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【美術解説】表現主義「ドイツ表現主義」

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表現主義 / Expressionism

「目に見えない」ものを主観的に強調


ワシリー・カンディンスキー「無題」(1910年)
ワシリー・カンディンスキー「無題」(1910年)

概要


ドイツの表現主義


表現主義とは、一般的に20世紀初頭に起こったドイツの表現主義のことを指す。その特徴は、内面的、感情的、精神的なものなど「目に見えない」ものを主観的に強調する様式である。

 

表現主義は、写実主義に対抗するように見えるが、実際は目に見える外側の世界だけを描いた印象派と対立するように生まれている。

 

ドイツの表現主義は、北ドイツのドレスデン、後にベルリンに拠点を置いた「ブリュッケ(橋)」グループと、南ドイツのミュンヘンに拠点をおいた「青騎士」グループに二分されるが、広義的には後期印象派のゴッホやムンクの不安や恐怖を表現した絵画も含むこともある

 

ドイツの表現主義は第一次世界大戦終了後も残り、ワイマール共和国、特にベルリンにおいて建築、文学、映画、ダンス、音楽など他のさまざまなジャンルに拡大・発展したのがフォービスムやほかの表現主義と大きく異なる。

 

なお表現主義は、キュビズムや抽象絵画まで含めた前衛芸術全般のすべてを指し示すこともある。

ブリュッケ


1905年にドレスデンで結成されたグループ「ブリュッケ(橋)」には、エルンスト・ルードヴィヒ・キルヒナーやエミール・ノルデ、ヘッケル、ペヒシュタインなどが参加。

 

「ブリュッケ」の画家たちの特徴は、革新的情熱である。混迷する現代芸術に彼らなりに警鐘を鳴らし、未来の芸術への架け橋(ブリッジ)となるような芸術を創造するという理念があった。

 

そのため、社会意識が作品に反映されている。フランスの表現主義であるフォービスムに希薄で、ドイツのブリュッケに根強いものとしては、市民社会に対する批判的、挑戦的な姿勢である。

 

ヌード画にしても、単純なエロティシズム表現ではなく「自然との共生」を謳うかのように、草地や湖で戯れ憩う男女のヌード絵画が登場することも珍しくない。

 

キルヒナーの「モーリッツブルクの水浴者たち」がブリュッケの代表的な作品である。

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「モーリッツブルクの水浴者たち」(1909年)
エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「モーリッツブルクの水浴者たち」(1909年)

青騎士


青騎士グループは、1911年の暮にミュンヘンで結成された。青騎士とは青い色と騎士が好きだったことに由来する。のメンバーはロシアからやってきた ワシリー・カンディンスキー、ガブリエーレ・ミュンタラー、フランツ・マルクアウグスト・マッケの4人であった。

 

青騎士の芸術は、プリミティブ芸術と子どもの絵に対して熱狂的な関心を示していることが特徴である。カンディンスキーとならんでこのグループの中心となったマルクの作品「大きな青い馬」や「動物の運命」などが代表的なものである。

 

自然の中の動物を描いた絵であるが、それらは伝統的な動物画の域を超えて、力強い生命力、神秘的な気高さ、滅びゆくものの悲劇的な運命、大自然と動物との宇宙的な連鎖などをかんじさせる。

 

青騎士の活動自体はブリュッケに比べると少ないものの、カンディンスキーやマルクなど、属していたメンバーたちの構成などを見ると、その果たした歴史的役割から言えば「青騎士」はおそらく「ブリュッケ」より重要といえる。

フランツ・マルク「青い馬」(1911年)
フランツ・マルク「青い馬」(1911年)

●参考文献

・増補新装 カラー版 20世紀の美術 

・すぐわかる20世紀の美術―フォーヴィスムからコンセプチュアル・アートまで

Der Blaue Reiter - Wikipedia

Die Brücke - Wikipedia

 



【美術解説】パブロ・ピカソ「20世紀最大の芸術家」

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パブロ・ピカソ / Pablo Picasso

20世紀最大の芸術家


パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)

概要


生年月日

 1881年10月25日、スペイン、マラガ

死去日

1973年4月8日(91歳)、フランス、ムージャン

国籍

スペイン

表現媒体

絵画、ドローイング、彫刻、版画、陶芸、舞台芸術、著述

代表作

アヴィニョンの娘たち

ゲルニカ

泣く女

ムーブメント

キュビスムシュルレアリスム

関連人物

アンリ・マティスジョルジュ・ブラック

関連サイト

WikiArt(作品)

The Art Story(略歴・作品)

パブロ・ピカソ(1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、成年期以降の大半をフランスで過ごしたスペインの画家、彫刻家、版画家、陶芸家、舞台デザイナー、詩人、劇作家。20世紀の芸術家に最も影響を与えた1人で、キュビスム・ムーブメントの創立者である。ほかにアッサンブラージュ彫刻の発明、コラージュを再発見するなど、ピカソの芸術スタイルは幅広く創造的であったことで知られる。

 

代表作は、キュビスム黎明期に制作した《アヴィニョンの娘たち》(1907年)や、スペイン市民戦争時にスペイン民族主義派の要請でドイツ空軍やイタリア空軍がスペイン市民を爆撃した光景を描いた《ゲルニカ》(1937年)である。

 

ピカソ、アンリ・マティスマルセル・デュシャンの3人は、20世紀初頭の視覚美術における革命的な発展を担った芸術家で、絵画だけでなく、彫刻、版画、陶芸など幅広い視覚美術分野に貢献した。

 

ピカソの美術的評価は、おおよそ20世紀初頭の数十年間とされており、また作品は一般的に『青の時代』(1901-1904)、『ばら色の時代』(1904-1906)、『アフリカ彫刻の時代』(1907-1909)、『分析的キュビスム』(1909-1912)、『総合的キュビスム』(1912-1919)に分類されて解説や議論がおこなわれる。

 

2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで《アルジェの女たち》が競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札され、オークション史上最高価格を記録した。今後もオークションで価格が上昇すると思われる巨匠である。

ポイント


  • キュビスムの創設者
  • 代表作品は「アヴィニョンの娘たち」と「ゲルニカ」
  • 一般的に「青の時代」「ばら色の時代」「アフリカ彫刻の時代」「キュビスムの時代」で解説される

マーケット情報


現在、アート・マーケットで流通しているピカソ作品の中で最も高価格なのは2015年5月11日にニューヨーク・クリスィーズで競売にかけられた《アルジェの女たち》で、1億7900万ドルである。

 

次いで2013年にプライベート・セールで販売された『夢』が1億5500万ドル、2004年にニューヨーク・サザビーズで競売にかけられた《パイプを持つ少年》が1億3000万ドル、2010年5月4日にニューヨーク・クリスティーズで競売にかけられた《ヌード、観葉植物と胸像》が1億1550万ドル、2006年5月3日にニューヨーク・サザビーズで競売にかけられた《ドラ・マールと猫》が1億1180万ドルとなっている。

 

2017年5月17日に、『The Jerusalem Post』誌は「ナチスに盗まれたピカソ作品がオークションで4500万ドルで落札」と報じた。これはクリスティーズの出品された作品は1939年の『青い服の座っている女性』のことである。

 

2018年には、1937年作のマリー・テレーズ・ウォルターの肖像画《ベレー帽とチェックドレスの女性》が、ロンドンのサザビーズで4980万ポンドで落札された。

 

ファッション通販サイトZOZOTOWNを運営する日本の実業家でアートコレクターの前澤友作は《女性の胸(ドラ・マール)》。2016年秋に2230万ドルで購入している。

作品解説


人生
人生
老いたギター弾き
老いたギター弾き
サルタバンクの家族
サルタバンクの家族
アヴィニョンの娘たち
アヴィニョンの娘たち

ドラ・マールと猫
ドラ・マールと猫
鏡の前の少女
鏡の前の少女
泣く女
泣く女
おもちゃの舟で遊ぶ少女(マヤ・ピカソ)
おもちゃの舟で遊ぶ少女(マヤ・ピカソ)

花を持つ女
花を持つ女
夢
ヌード、観葉植物と胸像
ヌード、観葉植物と胸像
アルジェの女たち
アルジェの女たち

母と子
母と子
シカゴピカソ
シカゴピカソ
読書
読書
黒椅子の上のヌード
黒椅子の上のヌード

ゲルニカ
ゲルニカ
女性の胸像(マリー・テレーズ)
女性の胸像(マリー・テレーズ)
朝鮮の虐殺
朝鮮の虐殺
マンドリンを弾く少女
マンドリンを弾く少女

ピカソのモデルたち


フェルナンド・オリヴィエ
フェルナンド・オリヴィエ
オルガ・コクラヴァ
オルガ・コクラヴァ
マリー・テレーズ・ウォルター
マリー・テレーズ・ウォルター
ドラ・マール
ドラ・マール

フランソワーズ・ジロー
フランソワーズ・ジロー
ジャクリーヌ・ロック
ジャクリーヌ・ロック

略歴


幼少期


ピカソと妹のローラ。(1889年)
ピカソと妹のローラ。(1889年)

ピカソの洗礼名は、 パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダードで、聖人や親戚の名前をならべたものである。

 

フルネームはこのあとに、スペインの法律にもとづいて父親の第一姓ルイス (Ruiz) と母親の第一姓ピカソ (Picasso) がつづく。

 

ピカソは、1881年10月25日、スペインのアンダルシア州マラガで、父親のホセ・ルイス・イ・ブラスコと母親のマリア・ピカソ・イ・ロペスの長男として生まれた。

 

カトリックの洗礼を受けているにもかかわらず、ピカソはのちに無神論者になる。ピカソの家族は、ミドル・クラスで、父のルイスは自然主義的な技法で鳥を描くのが好きな画家で、美術学校の教師や小さな美術館の館長もつとめていた。ルイスの先祖は貴族だったといわれている。

 

ピカソは幼少期のころからドローイングの才能を発揮していた。ピカソの母によれば、ピカソが最初に話した言葉は「ピザ・ピザ」。スペイン語で「鉛筆」のことを"lápiz"といい、その短縮形が"piz(ピザ)”である。

 

7歳のときからピカソは、画家の父親からドローイングや油絵の正式な訓練を受ける。ルイスは伝統的な美術スタイルの美術家であり、また教育者だったので、古典巨匠の模写、石膏像を使った人物像や生身の人物のデッサンを通じた美術訓練の必要性を強く信じてピカソを教育した。

 

1891年にピカソ一家はガリシア州ア・コルーニャに移り、そこで父は美術学校の教授となる。一家は4年ほどア・コルーニャに滞在する。ある日、ルイスは未完成のピカソの鳩のスケッチを発見し、息子の技術精度をチェックしたところ、自分自身はもう13歳の息子に追い越されたとショックを受け、以後、絵を描くことをやめるのを誓ったという。(作り話といわれ、ルイスの絵は晩年のものもある)。

 

1895年、ピカソは7歳の妹コンチータがジフテリアで亡くなりたいへんなショックを受ける。妹の死後、家族はバルセロナに移り、そこでルイスは美術学校の教職に就いた。ルイスはピカソが高度なクラスの入学試験が受験できるよう「ラ・ロンハ」という美術大学の職員を強く説得した。

 

入学試験は本来は1ヶ月かかる課題だったが、ピカソの場合は1週間で完璧にしあげて試験官をおどろかせ、わずか13歳で上級の入学試験を突破。この時代のピカソの素行は、規律をやぶるあまり良くない生徒だったが、その後の人生の中でピカソに影響を与える友情もつちかったという。

 

ルイスは家の近くに小さな部屋を借りてピカソに貸し与え、ピカソはそこで1人で絵を描きはじめる。ピカソは一日に何度もドローイングを描きあげては、父に絵を見せチェックしてもらい、二人はよく絵の議論をおこなったという。

 

ピカソの父と叔父は、ピカソをマドリードにあるサンフェルナンド王立アカデミーに進学させることに決める。16歳のときにピカソは初めて独り立ちすることになったが、学校の授業を嫌い、入学後すぐに授業に出るのをやめ中退する。

 

マドリードの町には学校よりも多くの魅力があり、プラド美術館に足をはこび、ディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・ゴヤ、フランシスコ・デ・スルバランの絵に感銘を受けた。特にエル・グレコの作品の細長い手足、色彩、神秘的な顔立ちに影響を受け、後年、それらグレコの要素はピカソにもあらわれるようになった。

1900年以前ーピカソのモダニズム時代


パブロ・ピカソ「初聖体拝領」(1896年)
パブロ・ピカソ「初聖体拝領」(1896年)

父による美術教育は1890年以前からはじまっている。ピカソの絵の発展は、バルセロナのピカソ美術館に保存されている初期作品のコレクションからたどることができる。

 

コレクションから分析すると、1893年ころの少年期のピカソ作品はまだクオリティが低かったが、1894年から急激に質が向上しており、このことから、1894年から本格的に画家を志しはじめていることがわかる。

 

1890年代半ばからアカデミックに洗練された写実的な技巧が、たとえば、14歳のころにピカソの妹ローラを描いた《初聖体拝領》 (1896)や、《叔母ペーパの肖像》(1896年)などの作品によくあらわれているのがわかる。

 

美術評論家のファン・エドワード・シロットは《叔母ペーパの肖像》をスペイン「全美術史において疑う余地なしに最も優れた作品の1つ」と評価した。

パブロ・ピカソ「カフェの女」(1901-1902年)
パブロ・ピカソ「カフェの女」(1901-1902年)

1897年、非自然的な紫や緑の色で描写されるようになった風景画シリーズから、ピカソの絵には象徴主義の影響があらわれるようになる。このころからピカソのモダニズム時代(1899-1900年)と呼ばれる時代が始まる。

 

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、テオフィル・アレクサンドル・スタンランアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、wといった象徴主義とエル・グレコのようなピカソの好きな古典巨匠を融合させたピカソ独自のモダニズム絵画が制作された。

 

1900年にピカソは初めて当時のヨーロッパの芸術の首都パリに旅行し、そこで、ピカソは初めてのパリの友人でジャーナリストで詩人のマックス・ジャコブと出会った。ピカソはジャコブからフランス語や文学を学んだ。

 

その後彼らはアパートをシェアすることになり、ジャコブが夜寝ているあいだに、ピカソは起きて制作し、ジャコブが起きて仕事に行く昼にピカソは寝ていた。このころは深刻な貧国と寒さと絶望の時期で、制作した作品の多くは小さな部屋で暖をとるために薪代わりにされた。

 

1901年の最初の5ヶ月間、ピカソはマドリードに住み、そこでアナーキストの友人フランシスコ・デ・アシス・ソレルと雑誌『Arte Joven』を発刊し、5号出版された。ソレルが記事を書き、ピカソが挿絵を担当するジャーナル雑誌で、貧しい人々の共感を得た現実主義的なマンガを描いていた。最初の号は1901年3月31日に出版され、そのときにピカソは作品に「Picasso」と正式な画家のサインを署名しはじめた。(それ以前は「Pablo Ruiz y Picasso」だった。)

青の時代


パブロ・ピカソ「人生」(1903年)。「青の時代」の集大成ともいえる作品。左側にカザジェマスと愛人ジュルメール、右側に子供を抱く痩せた母親を描き、間に失意と絶望を感じさせる二枚の絵が挟み込まれている。
パブロ・ピカソ「人生」(1903年)。「青の時代」の集大成ともいえる作品。左側にカザジェマスと愛人ジュルメール、右側に子供を抱く痩せた母親を描き、間に失意と絶望を感じさせる二枚の絵が挟み込まれている。

ピカソの『青の時代』(1901-1904年)は、薄暗い青や青緑とまれに現れる暖色系の色で描かれた陰鬱な絵画が特徴で、1901年初頭に滞在していたスペインか、1901年下半期から移住したパリ時代から始まる。

 

『青の時代』に制作された絵画の多くは母子像で、ピカソがバルセロナとパリで過ごした時間を分離していた時期である。色の厳格な使い方やときに憂鬱で沈んだ主題では、売春婦と乞食が頻繁にモチーフとなっている。

 

また、ピカソはスペイン旅行や友人カルロス・カサヘマスの自殺にショックを受けていた時期で、カサヘマスの死後、1901年秋ごろからサジェマスを題材に何枚かの絵画を残している。

 

1903年、ピカソは青の時代の最後の作品であり最高傑作である《人生(La vie)》を完成させ、次の色彩の『ばら色の時代』へと力強く踏み出すことになる。《人生》は現在、アメリカのクリーブランド美術館に所蔵されている。

 

『青の時代』でほかによく知られている作品は、テーブルに腰掛けている盲人男性と晴眼女性を描いたエッチング作品《貧しき食事》(1904年)や《ラ・レスティーナ》(1903年)や《盲人の食事》(1903年)で、盲目は『青の時代』のピカソ作品で繰り返し現れるモチーフである。

パブロ・ピカソ「貧しき食事」(1904年)
パブロ・ピカソ「貧しき食事」(1904年)
パブロ・ピカソ「ラ・セレスティーナ」(1903年)
パブロ・ピカソ「ラ・セレスティーナ」(1903年)
パブロ・ピカソ「盲人の食事」(1903年)
パブロ・ピカソ「盲人の食事」(1903年)

ばら色の時代


パブロ・ピカソ「パイプを持つ少年」(1905年)
パブロ・ピカソ「パイプを持つ少年」(1905年)

『ばら色の時代』(1904-1906年)はオレンジとピンクが基調の陽気な色合いと、《サルタバンクの一家》の絵画が代表的なものであるように、フランスの多くのサーカス団の人々、曲芸、道化師が描かれるのが特徴である。

 

作品のなかのチェック柄の衣服を付けた道化師は、ピカソの個人的シンボルとなった。

 

また1904年にパリでピカソは、ボヘミアンアーティストのフェルナンド・オリヴィエと出会った。オリヴィエは、『ばら色の時代』の多くの絵画に登場するモチーフで、暖色系のカラーは、フランス絵画の影響に加えてオリヴィエとの関係が影響している。

 

恋人オリヴィエと旅行した、スペイン、カタルーニャ高地の人里離れた村ゴソルで描いた作品では、黄土色系のバラ色が多く使われており、この色が後に『ばら色の時代』の呼び名を生む由来となった。

 

パブロ・ピカソ「ガートルード・シュタインのポートレイト」(1906年)
パブロ・ピカソ「ガートルード・シュタインのポートレイト」(1906年)

1905年頃までに、ピカソはアメリカ人コレクターのレオ・シュタインとガートルード・スタインのお気に入り作家となった。

 

彼らの兄のミヒャエル・スタインとその妻のサラもまたピカソのコレクターとなった。ピカソはガートルード・シュタインと彼女の甥のアラン・シュタインの二人のポートレイトを描いた。

 

ガートルード・スタインはピカソの主要なパトロンとなり、彼のドローイングや絵画を購入し、パリにある彼女のサロンで展覧会も行った。また、1905年彼女のパーティでピカソは、アンリ・マティスと出会い、以後終生の友人でありライバルとなった。スタイン一家はほかにピカソを、コレクターのコーン姉妹やアメリカ人コレクターで妹のエッタにも紹介した。

 

1907年にピカソは、ダニエル・ヘンリー・カーンワイラーがパリに開いた画廊に参加。カーンワイラーはドイツ美術史家でコレクターであり、20世紀の主要なフランス人アートコレクターの1人となった。彼はパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらが共同発明したキュビスムの最初の最重要支援者であった。

 

また、アンドレ・ドランやキース・ヴァン・ドンゲン、フェルナン・レジェ、フアン・グリス、モーリス・ブラマンクや、当時世界中からやってきてモンパルナスに住んでいたさまざまな画家の成長を支援した。

アフリカ彫刻の時代


パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)

ピカソの『アフリカ彫刻の時代』(1907-1909年)は、作品右側の二人の女性の顔の造形がアフリカ彫刻の影響が見られる《アヴィニョンの娘たち》から始まる。この時期に発明されたアイデアは、次のキュビスムの時期に直接受け継がれていく。

キュビスム


パブロ・ピカソ「マンドリンを持つ少女」(1910年)
パブロ・ピカソ「マンドリンを持つ少女」(1910年)

分析的キュビスム(1909-1912年)は、ジョルジュ・ブラックともに開発した茶色がかったモノクロと中間色が特徴の絵画様式である。代表作品は《マンドリンを弾く少女》

 

分析的キュビスムは、ある立体が小さな切子面にいったん分解され、再構成された絵画である。「自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する」というポール・セザンヌの言葉をヒントに、明暗法や遠近法を使わない立体表現を発展させた。

 

キュビスム表現により多面的な視覚効果が可能となり、それは万華鏡的をのぞいた時の感じに近いともいえるが、キュビスムにはシンメトリーや幾何学模様のような法則性はない。

 

総合的キュビズム(1912-1919年)は、文字、新聞の切り抜き、木目を印刷した壁紙、あるいは額縁代わりに使われたロープなど、本来の絵とは異質の、それも日常的な、身近な世界にあるものが画面に導入される。

 

こうした技法はコラージュ、それが紙の場合はパピエ・コレと呼び、まったくそれぞれ関係のなさそうな断片をうまくつなぎあわせて新しい対象を創造した。また、アッサンブラージュの先駆けともいえる。

 

パリでピカソは、この時期にモントマルテやモンパルナスにいるアンドレ・ブルトンギョーム・アポリネール、アルフレッド・ジャリ、ガートルードといった著名な友人グループを楽しませた。アポリネールは、1911年にルーブル美術館から《モナリザ》を盗んだ疑いで逮捕された。尋問時には友人のピカソも嫌疑をかけらたものの、後に二人とも無罪として釈放された。

新古典主義


1917年2月に、ピカソはイタリアを初めて旅行。第一次世界大戦の激動の時代下でピカソは多くの新古典主義スタイルの作品を制作した。この「古典回帰」は、アンドレ・ドランジョルジョ・デ・キリコや新即物主義ムーブメントや1920年代に多くのヨーロッパの芸術家の作品において普遍的に見られた傾向である。

 

ピカソの絵やドローイングはしばしばラファエルやアングルから影響したものが見られた。この時期の代表作は《母と子》などがある。

シュルレアリスム


「ゲルニカ」1937年
「ゲルニカ」1937年

1925年にアンドレ・ブルトンは、シュルレアリスム機関誌『シュルレアリスム革命』においてピカソをシュルレアリストとする記事を書き、また《アヴィニョンの娘たち》がヨーロッパで初めて同じ号に掲載された。

 

1925年に初めて開催されたシュルレアリスム・グループの展覧会にピカソは参加。しかしこの段階では、まだピカソはキュビスム作品だった。

 

展示された作品は、「シュルレアリスム宣言」で定義された心の純粋な動きを描くオートマティスムがコンセプトだったが、完全な状態とはいえないもので、自分自身の感情を表現するための新しい様式や図像を発展させている段階だったといえる。

 

「暴力、精神的な不安、エロティシズムの芸術的昇華は、1909年からかなりあらわれていた」と美術史家のメリッサ・マッキランは書いている。ピカソにとってのシュルレアリスム時代は、古典主義への回帰に続くプリミティヴィズムやエロティシズムへの回帰といっていいだろう。

 

1930年代の間、道化師に代わってミノトールが、作品上のピカソの共通のモチーフとして使われはじめた。ミノトールは一部にシュルレアリスムとの接触から由来しており、よく象徴的な意味合いで利用される。《ゲルニカ》でもミノトールが描かれている。

 

この時代、ミノトールのほかにピカソの愛人マリー・テレーズ・ウォルターが、有名なエッチング作品《ヴォラール・スイート》で描かれている。なお《ゲルニカ》にはマリー・テレーズ・ウォルターとドラ・マールが描かれている。

 

1939年から40年にニューヨークの近代美術館で、ピカソ愛好家で知られるアルフレッド・バルの企画のもと、ピカソの主要作品を展示する回顧展がおこなわれた。

 

