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【作品解説】サルバドール・ダリ「新人類の誕生を見つめる地政学の子供」

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新人類の誕生を見つめる地政学の子供

Geopoliticus Child Watching the Birth of the New Man

新人類はアメリカから誕生する!


「新人類の誕生を見つめる地政学の子ども」(1943年)
「新人類の誕生を見つめる地政学の子ども」(1943年)

概要


「新人類の誕生を見つめる地政学の子供」は1943年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。44.5 X 52 Cm。アメリカ、フロリダにあるダリ美術館が所蔵しています。

 

第二次世界大戦勃発後、1940年から1948年までアメリカに滞在していたときに描いたもの。近代美術の抽象性に反発してルネサンス古典絵画やカトリックからインスピレーションを受けていた時期の作品で、また、個人的なビジョンから普遍的なビジョンへ移行しようとしていた時期のターニングポイントとなる作品。

 

当時の第二次世界大戦の状況やその後の世界を暗示した社会的要素の強い作品です。

地球を支配する超人はアメリカである


卵の形をした地球から出てこようしているのは新人類です。その新人類野誕生を両性具有的な人物と、その人物にしがみついた子ども(地政学の子ども)がおそるおそるみつめています。

 

ダリはナチス時代、地政学に関心を抱いており、当時、ドイツの地政学者として有名だったカール・ハウスホーファーに関心を抱きます。彼がいうにはさらにナチスのルーツとなっているのがベルリンにあるオカルト結社のヴリル協会だったといいます。ヴリルとは地球内部の巨大な洞窟に住む超人で、ある日、超人は地球を支配する計画を立てるといいます。

 

しかし、 ダリはこの超人の物語からインスピレーションを得て、新人類の誕生地をヒトラーの第三帝国ではなくアメリカ合衆国に設定しました。第二次世界大戦を終結させ、地球を救済するのはアメリカであると考えていました。そのため、新人類が誕生する場所、殻を破る場所がアメリカになっているのがわかります。

 

 

ただ、ダリは1940年から1948年まで、アメリカに亡命していたこともあって、超人が生まれる場所をアメリカに設定したのかもしれません。

アフリカ、南米、太平洋まで支配は伸びる


 また、殻を破って出て来る際に、左手はしっかりとイギリスの位置を掴んでいますが、これはイギリスの運命はアメリカが握っているという意味でしょう。なお、ヨーロッパの大きさが実際よりも小さく描かれ、ほとんど破壊された状態になっています。一方、アフリカ大陸と南アメリカ大陸は、力強く描かれています。

 

大人と子どもの影の長さにも注目です。大人よりも子どもの方が影が長くなっています。大人の影はヨーロッパ、大西洋までですが、子どものほうは、太平洋まで伸びています。

 

おそらく、先の短いヨーロッパ人がこれから世界を支配するのはアメリカで、その影響力(影)は太平洋まで伸びるであろうということを子どもに教えているのかもしれません。その証拠に、太平洋部分の殻も超人の足で突き破られそうになっています。

上下にある布のようなものは?


本作についてダリはこのようなメモを書いています。

 

「パラシュート、パラネッサンス、保護、丸天井、胎盤、カトリシズム、卵、地球の歪み、生物学上の楕円」

 

卵の上下にあるパラシュート、または布のようなものにそれらの単語の意味が含まれているものだと思われます。胎盤や卵など「親」のようなものを表現しているのでしょう。

伝統と古典の回帰


なお、大人とその大人にしがみついた子どもは、ラファエロの「聖母結婚」(1504年)に基いて描かれているようです。卵の左に小さく描かれた二人の人物は、ラファエロの「聖母の結婚」の中でも描かれています。

 

シュルレアリスムとちがい、このダリの古典主義的作品の着想は、より普遍的な題材に対する興味がさらに強くなったことを明らかにしています。伝統的な絵画、科学的な発見、同時代の出来事(世界情勢)を見事に表現しています。

ラファエロ「聖母の結婚」
ラファエロ「聖母の結婚」

●参考文献

・上野の森美術館「ダリ展」図録

Salvador Dali Paintings

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【作品解説】サルバドール・ダリ「超立方体的人体(磔刑)」

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超立方体的人体(磔刑)

ファン・デ・エレーラの「立方体理論」


「超立方体的人体(磔刑)」(1954年)
「超立方体的人体(磔刑)」(1954年)

概要


「超立方体的人体(磔刑)」は、1954年にサルバドール・ダリによって制作された油彩作品です。194.3cm×123.8cmの巨大サイズで、アメリカ、ニューヨークにあるメトロポリタン美術館が現在所蔵しています。

 

西洋美術史の伝統的な主題であるイエス・キリストの磔を基盤にして、四次元の超立方体「ハイパーキューブ」の展開図やシュルレアリスムなどダリ独自の要素が加えられた作品です。戦後、ダリは科学への関心と伝統絵画の回帰へ向かいましたが、その頃の代表作の1つ。

原子力芸術論に基いて制作


ダリの「磔刑」への関心は、1940年代から1950年代にかけて始まったダリの美術に対する新たな挑戦「原子力芸術論」の文脈で制作された作品です。

 

この頃のダリは、これまでのシュルレアリスムに対して関心を失い始めていました。その代わりに科学、なかでも原子力がダリを魅了しはじめていました。当時のダリは原子力に対して「原子は思考する際の最も好きな食べものだ」と述べています。

 

ダリが原子力に関心を持つきっかけになったのは、第2次世界大戦を終結させた広島の原爆投下です。この事件以後、ダリは死ぬまで科学や数学など理系関係に関心を持ち始めます。

 

1951年に刊行したエッセイ集『神秘主義宣言』でダリは、カトリックと数学と科学とカタルーニャの土着文化ごちゃまぜにした独自の芸術理論「原子力芸術論」を発表します。それは簡単にいえば「古典的な価値観や技術の復興」でした。そうした原子力芸術論を踏まえて制作された作品が本作「磔刑」です。

 

さらに同年、近代美術業界に対しても原子力芸術論をもとにした霊的な古典絵画運動を呼びかけ、布教活動を開始します。ダリはアメリカを旅し、各地で原子力芸術論の講義を行いました。

 

「磔刑」が描かれる前から、ダリはキューブというモチーフとともに古典絵画の技術を使って爆発するキリストの肖像を発表する告知をしていたようです。

ファン・デ・エレーラの立方体理論


ダリはただ古典絵画に回帰したわけではありません。ダリは、かつてスペイン国王フェリペ2世に仕えて、エスコリアール宮の大建築を手がけたファン・デ・エレーラの立方体理論に基いてこの絵を制作しています。

 

「十字架は超立方体であり、キリストの身体は、8つの立方体のひとつと合体しながら、形而上学的には第9の立方体となる。9という数字はキリストの神聖の神学的象徴あからである」『立方体論より』

 

 

この立方体理論をダリ風にしたのが本作品です。8つの立方体でできた十字架に磔されているのはキリストでありダリです。その身体には4つの立方体が釘の代わりとなってその位置を保っているようである。そしてキリストの母マリアに扮しているのはガラで、豪華な衣装をまとってキリストを見上げている。つまり、現代科学的な理論です。(続く)

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【作品解説】サルバドール・ダリ「クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見」

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クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見

