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【美術解説】フューチュラ2000「抽象ストリートアートの先駆者」

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フューチュラ2000 / Futura 2000

抽象ストリートアートの先駆者


概要


生年月日 1955年11月17日生まれ
国籍 アメリカ
ムーブメント ストリート・アートグラフィティ、抽象絵画
公式サイト

http://www.futura2000.com/

Google Arts&Culture

関連人物 キース・ヘリングジャン・ミシェル・バスキア

フューチュラ2000(1955年11月17日生まれ)アメリカのグラフィティ・アーティスト。本名はレオナルド・ヒルトン・マクグレイ。単にフューチュラと呼ぶときもある。

 

1970年代初頭にニューヨークの地下鉄で違法に絵を描きはじめ、ALIなど他のアーティストとともに活動。

 

フューチュラの作品の最大の特徴は、グラフィティに対する抽象的なアプローチである。1980年代、当時グラフィティアーティストの多くがレタリング(文字)を中心に描いていたのに対し、フューチュラは抽象的なストリートアートを描き始めた。抽象ストリートアートの先駆者であり、その後、人気を博した。

 

また、彼のエアゾール・ストロークは、エアブラシで描かれたような細い線が特徴で、同世代のアーティストとは異なるものとして評価されている。

 

1980年代初頭には、キース・ヘリング、ジャン・ミシェル・バスキア、リチャード・ハンブルトン、ケニー・シャーフらとともにファン・ギャラリーでパティ・アスターと展示を行った。

 

フューチュラは、イギリスのパンクロックバンド、ザ・クラッシュの1981年ヨーロッパツアーのステージで背景画を描いた。

 

1985年には、ボンディ(フランス)で開催されたグラフィティ&アーバンアート運動の第一回会議に、スピーディ・グラフィート、ミス・ティック、SP38、イプシロン・ポイント、ブレク・ル・ラット、ジェフ・アエロール、ヌクレ・アート、キム・プリス、バンリュー・バンリューらと参加。

 

彼はおもににグラフィティ・アーティストとして知られているが、実際のところ仕事の多くは、イラストレーターやアルバム・カバーのグラフィック・デザイナーとして制作した作品である。The Clashの『This Is Radio Clash』7インチシングルのスリーブを制作し、彼らのアルバム『コンバット・ロック』(1982年)のスリーブノートと歌詞シートを手書きしている。

The Clash『This Is Radio Clash』
The Clash『This Is Radio Clash』

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Futura_(graffiti_artist)、2020年11月7日アクセス

https://g.co/arts/4FXUp9iUXfaXrcYZ9、2020年11月7日アクセス




【作品解説】ロバート・E・リー記念碑の改ざん「最も影響力のあるアメリカのプロテスト・アート」

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ロバート・E・リー記念碑の改ざん / defaced monument of Robert E. Lee

最も影響力のあるアメリカのプロテスト・アート



作者 BLM運動家、ダスティン・クライン
制作年 2020年6月 
ムーブメント プロテスト・アートストリート・アート、BLM運動
場所 ヴァージニア州リッチモンド、ロバート・E・リー像

 

『ロバート・E・リー記念碑』は、2020年6月、ミネアポリスで発生したBLM運動が全米に拡大していく中で起こったプロテスト・アート。バージニア州リッチモンド中心地に設置されているリー将軍像が奴隷制の象徴として落書きなどの改ざんを受けた芸術

 

2020年10月、改ざんされた記念碑は、第二次世界大戦以来、最も影響力のあるアメリカのプロテスト・アートの1つと評価された。

 

1890年以来、高さ61フィートの巨大な馬術像がバージニア州リッチモンドにそびえ立っている。リーは馬の上に14フィート(4.3 m)の高さで立っており、像全体は石の土台の上に60フィート(18 m)の高さである。

 

これは、最初の南軍南部連合の旧首都に建立された記念碑で、リッチモンド市の歴史的なモニュメントアベニューに残っている唯一の南軍の彫像である。

 

BLM運動が発生するまでは、たまに来る観光客以外にほとんど人が集まることはない寂れた場所だった。

 

しかし、ジョージ・フロイドに対する警察の残虐行為や人種差別に対する抗議が全国に広がり、多くの都市で連邦記念碑が取り壊されていく中で、この像にも注目が集まり始めた。多くの人々がここにやってきて像を引き倒そうとしたが、巨大過ぎて倒せないため、代わりに落書きされ、その外観は劇的に芸術化した。

 

改ざんされて以来、子どもや家族が写真を撮り、周囲に屋台、有権者登録テント、ポータブルバスケットボールフープ、貸出図書館が出現し、音楽やダンスをする人々の姿も見られるようになった。

ある夜、地元のバンドがレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの曲をカバーした。R&BスターのTrey Songzは、6月16日にキャンドルビジルを開催した。翌朝、土曜日、新婚夫婦が白いウェディングドレスを着て像にポーズをとった。カップルが拳を上げると、群衆が集まり、歓声を上げた。

 

ペンキ缶が、他の訪問者が使えるようにいつも残されており、毎日新しい落書きが追加されていった。夜にはダスティン・クラインというアーティストが、警察に殺された黒人市民や歴史を変えた偉大な黒人男性や女性の写真やビデオを投影した。

 

ジョージ・フロイド、ブレオナ・テイラー、フレデリック・ダグラス、ハリエット・タブマン、ビリー・ホリデーなどの人物は、歴史を通して偉大な黒人思想家を思い出す。

 

かつてこの像を敬遠していた人々は、今ではBLM運動の象徴となっているものを巡礼し、新たに多様な市民の集いの場となっている。

 今日、多くの人がリーを人種差別とアメリカの奴隷制の歴史の象徴と見なしている。彼の像はまた、人種、神話、国民和解をめぐる米国の勘定の変化を反映している。

 

南軍の将軍と兵士を記念する彫像は、近年、アメリカ全土の議論の中心となっており、彫像反対派は、奴隷制の支持者を誤って称えているものだと主張している。一方、多くの歴史家を含む彫像の保存を擁護する人々は、過去の過ちついての重要な教訓を教えることができるので、彫像を破壊すべきではないと主張している。

 

人種的正義に対する全国的な抗議の中で、6月に将軍の像を撤去する計画をバージニア州の民主党のラルフ・ノーサム知事が発表。

 

リー将軍像を撤去して美術館に保管する方針を表明し、10月に銅像を撤去する権限を認めた判決を称賛し、「こうした像は、文字通りすべての間違った理由で1世紀前に建設された。本来、公共広場ではなく美術館が所蔵すべきものである」と述べた。

 

2020年10月の判決では、州には記念碑の設置を維持する義務がないと判断さしたが、即時の撤去は上訴中で中止された。



【作品解説】シュルレアリストの心をとらえたルネ・マグリットの最も有名な5つの作品

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ルネ・マグリットは20世紀のシュルレアリスム運動で人気を博した芸術家の一人として知られている。1920年代、ベルギー人の画家は無意識や夢の世界を表現するため若いアーティストの集団に参加した。マグリットは彼独自の芸術スタイル確立し、批評家たちはそれを「マジック・リアリズム」と評した。長いキャリアを通じて、マグリットは現実とファンタジーの境界を曖昧にし、鑑賞者たちが認知していたことに疑問を抱かせた。

《イメージの裏切り》,1929年


《イメージの裏切り》,1929年
《イメージの裏切り》,1929年

マグリットが30歳の時に描いた《イメージの裏切り》は、イメージと言葉を組み合わせた絵画シリーズの一部である。この作品では「Ceci n'est pas une pipe」(これはパイプではない)というフランス語のフレーズとパイプの絵が描かれている。マグリットは、この絵がパイプではなく、「パイプの絵」であることを強調したかった。『イメージの裏切り』は、言語と視覚表現のパラドックスに挑戦したシュルレアリスム運動を代表する作品のひとつである。(作品解説の続きを読む

《恋人たち》,1928年


《恋人たち》,1928年
《恋人たち》,1928年

抱擁している男女が、頭に巻かれた布を通してキスを交わす様子を描いた油絵である。その神秘的な光景は、なぜ恋人たちが本当の意味でのコミュニケーションや触れ合いができないのか、という問いかけを観客に投げかけている。

 

特定の意味を推測するのは難しいが、この絵の色相は特定のテーマを暗示している。背景の青は水を連想させる色で、生命を象徴している。女性は赤い服を身に着けているが、これは愛や情熱を表しているのかもしれない。

 

男性は黒いスーツを着ているが、これは死を象徴する色である。ベールは、おそらく汚染されている純度または純度を表すもので、白っぽいまたは灰色がかった色である。

 

この作品を「人間の根本的な孤独の肖像」として解釈し、完全な近親者でさえ理解できない姿を描いたと主張する人もいる。

 

バンクシーはおそらくマグリットから影響を受けている可能性がある、この作品よく似た作品《モバイル・ラバーズ》を制作している。(作品解説の続きを読む

《偽りの鏡》,1929年


《偽りの鏡》,1929年
《偽りの鏡》,1929年

人間の目は、多くのシュルレアリスムの芸術家たちを魅了した主題であり、彼らは、人間の目が自己と外界との間の架け橋であると信じていた。

 

1929年に描かれた《偽りの鏡》は、キャンバス全体に一個の目が描かれている。それはリアルなディテールと質感で鑑賞者を見つめ返す。

 

眼球の瞳孔は雲に覆われた空に浮かんでおり、虹彩が円形の窓であるかのように見える。

 

1933年から1936年までこの作品を所有していたシュルレアリスムの写真家マン・レイは、この作品を「それ自身が見られているのと同じくらい多くのものを見ている」絵画であると批評した。

《ゴルコンダ》,1958年


《ゴルコンダ》,1958年
《ゴルコンダ》,1958年

《ゴルコンダ》では、黒っぽいオーバーコートに山高帽を被った、ほぼ同じ服を着た男たちが郊外の家屋の風景なかで、無数に風船のように宙に浮かんでいるシュールな絵である。

 

マグリット自身が似たような環境に住み、似たような服装をしていたことから、この作品は自画像ではないかと思われがちである。

 

マグリット自身のコメントによれば「目立ちたいと思わないから」という理由で、山高帽を描いているという。

 

浮遊した平均的な男たちは、遠くから見ると、山高帽の大雨の雫が落下しているように見え、「浮遊」と「落下」という矛盾した要素を同時に表現し、また「浮遊」と「落下」はマグリットの憂鬱とした感情を表現しているように見える。(作品解説の続きを読む

《人の子》,1964年


《人の子》,1964年
《人の子》,1964年

おそらくマグリットの最も有名な作品は、1964年に描かれた《人の子》だろう。これはマグリットは自画像を描いている。

 

この油絵には、オーバーコートと山高帽に身を包んだマグリット自身が描かれており、海辺を背景にした低い壁際に立っている。彼の顔は青リンゴに隠れているが、よく見ると、リンゴの実とその葉の縁からチラリと彼の目が覗いているのが見える。

 

この絵はシリーズの一部であり、同じ年に制作された他の二つの作品と一緒に描かれることが多い。一つ目はマグリットの《山高帽の男》で、同じような人物の顔がリンゴではなく鳥に隠れているのが特徴である。もう一つは、花で顔を隠された女性の姿を描いた《世界大戦》である。

 

《人の子》について、マグリットは「少なくとも顔は部分的には隠れている」と言っていいる。まあ、だから、見た目の顔、リンゴがあって、見えているけど隠れている、それは常に起こっていることなのである。

 

私たちが見ているものはすべて別のものを隠していて、私たちはいつも、見ているものによって隠されているものを見たいと思っている。(作品解説の続きを読む



【作品解説】ルネ・マグリット「恋人たち」

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恋人たち / The Lovers

神秘のベールに包まれた恋人たち


ルネ・マグリット《恋人たち》(1928年)
ルネ・マグリット《恋人たち》(1928年)

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1928年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 54 cm x 73 cm
コレクション ニューヨーク近代美術館

《恋人たち》は、1928年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。男女が口づけを交わしているが、二人の頭は布で覆われている不思議な絵である。

 

「恋人たち」という主題は、西洋美術史では伝統的なものであり、この手垢のついた表現をマグリットは顔を隠し、不穏な感じにすることによって、見る者を幸せそうであるというより、むしろ不安にさせ、動揺させようとした。

 

布で覆われた顔のモチーフは「恋人たち」だけでなく、マグリット作品において頻繁に現れる。この理由としては2つある。

 

1つは、フランスの探偵小説『ファントマ』に出てくる正体不明の素顔の分からない主人公である。マグリットはこの作品の大ファンだったことでよく知られ、繰り返しファントマの絵を描いている。

 

もう1つはマグリットが14歳のときに入水自殺した母の影響である。母の遺体が川から引きあげられたさい、濡れたナイトガウンがまくり上がって顔を覆っていた光景に大変なショックを受けたという。以後、顔を隠すマグリット作品に大きな影響を与えているとのことだが、マグリット自身は母親の影響については否定している。

色相から推測する


特定の意味を推測するのは難しいが、この絵の色相は特定のテーマを暗示している。背景の青は水を連想させる色で、生命を象徴している。女性は赤い服を身に着けていますが、これは愛や情熱を表しているのかもしれない。

 

男性は黒いスーツを着ているが、これは死を象徴する色ですある。ベールは、おそらく汚染されている純度または純度を表すもので、白っぽいまたは灰色がかった色である。

 

この作品を「人間の根本的な孤独の肖像」として解釈し、完全な近親者でさえ理解できない姿を描いたと主張する人もいる。


【作品解説】沈黙=死 プロジェクト「エイズの真実を告発したプロテスト・アート」

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沈黙=死 プロジェクト / Silence=Death Project

エイズの真実を告発したプロテスト・アート



作者

アヴラム・フィンケルシュタイン

ブライアン・ハワード

オリバー・ジョンストン

チャールズ・クロフ

クリス・リオーネ

ホルヘ・ソカラス

制作年 1987年
ムーブメント プロテスト・アート、エイズ告発運動
場所 ニューヨーク

『沈黙=死』は1987年に制作されたプロテスト・アート。アヴラム・フィンケルシュタイン、ブライアン・ハワード、オリバー・ジョンストン、チャールズ・クロフ、クリス・リオーネ、ホルヘ・ソカラスの6人による共同作品である。1980年初頭にはメディアが無視していたエイズの危機を告発した。

