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【美術解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「美術史において最も偉大なルネサンス芸術家」

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レオナルド・ダ・ヴィンチ / Leonardo da Vinci

美術史において最も偉大なルネサンス芸術家


《モナリザ》1503–05/07
《モナリザ》1503–05/07

概要


 

生年月日 1452年4月15日
死没月日 1519年5月2日
国籍 イタリア
表現形式 芸術、科学
ムーブメント ルネサンス、盛期ルネサンス
代表作

《モナリザ》

《最後の晩餐》

《サルバトール・ムンディ》

その他作品一覧はこちら

フランチェスコ・メルツィによる晩年の肖像画。
フランチェスコ・メルツィによる晩年の肖像画。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年4月15日-1519年5月2日)は、盛期ルネサンス期イタリアの博学者。

 

彼が関心を持っていた分野は発明、絵画、彫刻、建築、科学、音楽、数学、工学、文学、解剖学、地質学、天文学、植物学、筆記学、歴史学、地図学など。

 

古生物学、痕跡化石、建築学などさまざまな学問のジャンルで創始者であり、美術史において最も偉大なルネサンスの芸術家の1人とみなされている。パラシュート、ヘリコプター、戦車を発明において功績があると言われることもある。

 

彼自身が、ルネサンス・ヒューマニズムの理想を具現化した存在である。

 

多くの歴史家や学者はレオナルドに対して、"万能の天才"または"ルネサンス・マン"の模範的な人物であり、人類史において最もさまざまな分野の才能を発揮した個人と見なしている。歴史家のヘレン・ガードナーによれば、彼の興味範囲とその興味対象への深い知識という点で、人類史上先例がなく、「彼の精神や性格は人間離れしており、また同時に神秘的で遠い世界の人に思える」と評している。

 

マルコ・ロシィは、彼の生涯や性格においては多くの憶測がなされているが、彼の世界観は神秘的や宗教的なものではなく、論理的なものであり、彼が採用したさまざまな実証的方法は、当時は異端視されていたものだった。

 

自然界の観察を研究し、綿密に記録し続けた生涯の中で、レオナルドは初期ルネサンスの芸術家たちを夢中にさせていた絵画芸術の側面(照明、空気遠近、解剖学、短縮遠近法、心理描写)をさらに完成させることだった。

 

また、主要なメディウムとしてこれまでのフレスコ画だけでなく油絵の具を採用したことは、《モナ・リザ》に代表されるように、光とその風景や物体への影響を、これまでにないほど自然にそしてより劇的な効果をもって描くことができることを示した。

 

レオナルドの死体の解剖研究は、未完成作品の《荒野の聖ジェローム》に見られるように、人間の骨格と筋肉の解剖学の知識を進歩させた。1495年から1498年にかけて完成した《最後の晩餐》に描かれた人間の心理描写は、宗教画の基準となった。

 

2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで、彼の作品《サルバトール・ムンディ》が競売にかけられ、一般市場で流通している作品において史上最高額となる4億5000万ドルで落札され、話題となった。

 

レオナルドはフィレンツェ地方のヴィンチに住む公証人の父ピエロ・ダ・ヴィンチと農民の母カテリーナのあいだに生まれた。幼少期はフィレンツェに住んでいたアンドレア・デル・ヴェロッキオのアトリエで絵を学んだ。

 

ダ・ヴィンチの初期作品の多くはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァがパトロンとなり、彼の依頼で制作されたものである。のちに、ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアへ移って制作を行い、フランシス1世から贈られた住居で晩年を過ごした。

重要ポイント


  • あらゆる学問の分野で才能を発揮した
  • ルネサンスで発明された絵画技術(照明、遠近法、心理描写、解剖学)を完成させた
  • ルネサンス・ヒューマニズム(人文主義)の理想を具現化させた

作品解説


現存している作品では約20枚の作品が、全体または大部分がレオナルド自身の手による真作として認知されている。しかし、実際にはもっと多くの作品を制作していると考えられているが、消失したり、保存先が不明の状態になっている。レオナルドの作品にはサインはない。

現存しているレオナルドによる有名作品

※クリックして作品解説を読む

《受胎告知》
《受胎告知》
《キリストの洗礼》
《キリストの洗礼》
《カーネーションを持つ聖母》
《カーネーションを持つ聖母》
《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》
《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》

《サルバトール・ムンディ》
《サルバトール・ムンディ》
《ブノアの聖母》
《ブノアの聖母》
《東方三博士の礼拝》
《東方三博士の礼拝》
《荒野の聖ヒエロニムス》
《荒野の聖ヒエロニムス》

《リッタの聖母》
《リッタの聖母》
《岩窟の聖母》ルーブル版
《岩窟の聖母》ルーブル版
《音楽家の肖像》
《音楽家の肖像》
《白貂を抱く貴婦人》
《白貂を抱く貴婦人》

《岩窟の聖母》ロンドン版
《岩窟の聖母》ロンドン版
《最後の晩餐》
《最後の晩餐》
《ミラノの貴婦人の肖像》
《ミラノの貴婦人の肖像》
《Sala delle Asse》
《Sala delle Asse》

《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》
《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》
《イザベラ・デステの肖像》
《イザベラ・デステの肖像》
《糸車の聖母(バクルーの聖母)》
《糸車の聖母(バクルーの聖母)》
《糸車の聖母(ランズタウンの聖母)》
《糸車の聖母(ランズタウンの聖母)》

《モナ・リザ》
《モナ・リザ》
《女性の頭部》
《女性の頭部》
《洗礼者ヨハネ》
《洗礼者ヨハネ》

略歴


幼少期


レオナルドは、1452年4月14日から15日にかけて、メディチ家統治下にあるフィレンツェ共和国の領地内にあるアルノ川下流の渓谷、トスカーナの丘の町ヴィンチで生まれた。より正確にいうと、土曜日の夜の第三時(現在の午後10時から11時の間)である。ここまで詳しくわかっているのは、一家に代々受け継がれた帳簿に祖父が綴った記録が残っているからである。

 

レオナルドは裕福で社会的地位が高いフィレンツェの法定公証人の父セル・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチと農民の娘だった母カテリーナ・ブチ・デル・ベッカとの子どもである。

 

婚姻状態でできた子どもだと見なされいるが、最近の研究では歴史家のマーティン・ケンプによれば婚外子だという。母親はもともと外国出身の奴隷か、そうでなければ貧しい環境で育った地元の若い女性などさまざまな推測がされている。レオナルドが生まれたあともカテリーナは結婚しておらず、持参金をもたしてほかの男に嫁がされている。

 

レオナルドには現代のような姓はなかった。ヴィンチという土地で生まれたため、単純にレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれている。そのため日本ではよく「ダ・ヴィンチ」と下の名前で呼ばれるが、海外では「レオナルド」と示すのが一般的である。

 

なお、フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチであり、ヴィンチ出身のセル・ピエロの息子レオナルドを意味する。

 

レオナルドの幼少期についてはほとんどわからない。生まれてから5年間を母親の実家とされるアンキアノの集落で過ごしたあと、1457年からヴィンチの小さな町に住んでいた父方の祖父オボや叔父と継母のもとで暮らしていた。

 

父親はアルビエーラ・ディ・ジョヴァニ・アマドーリという16歳の娘と結婚しており、彼女はレオナルドをかわいがってくれたが、父親との間には子どもはなく1465年に若くして亡くなっている。

 

1468年、レオナルドが16歳のとき父親は20歳のフランチェスカ・ランフレディーにと結婚したが、またも夫婦の間には子どもなく亡くなった。

 

ピエロの正式な相続人となる子どもたちは、3番目の妻マルゲリータ・ディ・グリエルモとの間に生まれた6人の子ども(アントニオ、ジュリアン、マッダレーナ、ロレンツォ、ヴィオランテ、ドメニコ)と、4番目の最後の妻となるルクレツィア・コルジアーニとの間に生まれた6人子ども(マルゲリータ、ベネデット、パンドルフ、グリエルモ、バルトロメオ、ジョヴァンニ)である。

 

レオナルドには腹違いの12人の兄弟がおり、レオナルドは長男だった。兄弟たちはレオナルドよりもずっと若く(末の子とレオナルドには40歳の差がある)、また、レオナルドは婚外子のため遺産を相続する権利がなかったが、父の死後、兄弟たちは相続争いを起こしている。

 

レオナルドは非公式でラテン語、幾何学、数学の教育を受けた。その後の人生でレオナルドは2つだけの幼年期の事件を記録している。1つはトビに関することで、これは後年彼のおもな研究主題の1つとなった。

 

もう1つは山の探検に関することだった。レオナルドは洞窟を発見し、何か偉大な怪物がそこに潜んでいるのではないかと恐怖を感じると同時に、中にあるものを見る好奇心にかりたてられたという。

 

レオナルドの初期人生は歴史的推測がおもな主題だった。16世紀の画家で芸術家の評伝を書く伝記作家だったジョルジョ・ヴァザーリは若齢期のレオナルドの物語を書いている。

 

地元の農民が自身で丸い盾を作り、セル・ピエロに盾に絵を描いてもらうよう頼んだことがあった。セル・ピエロの要請にこたえてレオナルドは火を吐くモンスターの絵を描いたが、非常におそろしいものだったので、セル・ピエロはフィレンツェの画商に売り、画商はミラノ公爵に売り払ったという。

 

売り払って得たお金でセル・ピエロは心臓に矢が突き刺さった絵で装飾された盾を購入し、その盾を農民にゆずったという。

アンキアノにある幼少期のレオナルドが過ごした家。
アンキアノにある幼少期のレオナルドが過ごした家。

ヴェロッキオの工房


1460年代なかば、レオナルドの家族はフィレンツェへ移った。当時レオナルドは14歳くらいで、当時のフィレンツェの人気画家で彫刻家のヴェロッキオの工房に見習いとして通っていた。

 

1464年に父のセル・ピエロの妻(レオナルドの継母)が無くなり、やがて彼は再婚する。相手に選んだのがフィレンツェの公証人の娘だったため、家族はフィレンツェに移り住むことになったという。

 

レオナルドは17歳までに見習いで7年間訓練を積んだ。工房に見習いとして参加、また関与していたほかの有名な画家にドメニコ・ギルランダイオ、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ロレンツォ・ディ・クレディがいた。

 

レオナルドは理論訓練と技術能力の両方の領域において幅広い関心を持った。 絵画、彫刻、モデリングなどの古典的美術的能力と同様に製図、化学、冶金、金属加工、石膏、皮革加工、機械工、木工などの幅広い技術能力を習得した。

 

また、ヴェロッキオは人間の身体を絵にしたり像にする際には内側から構築せよと、指導した。後にレオナルドは解剖学に没頭することになるが、非常に適切な師匠に巡り合ったといえるだろう。

 

ヴェロッキオの工房における絵画の多くは弟子たちによって制作された。伝記作家のヴァザーリによれば、レオナルドはヴェロッキオと《キリストの洗礼》をほぼ2人で制作したという。これは作り話だろうがレオナルドは師匠であるヴェロッキオよりもはるかに優れた技術で左のキリストのローブを手に持つ天使を描いてあので、師であるヴェロッキオは筆を折り、その後2度と絵を描くことはなかったという。

《キリストの洗礼》レオナルドとヴェロッキオの協働作品。
《キリストの洗礼》レオナルドとヴェロッキオの協働作品。

ソロ・デビュー作《受胎告知》


《受胎告知》
《受胎告知》

また、レオナルドはヴェロッキオの美術作品2点のモデルになったとも言われている。フィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵するブロンズ彫刻《ダヴィデ》と、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する《トビアスと天使》に描かれている大天使ラファエルはレオナルドがモデルであるとされている。

 

1472年までに、20歳のとき、レオナルドは芸術家と医者の組合として知られる「聖ルカ組合」で親方の資格を得た。しかし、レオナルドの父親がレオナルドのために工房を設立したあとでさえも、レオナルドはヴェロッキオへ愛着を持ち続け、彼とともに生活や協働制作を続けた。

 

レオナルドが《受胎告知》を描いたのは1472年頃。1472年はレオナルドがサン・ルカ画家組合に加入した年でもある。すなわち、この《受胎告知》で事実上のデビューを果たしたともいえる。そして、デビュー作と同時にレオナルドが残した数少ない油彩画のうち、最大の大きさを誇る絵画でもある。

 

1476年頃から、レオナルドにもちらほら単独の注文が増え始める。それはもっぱら個人から受注で、そのほとんどが聖母子像だ。現在する油彩画の聖母子像には次のものなどがある。《ブノワの聖母》《カーネーションの聖母》《糸巻きの聖母》《リッタの聖母》《聖アンナと聖母子》《岩窟の聖母》である。

 

ほかに、レオナルドの初期の有名作品は、1473年のペンとインクのドローイングによるアルノ渓谷の風景画の習作である。この作品は西洋における最初の"純粋な”風景画として紹介されることがある。

 

ヴァザーリによれば、青年期のレオナルドはアルノ川をフィレンツェとピサ間の航行を可能な水路に改造させることを最初に提案した人物だったという。

プロフェッショナルとして活動開始


レオナルドは1478年にヴェロッキオの工房を出る。ある美術研究家は、その後レオナルドは1480年にメディチ家のもとへ行き、フィレンツェのサンマルコ広場にあるメディチ家が設立した詩人や哲学家、芸術家たちのアカデミー「ネオ・プラトン」で働いていたと主張している。

 