おそらくピカソの最も有名な作品は、スペイン市民戦争時におけるドイツ軍のゲルニカ空爆を描いた《ゲルニカ》である。この巨大なキャンバスにピカソは、多くの非人間性、残虐性、戦争の絶望性を体現した。

 

ゲルニカは長い間ニューヨーク現代美術館に展示されていた。1981年に作品はスペインに返却され、マドリードのプラド美術館別館カソン・デル・ブエン・レティーロに展示された。1992年の国立ソフィア王妃芸術センター開館時に《ゲルニカ》は移転されて展示された。

ナチス占領時代


Desire Caught by the Tail
Desire Caught by the Tail

第二次世界大戦の間、ドイツ軍がパリを占領したときでもピカソはパリに残っていた。

 

ピカソの美術様式はナチスの芸術的な理想と合わなかったため、この時代、ピカソは展示することができなかった。よくゲシュタポから嫌がらせにあった。アパートの家宅捜索の際、将官たちは《ゲルニカ》作品の写真を見て、「これはお前が描いたのか?」と質問されたとき、ピカソは「ちがう、お前たちがやった(空爆)」と答えたという。

 

スタジオを撤収してからもピカソは《Still Life with Guitar》 (1942) や《The Charnel House》(1944–48)といった作品の制作をし続けた。ドイツ人がパリでブロンズ像制作を非合法化するものの、ピカソはフランス・レジスタンスからブロンズを密輸して彫刻の制作をし続けた。

 

この頃ピカソは、芸術の代替的手段として書き物をしていた。1935年から1959年の間に300以上の詩を制作している。制作日時や制作場所をのぞいて大部分は無題だった。それらの作品内容は、エロティックでときにスカトロジー的なものもあり、《Desire Caught by the Tail》と《The Four Little Girls》のような演劇作品もあった。

戦後


1944年、パリが解放されたときピカソは63歳で、若い女子美大生フランソワーズ・ジローと恋愛関係に入った。彼女はピカソよりも40歳年下だった。

 

ピカソはすでにドラ・マールとの恋愛に疲れ、ジローと同棲するようになった。彼女との間に二人の子どもが生まれた。1947年に生まれたクラウドと1949年に生まれたパロマである。

 

ジローが1964年に出版した『ピカソとの人生』で、ジローはピカソのドメスティック・バイオレンスや子どもやジローを放って不倫していたピカソの日常生活の実態を暴露した。

 

たとえば、パロマを出産後、体調を壊したフランソワーズに対してピカソは 「女は子供を産むと魅力を増すものなのに、なんたるざまだ」と突き放し、言い返す気力もない彼女に「怒るか泣くかしてみろ」と挑発した。ところが別れ話になると、「私に発見された恩を返せ」と激怒し、ついには「私のような男を捨てる女はいない」とまで言ったという。

 

1953年、ピカソの虐待に耐え切れなくなったジローは子どもを連れてパリに帰り、画家として自立への道を歩み始める。2年後、彼女が画家のリュック・シモンと結婚して娘を産むと、ピカソは逆上し、画商とギャラリーに彼女との仕事を継続しないよう圧力をかけてきたという。

晩年


「シカゴ・ピカソ」
「シカゴ・ピカソ」

ピカソは、1949年半ばにフィラデルフィア美術館で開催された「第三回国際彫刻展」で250の彫刻作品の1つを展示。1950年代にピカソのスタイルは再び変化し、個展巨匠作品の再解釈とオマージュのような作品制作を始めるようになる。

 

ベラスケスの「女官たち」を基盤としたシリーズ作品などが有名である。ほかにもゴヤ、マネ、プッサン、クールベ、ドラクロアの作品を基板したオマージュ作品を制作している。

 

ピカソはシカゴで建設予定の50フィートの大きさの公共彫刻の模型の依頼を受ける。それは普通「シカゴ・ピカソ」という名前で知られている。ピカソは多大な熱意をもってその彫刻プロジェクトの依頼を受けたが、やや曖昧で物議を醸した彫刻のデザインとなった。彫刻はシカゴの下町で最も有名なランドマークの1つとなり、1967年に完成。ピカソは報酬金10万ドルを拒否して、町へ寄付した。

 

ピカソの最後の作品はさまざまなスタイルを融合したもので、晩年まで定期的に作品が変化していった。晩年のピカソはより仕事にエネルギーを注ぎ込み、これまで以上に大胆でカラフルでプリミティブな作品に変化した。

 

1968年から1971年までピカソは何百もの絵画や銅版画を生産。ただこれらの作品は、全盛期を過ぎた無力な老人のポルノ・ファンタジーとして、なげやり的な作品として一般的には低い評価をされることになった。

 

ピカソ死後、80年代にアート・ワールドで新表現主義が流行りはじめると、晩年のピカソは新表現主義を先取りしていたと評価されるようになった。

ピカソの死


パブロ・ピカソは1973年4月8日、フランスのムージャンで死去。92歳だった。エクス・アン・プロヴァンス近郊のヴォヴナルグ城に埋葬された。

 

ヴォヴナルグ城は1958にピカソが購入して、59年からジャクリーヌ・ロックと一時的に住んでいた城だった。ピカソの膨大な作品がここに保管された。何百というピカソの作品と蔵書などがこの城に移され、城はさながらピカソの個人美術館のようなていをなした。

 

ジャクリーヌ・ロックはピカソの子どものクロードやパロマの葬儀への出席をことわった。ピカソの死後、ジャクリーヌ・ロックは、精神的な荒廃と孤独にむしばまれ、1986年に59歳のとき銃で自殺した。

ピカソの政治観


スペイン人民戦線派(共和国派)


ピカソは若いころ、1900年初頭から起こりはじめたカタルーニャ独立運動を支持表明しており、また独立運動の活動家とも交友していたが、自身はフランス在住ということもあり、独立運動から距離を置いていた。

 

ピカソは第一次世界大戦、スペイン市民戦争、そして第二次世界大戦のいずれの戦争にも参加していない。当時、ピカソはフランス在住スペイン人だったため、侵略するドイツ軍と戦う義務がなかったのが大きな理由である。なお、1940年にピカソはフランス市民権の取得申請をしているものの、フランス政府から「極端な共産主義思想を持っている」と危険視されていたため、市民権が付与されなかった。このことは2003年まで明らかにされなかった。

 

1936年にスペイン市民戦争が勃発したとき、ピカソは54歳だった。戦争が勃発するやいなや、スペイン人民戦線政府(共和国派)はピカソを「不在ではあるがプラドの館長」に任命する。ジョン・リチャードソンによれば、政府とピカソはプラド美術館のコレクションをジュネーブへ避難する資金を供給する企画をたてたという。

 

スペイン市民戦争はピカソの政治作品における原動力となった。1937年、ピカソは怒りやファシズムやフランシスコ・フランコ軍への非難を込めて、《フランコの嘘と夢》を制作。また、本作は宣伝と人民戦線政府への資金調達を目的として制作されポストカードシリーズとして販売された。

《フランコの嘘と夢》1937年
《フランコの嘘と夢》1937年

1944年、ピカソはフランス共産党に加入し、ポーランドで開催された「平和のための知識人世界会議」に出席する。1950年にはソビエト政府からスターリン賞を受賞。

 

1953年に制作したスターリンの肖像を用いた党批判は、ソビエト政治に対するピカソの現実的で冷淡な姿勢を表現しているが、ピカソは死ぬまで忠実な共産党員だった。

 

ピカソの画商で社会主義だったカーンワイラーは、ピカソの共産主義思想は政治よりむしろ感傷的な部分が強く、「ピカソはカール・マルクスやエンゲルスの本を読んだことはない」と話している。

 

1945年のジェローム・セックラーのインタビューで、ピカソは「私は共産主義者であり私の絵画は共産主義的絵画だ。しかし、もし私が靴屋だったら、王政主義者でも共産主義でもどちらであっても、私は自分の靴を特別な方法で叩く政治観を表現することは決してないだろう」と話している。

 

ピカソの共産主義を支持する言動は、当時の大陸の知識人や芸術家の間で共有されており、長い間いくつか批判の的になった。その顕著な例は一般にサルバドール・ダリとの関係だろう。

 

ダリは「ピカソは画家であり、私も画家だ。ピカソはスペイン人であり、私もスペイン人だ。ピカソは共産主義だ、しかし私は共産主義ではない」と話している。

 

1940年代後半、ピカソの旧友でシュルレアリスムの創始者でトロツキストで反スターリン主義のアンドレ・ブルトンはよりピカソと距離を取りはじめ、ピカソと手を組むことを拒んだ。ブルトンはピカソに「私はピカソの共産党への入党も、解放運動後の知識人への粛清に対してピカソが取った態度に納得できない」と話している。

 

ピカソは朝鮮戦争時、国連と米国の介入に反対し、彼らの韓国の大虐殺を主題にした作品《朝鮮虐殺》を制作した。美術批評家のクリスチャン・ホビング・キーンはこの作品について「アメリカの残虐行為に関するニュースに影響を受けたピカソの共産主義的作品の代表的な1つとして評している。

スタイルと技術


生涯で約5万点の作品を制作


ピカソはほかの画家たちよりも長い生涯を通じて多作だった。ピカソが制作した作品総数は約50,000点と推定されており、1,885点の絵画、1,228点の彫刻、2,880枚の陶器、120,00点のドローイング、そのほか数千点の版画やタペストリー、ラグなどがある。

 

ピカソが最も重視していたのは絵画である。絵画においてピカソは表現主義的要素の強い色を使っていたように見えるが、色よりも、むしろ空間や形態をうまく考慮した構図に注意を払っていたように思える。

 

ピカソはときどきテクスチャを変えるために砂を混入していた。2012年にアルゴンヌ国立研究所で物理学者が1931年作の《赤い肘かけ椅子》をナノプローム分析したところ、ピカソ作品の多くは普通の家の屋内で制作され、また多くは人工光を頼りに夜間に描かれたものだとわかった。

《赤い肘かけ椅子》1931年
《赤い肘かけ椅子》1931年

伝統的素材を放棄した革新的な彫刻


ピカソの初期彫刻作品は木、もしくはワックスや粘土を素材にしている。1909年から1928年までピカソはほかにもさまざまな素材を使用して彫刻を制作している。たとえば、1912年の《ギター》は金属板やワイヤーを利用しており、ジェーン・フルーゲルは「キュビスム絵画の三次元作品」と規定し、「伝統的な彫刻から外れた革新的な造形であり彫刻である」と評している。

《ギター》1912−1914年
《ギター》1912−1914年

多様な芸術スタイルを使い分けた


キャリア初期からピカソはあらゆる主題に関心を示していた。また、さまざまな芸術様式をすぐに吸収して作品に反映させることができるスタイルの多様性も持ちあわせていた。

 

たとえば、1917年の《マンティラの女性》は印象派の点描方法を利用しており、1909年の《アームチェアに座るヌード》はキュビズム、1930年代は《花と女性》で見られるようなフォービスムやシュルレアリスムの影響を色濃く受けた作品を多数制作している。ピカソのスタイルの変化は生涯続いた。

 

1921年には、さまざまな巨大な新古典主義絵画と2つのバージョンのキュビスム絵画を同時に制作している。

 

1923年のインタビューでピカソは、「私が芸術制作で利用してきたさまざまな方法は美術史において進歩的な方法、もしくは未知の絵画を探るためのステップであるものと考えるのは間違いだ。もし関心のある主題がこれまでとは異なる表現スタイルで描きたくなったら、私は躊躇せず新しい表現スタイルを採用するだけだ」。と話している

 

ピカソのキュビスム作品は象性が高いが、描く対象は現実世界から外れるということは決してなかった。彼のキュビスム絵画で描かれた対象はギター、バイオリン、ボトルなどだれでも簡単にわかるものだった。

 

ピカソが複雑な情景や物語を表現する際はいつも版画、ドローイング、小サイズの絵画だった。《ゲルニカ》は数少ないそうした作品の中でも数少ない巨大絵画作品である。

広大な自伝的絵画


ウィリアム・ルービンによれば、「ピカソは本当に自身と関わりのある主題からのみ作品を作った。マティスと異なり、ピカソは成熟期になると事実上モデルを雇ったりして描くことはなかった」と話している。

 

また、アーサー・ダントーは「ピカソの作品は広大な絵による自伝である」と評し、また「ピカソは新しい愛人ができるたびに新しい芸術スタイルを発明した」と評している。

 

ピカソ芸術における自伝的な性格は、彼が作品に頻繁に付けていた制作日時の習慣からも理解できる。「私はできる限り完全に記録を残したいと思っている。そのため作品にはいつも日付を入れている」と話している。

記号論の導入


ピカソは絵画や彫刻で当時流行りだした記号論をうまく取り入れて、言葉、形態、オブジェクトの相互作用を拡張した。

 

彫刻作品《バブーン》では、猿の頭がおもちゃの自動車に変化させ、言葉ではないイメージによる換喩表現をおこなった。5つの並行的な弦でギターを描いた。またオブジェクトを描く代わりに言葉だけを用いたりもした。たとえば1911年の絵画《パイプラックとテーブル上の静物》では、海を描く代わりに“ocean” と言葉を書いた。

彫刻作品《バブーン》
彫刻作品《バブーン》
《パイプラックとテーブル上の静物》1911年
《パイプラックとテーブル上の静物》1911年

ピカソ作品の評価と所蔵


生存中におけるピカソの芸術の影響は、称賛者と批判者の2つの批評で広く認知されていた。

 

1939年にMoMAで開催された回顧展で、『Life magazine』は「ピカソは25年間ヨーロッパの近代美術に貢献し、ピカソの批判者たちはピカソを腐敗した影響とみなした。同等の激しさを持つピカソの友人は、彼を生きているなかで最も偉大な芸術家と」評している。

 

また、1998年に美術批評家のロバート・ヒューズは「パブロ・ピカソが20世紀の西洋芸術に貢献したという評価は単純である。画家も彫刻家もミケランジェロでさえも、芸術家自身が生存中にピカソぐらい広く一般的に有名になることはなかった」と評している。

 

ピカソがなくなったとき、ピカソは自身で多くの作品を所有していた。理由は売らないことで市場での価格を維持するためだった。追加すると、ピカソほかの多くの有名近代美術の作品を所有するコレクターでもあり、アンリ・マティスとは作品の交換もしていた。

 

ピカソは遺言を残さなかったので、フランス国家の遺産税は作品で支払われることになった。現在これらの作品の大半は、パリにあるピカソ美術館の核をなす作品群となっている。「青の時代」と呼ばれている初期の代表作『自画像』をはじめとして、『籐椅子のある静物』、『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』、『浜辺を駆ける二人の女 (駆けっこ)』、『牧神パンの笛』、『ドラ・マールの肖像』、『接吻』などを収蔵している。

 

2003年にピカソの親戚がピカソの生誕地であるスペインのマラガに、マラガ・ピカソ美術館博物館を建設した。

 

バルセロナにあるピカソ美術館が所蔵する作品の多くは初期作品に焦点をおいたもので、こちらはピカソ生存中に建設されている。ピカソ美術館では、伝統的な技術を基盤にしたピカソのしっかりした基礎を鑑賞できる作品を多数鑑賞することができるのが特徴だ。美術館には、父親の指導のもとでピカソが少年時代に制作した緻密な人物画や、ピカソの親友で秘書でもあったジャウマ・サバルテスの広大なコレクションを鑑賞できる。

 

《ゲルニカ》はニューヨーク近代美術館で長年にわたって展示されていた。1981年にスペインに返却され、マドリードにあるプラド美術館にあるカソン・デル・ブエン・レティロに展示されていた。1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、《ゲルニカ》はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された。

 


■参考文献

 

Pablo Picasso - Wikipedia


【美術解説】ヴィヴィアン・マイヤー「謎のアマチュア写真家」

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ヴィヴィアン・マイヤー / Vivian Maier

謎のアマチュア写真家


概要


本名 ヴィヴィアン・ドロシー・マイヤー
生年月日 1926年2月1日(アメリカ、ニューヨーク)
死没月日 2009年4月21日(83歳)
国籍 アメリカ
表現形式 写真
公式サイト http://www.vivianmaier.com/

ヴィヴィアン・マイヤー(1926年2月1日-2009年4月21日)はアメリカのアマチュア写真家。シカゴのノースショアでベビーシッターとして約40年間働きながら、空き時間に写真の撮影・研究をしていた。生涯に15万以上の写真を撮影しており、被写体の中心はニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス内の人物と建物で、世界中を旅して写真の撮影をしていた。

 

その作品は死後に発見され、認知された。彼女は乳母として約40年間、主にシカゴのノースショアで働きながら、写真を追求しており、彼女のネガフィルムの多くは一度も印刷されることはなかった。

 

シカゴのコレクターのジョン・マルーフが2007年にマイヤーの写真をオークション・ハウスでいくつか手にいれ、また同時期にロン・スラッテリーやランディ・プローといったほかのコレクターも箱やスーツケースにいっぱい入った彼女の写真やネガフィルムを発見する。

 

マイヤーの写真が初めて一般公開されたのは、2008年7月。ジョン・マルーフによってインターネット上にアップロードされた。しかし当初の反応はほとんどなかった。2009年10月にマルーフがFlickerに共有したマイヤーの写真をブログで紹介すると、今度は何千ものユーザーが関心を示しはじめ、ウイルス感染のように一気に彼女の名前は世界中に広まっていった。

 

マイヤー作品への高評価と関心はどんどん広がり、マイヤーの写真は北アメリカ、ヨーロッパ、アジア、南アメリカで展示されることになり、さらに彼女の生涯を描いたドキュメンタリー映画や書籍が刊行されるようになった。

 

日本では2015年10月にシアター・イメージフォーラムでドキュメンタリー『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』が公開。2016年3月2日にはDVDリリースも予定されており、また2011年に発売された彼女の写真作品集『Street Photographer』はAmazon洋書の写真部門で一位を獲得した。

略歴


幼少期


マイヤーの生涯に関する情報はほとんど残っていない。友達がいた気配もなく、もちろん結婚もしていない。背がとても高く大柄で、手を振って軍隊のような歩き方をする。わざとフランス語訛りの英語を話し、出生地や家族については絶対に明かさなかったという。

 

出生記録によれば、ヴィヴィアン・マイヤーは、1926年2月1日、アメリカのニューヨーク市で、フランス人の母マリア・ジャソード・ジャスティンとオーストリア人の父チャールズ・マイヤーとの間に生まれている。

 

子供時代に何度かアメリカとフランス間を行き来したことがあり、フランス滞在時には、母親側の親族が住むサン=ボネ=アン=シャンソールのアルパイン村で生活していたという。理由は不明だが、父親は1930年まで一時的に蒸発をしていた。

 

1930年に行われた国勢調査によれば、ボストン滞在時のマイヤー一家の世帯主は有名写真家のジャンル・ベルトランと記録されている。

 

1935年頃にヴィヴィアンと母親は、フランスのサン・ジュリアン・アン・シャンソールの農園で生活している。この土地の遺産はあとでマイヤーに受け継がれている。1940年までにマイヤーと母はニューヨークに戻り、父チャールズ、母マリア、弟チャールズと一緒に生活をはじめた。父親は鉄鋼技師として働いていたという。

ベビーシッターとして40年間過ごす


1951年、マイヤーが25歳のときにニューヨークへの搾取工場(ブラック企業のようなもの)で働き始める。1958年にシカゴのノースショアへ移ると、以後40年間、ベビーシッターや介護関係の仕事で生活を立てるようになる。(当時のシカゴには偶然ヘンリー・ダーガーも住んでいた)。

 

シカゴに着いてからの最初の17年間は、マイヤーは2つの家庭で長く家政婦として働いていた。1956年から1972年までレーゲンスブルク家で、1967年から1973年までレイモンド家で働いていた。リーン・レーゲンスブクによれば、マイヤーはまるでメアリー・ポピンズのようで、決して子どもたちをしゃべり負かすことはなく、また子どもたちをよく豊かな郊外の世界に連れていって、外の世界について勉強させていたという。この頃のマイヤーは、問題ない乳母だった

 

当時、マイヤーは休日にはたいていはローライフレックスのカメラを持って、シカゴの通りを散歩しながら写真を撮っていた。

 

1959年から1960年にかけてマイヤーは世界旅行に出かけている。ロサンゼルス、マニラ、バンコク、上海、北京、インド、シリア、エジプト、イタリアを写真撮影しながら旅していた。旅費はおそらくフランスのサン・ジュリアン・アン・シャンソールにある受け継いだ農場を売却して得たお金だろうと推測されている。

加齢とともに偏屈化していくマイヤー


1970年代の短い期間、マイヤーはトークショーの司会者フィル・ドナヒュー(Phil Donahue)の家政婦として働いていた。この頃からマイヤーの性格が偏屈化して、狂気じみてきたという。彼女は荷物を雇用主に預けていましたが、その分量が凄まじかったといわれる。彼女はモノをすてることが出来なかった性格で、持ち物は200箱分もあった

 

その大半は写真かネガでしたが、ほかに彼女は新聞、靴、服なども捨てずに集めていた。新聞は天井に届くぐらいの分量だった。彼女が撮影した人たちと会話したときの録音テープなんかも大量にあったという。

 

また、2013年のドキュメンタリー映画『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』や『ヴィヴィアン・マイヤーの不思議』で、マイヤーの雇用主や世話をした子どもたちへのインタビューが収録されているが、中年以降の彼女の気性は非常に激しく、近隣とのトラブルや常軌を逸した行為がより目立つようになった。

 

インタビューした子どもたちの中には、虐待に近い出来事や怪しい場所に連れて行かれた記憶を語る人もいる。そのため、晩年は乳母の仕事を見つけるのが難しくなっていき、貧しさと狂気に蝕まれた生活になっていった。

晩年


亡くなる2年前の2007年、マイヤーはシカゴのノースサイドに借りていた倉庫の支払いを滞納していた。その結果、彼女のネガ、プリント、オーディオ録音、8ミリフィルムがオークションにかけられることになった。

 

3人の写真コレクターが彼女の作品の一部を購入した。ジョン・マルーフ(John Maloof)、ロン・スラッテリー(Ron Slatteryy)、ランディ・プロウ(Randie Prow)である。2008年7月にスラッテリーが生存中に初めてマイヤーの写真をインターネット上で公開したが、ほとんど反響はなかった。

 

 

子供時代にマイヤーに世話をしてもらっていたジェンズバーグ兄弟は、年老いて仕事もなくなり貧しくなった彼女を援助しようとした。

 

彼女はがキケロ郊外に借りていた安アパートからまさに追い出されそうになときに、ジェンズバーグ兄弟が助けに入る。シカゴに彼女のためのアパートを手配し、兄弟でアパートの家賃を負担していたという。

 

2008年11月にマイヤーは氷上で転倒し、頭を強く打つ。病院へ運ばれましたが回復することなかった。2009年1月にイリノイ州のハイランドパークの看護病棟に移され、2009年4月21日に亡くなった。

 

コレクション


マルーフはマイヤーの作品の中で大部分約3万枚のネガを購入しているが、理由は彼がシカゴのポーテージ・パーク周辺の歴史についての本を執筆していたからである。マルーフはその後、同じオークションで別のバイヤーからマイヤーの写真をさらに購入している。

 

マルーフはグーグル検索で2009年4月にシカゴ・トリビューン紙に掲載されたマイヤーの死亡通知の記事を見つけるまでは、彼女について何も知ることができなかったという。2009年10月、マルーフは自身のブログにFlickr上のマイヤーの写真をアップロードした。すると何千人もの人々が興味を示し、その写真はウイルスのように広がっていった。

 