形成


アメリカでエイズが最初に発見されたのは1981年。しかし、エイズ流行初期において、政府や主流メディアはこの危機を無視していた。

 

レーガン大統領が1985年にようやく「エイズ」という言葉を口にしたときには、すでに12,000人のアメリカ人が亡くなっていた。

 

同年、ニューヨークでは、アブラム・フィンケルシュタイン、ブライアン・ハワード、オリバー・ジョンストン、チャールズ・クレロフ、クリス・リオーネ、ホルヘ・ソカラスの6人の男性が、公の場では語られないエイズ関連の被害を個人間で共有するための会合を始めた。エイズは麻薬とホモセクシュアルにのめりこんだ芸術家の世界で蔓延していた。

 

エイズ被害に対する意識を広めるために何か具体的なものを作りたいと思い立った彼らは、すぐにポスターを作ることにた。それは、(あるとしても)ほとんど文字がないものであるべきだと彼らは決めた。

 

「マニフェストは役に立たない」と フィンケルシュタインと話している。

 

「文章はほとんど役に立たない。平易な言葉で作られたサウンドバイト(ニュースなどの放送用に抜粋された言葉や映像)、キャッチフレーズが必要である。ポスターはそのメディウムとして最も適している。ポスターは完全にアメリカ人と相性がよく、力を持っている。ポスターの前で立ち止まったり、振り返ったりしたことがあるなら、その力が働いていたということである」。

 

そして、「沈黙=死」というスローガンの上に、黒地にホットピンクの三角形(ナチスがゲイ男性のレッテルを貼るために使用していたシンボルの逆バージョン)が描かれたものが、1987年に完成した。「沈黙=死」。それは、エイズの脅威という現実に対して声を上げなければ文明の門は永久に閉ざされるということである。

 

6人の友人たちは、イーストビレッジ、ウエストビレッジ、タイムズスクエア、チェルシー、アッパーウエストサイドなど、クィアな人々とメディアの両方に届けるため、ウィートペースト(水と少し多めの小麦粉を使って安価に作れるポスター貼りに適した接着剤)のポスターをニューヨーク中に貼り付けた。ニューヨーク中はH.I.V./エイズと関連の活動の最も永続的な象徴となった。

 

同年4月15日、新たに結成された活動家グループ「AIDS Coalition to Unleash Power (ACT UP)」のメンバーは、このポスターのコピーを持って市の郵便局を襲撃し、彼らの大義に対するこの看板の継続的な中心性を確固たるものにした。

 

ACT UPの提唱により、ピンクの三角形は今でもエイズ活動の代名詞となっている。2017年、このイメージはレスリー・ローマン・ミュージアム・オブ・ゲイ&レズビアン・アートの窓に再設置された。


■参考文献

・https://www.nytimes.com/2020/10/15/t-magazine/most-influential-protest-art.html、2020年11月11日アクセス

https://en.wikipedia.org/wiki/Silence%3DDeath_Project、2020年11月11日アクセス


【作品解説】奈良美智「Hot House Doll,In the White Room III」

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Hot House Doll,In the White Room III

初期奈良作品では希少な青いドレスの少女


奈良美智《Hot House Doll,In the White Room III》,1995年
奈良美智《Hot House Doll,In the White Room III》,1995年

香港フィリップス・オークションが奈良美智の初期の希少作品《Hot House Doll,In the White Room III》を11月29日に開催されるオークションに出品する予定。

 

2019年10月のサザビーズで記録的な2500万ドルの落札があった奈良美智の作品は、パンデミック以後もコレクターを魅了し続けている。奈良の作品は過去4年間一貫してプラットフォーム上での需要を高めており、Artsyで彼の作品への問い合わせ数は、2018年から2019年の間に63%急増している。

 

今回出品される《Hot House Doll,In the White Room III》と題された1995年の作品は、奈良がドイツに滞在していたころに制作した初期作品で、奈良の特徴的な子どもを主題としている。

 

この年、奈良はラム・アンド・ポーギャラリーで初個展を開催し、また、東京のSCAIザ・バスハウスでも個展を開催して、国際的な注目を集めはじめた。また、最初の作品集もこの年に出版している。

 

フィリップス香港の20世紀現代美術部門の責任者であるイザウレ・ド・ヴィエル・カステルは、「この作品には、不機嫌でいたずら好きな少女の全身像と、作家の特徴である大きく開いたアーモンド型の目が描かれており、幼少期の無邪気さの中にある暗い面への奈良の執着が強調されている」と話している。

 

また、「今回の作品に描かれている青いベビードールのドレスは、1990年代に散発的に描かれたモチーフであり、彼の作品の中では珍しいものです」と話している。2011年に出版された『奈良美智 全作品集1984-2010』にも掲載されている。

 

この作品は過去12年間、個人のコレクションとして保管されていたもので、フィリップスによれば、500万ドルから2500万ドル(5億〜25億)の間で落札を予想している。この見積もり価格で落札されれば、オークションでの奈良絵画の高額作品のトップ5に入る。

 

この作品は、中国に拠点を置くポリ・オークション・ハウスと共同で開催されるフィリップス香港コンテンポラリー・イブニング・セールの最上位ロットとされている。詳細はフィリップスのページへ。

『奈良美智 全作品集1984-2010』より
『奈良美智 全作品集1984-2010』より
写真は2019年12月に開催されたサザビーズ・オークションの様子。2500万ドルで落札された。
写真は2019年12月に開催されたサザビーズ・オークションの様子。2500万ドルで落札された。


【美術解説】ザネル・ムホリ「LGBTIを主題とする黒人Xジェンダー写真家」

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ザネル・ムホリ / Zanele Muholi

LGBTIを主題とする黒人Xジェンダー写真家


Zodwa I (Amsterdam), 2015
Zodwa I (Amsterdam), 2015

概要


生年月日 1972年7月19日生まれ
国籍 南アフリカ共和国
表現媒体 芸術写真

ザネル・ムホリ(1972年7月19日生まれ)は南アフリカのアーティスト。また、写真、ビデオ、インスタレーションを使った視覚活動家。

 

ムホリの作品は、人種、ジェンダー、セクシュアリティに焦点を当て、黒人レズビアン、ゲイ、トランスジェンダー、インターセックスの人々を対象とした作品を発表している。

 

アーティストではなく活動家と自称するムホリは、南アフリカのコミュニティ全体のLGBTIのドキュメンタリーを記録している。より具体的には黒人レズビアンの闘争を記録したものと評価されている。

 

なお、ムホリはXジェンダーであり、自身の代名詞に「they」や「the」を使っており、それについて「人間としてのアイデンティティー」と説明している。

 

ムホリは、2012年にドイツで開催された世界的に有名な近現代美術展「ドクメンタ」で、レズビアンやトランスジェンダーの参加者のポートレートシリーズ『Faces and Phases』を発表し、美術界から世界的に注目されるようになった。

 

ムホリは2015年にドイツ・ベルセ写真賞の最終候補者リストに選ばれた。2016年には国際写真センターからインフィニティ賞、2016年にはシュヴァリエ・ド・オルドレ・デ・アーツ・エ・デ・レトル賞、2018年にはロイヤルフォトグラフィックソサエティの名誉フェローシップを受賞している。

 

略歴


若齢期


ザネル・ムホリはクワズールー・ナタール州ダーバンのウムラージで生まれ育った。父親はアッシュウェル・タンジ・バンダ・ムホリ、母親はベスター・ムホリ。8人の子供の末っ子だった。

 

ムホリの父親は生後すぐに亡くなり、母親は南アフリカのアパルトヘイト時代に白人家族のために働くために子供を残して働かざるを得なかった家事労働者だった。ムホリは家族ぐるみで育てられた。

 

ムホリは2003年にヨハネスブルグのニュータウンにあるマーケット・フォト・ワークショップで上級写真コースを修了し、2004年にはヨハネスブルグ・アートギャラリーで初の個展を開催した。

 

南アフリカは2006年に同性結婚を合法化したが、クィアの女性に対する差別と暴力は依然として蔓延していた。そこで、ムホリは、2006年に『Faces and Phases』プロジェクト(2006年~11年)を始め、南アフリカのレズビアン・コミュニティの200点以上のポートレートを撮影する。

 

「肖像画は、視覚的な声明であると同時にアーカイブでもある」と彼らは言い、「目に見えないことの多いコミュニティをマーキングし、マッピングし、後世に残す」と述べている。

 

この『Faces and Phases』がのちに、2012年にドイツで開催された世界的に有名な近現代美術展「ドクメンタ」で発表され、アートワールドから注目を集めるようになった。

 

2009年、トロントのライアソン大学でドキュメンタリー・メディアの美術修士号を取得。卒論では、アパルトヘイト後の南アフリカにおけるブラック・レズビアンのアイデンティティと政治の視覚的歴史をマッピングしたものだった。

Zanele Muholi – Faces and Phases, 2007–2013
Zanele Muholi – Faces and Phases, 2007–2013

芸術家ではなく視覚活動家


ムホリは自身に対してアーティストではなく視覚的活動家と表現しており、ムホリは黒人レズビアン、ゲイ、トランスジェンダー、インターセックスの人々の知名度を高めることに専念している。

 

ムホリは、「矯正レイプ」「暴行」「HIV/AIDS」の実態を世間の注目を集めるために、LGBTQIコミュニティに対するヘイトクライムの逸話を調査し、文書化し告発した。祖国南アフリカでは同性愛者に対する憎悪犯罪が多発していることにも言及しており、特にレイプすることで同性愛が治療される「矯正レイプ」の被害者をとらえている。

 

2013年10月28日には、ドイツのブレーメン芸術大学の名誉教授に任命された。

 

2014年にはケープタウンで開催されたDesign Indaba Conferenceに出席した。

 

2012年4月、ケープタウンのムホリのアパートに泥棒が押し入り、長年の写真記録を収めた20台以上のハードディスクが盗まれたが、これはムホリの作品が直面する問題をめぐる論争と感性の継続を示唆しているという。

黒人レズビアン闘争を可視化した写真作品


ムホリの写真は、W.E.B.デュボアがアフリカ系アメリカ人の典型的な表現を覆した方法と比較されることが多い。ムホリとデュボアはともに写真のアーカイブを作成し、彼らが選んだ被写体に対する支配的で以前から認知を打ち砕くことに取り組んできた。

 

ムホリは、写真作品を共同作業と捉え、撮影する個人を被写体というよりも「参加者」と呼んでいる。ムホリは、撮影した人たちの力を高めることを目的として、イベントや展示会で「参加者」を招待して、話をしてもらっている。

 

ムホリは芸術的なアプローチを通じて、アフリカのクィアコミュニティの旅路を後世の記録として記録していきたいと考えている。

 

ムホリは、LGBTQIコミュニティを個人として、そして全体として描くことで団結を促し、ネガティブにならず、また蔓延している暴力に目を向けずに、その瞬間を捉えようとしている。このように、ムホリの作品は、南アフリカのコミュニティ全体のLGBTIのドキュメンタリーを記録している。より具体的には黒人レズビアンの闘争を記録したものと評価されている

 

1994年以前は、黒人レズビアンの声は、正式なクィア運動から排除されていた。LGBTIのアフリカ人をよりポジティブに可視化するムホリの努力は、今日の南アフリカで蔓延している同性愛嫌悪を動機とした暴力、特に黒人レズビアンのための闘争と繋がっている。

 

セクシャライズされたポップカルチャーの中に黒人女性の身体が頻繁に登場する一方で、黒人レズビアンは(家父長制と異性規範のレンズを通して)望ましくないものとして見られている。アフリカでは、このような同性愛者に対する否定的な見方が、殺人やレイプなどの暴力や家族からの断絶につながっている。

 

ムホリの『ズキスワ』(2010)では、アフリカのレズビアン女性が鑑賞者とアイコンタクトをとり、自信と自己認識と決意を持った揺るぎないまなざしを見せている。この例は、南アフリカだけでなく、クィアコミュニティの意識、受容、そしてポジティブ性を奨励している。

Zanele Muholi Bester VIII, Philadelphia 2018 © Stevenson Gallery
Zanele Muholi Bester VIII, Philadelphia 2018 © Stevenson Gallery
Zanele Muholi Bester I, Mayotte 2015 © Stevenson Gallery
Zanele Muholi Bester I, Mayotte 2015 © Stevenson Gallery

重要ポイント

  • 南アフリカにおける黒人レズビアン闘争やLGBTIを視覚的に記録している
  • アーティストではなく視覚活動家と自称
  • 2012年の「ドクメンタ」から注目を集めはじめた

■参考文献

https://www.tate.org.uk/art/artists/zanele-muholi-18872/yes-but-why-zanele-muholi、2020年11月12日アクセス

https://en.wikipedia.org/wiki/Zanele_Muholi、2020年11月12日アクセス

https://publicdelivery.org/zanele-muholi-faces-phases/、2020年11月12日アクセス

https://www.artsy.net/artist/zanele-muholi、2020年11月12日アクセス



【美術解説】奈良美智「ロックと純粋性を兼ね備えた少女」

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奈良美智 / Yoshitomo Nara

ロックと純粋性を兼ね備えた少女


《春少女》2012年
《春少女》2012年
生年月日 1959年12月5日
国籍 日本
居住地 那須
職業 画家・彫刻家
ムーブメント ネオ・ポップ

概要


奈良美智(1959年12月5日、青森県生まれ)は、日本の画家、彫刻家、ドローイング作家。1990年代に発生した日本のネオ・ポップムーブメントの時期にアートワールドで注目されるようになる。

 

無垢で目を大きく見開いた子どもや犬がモチーフになるのが特徴で、トレードマークともなっている。これらは退屈と欲求不満のときの子ども時代の感覚をすくい上げ、また同時に退屈と不満から自然と発生する激しい独立心を取り戻そうようとする試みであると言われる。