1478年1月、レオナルドはヴェッキオ宮殿で聖バーナード礼拝堂に飾る祭壇画の制作依頼を受けた。また、1481年3月にはサン・ドナート・ア・スコペト修道士のための絵画《東方三博士の礼拝》の制作依頼を受けている。しかし、どちらの仕事も未完成で、後者はレオナルドがミラノへ行ったときに中断された。

《東方三博士の礼拝》未完成。1481年
《東方三博士の礼拝》未完成。1481年

ミラノへ


1482年、30歳にしてレオナルドはミラノへ旅立つ。フィレンツェのロレンツォ・デ・メディチはミラノ公爵ルドヴィコ・スフォルツァと平和友好を築くため、レオナルドに贈り物として竪琴を持たせたミラノへ派遣したという。

 

ヴァサリによればレオナルドは音楽家としても才能を発揮していたころで、馬の頭蓋骨とラムホーンから銀製の竪琴を制作していたという、画家ではなく音楽家としてミラノへ派遣されている。

 

ミラノに着くとレオナルドは、ルドヴィコ公爵に工学や武器のデザインで成し遂げた素晴らしいさまざまな事を説明し、また自身がそれらを描くことができるとも述べた手紙を書いてイル・モーロに送っていた。

 

この手紙は現在でもよく紹介されるレオナルド文章であるが、何を意味していた手紙かというと、職探しのための自己推薦状のようなものである。以下のサイトでレオナルドがルドヴィコに送った手紙が公開されている。

http://www.lettersofnote.com/2012/03/skills-of-da-vinci.html

 

自薦状の内容ではまず、自身の土木・軍事技術の知識について列挙している。頑丈で携帯可能な橋、堅牢で敵に攻撃されにくく、あげおろしが容易な橋、上陸用の船、大砲や散弾による攻撃や防御、壕や川の下のトンネル、攻撃不可能な戦車、従来のものとは違う大砲や火器、投石機などをつくることができると書いていた。

 

レオナルドは1482年から1499年までミラノで働いた。そこではアンブロージョ、エヴァンジェリスタのデ・プレディス兄弟による工房と協働体制をとる。彼は処女懐胎組合の依頼で《岩窟の聖母》の制作依頼を受ける。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の男子修道院の依頼で《最後の晩餐》の作品の制作をしていた。

 

1485年の春、レオナルドはルドヴィコの代理としてハンガリーへ旅行し、マーチャーシュ1世と面会し、《聖母子像》画の制作依頼を受ける。1493年から1495年の間、レオナルドは課税書類で彼の扶養家族としてカテリーナと呼ばれる女性の名前を記載している。彼女が1495年に亡くなったとき、葬儀費支出帳で彼女がレオナルドの母親であったことが示されていたという。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》1490s
レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》1490s

ペストから生まれた公衆衛生都市デザイン


レオナルドは建築にも大きな関心を示していたが、単体の建築だけでなく都市計画にも興味深い提案をしている

 

レオナルドが都市計画について考えるようになったのはミラノ時代のこと。中世ヨーロッパでは疫病の流行が大きな惨禍を巻き起こし、ミラノでも1484年のペスト流行によって人口の三分の一を失っている。この当時ペストの原因はまだ解明されていなかったが、レオナルドは風と水の流れが蔓延のきっかけになっていることに気づき、清潔な街を造ることが第一と考え、三層になった都市デザインを考えた

 

スラムをなくし、運河と下水路を整備することや、都市を地上と地下に分ける多層化を提案した。一番下に貨物船なども通れる運河を造る。その上に馬車などが通る幅の広い道路を載せる。さらにその上に貴人のための歩道を造る。生活排水や道路を洗った水は運河から流れていく。住居と思われる最上階にはたくさんの窓が開けられていて、通風・採光にも配慮されている。

 

「この街は海とかそのほか大河の付近に建設すべきである、都市の汚物が水によって運び去られるように」とレオナルドは書いている。

 

ほかにも、レオナルドは特別な日に使用する山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂のドームのデザイン、ルドヴィコの前身であるフランチェスコ・スフォルツァの巨大な馬術碑のモデルなど、ルドヴィコのさまざまなプロジェクトに携わった。

 

《運河計画》『パリ手稿B』より 1485-88年。
《運河計画》『パリ手稿B』より 1485-88年。

軍事技師として活躍


1494年からミラノに侵攻したフランス軍は99年、第二次イタリア戦争を始める。攻め込んでくるフランス軍は『レオナルドの馬』の等身大の粘土モデルを標的演習として使用した。

 

ルドヴィーコ・スフォルツァがとらわれ、パトロンを失ったレオナルドと弟子のサライや友人で数学者のルカ・パチョーリらは、ミラノを脱出しヴェネツィアへ逃亡した。ミラノからの旅立ちは、晩年まで続いた放浪暮らしの始まりでもあった。2月にマントヴァ、3月にヴェネツィアに滞在し、4月になるとヴェネツィアに戻った。

 

マンドヴァでレオナルドをもてなしたのが、マントヴァ候フランチェスコ二世・ゴンザーガ夫人であるイザベラ・デステだ。彼女はマントヴァをルネサンスの一大拠点に成長させた立役者でもあり、芸術家の保護者だった。レオナルドがこの地に立ち寄ったとしって彼女が放っておくはずがなく、積極的にアプローチしてみずからの肖像の依頼をした。それは《イザベラ・デステの肖像》である。

 

《イザベラ・デステの肖像》1500年
《イザベラ・デステの肖像》1500年

ヴェネツィアでレオナルドは軍隊から建築家やエンジニアとして雇われることになり、海上攻撃から街を守るための方法を考案する仕事を任されることになった。

 

1500年にフィレンツェに戻ると、レオナルドと家族はサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の修道院に客として迎えられ、また工房を貸し出され、ヴァザーリによればそこで《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》を制作したという。

 

1502年チェゼーナでレオナルドは教皇アレクサンドル6世の息子であるチェーザレ・ボルジアのもとに仕え、軍の建築家およびエンジニアとして活動したり、パトロンたちとイタリア中を旅をしていた。

 

レオナルドは生活支援を受けるためチェザーレ・ボルジアのために、イモラの町を要塞化するための地図を製作した。

 

当時、地図は非常に稀なものであり、新しい概念のように思えたのだろう、チェザーレはレオナルドが製作した地図を見て感嘆し、軍のエンジニアと建築家のチーフとしてレオナルドを雇用することにした。その年の後半、レオナルドは戦略的地位が優位になるためのトスカナのキアナ渓谷の一部の地形を緻密に描いた地図を製作し、パトロンに提供した。

チェザーレ・ボルジアのために製作したイモラ要塞化計画地図。
チェザーレ・ボルジアのために製作したイモラ要塞化計画地図。

フィレンツェとミラノの往復


レオナルドはフィレンツェに戻り、1503年10月18日に聖ルカ組合に再び加入した。同月までにレオナルドは、《モナ・リザ》のモデルとして知られるリザ・デル・ジョコンドの肖像画に取り組みはじめた。レオナルドは晩年期までこの作品の制作を続けた。

 

1504年1月、レオナルドはミケランジェロのダビデ像を設置する場所を推薦するために設立された委員会の一員となった。

 

その後、フィレンツェで2年間過ごし、シニョーリアの依頼で《アンギアーリの戦い》の壁画をデザインし、描いた。また、フィレンツィ滞在中にレオナルドによる手記『アトランティコ手稿』を書いた。

 

1506年、レオナルドはミラノへ戻る。ベルナルディーノ・ルイーニ、ジョバンニ・アントニオ・ボルトラッフィオ、マルコ・オッジョーのなど彼の最も有名な弟子やファンの多くがミラノの工房でダ・ヴィンチとともに働いていた。

 

当時レオナルドはミラノのフランス総督チャールズ・2世・ダンボワーズの騎馬像制作プロジェクトをはじめたかもしれない。この騎馬像のワックスモデルは現存しており、本物ならば現存するレオナルドの唯一の彫刻作品となる。

 

レオナルドの父親が1504年に死去したためミラノには長い間おらず、1507年に父親の遺産に関する兄弟間で発生したトラブルを解決するためフィレンツェに戻った。

 

1508年までにレオナルドはミラノに戻り、サンタ・バビラ教区のポルタ・オリエンターレにある自身の家に住んでいた。

晩年


1513年から1516年までの間、レオ10世教皇のもとレオナルドは、ローマのヴァチカンにあるベルヴェデーレの中庭で多くの時間を過ごした。

 

そこではラファエロやミケランジェロの2人も活動していた。1515年10月、フランス王フランソワ1世がミラノを奪還。12月19日、レオナルドはボローニャで開催されたフランソワ1世とレオ10世の会合に出席した。

 

レオナルドはフランソワから百合の束が詰まっており開閉可能な胸構造を持つ機械ライオンの制作を依頼した。1516年、レオナルドはフランソワに庇護されることになり、ロイヤル・シャトー・アンボアーズで王の住居近くにある邸宅クロ・リュセ城の使用を認められた。

 

レオナルドは人生の最後の3年を、友人や弟子のフランチェスコ・メルツィらとそこで過ごし、総計1万スクードの年金を受給され日々の生活を過ごすことになった。

 

ある時点でメルツィはレオナルドの最晩年期の肖像画を描きはじめた。レオナルドの生涯を知るほかの人物は、レオナルドの習作(1517年作)の1つの背景の無名のアシスタントによるスケッチと、ジョヴァンニ・アンブロージョ・フィジーノによって絵が書かれた右腕を布で覆っている老年のレオナルドのドローイングだけだった。

 

後者の絵は65歳のレオナルドで右手が麻痺している状態を描いたものだという。これは、《モナ・リザ》が未完成のまま残っている根拠を示す可能性がある。レオナルドは晩年、病気で数ヶ月間寝たきり状態になるまでいくらか制作する能力はまだあったという。

 

1519年5月2日にクロ・ルーセでレオナルドは67歳で死去。死因は脳卒中と見られている。ヴァサリによれば、レオナルドは最後の日々になると司祭をよびよせ懺悔を行い、聖なる秘跡を受けたという。この話は事実ではなく作り話かもしれないが、ヴァザリによればフランソワ1世の腕に頭を抱えられて状態でレオナルドが亡くなった記録している。

 

レオナルドの遺言に従い、小ろうそくを持った60人の乞食たちがレオナルドの葬列に参加し、棺の後に続いて歩いた。

 

ランチェスコ・メルツィがレオナルドの主たる相続人兼遺言執行者で、メルツィはレオナルドの金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続した。レオナルドの遺体は、アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬された。

略年譜


■1452年

4月15日、公証人セル・ピエロの私生児としてフィレンツェ郊外のヴィンチ村に生まれる。母の名はカテリーナ。

 

■1456年頃(13歳)

父がフィレンツェに事務所をかまえる。レオナルドもこの頃ヴェロッキオの工房に入る。

 

■1469年(17歳)

父の税申告書に17枚のレオナルドの記載あり。

 

■1471年頃(19歳)

ヴェロッキオの工房でフィレンツェ大聖堂に直径2.4メートルの球体を制作・設置する仕事に関わる。

 

■1472〜75年頃(20〜23歳)

《受胎告知》、《カーネーションの聖母》の制作を開始。《風景素描(雪のサンタ・マリア)》を制作。

 

■1476年頃(24歳)

同性愛の嫌疑をかけられる(サルタレッリ事件)。

 

■1478年(26歳)

素描に「二点の聖母子像に着手」と記す。《ブノワの聖母》、《猫の聖母》か。この頃《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像》を制作。

 

■1479年(27歳)

バッツィの乱の首謀者の1人として絞首刑に処せられたバロンチェッリの様子をスケッチする。

 

■1481年(29歳)

《東方三博士の礼拝》の依頼を受ける。

 

■1482年(30歳)

フィレンツェを出てミラノに移り、ルドヴィコ・スフォルツァに使える。

 

■1483年(31歳)

デ・プレディス兄弟とともに《岩窟の聖母》に着手。

 

■1484〜90年(32〜38歳)

この頃、工房で《音楽家の肖像》を制作。

 

■1485年(33歳)

この頃《スフォルツァ騎馬像》の制作にとりかかる。

 

■1487年(35歳)

ミラノ大聖堂ティブーリオ(クーポラの上部構造)の模型を制作。

 

■1489年(37歳)

イル・モーロから《スフォルツァの騎馬像》の制作の要請を受ける。

 

■1490年(38歳)

ミラノ公ジャンガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとナポリ王の娘イザベッラ・ダラゴーナの結婚祝宴で演劇『天国の祝祭(イル・パラディーゾ)』を演出。この頃《白貂を抱く貴婦人》《ラ・ベル・フェロ二エール》を制作。サライがレオナルドの工房に入る。

 

■1491年(39歳)

イル・モーロとベアトリーチェ・デステの結婚祝典で一連の行事を手掛ける。

 

■1493年(41歳)

神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世とミラノのビアンカ・マリーア・スフォルツァの結婚式で、《スフォルツァ騎馬像》の粘土原型を公開する。

 

■1494年(42歳)

ルドヴィコ・スフォルツァが《最後の晩餐》を依頼。フランス軍がミラノ侵攻、《スフォルツァ騎馬像のために用意されたブロンズ約70トンが大砲に転用される。

 

■1495年頃(43歳)

ミラノの公文書に技師・画家として記載される。

 

■1496年(44歳)

数学者ルカ・パチョーリとの共同執筆を開始、1498年ルドヴィコ・スフォルツァに献呈される。

 

■1498年(46歳)

《最後の晩餐》が完成。

 

■1499年(47歳)

フランス軍がミラノを占領、イル・モーロは敗走。

 