The Discovery of America by Christopher Columbus

ダリによるコロンブスへのオマージュ


概要


「新大陸の発見」が主題


「クリストファー・コロンブスのアメリカ発見」は、1958年から1959年にかけてサルバドール・ダリによって制作された油彩作品。410×284cmもある最も巨大なダリ作品の1つです。アメリカ、フロリダにあるダリ美術館が所蔵しています。

 

アメリカの実業家でコレクターのハンチントン・ハートフォードの依頼により、ニューヨークの2 Columbus Circle内にあるハンチントンの近代美術館のオープニングのために制作されたものです。この作品は、同じスペイン人であるコロンブスへのオマージュであり、スペインの歴史、宗教、芸術を連結させて全体的には神話仕立てになっています。

 

ただし、当時のカタランの歴史家たちは、コロンブスはカタルーニャ出身ではなく、イタリア出身であることを理由にこの作品を批判しています。しかし、ダリは歴史的事実の正確さよりも、“新大陸の発見”という出来事そのものを比喩的に表現したかったので、気にしませんでした。

 

 

コロンブスとダリの姿を重ねている


 絵の中のコロンブスは、アメリカ大陸発見時、本当は中年の船員だったにもかかわらず、新大陸アメリカの発見を象徴する聖母マリア化したガラの旗印を持ち、旧大陸を象徴するの古典的なローブに身を包んだ青年として描かれています。

 

のちにダリ自身が、ガラのことを「新大陸の発見」と説明しているように、ダリの青年期の姿をコロンブスにたとえています。

 

 

またダリはこの時代、ローマ・カトリック教会の神秘主義へ関心を高めていた時期です。そのため、新大陸にキリスト教と真の教会をもたらすコロンブスの姿を自分と重ねています。なおダリ自身は、絵の中においてコロンブスの後方にいる十字架をもってひざまづく僧侶の姿として描かれています。

ベラスケス作品から強い影響


300年前のスペインの巨匠であるベラスケス作品からかなり多くを引用している点も大きな特徴です。ベラスケスはダリに大きな影響を与えており、ダリの特徴である口ひげもベラスケスからの影響です。

 

特に「ブレダの開城」からの引用は明白で、「ブレダの開城」右側に描かれている櫓とよく似たものが、本作の右側にも描かれている。

ベラスケス「ブレダの開城」
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【完全解説】ハンス・ベルメール「日本に衝撃を与えた球体関節人形」

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ハンス・ベルメール / Hans Bellmer

日本に衝撃を与えた球体関節人形


概要


生年月日 1902年3月13日 ドイツ帝国時代カトヴィツェ
死去 1975年2月24日(72歳)
国籍 ドイツ
表現媒体 人形、写真、彫刻、絵画、詩
代表的作品 Die Puppe(1934年、書籍)、「Popee」(1935年、書籍)
表現スタイル シュルレアリスム、ベルリン・ダダ

ハンス・ベルメール(1902年3月13日-1975年2月23日)はドイツの画家、版画家、オブジェ作家、写真家。1930年なかばに制作した等身大の少女人形作品が一般的には知られている。

 

それまでは絵描きだったが、ナチスへの反発をきっかけに1933年から人形制作を始める。グロテスクでエロティシズムな球体関節人形を制作し、それらを演劇仕立てにして野外撮影した自費出版の写真集としてが、パリのシュルレアリスム・グループから注目を集めるようになる。ベルリンからパリへ亡命後、シュルレアリスム運動に参加したあと、積極的に自身に眠るエロティシズムを探求するようになる。

 

ベルメールには日本の球体関節人形の創生に大きな影響を及ぼしている。1965年に雑誌『新婦人』で澁澤龍彦がハンス・ベルメールの作品を誌面で紹介。その記事を見た四谷シモンが多大な影響を受け、本格的な球体関節人形の創作を始める。以後、球体関節人形は少しずつアンダーグラウンドで広まっていき、四谷シモンをはじめ、吉田良、天野可淡、恋月姫、清水真理などの現代人形作家を生み出した。

 

なお美術史的には、ベルメールは人形作家ではなく、シュルレアリムの写真家、画家として位置づけられている。球体関節人形は、ベルメールの長い芸術活動の中の一部であり、一般的にはファーストドールとセカンドドールのみ知られている。特に晩年はウニカ・チュルンをモデルにしたドローイングの画家として評価を高めた。

チェックポイント


  • 日本の球体関節人形の創生に多大な影響
  • 人形作家ではなく、本業は画家、写真家
  • 二体の人形作品(ファースト&セカンド)しか知られていない

作品解説


「人形」(1936年)
「人形」(1936年)

略歴


若齢期


 ハンス・ベルメールは、1902年 、シュレジエン地方・カトヴィッツの裕福な技師の長男として生まれました。

 

父親はプロテスタントの優秀なエンジニアで、典型的なブルジョア道徳の体現者でした。性格は厳格で冷淡、家庭では独裁的な権力をふるっていたようです。一方で母親は父親とは真逆で、少女のように優しく、可愛らしい外見で、ハンスと一緒に玩具を集めたりして遊んでいました。

 

このような極端な異なる性格の両親を持つ家庭環境はベルメールの大きな影響を与えました。ベルメールは恐ろしく厳格で厳しい外部の世界と、優しい小児的で少女的な内部の世界というアンビバレンツな感情を育てていったのです。この頃の環境が、のちに人形制作に反映されるようになります。

 

ベルメールは、1926年までに広告会社を設立し、ダダイストのヴィーラント・ヘルツフェルデが設立した出版社を中心に本の印刷やデザインの仕事をして生計をたてていました。

 

人形作りを始めたきっかけは、1933年のナチスの政権掌握。ベルメールはファシズムに抗議するため、また社会貢献の一貫として労働を放棄し、人形制作を始めたのだといいます。できあがった奇妙な形態のベルメールの人形は、当時ドイツで盛んだった行き過ぎた健康志向を批判したものであるといいます。

 

なお、ベルメールの人形作りには、1925年にオスカー・ココシュカがハーミー・ムーズに宛てた手紙に書かれていた等身大の人形の作り方を参考にしたようです

ファースト・ドール


Sketch for the "Die Puppe" series, 1932
Sketch for the "Die Puppe" series, 1932

ファーストドールは1933年に制作された。ドール制作のきっかけとなるのはナチスですが、ベルメールの幼少期における父親に対する恨みや反抗心も大きく関わっています。

 

ベルメールの父親は厳しく、暴力的で、幼少の頃から実用的な仕事に就くようベルメールを教育してきました。こうした環境でベルメールは、父親に対して反抗心を持ち始めます。

 

ベルメールのなかで、男性的(父親的)なものとは、とりも直さず、実用性や有用性であり、社会的なものとみなしました。それはもちろん厳格な父親の姿を結びつけたものでした。

 

その一方で、女性(母親)とは、子どもをむすぶ楽園であって優しく、それは父親と敵対する抑圧されたものでした。後年、彼がナチスに対して激しい憎悪を燃やしたのも、この父的なものに対する反発でした。

 

こうした心理的背景のもと、ベルメールは球体関節人形の制作に取り組み始めました。彼の人形制作の動機は父親への挑戦だったため、個人的な欲望の対象と同時に、社会的にも性的にも白無用な存在と見なされている「少女」を人形のモチーフとして選ぶことにしました。

 

また「少女」というモチーフを選ぶにあたって、1932年に出会った従姉妹の10代の美しい少女ウルスラの影響が大きいといわれてます。ベルメールは彼女に性的な関心を抱いていたといいます。ウルスラは彼の人形に非常に似ていることから、人形のモデルであると言われています。ウルスラへの愛着と父親に対する憎悪がごちゃまぜになってできたのがグロテスクでエロティックな球体関節人形だったのです。