 

奈良は武蔵野美術大学を1年で中退して、1981年に愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻に入学し、1985年に卒業、1987年に同大学大学院修士課程を修了。

 

現在は日本の栃木在住で日々制作をしているが、作品発表は日本のみならず世界中で展開している。1984年から40以上の個展を開催しており、作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)をはじめ、世界中の美術館に所蔵されている。

 

2010年から翌年にかけて、ニューヨークのアジア・ソサエティー美術館で行われた大規模な個展「Nobody’s Fool」も好評を得、同館での過去最多の入場者数を記録。2010年に奈良は、米文化に貢献した外国出身者をたたえるニューヨーク国際センター賞を受賞。

表現特徴


奈良の絵画やドローイングは、一見すると絵本を彷彿させるシンプルでかわいらしい造形であるものの、実際には奈良の愛するパンク・ロック文化に影響された部分が見られる。

 

ロックやパンクにおける人間の潜在的な純粋性の怒りと幼児の純粋性が並列されれた状態が奈良作品の特徴でもある。そのため作品制作も音楽を流しながら行う。

 

少年ナイフ、bloodthirsty butchers、THE STAR CLUB、マシュー・スウィート、R.E.M.のCDジャケットを手がけており、ニルヴァーナのカート・コバーンを模したと思われるキャラクターやthee michelle gun elephantのCDジャケットをパロディー化した作品を描いたりしている。

 

手作りの小屋の内側を中学、高校時代に聴いていたレコードジャケットで埋めた作品もある。現在はラジオで「奈良美智の親父ロック部」という音楽番組を配信している。

 また、奈良は戦後の近代的なサブカルチャーの代表であるパンク・ロックに影響を受けてはいるものの、ルネッサンス絵画や戦前の近代美術、古典文学、浮世絵など少し古めの伝統文化から影響を受けている。

 

おそらく、戦後から現代にいたる日本社会や教育に対する反発心があり、それが「子ども」と「古典(祖父世代)」という一世代をまたいだ要素を融合させているのかもしれない。

 

絵画や彫刻に加えて、奈良は多くのドローイング作品を制作するのが特徴で、それらはいつもポストカードの裏側や封筒、紙切れなどに描かれ、英語やドイツ語や日本のテキストが添えられる。何度も描き直したり、時間をかける絵画と異なり、ドローイングは即興的に描く。 

重要ポイント

  • 日本のネオ・ポップムーブメントの作家の1人として位置づけられている
  • かわいらしい造形だが相反するような純粋な怒りを内在している
  • 前近代的な美術や伝統文化からも影響を受けている

略歴


幼少期


奈良美智は1959年、青森県弘前市の小さな城下町に生まれた。7歳と9歳年上の2人の兄弟を持つ3人の末っ子として生まれた。

 

日本のほかの家族と同様に、奈良一家も戦後の急速な社会経済の変化の中で、伝統的な役割を再定義し、近代的核家族が確立しはじめた社会環境に適応しなければならない状況にあった。

 

近代核家族への変化、奈良一家において両親の共働きは影響を与えた。孤独の感情を生み、奈良は自身の空想世界や漫画、ペットとともに一人で自分の時間を過ごすことが多くなった。丘の上にポツンと立っていた実家の周囲に隣家が急速に増えはじめたときに最も鮮明に孤独感を感じたという。

 

1960年代の弘前は、戦後の教育改革の一環として1949年に地元の大学が設立され、りんご農家の事業化が進み、近代的な町としてゆっくりと発展していたが、それでも舗装されていない道を馬や犬が行き交う半田園地帯の町としてのんびりとした生活が続いていた。

 

また、中世にまで遡る神道の鬼や神の物語が色濃く残る岩木山の影に抱かれた土地も、この地の静けさを物語っている。創始者や教義を持たない神道が信者の生活形態に深く溶け込んでいた。神道は土着の宗教として記述されることがあるが、宗教よりむしろ生活形態であり、結婚式、出産、また七五三などあらゆる重要な通過儀礼の儀式を形作っている。

 

特に岩木山は子供のための神聖な力を持つことで知られており、寺社には子供や胎児の守護神である地蔵菩薩が祀られていることが多い。現代の地蔵は子供のような姿の地蔵が描かれることが多く、参拝者は赤い前掛けやよだれかけ、帽子などをまとい、子供たちの守護、幸運、水子供養を行っている。 

後間もない母と奈良の写真。弘前 1959年
後間もない母と奈良の写真。弘前 1959年
奈良の母。1955年
奈良の母。1955年

地元の神社は弘前のコミュニティの重要な要素であり、特に奈良にとっては重要なものであった。彼の祖父は神道の僧侶であり、彼の父も一時は同じ道を歩んでいたが、後に公務員の仕事に就くために神職を断念した。

 

こうした地緣関係のため、奈良の一家は比較的に裕福で、地域の人々からも尊敬されていたが、父親は仕事や友人との付き合いでほとんど不在で、奈良が生まれたときには、幼い息子に時間を割くことを嫌がっていた。

 

対照的に、母親は貧しい農家の出身だった。奈良が生まれてからも、副収入が必要になると仕事をしていた。家にいても家事をしていて、奈良は黙々と家事をしている母の姿を見ていた。

 

奈良は少なくとも5歳の頃から、父と祖父が働いていた神社の裏山で多くの時間を過ごしていた。鬱蒼と茂った森の中を足で駆け抜ける彼の姿は、大人の目が行き届かない幼少期を物語っている。

 

彼は非常に自由で、結果としてそれが彼に孤独をもたらしたが、彼が不幸になることはほとんどなかった。早熟で用心深い彼は、自分のゲームを発明し、隣家のと仲間を見つけた

 

6歳の時、友達と一緒に線路の行き止まりを見ようと電車に飛び乗ったが、無謀なことはほとんどなく、トラブルに巻き込まれることも少なかった。

 

奈良美智と猫のチャコ。1966年
奈良美智と猫のチャコ。1966年

比較的自由な環境は、音楽への愛と同様に日常生活の束縛から逃れることを可能にした。8歳の時、自分のラジオを手にし、そのラジオは大切な仲間となり、自分はもっと大きな世界に属していることを理解する助けとなった。

 

ある夜、半分眠っていた状態のとき、家庭用ラジオから流れてくる予期せぬ音楽に目を覚ました。彼には理解できない言語だったが、奈良は三沢の米軍基地の近くにあるミュージックステーションで、知らず知らずのうちに洋楽を聴いていた。以後、深夜になると必死に曲を聴き、アメリカのロックやカントリーミュージックのスリルに浸っていた。

 

奈良が初めて音楽を購入したのは8歳の時で、「寺内タケシとバニーズ」のファーストシングルだった。弘前から遠い最新の音楽を入手するのが困難だったことを考えれば、彼はわずか8歳の時に、その偉業を成し遂げた。弘前は東京から700キロも離れていた最寄りの青森から約1時間の移動時間が必要だった。

 

また、1979年まで、東京と青森は高速道路と細道で結ばれていただけで、最新のファッションや流行の到来にはタイムラグがあった。このことは、北は日本のコスモポリタンな中心地の東京とは対照的に、僻地で素朴な土地であるという認識を強めた。

 

奈良にとって、新しくリリースされたレコードや入手困難なレコードを見つけることは、そのような地理的境界線を越えた興奮の一部であった。寺内からジャニス・ジョプリン、ビートルズ、ジョニー・キャッシュまで、現代音楽を好きなだけ聴いていた。

 

地元の大学のカフェに足繁く通い、新しい音楽を聴き、音楽カタログを何時間もかけて読み漁り、購入したアルバムのジャケットを描いたり、好きな曲に合わせてドローイングしていたという。

 

アルバムのスリーブの視覚的なエネルギー、色、グラフィック、海外のバンドのエキゾチシズムは、大きなインスピレーションを与えた

奈良のレコードコレクション。
奈良のレコードコレクション。

青年期


1970年代初頭、奈良にとって音楽は、新世代の精神を再定義する人々と繋がるものとなり、ますます重要なものとなっていった。

 

1960年代後半から1970年代前半にかけて、ベトナム戦争に反対する大規模な抗議行動や公民権を求める集会とともにアメリカでカウンター・カルチャーが発生した。この文化はロック音楽、ジャズ、ビート詩、左翼のヒーローたちの反抗的で若々しいエネルギーで作られた時代であるとみなされている。

 

太平洋の向こう側でも学生の過激主義は激しかった。1960年代半ばの日本では、1970年の日米安保条約の更新を控え、新左翼団体が大学を拠点として活動した。これらのグループは、学生、野党、労働組合、市民社会組織から構成されていた。

 

1960年代後半以降、大学のキャンパスでは大規模な反体制デモが頻発し、学生と警察の間で怒りに満ちた衝突が起きた。

美術大学


1978年に青森県立弘前高等学校卒業後、状況。1979年に武蔵野美術大学に入学。しかし、一年の終わり頃に、パスポートを取り、ヨーロッパに三ヶ月ほど放浪したため学費がなくなり81年に退学。その後、学費の安い公立学校を受験し、愛知県立芸術大学美術学部に入学。この時代、愛知の河合塾の予備校教師のアルバイトで、お金を貯めてはヨーロッパを旅する。1985年に卒業、87年に同大学院を卒業。

 

翌88年から93年までよりドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミーに留学。ドイツを選んだ理由は、美大の選択のときと同じくお金がかからないため。当初はイギリスのほうが自分にあっていたため、イギリスに行きたかったがお金がかかるのでドイツにしたという。結果的に、ドイツでよかったという。

 

欲にまかせてイギリスに行っていたら、お金はなくなるし、楽しいだけで、何も身につけずに帰国していたかもしれないと奈良は話している。奈良の「本当は楽しい場所をあえて避ける」という禁欲的な姿勢は、現在の那須の在住まで続く。

 

ドイツでは、A.R.ペンク(A. R. Penck)に師事し1993年マイスターシュウラー取得。その後ケルン近郊のアトリエを拠点に作品を制作。2000年の帰国までケルンで過ごす。

 

2000年の帰国まで続くケルン時代は多作な時期で、代表的な奈良のイメージとして知られる挑戦的な眼差しの子どもの絵もこの頃頻繁に描かれた。また、この間、日本やヨーロッパでの個展の機会が増え、しだいにその活動に注目が集まる。

日本へ帰国


2000年、12年間におよぶドイツでの生活に終止符を打ち、日本へ帰国。

 

翌年、新作の絵画やドローイング、立体作品による国内初の本格的な個展「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」が横浜美術館を皮切りに国内5ヵ所を巡回した。いずれの会場でも驚異的な入場者数を記録し、美術界の話題をさらった。

 

特に作家の出身地である弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫で行われた同展は、延べ4600名にのぼるボランティアにより運営されたもので、市民の主体的な関わりと参画の規模の大きさにおいて、展覧会の歴史上画期的なものとなった。

 

2003年、クリーブランド現代美術館など米国内5ヵ所で1997年以後の作品による個展「Nothing Ever Happens」が開催される。この頃に出会った大阪のクリエイティブ・ユニットgrafとの協働により、廃材を用いた小屋を中心に展示空間を構成するインスタレーション的な性格の強い作品が増え始める。

 

2006年に青森県弘前市の吉井酒造煉瓦倉庫で開催された「A to Z」展は、そのシリーズの集大成といえるもので、大小約30軒の小屋の内外に奈良自身や彼と交遊のあるアーティストたちの作品を点在させた会場は、さながら一つの街並みのような様相を呈した。

最近の活動


奈良は2017年の春にニューヨークのペースギャラリーで個展を開催。2013年のニューヨークでの初個展以来の個展だった。「考える人」と名付けられた作品は、以前よりも内省で瞑想的な作風への移行を表している。

 

この作風の移行に関して奈良は「過去に自分が作りたかったイメージがあり、それに取り組み、完成せただけ。今僕は時間をかけてゆっくりと作業をし、これらすべてのレイヤーを構築するベストな方法を探している。料理する際どうすれば最も美味しくなるか探るように、自分もまたどうすれば最も良い芸術になるか探っている」と話している。

 

2017年7月には、豊田市美術館で回顧展を開催。

 

2018年には香港のペースギャラリーで個展「Ceramic Works and…」を開催。この個展では奈良のアイコンとしてお馴染みの少女のキャラクターを用いた12体のセラミックスカルプチャー(陶製彫刻)を中心とした作品が展示された。奈良は2007年に信楽町の陶芸の森に滞在してから本格的に陶芸に取り組み始めている。

 

2019年9月から奈良は「旅する山子」シリーズに取り組んでいる。これは支持体に市販のキャンバスや木枠を使わず、身辺にある身近な素材を使って制作した作品である。

 

「旅する山子」はギャラリーや美術館ではなく誰でも鑑賞できる屋外に設置されることが多く、また都市中心のストリート・アートと異なり、海辺、駅、畑、カフェなど田舎の公共空間に設置される事が多い。

2018年香港ペースギャラリーでの個展「Ceramic Works and…」
2018年香港ペースギャラリーでの個展「Ceramic Works and…」
「旅する山子」シリーズ,2019年
「旅する山子」シリーズ,2019年

個展


2018年 奈良美智個展「Ceramic Works and…」(香港・ペースギャラリー)

2018年 奈良美智回顧展「ドローイング作品:1988−2018」(東京・カイカイキキ)

2017年 奈良美智回顧展「for better or worse」(愛知・豊田市美術館)

2017年 奈良美智個展「Thinker」(ニューヨーク・ペースギャラリー)

2016年 奈良美智個展「新作」(ロンドン・ステファン・フリードマンギャラリー)

2015年 奈良美智個展「Shallow Puddles」(東京・Blum & Poe)

2015年 奈良美智個展「タイトル不明」(ベルリン・Johnen Galerie)

2015年 奈良美智個展「Life is Only One」(香港・アジア・ソサエティ香港)