■1500年(48歳)

ミラノを経ち、2月マントヴァ、3月にヴェネツィアに滞在、4月にフィレンツェに戻る。マントヴァで《イザベッラ・デステの肖像》の素描を制作(着彩画は制作せず)。

 

■1501年(49歳)

ローマに初めて旅行。その後フィレンツェに戻り、《聖アンナと聖母子、洗礼者ヨハネ》のカルトンを公開(現存せず)。

 

■1502年(50歳)

チェザーレ・ボルジアに軍事技師として雇われる。

 

■1503年(51歳)

チェザーレのもとを離れ、フィレンツェに戻る。フィレンツェ政庁からパラッツォ・ヴェロッキオ「五百人広間」の壁画制作をミケランジェロとともに依頼される(《アンギアーリの戦い》未完)。《モナ・リザ》の制作を開始。

 

■1506年(54歳)

《岩窟の聖母》裁判結審。フランスのミラノ総督シャルル・ダンボワーズの招聘でミラノに戻る。

 

■1507年(55歳)

この頃、最愛の弟子となるフランチェスコ・メルツィが入門してくる。

 

■1508年(56歳)

この頃、出版をめざして手稿の整理を開始。ミラノに移る。解剖学の研究を進める。

 

■1513年(61歳)

ジュリアーノ・デ・メディチの支援でローマのベルヴェデール宮殿に住む。《洗礼者ヨハネ》の制作を開始。

 

■1516年(64歳)

フランソワ一世によってフランスのアンボワーズに招かねる。

 

■1519年(67歳)

4月23日、遺言書を作成。

5月2日、アンボワーズで死去。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Leonardo_da_Vinci

・別冊太陽「レオナルド・ダ・ヴィンチを旅する」

 




【美術解説】村上隆「ハイとロウの境界を曖昧化するスーパーフラット」

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村上隆 / Takashi Murakami

ハイとロウの境界を曖昧化スーパーフラット


村上隆『727』(1996年)
村上隆『727』(1996年)

概要


生年月日 1962年2月1日
国籍 日本
活動場所 埼玉県(日本)
表現形式 絵画、彫刻、版画
ムーブメント スーパーフラット
関連人物 奈良美智Mr.Blum&Poeシェイカ・アル=マヤッサラリー・ガゴシアン
関連サイト

Kaikai Kiki

Artsy(作品・略歴)

artnet(作品・略歴)

村上隆(1962年2月1日生まれ)は、国際的に幅広く活動している日本の美術家。絵画や彫刻などのファイン・アートが活動の中心ではあるが、ほかにもファッション、グッズ販売、アニメーション、映画など、従来においてはコマーシャル・メディアと見なされている領域でも積極的に活動している。

 

村上は、美術史において「ハイ」と「ロウ」の境界線を曖昧にした表現「スーパーフラット」で評価されている。浮世絵や琳派など日本の伝統美術と戦後の日本のポップカルチャーの平面的な視覚表現に類似性や同質性を見出し、それらを1つの画面に圧縮している。

 

また、スーパーフラットは、戦後の日本社会で発生した無階層的で一様な大衆文化も表しているという。

 

村上の芸術キャリアは美術史上においてかなり特異な存在である。活動初期から日本の美術業界のマーケットに絶望していた村上は、戦略的に欧米を中心とした美術市場で、芸術家としての自己を確立することを決める。

 

さらに、欧米の美術市場で自己を確立したあと、逆輸入する形で日本での活躍を試みた新しいタイプの芸術家だった。これは、海外で評価されたものは積極的受容しがち日本の国民性を理解した上での行動であると思われる。(草間彌生や奈良美智など以前から逆輸入型の芸術家はたくさんいるが、戦略的ではない。)

 

彼はアートをビジネスとしてとらえており、芸術家であると同時に有限会社『カイカイキキ』の代表であり、多くの人を雇用して芸術を生産する経営者である。絵若手芸術家のキャリア育成や『GEISAI』などのアートフェアの企画・運営、中野ブロードウェイに画廊『Hidari Zingaro』、バー『Bar Zingaro』など多数の店舗を経営している。

 

2020年7月19日、日本で最も有名なYouTuberのヒカキンが村上隆の作品《ドラえもんありがとう》を購入したことを明らかにした。

チェックポイント


  • 「ハイ」と「ロウ」の境界線を曖昧にした「スーパーフラット」
  • 欧米美術市場への戦略的なアプローチ
  • 芸術家であると同時にビジネスマン

略歴


初期作品


村上隆は日本の東京の板橋区で生まれ育った。幼少の頃から漫画やアニメの大のファンで、将来はアニメーション産業で働くことを志望していたという。

 

二浪ののち、東京藝術大学に入学。アニメーターになるために必要な技能を習得しようと入学したが、最終的には日本画を専攻することになった。1986年に東京藝術大学美術学部日本画科卒業、1988年に同大学大学院美術研究科修士課程修了(修了制作次席)する。

 

その後、村上は島国根性的で政治色の強い日本の芸術業界に幻滅し、現代美術の方向へ転向する。しかし村上は日本の現代美術の状態に対しても不満だった。日本の現代美術は「欧米トレンドの模倣」であると強く感じたという。マーケットが成立していない点も不満だった。

 

1991年に個展『TAKASHI, TAMIYA』を開催し、現代美術家としてデビューする。村上の初期作品の多くは社会批判や風刺の精神が強かった。 

 

同年、東京の細見画廊で開催された『賛成の反対なのだ』は、『天才バカボン』のキャラクター「バカボンのパパ」が体現する「真実の曖昧さ」を媒介に、現代の日本の天皇制に潜む主体性や責任の所在の空洞化を批判する試みだった。

 

また、同年開催された『ランドセル・プロジェクト』は、ワシントン条約で取引が禁止されている稀少動物の皮で作られたランドセルを学習院御用達のメーカーに作らせることにより、条約自体の恣意性を強く意識させ、子どもの象徴であるランドセルに政治的要素が忍び込んでいることを暗示した。

 

1992年の『大阪ミキサー計画』は「ハイレッド・センター」のパロディ化したフォーマンス・アートで、ほかに「首都圏清掃整理促進運動」を大阪梅田地下街で再現した。また同年、彼自身のポップ・アイコン『DOB(ドブ)くん』を発表する。

 

しかし、これら彼の初期作品の大半は日本で受け入れられることはなかった。

 

1993年に、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程を修了(PhD)。論文「意味の無意味の意味」を提出。これは東京芸術大学における日本画科初の博士号修得である。

村上隆『Signboard TAMIYA』(1991年)
村上隆『Signboard TAMIYA』(1991年)
村上隆『ランドセル・プロジェクト』
村上隆『ランドセル・プロジェクト』

ニューヨークへ


1994年に村上は、ロックフェラー財団の「アジアン・カルチュラル・カウンシル」から支援を受け、1年間ニューヨークのMoMA PS1の国際スタジオプログラムに参加する。

 

滞在中、村上は、アンゼルム・キーファージェフ・クーンズといった、特にシミュレーショニズムの西洋現代美術家に影響を受ける。また同時期にニューヨークに小さなスタジオを建て、そこに、のちの「ヒロポンファクトリー」のメンバーたちと集団で制作を行う。なお「ヒロポンファクトリー」は「カイカイキキ」の前身である。

 

この頃にアート・ワールドにおいては芸術活動の背骨となる中心的概念を作る必要があると強く思い始める。中心的概念の創造は、ヨーロッパやアメリカの主要なギャラリーや施設で展示活動を行うのに必要だった。

 

そこで、ポップとオタクを合わせた「PO+KU ART」のコンセプトを元にアニメやフィギュアなどオタク文化に近接したアート作品を発表し始める。 

戦略的アプローチ


村上は、戦後日本における堅実で持続性のある美術市場の欠乏に対して、早くから不満があることを表明していた。

 

そうしたことから、最初から戦略的に欧米の美術市場(アート・ワールド)で芸術家として自己を確立することを決める。欧米で確立後、日本へ逆輸入する形で活躍しようとするアートワールドにおいて新しいタイプの芸術家だった。

 

また、日本文化や日本の歴史をルーツとした芸術制作は、国際的に見ても新鮮であり、表現として有効だったため、帰国後、村上は日本独自の表現とは何かと深く探求し始める。

 

そして、ハイアートとロウアート(特にアニメや漫画)の境界線を理解した上で、意図的に両方をごちゃ混ぜにする表現を提案した。村上はこれが自身の作品における重要なコンセプトとなると感じる。

 

以後、村上作品における「かわいい、明るい色、アニメ風キャラ、フラット、光沢、フィギュア」といった要素は、こうしたコンセプトのもとに戦略的に作品に引用されることになる。たとえば、ホノルル美術館に所蔵されている作品で『コスモスボール』などが代表的な作品である。

村上隆『コスモスボール』(2000年)
村上隆『コスモスボール』(2000年)

スーパーフラット


2001年1月から3月にかけて村上は、ロサンゼルス現代美術館による19人の企画のグループ展『スーパーフラット』を企画・開催。同タイトルのカタログ上で村上は『スーパーフラット』理論を掲載。この展示は2000年に渋谷パルコギャラリーで開催した『スーパーフラット』の展示を基にしている。

 

参加作家は青島千穂、ボーメ、ヒロ杉山、グルーヴィジョンズ、金田伊功、町野変丸、森本晃司、Mr.、村上隆、中ハシ克シゲ、奈良美智、大井成義、佐内正史、sleep、鈴木親、タカノ綾、竹熊健太郎、富沢ひとし、20471120。

 

スーパーフラット理論の核は、今日の日本のマンガやアニメにおける平面性は日本の美術における平面表現の延長にあるものだというもの。さらに、スーパーフラットは戦後日本の無階級社会や一様で均質的なポップカルチャーを現すものでもあるという。

 

このスーパーフラット理論は、村上作品における芸術理論の核であり、2002年のパリ、カルティエファウンデーションでの『ぬりえ』展、2005年のニューヨーク、ジャパンソサエティでの『リトルボーイ』展をはじめ、その後の展示において、さらに深く探求する中心的概念となった。

 

『スーパーフラット』展は、2001年7から10月にウォーカー・アート・センター(ミネアポリス)、11月から2002年3月にヘンリーアートギャラリー(シアトル)に巡回。また、これらの展示では、日本のあまり知られていない文化を海外に紹介することにも貢献した。

 

『リトル・ボーイ』展は、2005年にニューヨークのジャパン・ソサエティで開催された村上隆が企画するグループ展で、10人の日本人アーティストのセレクションを取り上げた展覧会である。“リトル・ボーイ”の由来は、広島に落とされた原子爆弾のニックネームからきている。原爆の影響によって日本人は幼児的で特殊な奇形的文化を形成。さらにこのような文化を生み出したきっかけはアメリカにもある、というのが村上の主張である。

ヒロポン・ファクトリーとカイカイキキ


1996年に、村上はより大規模な制作を行うためにワークショップ「ヒロポン・ファクトリー」を創設する。当時は村上の回りに集まってきた若者たちの集団というかんじで、それまでのボランティアシステムから、少しづつギャラを払い始めた。

 

ヒロポン・ファクトリーは、宮﨑駿のスタジオ『スタジオ・ジブリ』のようなアニメやマンガの制作スタジオをモデルにしており、絵画、版画、彫刻などのファインアート作品を集団で制作していた。

 

2001年にヒロポン・ファクトリーは有限会社「Kaikai Kiki」に名前を変更して法人化した。

ルイ・ヴィトンとコラボレーション


2002年にデザイナーのマーク・ジェイコブスの招待で、村上はルイ・ヴィトンと長期的なコラボレーションを開始。ハンドバッグシリーズのデザインを行なった。

 

以前にも三宅一生や滝沢直己といったファッションデザイナーとコラボレーションをしていたけれども、ルイ・ヴィトンでの作品は、ハイアートとコマーシャリズムの境界線をぼかした出来事として、大きな評判と名声を獲得することになった。

 

さらに、ルイ・ヴィトンとの仕事は、母国日本において村上の一般大衆層への知名度を上昇させるきっかけとなった。また、2003年に、黒地あるいは白地にモノグラムをカラフルに配した「モノグラム・マルチカラー」を発表。

現在


2007年から2009年にかけて、村上の初回顧展『村上隆回顧展(C)MURAKAMI』がロサンゼルス現代美術館から始まり、ニューヨークのブルックリン美術館、フランクフルトのクンスト近代美術館、スペインのビルバオ・グッゲンハイム美術館へと巡遊して開催。展示ではルイ・ヴィトンとコラボレーションした作品などが注目を集めた。

 

2008年、村上は『Time』の『最も影響力のある100人』の一人として選ばれた。

 

2010年9月、フランスのベルサイユ宮殿で展示を行なった3人目の現代美術家となった。日本人としては初めてである。

 

2012年2月、村カタールのドーハで個展『Murakami Ego』を開催。100メートルもある壁に福島原発事故後の日本の人々の苦しみを描いた新作が話題となった。

 

2013年4月、長編映画作品『めめめのくらげ』で映画監督としてデビュー。

 

2015年、森美術館で個展『村上隆の五百羅漢図展』を開催。翌年3月に成果として平成27年度(第66回)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。

出版物



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【美術解説】ジョット「黎明期イタリア・ルネサンスの先駆者」