 

ウルスラとともに、マックス・ラインハルト演出のオペラ「ホフマン物語」を観劇して、人形師コッペリウスと自動人形オリンピアからインスピレーションを得ます。ベルメールの作品が演劇仕立てになっているのはホフマン物語を基盤にしているためです。この話は主人公が自動人形に恋をする話であり、主人公ナタニエルの父親に眼球をとられるというエディプス・コンプレックス的なでもありました。

 

制作する人形の腹の中には、ベルメールの夢想の「パノラマ」が設置されました。へそにはめ込まれたガラスの球体から内部をのぞくと、エピナールの版画だの、少女の痰のついたハンカチだの、極地の氷山のなかに閉じ込められた船だのが見えます。そして左乳首を押すと、パノラマの景色が変わるのだった。

 

へその孔からパノラマが見える人形くらい社会にとって無益なものはなかった。ナチスはこれを頽廃芸術と呼ぶに違いない。無用な少女人形によって、ベルメールは、有用性への反発、ナチスへの反発、社会への反発、ウルスラへの愛情、性的関心、そして父への復讐を紐付けるように果たしたのです。

シュルレアリスム運動に参加


1933年にファースト・ドールを制作。ベルメールは制作の様子を写真撮影していたおかげで、バラバラのパーツが組み上がっていく姿を正しく理解することができました。

 

身長は約16インチで、亜麻繊維、接着剤、および石膏などの材料で作られた胴体と頭部、、ガラスの眼球、長ほうきの柄か杖を使って作られた両脚、ボサボサのかつらを組み合わせて人形は作られました。また肘や膝と言った関節部分は石膏管で作られていました。

 

翌年34年、モノクロの人形の写真10枚と短い序文をおさめた『The Doll(Die Puppe)』をカールスルーエのTh・エックシュタイン社より自費出版します。「活人画」シリーズといわれるもので、ベルメールのファースト・ドールの写真が収められています。ベルメールのクレジットはなく、匿名で出版されました。1人でこっそりと制作した本だったので、ドイツで知られることはありませんでした。

 

しかし、この自主制作本はソルボンヌ大学に入学したウルスラによって、パリのシュルレアリストたちのもとへわたり、それがシュルレアリストたちから熱狂的な支持を受けます。ついに、当時のシュルレアリム機関誌『ミノトール』でベルメールの作品が掲載されました。これをきっかけにベルメールとシュルレアリスム運動の公式な接触が始まり、その名声は世界中に広がっていきました。

 

ベルメール掲載されたのは、『ミノトール』1935年の冬に出た6号です。何よりも、ハンス・ベルメールの登場が、断然、異彩を放っています。見開き2ページに、あの、惨劇のあとを思わせるベルメールの人形たちが、ずらりと並べられています。

 

シュルレアリスム美術のなかで、もっとも生臭く、低俗すれすれのところであえて勝負したベルメールの人形は、シュルレアリスムの本質にある二流志向を、極端にまで実行してみせました。

 

マイナーな人形作家とシュルレアリストとの仲立ちをしたウルスラの存在がなくては、ベルメールはシュルレアリスムの歴史に存在しなかったかもしれません。なおファーストドールは、球体が使われているがパーツとしての役割だけで、実際には動かすことができないため不完全な「球体関節人形」でした。

 

雑誌「ミノトール」6号。ベルメールが見開きで紹介。
雑誌「ミノトール」6号。ベルメールが見開きで紹介。

セカンド・ドール


1935年、プリッツェルとともに訪れたカイザー・フリードリヒ美術館に展示されていたデューラー派の人形からヒントを得て、球体関節を採用したセカンド・ドールの制作を始めます。

 

セカンド・ドールは腹部が球体関節であることが大きな変化です。またファーストは技術的にも理論的にもまだ未熟な面がありましたが、セカンド・ドールではそれらの面も大幅に進歩しています。

 

この人形作品は、身体の各パーツをバラバラにしたり、組み立てたりして台所、階段、庭など様々な環境の中で120点あまりの写真を残されました。おそらく、一般的によく知られているベルメールの人形はセカンド・ドールのほうでしょう。

 

ベルメールの球体関節の哲学とは、あらゆる角度から造形的に追求されたものです。人間のエロティックな解剖学的可能性を、快楽原則によって再構成することが、ともするとベルメールのひそかな野心だったのかもしれません。

 

そのために、ありとあらゆる肉体の変形に適応するような人形を創作しました。ベルメールの人形哲学によれば、女体の各部分は転換可能です。身体の相互互換、入れ替えが可能になるので、奇妙な人形がたくさん作られました。

 

最も有名なのは、二セットの脚が胴体にくっついて頭部が存在しない蜘蛛のような不気味な球体関節人形でしょう。

第二次世界大戦と戦後


 第二次世界大戦が勃発すると、ベルメールは偽パスポートを作ってドイツからフランスにわたり、フランス・レジスタンスに参加し、ナチス・ドイツに抵抗していました。しかし、1939年9月から1940年のまやかし戦争が終戦するまで、ベルメールはフランス南部にあるエクス=アン=プロヴァンスのミルズ収容所に収監され、煉瓦工場で強制労働させられました。

 

戦後、ベルメールはパリで終生を過ごすことになります。人形制作はやめ、残りの数十年をおもにエロティックでシュルレアリスム風のドローイング画や版画の制作、それに加えて写真表現が中心になります。私たちが目にするファースト・ドールとセカンド・ドールは1930年代の一時的なものでした。

 

ベルメールは1951年に画家のウニカ・チェルンと出会います。彼女は1970年に自殺するまで愛人・モデルとなりました。ベルメールの芸術制作は1960年代まで続いた。

 

1975年2月24日、膀胱がんで死去。ベルメールは「ベルメール-チュルン」と碑銘され、ペール・ラ・シェール墓地のウニカ・チュルンのそばに埋葬されました。

「ベルメールとチュルン」シリーズ
「ベルメールとチュルン」シリーズ
「ベルメールとチュルン」シリーズ
「ベルメールとチュルン」シリーズ

ベルメールの影響


ニューヨークで活動するポスト・パンク・バンドの「ベルメール・ドールズ」はベルメールから名前を引用している。


2003年の映画『ラブ・ドール』にはベルメール作品の影響がはっきりと現れている。たとえば主人公のリサ・ベルメールという名前は、ベルメールから引用している。


2004年のアニメ映画『攻殻機動隊2:イノセンス』では、ベルメールのエロティックや不思議な人形の要素が見られる。さらに監督の押井守は映画製作の際にベルメールからインスピレーションを得たと発言している。


2001縁のビデオゲーム「サイレントヒル2」にはベルメールの人形と非常によく似たマネキンというキャラが現れる。しかし、イラストレーターの伊藤暢達は、マネキンのデザインはベルメールから影響を受けておらず、日本の伝統人形からインスピレーションを得ていると話している。

「攻殻機動隊2 イノセンス」
「攻殻機動隊2 イノセンス」
左:ベルメールのセカンドドール 右:サイレントヒル2のマネキン
左:ベルメールのセカンドドール 右:サイレントヒル2のマネキン