2010年初頭、シカゴのアートコレクターであるジェフリー・ゴールドスタインは、最初の購入者の一人であるプロウからマイヤーのコレクションの一部を購入した。ゴールドスタインの最初の購入以来、彼のコレクションは17,500枚のネガ、2,000枚のプリント、30本の自作映画、多数のスライドを含むまでに成長した。

 

2014年12月、ゴールドスタインはモノクロームネガのコレクションをトロントのスティーブン・バルジャー・ギャラリーに売却した。

 

マルーフ・コレクションを運営するマルーフは現在、10万から15万枚のネガ、3,000枚以上のヴィンテージプリント、数百ロールのフィルム、ホームムービー、オーディオテープによるインタビュー、カメラや書類を含むエフェメラなど、マイヤーの全作品の約90%を所有しており、彼女の知られている作品の約90%を占めていると主張している。

 

死後に発見されて以来、マイヤーの写真とその発見はメインストリームのメディアで国際的に注目され、ギャラリーでの展覧会や数冊の本、ドキュメンタリー映画にも登場している。

 

2014年6月、弁護士で元写真家のDavid C. Deal氏は、マイヤーのネガの現所有者がネガを商品化する権利に異議を唱える訴訟を提起した。 この訴訟は、アメリカの法律の下で認められるべきマイヤーの遺産相続人、つまりフランスにいるいとこがいるかどうかを立証しようとしたものである。

 

米国の著作権法では、写真の所有権は著作権の所有権とは別物であり、特に相続人となる可能性のある人は米国外に住んでいる場合、解決までに数年かかる可能性がある。

 

マイヤーの写真の大部分を所有しているマルーフは、以前、フランスで一度いとこを追跡し、見つけて権利の対価を支払っているが、ディールは、遺産の受益者である可能性のあるフランスの近親者をほか見つけたと考えている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Vivian_Maier、2020年6月6日アクセス


【美術解説】サルバドール・ダリ「ダブルイメージを発明したシュルレアリスト」

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サルバドール・ダリ / Salvador Dalí

超現実主義においてダブル・イメージ表現を発明


《記憶の固執》(1931年)
《記憶の固執》(1931年)

概要


生年月日 1904年5月11日
死没月日 1989年1月23日(84歳)
国籍 スペイン
タグ 絵画、彫刻、ドローイング、著述、映像、写真
代表作

記憶の固執(1931年)

茹でた隠元豆のある柔らかい構造(1936年)

聖アントワーヌの誘惑(1946年)

超立方体的人体(磔刑)(1954年)

公式サイト

ダリ劇場美術館

関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク(1904年5月11日-1989年1月23日)は、一般的に“サルバドール・ダリ”という名前で知られているスペイン・カタルーニャ州の画家。シュルレアリスト。

 

ルネサンスの巨匠たちに影響を受けて身につけた熟練した絵画技術でもって、数々のシュルレアリスム作品を制作。

 

あるイメージをあるイメージに重ね合わせて表現するダブルイメージ手法「偏執狂的批判的方法」の発明者として、シュルレアリスムでは評価されている。代表作品は1931年8月に完成させた《記憶の固執》。ここでは、時計とカマンベールチーズを重ね合わせて表現している。

 

絵画以外の活動も多彩で、メディア露出をほかのシュルレアリストより重視していたのが最大の特徴。著述、映画、彫刻、写真などさまざまな大衆メディアに頻繁に登場。アメリカでは大衆文化のスターとなり『Time』誌の表紙にもなった。特に注目を集めたのはダリの奇行癖。作品以上にむしろ奇行のほうが知られていたといっても過言ではない。

 

しかし、その商業的な作品や行動、またフランコ独裁やヒトラーなどファシストへの加担をほのめかす政治姿勢に疑問を持った、シュルレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンから反発を受け、グループから除名されることもあった。

チェックポイント


  • 具象シュルレアリスム表現の代表的存在
  • シュルレアリスムを一般大衆に広めた
  • 偏執狂的批判的方法(ダブル・イメージ)を発明

偏執狂的批判的方法とは?


あるものがあるものにダブって見えるイメージ


ダリが発明した偏執狂的批判的方法とは、簡単にいえば、あるイメージがあるイメージにダブって見えるということ。偏執狂的批判方法を利用して制作された代表的な作品としては《水面に象を映す白鳥》《ナルシスの変貌》が挙げられる。

 

《水面に象を映す白鳥》は、一見すると、三羽の白鳥が水辺に佇んでいる絵画だが、水面に反映した白鳥の姿は象に見えるというもの。また、白鳥の後ろに描かれている枯れた木々は水面に反映して象の足の部分になっている。

《水面に象を映す白鳥》
《水面に象を映す白鳥》

《ナルシスの変貌》では、作品の左側で湖を見つめるナルシスと、そのナルシスの右に同じような形態で三本の指に挟まれた卵が、偏執狂的批判的方法(ダブルイメージ)で描かれている。

《ナルシスの変貌》
《ナルシスの変貌》

作品解説


記憶の固執
記憶の固執
大自慰者
大自慰者
メイ・ウエストの唇ソファ
メイ・ウエストの唇ソファ
茹でた隠元豆のある柔らかい構造
茹でた隠元豆のある柔らかい構造
アンダルシアの犬
アンダルシアの犬

目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢
目覚めの一瞬前、ザクロの実のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢
レダ・アトミカ
レダ・アトミカ
縄飛びをする少女のいる風景
縄飛びをする少女のいる風景
新人類の誕生を見つめる地政学の子ども
新人類の誕生を見つめる地政学の子ども
聖アントワーヌの誘惑
聖アントワーヌの誘惑

超立方体的人体(磔刑)
超立方体的人体(磔刑)
ナルシスの変貌
ナルシスの変貌
ロブスター電話
ロブスター電話
記憶の固執の崩壊
記憶の固執の崩壊
皿のない皿の上の卵
皿のない皿の上の卵

窓辺の少女
窓辺の少女
器官と手
器官と手
陰鬱な遊戯
陰鬱な遊戯
カタルーニャのパン
カタルーニャのパン
回顧的女性像
回顧的女性像

象
十字架の聖ヨハネのキリスト
十字架の聖ヨハネのキリスト
自らの純潔に獣姦される若い処女
自らの純潔に獣姦される若い処女
水面に象を映す白鳥
水面に象を映す白鳥
ポルト・リガトの聖母
ポルト・リガトの聖母

フィゲラス付近の近景(1910年)

・キャバレーの情景(1922年)

パン籠(1926年)

欲望の謎 わが母、わが母、わが母(1929年)

部分的幻覚-ピアノの上に出現したレーニンの6つの幻影(1931年)

・テーブルとして使われるフェルメールの亡霊(1934年)

・ガラの肖像(1935年)

・引き出しのあるミロのヴィーナス(1936年)

燃えるキリン(1937年)

・浜辺に現れた顔と果物鉢の幻(1938年)

アメリカの詩(1943年)

白い恐怖(1945年)

球体のガラテア(1952年)

・サンティアゴ・エルグランデ(1957年)

システィナの聖母(1958年)

クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見(1958−1959年)

亡き兄の肖像(1963年)

・ペルピニャン駅(1965年)

魚釣り(1967年)

・幻覚剤的闘牛士(1970年)

ツバメの尾(1983年)

かたつむりと天使(1977-1984年)

運命(2003年)

コラム


ダリの美術館


略歴


サルバドール・ダリ誕生


ダリの家族。左から2番目と3番目が両親。中央がダリ。妹が右端の女の子。
ダリの家族。左から2番目と3番目が両親。中央がダリ。妹が右端の女の子。

スペインの美術の巨匠ことダリ(本名:サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク)は、スペイン、カタルーニャのフランスとの国境線沿いにあるポルタ地方フィゲラスの町で、1904年5月11日午前8時45分に生まれた。

 

“サルバドール”という名前の兄(1901年10月12日生まれ)がいたが、ダリが生まれる9ヶ月前、1903年8月1日に胃腸炎で亡くなった。サルバドール・ダリというのはこの兄の名前から由来している。

 

5歳のときにダリは両親に兄の墓の前に連れていかれ、兄の生まれ変わりであることを告げられる。このことはダリに大きなショックを与えた。というのも、ダリは自身が親から愛されているのは「兄の生まれ変わりであること」と思ったからである。自分自身は愛されていないのだと傷つき、そのことがトラウマとなり、ダリは兄の名前“サルバドール”を名乗ることにした。

 

ダリの父はミドルクラスの公証人で、厳格で気の短い性格だった。ダリの父は小さい頃によく、ダリに梅毒の病気の写真を見せて怖がらせたという。この父から教えこまれた梅毒の写真がトラウマになり、ダリは性的なものに対して恐ろしい不安を抱くようになった。

 

ダリの母はもともと画家だったということもあり、ダリの芸術的な才能を励ましてくれる人だった。1921年2月、ダリが16歳のときにダリの母は肺がんで亡くなるが、のちに母の死について「人生の中で最もショックな出来事だった」と語っている。ダリの母の死はダリにマザー・コンプレックスを与えることになった。

 

ほかにダリには、アナ・マリアという3歳年下の妹がいる。彼女は『窓辺の少女』など何度か初期ダリの絵のモデルとしても登場している。ガラが現れるまではダリとは仲がよかったが、中年以降になると仲違いを始める。1949年にマリアはダリに関する本『妹から見たダリ』を出版し、ダリと論争を起こした。

 

ダリが正式に美術の教育を受け始めるのは1916年。この年に美術学校に入学する。また夏休みに印象派画家のラモン・ピショットの家族とともにカダケスやパリを旅行し、そこでダリは近代美術に出会って、大きな影響を受ける。

 

その翌年、ダリの父は自宅でダリの木炭画の個展を企画、開催。なお、ダリの公への初めての展示は、1919年にフィゲラス市民劇場で開催されたグループ展示とされている。

パリの前衛美術家たちと合流


ロルカ(左)とダリ(右)
ロルカ(左)とダリ(右)

1922年、ダリはマドリードにある王立サン・フェルナンド美術アカデミーの学生寮レジデンスへ入学する。このときからすでにダリの原型ができあがっており、ダンディズムと同時にエキセントリックで、学内から注目を集めていたという。

 

ダリは19世紀後半のイギリス貴族のファッションを真似ていた。長髪で、揉み上げを伸ばし、口ひげをたくわえ、コート、ストッキング、ブリーチを身につけていた。

 

レジデンス時代にダリは、フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(詩人)、ルイス・ブニュエル(映画監督)と知り合いになる。特にロルカとの友情はあついものだった。友情があつすぎて同性愛者であったロルカはダリに肉体的関係を迫るようになるが、これにはダリもまいり、肉体的関係はさすがに断った。

 

ダリは女性恐怖症だったが同性愛者ではなかった。ルイス・ブニュエルは、のちにシュルレアリスム映画の傑作『アンダルシアの犬』を共同制作する、その後に喧嘩別れしている。

 

また、このころから当時パリで流行りつつあったピカソを中心とした前衛芸術運動キュビズムに興味を持ち、ダリ自身もキュビズムの実験を試みる。1924年当時のスペインでは、キュビスムの技法を使う人はダリ以外にだれもいなかったので、大変注目を集めた。ダリによってはじめてキュビスムの解説がスペインで行われたといわれる。ほかにダリはダダイズムの影響を受け、ダダ的芸術手法も試みている。

 

1925年、バルセロナのダルマウ画廊で最初の大規模な個展を開いた。

 

1926年に大学を退学。その年にパリを訪れて、以前から尊敬していたパブロ・ピカソと出会う。ピカソは事前にジョアン・ミロからダリに対する好意的な噂を聞いていたため、初めて出会ったときから非常に良い印象をもたれたという。

 

そして、ダリは1924年から始まったシュルレアリスム運動に影響を受け、自身も運動に参加する。特にパブロ・ピカソジョアン・ミロイヴ・タンギージョルジュ・デ・キリコマックス・エルンストなどから多大な影響を受け、彼らの影響が色濃い作品を多数制作した。

 

前衛芸術から影響を受ける一方でダリは、古典美術からも影響を受け、それら両方をうまいぐあいに自身の作品に取り込んで発展させた。古典絵画では、ラファエロ、ブロンズィーノ、ベラスケス、フランシスコ・デ・スルバラン、フェルメールから影響を受けている。

ミューズでありマネジメントであるガラ


《レダ・アトミカ》。レダはガラの肖像となり、ダリは白鳥に姿を変える。
《レダ・アトミカ》。レダはガラの肖像となり、ダリは白鳥に姿を変える。

1929年8月にダリは彼のミューズであり、のちに妻となるガラと運命的に出会う。ガラはロシア移民で、ダリより10歳年上。当時は詩人のポール・エリュアールの妻だった。 ガラはダリの芸術活動のインスピレーションの源泉となり、彼の芸術活動をよく支えた

 

ビジネスの才能があったガラはダリをうまくマネジメントする。ダリが売れない時代、ガラは必死にダリの作品の営業をしたという。ダリのめざましい成功は、作品のすばらしさもさることながら、その宣伝のうまさとガラの抜け目ないマネジメントの力が大きかったのは事実である。1934年には、わずか30歳の若さで、世界中からばく大な報酬を得るようになった。 

 

ダリの父は息子が既婚の女性と付き合っていることに対して大変怒り、ダリを勘当する。パリのシュルレアリストたちがダリに悪影響を与えているとダリの父は言う。このことがきっかけで、以後1948年までダリ親子は一度も会わなくなった。

 

しかし、ダリとガラは1929年から同棲をはじめ1934年に婚姻届を出して、秘密裏に結婚する。秘密裏なので結婚式は挙げていない。ダリとガラが結婚式を挙げ、関係を公にしたのは同棲後、約30年経った1958年のことだった。

ルイス・ブニュエルとの共作


「アンダルシアの犬」から。手のひらに沸き立つ蟻は死を象徴している。
「アンダルシアの犬」から。手のひらに沸き立つ蟻は死を象徴している。

1929年、ダリはパリを再訪し、ルイス・ブニュエルとのコラボーレション作品『アンダルシアの犬』を制作する。この作品はブニュエルとダリが互いに出し合った無意識のイメージ群を映像化したものになっている。イメージの断片をつぎはぎにしているため、明確なストーリーはない。

 

『アンダルシアの犬』でダリが担った役割は、ブニュエルの脚本やビジュアルイメージのサポートだった。実際の撮影はルイス・ブニュエルが中心だったが、ダリはのちにイメージや脚本だけではなく、撮影にも重要な役割を担ったと主張している。このことは現在、事実かどうかは分かっていない。

偏執狂的批判的方法


「記憶の固執」。
「記憶の固執」。

1929年、ダリはプロの画家として重要な個展を開催する。またジョアン・ミロの推薦でパリのモンパルナスに集うシュルレアリムのグループに公式に参加する。

 

ダリの作品はグループに参加する前から、すでにシュルレアリストたちに大きな影響を与えていた。パリのシュルレアリストたちは、芸術的創造のために、無意識の世界にアクセスできる「偏執狂的批判的方法」と呼ばれるダリ独自の美術表現を歓迎した。

 

1930年、ダリはポルト・リガトの近くに漁師の小屋を買いとる。これが以後40年、ガラが死去するまでダリが住処として、またアトリエとしていた建物である。一般的に名前は《ポルト・リガトのダリの家》とよばれている。あの横尾忠則も訪れたことがある。仕事が順調に発展していくにつれ、ガラと2人でその家を増築していった。

 

1931年にダリは彼の代表作品「記憶の固執」を完成させる。それは抽象的な柔らかいもの、懐中時計、アリなどのモチーフで構成されており、柔らかくフニャフニャした時計は、規律性、剛直性、決定論的意味をもつ「時間」に対する拒否を意味しているという。

 

剛直性に対する拒絶という考えは、長く引き伸ばされた風景や群がったアリによってぐったりした時計でも見られる。ダリは性的に不能であり、時間の経過とともに柔らかくなるモノに対する不安がつきまとっていたという。絵の中心の白い物体は、ダリの自画像で、この自画像はダリのさまざまな作品に現れる。

ブルトンとの対立


アンドレ・ブルトンをはじめ、シュルレアリストの多くが共産主義思想と関わりをもっていくなかで、ダリは政治と芸術の関係に適度な距離をおいて、あいまいな立場を表明する。

 

シュルレアリストのリーダーであるアンドレ・ブルトンは、ヒトラーのファシズムを賛美するかのような態度のダリを非難したが、ダリはブルトンの非難に対して「私はヒトラーを支持しているわけではないが非難もしない」と弁明した。

 

1970年の自伝でダリは共産主義の思想を捨て去り、アナーキズムとモラリストの両方の思想と述べている。しかし、いまいちダリの政治的思想は理解されず、フランコ将軍やヒトラー側のファシズムと見られていた。

 

ダリにとってシュルレアリスムは、政治に関与しない方向で発展する可能性がある芸術であると考えていた。その理由もあってファシズムを非難することを拒否していたが、1934年に、結局のところダリは、シュルレアリスムから追放された。追放されたことに対してダリは「私自身はシュルレアリスト」と弁明している。

ニューヨークで世界的なスターとして活躍


ダリは1934年に前衛美術の画商ジュリアン・レヴィの助力によりアメリカのニューヨークにわたる。代表作《記憶の固執》を中心としたニューヨークでのダリの個展がジュリアン・レヴィ画廊で開催され、ダリはニューヨークで大評判になった。《記憶の固執》はこのときはじめて公開され、購入され、その後、ニューヨーク近代美術館に収蔵された。

 

このころからダリはアメリカのマスコミで連日話題にのぼるようになる。アメリカの富豪集団「ソーシャル・レジスタ」が、ダリのために特別に催した企画「ダリ・ボール(DAli Ball)」で、ダリは胸にガラスケースのブラジャーを身につけて現れ、注目を集めた。

 

また同年、ダリとガラはコレクターで有名なカレス・クロスビーが開催するニューヨークの仮面舞踏会パーティに参加。当時「リンドバーグの赤ちゃん誘拐事件」が世間を騒がせていたころで、そこでダリはガラに血塗れの赤ちゃんの死体を模したドレスを着せ、頭にリンドバーグの赤ちゃんの血まみれの模型をのせて悦に入っていたという。

 

そのためマスコミから非難が集中。しかし、この事件はダリによると少し異なり、ガラは頭にリアルな子どもの人形を結びつけてはいたが血塗られてはおらず、頭にアリが群がり、燐光を発するエビの足で体がはさまれていたものだったという。

 

1936年、ダリは「ロンドン国際シュルレアリム展」に参加。このときちょっとした事件が起こる。ダリは潜水服に身を包んだ姿で、ビリヤードのスティックを持ち、ロシアのボルゾイ犬を2匹引き連れて現れ「 Fantômes paranoiaques authentiques」という講演会を開く。このとき潜水服の酸素供給がうまくいかず、ダリは窒息状態に陥る。来場者のひとりが様子がおかしいことに気づき、スパナを使ってヘルメットをはずした。あやうく窒息死するところだったという。

 

当時のダリの大パトロンは、イギリスの詩人で富豪のエドワード・ジェイムズだった。彼はダリの作品をたくさん購入してダリの美術業界への参加を手助けした。また《ロブスター電話》《唇ソファ》などコラボレート作品を作り、長くシュルレアリスム運動をサポートした。 

 

1939年のニューヨーク国際博覧会で、ダリは博覧会のアミューズメントエリアにて、シュルレアリスムパビリオン「ヴィーナスの夢」を披露する。それは奇妙な彫刻、彫像、妙なコスチュームをしたヌードモデルなどを特色としたものだった。

 

同年、アンドレ・ブルトンはダリにサルバドール・ダリの名前をもじったアナグラム「Avida Dollars(ドルの亡者)」というあだ名を付けたという。

 

これはダリの作品が年々商業主義的になっていくことを皮肉ったあだ名で、一方、ダリは「名声」と「富」によってより自己肯定を求めていった。その後、多くのシュルレアリストたちはダリが死ぬまで極めて厳しい論争をしかけた。

「我が秘められた生涯」と文筆的才能


第二次世界大戦時が勃発すると、ダリとガラは戦禍を避けてアメリカのカリフォルニアへわたり、そこで戦争が終わるまで8年間生活する。ダリとガラはの二人は、フランスのボルドー在住のポルトガル人外交官アリスティデス・デ・ソウザ・メンデスが発行した無料ビザを使うことで、1940年6月20日に亡命できたという。

 

 「この時代、ダリはずっと文章を書いていた」と言われており、1941年にダリは「Moontide」というジャン・ギャバン主演の映画企画を立てる。そして1942年に自伝『わが秘められた生涯』を刊行。ダリは本の中でダリの文才の発揮の裏には、ガラの大きなマネジメント力があると話している。

 

「ガラは、私には話すだけでなく文章を書く才能があると言い、グループの人々の想像をはるかに超えた、哲学的に深い意味をもつ文章を書けるということを皆に知らしめようと、とりつかれたように奔走した。ガラは私が書きちらしたそのままでは意味をなさない、ばらばらの走り書きをかき集め、たんねんに読み込み、なんとか読める<系統だった形>にまとめた。さらに、すっかり形の整ったこの一連のメモを理論的で詩的な作品にすべく、忠告を与えて私にまとめさせ、『見える女』という本をつくりあげた。これは私の初めての著書であり、「見える女」とはガラのことだった。しかし、この本で展開した考えゆえに、やがて私は、シュルレアリスムの芸術家の絶え間ない敵意と不信の只中で、戦うこととなった。」

 

また『わが秘められた生涯』でダリが、共産主義者でアナーキストだったルイス・ブニュエルについて「ブニュエルは無神論者だ」と書いたのが原因で、ブニュエルは当時働いていたニューヨーク近代美術館から解雇される。その後、ブニュエルはハリウッドへ移り、1942年から1946年までワーナー・ブラザーズのダビング部門で働くことになったという。

科学志向とカトリック回帰


「記憶の固執の崩壊」
「記憶の固執の崩壊」

戦争が終わると、1949年にダリはスペインのポルトリガトの自宅に戻り、そこで残りの人生を過ごすことになる。当時のスペインはフランコ独裁体制で、ダリはフランコ将軍に近づく。このことはシュルレアリストや知識人たちから非難を浴びた。

 

またダリは、戦後、自然科学や数学に対して興味を抱き始め、作品にそういった要素を取り入れるようになる。1950年代からの絵画作品によく現れ、たとえばサイの角状のモチーフを主題とした作品(《記憶の固執の崩壊》など)をよく描いているが、ダリによればサイの角というのは対数螺旋状に成長する素晴らしい幾何学芸術だという。

 

その一方で、科学とは正反対にカトリックに回帰する。そうして、カトリック的な世界観と近代科学が融合した作品が現れ始める。代表的なのが純潔と聖母マリアというテーマとサイの角を結びつけた傑作《自分自身の純潔に獣姦される若い処女》だろう。ほかにもDNAや4次元立方体にも関心を持ち始める。ハイパーキューブを主題にした作品「磔」などが代表的な作品といえる。

サルバドール・ダリの最期


アマンダ・リアとダリ
アマンダ・リアとダリ

1968年にダリはガラのためにプボル城を購入してプレゼントする。これはガラの別荘である。当初は夏の一時的期間に別荘として過ごしていたが、1971年頃からガラはプボル城にひきこもりがちになる。一度行くと数週間は一人でこもって出てこなくなった。これは、ダリがアマンダ・リアと不倫していたことが原因だったといわれているが、よくわかっていない。

 

ダリによれば、ガラの書面での許可なしにプボル城へ出向くことは固く禁じられ、ガラの生前はダリさえもほとんど入ったことはなかった。長年のミューズであるガラからの疎遠はダリを不安にさせた。ダリはうつ病になり、健康を害しはじめた。

 

1980年、76歳のダリは体調を崩しがちになる。右手はパーキンソン病の症状でひどく震えるようになった。体調悪化の原因として、ダリは危険な処方薬を投与されて神経系を損傷したためだとガラは話している。