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ジョット / Giotto

黎明期イタリア・ルネサンスの先駆者


概要


生年月日 1267年頃
死没月日 1337年1月8日 
国籍 イタリア
表現媒体 絵画、建築、彫刻
ムーブメント 後期ゴシック、黎明期ルネサンス

ジョット・ディ・ボンドーネ(1267年頃-1337年1月8日)は、一般的にジョットとして知られる中世後期のイタリアの画家、建築家。ゴシック・黎明期ルネッサンス期に活躍した芸術家と見なされている。

 

ジョットの同時代の銀行家であり歴史家でもあるジョヴァンニ・ヴィラーニは、ジョットを「彼の時代で最も君臨的な絵画の巨匠であり、自然に沿った人物やポーズを描いた」と評価し、彼の「才能と卓越性」は公に認められていたと記録している。

 

ジョルジョ・ヴァザーリは、著書『最も優れた画家、彫刻家、建築家の生涯』の中で、ジョットはこれまで流行していたビザンチン様式に決定的な打ちこわし、今日私たちが知っているような偉大な絵画芸術を確立し、200年以上も放置されていた技術を蘇らせたと評している。

 

13世紀末にアッシジのサン・フランチェスコ聖堂上堂身廊の壁画制作でデビューし、1300年の聖年にはローマのラテラーノ宮殿「祝別の開廊」を装飾している。早くから当時の著名の注文主に認められ、名声と経済的安定を得て、フィレンツェに地所を所有した。

 

代表作は、1305年頃に完成したパドヴァにあるアレーナ礼拝堂とも呼ばれるスクロヴェーニ礼拝堂の装飾画である。フレスコ画で聖母の生活とキリストの生活の循環を描いている。ルネサンス初期の最高傑作の一つとされている。

 

リミニ、パドヴァ、再びアッシジで活動して、フィレンツェに戻り、その後、遠くアンジュー朝のナポリ王ロベルト一世の宮廷画家となる。

 

ジョットがアレーナ礼拝堂を描き、1334年にフィレンツェのコミューンからフィレンツェ大聖堂の新しいカンパニレ(鐘楼)の設計を任されたことは、彼の人生に関するいくつかの確実性の1つである。

 

そして、死の前年までミラノのアッツォーネ・ヴィスコンティの宮殿で制作活動を行った。

 

ジョットの生年月日、生家、容姿、弟子入り、作品を制作した順番、アッシジの聖フランチェスコ上聖堂の有名なフレスコ画を描いたかどうか、埋葬場所など、他のほとんどすべての面で論争の対象となっている。

略歴


幼少期


ジョットはおそらくムジェッロ渓谷ヴィッキオのコッレ・ディ・ロマニャーノ、もしくはロミニャーノの農家で生まれたと考えられている。1850年以来、近くのコッレ・ヴェスピニャーノのタワーハウスには、彼の生家の名誉を主張するプレートが掲げられており、その主張は商業的に公表されている。

 

しかし、最近の研究では、鍛冶屋の息子としてフィレンツェで生まれたという記録的証拠が提示されている。ほとんどの著者はジョットが彼の本名であることを認めているが、アンブロジオ(Ambrogiotto)またはアンジェロ(Angelo)の略称であった可能性も高いという。

 

ヴァザーリによれば、ジョットは羊飼いの少年で、陽気で知的な子供で、彼を知るすべての人に愛されていたという。

 

フィレンツェの偉大な画家チマブエは、岩の上に羊の絵を描いているジョットを見て、ジョットに弟子入りしないかと声をかけたという。

 

チマブエは、シエナを中心に活躍していたドゥッチョとともにトスカーナで最も有名なイタリア画家だった。ヴァザーリは、若き日の芸術家としてのジョットの腕前に関する話をいくつも回顧している。

 

チマブエが外出中、ジョットはチマブエが描いた絵に、驚くほどリアルなハエを描いた。チマブエが工房に戻ってくると何度も絵のハエを払いのけようとしていたという。

 

今日、多くの学者はジョットの訓練について不確かな点があり、彼がチマブエの弟子であったというヴァザーリの説明を伝説とみなしている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Giotto、2020年7月22日アクセス

・西洋美術の歴史4 ルネサンスⅠ,中央公論新社


【美術解説】アルブレヒト・デューラー「ドイツ・ルネサンスの代表であり理論家」

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アルブレヒト・デューラー / Albrecht Dürer

ドイツ・ルネサンスの代表であり理論家


《自画像》,1500年
《自画像》,1500年

概要


生年月日 1471年5月21日
死没月日 1528年4月6日
国籍 ドイツ
表現形式 絵画、版画
ムーブメント 盛期ルネサンス、ドイツ・ルネサンス

アルブレヒト・デューラー(1471年5月21日-1528年4月6日)はドイツの画家、版画家。ドイツ・ルネサンスの代表的な芸術家であり理論家である。

 

ニュルンベルクに生まれたデューラーは、20代で高品質の木版画でヨーロッパ中にその名声と影響力を確立した。

 

ラファエロ、ジョヴァンニ・ベリーニ、レオナルド・ダ・ヴィンチなど同時代のイタリアを代表するルネサンス芸術家と交流を持ち、1512年には皇帝マクシミリアン1世の庇護を受けた。

 

デューラーの作品は膨大で表現方法も多様で、版画、彫刻、祭壇画、肖像画、自画像、水彩画、書籍などがある。『黙示録』シリーズ(1498年)のような木版画は、他の作品比べてゴシック様式が強い。

 

代表作は『騎士と死と悪魔』(1513年)、『書斎の聖ジェローム』(1514年)、『メレンコリア1世』(1514年)などの木版画で、広範囲にわたる分析と解釈の対象となっている。油彩画では『自画像』が人気が高い。

 

また、水彩画においてヨーロッパで最初の風景画家の一人として知られており、一方、意欲的な木版画において版画の可能性に革命をもたらした。

 

イタリアのルネサンス芸術家やドイツの人文主義者を深く交流したデューラーは、古典的なモチーフを北方美術に導入したことで、北方ルネッサンスの最も重要な人物の一人としての評価を確固たるものにした。

 

理論家でもあり、数学、遠近法、理想的なプロポーションの原理などの理論的論文で自己評価を高めた。

 

ほかにデューラーは、現代のコンピュータグラフィックスで使用されている技術であるレイトレーシングの基本原理を発明した人物としても知られている。

略歴


幼少期(1471–1490)


デューラーは1471年5月21日、第三子で次男として生まれた。少なくとも14人兄妹で18人兄妹の可能性もあるという。父のアルブレヒト・デューラーは成功した金細工師であり、1455年にハンガリーのギュラ近郊のアジュトースからニュルンベルクに移り住んでいた。

 

アルブレヒトの兄弟の一人であるハンス・デューラーもまた画家であり、彼の下で学んだ。もう一人の兄弟であるエンドレス・デューラーは、父の事業を引き継いで金細工の名人となった。

 

ドイツ語名の「デューラー」は、ハンガリー語の「Ajtósi」を翻訳したものである。 当初はドアメーカーを意味する「Türer」であったが、ハンガリー語では「ajtós」(ドアを意味する「ajtó」から)となっている。一族の紋章にはドアが描かれている。

 

デューラーは自伝的な文章を残ておりし、20代半ばには有名になったため、彼の人生は複数の資料から正確に記録されている。数年の学校生活の後、デューラーは父親から金細工とデッサンの基礎を学び始めた。

 

父親は金細工師になってもらいたかったが、1486年に15歳でミヒャエル・ウォルゲムートに弟子入りできるほど早熟に絵の才能を発揮しはじめた。

 

シルバーポイントで描かれた自画像は、後の碑文にあるように、1484年(ウィーン、アルベルティーナ)の日付で、「子供時代」と記されている。

 

ウォルゲムートは当時のニュルンベルクを代表する芸術家で、大規模な工房で様々な芸術作品、特に本のための木版画を制作していた。

 

当時のニュルンベルクは、出版の中心地であり、多くの豪華な商売が行われていた重要で繁栄した街だった。イタリア、特にアルプスを挟んで比較的短い距離にあったヴェネツィアとの結びつきが強かった。

デューラーの紋章の木版画。自分の名前にちなんだ扉と、ムーア人の翼のある胸像が描かれている。。
デューラーの紋章の木版画。自分の名前にちなんだ扉と、ムーア人の翼のある胸像が描かれている。。
13歳のデューラーによる自画像銀点画,1484年
13歳のデューラーによる自画像銀点画,1484年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Albrecht_D%C3%BCrer、2020年8月12日アクセス


【作品解説】アルブレヒト・デューラー「自画像」

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自画像 / Self-Portrait

正面自画像の先駆的作品


《自画像》,1500年
《自画像》,1500年

作者 アルブレヒト・デューラー
制作年 1500年
メディウム パネルに油彩
サイズ 67.1 cm × 48.9 cm 
所蔵者 アルテ・ピナコテーク

《自画像》は1500年にドイツのルネサンス期の画家アルブレヒト・デューラーによって制作された油彩パネル画。1500年初頭、彼の29歳の誕生日直前に描かれたこの作品は、彼が描いた3点の自画像の最後のものである。《28歳の自画像》とも呼ばれる

 

美術史家は、デューラーの自画像の中でも最も個人的であり、象徴的であり、複雑なものとみなしている。この自画像は、それまでの自画像とは異なり、鑑賞者と直接的な向き合い、そして明らかに対峙した構図となっている。1500年頃、正面からのポーズの世俗的肖像画は異例のものだった。

 

また、それ以前に多く制作されたキリストの肖像と似ているという点でも、最も注目すべきものである。

 

美術史家は、その対称性、暗い色調、画家が直接鑑賞者と向き合い、祝福するかのように両手を胸の中央に挙げている様子など、宗教画の慣習との類似性を指摘している。

解説


デューラーの表情は仮面のような柔軟性と威厳が見られるが、苦悩と情熱の落ち着かない様子も伺える。

 

この自画像は、それまでの自画像とは異なり、鑑賞者と直接的な向き合い、そして明らかに対峙した構図となっている。半身像で、正面から見て、ほぼ左右対称的な形状をしている。ありきたりな背景の欠如は、時や場所と無関係であるデューラー自身を表現しているように思わせる。

 

1500年頃、正面からのポーズの世俗的肖像画は異例のものだった。イタリアでは、従来の横顔の肖像画の流行が終わりつつあり、1420年頃から北欧で流行りはじめていた斜め顔の肖像画に取って代わられていた。デューラーの初期肖像画も斜め顔だった。

 

ハンス・ホルバインはイングランドのヘンリー8世と彼の女王を何人か描いているが、おそらくデューラーのような正面画で描く指示をされていたのだろう。

 

 

また、黒一色の背景に茶色の色調で服装が描かれていることで、陰鬱な雰囲気を醸し出している。以前の2点の自画像に見られたタッチとトーンの軽さはなくなり、内向的で複雑な表現に変化している。

 

この作品におけるデューラーのスタイルは、のちに美術史家マルセル・ブリオンによれば「アングルのような古典主義」への発展につながったという。

 

構図の幾何学的分析は、いくつかのハイライトが絵画の中央に垂直軸に非常に近い位置に配置されて、緻密な対称性を描いているように見える。しかし、この作品は完全に左右対称ではなく、頭は中央よりやや右にあり、髪の毛は中央にはなく、左右で髪の毛の落ち方が異なり、目はやや左に向いている。

 

この自画像は、1493年のストラスブールの自画像と1498年のイタリア訪問後に制作された自画像の両方よりも、明らかに成熟した男性像である。どの自画像でも共通して、デューラーは当時の流行の髪型や服装を強調しており、若々しい美貌を演じている。

 

デューラーの両脇にある暗い碑文は、まるで宙に浮かんでいるかのようで、この肖像画が非常に象徴的な意味を持っていることを強調している。

 

この作品が描かれた1500年頃、デューラーは28歳だった。中世ヨーロッパにおいて28歳は人生の段階において若者から成熟への移行点とみなされていた。したがって、この肖像画はデューラーの人生の転機と1000年祭の両方を記念したものである

 

左上の背景の中央に描かれている1500年は、ここでは画期的なものとして祝されている。さらに、彼のサインのイニシャルである「A.D.(Albrecht Dürer)」の上に「1500年」を配置することで、「Anno Domini(西暦紀元)」の略語の意味が含まれている

その他のデューラーの自画像作品


《十三歳の自画像》,1484年
《十三歳の自画像》,1484年
《自画像》,1493年
《自画像》,1493年
《自画像》,1498年
《自画像》,1498年


【作品解説】ウィトルウィルス的人体図「レオナルドの理想的な身体プロポーション」

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ウィトルウィウス的人体図 / Vitruvian Man

レオナルドの理想的な身体プロポーション


概要


『ウィトルウィウス的人体図』は、レオナルド・ダ・ヴィンチが1490年頃に描いたドローイング。このドローイングは理想的な人体のプロポーションを表現しており、「プロポーションの法則」あるいは「人体の調和」と呼ばれることがある。

 

円と四角にきっちり内接した2人の男性の裸体が重ねられた状態が描かれている。2人の手足の位置は異なる。

 

正方形と円形は、古代ローマの建築家ヴィトルヴィウスの『建築家論』の第三書内の説明文に由来している。

 

ヴェネツィアのアカデミア美術館が所蔵しているが常設展示はされていない。最近では、フランスとイタリアの協定の一環として、2019年10月24日から2020年2月24日まで、ルーヴル美術館のダ・ヴィンチ作品展で展示された。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Vitruvian_Man、2020年8月20日アクセス

 