作品集


  • Die Puppe, 1934.
  • La Poupée, 1936. (Translated to French by Robert Valançay)
  • Trois Tableaux, Sept Dessins, Un Texte, 1944.
  • Les Jeux de la Poupée, 1944. (Text by Bellmer with Poems by Paul Eluard)
  • "Post-scriptum," from Hexentexte by Unica Zürn, 1954.
  • L'Anatomie de l'Image, 1957.
  • "La Pére" in Le Surréalisme Même, No. 4, Spring 1958. (Translated to French by Robert Valançay in 1936)
  • "Strip-tease" in Le Surréalisme Même, No. 4, Spring 1958.
  • Friedrich Schröder-Sonnenstern, 1959.
  • Die Puppe: Die Puppe, Die Spiele der Puppe, und Die Anatomie des Bildes, 1962. (Text by Bellmer with Poems by Eluard)
  • Oracles et Spectacles, 1965.
  • Mode d'Emploi, 1967.
  • "88, Impasse de l'Espérance," 1975. (Originally written in 1960 for an uncompleted book by Gisèle Prassinos entitled L'Homme qui a Perdu son Squelette)

●参考文献

Tate

Wikipedia-Hans Bellmer

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【完全解説】ヴィヴィアン・マイヤー「謎のアマチュア写真家」

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ヴィヴィアン・マイヤー / Vivian Maier

謎のアマチュア写真家


概要


本名 ヴィヴィアン・ドロシー・マイヤー
生年月日 1926年2月1日(アメリカ、ニューヨーク)
死没月日 2009年4月21日(83歳)
国籍 アメリカ
タグ 写真
公式サイト http://www.vivianmaier.com/

ヴィヴィアン・マイヤー(1926年2月1日-2009年4月21日)はアメリカのアマチュア写真家。シカゴのノースショアでベビーシッターとして約40年間働きながら、空き時間に写真の撮影・研究をしていた。生涯に15万以上の写真を撮影しており、被写体の中心はニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス内の人物と建物で、世界中を旅して写真の撮影をしている。

 

マイヤーが生きている間、彼女の写真は世に知られることはなかった。彼女のネガフィルムの多くは一度も印刷されることはなかった。シカゴのコレクターのジョン・マルーフが2007年にマイヤーの写真をオークション・ハウスでいくつか手にいれ、また同時期にロン・スラッテリーやランディ・プローといったほかのコレクターも箱やスーツケースにいっぱい入った彼女の写真やネガフィルムを発見し、入手。

 

マイヤーの写真が初めて一般公開されたのは、2008年6月。ジョン・マルーフによってインターネット上にアップロードされた。しかし当初の反応はほとんどなかった。2009年10月にマルーフがFlickerに共有したマイヤーの写真をブログで紹介すると、今度は何千ものユーザーが関心を示しはじめ、ウイルス感染のように一気に彼女の名前は世界中に広まっていった。

 

マイヤー作品への高評価と関心はどんどん広がり、マイヤーの写真は北アメリカ、ヨーロッパ、アジア、南アメリカで展示されることになり、さらに彼女の生涯を描いたドキュメンタリー映画や書籍が刊行されるようになった。

 

日本では2015年10月にシアター・イメージフォーラムでドキュメンタリー『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』が公開。2016年3月2日にはDVDリリースも予定されており、また2011年に発売された彼女の写真作品集『Street Photographer』はAmazon洋書の写真部門で一位を独走している。

略歴


幼少期


マイヤーの生涯に関する情報はほとんど残っていません。友達がいた気配もなく、もちろん結婚もしていません。背がとても高く大柄で、手を振って軍隊のような歩き方をする。わざとフランス語訛りの英語を話し、出生地や家族については絶対に明かさなかったといいます。

 

出生記録によれば、ヴィヴィアン・マイヤーは、1926年2月1日、アメリカのニューヨーク市で、フランス人の母マリア・ジャソード・ジャスティンとオーストリア人の父チャールズ・マイヤーとの間に生まれてます。

 

子供時代に何度かアメリカとフランス間を行き来したことがあり、フランス滞在時には、母親側の親族が住むサン=ボネ=アン=シャンソールのアルパイン村で生活していたようです。理由は不明ですが、父親は1930年まで一時的に蒸発をしていたようです。

 

1930年に行われた国勢調査によれば、ボストン滞在時のマイヤー一家の世帯主は有名写真家のジャンル・ベルトランと記録されています。

 

1935年頃にヴィヴィアンと母親は、フランスのサン・ジュリアン・アン・シャンソールの農園で生活しています。この土地の遺産はあとでマイヤーに受け継がれています。1940年までにマイヤーと母はニューヨークに戻り、父チャールズ、母マリア、弟チャールズと一緒に生活をはじめました。父親は鉄鋼技師として働いていたようです。

ベビーシッターとして40年間過ごす


1951年、マイヤーが25歳のときにニューヨークへの搾取工場(ブラック企業のようなもの)で働き始めます。1958年にシカゴのノースショアへ移ると、以後40年間、ベビーシッターや介護関係の仕事で生活を立てるようになりました。(当時のシカゴには偶然ヘンリー・ダーガーも住んでいた)。

 

シカゴに着いてからの最初の17年間は、マイヤーは2つの家庭で長く家政婦として働いていました。1956年から1972年までレーゲンスブルク家で、1967年から1973年までレイモンド家で働いています。リーン・レーゲンスブクによれば、マイヤーはまるでメアリー・ポピンズのようで、決して子どもたちをしゃべり負かすことはなく、また子どもたちをよく豊かな郊外の世界に連れていって、外の世界について勉強させていたといいます。この頃のマイヤーは、問題ない乳母でした。

 

当時、マイヤーは休日にはたいていはローライフレックスのカメラを持って、シカゴの通りを散歩しながら写真を撮っていたようです。

 

1959年から1960年にかけてマイヤーは世界旅行に出かけます。ロサンゼルス、マニラ、バンコク、上海、北京、インド、シリア、エジプト、イタリアを写真撮影しながら旅しました。旅費はおそらくフランスのサン・ジュリアン・アン・シャンソールにある受け継いだ農場を売却して得たお金だろうと推測されています。

加齢とともに偏屈化していくマイヤー


1970年代、マイヤーはフィル・ドナヒューの子どもたちの乳母として働きます。この頃からマイヤーの性格が偏屈化して、狂気じみてきたようです。彼女は荷物を雇用主に預けていましたが、その分量が凄まじかったといいます。彼女はモノをすてることが出来なかった性格で、持ち物は200箱分もありました

 

その大半は写真かネガでしたが、ほかに彼女は新聞、靴、服なども捨てずに集めていたようです。新聞は天井に届くぐらいの分量でした。彼女が撮影した人たちと会話したときの録音テープなんかも大量にあったようです。

 

また、2013年のドキュメンタリー映画『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』や『ヴィヴィアン・マイヤーの不思議』で、マイヤーの雇用主や世話をした子どもたちへのインタビューが収録されていますが、中年以降の彼女の気性は非常に激しく、近隣とのトラブルや常軌を逸した行為がより目立つようになりました。

 

インタビューした子どもたちの中には、虐待に近い出来事や怪しい場所に連れて行かれた記憶を語る人もいます。そのため、晩年は乳母の仕事を見つけるのが難しくなっていき、貧しさと狂気に蝕まれた生活になっていったようです。

晩年


 子供時代にマイヤーに世話をしてもらっていたジェンズバーグ兄弟は、年老いて仕事もなくなり貧しくなった彼女を援助しようとしました。

 