 

1982年、ダリはフアン・カルロス1世 (スペイン王)から「マルケス・デ・ダリ・デ・プボル」の貴族の称号を与えられる。プボルというのはダリがガラにプレゼントしたジローナのプボル村にある中世の城の名前である。わずかな期間だったが、実際にダリもガラが死去したあとにプボル城で過ごしていたため、プボルという称号が与えられた。

 

1982年6月10日、最愛のパートナーのガラが亡くなった。87歳だった。ガラが亡くなるとダリは生きる気力を完全に失う。その後は自殺未遂を繰り返した。そして、ポルトリガトのダリの自宅から、ガラが住んでいたプボル城へ、ダリは移り住む。

 

体調だけでなく経済問題も発生した。これまでダリの財布の紐はガラが管理していたが、ガラが死去してから自分でお金の管理をする必要があった。しかし、世間に疎かったダリにはガラのような金銭感覚はまったくなかった。非常にルーズで人に際限なくお金を貸し、踏み倒されて借金まみれになっていった。

 

1983年5月、ダリはルネ・トムの数学的破局論の影響を受けた最後の作品「スワロウ・テイル」を完成させる。これで絵描きとしてのダリの人生は終わりになる。

 

1984年、プボル城で原因不明の寝室の火事でダリは大やけどをする。おそらくダリの自殺未遂だったと言われている。

 

1988年11月、ダリは心不全により病院へ搬送された。ペースメーカーは入院前からすでに身体に埋め込まれていた。1988年12月5日、フアン・カルロス1世 (スペイン王)が病院に見舞いにも訪れた。

 

1989年1月23日、ダリは好きなレコード「トリスタンとイゾルデ」を聴きながら、84歳で死去。遺体はフィゲラスにあるダリの劇場美術館の地下に埋葬された。

 

略年譜


■1904年

・5月11日フィゲラスに生まれる。父親は公証人サルバドール・ダリ・クシ、母親はフェリッパ・ドメネク・フェレス。

 

■1908年

・妹アナ・マリアが生まれる。

 

■1917年

・父が家でダリの木炭デッサンの展覧会を開く。

 

■1919年

・フィゲラス市立劇場(後のダリ劇場美術館)のコンサート協会の展覧会に出品する。

 

■1920年

・小説『夏の夕方』を書きはじめる。

 

■1921年

・2月に母親が死去。翌年、父はダリの母親の妹であるカタリナ・ドメネク・フェレスと再婚する。

 

■1922年

・バルセロナのダルマウ画廊で開催されたカタルーニャ学生会主催の学生のオリジナル絵画コンクールに出品する。ダリの作品「市場」は大学長賞を受賞する。

・マドリードでサン・フェルナンド王立美術アカデミーに通い、学生寮に暮らしながら、のちに知識人や芸術家として活躍する友人たち(ルイス・ブニュエル、フェデリコ・ガルシア・ロルカ、ペドロ・ガルフィアス、エウへニオ・モンテス、ペピン・ベヨなど)と親しく交流。

 

■1923年

・教授であった画家のダニエル・ヴァスケス・ディアスに反対する学生デモを扇動した理由で、美術アカデミーを放校される。

・フィゲラスに戻り、ファン・ヌニュスの授業に出席、版画の新しい方法を学ぶ。

 

■1924年

・秋に美術アカデミーに戻り、再授業を受ける。

 

■1925年

・マドリードでの第一回イベリア芸術家協会展に出品し、ダルマウ画廊で初個展を開催する。

 

■1926年

・マドリードでのカタルーニャ現代美術展や、バルセロナのサラ・パレスでの第一回秋のサロンなどに出品。

・パリへ旅行しピカソに会う。

・再び美術アカデミーを放校される。フィゲラスに戻りを絵を描くことに専念。

 

■1927年

・ダルマウ画廊で2回目の個展を開催し、サラ・パレスでの第2回秋のサロンにも出品。

・フィゲラスの兵役につく。

・フェデリコ・ガルシア・ロルカの『マリアナ・ピネダ』の舞台装置と衣装を担当。

 

■1928年

・ダルマウ画廊での前衛芸術の宣言展に参加。

・ルイス・モンターニュとセバスチャン・ゴーシュとともに、『マニフェスト・グロッグ・カタルーニャ反芸術宣言』を発行。

 

■1929年

・ジョアン・ミロを通じてシュルレアリストのグループと交流。

・ルイス・ブニュエルとの共同制作である映画『アンダルシアの犬』を編集。

・夏はカダケスで過ごし、画商ゲーマンス、ルネ・マグリットとその妻、ルイス・ブニュエル、ポール・エリュアールと妻のガラ、その娘セシルなどがダリのもとを訪ねる。

・パリのゲーマンス画廊で個展を開催。

・ガラとの恋愛関係が原因で家族に亀裂が入る。

 

■1930年

・ブニュエルとの共同制作の第2作目、『黄金時代』がパリのスタジオ28で上映される。

・シュルレアリスム出版がダリの本『見える女』を出版。

 

■1931年

・パリのピエール・コル画廊で個展を開催。『記憶の固執』を出品。

・コネチカット州ハートフォードのワーズワース文芸協会で行われたアメリカ合衆国で初めてのシュルレアリスムの展覧会に参加。

・『愛と思い出』という本を出版。

 

■1932年

・ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊での、シュルレアリスム:絵画、ドローイング、写真展に参加する。

・ピエール・コル画廊での2回目の個展を開催。

 

■1933年

・パリの『ミノトール』誌の創刊号に「ミレーの<晩鐘>」の強迫観念のイメージの偏執狂的批判的解釈」という本の序章が掲載される。

・ピエール・コル画廊でのシュルレアリストのグループ展に出品、3回目の個展も開催する。

・ニューヨークのジュリアン画廊で個展開催。

 

■1934年

・イブ・タンギーとアンドレ・ガストンとの立ち会いのもと、ガラと入籍。

・パリのグラン・パレのアンデパンダン展における50周年記念展に参加。この展覧会に参加することを拒否した他のシュルレアリストたちの意見を無視しての参加だった。これがブルトンのグループから離れるきっかけとなる。

・ロンドンのツェンマー画廊にて個展を開催。

・ガラとともにアメリカを訪れる。

・『ニューヨークが私を迎える』という冊子を発行。

 

■1935年

・ノルマンディー号でヨーロッパに戻る。

 

■1936年

・ロンドンで開催された国際シュルレアリスム展に参加。

・ニューヨーク近代美術館での幻想芸術ダダ・シュルレアリスム展に参加。

・『TIME』誌の表紙を飾る。

 

■1937年

・2月にハリウッドでマルクス兄弟に会う。

・ダリとガラがヨーロッパに戻る。

・パリのレヌー・エ・コル画廊でハーポ・マルクスの肖像画と映画のために2人で描いたデッサンを展示。

 

■1938年

・パリの国際シュルレアリスム展に『雨降りタクシー』を出品。

 

■1939年

・ニューヨーク万国博覧会に参加するための契約書を交わし、「ヴィーナスの夢」館のデザインを行う。しかしながら、正面に頭部を魚に変えたボッティチェリのヴィーナスの複製を展示することを万博委員会に却下される。それに対してダリは『自らの狂気に対する想像力と人間の権利の独立宣言』を出版。

・メトロポリタン・オペラハウスにてダリがパンフレット、衣装、舞台装置をデザインしたバレエ『バッカナール』が上演。

・9月、ヨーロッパに戻る。

 

■1940年

・ドイツ軍のボルドー進出にともない、ダリ夫妻はしばらく滞在していたアルカーションを離れアメリカに移住、1948年まで滞在。アメリカに着くと、ヴァージニア州ハンプトン・マナーのカレス・クロスビーの元に滞在する。

 

■1941年

・写真家フィリップ・ホルスマンとともに写真の仕事をしはじめる。

・ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊での展覧会。そのカタログに序文「サルバドール・ダリの最後のスキャンダル」をダリ自身が書いている。

 

■1942年

・自伝『わが秘められた生涯』を出版。

 

■1943年

・レイノルズ・モース夫妻が初めてダリの絵『夜のメクラグモ

……希望!』を購入する。春には、ニューヨークのヘレナ・ルビンスタインの部屋の装飾に携わる。5月、実話をフェデリコ・ガルシア・ロルカが脚色した新作バレエ『カフェ・デ・チニータス』のデザインに入る。

 

■1944年

・『ヴォーグ』誌の表紙をデザインする。

・10月、ニューヨークのインターナショナル・シアターにて、インターナショナル・バレエがダリの舞台美術で『感傷的な対話』を上演する。

・12月、ニューヨークでインターナショナル・バレエのプロデュースによる、初のパラノイアック・バレエ『狂えるトリスタン』が上演される。ダリは、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』から、このバレエの着想を得た。

 

■1945年

・ヒッチコックの映画『白い恐怖』の一連の夢のシーンを制作するため、ハリウッドに移住する。

・ビグノウ画廊で「サルバドール・ダリの新作絵画展」を開催。この展覧会のために、自分自身の作品と動向を掲載した『ダリ・ニュース』の第一号を自ら発行する。

 

■1946年

・『ヴォーグ』誌のクリスマス号の表紙のデザインをする。

・ウォルト・ディズニーと映画『デスティーノ』の契約を交わす。

 

■1947年

・『ダリ・ニュース』の最終号となる第2号を発行。カタログには「ダリ、ダリ、ダリ」と「追記:短いがわかりやすい美術史」を寄稿。

 

■1948年

・『描くための50の秘法』を出版。

・6月、スペインに戻る。

・11月、ルキノ・ヴィスコンティ演出のシェイクスピアの『お気に召すまま』がエリセオ劇場で上演される。舞台装置と衣装をダリが担当した。

 

■1949年

・ダリが舞台と衣装をデザインしたリヒャルト・シュトラウス原作の『サロメ』がロンドンのコベント・ガーデンにて上演される。その後、ホセ・ゾリーヤの『ドン・ファン・テノリオ』がマドリッドのマリア・ゲレロ劇場で上演される。

・『トリビューン』誌に「ダリの自動車」という記事が掲載される。

・12月、アナ・マリアが、妹の視点で書いたダリについての本を出版する。

 

■1950年

・妹の本への反論として、『メモランダム』という冊子を発行。

・『ヴォーグ』誌に「ダリのガイドでスペインへ」を掲載。

 

■1951年

・パリで「神秘主義宣言」とそれに基づいた作品を発表。

・カルロス・デ・ベイステギがヴェネツィアのラビナ・パレスで仮装舞踏会を企画。ダリはそこに自らがデザインし、クリスチャン・ディオールが制作した衣装で登場する。

 

■1954年

・ローマのパラッツォ・パラヴィッチーニでダンテの『神曲』を基にしたデッサンを展示する。この展覧会で、ダリがルネサンスを象徴する『形而上的な立方体』を登場させた。

 ・フィリップ・ホルスマンとの共作の本『ダリの口髭』が出版される。

 

■1955年

・シェイクスピアの作品を原作とした映画『リチャード3世』のプロモーションのため、リチャード3世役のローレンス・オリビエの肖像を描く。

・12月「偏執狂的批判的の方法論の現象学的様相」と題した講演会をパリのソルボンヌ大学で行う。

 

■1956年

・アントニ・ガウディへのオマージュとしての講演会をバルセロナのグエル公園で開催。

 

■1958年

・パリのフェリアで、エトワール劇場で行われる講演会のための12メートルのパンの製作を依頼される。

・8月8日、ダリとガラは、ジローナ近郊のロス・アンヘレス聖堂で結婚式を挙げる。

・カーステアース画廊での展覧会のため、『反物質宣言』を発行。

 

■1959年

・年末にダリは新しい乗り物「オボシペド(卵足)」を発表する。

 

■1960年

・ドキュメントフィルム『カオスとクリエーション』を撮影する。

・ジョセップ・フォレットから依頼された『神曲』が完成。そのイラストは、パリのガリエラ美術館に展示される。

・「または形:ベラスケスへのインフォーマルなオマージュ」展のカタログに「ベラスケス、絵画の天才」という文を書く。

 

■1961年

・ヴィネツィアのフェニーチェ劇場で『スペイン婦人とローマの騎手』が上演される。音楽はスカルラッティ。5つの舞台デザインがダリ。バレエ『ガラ』は、振付がモーリス・ベジャール、舞台美術と衣装がダリ。

・アートニュースに「ベラスケスの秘密の数字を解き明かす」を掲載。

 

■1963年

・『ミレーの<晩鐘>の悲劇的神話』という本を出版する。

 

■1964年

・スペインの最高栄誉であるイザベル・ラ・カトリカ賞を与えられる。大回顧展を東京と京都で開催する。

・ターブル・ロンダ社から『天才の日記』を出版。

 

■1965年

・回顧展「サルバドール・ダリ1910-1965」がニューヨーク近代美術館で開催される。そのカタログにダリは「歴史と絵画の歴史のレジュメ」という文を発表する。

 

■1968年

・ニョーヨーク近代美術館で開催された「ダダシュルレアリスムとその遺産」という展覧会に参加。フランスの五月革命に際して、ソルボンヌの学生に配布するために『わたしの文化革命』を発行する。

 

■1969年

・プボルの城を買い取り、ガラのために装飾する。

 

■1970年

・パリのギュスターヴ・モロー美術館で記者会見を開き、フィゲラスのダリ劇場美術館の計画について発表する。

・ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン博物館が大回顧展を企画。

 

■1971年

・レイノルズ・モースのコレクションを集めたオハイオ州クリーブランドのダリ美術館が開館。

・マルセル・デュシャンに捧げるチェスをアメリカ・チェス協会のために制作する。

 

■1972年

・ノドラー画廊で、ダリがデニス・ガボールとコラボレーションして制作した世界初のホログラフィー展が開催される。

 

■1973年

・ドレーゲル社から『ガラのディナー』が出版される。プラド美術館で「ベラスケスとわたし」と題した講演会を開催される。

 

■1974年

・9月28日、ダリ劇場美術館開館。

 

■1978年

・ニューヨークのグッゲンハイム美術館に、ダリの最初の超立体鏡作品『ガラにビーナスの誕生を告げるため地中海の肌をめくってみせるダリ』が展示される。

 

■1979年

・ジョルジュ・ポンピドーセンターでダリの大規模な回顧展と同時にこのセンターのために考えた『最初の環境』が開催される。

 

■1980年

・5月14日から6月29日まで、ロンドンのテート・ギャラリーで回顧展が開催。この展覧会には251点が展示される。

 

■1982年

・フロリダ州セント・ピーターズバーグに、レイノルズ・モース夫妻所有のサルバドール・ダリ美術館が開館する。

・6月10日、ガラがポルト・リガトで死去。

・国王カルロス1世がダリをマルケス・デ・ダリ・デ・プボルと命名、爵位を与える。

・プボル城へ移り住む。

 

■1983年

・「1914年から1983年のダリの400作品」という大きな展覧会がマドリード、バルセロナ、フィゲラスで開催される。

 

■1984年

・プボル城が火事になり、フィゲラスのガラテア塔に移り住む。呼び鈴の火花が引火の原因といわれている。

 

■1989年

・1月23日、ガラテア塔で逝去。

 

参考文献



【作品解説】ルネ・マグリット「イメージの裏切り」

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イメージの裏切り / The Treachery of Images

これはパイプではない


ルネ・マグリット《イメージの裏切り》(1929年)
ルネ・マグリット《イメージの裏切り》(1929年)

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1928-1929年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 63.5 cm × 93.98 cm
コレクション ロサンゼルス・カウンティ美術館

《イメージの裏切り》は、1928から1929年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。現在、ロサンゼルス・カウンティ美術館が所蔵している。絵にはパイプが描かれているが、パイプの下に「これはパイプではない」という文字が記載されている。

 

マグリットによれば、この絵は単にパイプのイメージを描いているだけで、絵自体はパイプではないということを言いたかった。だから「これはパイプではない」と記述しているという。本物と見分けがつかないほどリアルにパイプを描いたとしても、やはり絵。どこまで頑張っても絵を超えることができない、だから「これはパイプではない」とマグリットは記述している。

 

マグリットは作品についてこのようなコメントをしている。

 

「またあのパイプですか?もういいかげん、飽き飽きしました。でもまあ、いいでしょう。ところであなたは、このパイプに煙草を詰めることができますか。いえいえ、できないはずですよ。これはただの絵ですからね。もしここに「これはパイプである」と書いたとすれば、私は嘘をついたことになってしまいます。」

哲学者として絵描き


マグリットの仲間であったポール・コリネは

 

「もうルネ・マグリットの絵画を、普通の「見る」という行為ですでに見た人なんているんですか?」

 

といい、さらに

 

「絵が指し示すものについて考え、それが考えるものについて考え、それが私たちに考えるように教えてくれるものについて考えなければいけないのだ。」

 

と説明している。ここにマグリットの創作における問題が提示されている。マグリットにとって絵画とは精神分析ではなく哲学なのである。描かれたイメージ(視覚美術)は、視線と技術、つまり芸術家が目と手を使って表現する肉体的な行為であるため、イメージとは芸術家の人格と肉体をそのまま反映する個人的な思い込みのようなものであるとマグリットはいう。

 

絵画とは現実を正確に複製した写生ではない。だから自分で描いたパイプは厳密にはパイプではないのだという。 

言葉を信じてはいけない


 言葉もまた絵画と同じく現実を指し示すものではないと分かる。「私は月の上にいる」という言葉を書くことはだれでもできる。そのような嘘を書くことは、現実ではない絵を描く行為とまた同じものである。

 

この作品はよく、哲学者ミシェル・フーコーが1966年に発表した『言葉と物』を説明する際に利用されることがある。1973年には『これはパイプではない』という著書で主題的に論じられている。マグリットがよく哲人画家など哲学者的なシュルレアリストと称されるのは、本作が要因となっている。

類似作品


《テーブル、海、果物》(1927年)
《テーブル、海、果物》(1927年)

《イメージの裏切り》の類似作品としては《テーブル、海、果物》がある。ヨーロッパ人がこの絵を見ると、一般的には左から「テーブル=木の葉」「海=バターの塊」「果物=ミルク壺」と解釈してしまう。この作品は、マグリットにおける言葉とイメージの問題を典型的に示す一例である。

 

この場合、言語も現実を表したものではない。「海」ときけば普通は青い広大な塩水の空間をイメージするだろう。だがマグリットは「海」の下にバターの塊を描いている。マグリットにとっては海といえばバターなのかもしれない。

マグリットとよく似た芸術家


マグリットの哲学的絵画と同じような傾向の作品を制作する作家といえば、マルセル・デュシャンである。マルセル・デュシャンはただの男性用便器に《泉》という名称を付けて、グループ展に出品した。

 

アンディ・ウォーホルのポップ・アート作品もルネ・マグリットと同系列にあたる。


ルネ・マグリットに戻る

 

■参考文献

Wikipedia

タッシェン「マグリット」マルセル・パケ

 


【芸術運動】フォーヴィスム「内的感情や感覚を色彩を中心に表現」

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フォーヴィスム / Fauvism

内的感情や感覚を色彩で表現する前衛運動


アンリ・マティス『帽子の女』(1905年)
アンリ・マティス『帽子の女』(1905年)

概要


フォーヴィスムの起源


フォーヴィスムは、20世紀初頭のフランスで発生した前衛運動のひとつである。

 

1905年、パリの第二回サロン・ドートンヌ展に出品した画家たちの作品を見た批評家のルイ・ヴォークセルが、その原色を多用した強烈な色彩、また粗々しい筆使いに驚き、「この彫像の清らかさは、乱痴気騒ぎのような純粋色のさなかにあってひとつの驚きである。野獣(フォーヴ)たちに囲まれたドナテロ!」と叫んだ。

 

これがフォーヴィスムの起源である。

 Les Fauves: Exhibition at the Salon d'Automne, in L'Illustration, 4 November 1905
Les Fauves: Exhibition at the Salon d'Automne, in L'Illustration, 4 November 1905

フォーヴィスムの特徴


フォーヴィスムは、色彩それ自体に表現があるものと見なし、とりわけ、人間の内的感情や感覚を表現するのに色彩は重要なものとし、色彩自体が作り出す自律的な世界を研究することが目的である。

フォーヴィスムの画家


フォーヴィスムの代表的な画家は、アンリ・マティスアンドレ・ドランモーリス・ド・ヴラマンクである。

 

サロン・ドートンヌに出品した作家の中で、特に非難を浴びせられたのはマティスの《帽子の女》だった。原色系を多用した画面を見た聴衆はこれをやじり、嘲笑。しかしアメリカ人のコレクター、ガートルード・スタインとレオ・スタインはこの絵の真価を認め、ただちに買い取った。

 

フォーヴィスムの作家に直接的に影響を与えたのは象徴主義の画家のギュスターヴ・モローである。モローのアトリエで学んだマティスやフォーヴィスムの画家たちは、伝統的様式を押し付けられることはなく、ひとりひとりの個性を自由に伸ばす美術教育をモローから受けたという。

 

また間接的な影響としては、後期印象派のセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、新印象派のスラー、シニャックが重要である。特にゴッホの激しい原色を大胆に利用するそのままフォーヴィスムにつながっている。またゴーギャンはドランに影響を与えている。

 

アンリ・マティス

アンドレ・ドラン

モーリス・ヴラマンク

短命に終わったフォーヴィスム


前衛芸術のなかでもフォーヴィスムの運動は短命であり、1904から1908年の数年間のムーブメントで、展示は3回だけだった。運動が収束した後、画家たちはそれぞれの道を歩み始めて行き、マティス自身も、色彩の激しさよりも調和を求める画風へと変化していった。

 

作品


アンリ・マティス「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」(1905年)
アンリ・マティス「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」(1905年)
アンドレ・ドラン「Charing Cross Bridge, London」(1906年)
アンドレ・ドラン「Charing Cross Bridge, London」(1906年)
モーリス・ド・ヴラマンク「The River Seine at Chatou,」(1906年)
モーリス・ド・ヴラマンク「The River Seine at Chatou,」(1906年)

●参考文献

・すぐわかる20世紀の美術 千足伸行

Fauvism - Wikipedia 


【作品解説】アンリ・マティス「赤のアトリエ」

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赤のアトリエ / L'Atelier Rouge

マティスの初期の集大成的な作品


アンリ・マティス「赤のアトリエ」(1911年)
アンリ・マティス「赤のアトリエ」(1911年)

概要


作者 アンリ・マティス
制作年 1911年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 181 x 219.1 cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《赤のアトリエ》はマティスの初期の集大成的な作品である。フォーヴィズム、印象派、後期印象派とこれまでマティスがたどってきた芸術スタイルを融合させた上で、海外旅行で見たさまざまな美術や文化的要素を上書きして表現している。

 

パブロ・ピカソ、マルセル・デュシャン、アンディ・ウォーホル作品とならんで、全近代美術作品で最も影響力のある作品500の5位にランクインしている。

 

キャンバス全体を赤で占有した《赤のアトリエ》は、のちにマーク・ロスコやバーネット・ニューマンなどの抽象表現主義のカラーフィールド・ペインティングの作家たちに多大な影響を与えた。

この絵画のポイント

  • 最も影響力のある近代美術作品500で5位
  • 初期マティスの集大成的な作品
  • カラーフィールド・ペインティングの先駆け

 

構図


「赤いアトリエ」は、1909年にマティスが設立したアトリエ内部を描いた室内風景画である。画面全体を錆びた赤色で力強く塗りつぶすように描いているのが特徴である。

 

室内家具は、広大な赤い空間から浮き上がるように輪郭線を黄色で描かれ、また、平面的な赤い面の上に遠近感や奥行きを出すよう角度を付けている。平面的に塗られた赤い絵具と対照的に、室内家具は白、青、緑などの絵具を使っており画面全体における色のバランスを意識しているのがわかる。