【美術解説】ヤン・ファン・エイク「初期ネーデルラント絵画の改革者」

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ヤン・ファン・エイク / Jan van Eyck

初期ネーデルラント絵画の改革者


《アルノルフィーニ夫妻像》,1434年
《アルノルフィーニ夫妻像》,1434年

概要


生年月日 1390〜1395年頃
死没月日  1441年7月9日
活動場所 フランドル
ムーブメント 初期ネーデルランド絵画、北方ルネサンス
代表作

・アルノルフィーニ夫妻像

・ヘントの祭壇画

・宰相ロランの聖母

・受胎告知

・教会の聖母子

ヤン・ファン・エイク(1390年-1441年7月9日)は、ブルージュで活動したフランドル地方の画家。

 

初期ネーデルラント絵画の革新者の1人として知られており、また初期北方ルネサンス芸術の最も重要な画家の1人でもある。

 

ファン・エイクは1380年から1390年頃、現在のベルギーのマーセイク(当時のマーセイク、それが彼の名前の由来)で生まれた可能性が高いとされている。

 

1422年頃ハーグで仕事をはじめたときには、すでに助手付きの工房を所有する巨匠で、オランダとハイノーの支配者であったピティレス家のヨハネ3世の庇護のもと画家や使用人として活動した。

 

1425年にヨハネが亡くなると、ブルゴーニュ公フィリップ・ザ・グッドの宮廷画家としてリールで活動し、その後、1429年頃にブルージュに移り住んんで、亡くなるまでそこで暮らした。

 

フィリップに公に高く評価され、公爵とポルトガルのイザベラの婚約交渉で1428年にはリスボンを訪問するなど外交官としても活躍した。

 

現存する約20点の絵画の中には、《ヘント祭壇画》や『トリノ=ミラノ時祷書』の装飾画など、1432年から1439年の間に描かれたものがある。

 

ファン・エイクは、祭壇画、一枚板の宗教的な人物、依頼された肖像画など、世俗的なものと宗教的なものの両方を主題とし、一枚板、二枚板、三枚板、ポリプティク板など多様な形式で制作している。

 

パトロンだったフィリップは、画家が「好きな時に好きなだけ」描くことができるよう安定した高額報酬を行い、また芸術的な自由を保証されていたので、ファン・エイクは好きなときに好きなだけ描くことができた。

 

ヴァン・エイクの作品はもともとは国際ゴシック様式に由来しているが、自然主義とリアリズムを重視する方向へ発展した。また、油絵具の技法の水準を高め、その後、非常に影響力を持ち、その技術やスタイルは、初期ネーデルラントの画家たちに採用され、洗練されていった


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Jan_van_Eyck、2020年8月26日アクセス


【作品解説】ヤン・ファン・エイク「アルノルフィーニ夫妻像」

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アルノルフィーニ夫妻像 / Arnolfini Portrait

庶民の結婚記念を初めて記録した絵画


《アルノルフィーニ夫妻像》,1434年
《アルノルフィーニ夫妻像》,1434年

作者 ヤン・ファン・エイク
制作年 1434年 
表現媒体 オーク材に油彩、縦板3枚のパネル
サイズ

82.2 cm × 60 cm (32.4 in × 23.6 in)

panel 84.5 cm × 62.5 cm (33.3 in × 24.6 in)

所蔵者

ロンドン、ナショナル・ギャラリー

《アルノルフィーニの肖像》は、1434年にオランダの画家ヤン・ファン・エイクによって制作された油彩画。オーク材のパネルに描かれている。

 

イタリアの商人ジョヴァンニ・ディ・ニコラオ・アルノルフィーニと彼の妻を描写したと考えられている全身二重肖像画である。おそらく、フランドル地方の都市ブルージュにある2人の住居内の様子を描いたものとされている。

 

その美しさ、複雑な図像、幾何学的な直交的遠近法、鏡を用いた絵画空間の拡大などから、西洋美術の中でも最も独創的で複雑な絵画の一つとみなされている。

 

エルンスト・ゴンブリヒによれば、「イタリアのドナテッロやマサッチョの作品と同じくらい新しく、革命的なものだった。現実世界のシンプルな一角が突然、魔法のようにパネルに固定されていた... 歴史上初めて、芸術家は真の意味での完璧な目撃者となった」という。

 

この肖像画は、エルヴィン・パノフスキーをはじめとする一部の美術史家によって、庶民の結婚記念を初めて記録した絵画と考えられている。

 

ファン・エイクによる署名と1434年の日付が付けられたこの作品は、《ヘント祭壇画》とともに、テンペラではなく油彩で描かれた最も古い有名なパネル画としても評価されている。

 

本作品は1842年にロンドンのナショナル・ギャラリーが購入した。

 

ファン・エイクは、薄い半透明のつやを何層にも重ね塗るりをして、階調と色彩の両方の強度を持った絵を描いた。輝く色彩はリアリズムを際立たせ、アルノルフィーニ夫妻の物質的な豊かさを示すにも役立っている。

 

ファン・エイクは、テンペラに比べ油絵具の乾燥時間が長いことを利用して、濡れた状態で描くことで色をブレンドし、光と影の微妙な変化を実現し、立体的なフォルムの錯覚を高めた。

 

アッラ・プリマとしても知られるウェット・イン・ウェット(ウェット・オン・ウェット)技法は、ヤン・ファン・エイクをはじめとするルネサンス期の画家たちの多くが利用している。

 

油絵具という媒体は、ファン・エイクが表面の外観を捉え、テクスチャーを正確に区別することを可能にした。

 

また、左の窓から入ってくる光をさまざまな面で反射させ、直射光と拡散光の両方の効果を表現している。

 

鏡の横にぶら下がっている琥珀色のビーズ1つ1つがハイライトのような詳細に描画されているが、これは虫眼鏡を使って描いたといわれている。

 

細部の描写もさることながら、特に光を使って室内の空間を再現し、「部屋とそこに住む人々を説得力のある形で描写している」という点で、当時としては注目に値するものだった。

 

シーンや細部にどんな意味が込められているのか、これについては多くの議論がなされてきた。クレイグ・ハービソンによると、この絵は「画家と同時代を生きた庶民が当時のインテリアのもと、ある種の行事を行っているこを示した唯一現存しているの15世紀の北方パネルである」という。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Arnolfini_Portrait、2020年8月27日アクセス



【美術解説】ハンス・ホルバイン(子)「16世紀における最も優れた肖像画家」

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ハンス・ホルバイン(子) / Hans Holbein the Younger

16世紀における最も優れた肖像画家


《49歳のヘンリー8世》,1540年
《49歳のヘンリー8世》,1540年

概要


セル1 セル2

ハンス・ホルバイン(子)(1497年-1543年11月29日)は北方ルネサンス様式で活動していたドイツの画家、版画家。16世紀における最も優れた肖像画家の1人として評価されている。

 

また、宗教美術や風刺、宗教改革のプロパガンダなども制作し、ブックデザインの歴史にも大きく貢献した。

 

彼の父ハンス・ホルバインは後期ゴシック派の優れた画家であるため、父ハンス・ホルバインと区別するために名前のあとに「The Younger(子)」と付けられる。

 

ホルバインはアウクスブルクに生まれたが、若い頃はバーゼルを中心に活動していた。最初は壁画や宗教画を描いたり、ステンドグラスの窓をデザインしたり、本を印刷したりしていた。

 

また、ときおり肖像画を描き、ロッテルダムの人文主義者デシデリウス・エラスムスの肖像画で国際的な名声を得た。

 

宗教改革の波がバーゼル来ると、ホルバインは改革派の活動を手助けしながらも、伝統的な宗教の顧客の仕事をし続けた。

 

彼の後期ゴシック様式は、イタリア、フランス、オランダの芸術的傾向やルネサンスの人文主義の影響を受けている。その結果、彼独自の美学を融合した。

 

ホルバインはエラスムスの推薦で1526年に仕事を求めてイギリスに渡った。人文主義者のトマス・モアに迎えられたホルバインは、すぐに高い評価を得た。

 

4年間バーゼルに戻り、1532年にはアン・ブーリンとトーマス・クロムウェルの庇護の下、イギリスで活動を再開。

 

1535年までには、イングランドのヘンリー8世の国王画家となった。肖像画や祝祭用の装飾品、宝石や皿などのデザインを制作した。王室や貴族の肖像画は、ヘンリーがイングランド国教会に対する覇権を主張していた時代の宮廷の様子を記録したものである。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Holbein_the_Younger、2020年8月28日アクセス


【作品解説】バンクシー「ルイーズ・ミッシェル号」

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ルイーズ・ミッシェル号 / The Louise Miche

ワルの人権活動家を支援するための難民救助船


概要


「ルイーズ・ミッシェル」はバンクシーの投資アート。19世紀フランスのフェミニストで無政府主義者として知られるルイーズ・ミッシェルにちなんで名付けられた難民救助船に対して資金提供を行ったプロジェクト。

 

船体には救命胴衣をつけ、ハート型の浮き輪を手にしている少女が描かれている(バンクシーが描いたかどうかは不明)。バンクシーの代表的な作品「風船と少女」からの派生作品といえる。

 

バンクシーは船を購入しただけで、自身は救助活動などに関与していないマルセル・デュシャンの「レディ・メイド」または「修正レディ・メイド」の文脈上で評価されるべき傑作の一つとみなされている。

 

ルイーズ・ミシェル号は、人権活動家で「英雄」船長と同時に犯罪者指定されている船長ピア・クレンプ率いるヨーロッパ各地の活動家たちの難民救助船。地中海を巡回して、北アフリカからヨーロッパに向かう移民の救助を目的としている。

 

2020年8月18日、スペインのブリアナ港から密航し、ドイツで正式に登録され、ドイツ旗のもと地中海やリビア沖でこれまで150人以上の難民を救助してきた。

 

救助期間中、乗員オーバーで操舵不能になり救援要請を出したものの、EU当局が意図的に無視されるトラブルに遭ったが、最終的には乗客のうち衰弱の激しい49人と1名の遺体がイタリアの沿岸警備隊の救助船「ランペドゥーザ」に移され、9月3日にシチリア島のパレルモ港に無事到着した。

 

人種平等の理念を推進させていると主張しながら、一方で強硬な反移民姿勢を取る政府の偽善を強調した様子を撮影したバンクシーのビデオは、インスタグラムに投稿され、「All Black Lives Matter」の言葉で締めくくられている。

 

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. . mvlouisemichel.org

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ルイーズ・ミシェル号で救助された人々
ルイーズ・ミシェル号で救助された人々

ワルの人権活動家船長ピア・クレンプ


ルイーズ・ミッシェルの投資プロジェクトは、2019年9月にロンドンのクロイドンでポップアップ・ショップを開き、店舗の売上金を「新しい移民救出ボート」を購入する意思をピア・クレンプに伝えたところまでさかのぼる。

 

「こんにちは、ピア、新聞であなたの話を見た。あなたはワルのように見える」とバンクシーはメッセージを送り、続けて「私はイギリスのアーティストで、移民の危機についていくつかの作品を作っている。新しい船か何かを買うのに使ってくれないかな?連絡ください。バンクシー」と送ったいう。

 

人権活動家のピア・クレンプは以前「イウヴェンタ号」という船を所有していたが、イタリア当局に押収されたため、バンクシーはその船の代替を申し出たいということだった。

 

 

ケンプは当初、バンクシーの申し出は冗談だと思っていたが、彼の関与が経済的支援に限定されることを理解して、援助の申し出を受け入れたと語った。

 

ルイーズ・ミシェル号の乗組員10名は多様な経歴を持つが、全員が反レイシスト、反ファシストの活動家であり、急進的な政治変革を提唱している。フェミニストのプロジェクトであるため、ルイーズ・ミシェルの名のもとに発言できるのは女性クルーのみとなっている。

ピア・クレンプ
ピア・クレンプ

難民や避難民を主題としてシリーズの1つ


難民や避難民の窮状を浮き彫りにしてきたバンクシーの芸術活動は、今回がはじめてではなく以前から行われている。

 

2003年に初めてベツレヘムを訪れてからバンクシーは、「パレスチナを世界最大の開放的な刑務所に変える」と言い、ヨルダン川西岸壁をステンシル作品で埋めるため何度も足を運んだ。

 

2015年には、シリア危機から逃れフランスのカレー近くに集まっていた移民たちの「カレー・ジャングル」に、スティーブ・ジョブズをモチーフにした「シリア移民の息子」の作品を残している。

 

 

2017年には、壁の隣に「Walled Off Hotel」をオープンし、廃墟となったベツレヘムの一角に、必要とされる生活と観光需要をもたらした。

《シリア移民の息子》
《シリア移民の息子》


【作品解説】バンクシー「黒い影の肖像と燃え落ちるアメリカ国旗」

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黒い影の肖像と燃え落ちるアメリカ国旗

「ブラック・ライブズ・マター」運動は白人の問題だ


バンクシー「黒い影の肖像と燃え落ちるアメリカ国旗」
バンクシー「黒い影の肖像と燃え落ちるアメリカ国旗」

概要


本作品は2020年6月6日に、バンクシーのインスタグラムのアカウントに投稿された作品。

 

2020年にアメリカで発生したジョージ・フロイド殺害事件と警察の残虐行為に触発され発生した抗議デモ「ブラック・ライブズ・マター」運動に対するオマージュ作品

 

黒い影の額装された肖像画の側にメモリアルキャンドルの火で燃え落ちようとしているアメリカ国旗が描かれている。

 

世界中の人々がミネアポリスでのジョージ・フロイド氏の死に抗議して行動を起こす中、抗議者たちが2分間の黙祷を行い、6月4日の木曜日にはイギリスのブリストルでも抗議者たちが2分間の黙祷を行った。

 