彼女はがキケロ郊外に借りていた安アパートからまさに追い出されそうになときに、ジェンズバーグ兄弟が助けに入ります。シカゴに彼女のためのアパートを手配し、兄弟でアパートの家賃を負担していたようです。

 

2008年11月にマイヤーは氷上で転倒し、頭を強く打ちます。病院へ運ばれましたが回復することなかったようです。2009年1月にイリノイ州のハイランドパークの看護病棟に移され、2009年4月21日に亡くなりました。

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ロジャー・バレン

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ロジャー・バレン / Roger Ballen

アフリカ最貧困家庭内のシュールな風景


概要


生年月日 1950年
国籍 アメリカ
居住地 南アフリカ共和国、ヨハネスブルグ
表現媒体 写真、インスタレーション
表現形式 ドキュメンタリー写真、シュルレアリスム
公式サイト http://www.rogerballen.com

ロジャー・バレン(1950年生まれ)はアメリカの写真家。1970年代から南アフリカ、ヨハネスバーグに移住して、生活をしている。

 

ドキュメンタリー写真家として活動を始め過去40年にわたってその写真表現を発展。「個人と建築空間との間における視覚的対話」「発見されたオブジェ」「家畜」といった独特な撮影方法が評価されている。

 

地質学者だっためカメラを携えて田舎の方へ向かう機会が多く、そうした中、南アフリカの隠れた小さな町を発見する。はじめは真昼の強い太陽の光を浴びた誰もいないストリートを撮影していたが、その後、貧しい家庭に関心を持ちはじめ、貧困家庭内の部屋と人々で構築されるシュールで狂的な異様な世界の撮影を始める。

 

発狂者が描いたような落書きのある壁、不自然な曲線が描かれる壁のドローイング。貧困モデルたちを取り囲んでいるシミだらけの壁は、モデルたちが普段生活している実際の自分たちの部屋であり、不自然に折れ曲がりながら這いずり回る電線や壊れたベッドや食器類、イヌやネズミとその死骸なども、すべて元々の部屋の同居人のようなものばかりだった。

 

こうした家庭内に飾られるインテリアやオブジェクトは独特なもので、閉じた世界の居住者たちの世界は、社会批判をよそにし、内面のメタファー表現として独特な風景を鑑賞者に与えることになった。

 

バレンの作品はよく「暗い(dark)」と評されることがあるが、バレン自身は基本的には心理描写であり、また人類の「影の部分」を探求した描写であると説明している。「影はダークより優れている。写真について暗いとは思っていない、私は「暗い」ものとは何なのか、明確にいえない。」と話している。

 

初期はドキュメンタリー写真だが、2001年に発売した過去20年の作品を収めた二冊目の作品集『Outland』以降、抽象的でシュルレアリスティックな写真撮影へ転向する。居住者が部屋の壁に描いたドローイングやオブジェなど周辺環境に興味を持ち始め、これまでの人物ポートレイトから、部屋の道具や人々を独特に配置した写真撮影へ移行するようになる。

 

批評家たちは、初期のドキュメンタリー撮影から、2冊目の作品集『Outland』移行の転向は、ドキュメンタリー写真の規則に反するものであると批判している。

 

2015年4月にPHAIDONより『Outland』が14年ぶりに復刻。45枚もの未発表作品が追加収録され、再編集されている。

【作品解説】ルネ・マグリット「大家族」

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大家族 / The Large Family

鳥と空の選択的親和性


ルネ・マグリット「大家族」(1963年)
ルネ・マグリット「大家族」(1963年)

概要


中央の鳥


「大家族」は1963年に制作されたルネ・マグリットによる油彩作品。マグリット晩年の作品。日本の宇都宮美術館が所蔵しています。オープン準備中の1996年に600万ドル(約6億円)で購入したという。サイズは61.4 Cm X 49.6 Cm 。

 

周囲のどんよりとした環境とは対照的に、中央には大きな平和の象徴である白い鳥とその中に広がる夏の空が描かれ、鳥はカットアウトしたような表現で描かれています。

 

尾の形などからカササギとみなされており、この鳥は、家族単位内の愛と団結象徴するものです。カササギはブリュッセル郊外では日常的に見られる中型の鳥で、マグリットにとっては親近感のある鳥でした。

 

マグリット作品において鳥は、「幸福のきざし」をはじめいくつかの作品において、基本的にポジティブなモチーフとして使われています。

選択的類似性


ここでは鳥が、空を大きく切り抜いた形で表現されています。マグリットによれば、大空と鳥には「選択的親和性」があるといいます。

 

選択的親和性とは「似ている」という意味ではなく「連想させる」という意味です。サルバドール・ダリの偏執狂的批判的方法(ダブル・イメージ)に近いものだと思います。

 

マグリットは大空を見ると鳥を連想し、また鳥を見ると大空を連想しがちだったといいます。そのため快晴の青空ではなく、一目で空だと分かるように雲の浮かんだ空を採用しています。

大家族というタイトル


一見すると、作品内に「家族」や「人間」のような絵の要素が見当たらないため「家族」というタイトルが適当であるか疑問に感じられます。

 

しかし、マグリットは「イメージの裏切り」のように、「言葉」と「言葉が指し示す内容」の相違で、鑑賞者を困惑させるのが得意としているので(そのため哲学的な画家といわれる)、マグリット作品ではタイトルについて深く考える必要はないかと思います。

 

「大家族」は、曇りがかった寂しげな空と嵐を予兆する波際の風景で、どこか危機感を呼び起こす。地平線上にうっすら輝くピンクの光は「終焉」や「希望」を意味するのかもしれません。そうするとタイトルの「家族」とは、しばしばともに耐える必要がある試練や苦難を象徴するものであると解釈もできます。

 

また、翼を広げた包容力のありそうな大きな鳥の姿と、以外に違和感なくマッチしているにも思えます。

ルネ・マグリットTop

 

参考文献

The Large Family, 1963 by Rene Magritte 

・マグリット展2002 Bunkamuraミュージアム図録

 

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【完全解説】ルネ・マグリット「哲人画家」

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ルネ・マグリット / René Magritte

視覚美術と哲学の融合


「人の子」1964年
「人の子」1964年

概要


生年月日 1898年11月21日
死没月日 1967年8月15日
国籍 ベルギー
表現媒体 絵画
表現スタイル シュルレアリスム
代表作品

イメージの裏切り

大家族

人の子

光の帝国

ゴルゴンダ

ルネ・フランソワ・ギスラン・マグリット(1898年11月21日-1967年8月15日)はベルギーの画家。シュルレアリスト。

 

ある物体が、現実的にはありえない場所に置かれていたり、ありえないサイズで描かれる手法デペイズマンをたくみに利用するシュルレアリスト。

 

初期はエロティシズムや女性を主題とした作風だったが、1930年代以降になると、ほかのシュルレアリストに比べて内面的な表現はかなり抑制され、「白紙委任状」のような錯覚を取り入れただまし絵作品や、「イメージの裏切り」のような哲学的要素の高い理知的な表現が際立つようになる。

 

そのため哲学者のミシェル・フーコーをはじめ、多くの美術関係者以外の知識人にも人気が高い。また、具象的でインパクトが強い絵画でもあるため、サルバドール・ダリ同様、のちのポップカルチャーへの影響も大きい。

  

 