2015年 奈良美智個展「stars」(香港・ペースギャラリー香港)

2014年 奈良美智個展「Greetings from a Place in My Heart」(ロンドン・デアリー・アート・センター)

2014年 奈良美智個展「個展-Blum & Poe」(ロサンゼルス・Blum & Poe)

2013年 奈良美智個展「個展-Pace Gallery」(ニューヨーク・ペースギャラリー)

2012年 奈良美智個展「The Little Little House in The Blue Woods」(青森・十和田市現代美術館)

2012年 奈良美智個展「君や 僕に ちょっと似ている」(横浜・横浜美術館)

2011年 奈良美智個展「PRINT WORKS」(東京・六本木ヒルズ アート&デザインストア)

2010年 奈良美智個展「New Editions」(ニューヨーク・ペース・プリンツ)

2010年 奈良美智個展「Nobody's Fool」(ニューヨーク・アジア・ソサエティ・ミュージアム)

2010年 奈良美智個展「陶芸作品」(東京・小山登美夫ギャラリー)

1989年 奈良美智個展「Irrlichttheater」(シュトゥットガルト)

1988年 奈良美智個展「Goethe-Institut」(デュッセルドルフ)

1988年 奈良美智個展「Innocent Being」(名古屋 / ギャラリーユマニテ名古屋・東京 / ギャラリーユマニテ東京)

1985年 奈良美智個展「近作」(名古屋 / Gallery Space to Space)

1984年 奈良美智個展「It's a Little Wonderful House」(名古屋 /ラブコレクションギャラリー)

1984年 奈良美智個展「Wonder Room」(名古屋 / Gallery Space to Space)

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【作品解説】奈良美智「Knife Behind Back」

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Knife Behind Back

パステル風の伝統的絵画に移行した時期の絵画


奈良美智《Knife Behind Back》,2000
奈良美智《Knife Behind Back》,2000

《Knife Behind Back》は2000年に制作された奈良美智のアクリル作品。234 × 208 cm。2019年にサザビーズが香港で開催したオークションで、当時の自身の作品の最高額である約2,500万ドルで落札された。

 

タイトルにナイフの存在が記述されているが、キャンバスには描かれていないため、より威嚇的に感じられる。ナイフの脅威を意図的に隠すことで、限りなく不吉なものとなり、子どもたちの予期せぬ反乱力と過激性が感じられる。

 

《Knife Behind Back》は、12年間のドイツ留学から帰国した2000年という分岐点の年に制作されたものである。1988年、愛知芸術大学を卒業した翌年、A.R.ペンクの指導のもと、デュッセルドルフの美術アカデミーで6年間学び、その後2000年までケルンに滞在していた。

 

1990年代まで奈良は新表現主義的な黒い輪郭線を持つ大胆な筆使いの作風が特徴だったが、この頃になると、奈良は徐々に伝統的な絵画技術を復活させ、より繊細になり、穏やかで、深みのある作風に変化していった。

 

ルネサンス期初期の画家ジョットからバルテュスまで、様々な芸術家に影響を受けた奈良は、パレットをパステル調にソフトにして、以前の作品のような荒々しい輪郭線を抑え、徐々に心地よい視覚効果を生み出した。また、大判のキャンバスを用いて、真珠のように輝く大地を背景にした少女たちの全身像を描き始めた。最も特徴的なのは、1990年代に描かれていたナイフ、チェーンソー、ピストル、クラブなどの武器が描かれなくなった

 

美術史家の松井みどりによれば、1996年以降、奈良が彫刻制作をはじめた時期と並行して、絵画の人物像は「パステルカラーの背景から浮かび上がる光り輝く立体的なイリュージョン」を帯びはじめたと指摘している。

 

最も重要なのは、最小限の物語性、最小限の構図、最小限の絵画的枠組みの中で、鋭敏な感情効果を伝えながら、奈良はこれらの絵画的偉業を成し遂げていることである。

写真は2019年12月に開催されたサザビーズ・オークションの様子。2500万ドルで落札された。
写真は2019年12月に開催されたサザビーズ・オークションの様子。2500万ドルで落札された。

■参考文献

https://www.sothebys.com/en/auctions/ecatalogue/2019/contemporary-art-evening-sale-hk0885/lot.1142.html、2020年11月17日アクセス


【作品解説】奈良美智「The Girl with the Knife in Her Hand」

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The Girl with the Knife in Her Hand

「頭の大きな女の子」の最初期の作品


奈良美智《The Girl with the Knife in Her Hand》,1991年
奈良美智《The Girl with the Knife in Her Hand》,1991年

《The Girl with the Knife in Her Hand》は1991年に奈良美智によって制作されたアクリル絵画作品。150.5 cm x 140.02 cm x 2.22 cm。サンフランシスコ現代美術館所蔵。

 

この作品は、奈良美智の代表的なシリーズである「頭の大きな女の子」の絵画の最初期の画期的な作品である。平面的なドローイング、イラストやマンガの世界のように見えるが、絵画の物質的な質感が見られる。

 

本作品は奈良がドイツ留学中の1991年に制作されている。この時期の奈良は88年からドイツのA.R.ペンクの指導のもとデュッセルドルフの美術アカデミーで6年間学んでいる。当時の奈良は、ペンクの影響や表現主義の影響を受け、黒い荒々しい輪郭線を持つシンプルな具象画を描いていた。少女の手にはナイフ、チェーンソー、ピストルなどの武器を所有していることが多い。本作品はその頃に描かれている。

 

赤い帽子とワンピースに身を包んだ少女が、こちらを睨むように見上げており、手にはナイフが握られている。これはむしろ、彼女を見下ろしている鑑賞者、つまり彼女を見下ろす大人たちを見上げている。

 

彼女の丸みを帯びた顔、大きな豆の形をした目、額をかすめる髪の毛に目を奪われるが、彼女の手にはナイフが握られていることに気づく。その瞬間、私たちが抱いていた彼女に対する無垢さが思い込みであることが覆されてしまう。

 

この少女は、単にかわいいとか、無防備とかではない。武装しているわけではないが、それでも不穏な脅威をわれわれに与えていることは確かである。これらの矛盾が効果的な作品になっている。

 

奈良はナイフを持つ少女について以下のようにコメントしている。「見てください、おもちゃみたいに小さいですよ。そんなもので戦えると思いますか? そうは思わないですね。むしろ、私には、子供たちの周りにいる、もっと大きなナイフを持った悪人たちの中に、子供たちがいるように見えるのです....」

 

2000年移行、この赤いドレスに身を包んだナイフを振り回す子供は、ただ放っておかれたいだけの静かで年上の女の子へと移行していく。



【作品解説】アッティカ合衆国「アメリカで発生した悲劇を記録したプロテスト・アート」

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アッティカ合衆国 / United States of Attica

アメリカで発生した悲劇を記録したプロテスト・アート


フェイス・リングゴールド『アッティカ合衆国』,1971-1972年
フェイス・リングゴールド『アッティカ合衆国』,1971-1972年

作者 フェイス・リングゴールド

 

制作年 1971-1972年
ムーブメント プロテスト・アート、人種差別

『アッティカ合衆国』はニューヨークの芸術家で活動家のフェイス・リングゴールドが、1971年から1972年にかけて制作したプロテスト・アート。

 

アメリカ全土が4分割され、黒人民族主義者のマーカス・ガーベイが掲げる汎アフリカ国旗で使われた緑、赤、黒の3色で構成されている。また、ライフルスコープを照準と十字架を重ねている。

 

この地図には、1880年代のオレゴン州での反中国暴動、約4000人のチェロキー族インディアンを虐殺したオクラホマ州のトレイル・オブ・ティアーズ、ミシシッピ州のエメット・ティルのリンチ事件、1968年のテネシー州でのマーティン・ルーサー・キング・ジュニア暗殺事件、カリフォルニア州、ミシガン州、テキサス州での暴動など、アメリカ全土で起きたリンチ、レイプ、戦争、先住民の虐殺、その他のさまざまな暴力事件の日付とその詳細が記入されている。

 

リングゴールドは、この作品を多くの人に配布するためリトグラフ形式で制作している。作品の下部には「このアメリカの暴力の地図は不完全である。欠けているものを見つけたら書き加えてください」と記載されている。

背景


この作品は、1971年9月13日ニューヨーク州バッファローの東にある悪名高いアッティカ矯正施設で40人近くの囚人と施設関係者がなくなった悲劇に反応して制作されたものである。

 

当時のアッティカの受刑者の大部分は黒人またはラテン系であり、その刑務官は圧倒的に白人だった。2200人の受刑者の内の半数以上の1200人以上が、人種差別主義者の矯正担当官に対して抗議の声を上げ、刑務所を占拠する事件が発生した。

 

囚人たちは、看守や民間人を含む約40人を人質を取り、数日間にわたって平和的交渉のともと生活環境の改善を申し出た。しかし、ネルソン・ロックフェラー知事の命令で、州警察は刑務所を急襲、奪還する。その結果、囚人と人質の両方で39人の死者が出た。

 

死者を出した原因の多くは当局だったにもかかわらず、責任を負う役人は一人も正式に起訴されることはなかった。

 

『アッティカ合衆国』は、人種差別と不平等に根ざしたアメリカのオルタナティブな歴史を視覚化したものであるが、一方で抑圧された人々が自由のために戦う勇敢さを記録、視覚化したものである。


■参考文献

https://www.nytimes.com/2020/10/15/t-magazine/most-influential-protest-art.html、2020年11月17日アクセス


【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「イエス・キリストのチョーク画」

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イエス・キリストのチョーク画 / Chalk Sketch of Jesus Christ

真のサルバトール・ムンディ


レオナルド・ダ・ヴィンチ《イエス・キリストのチョーク画》
レオナルド・ダ・ヴィンチ《イエス・キリストのチョーク画》

概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 不明
メディウム 紙、赤いチョーク
サイズ 不明
コレクション 個人蔵

《イエス・キリストのチョーク画》は、レオナルド・ダ・ヴィンチによるものと思われるドローイング作品。現在、調査中。何年も前から個人が所有していたレオナルド・ダ・ヴィンチのドローイング作品を別のコレクターが見つけたとイタリアの新聞「ラ・スタンパ」が報じた。

 

ユネスコのフィレンツェ部門と協力関係にある学者アナリサ・ディ・マリアによれば、レッコ在住のコレクターが発見したイエス像のドローイング作品はレオナルド・ダ・ヴィンチ・の作品であるという。

 

ディ・マリアはラ・スタンパ社に対し、この作品は「レオナルドのドローイングのすべてを思い出させる:これは彼の言語であり、はっきり話している」と話した。

 

彼女はこの作品が「サルバトール・ムンディの真の姿」であるとし、また一方で、2017年にクリスティーズで4億5530万ドルで落札された《サルバトール・ムンディ》は、このドローイングのイエスの絵と大きく異なるため、ダ・ヴィンチ作の可能性は低いと考えていると話した。

 

真作である根拠として、まず姿勢がレオナルドの典型であることだという。レオナルドは通常、正面からではなく斜めの角度(この斜めのポーズをイタリア語ではtre quartiと呼ぶ)から鑑賞者と向き合うよう描くという。また、ドローイングの「ダイナミズムと動きの感覚」もレオナルドの典型であると述べた。

 

ほかに、あごやひげや目もレオナルドの自画像と実質的に同じであると彼女は主張している。赤いチョークを使っているのもレオナルドが頻繁に使用していた道具として根拠となるという。

 

このドローイング作品は、長年個人が所有していた作品を見つけたあるコレクターが、真贋を求めてディ・マリアに問い合わせたものだという。

 

ディ・マリアは現在、大規模な報告書を作成中であり、制作年代はまだ特定されていない。

 

なお、すべての専門家がディ・マリアの主張に同意しているわけではない。レオナルドについて多くの著作を残している美術史家のマーティン・ケンプ氏は、作品を制作するために使用された方法が画家のものと一致しているかどうかを確認するために、自身が作品を調べる必要があると述べている。レオナルドはすべて左利きで描いているので、左利きで描かれたものがどうか調べる必要があるという。なお、赤いチョークの使用は重要である可能性があると認めた。



【作品解説】バンクシー「東京 2003」

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東京2003 / Banksy in Tokyo – 2003

汚く、とるに足らないネズミたちの絵


※1:《東京 2003》2003年
※1:《東京 2003》2003年

概要


作者 バンクシー
制作年 2003年(2002年の可能性)
位置 東京都港区「ゆりかもめ」の日の出駅付近
メディア 壁画、グラフィティ、ステンシル
場所 東京

《東京 2003》は、2000年から2003年頃にかけて東京都港区の東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の日の出駅付近にある東京都所有の防潮扉に描かれたバンクシーによるものと思われるストリート・アート。傘をさし、カバンを持ったネズミのステンシル作品。

 

バンクシーは2000年から2003年にかけてバルセロナ、東京、パリ、ロサンゼルス、イスラエルを訪問しており、そのときに初期ステンシル作品シリーズ「Love is in the air」を各地に書き残している。本作品は「Love is in the air」のシリーズの1つ《東京 2003》とみなされている。

 

本作品は、バンクシー自身による公式本『Wall and Piece』の107ページに掲載されているほか、バンクシーの公式サイト上でも掲載されていた(現在消失)。

 

制作から15年経過した2019年1月12日、文化振興部企画調整課によると小池百合子東京都都知事が公務の途中に自らの希望で立ち寄り、絵を確認している。

ただし、式サイトや書籍に掲載されている写真と反転しており、またバンクシー自身もコメントを発していないことから真贋がわかっていない

 

ロンドンのギャラリストでバンクシー作品を所蔵するジョン・ブランドラーは「これは110%本物です。何の疑いもありません。約2000万円から3000万円はすると思います」とコメントしている。ボルトの位置や地面のコンクリートに走るひびも同じであることから、きわめて本物の可能性の高く、反転しているのはおそらく製本時の写真反転ミスとおもわれる。

 

絵は都がすでに撤去し、都内の倉庫に保管されている。2019年11月25日から東京・日の出ふ頭(港区)の船客待合所で期限を設けず無料で公開されている。展示は午前10時から午後7時まで。