また、世界中のストリート・アーティストがフロイドに感動的な賛辞を送り、追悼するアートワークがインターネット上にアップロードで流行している時期に投稿されていた。

 

投稿された記事には以下のようなメッセージも添付されている。

 

「最初は黙ってこの問題について黒人の話を聞くべきだと思った。でも、なぜそんなことをする必要あるだろうか? それは彼らの問題ではなく、私の問題なんだ。有色人種は制度のせいで生活がうまくいっていない。白人の制度だ。

 

それは、壊れたパイプが下の階に住んでいる人たちのアパートの部屋に浸水しているようなものだ。欠陥のあるシステムが下の階の住人たちの生活を悲惨なものにしているが、それを直すのは下の階の住人の仕事ではない。

 

彼らには修復は無理だ、誰も上の階の部屋には入れてくれない。これは白人の問題だ。白人が解決しなければ、誰かが上の階に来て、ドアを蹴り込むことになるだろう」

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【作品解説】バンクシー「抗議者に引き倒されようとしているコルストン像」

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抗議者に引き倒されようとしているコルストン像

両者が納得いく新しい像


抗議者に引き倒されようとしているコルストン像
抗議者に引き倒されようとしているコルストン像

概要


本作品は2020年6月9日に、バンクシーのインスタグラムのアカウントに投稿されたドローイング作品。

 

2020年6月7日、イギリスのブリストルで「ブラック・ライブズ・マター」運動の過激化ともない、市の中心に立てられていた17世紀の奴隷所有者エドワード・コルストン像が撤去され、海に投げ落とされる事件が発生した。

 

投稿した作品とともに以下のようなコメントをインスタグラムに追加している。

 

「ブリストルの中心で空っぽになった台座をどうしようか? コルストン像を恋しく思う人と恋しくない人の両者が納得するアイデアを思いついた。像を海から引きあげて台座に戻したあと、首を縄で巻きつけ、引き倒そうとしている抗議者の実物大のブロンズ像を作るんだ。みんなハッピー。素晴らしい日を祝福しよう」

 

投稿から1時間も経たないうちに、バンクシーの投稿は50万以上の「いいね!」を獲得した。

エドワード・コルストンの会社は、1672年から1689年の間に西アフリカからカリブ海とアメリカ大陸に10万人以上の奴隷を送ったが、2万人以上の奴隷が不衛生な環境、栄養失調、赤痢のために移動中に亡くなった。

 

像の撤去にいたるまでの抗議活動「ブラック・ライブズ・マター」運動は、ジョージ・フロイドがミネアポリスの警察に殺害されたのきっかけに始まった。

 

バンクシーは6月6日にフロイドの死に関する作品をインスタグラムに投稿し、「有色人種の人々は白人が作った制度によってよくないことになっている」とコメントしている。



【作品解説】バンクシー「浴室で悪夢を引き起こすネズミ」

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浴室で悪夢を引き起こすネズミ

ロックダウン中に制作されたインスタレーション


『浴室で悪夢を引き起こすネズミ』
『浴室で悪夢を引き起こすネズミ』

概要


『浴室で悪夢を引き起こすネズミ』は、バンクシーが2020年4月15日にインスタグラム上で発表した作品。

 

新型コロナウイルスの影響で世界中でロックダウンが起きているさなかに発表したもので、ストリート・アートではなく、屋内のユニットバス内で制作されたインスタレーション作品となっている。

 

5枚の写真から構成されており、見た限りでは9匹のネズミがいる。

 

・ライトの紐にぶらさがっている1匹のネズミ

・鏡の額縁に乗っている1匹のネズミ

・タオル掛けにぶらさがり歯磨き粉のチューブを踏みつける1匹のネズミ

・トイレットペーパーのロール上を走っている1匹ネズミ

・ボトルラック上で消毒液で手を洗っている1匹のネズミ

・鏡を片側に押し倒そうとしている2匹のネズミ

・赤い口紅でロックダウンの日数を数えている鏡に映り込んだ1匹のネズミ

・便器のふた描かれた小便している1匹ネズミ

 

写真左下にはアーチ状のネズミの穴も描かれており、そこからトイレットペーパーで作られた道を通ってネズミが暴れはじめたように見える

 

また、投稿された記事には「私が家で仕事をしていると妻が嫌がる」というコメントが添付されている。

 

ネズミは、バンクシーの作品によく見られるモチーフの1つで、資本主義と浪費に対するバンクシーの批判の寓意と見なされている。

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. . My wife hates it when I work from home.

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日本で唯一現存しているバンクシーの作品は、東京・日の出に描かれたネズミをモチーフにした作品《東京2003》である。この作品に対し、当時の東京都知事の小池百合子は「東京への贈り物かも?」とコメントしている。

 



【作品解説】バンクシー「ゲーム・チェンジャー」

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ゲーム・チェンジャー / Game Changer

スーパーヒーローになった医療従事者


『ゲーム・チェンジャー』
『ゲーム・チェンジャー』

概要


『ゲーム・チェンジャー』は、バンクシーが2020年5月7日にインスタグラムに発表したドローイング作品。

 

新型コロナウイルスの影響でイギリス中の病院で感染者であふれかえり、医療従事者がウイルスと必死に戦っている時期に制作されたものである。バンクシーは最前線で戦う医療従事者を励ますため、本作品をイギリスのサウサンプトン総合病院に寄贈した。

 

赤十字のマーク(絵の中で唯一の色の要素)が入ったマスクとエプロンをつけ、マントを羽織ったイギリス国立健康機関(NHS)のナース姿のスーパーヒーローの人形と遊ぶダンガリー姿の少年の姿が描かれている。子どもの横のゴミ箱には、バットマンスパイダーマンの人形が時代遅れのスーパーヒーローとして投げ捨てられている。

 

タイトル『ゲーム・チェンジャー』が示すように、パンデミックに見舞われた新しい世界ではヒーロー像が変化していることを表している。

 

また、バンクシー病院で働く人たちにこのようなメモを残している。「お疲れ様でした。これで少しでも明るくなるといいな。白でも黒でも」。

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. . Game Changer

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本作品は、今年の秋にオークションに競売にかけられる予定で、それまでの間、サウサンプトン総合病院で展示されている。

 

サウサンプトン総合病院に展示されている『ゲーム・チェンジャー』
サウサンプトン総合病院に展示されている『ゲーム・チェンジャー』

■参考文献

https://news.artnet.com/art-world/banksy-hospital-donation-1854333、2020年9月7日アクセス

https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-52556544、2020年9月7日アクセス


【作品解説】バンクシー「もしマスクをしないと、得ることはできない」

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もしマスクをしないと、得ることはできない / If you don’t mask - you don’t get.

消毒清掃員を装ってロンドン地下鉄で落書き


概要


『もしマスクをしないと、得ることはできない』は、2020年7月14日にバンクシーがInstagramに投稿したビデオ作品。消毒清掃員を装った男がロンドン地下鉄車内で落書きしている映像である。男がバンクシー本人かどうかは不明。

 

『ロンドン・アンダーグラウンド/深い洗浄を受ける』というタイトルが付けられたビデオをバンクシーがパソコン上で編集・視聴しているシーンから始まる。

 

パソコンのモニタに映る男の身体は、白い防護服、青い手術用手袋、フルフェイスのガスマスクで覆われており、絵具入りのスプレー缶とキャンバスを手に持ち、地下鉄車内の乗り込む。車内で男はキャンバスを広げ、清掃員を装うような振る舞いで、電車の壁にステンシルを使ってネズミを描いたり、窓にスプレーを吹き付けていく。

 

天井からぶら下がっているように描かれたネズミたちは、サージカルマスクで作られたパラシュートにぶら下がり、手には消毒液を握りしめている。車内の連絡扉に青い絵具で大きく「BANKSY」と描いている。

 

都市のゴミや病気の媒介者の象徴として描かれるネズミは、バンクシーが頻繁に描くモチーフである。

 

地下鉄車内で作品を描いている男やパソコンを操作している男がバンクシー本人かどうか、また2人は同一人物かは不明である。パソコンを使っている男がまるで人形師のように実行している男を操っているように見える

 

電車のアナウンスが次の停車駅を告げるまで映像は続き、清掃員を装った男が車内からホームへ降りて去っていくが、降りたホーム先の壁には「I GET LOCKDOWN(ロックダウンされた)」という文字が描かれている。

 

また電車のドアが閉まると「BUT I GET UP AGAIN(でも、また起き上がってやるさ)」という文字が現れ、1997年にリリースされたチャンバワンバの「Tubthumping (I Get Knocked Down)」の音楽が流れる。これは、knocked downとlockdownのダジャレであり、チャンバワンバの歌詞を引用している。

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. . If you don’t mask - you don’t get.

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なお、本作品はInstagramにビデオを投稿する前に、ロンドン交通局は「厳格な落書き防止方針」に違反により消去している。当時、清掃員はアートワークがバンクシーによるものであるとは考えていなかったため、内部関係者は消去は実際には偶発的であると思われる。

 

そのため、消去したもののロンドン交通局は、ビデオ発表後にバンクシーの「人々にマスク着用を勧める姿勢」を高く評価し、「適切な場所でバンクシーの新しいメッセージを届ける機会を提供したい」と述べた。

 

新型コロナウイルスが猛威をふるっている2020年に制作されたもので、バンクシーが新型コロナウイルスについて投稿したのはこれが初めてではない。

 

同年4月、バンクシーは在宅インスタレーション作品の写真をInstagramに投稿した。ネズミの絵が彼のバスルームを走り回っている内容だった。

 

また同年5月、新型コロナウイルスと戦う医療従事者を称えるために、マスクとマントを着たナース人形で遊ぶ子供を描いた『ゲームチェンジャー』というタイトルのドローイング作品を発表している。




【作品解説】バンクシーの作品を一覧!ねずみ、風船の少女などバンクシーの作品完全解説

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バンクシーの作品一覧

ねずみ、風船の少女、シュレッダー作品などバンクシーがこれまで発表した作品について解説します。バンクシーの概要や略歴を知りたい方はこちらへ。

2020年作


『ルイーズ・ミッシェル号』
『ルイーズ・ミッシェル号』

「ルイーズ・ミッシェル」はバンクシーの投資アート。19世紀フランスのフェミニストで無政府主義者として知られるルイーズ・ミッシェルにちなんで名付けられた難民救助船に対して資金提供を行ったプロジェクト。続きを読む



『もしマスクをしないなら、得ることはできない』
『もしマスクをしないなら、得ることはできない』

『もしマスクをしないと、得ることはできない』は、2020年7月14日にバンクシーがInstagramに投稿したビデオ作品。消毒清掃員を装った男がロンドン地下鉄車内で落書きしている映像である。男がバンクシー本人かどうかは不明。続きを読む



『抗議者に引き倒されようとしているコルストン像』
『抗議者に引き倒されようとしているコルストン像』

本作品は2020年6月9日に、バンクシーのインスタグラムのアカウントに投稿されたドローイング作品。2020年6月7日、イギリスのブリストルで「ブラック・ライブズ・マター」運動の過激化ともない、市の中心に立てられていた17世紀の奴隷所有者エドワード・コルストン像が撤去され、海に投げ落とされる事件が発生した。(続きを読む



『黒い影の肖像と燃えるアメリカ国旗』
『黒い影の肖像と燃えるアメリカ国旗』

2020年にアメリカで発生したジョージ・フロイド殺害事件と警察の残虐行為に触発され発生した抗議デモ「ブラック・ライブズ・マター」運動に対するオマージュ作品。黒い影の額装された肖像画の側にメモリアルキャンドルの火で燃え落ちようとしているアメリカ国旗が描かれている。続きを読む



『ゲーム・チェンジャー』
『ゲーム・チェンジャー』

『ゲーム・チェンジャー』は、バンクシーが2020年5月7日にインスタグラムに発表したドローイング作品。新型コロナウイルスの影響でイギリス中の病院で感染者であふれかえり、医療従事者がウイルスと必死に戦っている時期に制作されたものである。続きを読む



『浴室で悪夢を引き起こすネズミ』
『浴室で悪夢を引き起こすネズミ』

『浴室で悪夢を引き起こすネズミ』は、バンクシーが2020年4月15日にインスタグラム上で発表した作品。新型コロナウイルスの影響で世界中でロックダウンが起きているさなかに発表したもので屋内のユニットバス内で制作された。続きを読む


代表作


《風船と少女》
《風船と少女》

『風船と少女』は2002年からバンクシーがはじめたステンシル・グラフィティ作品シリーズ。風で飛んでいく赤いハート型の風船に向かって手を伸ばしている少女を描いたものである。「風船少女」や「赤い風船に手を伸ばす少女」とよばれることもある。(続きを読む



《愛はゴミ箱の中に》
《愛はゴミ箱の中に》

《愛はごみ箱の中に》は2018年10月にサザビーズ・ロンドンのオークション中にバンクシーによって介入された芸術作品であり、介入芸術の代表作の1つ。2006年にバンクシーが制作した風船少女シリーズの1つ《風船と少女》の絵画が、オークションで104万2000ポンドで落札された直後に介入された作品である。(続きを読む



《東京2003》
《東京2003》

《東京 2003》は、2003年に東京都港区の東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の日の出駅付近にある東京都所有の防潮扉に描かれたバンクシーによるものと思われるストリート・アート。傘をさし、カバンを持ったネズミのステンシル作品。(続きを読む