 

絵画や装飾品などは、ひとつひとつしっかり描かれているが、椅子やテーブルなどの家具に関しては、黄色い輪郭線だけで単純化されている。絵画や装飾品はマティスの初期作品のことを暗示し、黄色い輪郭線だけの単純化した家具は現在のマティスを暗示して、過去と現在のギャップを強調していると見られる。

 

画面の左下には卓上があるが、鑑賞者が部屋の隅から見下ろしているかのように、卓上の端がはみ出すように描かれている。画面中央には大きな古時計が配置されているが、これはスタジオ内の空間的不連続性のバランスと調和をもたらすための中心軸の機能を果たしている。

「赤いハーモニー」の発展型作品


キャンバス全体を占有する赤い面は、1908年のフォーヴィスムの代表作品の1つ《赤いハーモニー》を基盤としている。また、消失点や遠近法が曖昧な印象派の影響を受けた絵画になっているが、これはマティスが構図のバランスと調和を意識した上で排除していることは明らかでる。

アンリ・マティス「赤いハーモニー」(1908年)
アンリ・マティス「赤いハーモニー」(1908年)

ゴッホの「夜のカフェ」から着想


大胆な原色の色使いや部屋を見下ろす視点は、後期印象派のフィンセント・ファン・ゴッホからの影響が大きく、特に《夜のカフェ》の構図を参照にしているとおもわれる。《赤いハーモニー》との大きな違いは、ゴッホの《夜のカフェ》で見られる角度だろう。

フィンセント・ファン・ゴッホ「夜のカフェ」(1888年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「夜のカフェ」(1888年)

制作前に海外旅行をしている


またマティスは《赤のアトリエ》を制作する前に重要な旅をしている。ミュンヘンでイスラム美術の展覧会を訪れ、またスペインのグラナダ、コルドバ、セビリアのムーア人の都市や、ロシアのモスクワやサンクトペテルブルクを探訪している。絵画のトーンや装飾的モチーフは、当時の海外旅行で出会った美術などから影響を受けているとおもわれる。

カラーフィールド・ペインティングの先駆け


キャンバス全体を赤で占有した《赤のアトリエ》は、のちにマーク・ロスコバーネット・ニューマンなどの抽象表現主義のカラーフィールド・ペインティングの作家に多大な影響を与えている。

 

1949年にマーク・ロスコはニューヨーク近代美術館で見たアンリ・マティスの《赤いスタジオ》に感銘する。この出来事はロスコの晩年の抽象絵画のインスピレーション元のひとつとなった。

マーク・ロスコ『No.3/No.13 (Magenta, Black, Green On Orange)』(1949年)
マーク・ロスコ『No.3/No.13 (Magenta, Black, Green On Orange)』(1949年)


【作品解説】アンリ・マティス「金魚」

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金魚 / Gold fish

モロッコ人の生活に影響を受けた作品


概要


作者 アンリ・マティス
制作年 1912年
メディウム カンヴァスに油彩
サイズ 146 cm x 97 cm
コレクション プーシキン美術館

《金魚》は1912年にアンリ・マティスによって制作された油彩作品。146 cm x 97 cm。モスクワのプーシキン美術館が所蔵している。

 

金魚は17世紀ごろに東アジアからヨーロッパに輸入された。1912年ごろから、金魚はマティス作品に定期的にあらわれるモチーフとなった。少なくとも9作品以上は金魚をモチーフにした作品を制作している。本作《金魚》は、ほかの作品と異なり、金魚そのものを主題とした作品である。

補色を意識して描かれている


金魚はその色のためにすぐに私たちの注目をひく。輝かしいオレンジ色の身体と、水槽を取り囲む背景や周囲の青緑とうっすらなピンクのテーブルが対照的である。

 

青色とオレンジ色、緑色と赤色は補色であり、隣り合って配置されることで明るく表示される。マティスが色の使い方をよく知っていることを表している。

モロッコ人のライフスタイルに影響


マティスが金魚に関心を持ちはじめたきっかけは、1912年の1月末から4月まで滞在していたモロッコのタンジールに滞在したときに手がかりがあるとされている。

 

マティスは、そこで地元の人たちが何時間も水槽の中の金魚を夢見るような視線で眺めていることに驚いたという。

 

マティスは、この金魚をずっと眺めているモロッコ人のライフスタイルを賞賛し、モロッコのライフスタイルこそ瞑想的で人生をリラックスをして過ごしているように感じたという。

 

つまり、マティスにとって金魚とは平穏な精神状態を象徴するモチーフだった。

Henri Matisse, Le café Maure(Arab Coffeehouse), 1911-13, oil on canvas, 176 x 210 cm (Hermitage Museum)
Henri Matisse, Le café Maure(Arab Coffeehouse), 1911-13, oil on canvas, 176 x 210 cm (Hermitage Museum)

「生きる喜び」とよく似た構図


金魚はマティスにとって「楽園」や「パラダイス」と関連があるとも指摘されている。この作品の構図と彼の楽園的な絵画の代表作である《生きる喜び》の構図は、描かれているモチーフこそ異なるものの非常によく似ている。また「金魚」という名称は、牧歌的な黄金時代の理想の住人を想起させる。

アンリ・マティス「生きる喜び」(1905-1906年)
アンリ・マティス「生きる喜び」(1905-1906年)



【作品解説】ポール・ゴーギャン「ヌードの習作」

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ヌードの習作 / Study of a Nude

意図的に醜い身体を描いたヌード画


ポール・ゴーギャン「ヌードの習作」(1880年)
ポール・ゴーギャン「ヌードの習作」(1880年)

概要


作者 ポール・ゴーギャン
制作年 1880年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 114.5 cm × 79.5 cm
コレクション ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館

《ヌードの習作》は、1880年にポール・ゴーギャンによって制作された油彩作品。裸の女性が衣服を縫っている姿を描いている。現在、コペンハーゲンにあるニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館が所蔵している。

 

マネやクールベの静物画や構図の影響が色濃く見られる作品。裸の女性は、マンドリンやタペストリーが飾られているマゼンダの壁を背後にし、ベッドメイキングが整っていないベッドに座り、縫い物に夢中になっている。光は女性の背後から差し込み背中を照らしているが、顔や胸のあたりは影になっている。

 

女性の顔は魅力的だが、一方で身体はたるんで締まりがなく、意図的に醜く描かれている。モデルは妻のメテと誤解されがちだが、ゴーギャンの息子の乳母のジャスティンとされている。

 

印象派展で展示され反響があったにもかかわらず、ゴーギャンはこの絵を売らなかった。またゴーギャンの妻のメテは家にこの絵を飾るのを嫌がった。しかし、ゴーギャンがコペンハーゲンで家族を捨てたとき、絵は1892年にデンマーク人芸術家のテオドール・フィリップソンが購入するまで、彼女が保持していた。


【作品解説】バンクシー「白黒英国旗柄の防刃チョッキ」

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白黒英国旗柄の防刃チョッキ

イギリスの黒人問題に焦点を当てた舞台衣装


概要


『白黒英国旗柄の防弾チョッキ』はバンクシーがデザインした白黒カラーのユニオンジャック柄防刃チョッキ。

 

2019年6月28日、イギリスで開催されたロック・フェスティバル「グラストンベリー」で、49年の歴史で初めて黒人のトリを務めたストームジーがステージで着用して話題になった。

 

バンクシーは「カスタムメイドした防刃ベストを作って、誰がこれを着ることができるのかと思ったんだ。グラストンベリーでストームジーがいい」とInstagramに投稿している。

 

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. I made a customised stab-proof vest and thought - who could possibly wear this? Stormzy at Glastonbury.

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公演後、ストームジーは「昨夜は、地球上で最も偉大で最も象徴的な現役アーティスト、唯一無二のバンクシーがカスタムメイドされた防刃ベストを着て、グラストンベリーのヘッドライナーを務めた」はInstagramに投稿した。

 

ストームジーは、イギリスでのナイフ犯罪の増加と刑事司法制度における人種的不平等に対する見解としてベストを着用したという。このナイフ事件と人種的不平等はストームジーが公の場でよく口にする問題であり、彼の音楽の中でも取り上げられている。

 

特にロンドン、バーミンガム、マンチェスターなどの都市で育った黒人や少数民族の若者たちは社会的不公平にさらされているという。

 

セット中、ストームジーは労働党議員の黒人男性デビッド・ラミーと司法制度に関するスピーチのクリップを再生した。ラミー議員は、偏った不均衡なイギリスの司法制度で犯罪者にされがちな黒人の若者たちの不公平の問題に取り組んでいる。

 

これについてラミー議員は、「グラストンベリーは世界最大の文化プラットフォームの一つであり、世界中の観客が見ている 」とFacebookの投稿でストームジーをフォローした。



【作品解説】バンクシー「分離国会」

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分離国会 / Devolved Parliament

英国下院で議論するチンパンジーたち


バンクシー『分離国会』2019年
バンクシー『分離国会』2019年

概要


『分離国会』は2009年にバンクシーが制作した油彩作品『Question Time』をリワークした作品。作品のサイズは2.5メートル×4.2メートルで、バンクシーが描いたキャンバス作品としては最大級となる。英国下院で議論している政治家たちをチンパンジーに置き換えて描いている。

 

本作品は、2019年の3月から9月の間、ブリストル美術館で2009年に開催された『Banksy vs Bristol Museum』から10年を記念して、ブリストル美術館に展示された。

 

同年、10月3日にロンドンのサザビーズに出品され、990万ポンド(1,220万ドル)で落札され、これまでのバンクシー作品で最高額となった。

 

なお、2009年にブリストル市立博物館・美術館で開催されたバンクシーの個展で初公開された際は『質問時間』というタイトルだった。その後、2011年に個人のコレクターに売却された。

 

チンパンジーの解釈はバンクシーの2002年の作品『Laugh Now』が参考になる。「今は笑え、でもいつかは俺たちが責任者となる」と書かれたエプロンを着たチンパンジーが描かれた作品である。

 

バンクシーはこの作品について「今は笑え、でもいつかは誰も責任をとらなくなる」とコメントしている。おそらく、当時のEU分離問題で揺れていた議会を風刺したものである。

 

また、以前の作品に描かれていたバナナやランプの一部など細部に変更が加えられている。

バンクシー『質問時間』2009年
バンクシー『質問時間』2009年
左:2019年『分離議会』、右:2009年の『質問時間』。ランプやバナナに変更が加えられている。
左:2019年『分離議会』、右:2009年の『質問時間』。ランプやバナナに変更が加えられている。

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Devolved_Parliament_(Banksy)、2020年6月13日アクセス

https://www.nytimes.com/2019/09/19/arts/design/banksy-auction.html、2020年6月13日アクセス


【作品解説】バンクシー「モバイル・ラバーズ」

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モバイル・ラバーズ / Mobile Lovers

英国下院で議論するチンパンジーたち


バンクシー『モバイル・ラバーズ』2014年
バンクシー『モバイル・ラバーズ』2014年

概要


《モバイル・ラバーズ》は2014年4月にバンクシーがブリストルで制作したストリート・アート。

 

男女二人が今にもキスをしようとしているが、二人の視線は手に持つ携帯電話に向かっているように見える。背景全体は暗いが携帯電話の周囲に向かって明るくなっていく。女性の携帯電話の光は女性に反映され、男性の携帯電話の光は男性に反映されている。また、二人ともスーツを着ている。

 

絵はほぼ等身大の大きさで描かれており、真っ黒なドアの上に塗られている。そのためドアが全くないように見え、遠くから見ると二人は小口に立っている非常にリアルの人間に見える。

 

の作品は、「今を生きる」ことの大切さを伝えるメッセージが込められているという。現代社会では、人々はテクノロジーに消費され、スマホを通して生活をしている。しかし、スマホを介して生きることは、人と人とのリアルなつながりを奪うことになる。

 

バンクシーは、人々がスマホやソーシャルメディアに費やす時間が長すぎて、本当に大切な人たちと一緒にその瞬間を過ごす時間が足りないと感じている。

 

作品の中のカップルは、まるでお互いに注意を払っているかのように振る舞っているが、注意は携帯電話へ集中している。


■参考文献

https://medium.com/@kdalkin/mobile-lovers-by-banksy-523b85dc3973、2020年6月14日アクセス


【作品解説】バンクシー「Better Out Than In」

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ベター・アウト・ザン・イン / Better Out Than In

2013年NY滞在時に発表したシリーズ作品


バンクシー『Better Out Than In』2013年
バンクシー『Better Out Than In』2013年

概要


制作日 2013年10月1日から10月31日
場所 ニューヨーク
種類 レジデンス作品
作者 バンクシー

『Better Out Than In』は、2013年10月にニューヨークに滞在して制作されたバンクシーによるレジデンス作品。『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』という名前でよく知られている。

 

バンクシーは2013年の10月1日から31日まで、毎日少なくとも1つの作品を発表し、専用のウェブサイトとインスタグラムのアカウントの両方でその様子を記録した。作品の大半はステンシルグラフィティで、バンクシーの特徴である政治的メッセージが強いものが中心だった。その他の作品やマルチメディア形式の展示では、ダークなユーモアや風刺を取り入れた作品もあった。

 

10月1日から31日まで制作した作品一覧はこちらを参照

 

企画の予測不可能性とバンクシーの捉えどころのなさがファンを興奮させる一方で、競合するニューヨークのストリート・アーティストや荒らしたちによる、バンクシー作品の破壊も問題となった。バンクシーの作品は本来違法なものであるにもかかわらず、警察への正式な苦情はなかったと言われている。

 

作品を描かれた場所の土地所有者のほとんどはバンクシーの作品を喜び、一部は破壊されないように作品を保護されている。しかし、1ヶ月間にわたるストリート・アート活動は、批評家たちからの批判だけでなく、政治的に強力なメッセージの作品が多かったこともあり、一部の地元の人々の間で論争を引き起こした。

 

2014年に公開されたHBOドキュメンタリー映画『Banksy Does New York』でニューヨーク滞在中に活動した様子が記録されている。

背景


2013年10月1日、バンクシーは自身のウェブサイトで、1ヶ月間ニューヨークでショーを開催することを発表し、その後、イベントを宣伝するポスターがロサンゼルスに現れ始めた。

 

タイトルの「Better Out Than In」は、印象派のポール・セザンヌの言葉を引用したもので、「スタジオの中で描かれたすべての絵は、外で描かれたものにはかなわないだろう」という意味だという。

 

『ヴィレッジ・ヴォイス』のインタビューでバンクシーは、「ニューヨークは汚い古い灯台のようにグラフィティ画家を呼んでいる。私たちは皆、ここで自分自身を証明したいと思っている」と述べ、人通りが多く、隠れ家的な場所に最適な理由であることからニューヨークを選んだという。

代表的な作品


■10月1日『グラフィティは犯罪である』

バンクシーが『Better Out Than In』で制作した作品は、おもにステンシルで構成されており、その多くは政治的なものである。最初の作品では、「ストリートは遊びの中にある」とキャプションを付け、『グラフィティは犯罪である』と書かれた看板の上でスプレー・ペイントのボトルを手に取る子供の姿を描いている。

 

この看板は盗まれた後、クイーンズ区を拠点とするグラフィティ・グループ「スマート・クルー」によって「ストリート・アートは犯罪である」という新しい看板に取り替えられた。彼の他の作品のほとんどと同様に作品には音声の伴奏がついており、ウェブサイト上で聴くことができるほか、フリーダイヤル800でも聴くことができる。

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: The street is in play Manhattan 2013 #banksyny

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■10月5日『移動式庭園』

イーストビレッジでは、虹や滝、蝶などが描かれたプロップを含むバンクシーの5作目の作品が移動式庭園』が配送トラック内に展示された。

『移動式庭園』
『移動式庭園』

■10月6日『ダンボの撃墜』

バンクシーの各作品はニューヨークの5つの行政区の至るところに設置され、中には純粋なマルチメディア展示もある。10月6日には芸術の中心地であるブルックリンのダンボで、ウォルト・ディズニーのキャラクターであるダンボがシリア反乱軍に撃墜されたビデオを投稿したが、その意味の背景に多くの人が困惑した。

■10月9日『2007年7月12日バクダッド空爆』

精巧で政治的に強い作品の一つを発表した。それは、ローワー・イースト・サイドの空き地にある車とトレーラーにスプレーで描かれた武装した兵士と馬に焦点をあてたものだった。

 

作品についての解説ではなく、2007年7月12日のバグダッド空爆の機密ビデオの音声が付随されていた。 解体された後、車はこれ以上の汚損を防ぐためにレッカー移動された。

■10月11日『羊たちの沈黙』

11日には、食肉産業の「さりげない残酷さ」を問う政治的な展示が行われた。『羊たちの沈黙』と題された作品は、鳴き声のするアニマトロニクスの剥製で埋め尽くされた軍用貨物トラックで移動しながら展示された。このトラックはマンハッタンのミートパッキング地区でデビューを飾ったが、その後数週間で市内の他の地域を巡回した。

■10月13日 路上でバンクシー作品を60ドルで販売

10月13日、バンクシーはインスタグラム上に、中年男性がセントラルパークの外で売っていた60ドルの作品が、本物のバンクシーのサイン入りのキャンバス作品であったことを告知する投稿をした。7つの絵画の合計が420ドルを取って販売されたという。

 

販売は事前に発表していなかったため、観光客や公園を散歩していた人は、BBCが推定した絵画の価値に気付いてなかったが、現在は32,000ドル以上になる可能性がある。

 

2点をそれぞれ60ドルで購入したニュージーランドの女性は、後に2014年にロンドンのオークションで125,000ポンドでそれらを販売した。

■10月15日『ローワー・マンハッタンのスカイライン』

10月15日、バンクシーはこのシリーズの中で最も物議を醸した作品の一つ、かつての世界貿易センタービルをモチーフにして『ローワー・マンハッタンのスカイライン』を発表した。ハイジャックされた飛行機がノース・タワーに激突した場所に焦げたオレンジ色の菊が描かれていた。

 

この絵はトライベッカ地区にあるビルの側面に描かれ、またブルックリン・ハイツ・プロムナードに沿ってダウンタウンのスカイラインに面した場所にも同様のものが描かれていた。

 

ブルックリン・ハイツの作品は最終的に市によって化学薬品と強力な圧力洗浄機で消去された。除去は、バンクシーが自身のウェブサイトで市を愚弄したあとに続いて行われた。

 

一方、トライベッカの方の姉妹作品は神社としての機能を果たし、横に花を置いたり、絵に触れないようにとメッセージが書かれた。最終的には保護のためにアクリルガラスが設置された。

トライベッカ版『ローワー・マンハッタンのスカイライン』
トライベッカ版『ローワー・マンハッタンのスカイライン』

■10月16日『マクドナルドと靴磨き』

10月16日、ロナルド・マクドナルドの巨大なグラスファイバー彫刻を作り、実在するバンクシーのアシスタントがマクドナルド彫刻の靴を磨いている作品を発表した。他の政治的声明でキャンバスと街路を超えて彼の作品を拡張しました。

 

ブロンクスでお披露目され、数日間、ランチタイム頃に市内にあるさまざまなマクドナルドの店舗の外に移動しながら展示された。この作品は、「巨大企業の洗練されたイメージを保つために必要な重労働」を批判しているという。

■10月18日 オス・ジェメオスのコラボ作品

10月18日には、ストリート・アーティストのオス・ジェメオスとのコラボレーション作品を発表。

 

ジェメオスが描いたマスクをかぶった市民の中に一人の兵士を描いたペインティングと、その逆のバージョンのペインティングのペアが発表された。この作品はアートワールドの批判として、また「ウォール街を占拠せよ」運動へのオマージュ的な意味があるという。

 

■10月21日『Ghetto 4 Life』

10月21日にバンクシーは再びサウスブロンクスを訪問し、壁に『Ghetto 4 Life』の文字をスプレーで描く子供の姿を描いた作品を発表。この作品は多くの住民を怒らせたにもかかわらず、すぐにファンの間で話題となった。

『Ghetto 4 Life』
『Ghetto 4 Life』

■10月22日『Everything but the kitchen sphinx』

10月22日にウィレッツ・ポイントの作業場に登場し、「Everything but the kitchen sphinx」と題されたスフィンクスの彫刻が設置され、すぐに熱心なバンクシーのファンが押し寄せた。

 

現場の労働者の関心を引き、労働者によればそれぞれのれんがが100ドルで売られて、トラックに積み込まれて持ち去られたという。

 

この作品の破滅的な運命は、HBOドキュメンタリー『Banksy Does New York』(2014年)で大きく取り上げられた。 作品は元の場所から持ち出され、ガレージに保管され、のちにアート・マイアミ・ニューヨークの現代アートフェアに登場した。

■10月23日「中止」

現在、ニューヨークで大暴れをしているバンクシーに対し、ニューヨークのブルームバーグ市長は記者会見で「他人の所有物や公共物にいたずらしたり汚したりする行為は、私に言わせれば芸術とは言えない」と不快感を表し、ニューヨーク市警察に対して、バンクシーが絵を描いているところを発見した場合には、すぐに摘発するよう指示を出したという。

 

そうした動きもあり、23日の作品は警察の動きより中止となったというメッセージがインスタグラムや公式サイトにアップされた。また、逮捕されたという噂もあった。

 

■AnonymousGuestbook

同日、レッドフック地区のビルの外壁に「Better Out Than In #AnonymousGuestbook」とキャプションが書かれた枠だけが描かれたキャンバスが描かれた。誰でも匿名で描けるものだった。オープン・キャンバスとう形のコラボレーション作品のアイデアは、2週間前にその地域コミュニティのアートディレクターからバンクシーに提示されたという。

 

しかし、これは正確にはバンクシーの作品ではなかった。多くの人が「匿名のゲストブック」がバンクシー自身によるものだと信じいてたが、後に匿名の「ゲストブック」という名前の下もとでグループの活動であったことを否定された。

■10月24日『Waiting in Vain』

『Waiting in Vain』は、この企画の第24番目の作品である。ヘルズ・キッチンにあるストリップクラブの外に設置されたこの作品には、タキシード姿の男性が花を持っている様子が描かれていた。クラブで働く芸能人たちがこの作品の前でポーズをとった後、オーナーはこの作品を荒らしに破壊される前にシャッターから慎重に取り外して保管することにした。この作品はクラブ内に常設展示される予定となっている。

『Waiting in Vain』
『Waiting in Vain』

■10月25日『死のダンス』

25番目の作品『死のダンス』は、その日らしくハロウィンをテーマにしたもので、バワリー地区に設置された。

 

精巧なライトショー、スモッグ装置の演出、またブルー・オイスター・カルトの「(Don't Fear) The Reaper」のミュージックとアコーディオンの生演奏とともに、大きな檻の中でバンパーカーに乗った死神がグルグル回転しながら運転しているというものである。

 

バンクシーがよく話している「芸術の役割は、私たちの死を呼び起こすことだ」という説明とともに、付属のオーディオガイドが自嘲的な解釈をファン提示した。また、長い間続けられているこのマウントされたアートショーに対して「とっくの前から我々は死んでいる」というような事を暗示した。

■10月27日『This site contains blocked messages』

10月27日の作品は、グリーンポイントにある壁に書かれたメッセージで「このサイトにはブロックされたメッセージが含まれてます」というものである。

 

それはバンクシーがニューヨーク・タイムズ紙に投稿した未発表のコラムに言及したものだった。物議をかもしたそのコラムは、ワン・ワールド・トレード・センターの建設を決定を批判したもので、バンクシーは対して「バニラ」で「まるでカナダに建っているような、ありきたりのビルだ」と表現したものだという。

参考:バンクシー、NYの新WTCビルをメッタ斬り!

