、《ローヌ川の星月夜》は、比較的ゴッホが楽観的だったアルル滞在時代に描かれたものである。この楽観的時代に描かれた時期の作品としてはほかに《ひまわり》がある。

スケッチ画


この絵画のスケッチは、1888年10月2日に友人のウジェーヌ・ボックへ宛てた手紙に同封されている。


【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「カラスのいる麦畑」

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カラスのいる麦畑 / Wheatfield with Crows

絶望と人生の終焉を表したゴッホ最期の作品


フィンセント・ファン・ゴッホ《カラスのいる麦畑》(1890年)
フィンセント・ファン・ゴッホ《カラスのいる麦畑》(1890年)

概要


作者 フィンセント・ファン・ゴッホ
制作年 1890年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 50.2cm × 103cm
コレクション ファン・ゴッホ美術館

《カラスのいる麦畑》は、1890年にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された油彩作品。50.2cm × 103cm。ファン・ゴッホ美術館が所蔵している。一般的にはゴッホの死の最後の一週間のうちに描かれたゴッホの最後の作品と見なされている。

 

本作は接合した2枚の正方形のキャンバス上に、小麦畑の上をただようカラスと曇り空が、ドラマティックに描かれている。激しい風に吹かれて乱れた状態の小麦畑がキャンバスの3分の2を占めている。

 

絵画から漂う孤独感は、どこに続いてるのかわからない中央の道や、どこへ飛来しているのかわからないカラスの存在によって高められている。批評家のキャリスリーン・エリクソンは、《カラスのいる麦畑》から、ゴッホの悲しみや人生の終焉を迎えつつある寂寥感を感じるという。

 

また、赤と緑の対照的な道は、キャリスリーン・エリクソンによれば、永遠の都に到達するまでのとても長い道のりを悲しむ巡礼者の物語である「天路歴程」のメタファーであるという。

 

一般的に鳥やカラスはゴッホ自身を表している。ゴッホは手紙の中で、籠の中の鳥を自分自身にたとえることがあったという。カラスは「死と再生」や「蘇生」の象徴として、ゴッホが以前から利用していたモチーフだった。また、小麦刈りは聖書においてしばしば人の死の象徴として語られており、ゴッホ自身も死のイメージとして好んで小麦畑の主題を描いている。

 

ゴッホ研究家のジュール・ミシュレはカラスについて「カラスはすべてにおいて自身に関心をもち、すべてのことを観察する。現代人よりもずっと自然とともに共生していた古代人にとって、今のように光に頼る余裕がなかった何百という曖昧な時代のなかで、非常に細心で賢明な鳥が向かう方角に従うことは小さな利益ではなかった」と話している。

 

1890年7月10日頃にゴッホはテオとテオの妻であるヨハンナに、手紙でオーヴェルで描いた3つの大きな絵画について説明をしている。2作品は乱れる空の下に広がる小麦畑のスケッチが手紙に含まれており、《曇空の下の小麦畑》と《カラスのいる麦畑》だと思われる。もう1枚は《ドービニーの庭》だと思われている。

 

しかしながら、美術史家たちは明確な歴史的記録が存在していないため、《カラスのいる麦畑》がゴッホの最後の絵かどうかは不確かであるという。手紙によれば《カラスのいる麦畑》は7月10日前後に完成しており、1890年7月14日に完成した《オーヴァーズの町の広場》や《ドービニーの庭》よりも前に描かれたものだとされている。

 

さらに、ヤン・フルスケルは小麦の収穫後の絵である《小麦の山のある畑(F771)》が、収穫前の《カラスのいる麦畑》の後でないと辻褄が合わないと指摘している。

フィンセント・ファン・ゴッホ「小麦の山のある畑」(1890年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「小麦の山のある畑」(1890年)

【作品解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」

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ジャガイモを食べる人々 / The Potato Eaters

貧しい人々を描いたゴッホ初期作品の自信作


概要


《ジャガイモを食べる人々》は1885年にフィンセント・ファン・ゴッホが制作した油彩作品。82cm × 114cm。アムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館が所蔵している。

 

1885年の3月から4月上旬にかけて、ゴッホは《ジャガイモを食べる人々》の習作スケッチをしており、それをパリにいる弟テオに送っているが、テオはこの作品に関してあまり関心を持たなかったとされ、また画面全体が暗すぎると批判も浴びた。

 

テオの反応をよそに、当時のゴッホとしては自身が本当に表現したかった農民の姿を描いたベスト作だったと述べている。また、かなり難易度の高い構図を描き上げて、自身が優れた画家への道を歩んでいることを証明したかったという。

 

ゴッホは貧しい農民の厳しい現実を描写しなければないと考えており、意図的に卑俗で醜いモデルを選んだが、完成した作品は自然であり汚れのない美しい作品であると思っていた。