『Banksy Wall and Piece』日本語版より。
『Banksy Wall and Piece』日本語版より。

ネズミの意味


バンクシーはネズミの絵に対して以下のような説明をしている。

 

「やつらは許可なしに生存する。やつらは嫌われ、追い回され、迫害される。やつらはゴミにまみれて絶望のうちに粛々と生きている。そしてなお、やつらはすべての文明を破滅させる可能性を秘めている。もし君が、誰からも愛されず、汚くてとるに足らない人間だとしたら、ネズミは究極のお手本だ。」書籍「Banksy Wall and Piece」より引用。



【作品解説】レオナルド・ダ・ヴィンチ「サルバトール・ムンディ」

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サルバトール・ムンディ / Salvator Mundi

「男性版モナリザ」と呼ばれるダ・ヴィンチ作品


概要


作者 レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年 1490年から1519年ごろ
メディア クルミ板に油彩
価格 4億5000万ドル
状態 修復
サイズ 45.4 cm × 65.6 cm
所蔵者 アブダビ文化観光省が購入し、ルーブル・アブダビが所有

《サルバトール・ムンディ(救世主)》は1490年から1519年ごろにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。世界の救世主としてのイエス・キリストの肖像が描かれたもので「男性版モナリザ」と呼ばれることがある。ほかに「ラスト・ダ・ヴィンチ」と呼ばれることもある。

 

ルネサンス風の青いローブを着用したキリストが右手の指を十字に切り、左手に水晶玉を持ち祝祷している。サルバトール・ムンディとはラテン語で「世界の救世主」の意で、水晶玉は一般的に「天の天球」の象徴と解釈されている。

 

1500年ごろに制作されてから17世紀にイギリス王室が所有したあと、長年の間、行方不明になっていたが1900年に発見される。当初はダ・ヴィンチの作品ではなく、弟子の作品だと多くの専門家たちによって鑑定されていた。

 

何人かの一流の学者たちはレオナルド・ダ・ヴィンチのオリジナル作品であると思っていたが、幾度の重ね塗りや修復作業で受けた損害のため、オリジナルの状態がどんなものであるか鑑定するのが困難になり、本物かどうかは多くの専門家によって論議されていた。

 

その後、2005年にプロの鑑定集団と最新のテクノロジーを利用し、ようやく真作であることがわかる。修復を経て、2011年にロンドンのナショナル・ギャラリーで初めて展示され話題になった。なお、イギリス王室コレクションは、本作品のチョークとインク・ドローイングによる習作作品も所有している。

 

本作品は2017年11月15日にニューヨークのクリスティーズ・オークションで競売にかけられ、一般市場で流通している美術作品で史上最高額となる4億5000万ドルで落札された。

 

現存するダ・ヴィンチの20点未満の作品のうち唯一の個人蔵作品だった。もともとの所有者はロシアの実業家でコレクターのドミトリー・リボロフレで、彼がオークションを通じて一般市場へ流通させた。

 

当初、落札者は明らかにされていなかったがサウジアラビア王室の文化大臣バッダー・ビン・ファルハン・アル・サウド王子が4億5330万ドルで落札したとみなされている。

 

バッダー王子はアブダビ文化観光省の代理として購入しており、その後、2017年12月9日にアブダビ文化観光局は、レオナルド・ダビンチの傑作《サルバトール・ムンディ(救世主)》を獲得したと公式に発表した。

 

しかし、本当の落札者はカショギ氏殺害事件の黒幕であるサウジアラビア王子ムハンマド・ビン・サルマーンで、バッダー王子は彼の代理人として購入したとも言われている。

 

この件以来、バッダー王子は親しい同盟国アラブ首長国連邦やムハンマド・ビン・サルマーンの代役入札者だと認識されるようになった。

 

本作品はその後、2017年後半にルーブル・アブダビで展示される予定だったが、2018年9月に無期限の展示キャンセルが発表された。

 

現在、絵画がどこに所蔵されているかは不明だが、2019年6月10、サウジアラビア皇太子の大型ヨットにあるとの寄稿が、美術品市場ニュースサイト「アートネットニュース」に掲載された。裏付けはないがロンドンを拠点とする画商、ケニー・シャクター氏は寄稿で、同作はサウジで強い権力を持つムハンマド・ビン・サルマン皇太子のヨットにあると主張している。

重要ポイント

  • 民間で売買でされた美術作品で最も高額な4億5000万ドル
  • ダ・ヴィンチ作品の中で唯一のプライベート・コレクションだった
  • 現在はアブダビ文化観光省とルーブル・アブダビの所有権となっている

歴史


レオナルド・ダ・ヴィンチの《サルバトール・ムンディ》はフランス王ルイ12世と王妃アンヌ・ド・ブルターニュの依頼で制作された可能性が高い。

 

ルイ12世がミラノ公国を征服し、第二次イタリア戦争でジェノバを支配した直後の1500年ころに依頼を受けたと思われる。ダ・ヴィンチ自身は1500年にミラノからフィレンツェへ移っている。

 

本作品を基盤としたさまざまな模倣作品やオマージュ作品がジャン・ジャコモ・カプロッティ(通称:サライ)をはじめ、レオナルドの弟子たちや後世の画家たちによって制作されている。そのため、オリジナルが存在していることはわかっていた。

 

ただ、女性的な形態で描いたレオナルドの弟子の1人マルコ・ドッジョーノの作品やサライの別の作品を含め、いくつかの模倣作品はオリジナルとは、かなり異なるものである。

マルコ・ドッジョーノ《サルバトール・ムンディ》1500年 ボルゲーゼ美術館所蔵。
マルコ・ドッジョーノ《サルバトール・ムンディ》1500年 ボルゲーゼ美術館所蔵。

ダ・ヴィンチによるオリジナル作品は、1638年から1641年までロンドンのジェームズ・ハミルトンの邸宅チェルシー・マナーに保管されていたようである。

 

イギリスで内戦が起こりハミルトンが1649年3月9日に処刑されると、彼の所有物の一部はオランダに売却されたものがあったという。

 

ボヘミアの芸術家ヴァーツラフ・ホラーは、《サルバトール・ムンディ》とそっくりな作品を1650年に制作しているが、当時彼はアントワープに滞在しており、このときレオナルドの作品を手本にして作品を制作したかもしれない。

ボヘミアの芸術家ヴァーツラフ・ホラーの作品。1650年。
ボヘミアの芸術家ヴァーツラフ・ホラーの作品。1650年。

 また、本作品は1649年にヘンリエッタ・マリアが所有していた記録があり、同年に夫のチャールズ1世が処刑されている。

 

フランスから嫁いできたアンリ4世の娘のヘンリエッタ・マリアの寝室にかけられていたという。おそらくコレクターだった彼女がフランスからイギリスへ持ち込んだのだろうといわれている。

 

なお、《サルバトール・ムンディ》はイギリス王室コレクションの目録に記載されており、チャールズの所有物として評価額30ポンドでイギリス連邦のもと売り出されている。

 

その後、どこかで1651年に債権者に売却され、1660年にイギリスで王政復古が起こりチャールズ2世のもとに帰ってきたあとの1666年に、ホワイトホール宮殿のチャールズの所持品目録に本作品は記載されている。

 

ジェームズ2世が作品を引き継ぎ、その後、ジェームズ2世の愛人キャサリン・セドリーとのあいだに生まれた非嫡出子で、のちにバッキンガム公爵のジョン・シェフィールドの3番目の妻となった娘が所持していた。

 

その後、バッキンガム公爵の非嫡出の息子チャールズ・ハーバート・シェフィールド卿が、1763年にこの絵をオークションにかけて売却している。

 

その後は所有者がわからなくなり、1900年にイギリスの商人でコレクターの初代フランシーズ・クック・モンセラッテ子爵が、チャールズ・ロビンソンという貴族からダ・ヴィンチの弟子ベルナルディノ・ルイニによる作品として、本作品を購入したことで再発見される。

 

当時の作品状態は土台のクルミ板がゆがんで傷んだ絵の髪と顔の部分には、修復を試みた重ね塗りがされていたという。

 

クックの子孫が1958年にサザビーズのオークションで45ポンドで売却する。クックの孫はレオナルドの弟子ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオの作品として売り出している。

再発見と復元


2005年に《サルバトール・ムンディ》は古典巨匠の専門家のアレクサンダー・パリッシュやロバート・シモンを含むアート・ディーラーたちの組合によって10,000ドル以下でオークションで購入された。

 

購入先はニューオーリンズにあるオークションハウスのチャールズ・ギャラリーで、バトンルージュの実業家バジル・クロービス・ヘンドリー・シニア財産の一部として競売にかけられていたという。かなり重ね塗りされておりコピー作品のように見えたので、復元前の状態は「大破しており、暗く、非常に暗い」とカタログに記述されている。

2005年4月9日から10日までニューオーリンズにあるチャールズ・ギャラリー・オークションハウス(ニュー・オーリンズ・オークション・ギャラリーの支店)のカタログページの詳細。サルバドール・ムンディ(レオナルド・ダヴィンチ以後)と掲載されている。1万ドル弱で競売にかけられた。
2005年4月9日から10日までニューオーリンズにあるチャールズ・ギャラリー・オークションハウス(ニュー・オーリンズ・オークション・ギャラリーの支店)のカタログページの詳細。サルバドール・ムンディ(レオナルド・ダヴィンチ以後)と掲載されている。1万ドル弱で競売にかけられた。

作品を購入した組合は、過剰な塗り重ねのせいで低品質で乱雑になっているが、実際には長い間、行方不明になっていたダ・ヴィンチのオリジナル作品であるかもしれないという可能性を信じた。

 

組合はニューヨーク大学のダイアン・ドワイヤー・モデスティーニに修復作業の監督を依頼する。

 

彼女はアセトンで重ね塗りを除去する作業からはじめた。そして、ある時点で、キリストの顔の近くに段差のあるデコボコがあり、それが鋭利なもので削り取られて、ゲッソ、塗料、糊を混ぜ合わせたメディウムで平面化されていることに気づいた。

 

ロバート・シモンが撮影した赤外線写真を使い、モデスティーニはペンティメント(重ね塗りされたり、修正されたりして見えなくなった元の画像が透けて見えるようになること)がある箇所、祝福の手の親指は当初、曲がっているのではなくもう少し直線的だったことを発見した。

美術修復家ダイアン・ドワイヤー・モデスティーニ。
美術修復家ダイアン・ドワイヤー・モデスティーニ。
修復依頼をしたアート・ディーラーのロバート・シモン。
修復依頼をしたアート・ディーラーのロバート・シモン。

ダイアンはパネル専門家のモニカ・グリースバッハに、虫に食われて穴が空いてしまっている木のパネルを削り取り、絵画を7にいったん分割する指示を出し、その後、グリーズバックは接着剤と木の細片で絵を組み立て直した。

 

2006年後半、ダイアンは修復作業に没頭していたが、美術史家のマーティン・ケンプはその修復作業に対して「絵画のもともとの状態の「両方の親指」はダイアンが描いたものよりも優れている」と批判的だった。しかし、その後作品はレオナルドの真作であると再評価された。

修復作業を行うダイアン・ドワイヤー・モディスティーニ。

展示とオークションでの競売


2008年にロンドンのナショナル・ギャラリーに持ち込まれ、2011年11月から2012年2月までロンドンのナショナル・ギャラリーの企画展『レオナルド・ダ・ヴィンチ「ミラノ裁判所の画家」』で展示公開された。

 

2012年にダラス美術館からもダ・ヴィンチの真作であると承認を受ける。

 

その後、2013年5月にスイスの画商イヴ・ブヴィエが7500万ドルでニューヨーク・サザビーズのブローカーからプライベート取引で購入する。その後、ロシアのコレクターであるドミトリー・リボロフレフが1億2750万ドルで本作品をスイスの画商イヴ・ブヴィエから購入した。

 

なお、この一連の販売、プヴィエとリボロレフ間の販売、またサザビーズとプヴィエとのプライベート取引はさまざまな法的な論争を引き起こしている。2018年にリボロレフはオークションハウスがプヴィエの詐欺行為に加担したとしてサザビーズを3億8000万ドルで訴えている。

 

本作品は2017年に香港、ロンドン、サンフランシスコ、ニューヨークで展示されたあと、2017年11月にニューヨークのクリスティーズで競売にかけられ、オークション史上最高価格の4億5000万ドルで落札され、2013年時の価格より250%も上昇した。

サウジアラビア王室とアラブ首長国連邦の所有


 購入者はサウジアラビア王室の文化大臣バッダー・ビン・ファルハン・アル・サウド王子である。2017年12月の『ウォール・ストリート・ジャーナル』によれば、真の購入者はカショギ氏殺害事件の黒幕のムハンマド・ビン・サルマーンで、バッダー王子は代理人として購入したとみなされている。

 

しかし、表向きではクリスティーズはバッダー王子はアブダビ文化観光省の代理として購入したと確認しており、その後、2017年12月9日にアブダビ文化観光局は、レオナルド・ダビンチの傑作《サルバトール・ムンディ(救世主)》を獲得したと発表している。

 

この件以来、バッダー王子は親しい同盟国アラブ首長国連邦とカショギ氏殺害事件の黒幕であるサウジアラビア王子ムハンマド・ビン・サルマーンの代役入札者だと見られるようになった。

 

本作品はその後、2017年12月にルーブル・アブダビで展示する予定であることをアブダビの役人が発表したが、その後、2018年9月に突然に展示の無期限キャンセルが発表された

 

現在、絵画がどこに所蔵されているかは不明で物理的安全性が懸念されている。なお、『The Art Newspaper』のジャーナリストであるジョージア・アダムスイスのジュネーブの倉庫に保管されていると推測している。

 

2019年6月10、サウジアラビア皇太子の大型ヨットにあるとの寄稿が、美術品市場ニュースサイト「アートネットニュース」に掲載された。裏付けはないがロンドンを拠点とする画商、ケニー・シャクター氏は寄稿で、同作はサウジで強い権力を持つムハンマド・ビン・サルマン皇太子のヨットにあると主張している。