シュルレアリスムのリーダー、アンドレ・ブルトンと対立があったものの、生涯シュルレアリスムの表現思想には忠実。またポップ・アート、ミニマル・アート、コンセプチャル・アートなどアメリカ現代美術に大きな影響を与えている。

チェックポイント


  • デペイズマンを利用する代表的な画家
  • 絵画に哲学的要素を持ち込んでいる
  • 戦後のポップカルチャーへの影響が大きい

作品解説


「大家族」
「大家族」
「光の帝国」
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「ゴルコンダ」
「ゴルコンダ」
「イメージの裏切り」
「イメージの裏切り」

「人の子」
「人の子」
「リスニングルーム」
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「白紙委任状」
「白紙委任状」
レディ・メイドの花束
「レディ・メイドの花束」

「水平線の神秘」
「水平線の神秘」
「不許複製」
「不許複製」
選択的親和力
選択的親和力
恋人たち
恋人たち

共同発明
共同発明
幸福の兆し
幸福の兆し
鳥を食べる少女
鳥を食べる少女
黒魔術
黒魔術

ピレネーの城
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貫かれた時間
貫かれた時間
自由の扉で
自由の扉で
世界大戦
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略歴


母の自殺にショックを受けた幼少期


ルネ・マグリットは、1898年11月21日、ベルギー西部エノー州のレシーヌで、仕立屋商人レオポール・マグリットと結婚前はお針子をしていた母のレジーナ・ベルタンシャンのあいだに長男として生まれました。

 

祖先にはマルゲリット兄弟と呼ばれた人がいて、彼らは熱心な共和主義者で、ロベスピエールの死後ピカルディー地域から亡命したとされています。またマグリットには二人の弟がおり、レイモンは1900年生まれ、生涯を通じて親密だったポールは1902年生まれです。

 

1910年にマグリット一家は、レシーヌからシャトレに移り、絵画教室に通い始め、油彩画や素描を学び始めます。

 

1912年5月12日に母がサンブル川に入水自殺します。母は亡くなる以前から数年にわたって自殺未遂をしていました。父のレオポールは彼女が自殺をしないように寝室に鍵をかけて閉じ込めていたこともありました。しかしある日、母は部屋から脱走して数日間行方をくらました後、数マイル離れた河川敷で遺体として発見されました。

 

遺体が発見された際、ドレスが母の顔を覆いかぶさっていた光景にマグリットは強いショックを受けます。この幼少期のトラウマは、1927年から1928年にかけて描かれたいくつかの絵画のインスピレーション元となったといいます。マグリット作品で顔が隠されている物が多い理由は母親の自殺事件が元だともいわれています。その後、マグリット兄弟は下女と家庭教師に預けられることになります。

 

1913年、マグリットの一家はシャルルロワへ引っ越し、マグリットは高校へ入学。またこの頃に定期市の回転木馬で2歳年下で、後に結婚するジョルジェット・ベルジェと出会います。 

シュルレアリスム以前


「モダン」(1923年)
「モダン」(1923年)

マグリットの作品は1915年から確認できます。初期は印象派スタイルでした。

 

1916年から1918年までブリュッセルの美術学校に入学し、コンスタン・モンタルドのもとで学びますが、授業に退屈を感じます。結局、古典的な美術様式にはあまり影響は受けず、印象派以降の近代美術に影響を受けました。

 

1918年から1924年の間に制作した絵画では、未来派やジャン・メッツァンジェやピカソなどのキュビスムから影響を受けています。またこの時代の作品のモチーフの多くは女性画でした。

 

第一次大戦後は、ベルギーのダダ運動に参加。詩人でありコラージュ作家だったE.L.Tメセンスとともに、雑誌『食道(Esophage)』と『マリー(Marie)』を発刊。彼ら以外には、アルプ、ピカビア、シュヴィッタース、ツァラ、マン・レイらも参加した前衛カラーの強い雑誌でした。

 

1920年、ブリュッセルの植物園において偶然ジョルジェットと再会。1922年に結婚します。 

 

1920年12月から1921年9月までマグリットは、レオポルドスブルグ近くのビバリーのフランドル街に歩兵として兵役につきます。兵役の間に指揮官の肖像画を制作していました。兵役を終えた後、1922年から23年にかけてマグリットは壁紙工場で図案工として働きます。その後、工場をやめ、1926年までポスターや広告デザイナーとして働きます。この時期の作品は、ドローネやレジェなどピュリスムに近いものでした。

 

この頃、詩人のマルセル・ルコントがマグリットに見せたジョルジョ・デ・キリコの『愛の歌』の複製に大きな影響を受けて、芸術家への転向を決意します。

「ヌード」(1919年)
「ヌード」(1919年)
「水浴する女」(1921年)
「水浴する女」(1921年)
「ジョルジェット」(1923年)
「ジョルジェット」(1923年)

マグリットとジョルジェット
マグリットとジョルジェット

シュルレアリストとして活躍


「恋人たち」(1928年)
「恋人たち」(1928年)

1926年にマグリットは、キュビスムを放棄して、最初のシュルレアリスム絵画『迷える騎手』を制作。

 

またブリュッセルのル・サントール画廊と契約を結び、翌年1927年に、ブリュッセルで初個展を開催。この頃からフルタイムで画業に専念を始めます。しかし批評家たちはマグリットの個展に対して辛辣で、個展はあまりうまくいかなかったようです。

 

ブリュッセルでの個展の失敗によってマグリットは意気消沈してパリへ移住。そこでアンドレ・ブルトンと知り合いになり、シュルレアリム・グループに参加することになります。マグリットは1927年に母国ベルギーを去りパリへ移住したあと、すぐにシュルレアリスム・グループの筆頭格となり、3年間滞在して活動します。

 

1924年から1929年の間がシュルレアリスム運動で最も盛り上がった時期であり、この頃のマグリットの初期シュルレアリスム作品は、幻想的というよりも不気味なものが多いです。マグリットの代表作の『恋人たち』はヴェールを被って接吻している絵画であるが、このヴェールは、幼くして母が謎の入水自殺をした事件がモチーフとなっているといわれています。

「天空の筋肉」(1927年)
「天空の筋肉」(1927年)
「鳥を食べる少女」(1927年)
「鳥を食べる少女」(1927年)
「間違った鏡」(1928年)
「間違った鏡」(1928年)

哲学と美術の融合


「イメージの裏切り」(1929年)
「イメージの裏切り」(1929年)

1929年には美術史上よりも哲学史上において有名な作品「イメージの裏切り」を制作。絵にはパイプが描かれているが、パイプの下に「これはパイプではない」と記載されています。

 

マグリットによれば、この絵は単にパイプのイメージを描いているだけで、絵自体はパイプではないということ。だから「これはパイプではない」と記述しているといいます。

 

この作品はよく、哲学者ミシェル・フーコーが1966年に発表した「言葉と物」を説明する際に利用されます。1973年にフーコーは「これはパイプではない」という著書でマグリット作品を主題的に論じています。

ブリュッセルへ


「共同発明」(1934年)
「共同発明」(1934年)

1930年にブルトンに離反してブリュッセルへ戻るが、経済恐慌の影響で画廊との契約がきれ、生活のために弟のとともに広告など商業デザインの仕事も再開しました。

 

1930年代は、「共同発明」「陵辱」のようなヌード画が多く見られるものの、上半身が魚なのに下半身が人間であったり、女性の顔が女性の裸体の前面になっているなどどこかヌード画に対して冷たい態度を示しているところがあります。

 