【作品解説】パブロ・ピカソ「夢」

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夢 / Le Rêve

アメリカ最高額 1億5千万ドルのシュルレアリスム作品


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1932年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 130 cm ×97 cm
コレクション 個人蔵

《夢》は1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。130 cm×97 cm。当時のピカソは50歳。描かれている女性は22歳の愛人マリー・テレーズ・ウォルター。1932年1月24日の午後のひとときを描いたものである。シュルレアリスムと初期のフォーヴィスムが融合した作風といえる。

 

コントラストのある色彩と単純化した線を使って歪んだ描写が特徴であるが、批評家たちが繰り返し指摘しているように、ピカソの性器(テレーズの肩の部分)とテレーズの身体が融合した状態をダブルイメージで描いている。

 

また、半分に割れている顔が上に向いているが、おそらく下が横向きのマリー・テレーズで上側が横向きのピカソで、キスした状態を表現している。

 

《夢》は1941年にニューヨークのコレクターであるヴィクター&サリー・ガンツ夫妻が7000ドルで購入。ガンツ夫妻が死去した後(ヴィクターは1987年、サリーは1997年に死去)、《夢》を含むガンツ夫妻のコレクションは、相続税法を解決するために1997年11月11日にクリスティーズで競売にかけられる。そのさいに《夢》は約4800万ドルで落札された。当時は市場で流通している作品で4番目に高額な作品だった。

 

落札したのはオーストリア生まれNY在住のヘッジファンド・マネージャーのウォルフガング・フロットル。彼はピカソの作品のほかにもフィンセント・ファン・ゴッホの《医師ガシェの肖像》を所有している。2001年に経済事情によって《夢》は約6000万ドルでカジノ経営者のスティーブ・ウィンに売却された。

 

2006年に1億3900万ドルでSACキャピタル・アドバイザーズのスティーブ・A・コーエンに売却されることになっていたが、スティーブ・ウィンが絵にひじをついて穴を開けてしまい、売却はキャンセル。テレーズの腕の部分に7.6センチの裂け目が2つ付き、この修復には数年かかったが、コーエンはその間もこの絵に関心を持ち続け、2013年に1億5000万ドルで手に入れた。この価格は米国コレクターが支払った価格で最高額だと言われている。

 

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【作品解説】パブロ・ピカソ「パイプを持った少年」

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パイプを持った少年 / Boy with a Pipe

ピカソの「ばら色の時代」の作品


概要


作者 パブロ・ピカソ
制作年 1905年
メディア カンヴァスに油彩
サイズ 100 cm × 81.3 cm
所蔵者 グイド・バリラ

《パイプを持った少年》は1905年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。ピカソの「ばら色の時代」の代表作の1つ。描かれているのは左手にパイプを持ったパリの少年で、頭には花輪を付けている。

 

本作の初期設定では、壁を背景に立ったり、かがんだりする少年を描く予定だったが、試行錯誤の上にピカソは椅子に座っている少年を描くことにしたという。次に腕の角度、高さ、位置をどこにするかを決めるのにかなりの時間を費やしたといわれる。

 

また、初期設定ではパイプ以外に特にオブジェクトはなかったという。絵を描きはじめた頃、ピカソは約1ヶ月ほど制作を一時中断しており、その間にピカソは少年の頭に花輪を描くことを考えたという。

 

本作は初1950年に3万ドルでアメリカ人の実業家のジョン・ヘイ・ホイットニーが購入。その後、2004年4月にニューヨークのサザビーズ・オークションに競売がかけられ、バリラ会長でイタリア人のグイド・バリラが約1億400万ドルで落札した。

描かれている少年


ピカソが、フランスのパリのモンマルトル地区にあった貧乏芸術家たちのアパート「洗濯船」に住んでいた頃の作品で、この少年は当時の地元のパリジアンだと思われる。

 

地元の人のなかにはピエロや曲芸士のような娯楽業界で生活をしている人々が多数おり、「ばら色の時代」にピカソはそのような人々のポートレイトをたくさん描いている。しかし本作に描かれている少年については、ほぼ他の作品では見られない。

 

さまざまな情報源によれば、この少年はピカソの油彩作品のデッサンのためにピカソのアトリエにボランティアで来ていた10代のモデルだったとされている。ピカソ自身もこの少年について「彼はよく一日中、アトリエに来て私の作品を見ていた」と話している。

 

ピカソはこの少年についてあまり話さず、またピカソ自身も本当にこの少年についてよく知らなかったとされている。しかしながら、多くの報告によれば、"ルイ"または"リトル・ルイ"と呼ばれる少年だとされている。

■参考文献

Garçon à la pipe - Wikipedia、2017年8月4日アクセス


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