真作特定のためのエビデンス


総評


修復作業の1年後に、ダイアン・ドワイヤー・モデスティーニはキリストの唇の色味は完璧であり、ほかのアーティストでは出せない描き方であると言及した。比較のためにモナリザを研究したところ、彼女は「彼女を描いた人物はサルバトール・ムンディを描いた人物と同じである」と結論をくだした。

 

2006年にナショナル・ギャラリーのディレクターのニコラス・ペニーは、ペニーと同僚の何人かはこの作品はレオナルド・ダ・ヴィンチのオリジナルであると見なしていたが「同僚の中にはワークショップで弟子たちが手を入れているかもしれない」と話した。

 

ペニーは2008年に《サルバトール・ムンディ》と《岩窟の聖母》の並行研究をはじめ、2011年、ペニーが進行役を務めたコンセンサス決議で、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品であることを確認した。

 

2011年7月までに、所有者の宣伝担当者とナショナル・ギャラリーが個々にプレスリリースをを発行し、正式にレオナルド・ダ・ヴィンチ作品の「新しい発見」を世間に発表した。

 

修復後、《サルバトール・ムンディ》を基盤にした20位上ある模倣作品と比較して、やはりオリジナルが優れていることが判明しはじめた。絵画内のさまざまな特徴はダ・ヴィンチ作品であることを証明するエビデンスとなっている。

 

いくつかあるエビデンスの中でも、ダ・ヴィンチ作品であることを示す最も顕著なものは親指の位置である。また、顔のスフマート効果(深み、ボリュームや形状の認識を造り出すため、色彩の透明な層を上塗りする絵画の技法)は、ダ・ヴィンチの代表的な技法である。

 

巻き毛の描き方やローブを十字に横切るストールに描かれた模様もダ・ヴィンチのスタイルの示すものだと見られている。

 

さらに、作品に使われている顔料とクルミのパネルもはほかのダ・ヴィンチの作品と一致している。

 

さらにいえば、手の描き方が非常に緻密であり手の描き方はダ・ヴィンチの特徴であることが知られている。本物そっくりに身体を描写するため、彼は死んだ人の手足を解剖して研究もしていた。

 

作品鑑定を手伝った世界有数のレオナルド・ダ・ヴィンチ専門家のマーティン・ケンプは、最初に修復された絵を見てすぐにダ・ヴィンチの作品であることがわかったという。

球体の描き方


ダ・ヴィンチの伝記作家ウォルター・アイザックソン(スティーブ・ジョブズの伝記作家としても知られている)は、キリストが持っている球体は本来の水晶玉やガラス玉の描き方ではないと指摘している。

 

一見すると、キリストが手に持っている水晶玉は科学的な緻密さに描かれているように見えるが、透明な水晶を見ているときに発生する歪みが全く正確ではない。立体的なガラス玉や水晶玉は通常、拡大、反転、反転した画像を映し出すようになっている。ダ・銀地は通過する光を屈折させたり歪ませたりさせない「空洞のガラス泡」のように描いている。

 

ダ・ヴィンチがあえて現実的に水晶玉を描いていない意図があったのは、彼の技術力から考えると明らかである。アイザックソンはキリストの奇跡と水晶の奇跡をかけあわせたかったのではないかと見ている。

透明な球体を通して見える変化した左手の手のひらは、不自然だが逆にレオナルド作品であることを示すエビデンスであるかもしれない。
透明な球体を通して見える変化した左手の手のひらは、不自然だが逆にレオナルド作品であることを示すエビデンスであるかもしれない。

ケンプはまた水晶を持っている手のひらの輪郭が2倍になっていると指摘している。修復家はこれについて、方解石(または水晶玉)で発生する反射を正確な反映したペンチメントであると話している。

 

さらに、ケンプは球体の内部で見られる一連の内部包含物(空気ポケット)の輝きに関して、球体の固体の性質をよく表現したエビデンスであると指摘している。

 

ケンプは複屈折は透明方解石球で生成される典型的なタイプであると指摘している。この結晶玉の複屈折現象に関して、ダ・ヴィンチ作品の模倣者たちは誰も気づいておらず、複屈折をともなう結晶玉を模倣できなものはいなかった。

 

《サルバトール・ムンディ》のほかのバージョンや模倣者たちは、真鍮、宝珠、地球儀、地球儀のクルーザーをよく描いているが、それらの中には半透明ガラス素材のように球体が描かれていたり、球体の中に風景を描かれている。

 

しかし、ダ・ヴィンチの描いたものは水晶独自の特徴をよく描いている。インパスト形式の暗いタッチで出が枯れた1つ1つの光輝く小さな空隙は、まるで泡のようだが丸くはなく、非常に緻密に描かれている。これらが水晶の特徴なのである。

 

実際に、ダ・ヴィンチは水晶の専門家だった。彼はイザベラ・デステが購入しようとしていた花瓶の鑑定を依頼され、彼女からレオナルドの鉱物の特徴に関する知識に大きな称賛を受けた。なお、イザベラ・デステはダ・ヴィンチの《モナ・リザ》のモデルの候補の1人として挙げられている女性で、ダ・ヴィンチは彼女のドローイングも描いている。

レオナルド・ダ・ヴィンチがイザベラを描いたドローイング。Wikipediaより。
レオナルド・ダ・ヴィンチがイザベラを描いたドローイング。Wikipediaより。

図像的に、水晶玉は天と関係している。天動説において、宇宙の中心に球状の地球があり周囲に固定されて天体の結晶球(エーテルで構成されている)があると考えられていた。そのため、サルバトール・ムンディとは、ケンプによれば「真の宇宙の救世主」であり、これはダ・ヴィンチ様式で表現されたものであるという。

被写界深度


ダ・ヴィンチの絵画のもうひとつの側面は、ケンプによれば、被写界深度、シャローフォーカスにあるという。祝福をあげているキリストの手ははっきり焦点があっているが、顔は(ある程度の損傷を受けて変化しているにせよ)、ソフト・フォーカスで描かれており、ややぼやけている。

 

ダ・ヴィンチは、手記(1508−1509年)で視覚理論、眼球光学、影、光、色に関する理論を探求している。この手記は、世紀の変わり目ころに書かれたものでこの焦点問題の調査をしていたころと絵が描かれた時期と重なっている。

 

そのためか、《サルバトール・ムンディ》においてダ・ヴィンチは、意図的に他の部分よりも手の部分を強調して描いており、前景は焦点があってはっきり見えるが、顔やほかの後景部は焦点があっていない。

1508年から1509年に書かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの視覚理論や眼球光学に関する手記。Wikipediaより。
1508年から1509年に書かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの視覚理論や眼球光学に関する手記。Wikipediaより。

オリジナルではなく協働作品の疑い


ダ・ヴィンチの作品であることの完全証明を疑うルネサンス芸術の専門家たちもいる。パリを拠点とする美術史家のジャック・フランクは、モナリザの枠を何度も外して直に研究してきたダ・ヴィンチの専門家は次のように述べている。

 

「構図はダ・ヴィンチのものではない。彼はねじれた動きを好んだ。この作品は良くいってもレオナルドとスタジオの作品であり、また非常に損傷している。「男性版モナリザ」と呼ばれているが、とんでもない」。

 

「ArtWatch UK」のディレクターのマイケル・デイリーは、《サルバトール・ムンディ》の信憑性を疑っており、ダ・ヴィンチが描いた主題のプロトタイプ作品かもしれないという理論を立て、次のように述べた。

 

「ダ・ヴィンチの自筆プロトタイプの探求は無意味か無駄のようにおもえる。そればかりでなく、ロイヤル・コレクションが所有しているダ・ヴィンチによる2枚の衣服の習作はこの系統と関わりのあるかもしれない唯一の物的資料だが、ダ・ヴィンチに関する文献で、このような絵画プロジェクトに関わったことのある芸術家の文書記録はない」。

ロイヤル・コレクションが所有しているダ・ヴィンチによる2枚の衣服の習作。Wikipediaより。
ロイヤル・コレクションが所有しているダ・ヴィンチによる2枚の衣服の習作。Wikipediaより。

パリでは2019年10月から2020年2月にかけてルーブル美術館で開催予定の「没後500年レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会」での《サルバトール・ムンディ》の展示予定に関しては明らかになっていない。

 

昨年展示予定だったルーブル・アブダビでの展示が予想外に中止されたこともあり、秋のパリへの貸出も行われないと推測されている。ルーブル美術館の学芸員の多くも、本作品について疑っているという。

 

そのため、現在ダ・ヴィンチよる完全なオリジナル作品に対する疑問も起こりはじめている。もし、完全な真作ではなかった場合、値は150万ドル以上下がるだろうといわれている。

帰属の明確な否定


イギリスの美術史家チャールズ・ホープは、2020年1月に行われた絵画の質と出所に関する調査で、レオナルド作であることを完全に否定した。ホープは、レオナルドは目が水平ではなく、水晶でドレープが歪んでいない作品を描いたのではないかと疑っている。

 

また「絵の損傷が激しく、顔はモナ・リザを彷彿させるよう修復されている」と付け加えた。ホープは、ナショナル・ギャラリーがサイモンの「ずるい」マーケティング・キャンペーンに加担していることを非難している。

 

2020年8月、ジャック・フランクは、以前、絵について「せいぜいレオナルドが少し手を入れただけの工房作品」と話したが、レオナルドが描いていない証拠として、「幼稚な発想の左手」「妙に長くて細い鼻」「簡略化された口」「影の多い首」を挙げている。

 

2020年11月、イタリア新たに発見されたキリストのドローイング画がレオナルドのものと鑑定された。レオナルドの学者であるアナリサ・ディ・マリア氏によれば、「これこそがサルヴァトール・ムンディの真の姿である。レオナルドのドローイングのすべてを彷彿させる」と話し、また、彼の自画像と同じく斜めの表情と類似していることを指摘し、「レオナルドは、このような正面図を描くことはなかった」と話している。

真の作者は弟子のボルトラッフィオ


《サルバトール・ムンディ》はもともと2011年までレオナルドの弟子のジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ作と見なされており、一部の学者たちもボルトラッフィオ作と信じていた。しかし、2017年頃に、美術界のコンセンサスはなぜかレオナルド・ダ・ヴィンチの作品となった。

 

また、美術史家のマシュー・ランドラスは、レオナルドはせいぜい作品の5~20%程度しか手を入れておらず、全体としてはベルナルディーノ・ルイーニのような弟子たちが調整していると主張している。

 

しかし、メトロポリタン美術館のカルメン・バンバックは、この作品の大部分はボルトラッフィオが描いたもので、そこにレオナルドが少し修正を加えたと主張し続けている。

 

2019年10月24日から2020年2月24日まで開催されたルーヴル美術館のレオナルド回顧展に本作品は含まれておらず、ルーブル美術館もレオナルド作であることに否定的である。

反応


再発見されたダ・ヴィンチの絵画は、オークションにかけられる前に香港、ロンドン、サンフランシスコ、ニューヨークで展示され、一般の人々から大きな注目を集めた。

 

クリスティーズによれば、オークションを開催する前に2万7000人以上の人々が本作品を鑑賞したという。クリスティーズが美術作品を宣伝するために外部の会社を利用したことはこれまでなかった。競売前の週末にニューヨークで開催されたプレビューでは約4500人の人が作品を鑑賞するために列を作った。

 

「最後のダ・ヴィンチ」と呼ばれる《サルバトール・ムンディ》は唯一の個人蔵作品としても知られている作品だった。《モナ・リザ》や《最後の晩餐》などほかの約20の作品は世界中の美術館がすでに所蔵している。

 

北米で唯一のダ・ヴィンチの作品はワシントンDCのナショナル・ギャラリーが所蔵している《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》で、1967年にリヒテンシュタイン公家から、当時世界最高取引額の500万ドル(2017年に換算すると約3640万ドル)で購入した。

《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474年 - 1478年頃
《ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像》1474年 - 1478年頃

模倣作品


 Leonardeschi(ダ・ヴィンチの影響を受けた画家集団)《サルバトール・ムンディ》1503年。ナポリ司教区博物館所蔵。
Leonardeschi(ダ・ヴィンチの影響を受けた画家集団)《サルバトール・ムンディ》1503年。ナポリ司教区博物館所蔵。
チェーザレ・ダ・セスト作。1516〜1517年。ヴィラヌフ宮殿所蔵。
チェーザレ・ダ・セスト作。1516〜1517年。ヴィラヌフ宮殿所蔵。
ジャンピエトリーノ作。16世紀頃。デトロイト美術館所蔵。
ジャンピエトリーノ作。16世紀頃。デトロイト美術館所蔵。

他のバージョン


ジャンピエトリーノ作。16世紀前半。プーシキン美術館所蔵。
ジャンピエトリーノ作。16世紀前半。プーシキン美術館所蔵。
ベネデット・ディエナ。1510-1520年。ナショナル・ギャラリー所蔵。
ベネデット・ディエナ。1510-1520年。ナショナル・ギャラリー所蔵。
匿名フラマン系美術家。1750-1775年。ヒューストン美術館。
匿名フラマン系美術家。1750-1775年。ヒューストン美術館。



【美術解説】ルネ・マグリット「視覚美術と哲学の融合」

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ルネ・マグリット / René Magritte

視覚美術と哲学の融合


「人の子」1964年
「人の子」1964年

概要


生年月日 1898年11月21日
死没月日 1967年8月15日
国籍 ベルギー
表現媒体 絵画
表現スタイル シュルレアリスム
代表作品

イメージの裏切り

大家族

人の子

光の帝国

ゴルコンダ

関連サイト

WikiArt(作品)

ルネ・フランソワ・ギスラン・マグリット(1898年11月21日-1967年8月15日)はベルギーの画家。シュルレアリスト。

 

ある物体が、現実的にはありえない場所に置かれていたり、ありえないサイズで描かれる手法デペイズマンをたくみに利用するシュルレアリスト。

 