 

9月11日の同時多発テロ事件への2回目の言及となるが、バンクシーによればワン・ワールド・トレード・センターはあの日命を落としたすべての人への裏切りであり、その無垢な姿はテロリストが勝利した証であると主張した。

■10月31日『BANKSY!』

1ヶ月に及ぶシリーズの最後の作品は、クイーンズのロングアイランド高速道路沿いのビルの壁に描かれた作品で、「BANKSY!」という風船で作られた文字とその下に白と黒の風船の集合体が螺旋状に結ぶように描かれていた

 

バンクシーは、自身のウェブサイト上でこの作品のキャプションとして「SAVE 5POINTZ」というメッセージを添えている。5POINTZとは、 ニューヨーク市都市計画局が最近マンション建設のために取り壊すことを決定したグラフィティ文化の中心地「5 Pointz(ファイブ・ポインツ)」のことを指している。

 

ファイブ・ポインツはの外観はストリート・アートで覆われており、建物は壁に描かれたアートで世界的に有名になっていた。この衝撃的な、グラフィティで埋め尽くされた倉庫がヒッピホップやR&Bのスターたちを引き寄せており、彼らのミュージック・ビデオの中に登場している。

 

2013年、開発事業者ジェリー・ウォルコフはファイブ・ポインツを解体して住宅団地に変える決定を下し、アーティストたちから抗議を受けた。しかし、何の警告もなく、2013年11月19日、ファイブ・ポインツのグラフィティは前夜のうちに白く塗りつぶされた。2014年に完全に解体された。2015年1月末にはこの敷地は完全に更地となった。

白と黒の風船の集合体と『BANKSY!』の文字
白と黒の風船の集合体と『BANKSY!』の文字
かつて存在したグラフィティ文化やヒップホップをはじめサブカルチャーの聖地「ファイブ・ポインツ」
かつて存在したグラフィティ文化やヒップホップをはじめサブカルチャーの聖地「ファイブ・ポインツ」
かつて存在したファイブ・ポイントの壁画。
かつて存在したファイブ・ポイントの壁画。

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Better_Out_Than_In、2020年6月26日アクセス

https://qetic.jp/art-culture/banksy-betteroutthanin/105976/3/、2020年6月26日アクセス


【美術解説】バンクシー「世界で最も人気のストリート・アーティスト」

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バンクシー / Banksy

世界で最も注目されているストリート・アーティスト


※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年
※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年

概要

バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
本名

不明

生年月日 不明
国籍 イギリス
表現媒体 絵画、壁画、インスタレーション、版画
ムーブメント グラフィティストリート・アートブリストル・アンダーグラウンド
代表作

《愛はごみ箱の中に》2018年

《風船と少女》シリーズ

《東京2003》

Better Out Than Inシリーズ

そのほかバンクシー作品一覧

公式サイト http://banksy.co.uk

バンクシーはイギリスを基盤にして活動している匿名の芸術家、公共物破壊者(ヴァンダリスト)、政治活動家。

 

現在は世界中を舞台にして神出鬼没を繰り返し活動することが多い。アート・ワールドにおいてバンクシーは、おもにストリート・アート、パブリック・アート、政治活動家として評価されている。ほかに映画制作もしている。

 

ステンシル(型板)を使用した独特なグラフィティ絵画と絵画に添えられるエピグラム(簡潔でウィットのある主張を伴う短い詩)は、ダークユーモアで風刺性が高い。政治的であり、社会的な批評性のあるバンクシーの作品は、世界中のストリート、壁、橋に描かれている。

 

バンクシーの作品は、芸術家と音楽家のコラボレーションが活発なイギリス西部の港湾都市ブリストルのアンダーグラウンド・シーンで育まれた。そのスタイルは、ステンシル作品の父として知られるフランスの芸術家ブレック・ル・ラットや、マッシヴ・アタックのロバート・デル・ナジャ(3D)の絵描き時代の作品とよく似ている。バンクシー自身ものちに音楽グループ「マッシヴ・アタック」の創設者となった3Dやブレック・ル・ラットから影響を受けていると話している。

 

バンクシーは自身の作品を、街の壁や自作の小道具的なオブジェなど、だれでも閲覧できる公共空間に展示することが多く、ギャラリーや屋内で展示することは少ない。

 

バンクシー自身がストリート・アートの複製物や写真作品を販売することはないが、アート・オークション関係者はさまざまな場所に描かれたバンクシーのストリート・アートを販売しようと考えている。

 

バンクシーの最初の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』は、「世界で最初のストリートアートパニック映画」とキャッチをうたれ、2010年のサンダンス映画祭で公開された。2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。2014年、バンクシーは「2014年ウェビー賞」を受賞した。 

作品・個展解説


バンクシー個人情報は明らかにされていない


バンクシーの名前やアイデンティティは公表されておらず、飛び交っている個人情報はあくまで憶測である。

 

2003年に『ガーディアン』紙のサイモン・ハッテンストーンが行ったインタビューによれば、バンクシーは「白人、28歳、ぎっしりしたカジュアル服、ジーンズ、Tシャツ、銀歯、銀のチェーンとイヤリング。バンクシーはストリートにおけるジミー・ネイルとマイク・スキナーを混じり合わせたようなかんじだ」と話している。

 

バンクシーは14歳から芸術活動をはじめ、学校を追い出され、軽犯罪で何度か刑務所に入っている。ハッテンストーンによれば「グラフィティは行為は違法のため匿名にする必要があった」と話している。

 

1990年代後半から約10年間、バンクシーはブリストルのイーストン地区の家に住んでいた。その後、2000年ごろにロンドンへ移ったという。

 

何度かバンクシーと仕事をしたことのある写真家のマーク・シモンズは以下のように話している。

 

「ごく普通のワーキングクラスのやつだった。完璧にまともなやつだった。彼は目立たないことを好んだから、グラフィティ・アーティストであることも気にならなかった。謎めいているとされる辺りが気に入っていて、ジャーナリストやメディアから壁で隔離されることが彼は好きなんだ。BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用)  

確証のないバンクシーの個人情報


噂されているのはロビン・ガニンガム。1973年7月28日にブリストルから19km離れたヤーテで生まれた。ガニンガムの仲間や以前通っていたブリストル大聖堂合唱団のクラスメートがこの噂の真相について裏付けており、2016年に、バンクシー作品の出現率とガニンガムの知られた行動には相関性があることが調査でわかった。

 

1994年にバンクシーはニュヨークのホテルに「ロビン」という名前でチェックインしている。2017年にDJゴールディはバンクシーは「ロブ」であると言及した。

 

過去にロビン・ガニンガム以外で推測された人物としては、マッシブ・アタックの結成メンバーであるロバート・デル・ナジャ(3D)やイギリスの漫画家ジェイミー・ヒューレットなどが挙げられる。ほかにバンクシーは複数人からなる集団芸術家という噂が広まったこともある。2014年10月にはバンクシーが逮捕され、彼の正体が明らかになったというネットデマが流れた。

 

ブラッド・ピットはバンクシーの匿名性についてこのようにコメントしている。

「彼はこれだけ大きな事をしでかしているのにいまだ匿名のままなんだ。すごい事だと思うよ。今日、みんな有名になりたがっているが、バンクシーは匿名のままなんだ」

 

2019年7月、英テレビ局「ITV」のアーカイブからバンクシーらしき人物のインタビュー映像が発見され世界で話題になっている。インタビューは、バンクシーが2003年にロンドンで初めて開き、一躍有名になった展覧会「Turf war」前に行われたものである。

バンクシーと関わりの深い人物


ロバート・デル・ナジャ

マッシヴ・アタックのメンバーであり、ブリストル・アンダーグラウンド・シーンの中心的人物。

 

ミスター・ブレインウォッシュ

バンクシー初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』でバンクシーに撮影された主演男性。

 

ニック・ウォーカー

ロバート・デル・ナジャとともにブリストル・アンダーグラウンド・シーンを盛り上げたアーティストで、バンクシーに影響を与えている。

 

ブレック・ル・ラット

「ステンシル・グラフィティの父」と呼ばれるフランスのグラフィティ・アーティスト。極めてバンクシーの作品と似ているため、最近ブレックはバンクシーに対して不満をもらしはじめている。

 

スティーブ・ラザライズ

イギリスの画商。以前はバンクシーの代理業者として知られていた。ラザライズはストリート・アートの普及に貢献した最初の人物の1人であり、またアンダーグラウンド・アートの最新トレンドにおける権威として知られている。

美術館侵入事件


バンクシーが世界的に報道されるようになったのは美術館侵入事件のころからである。バンクシーは2000年代何度か美術館に侵入して無断で作品を設置するなどの事件を起こしており、「芸術テロリスト」というキャッチが付けられはじめたのはこのころである。

 

・2003年10月、テート・ブリテン美術館に侵入して、風景画の上に警察の立ち入り禁止テープが描かれた絵を壁に接着剤で貼り付けた。床に絵が落下するまで発見されなかった。

 

・2004年4月、美術館員を装って、ガラス張りの箱に入れられたネズミを、ロンドン自然博物館に持ち込む。ネズミはサングラスをかけ、リュックを背負い、マイクとスプレー缶を手にしている。後ろの壁には「我々の時代が来る」というメッセージがスプレーで描かれていた。

 

・2005年3月、ニューヨークの4つの世界的な美術館・博物館であるニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館、ブルックリ美術館、アメリカ自然史博物館に侵入し、作品を展示する。グラフィティ系ウェブサイト(www.woostercollective.com)に「この歴史的出来事は、ファインアートの権威たちにとうとう受け入れられるようなったというより、巧妙な偽ひげと強力接着剤の使用によるところが大きい」とコメントしている。

 

・2005年5月、大英博物館に侵入し動物とショッピングカートを押している原始人が描かれた壁画を展示する。タイトルは「洞窟壁画」で同作品の説明が書かれたキャプションが設置された。この作品はバンクシー自信がウェブサイトで公表するまでの3日間、気づかれなかった。この作品は2018年8月30日に大英博物館が公式展示することを発表した。

※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。
※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。

略歴


若齢期


バンクシーは1990年から1994年ころにフリーハンドによるグラフィティをはじめている。ブリストル・ドリブラズ・クルー(DBZ)のメンバーとして、カトーやテスらとともに知られるようになった。

 

バンクシーは、ニック・ウォーカーインキー3Dといった少し上の世代の地元ブリストル・アンダーグラウンドシーンの芸術家から影響を受けている。この時代に、バンクシーはブリストルの写真家スティーブ・ラザライズと出会う。彼はのちにバンクシーの作品を売買するエージェントとなった。

 

初期はフリーハンド中心だったが2000年ころまでに制作時間を短縮するため、ステンシル作品へ移行しはじめた。ステンシルとはステンシルプレートの略称。板に文字や記号、円などの図形やイラストをの形をくりぬき、くり抜いた部分にスプレーを吹き付けることによって絵を描く技法である。

 

バンクシーはゴミ箱の下や列車の下に隠れて、警察の目から逃げているときにステンシル作品に変更しようと考えたという。

 

「18歳のとき、旅客列車の横に描こうとしていたら警察がきて、1時間以上ダンプカーの下で過ごした。そのときにペインティングにかける時間を半分にするか、もう完全に手をひくしかないと気がついた。それで目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見上げていたら、このスタイルをコピーして、文字を3フィートの高さにすればいいと気付いた(BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用)」と話している。

 

ステンシル作品に変更してまもなく、バンクシーの名前はロンドンやブリストルで知られるようになった。

 

バンクシーが最初に大きく知られるようになった作品は、1997年にブリストルのストーククラフトにある弁護士事務所の前の広告に描いた《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》で、3人の機動隊と火炎瓶を手にした熊が対峙した作品である。

※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年
※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年

 バンクシーのステンシルの特徴は、ときどきかたい政治的なスローガンのメッセージと矛盾するようにユーモラスなイメージを同時に描くことである。

 

この手法は最近、イスラエルのガザ地区で制作した《子猫》』にも当てはまる。なおバンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦反資本主義反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

 

 

2002−2003年


2002年6月19日、バンクシーの最初のロサンゼルスの個展「Existencilism(イグジステンシリズム) 」が、フランク・ソーサが経営するシルバーレイク通りにある331⁄3 Galleryで開催された。個展「Existencilism」は、33 1/3ギャラリー、クリス・バーガス、ファンク・レイジー、プロモーションのグレース・ジェーン、B+によってキュレーションが行なわれた。

 

2003年にはロンドンの倉庫で「Turf War(ターフ・ウォー)」という展示が開催され、バンクシーはサマセットの牧場から連れて来られた家畜にスプレー・ペインティングを行った。この個展はイギリスで開催されたバンクシーの最初の大きな個展とされている。

 

展示ではアンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛、ホロコースト犠牲者が着ていたパジャマの縞模様をステンシルされた羊などが含まれている。王立動物虐待防止協会も審査した結果、少々風変わりではあるけれども、ショーに動物を使うことは問題ないと表明した。しかし、動物保護団体で活動家のデビー・ヤングが、ウォーホルの牛を囲っている格子に自身の身体を鎖で縛りつけて抗議した。

 

バンクシーのグラフィティ以外の作品では、動物へのペインティングのほかに、名画を改ざん、パロディ化する「転覆絵画(subverted paintings)がある。代表作品としては、モネの「睡蓮」に都市のゴミくずやショッピングカートを浮かべた作品シリーズがある。

 

ほかの転覆絵画では、イギリスの国旗のトランクスをはいたサッカーのフーリガンかと思われる男とカフェのひび割れたガラス窓に改良したエドワード・ホッパーの《ナイトホーク》などの作品が有名である。これらの油彩作品は、2005年にロンドンのウェストボーングローブで開催された12日間の展示で公開された。

 

バンクシーはアメリカのストリート・アーティストのシェパード・フェアリーと2003年にオーストラリアのアレクサンドリアの倉庫でグループ展を開催している。およそ1,500人の人々が入場した。

※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年

かろうじて合法な10ポンド偽札(2004-2006年)


2004年8月、バンクシーはイギリス10ポンドの偽札を作り、エリザベス女王の顔をウェールズ公妃ダイアナの顔に入れ替え、また「イングランド銀行」の文字を「イングランドのバンクシー」に書き換えた。

 

その年のノッティング・ヒル・カーニバルで、群衆にこれらの偽装札束を誰かが投げ入れた。偽の札束を受け取った人の中には、その後、地元の店でこの偽札を使ったものがいるという。その後、個々の10ポンド偽札は約200ポンドでeBayなどネットを通じて売買された。

 

また、ダイアナ妃の死を記念して、POW(バンクシーの作品を販売しているギャラリー)は、10枚の未使用の偽紙幣同梱のサイン入りの限定ポスターを50枚販売した。2007年10月、ロンドンのボナムズ・オークションで限定ポスターが24,000ポンドで販売された。

『イングランドのバンクシー」Artnetより。
『イングランドのバンクシー」Artnetより。

2005年8月、バンクシーはパレスチナへ旅行し、イスラエル西岸の壁に9つの絵を描いた。

バンクシーは2006年9月16日の週末にロサンゼルスの産業倉庫内で「かろうじて合法」という個展を3日間限定で開催。ショーのオープニングにはブラッド・ピットなどのスターやセレブがたくさん訪れた。

 

「象が部屋にいるよ」という「触れちゃいけない話題」のことを指すイギリスのことわざを基盤にした展示で、この展示で話題を集めたのは全身がペンディングされたインド象だった。動物の権利を主張する活動家たちが、インド象へのペインティング行為に非難した。しかし、展覧会で配布されたリーフレットによれば、世界の貧困問題に注意を向けることを意図した展示だという。

 

この古びた倉庫での3日間のショーがアメリカ話題になり、美術界の関係者もこのショーをきっかけにバンクシーとストリート・アートに注目をしはじめた。美術館の有力者もバンクシーをみとめはじめ、ストリート・アート作品がオークションで急激に高騰をしはじめた。コレクターも新しい市場に殺到した。

※6:全身ペインティングされたインド象。
※6:全身ペインティングされたインド象。

バンクシー経済効果(2006-2007年)


クリスティーナ・アギレラは、バンクシー作品『レズビアン・ヴィクトリア女王』のオリジナル作品と2枚のプリント作品を25,000ポンドで購入。

 

2006年10月19日、ケイト・モッシュのセット絵画はサザビーズ・ロンドンで50,400ポンドで売買され、オークションでのバンクシー作品で最高価格を記録した。

 

この作品は6枚からなるシルクスクリーン印刷の作品はアンディ・ウォーホルのマリリン・モンロー作品と同じスタイルでケイト・モスを描いたもので、推定落札価格の5倍以上の値で取引された。目から絵の具が滴り落ちた『緑のモナリザ』のステンシル作品は、同オークションで57,600ポンドで売買された。

 

同年12月、ジャーナリストのマックス・フォスターはバンクシーのアート・ワールドにおける成功とともに、ほかのストリート・アーティストの価格の上昇や注目の集まりを説明するため「バンクシー効果」という言葉を使った。

 

2007年2月21日、ロンドン・サザビーズはバンクシー作品を3点出品し、バンクシー作品において過去最高額を売り上げた。『中東イギリス爆撃』は10万2000ポンド、ほかの2つの作品『バルーン少女』と『爆弾ハガー』はそれぞれ3万7200ポンドと3万1200ポンドで落札され、落札予想価格を大幅に上回った。

 

翌日のオークションではさらに3点のバンクシー作品が値上がりした。『バレリーナとアクション・マン・パーツ』は9万6000ポンド、『栄光』は7万2000ポンド、『無題(2004)』は3万3600ポンドで落札され、すべて落札予想価格を大幅に上回った。

 

オークション2日目の売上結果に反応するように、バンクシーは自分のサイトを更新し、入札している人々が描いた新しいオークションハウスの絵画をアップし、「とんちきが糞を購入する姿が信じられない」とメッセージを添えた。

 

2007年2月、バンクシーに描かれた壁画を所有するブリストルの家主は、レッド・プロペラ画廊を通じて家の売却を決めた。オークションの目録には「家に付属している壁画」と記載された。

 

2007年4月、ロンドン交通局は、クエンティン・タランティーノの1994年作映画『パルプ・フィクション』から引用して描いたバンクシーの壁画を塗りつぶした。この壁画は非常に人気があったけれども、ロンドン交通局は「放置や社会的腐敗の一般的な雰囲気は犯罪を助長する」と主張した。

 

2008年、イギリス、ノーフォーク出身のネイサン・ウェラードとミーブ・ニールの二人はバンクシーが有名になる以前の1998年に描いた30フィートの壁画『脆弱な沈黙』付きのモバイルホーム自動車を売却すると発表した。

 

ネイサン・ウェラードによれば、当時バンクシーは夫婦に「大きなキャンバス」として自動車の壁を使うことができるかたずね、夫婦は承諾したという。キャンバスのお礼にバンクシーは2人にグラストンベリー・フェスティバルの入場無料券をくれたという。

 

11年前に夫婦が1,000ポンドで購入したモバイルホームは、現在は500倍の価格の500,000ポンドで売られている。

 

バンクシーは自身のサイトに「マニフェスト」を公開した。マニフェストの文書には、クレジットとして、帝国戦争博物館で展示されているイギリス軍中尉ミルヴィン・ウィレット・ゴニンの日記と記載されていた。このテキストは第二次世界大戦が終わるころ、ナチスの強制収容所の解放時に届いた大量の口紅がどのようにして捕虜たちの人間性を取り戻す助けとなったかが説明されている。

 

しかし、2008年1月18日、バンクシーのマニフェストは、泥棒のジョージ・デイヴィスを投獄から解放するために制作した1970年代のピーター・チャペルのグラフィティを探求した作品『Graffiti Heroes No. 03』に置き換えられた。

2008年


2008年3月、ホランド・パーク通りの中心にあるテムズ・ウォルター塔に描かれたステンシル形式のグラフィティ作品は、広くバンクシーが制作したものだとみなされている。黒い子ども影の絵と、オレンジ色で「Take this—Society!」という文字が描かれていた。ハマースミス・アンド・フラム区のスポークスマンで評議員のグレッグ・スミスはグラフィティを破壊行為とみなし、即時除去を命じ、3日以内に除去された。

2008年8月後半、ハリケーン・カトリーナ三周忌とグレーター・ニューオーリンズの2005年の堤防の崩落の三周忌として、バンクシーはルイジアナ州ニューオーリンズの災害で崩壊した建物に一連のグラフィティ作品を描いた。

 

バンクシーと思われるステンシル作品が、8月29日、アラバマ州バーミンガムのエンスレー近郊にあるガソリンスタンドに現れた。ロープから吊り下げられたクー・クラックス・クランのフードを被ったメンバーが描かれたが、すぐに黒スプレーで塗りつぶされ、のちに完全に除去された。

 

バンクシーは2008年10月5日、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで最初のニューヨーク個展『The Village Pet Store and Charcoal Grill』を開催。偽のペットショップという形態をとり、動物や道徳や農業の持続可能性の関係を問いただすことを目的としたインスタレーション形式の展示となった。

 

ウェストミンスター市協議会は2008年10月、2008年4月にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品『CCTVもとの1つの国』は落書きのため塗りつぶすと発表した。評議会はアーティストの評判にかかわらず、あらゆる落書きを除去する意向を示し、はっきりとバンクシーに「子どもとは違い落書きをする権利はない」と表明した。

 

評議会の議長であるロバート・デービスは『Times』紙に対して、「もしバンクシーの落書きを許したら、スプレー缶を持った子どもであれば誰でも芸術を制作していることいえるだろう」と話している。作品は2009年4月に塗りつぶされた。

 

2008年12に、オーストラリアのメルボルンに描かれたダッフルコートを着た潜水ダイバーのグラフィティ作品『リトル・ダイバー』が破壊された。当時、作品はクリアなアクリル樹脂で保護されていた。しかしながら、銀の絵の具が保護シートの背後からそそがれ、"Banksy woz ere"という言葉のタグが付けられ、絵はほぼ完全に消された。

 

2008年5月3日〜5日にかけて、バンクシーはロンドンで「カンズ・フェスティバル」と呼ばれる展示を開催した。ロンドン、ランベス区のウォータールー駅下にある以前はユーロスターが使っており、今は使われていないトンネル「リーク・ストリート」でイベントは行なわれた。

 

ステンシルを利用したグラフィティ・アーティストたちが招待され、グラフィティ・アートでトンネル内を装飾した。なお、ほかのアーティストの作品に上書きする行為はルールで禁止された。

 

トンネル内でのグラフィティ行為は法律的に問題はあるものの、この場所は大目に見られていた。

2009年


2009年7月13日、ブリストル市立博物館・美術館で「バンクシーVSブリストル美術館」展が開催され、アニマトロニクスやインスタレーションを含む100以上の作品が展示された。また過去最大のバンクシーの展覧会でもあり、78もの新作が展示された。

 

展示に対しては非常に良い反応が得られ、最初の週末には8,500人もの人々が訪れた。展覧会は12週間にわたって開催され、合計30万人以上の動員を記録した。

 

2009年9月、ストーク・ニューイントンにある建物にイギリス王室をパロディ化したバンクシーの作品が描かれ、残ったままになっていた。内容に問題があるため、当局から土地所有者に対してグラフィティの除去施行通知が送られた後、ハックニー区役所によってグラフィティの一部が黒く塗りつぶされた。

 

この作品は2003年にロックバンド「ブラー」からの依頼でバンクシーが制作したもので、ブラーの7インチシングルCD「クレイジー・ビート」のカバーアートとして利用されたものである。

 

土地所有者はバンクシーのグラフィティ行為を許可しており、そのまま残す意向だったが、報告によれば所有者の目の前で当局によって絵が塗りつぶされ、涙を流したという。

2009年12月、バンクシーは地球温暖化に関する4つのグラフィティ作品を描いて、第15回気候変動枠組条約締約国会議の破綻を風刺した作品を制作。「地球温暖化を信じていない」という語句が記載された作品で、地球温暖化懐疑論者たちを皮肉ったもものである。その作品は半分水の中に沈められた状態で壁に描かれた。