1937年に、数週間、ロンドンで過ごす。初期はイギリス人のシュルレアリストであるエドワード・ジェイムズがマグリットの大パトロンで、彼のために何点かの作品を制作し、ロンドン画廊で講演をする。ジェイムズはダリの大パトロンでもあります。

 

ジェイムズはロンドンでのマグリットの家や画材を無料で貸し出した。またジェームズはマグリットの作品『Le Principe du Plaisir 』や「複製禁止」のモデルとしてもよく知られています。

「Le Principe du Plaisir」(1937年)
「Le Principe du Plaisir」(1937年)
「陵辱」(1934年)
「陵辱」(1934年)
「複製禁止」(1937年)
「複製禁止」(1937年)

ルノワールの時代


「良い前兆」(1944年)
「良い前兆」(1944年)

第二次世界大戦でベルギーがドイツに占領されている間、マグリットはブリュッセルに残り、ブルトンをはじめパリのシュルレアリスムグループと決別します。1943年から44年にかけてマグリットの絵画は、カラフルで簡潔になっていきました。

 

印象派、なかでもルノワールに影響を受けた作品を制作している時期であり、一般的に「ルノワールの時代」とよばれています。これはドイツ占領下のベルギーでの生活におけるマグリットの疎外感や自暴自棄を表現したものだといいます。

 

1946年、ここからマグリット作品はけっこう変化します。戦後マグリットは初期の陰鬱とした作風を放棄し、ほかの男人かのベルギーの美術家たちと『陽光に満ちたシュルレアリスム』宣言を発。マグリットはブルトンの思想に反対して、楽観的でポップなシュルレアリスム様式を追求することになります。

 

1947年から48年はマグリットにおいて「牡牛の時代」と呼ばれる時期で、大きな筆致による鈍重な手法の作品を描きます。「牡牛の時代」は大変不評だったのですぐにやめました。

 

またこの時代、マグリットはピカソやブラックやキリコの贋作を制作して生活の糧を得ていたようです。のちにマグリットの贋作制作はのちに紙幣偽造印刷にまで拡大します。これら贋作制作は、弟のポール・マグリットや仲間のシュルレアリストであるマルセル・マリエンたちと共同で行われていたようです。

 

1948年後半には、マグリットは元の具象的なシュルレアリスム絵画に戻ります。

「黒魔術」(1945年)
「黒魔術」(1945年)

ポップの時代


「大家族」(1963年)
「大家族」(1963年)

マグリットの晩年期は、「大家族」や「光の帝国」を始め、現在われわれがよく目にするポップなシュルレアリスム作品を多数制作しています。

 

アメリカにおいてはニューヨークで1936年に個展を開催。1965年に近代美術館でアメリカで2度目の個展が開催されました。マグリットの作品は、1960年代に大衆から関心を集め、その後のポップ・アート、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アートに影響を与えました。1992年にメトロポリタン美術館で回顧展が行われています。

 

政治的に、マグリットは左翼である姿勢をはっきりさせており、戦前だけでなく戦後も共産党とは非常に密接でした。しかし共産党の機能主義的文化政策には批判的でした。

 

1967年8月15日、癌が原因でマグリットは死去。

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「ピレネーの城」(1959年)
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デペイズマン
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略年譜


■1898年

・11月21日、ベルギーのエイノー州レシーヌで生まれる。父レオポールは仕立屋、母レジナ・ベルタンシャンは結婚前は針子。レイモン(1900年生まれ)とポール(1902年)の二人の弟がいる。