初期はエロティシズムや女性を主題とした作風だったが、1930年代以降になると、ほかのシュルレアリストに比べて内面的な表現はかなり抑制され、《白紙委任状》のような錯覚を取り入れただまし絵作品や、《イメージの裏切り》のような哲学的要素の高い理知的な表現が際立つようになる。

 

そのため哲学者のミシェル・フーコーをはじめ、多くの美術関係者以外の知識人にも人気が高い。また、具象的でインパクトが強い絵画でもあるため、サルバドール・ダリ同様、のちのポップカルチャーへの影響も大きい。

 

シュルレアリスムのリーダー、アンドレ・ブルトンと対立があったものの、生涯シュルレアリスムの表現思想には忠実だった。またポップ・アート、ミニマル・アート、コンセプチャル・アートなどアメリカ現代美術に大きな影響を与えている。

重要ポイント


  • デペイズマンを使う代表的なシュルレアリスト
  • 「イメージの裏切り」などの作品で絵画に哲学的要素を持ち込んだ
  • 戦後ポップカルチャーへの影響が大きい

最近の更新


作品解説


「大家族」
「大家族」
「光の帝国」
「光の帝国」
「ゴルコンダ」
「ゴルコンダ」
「イメージの裏切り」
「イメージの裏切り」

「人の子」
「人の子」
「リスニングルーム」
「リスニングルーム」
「白紙委任状」
「白紙委任状」
レディ・メイドの花束
「レディ・メイドの花束」

「水平線の神秘」
「水平線の神秘」
「不許複製」
「不許複製」
選択的親和力
選択的親和力
恋人たち
恋人たち

共同発明
共同発明
幸福の兆し
幸福の兆し
鳥を食べる少女
鳥を食べる少女
黒魔術
黒魔術

ピレネーの城
ピレネーの城
貫かれた時間
貫かれた時間
自由の扉で
自由の扉で
世界大戦
世界大戦

略歴


母の自殺にショックを受けた幼少期


ルネ・マグリットは、1898年11月21日、ベルギー西部エノー州のレシーヌで、仕立屋商人レオポール・マグリットと、結婚前はお針子をしていた母のレジーナ・ベルタンシャンのあいだに長男として生まれた。

 

祖先にはマルゲリット兄弟という人がおり、彼らは熱心な共和主義者で、ロベスピエールの死後ピカルディー地域から亡命したとされている。またマグリットには二人の弟がいる。レイモンは1900年生まれ、生涯を通じて親密だったポールは1902年生まれである。

 

1910年にマグリット一家は、レシーヌからシャトレに移り、絵画教室に通い始め、油彩画や素描を学びはじめる。

 

1912年5月12日に母がサンブル川に入水自殺する。母は亡くなる以前から数年にわたって自殺未遂を繰り返していた。父のレオポールは彼女が自殺をしないように寝室に鍵をかけて閉じこめていたこともあった。しかしある日、母は部屋から脱走して数日間行方をくらました後、数マイル離れた河川敷で遺体として発見された。

 

遺体が発見されたさい、ドレスが母の顔を覆いかぶさっていた光景にマグリットは強いショックを受ける。この幼少期のトラウマは、1927年から1928年にかけて描かれたいくつかの絵画の源泉になったともいう。マグリット作品で顔が隠されている物が多い理由は母親の自殺事件が元だともいわれる。その後、マグリット兄弟は下女と家庭教師に預けられることになった。

 

1913年、マグリットの一家はシャルルロワへ移り、マグリットは高校へ入学。またこの頃に定期市の回転木馬で2歳年下で、後に結婚するジョルジェット・ベルジェと出会う。 

シュルレアリスム以前


マグリットの作品は1915年から確認できる。初期は印象派スタイルだった。

 

1916年から1918年までブリュッセルの美術学校に入学し、コンスタン・モンタルドのもとで学ぶが、授業は退屈だったという。結局、伝統的な美術様式になじめず、印象派以降の近代美術に影響を受ける。

 

1918年から1924年の間に制作した絵画では、未来派ジャン・メッツァンジェピカソなどのキュビスムから影響を受けている。またこの時代の作品のモチーフの多くは女性画だった。

 

第一次大戦後は、ベルギーのダダ運動に参加。詩人でありコラージュ作家だったE.L.Tメセンスとともに、雑誌『食道(Esophage)』や『マリー(Marie)』を発刊。彼ら以外には、アルプ、ピカビア、シュヴィッタース、ツァラ、マン・レイらも参加。これらは前衛色の強い雑誌だった。

 

1920年、ブリュッセルの植物園において偶然ジョルジェットと再会。1922年に結婚する。 

 

1920年12月から1921年9月までマグリットは、レオポルドスブルグ近くのビバリーのフランドル街に歩兵として兵役につく。兵役の間は指揮官の肖像画を制作していたという。兵役を終えた後、1922年から23年にかけてマグリットは壁紙工場で図案工として働く。その後、工場をやめて、1926年までポスターや広告デザイナーとして働く。この時期の作品は、ロベルト・ドローネーやフェルナン・レジェなどピュリスムやキュビスムに近い作風だった。

 

この頃、詩人のマルセル・ルコントがマグリットに見せたジョルジョ・デ・キリコの《愛の歌》の複製に大きな影響を受けて、芸術家への転向を決意する。

《モダン》(1923年)
《モダン》(1923年)
マグリットとジョルジェット
マグリットとジョルジェット

シュルレアリストとして活躍


1926年にマグリットは、キュビスムを放棄して、最初のシュルレアリスム絵画《迷える騎手》を制作。

 

またブリュッセルのル・サントール画廊と契約を結び、翌年1927年に、ブリュッセルで初個展を開催。このころからフルタイムで画業に専念を始める。しかし批評家たちはマグリットの個展に対して辛辣で、個展はあまりうまくいかなかったという。

 

ブリュッセルでの個展の失敗によってマグリットは意気消沈してパリへ移住。そこでアンドレ・ブルトンと知り合い、シュルレアリム・グループに参加。1927年に母国ベルギーを去りパリへ移住したあと、すぐにシュルレアリスム・グループの筆頭格となり、3年間滞在して活動する。

 

1924年から1929年の間がシュルレアリスム運動で最も盛り上がった時期であり、このころのマグリットの初期シュルレアリスム作品は、幻想的というよりも不気味なものが多い。マグリットの代表作の《恋人たち》はヴェールを被って接吻している絵画であるが、このヴェールは、幼くして母が謎の入水自殺をした事件がモチーフとなっているといわれている。

《恋人たち》(1928年)
《恋人たち》(1928年)

哲学と美術の融合


1929年には美術史上よりも哲学史上において有名な作品《イメージの裏切り》を制作。絵にはパイプが描かれているが、パイプの下に「これはパイプではない」と記載されている。

 

マグリットによれば、この絵は単にパイプのイメージを描いているだけで、絵自体はパイプではないということ。だから「これはパイプではない」と記述しているという。

 

この作品はよく、哲学者ミシェル・フーコーが1966年に発表した「言葉と物」を説明する際に利用される。1973年にフーコーは『これはパイプではない』という著書でマグリット作品を主題的に論じている。

《イメージの裏切り》(1929年)
《イメージの裏切り》(1929年)

ブリュッセルへ


1930年にブルトンに離反してブリュッセルへ戻るが、経済恐慌の影響で画廊との契約が終了し、生活のために弟とともに広告など商業デザインの仕事も再開。

 

1930年代は、《共同発明》、《陵辱》のようなヌード画が多く見られるものの、上半身が魚なのに下半身が人間であったり、女性の顔が女性の裸体の前面になっているなど、どこかヌード画に対して冷たい態度を示しているところがある。

 

1937年に、数週間、ロンドンで過ごす。初期はイギリス人のシュルレアリストであるエドワード・ジェイムズがマグリットの大パトロンとなり、彼のために何点かの作品を制作し、ロンドン画廊で講演をする。

 

ジェイムズはロンドンでのマグリットの家や画材を無料で貸し出した。またジェームズはマグリットの作品《Le Principe du Plaisir》 や《複製禁止》のモデルとしてもよく知られている。

《共同発明》(1934年)
《共同発明》(1934年)

ルノワールの時代


第二次世界大戦でベルギーがドイツに占領されている間、マグリットはブリュッセルに残り、ブルトンをはじめパリのシュルレアリスムグループと決別する。1943年から44年にかけてマグリットの絵画は、カラフルで簡潔になっていった。

 

印象派、なかでもルノワールに影響を受けた作品を制作している時期であり、一般的に「ルノワールの時代」とよばれている。これはドイツ占領下のベルギーでの生活におけるマグリットの疎外感や自暴自棄を表現したものだという。

 

1946年、ここからマグリット作品はかなり変化する。戦後マグリットは初期の陰鬱とした作風を放棄し、ほかの何人かのベルギーの美術家たちと『陽光に満ちたシュルレアリスム』宣言を発表。マグリットはブルトンの思想に反対して、楽観的でポップなシュルレアリスム様式を追求することになる。

 

1947年から48年はマグリットにおいて「牡牛の時代」と呼ばれる時期で、大きな筆致による鈍重な手法で作品を描く。しかし「牡牛の時代」は大変不評だったのですぐにやめる。

 

またこの時代、マグリットはピカソやブラックやキリコの贋作を制作して生活の糧を得ていたという。のちにマグリットの贋作制作は紙幣偽造印刷にまで拡大。これら贋作制作は、弟のポール・マグリットや仲間のシュルレアリストであるマルセル・マリエンたちと共同で行われていたとされる。

 

1948年後半には、マグリットは元の具象的なシュルレアリスム絵画に戻る。

《良い前兆》(1944年)
《良い前兆》(1944年)

ポップの時代


マグリットの晩年期は、《大家族》光の帝国》を始め、現在われわれがよく目にするポップなシュルレアリスム作品を多数制作する。

 

アメリカにおいてはニューヨークで1936年に個展を開催。1965年に近代美術館でアメリカで2度目の個展が開催。マグリットの作品は、1960年代に大衆から関心を集め、その後のポップ・アート、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アートに影響を与えた。1992年にメトロポリタン美術館で回顧展が行われている。

 

政治的に、マグリットは左翼である姿勢をはっきりさせており、戦前だけでなく戦後も共産党とは非常に密接だった。しかし共産党の機能主義的文化政策には批判的だった。

 

1967年8月15日、癌が原因でマグリットは死去。

《大家族》(1963年)
《大家族》(1963年)

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ルネ・マグリットとポップカルチャー
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デペイズマン
デペイズマン

略年譜


■1898年

・11月21日、ベルギーのエイノー州レシーヌで生まれる。父レオポールは仕立屋、母レジナ・ベルタンシャンは結婚前は針子。レイモン(1900年生まれ)とポール(1902年)の二人の弟がいる。


■1910年

・一家が引越ししたシャトレにおいて油絵と素描を始める。


■1912年

・母が原因不明の自殺。

・早口に唱える祈祷や百回も繰り返して十字を切ったりする奇妙な祈りの動作で家庭教師を驚かせる。


■1913年

・一家がシャルルロワへ引っ越す。

・高校へ入学。

・定期市の回転木馬において2歳年下のジョルジェット・ベルジェと会う。


■1915年

・印象主義の画法により最初の作品を描く。


■1916年

・ブリュッセルの美術学校(アカデミー・デ・ボザール)に入学し、ヴァン・ダムの素描教室に入る。


■1918年

・家族がブリュッセルへ戻り一緒に暮らすようになる。


■1919年

・詩人のピエール・ブルジョワと知り合う。

・ピエール・ルイ・フルーケとアトリエを共有する。彼らとともに雑誌『ハンドルをとれ!』を発行するがすぐに廃刊となる。

・ピカソのキュビスムの影響を受けた最初の作品『3人の女』を発表する。

・未来派の影響を受ける。


■1920年

・弟のピアノ教師をしていたE.L.T.メザンスと知り合い、以後長い間親交を結ぶ。

・春、ブルッセルの植物園において偶然ジョルジェットと再会する。彼女はそのとき画材店で働いていた。


■1921年

・兵役の間に指揮官の肖像画3点を制作する。


■1922年

・6月、ジョルジェット・ベルジェと結婚。彼自身のデザインにより彼らの新居の家具をつくらせる。

・生活のために壁紙工場ペータース・ラクロワにおいてヴィクトール・セルヴランクスの指導のともに図案工として働く。

・彼とともに『純粋芸術、美学の擁護』を出版。

・この時期の作品はドローネやレジェなどピュリスムに近いものであった。


■1923年

・工場をやめてポスターや広告のデザインをする。


■1924年

・カミーユ・ゲーマンスとマルセル・ルコントと会う。初めて絵が売れる。その作品は歌手エヴリーヌ・ブレリアの肖像を描いたものだった。


■1925年

・「これからは事物を綿密な外観描写だけで描くこと」を決心し、現実の世界を問題にする方法を追求する。

・ポール・ヌジェ、アンドレ・スリと会う。

・ダダイスムの雑誌『食堂』に投稿。

・マルセル・ルコントを通じてジョルジョ・デ・キリコの作品を知る。特に『愛の歌』に強い感銘を受ける。

・マックス・エルンストのコラージュ作品から感銘を受ける。

・友人のヴァン・エックの経営する洋服屋の広告デザインをする。また1926年と1927年には毛皮屋サミュエルのカタログも手がける。


■1926年

・最初の成功したシュルレアリスム絵画とマグリットが考える「迷える騎手」を制作する。

・ブリュッセルのル・サントール画廊およびP.G.ヴァン・エックと契約を結ぶ。


■1927年

・春にル・サントール画廊で初めて個展を開き、61点の作品を展示するが、ほとんど話題にはならなかった。

・ルイ・スキュトゥネールを知り、彼と深い親交を結ぶ。

・パリ近郊のル・ペルー=シュル・マルヌに住む。


■1928年

・パリのゲーマンス画廊で開かれた「シュルレアリスム展」に参加。

・マグリットを常に援助し続けていた父が死去。


■1929年

・夏の休暇をカダケスのダリのところで過ごす。そこでポールおよびガラ・エリュアールと相次いで合流する。

・雑誌『シュルレアリスム革命』の最後の号に重要な論文「言葉とイメージ」をのせる。


■1930年

・ブルトンと離反してブリュッセルへ戻りエッセン街135番地に落ち着く。

・経済恐慌により画廊との契約が無効となる。マグリットは生活のために蔵書の一部を売らなければならなくなる。

・幸運にもメザンスが近作11点を買い上げる。


■1931−1935年

・この間、いくつかの個展や、パリやベルギーのシュルレアリストたちとの展覧会が開かれる。


■1936年

・アメリカにおける最初の個展がニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で開かれる。

・ロンドンで開かれたシュルレアリスト国際展にマグリット作品が展示される。

・アメリカの主要都市7箇所を巡回する「幻想芸術、ダダとシュルレアリスム展」にも出品される。


■1937年

・数週間をロンドンのエドワード・ジェイムズ宅で過ごし、彼のために何点かの作品を制作し、ロンドン画廊で講演をする。

・ベルギーへ帰りマルセル・マリエンを知る。

・雑誌『ミノトール』の10号のための表紙を描く。


■1938年

・アントワープで「生命線」と題された重要な講演をする。そこではこれまでのマグリットの探求が示された。


■1940年

・ドイツ軍の侵攻の前にフランスへ移り、イレーヌおよびルイ・スキュトゥネールとともにカルカッソンヌで過ごす。

・注文肖像画により生計をたてる。


■1943年

・長年続けてきた本来の描き方を放棄し。印象主義風の色彩と描き方、特にルノワール風の描き方を採用する。しかし描かれる内容は変わっていない。この傾向の作品は本来の描き方と並存しながらさらに1947年まで続く。マグリットはそれらを「陽光に満ちた」絵と呼ぶ。