2010年


2010年1月24日、ユタ州パーク・シティで開催されたサンダンス映画祭で、バンクシーの初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』が上映された。バンクシーはパーク・シティやソルト・レイク・シティ周辺に映画の上映を記念して、10点のグラフィティ作品が制作している。

 

なお、2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。

 

2010年4月、サンフランシスコで『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』の上映を記念して、街のさまざまな場所に作品が5点描かれた。バンクシーはサンフランシスコのチャイナタウンのビルの所有者に50ドルを支払い、ステンシル作品を描いたといわれる。

2010年5月、7点の新しい作品がカナダ、トロントに現れたが、そのほとんどは塗りつぶされたか、除去された。

 

2010年2月、イギリスにのリバプールにある公衆建築物「ホワイトハウス」は11万4000ポンドでオークションで売買された。この建物の外壁に描かれたネズミのグラフィティはバンクシーの手によるものである。

 

2010年3月、バンクシーの作品『我らの不法侵入を赦したまえ』はロンドン地下鉄でアート・ショーを実行したアート会社の「アート・ベロー」と共同でロンドン橋に展示された。地下鉄でグラフィティが流行していたため、ロンドン交通機関によって検閲され、取り除かれた。少年の頭の上に描かれた天使の輪がないバージョンが展示されたが、数日後、輪はグラフィティ・アースィストによって修復させられた。ロンドン交通機関はこのポスターを廃棄した。

 

5月、バンクシーはデトロイトを訪れ、デトロイトとウォーレンのさまざまな場所でグラフィティを描いた。赤いペンキを持った少年とその絵の横に「I remember when all this was trees」という言葉が書かれたグラフィティがデトロイトの廃墟となった壁に描かれたが、この作品は555ギャラリーによって発掘され、持ち去られた。

 

ギャラリーは作品を販売するつもりはないが、自身のデトロイトにあるギャラリーで展示する予定だとはなして。また、彼らはウォーレンにある『ダイヤモンド・ガール』として知られる作品も壁から取り除こうとした。

2011年


2011年5月、バンクシーは「テスコ・バリュー」缶に火炎瓶の煙が出ているリトグラフ・ポスターの販売をはじめる。これは、バンクシーの故郷ブリストルでのテスコ・エクスプレス・スーパーマーケットの進出に反発する地元民によるキャンペーンに乗じたもので、このキャンペーンは長く続いた。

 

ストークス・クロフト地区で、進出反対派のデモ隊と警察官の間に激しい衝突が発生。バンクシーはストークス・クロフト地区の地元民や騒動中に逮捕されたデモ隊を法的弁護のための資金調達をするためにこのポスターを作成した。

 

ポスターはストークス・クロフトで開催されたブリストル・アナーキスト・ブックフェアで5ポンドで限定発売された。

 

12月、バンクシーは、リバプールにあるウォーカー・アート・ギャラリーで『7つの大罪』を発表。司祭の顔をピクセル化した胸像彫刻作品は、カトリック教会における児童虐待騒動を風刺したものだという。

cardinal sin
cardinal sin

2012〜2013年


2012年5月、1990年代後半にメルボルンで描いた『パラシュート・ラット』がパイプを新設する工事中にアクシデントで破壊された。

 

2012年ロンドンオリンピック前の7月、バンクシーは自身のサイトにオリンピックを主題にしたグラフィティ作品の写真をアップしたが、どこに描いたのか場所は明かさなかった。

 

2013年、2月18日、BBCニュースは2012年に制作したバンクシーの近作グラフィティ『奴隷労働』を報告じた。この作品はイギリスの国旗(エリザベス2世のダイヤモンド・ジュビリーのときに作られた)を縫っている幼い子どもの姿が描かれたものである。ウッド・グリーンのパウンドランド店の壁に描かれた。

 

その後、このグラフィティは取り除かれ、マイアミの美術オークションのカタログに掲載され市場で販売されることになった。

爆弾を投げようとしているやり投げの選手
爆弾を投げようとしているやり投げの選手

2013年10月からバンクシーはニューヨークに1ヶ月滞在して、毎日少なくとも1つの作品を発表し、専用のウェブサイトとインスタグラムのアカウントの両方でその様子を記録する『Better Out Than In』シリーズを制作。

 

企画の予測不可能性とバンクシーの捉えどころのなさがファンを興奮させる一方で、競合するニューヨークのストリート・アーティストや荒らしたちによる、バンクシー作品の破壊も問題となった。

 

2014年に公開されたHBOドキュメンタリー映画『Banksy Does New York』でニューヨーク滞在中に活動した様子が記録されている。

2015年


2015年2月、バンクシーはガザ地区を旅したときの様子をおさめた約2分のビデオを自身のウェブサイトにアップした。これは、2014年夏の7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の被害を受けた小さな地区でのパレスチナ人の現在の窮状と苦しみに焦点を当てた内容である。

 

また、バンクシーはガザ滞在時に破壊された家の壁に大きな子猫の絵を描いて注目を浴びた。バンクシーは子猫の絵についてウェブサイトで意図を説明している。

 

「地元の人が来て「これはどういう意味だ?」と聞いてきた。私は自分のサイトで、対照的な絵を描いた写真をアップすることでガザ地区の破壊を強調したかった。しかし、インターネットの人々は破壊されたガザの廃墟は置き去りにして、子猫の写真ばかりを見ている。」

2015年8月21日の週末から2015年9月27日まで、イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで、プロジェクト・アート『ディズマランド』を開催。ウェストン・スーパー・メアの屋外スイミング・プールなどさまざまな施設を借り、邪悪な雰囲気のディズニーランドが構築された。

 

バンクシー作品のほか、ジェニー・ホルツァー、ダミアン・ハースと、ジミー・カーターなど58人のアーティストの作品がテーマパーク内に設置された。

2015年12月、バンクシーはシリア移民危機をテーマにしたいくつかのグラフィティ作品を制作している。『シリア移民の息子』はその問題を反映した作品の1つで、シリア移民の息子であるスティーブ・ジョブズを描いたものである。

 

バンクシーは作品についてこのようなコメントをしている。

 

「私たちは、移民達は自国のリソースを浪費させるものであると考えている。しかし、スティーブ・ジョブズはシリア移民の息子だった。アップルは世界で最も価値のある国で、一年間に70億ドル以上の税金を支払っており、それは元をたどればシリアのホムスからやって来た若い移民の男(ジョブズの父)の入国を許可したのが始まりではなかったか。」

2017年 ザ・ウォールド・オフ・ホテル


2017年、パレスチナのイギリス支配100週年記念としてベツレヘムに建設予定だったアートホテル「ザ・ウォールド・オフ・ホテル」に投資し、開設。

 

このホテルは一般に開かれており、バンクシーやパレスチナ芸術家サム・ムサ、カナダの芸術家ドミニク・ペトリンが設計した部屋もあり、各寝室はイスラエルとパレスチナ自治区を隔てる壁に面している。

 

また、現代美術のギャラリーとしても利用されている。

 

 

2018年 断裁された風船少女


2018年10月、バンクシーの作品の1つ『風船と少女』が、ロンドンのサザビーズのオークションに競売がかけられ、104万ポンド(約1億5000円)で落札された。

 

しかし、小槌を叩いて売却が成立した直後、アラームがフレーム内で鳴り、絵が額内に隠されていたシュレッダーを通過し、部分的に断裁されてしまった。

 

その後、バンクシーはインスタグラムにオークションの掛け声と「消えてなくなった」の意味をかけたとみられる「Going、going、gone ...」というタイトルのシュレッダーで断裁された絵と驚いた様子の会場の様子をおさめた写真をアップした。

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Going, going, gone...

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 売却後、オークションハウスは作品の自己破壊はバンクシーによるいたずらだったことを認めた。

 

ヨーロッパのサザビーズの現代美術部門長のAlex Branczik氏は、「私たちは、”Banksy-ed(バンクシーだったもの)”を手に入れたようだった。」とし、「予期せぬ出来事は、瞬時にしてアートの世界史となった。オークションの歴史の中でも、落札された後に、アートが自動的に裁断されたことはない。」と述べた。

 

その後、作品名は『愛はごみ箱の中に』に改題された。

 

 

テクニック


バンクシーに関することは秘匿性が高いため、ステンシルで絵画を制作をする際にどのようなテクニックが使われているかはっきり分からないが、作品の多くは写真レベルのクオリティにするため、事前にPCで綿密に制作していると思われる。

 

バンクシーがステンシルを使う理由はいくつかある。1つはフリーハンドでの絵が下手なためステンシルに代えたという理由。子どものころ、一般中等教育修了証で美術の評価はE(8段階で下から2番目)しかとれなかったという。

 

また、いつも制作中に警察に見つかり最後まで絵を描きあげることができず、ペインティングに限界を感じていたのも大きな理由である。警察に追われてごみ収集のトラックの下に隠れているときに目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見て、このスタイルなら時間を短縮できると思いついたという。

 

作品スタイルについてもさまざまな議論がされている。最もよく批評されるのはミュージシャンでグラフィティ・アーティストの3Dに影響を受けていることである。バンクシーによれば、10歳のときに街のいたるところにあった3Dの作品に出会い、グラフィティに影響を受けているという。

 

ほかには、フランスのグラフィック・アーティストのBlek le Ratの作風と良く似ていると指摘されている。

 

バンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦、反資本主義、反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

バンクシーへの批判


『キープ・ブリテイン・テディ』のスポークスマンのピーター・ギブソンは、「バンクシーの作品は単純にヴァンダリズム(破壊行為)である」と断言し、また彼の同僚であるダイアン・シェイクスピアは「バンクシーのストリート・アートは本質的に破壊行為であるが、それを称賛することを私たちは心配している」と話している。

 

 

また、バンクシーの作品は以前から、1980年初頭のパリで等身大のステンシル作品で政治的なメッセージとユーモラスなイメージ組み合わせて制作していたBlek le Ratの作品を模倣していると批判されている

 

当のBlek自身は当初、アーバンアートへ貢献しているバンクシーを称賛し「人々はバンクシーは私のパクリというけど、私自身はそう思わない。私は古い人間で彼は新しい人間で、もし私が彼に影響を与えたらそれでいい、私は彼の作品が大好きだ。彼はロンドンで活動しているが、60年台のロック・ムーブメントとよく似ていると感じる」と話していた。

 

しかしながら、最近になって、ドキュメンタリー『Graffiti Wars』のインタビューでは、これまでと異なるトーンで「バンクシーのネズミや子どもや男性の彼絵を見たとき、すぐに私のアイデアを盗んだと思い、怒りを感じた」とコメントしている。

※8:Blek le Rat "Selfie Rat"
※8:Blek le Rat "Selfie Rat"

バンクシーの公式本


バンクシーはバンクシー自身の手による公式の著作物を数冊刊行している。

  • 『Banging Your Head Against A Brick Wall』2001年  ISBN 978-0-9541704-0-0
  • 『Existencilism』2002年 ISBN 978-0-9541704-1-7
  • 『Cut It Out』2004年  ISBN 978-0-9544960-0-5
  • 『Pictures of Walls』2005年 ISBN 978-0-9551946-0-3
  • 『Wall and Piece』2007年 ISBN 978-1-84413-786-2

『Banging Your Head Against a Brick Wall』『Existencilism』『Cut It Out』の3冊は自費出版の小さな小冊子シリーズである。

 

『Pictures of Walls』はバンクシーによるキュレーションで自費出版された他のグラフィティ・アーティストを紹介した写真集である。

 

『Wall and Piece』は最初の3冊の文章と写真を大幅に編集し、また新たな原稿を追加して1冊にまとめたものである。この本は商業出版を意図したもので、ランダム・ハウス社から出版された。日本語版も出版されている。自費出版された最初の3冊は故事脱字が多く、また暗く、怒りに満ち、病的なトーンだったという。『Wall and Piece』では商業出版用にそれらの問題点が校正・編集されている。



【美術解説】ミケランジェロ「ダ・ヴィンチと並ぶ盛期ルネサンスの天才芸術家」

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ミケランジェロ / Michelangelo

ダ・ヴィンチと並ぶ盛期ルネサンスの天才芸術家


ミケランジェロ作『ダビデ像』
ミケランジェロ作『ダビデ像』

概要


生年月日 1475年3月6日
死没月日 1564年2月18日
国籍 イタリア、フィレンツェ
表現形式 絵画、彫刻、建築、詩
代表作

・ダビデ像

・ピエタ像

・モーゼ像

・最後の審判

・システィーナ礼拝堂天井画

ミケランジェロ・ディ・ロドヴィコ・ブオナロティ・シモーニ(1475年3月6日-1564年2月18日)は、盛期ルネサンス時代のフィレンツェ共和国で生まれ、後の西洋美術の発展に比類のない影響力を発揮したイタリアで最も有名な彫刻家、画家、建築家、詩人。

 

一般的に「ミケランジェロ」という名称で知られている。彼の芸術的多彩さと技術的高さは、当時ライバルだったレオナルド・ダ・ヴィンチにともに比較され、典型的な「ルネサンス・マン」の称号の与えられるほど評価が高かった。

 

代表作は30歳前に制作した「ピエタ」「ダビデ」の2つの彫刻作品。また、ダ・ヴィンチと異なり絵画にはあまり関心を示さなかったが、ローマのシスティナ礼拝堂の天井に描いた《システィーナ礼拝堂天井画》と祭壇の壁に描いた《最後の審判》は、西洋美術史上最も影響力のあるフレスコ画として評価されている。

 

また、ミケランジェロが設計したローレシアン図書館は、マネリスム建築の先駆者と評価されている。74歳のとき、サン・ピエトロ大聖堂の建築家として、若き日のアントニオ・ダ・サンガッロの後を継いだ。

 

ミケランジェロは、生存中に伝記が出版された最初の西洋の芸術家で、2種類の伝記が出版された。そのうちのひとつ、ジョルジョ・ヴァザーリによるミケランジェロの伝記では、過去現在のあらゆる芸術家も超越しており、「一つの芸術だけではなく、三つの芸術のすべてにおいて最高のものである」と評価している。

 

ミケランジェロは生前、しばしば「イル・ディヴィーノ(神のような存在)」と呼ばれていた。後に続く芸術家たちがミケランジェロの情熱的で非常に個性的なスタイルを模倣しようとした結果、盛期ルネサンスに次ぐ西洋美術の主要なムーブメントである「マニエリスム」が生まれることになった。

略歴


幼少期(1475–1488)



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Michelangelo、2020年7月6日アクセス



【作品解説】ミケランジェロ「ダビデ像」

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ダビデ像 / David

盛期ルネサンス最高の彫像作品


ミケランジェロ《ダビデ》1501-1504
ミケランジェロ《ダビデ》1501-1504

概要


作者 ミケランジェロ
制作年 1501-1504 
メディウム 大理石
サイズ 517 cm × 199 cm
所蔵場所 アカデミア美術館(フィレンツェ)

《ダビデ》像は、イタリアの芸術家ミケランジェロが1501年から1504年の間に大理石で制作されたルネッサンス彫刻の傑作。

 

ダヴィデ像は5.17メートル(17.0フィート)の大理石像で、フィレンツェの芸術で好まれていたの主題のひとつである。

 

ダヴィデ像はもともと、フィレンツェ大聖堂の東端の屋根に沿って設置される一連の預言者像の一つとして制作依頼されていたが、最終的にはフィレンツェの市民政府の所在地であるヴェッキオ宮殿の外、シニョーリア広場の公共の広場に設置されることにななった。1504年9月8日に除幕された。

 

この像は1873年にフィレンツェのアカデミア美術館に移され、のちにレプリカ作品が元の場所に設置された。

 

像の性質上、この像はすぐにフィレンツェ共和国で具体化された市民的自由の擁護を象徴するようになった。当時、独立した都市国家であるローマは、より強力なライバル国家とメディチ家の覇権によって四方八方から脅かされていた。ダビデの目は、警告のようにローマに向けられていた。


■参考文献

https://medium.com/@kdalkin/mobile-lovers-by-banksy-523b85dc3973、2020年6月14日アクセス


【美術解説】ピーテル・ブリューゲル「オランダルネサンス絵画の代表的画家」

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ピーテル・ブリューゲル / Pieter Bruegel

オランダルネサンス絵画の代表的画家


ブリューゲル《雪中の狩人》,1565年
ブリューゲル《雪中の狩人》,1565年

概要


生年月日 1525~1530年頃
死没月日 1569年9月9日
国籍 イタリア、フィレンツェ
表現形式 絵画、版画
代表作

・雪中の狩人

・農民の結婚式の風景

・イカロスの墜落のある風景

ムーブメント

オランダ・フランドルルネサンス絵画

関連サイト

ブリューゲル作品一覧

ピーテル・ブリューゲル・エルダー、通称「ブリューゲル」「ブリューゲル(父)」(1525-1530〜1569年9月9日)は、オランダ・フラマン・ルネサンス絵画の最も重要な画家、版画家。

 

 

中世ヨーロッパの風景画や農民の情景(風俗画)を大規模なサイズの絵画で描いたことで知られる。ルネサンス期の版画や書籍の挿絵で展開された幻想的で無政府状態の世界も同じようなスケールで描いている。

 

また、景画と風俗画の両方のタイプを融合させたことでも評価されている。

 

ブリューゲルはそれまでの宗教的な主題が絵画の主題として当たり前でなくなった時代に最初に育った世代の一人として、また、革新的な主題の選択で注目を集め、オランダの黄金時代の絵画、そしてその後の美術全般に影響を与えた。

 

なお、彼はオランダ美術のもう一つの柱であった肖像画は描いていない。初期は修行し、イタリアへの旅の後、1555年にアントワープに戻り、当時の主要な版画出版社ヒエロニムス・クックのもとで、版画デザイナーとして多額の仕事をしていた。

 

キャリアの多くは版画で、《雪中の狩人》などの彼の有名な大絵画はすべて、彼が亡くなる10年ぐらい前、おそらく彼が40代前半のころの作品で、満身創痍の絶頂にあった時期に描かれたものである。

 

彼の作品は進歩的なものだけでなく、装飾写本の中の余白に描かれる小さなイメージ「ドロリー」など中世における中心的な主題の再興もしている。

 

風景を背景にした農作業の暦の場面を、以前よりもはるかに大きなスケールで高額な油絵という媒体を使って描いた。

 

彼は、息子のピーテル・ブリューゲル(1564-1638)をはじめとする後世の同名の画家と区別するために、「農民ブリューゲル」または「ブリューゲル(父)」と呼ばれることがある。ピーテル・ブリューゲル(子) はが5歳の時に父親が亡くなり、1578年には母親も亡くしている。

 

1559年以降、名前から「h」を削除し、自身の絵画に「Bruegel」とサインしている。彼と同じ名前の親戚は「Brueghel」または「Breughel」というサインを使い続けた。

重要ポイント

  • オランダ・ルネサンスの代表的な画家
  • 風景画と民俗画を融合させた
  • 今までにない巨大サイズでこれらの絵を描いた

略歴


幼少期


ブリューゲルの伝記は、ロドヴィコ・ギッチャルディーニの『低地記』(1567年)とカレル・ヴァン・マンデルの『1604年シルダー・ボック』が残っている。ギッチャルディーニはブリューゲルがブレダで生まれたと記録しているが、ファン・マンデルはブリューゲルがブレダ近郊の「ブリューゲル」と呼ばれる村(ドープ)で生まれたと書いている。

 

彼の家族の背景については全く知られていない。ファン・マンデルは、彼が農民出身であることを前提にしているが、多くの初期の美術史家や批評家がブリューゲルの農民風俗画を過度に強調していることと農民出身であることは一致しているといっていいだろう。

 

しかし、これらの研究とは対照的に、過去60年内の学者たちは、彼の作品の知的な内容を強調し、次のように結論づけている。

 

「実際、ピーテル・ブリューゲルは町人であり、高学歴であり、同時代の人文主義者と友好的な関係にあったと考えるに足るあらゆる理由がある」と結論づけており、ファン・マンデルのドープ出身論を無視して、幼少期をブレダで過ごしたと主張している。

 

ブレダはオレンジ・ナッソー家の拠点としてすでに重要な中心地となっており、人口は約8,000人であったが、1534年の火災で1300軒の家屋の90%が焼失した。

 

しかし、この逆転の発想は過剰ともいえる。ブリューゲルは高度な教育を受けたヒューマニストの世界にいたが、ラテン語をマスターしていなかったようで、彼のドローイングのいくつかにラテン語のキャプションは他の人に書かせている。

 

ブリューゲルは1551年にアントワープの画家組合に入ったことから、1525年から1530年の間に生まれたと推測されている。ファン・マンデルによると、彼の師匠はアントワープの画家、ピーテル・クック・ファン・アールストであり、彼の娘マリア・クック・ブリューゲルは1563年に結婚している。

 

1545年から1550年の間には、1550年12月6日に死去したピーター・クックの弟子として活動していた。しかしながら、それ以前にもブリューゲルはすでにメヘレンでも活動しており、1550年9月から1551年10月の間には、ピーテル・バルテンスの祭壇画(現在は失われている)の制作を手伝ったことが記録されている。

 

ブリューゲルは、おそらくこの作品の仕事を、ピーテル・クックの妻であるメイケン・ヴェルフルストを介して行ったのだろう。メイケンの父と8人の兄弟は、全員が芸術家であるか、芸術家と結婚しており、メヘレンに住んでいた。

旅行


1551年、ブリューゲルはアントワープの聖ルカ・ギルドのフリーマスターになった。彼は、おそらくフランスを経由して、すぐにイタリアに向かった。

 

ローマを訪問したあと、冒険的に1552年までに本土の南端にあるレッジョ・ディ・カラブリアに足を伸ばしている。そこで、トルコの襲撃後に後輩した都市をドローイングで記録している。

 

その後、彼はおそらくシチリア島へわたっているが、1553年までにローマに戻っている。そこで彼は細密画家ジュリオ・クロビオに出会った。1578年のクロビオの収蔵品目録にはブリューゲルの絵画が記載されている。

 

その中には共同制作の作品もあった。これらの作品は明らかに風景画であるが現存していない。しかし、クロヴィオの手稿に描かれているささいな細密画はブリューゲルが描いたものとみなされている。

 

1554年にはイタリアを離れ、1555年にはアントワープに到着し、北欧で最も重要な版画出版社であったヒエロニムス・クックから、『大風景画』というタイトルのブリューゲルがデザインした版画集が出版された。

 

ブリューゲルの帰路の詳細は不明だが、1980年代には、この旅で描かれたと思われる山の風景を描いた一連の有名な大作が、ブリューゲルによるものではないことが明らかになり、それをめぐる議論の多くは無関係のものとなった。

 

しかし、この旅で描かれた絵はすべて風景画であり、他の16世紀にローマを訪れた多くの芸術家とは異なり、ブリューゲルは古典的な遺跡と現代的な建築の両方はまったく関心がなかったようだ。

《大きな魚は小さな魚を食べる》版画のための習作,1556年
《大きな魚は小さな魚を食べる》版画のための習作,1556年
ブリューゲルによって設計され、ヒエロニムス・クックによって出版された版画『七つの大罪や七つの悪徳 - 怒り』,1558年
ブリューゲルによって設計され、ヒエロニムス・クックによって出版された版画『七つの大罪や七つの悪徳 - 怒り』,1558年

アントワープとブリュッセル


1555年から1563年まで、ブリューゲルは北欧の出版の中心地であったアントワープに住み、おもにクックの依頼で40点以上の版画のデザイナーとして働いてた。彼が本格的に絵画を描き出したのは1557年からである。