《小さな植物と抗議する少女》
《小さな植物と抗議する少女》

《小さな植物と抗議する少女》(仮)は2019年4月末にロンドンのマーブル・アート付近の壁に描かれた作品。描かれた場所は環境保護団体「Extinction Rebellion(絶滅への反逆)」が4月15日から2週間におよぶ抗議を行っている場所である。(続きを読む



《分離国会》
《分離国会》

『分離国会』は2009年にバンクシーが制作した油彩作品『Question Time』をリワークした作品。作品のサイズは2.5メートル×4.2メートルで、バンクシーが描いたキャンバス作品としては最大級となる。英国下院で議論している政治家たちをチンパンジーに置き換えて描いている。(続きを読む



《クリスマスおめでとう》
《クリスマスおめでとう》

《クリスマスおめでとう》は2018年12月にバンクシーによって制作されたストリート・アート。イギリス、ポートタルボットにある鉄工所労働者のガレージの2つの壁に描かれた作品で、地元の製鉄所から噴出される粉じんに対する抗議を示唆した内容となっている。(続きを読む



《シリア移民の息子》
《シリア移民の息子》

《シリア移民の息子》は2015年に制作されたバンクシーの壁画作品。本作は留学移民としてアメリカに滞在していたシリア移民の息子のスティーブ・ジョブズを描いたものである。ジョブズは黒いタートルネックにジーパン、丸メガネのいつものジョブズ・ファッションで、手にはオリジナルのマッキントッシュ・コンピュータと荷物を持って立っている。(続きを読む



《愛は夜空に》
《愛は夜空に》

《愛は空中に》は2003年にバンクシーによって制作されたステンシル作品。パレスチナのヨルダン川西岸地区南部の県ベツレヘムのアッシュ・サロン・ストリート沿いの建物に描かれている。(続きを読む



『白黒英国旗柄の防刃ベスト』
『白黒英国旗柄の防刃ベスト』

『白黒英国旗柄の防弾チョッキ』はバンクシーがデザインした白黒カラーのユニオンジャック柄防刃チョッキ。2019年6月28日、イギリスで開催されたロック・フェスティバル「グラストンベリー」で、49年の歴史で初めて黒人のトリを務めたストームジーがステージで着用して話題になった。(続きを読む



『Nola傘少女』
『Nola傘少女』

《Nola》は2008年にバンクシーによって制作されたストリートアート作品。「傘少女」「雨少女」とも呼ばれることもある。アメリカ、ルイジアナ州ニューオーリンズのマリニー地区のストリート上に描かれた。(続きを読む



『モバイル・ラバーズ』
『モバイル・ラバーズ』

《モバイル・ラバーズ》は2014年4月にバンクシーがブリストルで制作したストリート・アート。男女二人が今にもキスをしようとしているが、二人の視線は手に持つ携帯電話に向かっているように見える。(続きを読む



《Think Tank》
《Think Tank》

『Think Tank』は、2003年5月に発売されたイギリスのロック・バンドBlurの7枚目のアルバム。カバーアートにバンクシーのステンシル作品が使われている。 バンクシーは通常は商業作品を制作しないと主張していたが、のちにカバー作品の制作を養護した。(続きを読む



《Well Hung Lover》
《Well Hung Lover》

《Well Hung Lover》は2006年にバンクシーによって制作されたストリート・アート。イギリス、ブリストルのフロッグモア・ストリートに描かれた。全裸の男が窓に片手でぶらさがっており、窓にはスーツを着た男性が裸の男性に気づかずよそ見をしている。男性の隣には下着姿の女性がいる。(続きを読む



《ディズマランド 》
《ディズマランド 》

『ディズマランド』は2015年に企画・実行されたバンクシーによるプロジェクトアート。イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで開催。(続きを読む



《ピンク色の仮面をつけたゴリラ 》
《ピンク色の仮面をつけたゴリラ 》

《ピンク色の仮面をつけたゴリラ》は2001年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。初期作品のなかでも最も有名な作品の1つである。彼の故郷であるブリストルにあるソーシャルクラブで描かれた、特に政治的なメッセージ性のないシンプルなグラフィティ作品である。(続きを読む



《パラシュート・ラット》
《パラシュート・ラット》

《パラシュート・ラット》は、パラシュートで降下する飛行用グラスをかけた紫色のネズミの絵である。バンクシー作品は大雑把にいえば「反資本主義」と「反戦主義」を主題とし、それらを風刺的であり挑発的な方法で表現するのが特徴である。(続きを読む



《奴隷労働》
《奴隷労働》

《奴隷労働》は2012年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。122 cm ×152 cm。2012年5月、ロンドンのウッドグリーンにある1ポンドショップ「パウンドランド」脇の壁に描かれたものである。(続きを読む



《爆弾愛》
《爆弾愛》

『爆弾愛』は2003年にバンクシーによって制作されたプリント作品。戦争と愛という二項対立を探求したバンクシー初期の象徴的な作品。ポニーテールの無垢な少女が爆弾(軍用機用の爆弾)をクマのぬいぐるみのように抱いている絵である。(続きを読む



《子猫》
《子猫》

《子猫》は2015年初頭ころにバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。2014年夏、7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の受け廃墟化したガザ地区の家の壁に描かれている。(続きを読む



《アート・バフ》
《アート・バフ》

《アート・バフ》は2014年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。イギリスのフォークストンにある壁に描かれており、バンクシーによれば「フォークストーン・トリエンナーレの一部のようなもの」だという。(続きを読む



《パルプ・フィクション》
《パルプ・フィクション》

『パルプ・フィクション』は2002年から2007年にまでバンクシーによって制作されたグラフィティ作品シリーズ。2002年から2007年までロンドンのオールド・ストリート駅近郊の壁にステンシル形式で存在していた。(続きを読む



《マイルド・マイルド・ウェスト》
《マイルド・マイルド・ウェスト》

『マイルド・マイルド・ウェスト』は、1999年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。テディ・ベアが3人の機動隊隊員に向けて火炎瓶を投げている絵である。(続きを読む



個展「軽ろうじて合法」
個展「軽ろうじて合法」

「かろうじて合法」は2006年にカリフォルニア州ロサンゼルスにある産業倉庫で開催されたバンクシーの個展。2006年9月16日の週末に無料ショーが開催された。37歳のインド象「Tai」が展示物の1つとして設置され、象の身体に周囲の部屋の壁紙にあわせて絵柄が描かれた。(続きを読む



【作品解説】バンクシー「自転車のタイヤでフラフープをする少女」

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自転車のタイヤでフラフープをする少女 / Girl playing hula hoop with bicycle wheels

フラフープで社会的距離を維持しよう


『自転車の車輪でフラフープをする少女』
『自転車の車輪でフラフープをする少女』

概要


『自転車のタイヤでフラフープをする少女』は、2020年10月15日、イギリスのノッティンガム市のイルケストン通りの建物の壁に描かれた作品。バンクシーの作品であるかどうかの確証は取れていない。

 

ノッティンガム市は自転車工場の町で有名で、またイギリスで非常に高いCOVID-19の感染率を抱える都市として知られている。ノッティンガム市には巨大なサイクリングコミュニティが存在している。ノッティンガム市と「社会的距離」を少女を通して表現した作品だと思われている。なお、作品の前には車輪が欠けた壊れた自転車が設置されている。

 

多くの人は、以前あった自転車メーカーの「ラリー」の本社を参照しているのではないかと言及している。

 

壁の所有者「Avi Hair and Beauty Salon」は、朝出勤するまで作品の存在に気づかず、また当初はバンクシーの作品だと思わなかったという。

 

作品出現後、一時的に保護カバーが取り付けられたが、直後に保護カバーは破壊され、作品は傷つけられた。

 

【関連】マルセル・デュシャン「自転車の車輪」



【作品解説】バンクシー「SHOW ME THE MONET」

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SHOW ME THE MONET

モネの牧歌的な風景を不法廃棄スポットに書き換え


『SHOW ME THE MONET』,2005年
『SHOW ME THE MONET』,2005年

概要


『SHOW ME THE MONET』は、2005年にバンクシーによって制作された油彩作品。バンクシーの挑発的作品の代表作として評価されており、現代における社会批評家としてのバンクシーの地位を確固たるものにした

 

また、バンクシー作品の中でも極めて希少な完全に手描きの作品である。

 

本作品でバンクシーは、西欧のイコン的な美術作品であるクロード・モネの日本風の橋を画面の中心に描いた『睡蓮の池』(1899年)を独自に再構成している。

 

「モネ」と「マネー」のダジャレによる皮肉が込められたタイトルの本作は、環境問題や現代の資本主義的の先鋭的な問題などが織り込まれており、鑑賞者に複雑な対話をもたらす。

 

印象派の傑作であるクロード・モネのロマンチックな世界観を破壊するように、池の中にオレンジ色の交通コーンやショッピングカートが描かれており、牧歌的な自然風景を現代の不法投棄場に書き換えている。

 

ダジャレの使用や巨匠絵画の引用や破壊という行為は、マルセル・デュシャンから影響を受けていると思われる。特にデュシャン作品の中でも悪名高いレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』を引用した1919年の作品『LHOOQ』を参照にしている。

 

本作品は2005年にロンドンで開催されたバンクシーの展覧会「Crude Oils:gallery of re-mixed masterpieces, vandalism and vermin」で展示されたあと、スティーブ・ラザリデスがバンクシーから直接購入した。2020年10月22日にロンドンで開催されたサザビーズのオークションに出品された。

「Crude Oils:gallery of re-mixed masterpieces, vandalism and vermin」の展示風景。背後に一瞬、本作品が映る。

クロード・モネ『睡蓮の池』,1899年
クロード・モネ『睡蓮の池』,1899年


【美術解説】世界で最も高額な絵画ランキング【2020年最新版】

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高額美術作品の歴史


《モナ・リザ》が最も高額と推定されている


有名な美術作品、特に1803年以前の巨匠たちのマスターピース作品は一般的に美術館が保持している。美術館が所有している作品は一般市場に売り出されることがほとんどないため、それら作品については価格を付けることができない。

 

正確な価格はわからないがギネス世界記録では、レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナリザ》が美術作品において最高の保険価値が付けられているという。

 

パリのルーブル美術館で常設展示されている《モナ・リザ》は、1962年に12月14日に1億ドルと査定された。インフレーションを考慮して2019年の価格で査定すると最低でも約8億3000万ドルになると推定されている。

レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》1503-1506年。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《モナリザ》1503-1506年。Wikipediaより。

以下に記載したランキングリストで、一番古い販売日は1987年3月に一般市場で売買され、安田火災海上(現・損保ジャパン日本興亜)が落札した、フィンセント・ヴァン・ゴッホの作品《ひまわり》だが、この作品は当時、2,475万ポンド(2019年価格だと約6840万ポンド)で落札された。

 

この売上価格、安田火災海上が落札した《ひまわり》は、それ以前のアートの売買記録の3倍以上の価格に達し、アート市場に新しい時代をもたらすきっかけとなった。

 

この作品以前の美術作品の最高価格は、1985年4月18日にロンドンのクリスティーズで、J・ポール・ゲッティ美術館が810万ポンド(2019年価格だと約1890万ポンド)落札したアンドレア・マンテーニャの《マギの礼拝》だった。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》(F457)(1889年)東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館所蔵。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり》(F457)(1889年)東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館所蔵。
アンドレア・マンテーニャ《マギの礼拝》1462年。Wikipediaより。
アンドレア・マンテーニャ《マギの礼拝》1462年。Wikipediaより。

ドル・インフレーションを考慮する場合、1987年以前において最も高額な作品となるのは、1967年2月にワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アートが、リヒテンシュタイン公家から購入したレオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》である。これは当時500万ドルで落札されたが、2019年現在の価格に換算すると3,800万ドルである。

レオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474年 - 1478年頃。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチの《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474年 - 1478年頃。Wikipediaより。

しかし、ファン・ゴッホの『ひまわり』の落札は、それまでアート市場を支配していた古典美術の巨匠と異なり「近代美術」の作品として初めて記録を更新したことがエポックメイキングだった。

 

例外的な売上記録は現代グラフィティ・アーティストのデビッド・チョーの作品で、設立間もないFacebookの本社にグラフィックアートをペインティングしたときに株式で支払いを受けた。当時、彼が所有していたFacebookの株はほとんど価値がなかったが、2012年のFacebookの株式公開後、彼の作品は株式換算で2億ドルの価値と査定された。

ゴッホ、ピカソ、ウォーホルが代表的な高額作家


フィンセント・ファン・ゴッホパブロ・ピカソアンディ・ウォーホルは高額ランキングに位置づける代表的な近代美術家である。

 

ピカソとウォーホルは生存中に売れっ子作家となり非常に裕福だったが、ファン・ゴッホは生前は印象派の女流画家のアンナ・ボックに400フラン(現在の価格で2000ドル)で売った作品《赤い葡萄畑》1枚しか売れず無名だった。

 

2019年までのインフレーションに合わせて価格調整を行った場合、以下のリストに記載されているゴッホの9枚の作品を合計すると約9億ドル以上になるといわれている。

最も高額な女性作家ジョージア・オキーフ


最も高額な女性画家はジョージア・オキーフである。2014年11月20日にサザビーズのオークションで、アメリカの水晶橋美術館が彼女の1932年の作品《Jimson Weed/White Flower No. 1》を4440万ドル(2019年価格だと4700万ドル)で落札した。

非欧米圏の高額作家


高額美術作品89点のうち、非欧米圏の美術家の作品は3点だけで、それらは中国の美術家で斉白石(1864-1957年)と王蒙(1308-1385年)の作品ある。特に注目に値するのは斉白石の作品《12の風景画》で、2017年に1億4080万ドルで売買され、世界ランキング21位に位置づけられている。