■1945年

・戦争が終わるとマグリットは、1932年、1936年に続き3度目のベルギー共産党への入党をはたす。しかし、共産党の芸術界における反動的姿勢に賛同できず数ヶ月で脱党することになる。


■1946年

・マルセル・マリエンとともにスカトロジーの過激な冊子を編集するが、警察により発行をさしとめられる。

・ヌジェ、スキュトゥネール、マリエンらとともに「陽光に満ちたシュルレアリスム」をベルギーのシュルレアリストのマニフェストとして広める。

・マグリットはブルトンのドグマに断固反対し、楽観的で新しい形を追求する。


■1947年

・ルイ・スキュトゥネールが彼の最初のマグリット論を発表する。


■1948年

・フォーヴの作品をもじった「牡牛(ヴァーシュ)の時代」に入る。大きな筆致による鈍重な手法で、マグリットのいつもの習慣である熟考の検閲を受けていない作品である。しかし大変な不評で、作品は一点も売れずマグリットはこのスタイルを放棄する。

・マグリットの素描約40点を含むロートレアモンの『マルドロールの歌』が出版。

・画商のアレクサンドル・イオラスと契約を結ぶ。


■1951年

・ブリュッセルの王立劇場の回廊の天井画作成の依頼を受ける。


■1952年

・雑誌『写生の葉書』の創刊号が10月に出る。これは葉書大の大きさでマグリットの主宰による。


■1953年

・8点の油彩を制作。後にこれらはカジノ・クノッケ=ル=ズートの壁画となる。


■1954年

・ブリュッセルのパレ・デ・ボザールでE.L.T.メザンスにより組織された初めての回顧展が開かれる。


■1955年

・この年からモーリス・ラパンとの交友が始まる。ラパンは、後に、パリの彼のもとへ送られてきたマグリットの手紙をもとにしてその晩年の記録を出版する。


■1956年

・アレクサンドル・イオラスは、注文肖像画をのぞくマグリットの作品すべてについての優先権を獲得する。これ以降、マグリットの個展はアメリカおよびヨーロッパの彼の画廊で開かれるか、または彼との共催のかたちをとることになる。


■1957年

・ムービーカメラを買い、友人や妻の短編映画を撮影する。

・シャルルロワのパレ・デ・ボザールのための壁画「無知の妖精」を制作する。

・友人のハリー・トルクシナーがマグリットの法律顧問となる。


■1960年

・アメリカ女性スジ・ガブリックが何ヶ月かマグリット家に滞在する。


■1961年

・「神秘のバリケード」がブリュッセルのアルベルト1世王室図書館の会議ホールを飾る。

・1966年までアンドレ・ボスマンスの主宰する雑誌『レトリック』に協力する。


■1965年

・パトリック・ワルドベルグによるマグリット論が出版される。


■1967年

・8月15日、自宅において急死。

 

■参考文献

René Magritte - Wikipedia 



【美術解説】ロジャー・バレン「アフリカ最貧困家庭のシュールな風景

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ロジャー・バレン / Roger Ballen

アフリカ最貧困家庭内のシュールな風景


概要


生年月日 1950年
国籍 アメリカ
居住地 南アフリカ共和国、ヨハネスブルグ
表現媒体 写真、インスタレーション
表現形式 ドキュメンタリー写真、シュルレアリスム
公式サイト http://www.rogerballen.com

ロジャー・バレン(1950年生まれ)はアメリカの写真家。1970年代から南アフリカ、ヨハネスバーグに移住して、生活をしている。

 

ドキュメンタリー写真家として活動を始め過去40年にわたってその写真表現を発展。「個人と建築空間との間における視覚的対話」「発見されたオブジェ」「家畜」といった独特な撮影方法が評価されている。

 

地質学者だっためカメラを携えて田舎の方へ向かう機会が多く、そうした中、南アフリカの隠れた小さな町を発見する。はじめは真昼の強い太陽の光を浴びた誰もいないストリートを撮影していたが、その後、貧しい家庭に関心を持ちはじめ、貧困家庭内の部屋と人々で構築されるシュールで狂的な異様な世界の撮影を始める。

 

発狂者が描いたような落書きのある壁、不自然な曲線が描かれる壁のドローイング。貧困モデルたちを取り囲んでいるシミだらけの壁は、モデルたちが普段生活している実際の自分たちの部屋であり、不自然に折れ曲がりながら這いずり回る電線や壊れたベッドや食器類、イヌやネズミとその死骸なども、すべて元々の部屋の同居人のようなものばかりだった。

 

こうした家庭内に飾られるインテリアやオブジェクトは独特なもので、閉じた世界の居住者たちの世界は、社会批判をよそにし、内面のメタファー表現として独特な風景を鑑賞者に与えることになった。

 

バレンの作品はよく「暗い(dark)」と評されることがあるが、バレン自身は基本的には心理描写であり、また人類の「影の部分」を探求した描写であると説明している。「影はダークより優れている。写真について暗いとは思っていない、私は「暗い」ものとは何なのか、明確にいえない。」と話している。

 

初期はドキュメンタリー写真だが、2001年に発売した過去20年の作品を収めた二冊目の作品集『Outland』以降、抽象的でシュルレアリスティックな写真撮影へ転向する。居住者が部屋の壁に描いたドローイングやオブジェなど周辺環境に興味を持ち始め、これまでの人物ポートレイトから、部屋の道具や人々を独特に配置した写真撮影へ移行するようになる。

 

批評家たちは、初期のドキュメンタリー撮影から、2冊目の作品集『Outland』移行の転向は、ドキュメンタリー写真の規則に反するものであると批判している。

 

2015年4月にPHAIDONより『Outland』が14年ぶりに復刻。45枚もの未発表作品が追加収録され、再編集されている。



【作品解説】ルネ・マグリット「白紙委任状」

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白紙委任状 / Carte Blanche

「見えるもの」と「見えないもの」


《白紙委任状》1965年
《白紙委任状》1965年

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1965年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 65 cm  x 81 cm
コレクション ナショナル・ギャラリー

《白紙委任状》は1965年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。1930年以降のマグリットの絵画でよく現れるようになったのが「だまし絵」「哲学性」であるが、その代表的な作品。

 

描かれている馬は分割されてしまっており、その断片はあいまいに配置されている。また馬は樹々の背後と前にもあるように見える。馬上の女性はよく見ると木の幹に描かれているように見え、女性が乗っている馬の身体と思われる部分は木の色であるように見える。

 

マグリットは『ライフ』誌のインタビューでこの作品について「空間」と「移動」との関係を説明している。

 

「見える物は常に他の見える物を隠している。誰かが馬に乗って森を通り抜ける場合、その馬と人物はときどき見え、ときどき見えなくなる。だが、存在していることは察知できる。また馬と女性はときどき樹木を隠し、馬上の女性だけを隠すこともある。」

 

つまり私たちの思考は「見えるもの」と「見えないもの」を同時に見ることはできないが、両方の存在を察知することはできているということである。マグリットは「見えるもの」と「見えないもの」を同時に表現するために絵画を利用している。たとえば《光の帝国》では昼と夜という、同時に見ることはできないが両方の存在は察知している要素を表現した。

 

そして《白紙委任状》とは馬上の女性が、見えなかったり、見えたりしながら行動することを許す許可証なのである。


 

■参考文献

タッシェン「マグリット」

ルネ・マグリットに戻る


【作品解説】ルネ・マグリット「世界大戦」

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世界大戦 / The great war

スミレで隠された白ドレスの婦人


ルネ・マグリット「世界大戦」(1964年)
ルネ・マグリット「世界大戦」(1964年)

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1964年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 81 cm x 60 cm
コレクション プライベートコレクション

「世界大戦」は1964年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。

 

上流階級を思わせるきれいなドレスを着て日傘をさした婦人。婦人の顔の真ん中にはスミレの花束が置かれている。一番見たい、知りたいその顔はスミレによって隠されている。

 

1946年に制作した「人の子」の対になるような作品で、海と壁の背景をバックにした構図となっている。マグリット作品では、「人の子」のような山高帽の男性の顔がリンゴで隠されている作品をよく制作しているが、このようなスミレで顔が隠された女性作品は本作品だけである。あとの女性ポートレイトは、ほとんど具体的な顔が描かれている。


 

■参考文献

「ルネ・マグリット展」東京国立近代美術館

 

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【作品解説】ルネ・マグリット「選択的親和力」

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選択的親和力 / Elective Affinities

眠っている鳥の姿と卵の親和性


ルネ・マグリット《選択的親和力》1933年
ルネ・マグリット《選択的親和力》1933年

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1933年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 41 cm × 33 cm
コレクション 個人蔵

《選択的親和力》は1933年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。作品タイトルはゲーテの「選択的親和力」という言葉から引用している。

 

鳥と卵の親和性が主題となっているデペイズマン作品。

 

ある夜、マグリットは眠っている鳥が入れられたケージが置かれた部屋で目覚めた。そのときマグリットは眠っている鳥が卵に見え、鳥と卵という2つのオブジェクトの偶然の親和性と詩的さに、ショックを受けて制作を始めたという。マグリットといえばデペイズマンではあるが、今回は体内の卵と籠の中の鳥がダブって見えるという、ダリでいうところの偏執狂的批判的方法な表現性が強い作品である。



【作品解説】ルネ・マグリット「貫かれた時間」

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貫かれた時間 / Time Transfixed

機関車と暖炉とトンネルの驚異の並列


ルネ・マグリット「貫かれた時間」(1938年)
ルネ・マグリット「貫かれた時間」(1938年)

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1938年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 1.47 m x 99 cm
コレクション シカゴ美術館

《貫かれた時間》は、1938年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。現在、シカゴ美術館が作品を所蔵しており、20世紀以降の美術を収集するモダン・ウイング館で常設展示されている。

 

中央に描かれているのは暖炉から蒸気を吹き上げながら出てくる機関車である。機関車のモデルはロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道4-6-0だといわれる。マントルピースの上に時計とろうそく台と鏡が設置されている。鏡には時計とろうそく台が写っているが部屋に人影は見えない。

 

この作品についてマグリットはこのようなコメントをしている。

 

「私は機関車のイメージを描こうと思った。謎めいた感覚を呼び起こすために、謎めきとはまったく無縁そうな機関車とよく似た性質のモチーフ、ダイニングルームにある暖炉を並列して描いた。また暖炉の通気孔の部分に電車を置いたのは、鉄道トンネルから出てくるような場面に思えるからだ。」

 

マグリットによれば、蒸気機関車と石炭燃焼暖炉とトンネルを似たような性質なものとして、イメージを並列しているという。

 

機関車と石炭燃焼暖炉という“驚異の並列”や互いにまったく無関係なオブジェを並列して緻密な描くことで鑑賞を困惑させ、また同時に魅力を発する表現はデペイズマンと呼ばれるもので、マグリットの18番的な表現スタイルで、マグリットのデペイズマン作品の中でも代表的なものである。

 

マグリットは、この頃、ジョルジョ・デ・キリコのデペイズマン表現にかなり影響を受けており、そのためキリコがよく使う時計や機関車というモチーフを取り入れているのだろう。

ルネ・マグリット「リスニング・ルーム」
ルネ・マグリット「リスニング・ルーム」
ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」
ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」
ルネ・マグリット「選択的親和力」
ルネ・マグリット「選択的親和力」

エドワード・ジェームズの注文


この作品は、マグリットのパトロンだったエドワード・ジェームズの自宅の客室に飾るための絵として制作された二番目の作品である。ちなみに最初の作品は《自由の扉で》である。

 

「貫かれた時間」はジェームズがメキシコシティにシュルレアリスム彫刻庭園「ラス・ポサス」を建てる際に、資金調達目的で1970年にシカゴ美術館に売却された。

 

本作のタイトルはフランス語で「La Durée poignardé」だが、英語に翻訳されるときに「Time Transfixed」となり、マグリットは困惑している。フランス語の意味としては「ongoing time stabbed by a dagger(短剣で刺された現在進行の時間)」だからだ。

 

マグリットはジェームズに対して、この絵を客室に上がる階段の一番下にかけてもらうことを希望していたが、皮肉にもジェームズは客室の暖炉の上に飾っていたという。


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