 

1つの例外を除いて、ブリューゲルは自ら版を制作したのではなく、クックの専門家が描いた図面をもとに制作していた。

 

ブリューゲルはこの街の活発なヒューマニストサークルの中で活動していたが、1559年に名前を変え(少なくとも綴りは)ラテン語化しようとしたように見える。同時期、彼は署名した文字をゴシック体のブラックレターの"brueghel"からローマ字の"BRVEGEL"に変更している。Hを落としたのは、人文学者の慣習に従いラテン語的な書き方を採用したものと考えられる。

 

1563年にブリュッセルでマリア・クックと結婚し、残りの短い生涯をブリュッセルで過ごした。アントワープはオランダの商業と美術品市場の中心地であったが、ブリュッセルは政府の中心地であった。ファン・マンデルによれば、彼の姑が、評判の高い召使の女主人から距離を置くために彼の引っ越しをすすめたともいう。

 

この頃には、彼は版画デザイナーから絵画をに軸を移しており、歴史的に最も有名な作品もこの時期に制作されたものである。彼の絵画は、フランドル地方の裕福なコレクターや、メヘレンを拠点にしていたハプスブルク家の重臣グランヴェッレ枢機卿などのパトロンにも愛されていた。

 

ブリューゲルは、1569年9月9日にブリュッセルで死去し、カペレケルクに埋葬された。

 

ファン・マンデルによれば、ブリューゲルは生前に妻に絵を燃やすように言ったという。おそらく、政治的にも宗教的にも挑発的な要素が作品に含まれていたためだという。「後悔の念からか、妻が迫害されたり何らかの形で責任を問われたりすることを恐れたためか」と記している。

 

ブリューゲルには二人の息子がいた。ピーター・ブリューゲルとヤン・ブリューゲルである。どちらもブリューゲルと名乗っていた。彼らの祖母であるマイケン・フェルフルストが、二人の息子たちを養育していたのは、二人とも幼い頃に父が亡くなったからである。

 

兄のピーター・ブルーゲルは、父の作風と構図を見事に模倣し、商業的にも大きな成功を収めた。そのため、ブリューゲル父とよく作品が間違われがちである。

 

弟のヤンはもっと独創的で、非常に多才だった。彼はフランドルのバロック絵画やオランダの黄金時代の絵画の多くのジャンルにおいて、バロック様式への移行における重要な人物だった。

 

ペーター・ポール・ルーベンスとの共同制作も多く、「視覚の寓意」をはじめとする多くの作品で、他の一流画家との共同制作を行った。

 

ほかにも、ピーテル・コーケ・ファン・アエルストとメイケン・フェルフルスト(ブリューゲルの義父・義母)、ヤン・ファン・ケッセル(ヤン・ブリューゲルの孫)などブリューゲル一族にはたくさんの著名画家がいる。

ブリューゲルの絵が描かれた歴史的背景


ブリューゲルは、西ヨーロッパの広範な変化の時期に生まれた。前世紀のヒューマニストの理想は、芸術家や学者に影響を与えた。

 

イタリアは、ミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家たちが名画を描いた芸術文化、盛期ルネサンスの終焉期にあった。

 

ブリューゲルが生まれる約8年前の1517年、マルティン・ルターが「九十五箇条の議題」を作成し、隣国ドイツでプロテスタントの宗教改革が始まった。宗教改革は偶像破壊思想ととともにネーデルラントを含む広範囲に及ぶ美術品の破壊を伴うことになった

 

カトリック教会は、プロテスタントとその偶像破壊を教会の脅威と見なしていた。その反動で1563年のトレント公会議では、宗教美術は宗教的な主題をより重視し、物質的なものや装飾的な質をより重視すべきであるとされるようになった。

 

この時点で、ネーデルラントは、スペインを基盤としたハプスブルク家の支配からの分離を望んでいたいくつかの17州に分割された。一方、宗教改革は、東はルター派のドイツ、西は聖公会派のイングランドの影響を受けて、17州に多くでプロテスタントの教派を生み出した。

 

こうした状況下、スペインのハプスブルク家の君主たちは、領内のカトリック教会のために厳格な宗教的統一政策を試み、異端審問でそれをカトリックを強制した。宗教的な対立や暴動、政治的な策略、処刑の増加は、最終的には八十年戦争の勃発につながった。

 

このような雰囲気の中で、ブリューゲルは画家としてのキャリアの頂点に達した。彼の死の2年前、スペインとの間で80年戦争が始まった。

 

ブリューゲルは実際にその状況を見るまで生きなかったが、7つの州が独立してオランダ共和国を形成し、他の10の州は終戦後もハプスブルク家の支配下にあった。

《カルバリーの行列》1564年
《カルバリーの行列》1564年

風俗画


農民画


ブリューゲルは、宗教的な作品も描いているが、農民の風俗画というジャンルを得意としており、多くの場合、風景画の要素も伴っている。農民の生活と風俗を作品の中心に据えたのはブリューゲルの時代の絵画では珍しく、風俗画の先駆者であった。

 

彼の農民画の多くは、大きさと構図の2つのグループに分類され、その両方が独創的で、後の絵画に影響を与えた。

 

彼の初期作品では、高い視点から見た数十人の小さな人物が、中央の絵画空間に均等に広がっている。

 

設定は代表的なのは建物に囲まれた都市空間であり、その中で人物は「基本的に切り離された描写方法」で描かれ、個人や小集団他のすべての人を無視して、それぞれが何らかの活動に従事している。

 

農業、狩猟、食事、祭り、踊り、ゲームなどの村の生活儀礼の風景を、地味で感傷的でありながらも生き生きと描いたブリューゲルの作品は、今日でもベルギーの生活や文化の特徴であるにもかかわらず、消えてしまった民俗文化のユニークな窓となっており、16世紀の生活の身体的、社会的側面に関するイメージ的な証拠を示す貴重な資料となっている。

 

例えば、彼の有名な絵画であるオランダのことわざ「The Blue Cloak」には、当時と現代の格言が数多く描かれているが、その多くは現在のフラマン語、フランス語、英語、オランダ語でも使用されている。

 

フランドル地方の環境では、ことわざがよく知られていて、それが認識されているだけでなく、楽しませてくれるものだったため、ことわざに満ちた絵を描くと多くの芸術的な観客を集めた。

《ネザーランドのことわざ》,1559年
《ネザーランドのことわざ》,1559年

《子供たちの遊び》では、若者たちが楽しんでいた娯楽の多様性が示されています。《雪の中の狩人》のような1565年の冬の風景画は、小氷期の冬の厳しさを証明するものとして捉えられている。

 

《子どもたちの遊び》1560年
《子どもたちの遊び》1560年

ブリューゲルは、《農民の結婚式》や《カーニバルと四旬節の間の戦い》のように、地域社会の出来事を描くことが多い。《農民の結婚式》のような絵画では、ブリューゲルは個人を特定できる人物を描いたが、《カーニバルと四旬節の間の戦い》の人物は、特定できないマフィンのような顔をした強欲や大食の寓意を描いている。

《農民の結婚式》15661-1569年
《農民の結婚式》15661-1569年

宗教画


ブリューゲルはまた、「パウロの改宗」や「洗礼者ヨハネの説教」のように、フランドル地方の広い風景の中で宗教的な場面を描いている

 

ブリューゲルの主題が型にはまらないものであったとしても、彼の絵画の原動力となった宗教的な理想や格言は、北方ルネッサンスの典型的なものだった。

 

聖書からの引用を描いた《盲人が盲人を導く》など、障害を持つ人々を正確に描いていた。"盲人が盲人を導くならば、両方とも溝に落ちる」(マタイによる福音書15章14節)という聖書の言葉を引用している。

 

聖書からこの絵を解釈すると、6人の盲人は、キリストの教えに焦点を当てるのではなく、地上の目標を追い求める人間の盲目さを象徴している。

《盲人が盲人を導く》,1568年
《盲人が盲人を導く》,1568年
《バベルの塔》1653年
《バベルの塔》1653年

社会風刺


ブリューゲルは、豊かな精神とコミカルな力を駆使して、美術史の中でも最も早い時期に、鋭い社会的抗議を含む風刺画も生み出している。

 

たとえば、『カーニバルと四旬節の間の戦い』はプロテスタント宗教改革の対立を風刺している。ほかに『学校の中のお尻』や『ブタ箱と闘うストロングボックス』のような版画も風刺画である。

 

1560年代になると、ブリューゲルは、遠景のない風景を背景に、数人の大きな人物だけを描くスタイルに移行していく。これまで風景画を中心としたブリューゲルの絵画は、人物の数と大きさの両面で人物画と風景画の中道の道を歩みはじめた。

《カーニバルと四旬節の間の戦い》
《カーニバルと四旬節の間の戦い》
《5人の不具者と1人の乞食女》,1568年
《5人の不具者と1人の乞食女》,1568年

風景画


大風景画


ブリューゲルは、山や低地、水、建物などを含む高台の視点から見た架空のパノラマ風景の中に小さな人々を描いた。

 

イタリアからアントワープに戻ったあと、1550年代に出版社ヒエロニムス・クックの依頼を受け、風景画の需要が高まっていたため、『大風景画』と呼ばれる版画作品を制作した。

 

《エジプトへの飛行中の風景》などの彼の初期の作品の中には、完全にヨアヒム・パティニールの伝統的な型のうちおさまるが、1560年代に描かかれた《イカロスの墜落のある風景》は、パティニール風の風景画の中に大きな人物像が物語の主題をサポートするための傍観者として描かれた。

 

遠景の小さな人物によって主題を表現するという世界風景画は、ヨアヒム・パティニールを嚆矢とする初期フランドル派で既に確立された手法ではあったが、関係のない風俗画的な人物を、前景に大きく描くというのは、ブリューゲルの独創的なものであった。

 

 

1560年代の初期では、農民の風俗的な人物や宗教的な物語の中の人物などは、非常に小さな人物として描かれてきたが、それが少数の大きな人物へと変化していった。

《イカロスの墜落のある風景》,1560年頃
《イカロスの墜落のある風景》,1560年頃

連作月暦画


四季折々の風物詩を描いた有名な風景画の連作月暦画は、彼の風景画の集大成ともいえるものである。彼の代表作としてよく紹介される《雪中の狩人》は連作月暦画の中の1枚である。

 

現存する「暗い日」(早春)、「干し草の収穫」(夏)、「穀物の収穫」(秋)、「牛群の帰り」(晩秋)、「雪中の狩人」(冬)の5点の作品は、世界の風景の基本的な要素を用いながら(1点だけが岩山を欠いている)、それを独自のスタイルに変えたものである。春を描いたと思われる6枚目は失われている。

 

前景に数人の人物を配置した風俗画と木々なの風景が見られる全景の作品はこれまでの作品よりも巨大なものとなっている。ブリューゲルは版画を通してドナウ派の風景画のスタイルも意識していたという。

 

連作月暦画は1565年、アントワープの裕福なパトロンであったニクラエス・ジョンヘリンクが、ブリューゲルに一年の各月の絵を描くように依頼したものである。

 

美術史家の間では、このシリーズにはもともと6つの作品が含まれていたのか12の作品が含まれていたのかについては意見が分かれている。 現在では、これらの絵画のうち5つだけが残っており、複数の月がペアになって一般的な季節を形成している。

 

伝統的なフランドル地方における豪華な時祷書には、その月の農作業や天候、その月の典型的な社会生活の風景が描かれた「月の労働」がカレンダーのページに掲載されていた。

 

ブリューゲルの絵画は、典型的な時祷書のページのイラストレーションよりもはるかに大きなスケールで、5フィートでそれぞれ約3フィートもあった。ブリューゲルにとって、これは大きな依頼(依頼の大きさは絵の大きさに基づく)であり、重要なものであった。

 

1565年にはカルヴァン派の暴動が起こり、八十年戦争が勃発するのはわずか2年後のことだった。ブリューゲルは、カルヴァン派やカトリック派を怒らせないために、風景画のような世俗的な主題を描く方が安全だと感じていたのかもしれない。

 

このシリーズの中で最も有名な絵画は、《雪の中の狩人》(12月~1月)や《ハーヴェスター》(8月)である。

ブリューゲル《雪中の狩人》,1565年
ブリューゲル《雪中の狩人》,1565年
《ハーベスター》(1565年)
《ハーベスター》(1565年)

ブリューゲルの版画作品


イタリアからアントワープに戻ったブリューゲルは、この町、そして北欧を代表する版画出版社ヒエロニムス・コックので、版画を制作して生計を立てていた。

 

彼の『四つの風の家』では、コックは最高の芸術的成果よりも販売を重視して、様々な種類の版画を効率的に生産・流通させていた。

 

ブリューゲルの版画のほとんどはコックと仕事をしていた時期のものでだが、彼は生涯の最後まで版画のためのドローイングも描き続け、「四季」シリーズのでは完成したのは2点だけだた。

 

この版画は人気があり、出版されたものはすべて残っている。多くの場合、我々もまた、ブリューゲルの版画を所有している。

《冬》
《冬》

ブリューゲルが美術的成功した理由の1つに、友人だったヒエロニムス・ボスの非常に個性的な表現を多く採用したいくつかのデザインの中に、ボスの『七つの大罪と最後の四つ』シリーズを由来するものがあった。

 

罪人はグロテスクで正体不明なのに対し、美徳のイメージは変なかぶり物をしていることが多い。

 

ブリューゲルが制作したボスの模倣作品の成功は『大きな魚が小さな魚を食べる』を見れば明らかである。ブリューゲルのサインが入っているが、出版社のコックは印刷版ではあつかましくボス作としていた。

《大きな魚は小さな魚を食う》原画
《大きな魚は小さな魚を食う》原画
《邪淫》
《邪淫》

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Pieter_Bruegel_the_Elder、2020年7月6日アクセス


【美術解説】ラファエロ「新プラトン主義の世界を表現したルネサンスの巨匠」

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ラファエロ / Raphael

新プラトン主義の世界を表現したルネサンスの巨匠


哲学的な理性によって真実を探ることが主題の『アテナイの学堂』
哲学的な理性によって真実を探ることが主題の『アテナイの学堂』

概要


生年月日 1483年4月6日
死没月日 1520年4月6日 
表現媒体 絵画、建築
代表作

・『アテナイの学堂』

・『システィーナの聖母』

ムーブメント 盛期ルネサンス
関連人物 レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロ

ラファエロ・サンツィオ・ダ・ウルビーノ(1483年4月6日-1520年4月6日)は、イタリアの画家、建築家。美術史においてラファエロは、ミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチと並んで盛期ルネサンスの三大巨匠の1人とみなされている。

 

また、ラファエロの作品は、その明確な形態、構成のシンプルさ、そして人間の壮大さという新プラトン主義の世界を正確に視覚化させたことで評価された。

 

ラファエロは37歳という若さで亡くなったが、非常に多作で、また異常に巨大な工房を経営し、大規模な傑作を多数残した。彼の最もよく知られている作品は、バチカン宮殿にある『ラファエロの間』にある『アテナイの学堂』である。

 

ローマでの初期時代を経た後の彼の作品の多くは、工房が制作したものが多いため、作品の質にばらつきがあるが、基本的には彼が描いた下絵、ドローイングをもとに制作されている。

 

ラファエロは生前、ローマでは非常に大きな影響力を持っていたが、ローマ以外の国では、彼の作品の多くは共同版画の画家として知られていた。

 

ラファエロの死後、偉大なライバルであるミケランジェロの影響力が、18世紀から19世紀にかけてより高まっていくにつれて、ラファエロのより穏やかで調和のとれた質もまた、最高のモデルと再評価されるようになった。

 

ラファエロのキャリアは、一般的にジョルジオ・ヴァザーリによる最初の批評である「3つの段階と3つのスタイル」で説明される。ウンブリアでの初期の年を過ごした後、約4年間(1504-1508年)フィレンツェの芸術的伝統を学び、ローマでの最後の12年間は、二人の教皇とその側近のもとで働き、多忙で勝利に満ちた12年間を過ごした。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Raphael、2020年7月12日アクセス


【作品解説】ミケランジェロ「ピエタ」像

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ピエタ像 / Pietà

ミケランジェロを有名にした出世作


ミケランジェロ《ダビデ》1501-1504
ミケランジェロ《ダビデ》1501-1504

概要


作者 ミケランジェロ
制作年 1498-1499 
メディウム 大理石
サイズ 174 cm × 195 cm
所蔵場所 サン・ピエトロ大聖堂(ヴァチカン)

『ピエタ』像は、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に収蔵されているミケランジェロによる彫刻作品。ミケランジェロの署名入りの唯一の作品である。

 

この作品は、複数あるミケランジェロによる同主題「ピエタ」シリーズの最初の作品で、磔刑の後、母マリアの膝の上で抱かれたイエスの遺体を描いた有名な作品である。

 

『ピエタ』はローマに駐在していたフランスの枢機卿ジャン・デ・ビルヘールからの依頼で制作された。

 

カッラーラ産の大理石で作られたこの彫刻は、枢機卿の葬儀の記念碑のために作られたが、18世紀に現在の場所、バジリカの入り口北側の第一礼拝堂に移された。

 

ミケランジェロによるピエタ像の作風は、これまでのイタリアの彫刻でにはないもので、ルネサンスの理想とする古典美と自然主義のバランスをとった重要な作品として美術史として評価されている。

 

2019年には、最終的な彫刻モデルとされるテラコッタの小さな像がパリで展示された。

 

解釈


構図はピラミッド型になっている。頂点はマリアの頭で、下方向のマリアのドレス布に徐々に広がり、基部であるゴルゴタの岩にまで到達する。

 

身体の大きな成人男性が女性の膝の上で抱かれている姿を描くのは困難なため、本来はかなりの不自然になるが、マリアの身体の大部分を巨大なドレスで隠すことによって、不自然さがあらわれないようになっている。

 

ミケランジェロのピエタは、50歳前後の年老いた母マリアではなく、若くて美しいマリアを彫ったという点でもこれまでの他の芸術家の作品とは大きく異なっている。

 

磔刑の痕は、非常に小さな爪痕とイエスの脇腹の傷に限られている。

 

キリストの顔には受難を受けた表情が見られない。ミケランジェロは「ピエタ」を死を表すものにしたかったのではなく、むしろ「宗教的な放棄のビジョンとイエスの穏やかな顔」を表現したかったという。つまり、キリストを通じた聖化により、人と神との交わりが表現している。

 

ミケランジェロがピエタの制作に着手したとき、彼は「心のイメージ」を表現した作品を作りたいと考えていた。

若いマリア像


マリアは約33歳の息子の母親にしては非常に若く彫られている。このことについては、さまざまな説明が提案されている。

 

一つは、彼女の若さは彼女の不滅の純潔を象徴しており、伝記作家であり彫刻家仲間でもあるアスカニオ・コンディヴィは次のように語っている。

 

「あなたは、貞淑な女性は、貞淑でない女性よりもずっと若いことを知らないのか?彼女の体を変えてしまうような淫らな欲望を一度も経験したことのない聖母の場合はなおさらである」

 

ほかの説として、ミケランジェロはダンテの『神曲』に大変な影響受けていたため、永遠の淑女「ベアトリーチェ」を一部モチーフにしている可能性もある。

 

また、『天獄篇』(詩編第33番カンティカ)で、聖ベルナールは聖母マリアへの祈りの中で、「Vergine madre, figlia del tuo figlio」(聖母、あなたの息子の娘)と述べている。これは、キリストが三位一体の人物の一人で、マリアはキリストの娘であり、キリストを産んだ処女母でもあるという意味である。言い換えれば、キリストはマリアの子どもであり、マリアの父でもあるということだ。そうした点でマリアが若く表現されている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Piet%C3%A0_(Michelangelo)、2020年7月8日アクセス


【美術解説】ルネサンス「ローマ時代・古代ギリシア哲学の再発見」

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ルネサンス / Renaissance

ローマ時代・古代ギリシア哲学の再発見


ラファエロ《アテナイの学堂》,1509-1511
ラファエロ《アテナイの学堂》,1509-1511

概要


ルネサンスは、日本の教科書や一般的なメディアでは簡単に「古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動」と説明されている。

 

しかし、本来ルネサンスという言葉はもっと複雑であり、いまだ専門家たちでもさまざまな意見・解釈がなされている。文化運動を指す場合と時代区分を指す場合でしばしば混乱が生じる。

 

最も共通的に受け入れられている見解としては、ルネサンスとは中世から近代への移行の印」であり、「15世紀と16世紀を覆うヨーロッパの歴史的期間」といえる。ルネサンスは中世後期のヨーロッパ世界の危機の後に発生した根本的な社会変化と関連した歴史的遷移期間といえる。

 

なお、標準的に時代区分(15世紀と16世紀)に加え、長期ルネサンス支持者の間には、その始まりを14世紀、終わりを17世紀と主張するものもいる。ルネサンスが近代の始まりなのか、それとも中世の範囲になるのか、という点についても論議が続いている。

 

伝統的な見解ではルネサンスの近代的な側面に焦点を当て、ルネサンスは過去からの脱却であると主張するが、今日では多くの歴史化たちがルネサンスの中世的な側面に焦点を当て、ルネサンスは中世の延長線上にあったと主張している。

 

また、ルネサンスの知的基盤となったのは、ローマ時代の人間性(ヒューマニタス)の概念や、「人間は万物の尺度である」というプロタゴラスの言葉に代表される古典ギリシア哲学の再発見を由来とする「ヒューマニズム」版であることも重要な要素である。

 

この新しい考え方は、芸術、建築、政治、科学、文学などあらゆる分野で見られるようになった。ルネサンス初期の例としては、油絵における遠近法の発明やコンクリートの精製方法の再発見だった。活版印刷の発明は15世紀後半からの思想の普及に拍車をかけたが、ルネサンスの変化はヨーロッパ全土で一様とはいえなかった。

 

ルネサンスの最初の痕跡は13世紀後半にイタリアに現れ、14世紀にイタリアのフィレンツェで始まった。その起源や特徴を説明するために、当時のフィレンツェの社会的・市民的特殊性など様々な要因に焦点を当てて複合的に考える必要がある。

 

ダンテの著作やジョットの絵画に文化運動としてルネサンスが兆候が見られる。古典的な情報源に基づく学習の復活が14世紀頃からペトラルカと同時代に名高い芸術家たちとともに始まり、ラテン語と土着文学の革新的な開花をもたらした

 

ルネサンスは、多くの知的活動や社会的・政治的な激動の中で革命を起こしたが、なかでも芸術的発展に特に貢献し、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロのような多方面で活躍した人物もあらわれ、そのような人物に対しては「ルネサンス・マン」という言葉が与えられた。

 

他方、ルネサンスは、政治においては外交の習慣や慣習の発展をもたらし、科学においては観察と帰納的推論の発展に貢献した。

 

 

ルネサンスの中心地はフィレンツェだった。その政治構造、支配的な一族であるメディチ家の後援コンスタンティノープル陥落後のイタリアへのギリシア人学者や知識の移転など、当時のフィレンツェの社会的・市民的な特殊性を説明するために、これまで様々な説が提唱されてきた。

 

ほかの主要な中心地は、ヴェネツィア、ジェノバ、ミラノ、ボローニャ、そしてルネサンス期の世俗主義的なローマ教皇時代の統治下にあったローマのような北イタリアの都市国家であった。

 

リナシータ(再生)という言葉は、ジョルジョ・ヴァザーリの『芸術家たちの生活』(1550年頃)で初めて登場し、1830年代には「ルネサンス」と呼ばれるようになった。この言葉は他の歴史的・文化的運動、例えば、カロリング朝ルネサンス(8世紀と9世紀)、オットー朝ルネサンス(10世紀と11世紀)、12世紀のルネサンスなどにも使われている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Renaissance、2020年7月17日アクセス


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