 

なお、リストには載っていないが、中国系フランス画家の趙無極の油彩作品《Juin-Octobre 1985》は2018年に6500万ドルで売買された。

斉白石の作品《12の風景画》。Yahoo!ニュースより。
斉白石の作品《12の風景画》。Yahoo!ニュースより。

なお、個人間の美術品の取引には公的に報告されるわけではないので、このリストは不完全であることに注意したい。

 

たとえば、2019年6月25日、アメリカの投資家J.トミウソン・ヒルは、カラヴァッジョの《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》(1607年)を、フランスのトゥールーズのオークションで競売にかけられる2日前に直接購入している。

 

個人売買の際には秘密保持契約が締結されていたため、実際の売買価格は公表されていない。なお、ルーヴル美術館が1億ユーロ(約1億2,000万ドル)で購入するつもりだったが、絵は1億1,000万ドルから1億7,000万ドルと見積もられ販売を断られている。

カラヴァッジョ《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》,1607年
カラヴァッジョ《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》,1607年

2019年時点の高額絵画ランキング


2019年現在、最も高額で取引された絵画は、2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズで競売がかけられたレオナルド・ダ・ヴィンチ《サルバトール・ムンディ》の4億5000万ドルである。

 

続いて、2015年11月にデヴィッド・ゲフィンからケネス・C・グリフィンに個人間取引されたウィレム・デ・クーニング《インターチェンジ》の3億ドル。ケネス・C・グリフィンは《ナンバー17A》も2億ドルでデヴィッド・ゲフィンから購入している。

 

また、2015年2月にルドルフ・シュテへリンからカタール王室(匿名とされている)に個人間で取引されたポール・ゴーギャンの《いつ結婚するの?》も3億ドルとみなされている。

 

カタール王室は2011年4月にギリシャの海運王、故ジョージ・エンブリコスからポール・セザンヌの《カード遊びをする人々》を2億7200万ドルで購入している。

1位:サルバトール・ムンディ

調整価格 4億6030万ドル
元の価格 4億5030万ドル
作品名 サルバトール・ムンディ
作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ

制作年

1500年

売買日

2017年11月15日
売り手 ドミトリー・リボロフレフ
買い手 アブダビ観光局(複数あり)
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

《サルバトール・ムンディ(救世主)》は1490年から1519年ごろにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。世界の救世主としてイエス・キリストの肖像が描かれたもので「男性版モナリザ」と呼ばれることがある。ルネサンス風の青いローブを着用したキリストが右手を上げ指をクロスさせ、左手に水晶玉を持ち祝祷を行っている。(続きを読む

2位:インターチェンジ

調整価格 3億1700万ドル
元の価格 3億ドル
作品名 インターチェンジ
作者 ウィレム・デ・クーニング
制作年 1955年
売買日 2015年9月
売り手 デヴィッド・ゲフィン
買い手 ケネス・グリフィン
オークション プライベート・セール

《インターチェンジ》は1955年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。2015年にデヴィッド・ゲフィン財団が、アメリカのヘッジファンドマネージャーであるケネス・グリフィンへ個人間取引で3億ドルで売却したことで、2015年当時、最も高額な油彩作品として記録を更新した。現在は作品はシカゴ美術館に貸出し展示が行われている。(続きを読む

3位:カード遊びをする人々

調整価格 2億7800万ドル
元の価格 2億5000万ドル
作品名 カード遊びをする人々
作者 ポール・セザンヌ
制作年 1892〜93年
売買日 2011年4月
売り手 ジョルジュ・エンビリコス
買い手 カタール王室
オークション プライベート・セール

《カード遊びをする人々》は1894年から1895年にかけてポール・セザンヌによって制作された油彩作品。「最後の時代」と呼ばれる1890年代初頭のスザンヌ晩年のシリーズ内の作品。2011年にはカタール王室が《カード遊びをする人々》の1点(最後の作品)を2億5000万ドルから3億ドルで購入した。(続きを読む

4位:いつ結婚するの?

調整価格 2億2220万ドル
元の価格 2億1000万ドル
作品名 いつ結婚するの?
作者 ポール・ゴーギャン
制作年 1892年
売買日 2014年9月
売り手 ルドルフ・シュテヘリン
買い手 カタール王室
オークション プライベート・セール

《いつ結婚するの》は1892年のポール・ゴーギャンによって制作された油彩作品。約半世紀の間スイスのバーゼル市立美術館へ実業家でコレクターだったルドルフ・シュテヘリンが貸し出していたが、2015年2月にカタール王室のシェイカ・アル・マヤッサに約3億ドルで売却。世界で最も高額に取引された美術の1つである。(続きを読む

5位:Number 17A

調整価格 2億1100万ドル
元の価格 2億ドル
作品名 Number 17A
作者 ジャクソン・ポロック
制作年 1948年
売買日 2015年9月
売り手 デヴィッド・ゲフィン
買い手 ケネス・グリフィン
オークション プライベート・セール

《Number 17A》は1948年にジャクソン・ポロックによって制作された作品。絵具缶から絵具を直接滴らせるドリッピ・ペインティングと呼ばれる方法で描かれており、本作はポロックのドリッピングシリーズのなかでも初期の作品にあたる。(続きを読む

6位:水蛇Ⅱ

調整価格 1億9770万ドル
元の価格 1億8380ドル
作品名 水蛇Ⅱ
作者 グスタフ・クリムト
制作年 1904-1907年
売買日 2013年
売り手 イブ・ブヴィエ
買い手 ドミトリー・リボロフレフ
オークション プライベート・セール

《水蛇Ⅱ》は1904年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。80 x 145 cm。ロシアの実業家ドミトリー・リボロフレフが、2013年にスイスの画商イブ・ブヴィエから1億8380万ドルで購入した作品で、現在個人蔵扱いとなっている。(続きを読む

7位:ナンバー6(すみれ、緑、赤)

調整価格 1億9700万ドル
元の価格 1億8600万ドル
作品名 ナンバー6(すみれ、緑、赤)
作者 マーク・ロスコ
制作年 1951年
売買日 2014年8月
売り手 クリスチャン・ムエックス
買い手 ドミトリー・リボロフレフ
オークション プライベート・セール(イブ・ブヴィエ経由)

《No.6(すみれ、緑、赤)》は1951年にマーク・ロスコによって制作された油彩作品。抽象表現主義作品のカラーフィールド・ペインティングとみなされている。《No.6》はこの時期のロスコのほかの作品と同じように、全体的に不均衡でかすみがかった薄暗い色味で描かれている。(続きを読む

8位:マーティン・スールマンズとオーペン・コピットのペンダント肖像画

調整価格 1億9000万ドル
元の価格 1億8000万ドル
作品名 マーティン・スールマンズとオーペン・コピットのペンダント肖像画
作者 レンブラント・ファン・レイン
制作年 1634年
売買日 2015年9月
売り手 エリック・デ・ロスチャイルド
買い手 アムステルダム国立美術館とルーブル美術館
オークション プライベート・セール

9位:アルジェの女

調整価格 1億8960万ドル
元の価格 1億7900万ドル
作品名 アルジェの女
作者 パブロ・ピカソ
制作年 1955年
売買日 2015年5月11日
売り手 匿名
買い手 ハマド・ビン・ジャーシム・ビン・ジャブル・アール=サーニー
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

《アルジェの女》は1954年から55年の冬にかけてパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。1954年から1963年の間にピカソは古典巨匠のオマージュとなる連作をいくつか制作している。2015年5月11日にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札された。(続きを読む

10位:赤いヌード

調整価格 1億8010万ドル
元の価格 1億7000万ドル
作品名 赤いヌード
作者 アマデオ・モディリアーニ
制作年 1917-1918年
売買日 2015年11月9日
売り手 ジャンニ・マッティオリ
買い手 劉益謙
オークション クリスティーズ・ニューヨーク

《赤いヌード》は1917年にアメディオ・モディリアーニよって制作された油彩作品。モディリアーニの代表作で最もよく複製され、また展示されている作品の1つ。2015年11月9日のニューヨーク・クリスティーズで約1億7000万ドルで落札され、これまでのモディリアーニ作品では最高価格を記録した。購入者は中国の実業家である刘益谦(Liu Yiqian)。(続きを読む

11位:ナンバー5(1948)

調整価格 1億7400万ドル
元の価格 1億4000万ドル
作品名

ナンバー5(1948)

作者 ジャクソン・ポロック
制作年 1948年
売買日 2006年11月2日
売り手 デビッド・グリフィン
買い手 デイビット・マルティネス
オークション プライベート・セール(サザビーズ)

12位:女性 3

調整価格 1億7400万ドル
元の価格 1億3750万ドル
作品名

女性 3

作者 ウィレム・デ・クーニング
制作年 1951-1953年
売買日 2006年11月18日
売り手 デビッド・グリフィン
買い手 スティーブン・A・コーヘン
オークション プライベート・セール(ガゴシアン)

《女性 3》は1953年にウィレム・デ・クーニングによって制作された油彩作品。デ・クーニングの1951年から1953年に制作された女性を主題としたシリーズ6作品の1つ。2006年11月に、デビッド・グリフィンがスティーブン・A・コーヘンに1億3750万ドルで売り払った。(続きを読む

13位:マスターピース

調整価格 1億6870万ドル
元の価格 1億6500万ドル
作品名

マスターピース

作者 ロイ・リキテンスタイン
制作年 1962年
売買日 2017年1月
売り手 アグネス・ガンド
買い手 スティーブン・A・コーヘン
オークション プライベート・セール

《マスターピース》は1962年にロイ・リキテンスタインによって制作された作品。ベンデイ・ドット技法やフキダシが使われている。その後のリヒテンシュタインの成功を予言した物語的内容で知られている。2017年にアメリカのコレクターでMoMA PS1董事長であるアグネス・ガンドが、1億6500万ドルで著名コレクターのスティーブン・A・コーエンに個人間取引で売却。(続きを読む

14位:アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

調整価格 1億6780万ドル
元の価格 1億3500万ドル
作品名

アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

作者 グスタフ・クリムト
制作年 1907年
売買日 2006年6月18日
売り手 マリア・アルトマン
買い手 ロナルド・ローダー
オークション プライベート・セール(クリスティーズ)

《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》は1907年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。金が多用されている。クリムトによるブロッホ=バウアーの全身像は二作存在するが、これは最初の作品で、クリムトの「黄金時代」後期における最も完成度の高い作品である。2006年6月に156億円でエスティ・ローダー社社長(当時)のロナルド・ローダーに売却され、現在はニューヨークのノイエ・ギャラリーが所蔵している。(続きを読む

15位:夢

調整価格 1億6670万ドル
元の価格 1億5500万ドル
作品名

作者 パブロ・ピカソ
制作年 1932年
売買日 2013年3月26日
売り手 スティーブンA.ウィン
買い手 スティーブン・A・コーヘン
オークション プライベート・セール

「夢」は1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。130×97cm。当時のピカソは50歳。描かれている女性は22歳の愛人マリー・テレーズ・ウォルター。1932年1月24日の午後のひとときを描いたものである。シュルレアリスムと初期のフォーヴィスムが融合した作風。(続きを読む


■参考文献

List of most expensive paintings - Wikipedia、2019年6月11日アクセス


【作品解説】 カラヴァッジオ「ホロフェルネスの首を斬るユディト」

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ホロフェルネスの首を斬るユディト / Judith Beheading Holofernes

カラヴァッジオ版ユディト


《ホロフェルネスの首を斬るユディト》1598年から1599年。Wikipediaより。
《ホロフェルネスの首を斬るユディト》1598年から1599年。Wikipediaより。

概要


作者 カラヴァッジオ
制作年 1598年から1599年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 145 cm × 195 cm
コレクション ローマ国立古代美術館

《ホロフェルネスの首を斬るユディト》は1598年から1599年にカラヴァッジオによって制作された油彩作品。未亡人ユディトがシリアの将軍ホロフェルネスを誘惑し、呼び寄せられた彼のテント内で首をはねる場面を描写したものである。本作品は1950年に再発見されたもので、現在はローマ国立古代美術館が所蔵している。

2014年に発見されたセカンドバージョン


《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》1606年から1607年。Wikipediaより。
《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》1606年から1607年。Wikipediaより。
作者 カラヴァッジオ
制作年 1606年から1607年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 144 cm × 173.5 cm
コレクション 個人蔵

《ホロフェルネスの首を斬るユディト Ⅱ》は1606年から1607年にカラヴァッジオによって制作された油彩作品。2014年にフランスのトゥールーズの民家の屋根裏でカラヴァッジオの《ホロフェルネスの首を斬るユディト》のセカンドバージョンが発見された。

 

その後、5年に及ぶ長い真贋の検証が行われる一方で、フランス政府は作品の海外流出を防ごうとしていた。

 

2019年2月、ルーブル美術館は1億ユーロ(約1億1200万ドル)で本作品を購入する意向があることを告知したが、2019年6月27日にトゥールーズで開催される民間オークションで競売にかけられることが発表された。

 

2019年6月25日、アメリカの投資家J.トミウソン・ヒルがこの作品、フランスのトゥールーズのオークションで競売にかけられる2日前に直接購入している。

 

個人売買の際には秘密保持契約が締結されていたため、実際の売買価格は公表されていない。なお、ルーヴル美術館が1億ユーロ(約1億2,000万ドル)で購入するつもりだったが、絵は1億1,000万ドルから1億7,000万ドルと見積もられ販売を断られている。



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