■1910年

・一家が引越ししたシャトレにおいて油絵と素描を始める。


■1912年

・母が原因不明の自殺。

・早口に唱える祈祷や百回も繰り返して十字を切ったりする奇妙な祈りの動作で家庭教師を驚かせる。


■1913年

・一家がシャルルロワへ引っ越す。

・高校へ入学。

・定期市の回転木馬において2歳年下のジョルジェット・ベルジェと会う。


■1915年

・印象主義の画法により最初の作品を描く。


■1916年

・ブリュッセルの美術学校(アカデミー・デ・ボザール)に入学し、ヴァン・ダムの素描教室に入る。


■1918年

・家族がブリュッセルへ戻り一緒に暮らすようになる。


■1919年

・詩人のピエール・ブルジョワと知り合う。

・ピエール・ルイ・フルーケとアトリエを共有する。彼らとともに雑誌『ハンドルをとれ!』を発行するがすぐに廃刊となる。

・ピカソのキュビスムの影響を受けた最初の作品『3人の女』を発表する。

・未来派の影響を受ける。


■1920年

・弟のピアノ教師をしていたE.L.T.メザンスと知り合い、以後長い間親交を結ぶ。

・春、ブルッセルの植物園において偶然ジョルジェットと再会する。彼女はそのとき画材店で働いていた。


■1921年

・兵役の間に指揮官の肖像画3点を制作する。


■1922年

・6月、ジョルジェット・ベルジェと結婚。彼自身のデザインにより彼らの新居の家具をつくらせる。

・生活のために壁紙工場ペータース・ラクロワにおいてヴィクトール・セルヴランクスの指導のともに図案工として働く。

・彼とともに『純粋芸術、美学の擁護』を出版。

・この時期の作品はドローネやレジェなどピュリスムに近いものであった。


■1923年

・工場をやめてポスターや広告のデザインをする。


■1924年

・カミーユ・ゲーマンスとマルセル・ルコントと会う。初めて絵が売れる。その作品は歌手エヴリーヌ・ブレリアの肖像を描いたものだった。


■1925年

・「これからは事物を綿密な外観描写だけで描くこと」を決心し、現実の世界を問題にする方法を追求する。

・ポール・ヌジェ、アンドレ・スリと会う。

・ダダイスムの雑誌『食堂』に投稿。

・マルセル・ルコントを通じてジョルジョ・デ・キリコの作品を知る。特に『愛の歌』に強い感銘を受ける。

・マックス・エルンストのコラージュ作品から感銘を受ける。

・友人のヴァン・エックの経営する洋服屋の広告デザインをする。また1926年と1927年には毛皮屋サミュエルのカタログも手がける。


■1926年

・最初の成功したシュルレアリスム絵画とマグリットが考える「迷える騎手」を制作する。

・ブリュッセルのル・サントール画廊およびP.G.ヴァン・エックと契約を結ぶ。


■1927年

・春にル・サントール画廊で初めて個展を開き、61点の作品を展示するが、ほとんど話題にはならなかった。

・ルイ・スキュトゥネールを知り、彼と深い親交を結ぶ。

・パリ近郊のル・ペルー=シュル・マルヌに住む。


■1928年

・パリのゲーマンス画廊で開かれた「シュルレアリスム展」に参加。

・マグリットを常に援助し続けていた父が死去。


■1929年

・夏の休暇をカダケスのダリのところで過ごす。そこでポールおよびガラ・エリュアールと相次いで合流する。

・雑誌『シュルレアリスム革命』の最後の号に重要な論文「言葉とイメージ」をのせる。


■1930年

・ブルトンと離反してブリュッセルへ戻りエッセン街135番地に落ち着く。

・経済恐慌により画廊との契約が無効となる。マグリットは生活のために蔵書の一部を売らなければならなくなる。

・幸運にもメザンスが近作11点を買い上げる。


■1931−1935年

・この間、いくつかの個展や、パリやベルギーのシュルレアリストたちとの展覧会が開かれる。


■1936年

・アメリカにおける最初の個展がニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で開かれる。

・ロンドンで開かれたシュルレアリスト国際展にマグリット作品が展示される。

・アメリカの主要都市7箇所を巡回する「幻想芸術、ダダとシュルレアリスム展」にも出品される。


■1937年

・数週間をロンドンのエドワード・ジェイムズ宅で過ごし、彼のために何点かの作品を制作し、ロンドン画廊で講演をする。

・ベルギーへ帰りマルセル・マリエンを知る。

・雑誌『ミノトール』の10号のための表紙を描く。


■1938年

・アントワープで「生命線」と題された重要な講演をする。そこではこれまでのマグリットの探求が示された。


■1940年

・ドイツ軍の侵攻の前にフランスへ移り、イレーヌおよびルイ・スキュトゥネールとともにカルカッソンヌで過ごす。

・注文肖像画により生計をたてる。


■1943年

・長年続けてきた本来の描き方を放棄し。印象主義風の色彩と描き方、特にルノワール風の描き方を採用する。しかし描かれる内容は変わっていない。この傾向の作品は本来の描き方と並存しながらさらに1947年まで続く。マグリットはそれらを「陽光に満ちた」絵と呼ぶ。


■1945年

・戦争が終わるとマグリットは、1932年、1936年に続き3度目のベルギー共産党への入党をはたす。しかし、共産党の芸術界における反動的姿勢に賛同できず数ヶ月で脱党することになる。


■1946年

・マルセル・マリエンとともにスカトロジーの過激な冊子を編集するが、警察により発行をさしとめられる。

・ヌジェ、スキュトゥネール、マリエンらとともに「陽光に満ちたシュルレアリスム」をベルギーのシュルレアリストのマニフェストとして広める。

・マグリットはブルトンのドグマに断固反対し、楽観的で新しい形を追求する。


■1947年

・ルイ・スキュトゥネールが彼の最初のマグリット論を発表する。


■1948年

・フォーヴの作品をもじった「牡牛(ヴァーシュ)の時代」に入る。大きな筆致による鈍重な手法で、マグリットのいつもの習慣である熟考の検閲を受けていない作品である。しかし大変な不評で、作品は一点も売れずマグリットはこのスタイルを放棄する。

・マグリットの素描約40点を含むロートレアモンの『マルドロールの歌』が出版。

・画商のアレクサンドル・イオラスと契約を結ぶ。


■1951年

・ブリュッセルの王立劇場の回廊の天井画作成の依頼を受ける。


■1952年

・雑誌『写生の葉書』の創刊号が10月に出る。これは葉書大の大きさでマグリットの主宰による。


■1953年

・8点の油彩を制作。後にこれらはカジノ・クノッケ=ル=ズートの壁画となる。


■1954年

・ブリュッセルのパレ・デ・ボザールでE.L.T.メザンスにより組織された初めての回顧展が開かれる。


■1955年

・この年からモーリス・ラパンとの交友が始まる。ラパンは、後に、パリの彼のもとへ送られてきたマグリットの手紙をもとにしてその晩年の記録を出版する。


■1956年

・アレクサンドル・イオラスは、注文肖像画をのぞくマグリットの作品すべてについての優先権を獲得する。これ以降、マグリットの個展はアメリカおよびヨーロッパの彼の画廊で開かれるか、または彼との共催のかたちをとることになる。


■1957年

・ムービーカメラを買い、友人や妻の短編映画を撮影する。

・シャルルロワのパレ・デ・ボザールのための壁画「無知の妖精」を制作する。

・友人のハリー・トルクシナーがマグリットの法律顧問となる。


■1960年

・アメリカ女性スジ・ガブリックが何ヶ月かマグリット家に滞在する。


■1961年

・「神秘のバリケード」がブリュッセルのアルベルト1世王室図書館の会議ホールを飾る。

・1966年までアンドレ・ボスマンスの主宰する雑誌『レトリック』に協力する。


■1965年

・パトリック・ワルドベルグによるマグリット論が出版される。


■1967年

・8月15日、自宅において急死。

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【作品解説】ルネ・マグリット「光の帝国」

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光の帝国 / The Empire of Lights

昼と夜の両方を同時に表現


ベルギー王立美術館所蔵 ルネ・マグリット「光の帝国」(1954年)
ベルギー王立美術館所蔵 ルネ・マグリット「光の帝国」(1954年)

概要


デペイズマンの代表作


「光の帝国」は1953年から1954年にかけてルネ・マグリットによって制作された油彩作品。マグリット後期の作品で、代表作品の1つ。「光の帝国」はシリーズもので複数存在しています。タイトルは詩人のポール・ノーグの詩からとられています。

 

基本的な構造は、下半分が夜の通りで、上半分が昼の青空という矛盾した要素が同居したものとなっています。マグリットはこの作品について以下のコメントをしています。

 

「光の帝国の中に、私は相違するイメージを再現した。つまり夜の風景と白昼の空だ。風景は夜を起想させ、空は昼を起想させる。昼と夜のこの共存が、私たちを驚かせ魅惑する力をもつのだと思われる。この力を、私は詩と呼ぶのだ。私はいつも夜と昼へ関心をもってきたが、決してどちらか一方を好むということはなかったからである。」

 

マグリットのデペイズマンと呼ばれるシュルレアリスム理論の代表的な作品です。デペイズマンとは、あるモチーフを本来あるべき環境や文脈から切り離して別の場所へ移し置くことで、画面に異和感を生じさせるシュルレアリスムの表現手法です。

 

お互いに異なる要素、1つの空間に同居しているものの常識的に考えるとおかしな要素の並存・並列状態にあるイメージを指します。「光の帝国」の場合だと、昼と夜が同居しているのは常識的におかしいわけです。

 

このマグリットの「光の帝国」は、学校の教科書やシュルレアリスムの解説でも頻繁に引用されることからもわかるように、忠実にシュルレアリスム理論を表現した作品です。

「光の帝国」は複数存在する


一般的によく見かけるのは、ベルギー王立美術館が所蔵している下半分が湖で上半分青空の1954年「光の帝国」ですが、ほかにもニューヨーク近代美術館所蔵の「光の帝国2」(1950年)や、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館所蔵の「光の帝国」(1953-54年)、アーメット・エルテグン夫妻蔵の「光の帝国」(1954年)など複数のパターンが存在しています。

ニューヨーク近代美術館所蔵「光の帝国2」(1950年)
ニューヨーク近代美術館所蔵「光の帝国2」(1950年)
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館所蔵「光の帝国」(1953-54年)
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館所蔵「光の帝国」(1953-54年)

「エクソシスト」と「光の帝国」


「光の帝国」に影響を受けている有名なのがホラー映画の「エクソシスト」であす。少女に憑依した悪魔払いをするために神父がマクニール邸に入るシーンで「光の帝国」から着想を得たイメージが導入されています。

ルネ・マグリットTop

 

<参考文献>

Wikipedia

 

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【作品解説】ルネ・マグリット「ピレネーの城」

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ピレネーの城 / The Castle of the Pyrenees

浮遊する山と頂上にある城の正体は?


ルネ・マグリット「ピレネーの城」(1959年)
ルネ・マグリット「ピレネーの城」(1959年)

概要


浮遊する山


「ピレネーの城」は、1959年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。イスラエル美術館所蔵。頂上に城がある巨大な山が海上を浮遊しています。

 

画面の半分以上が浮遊する山で占めており、自然と視点は山の方へ向かいます。その際、画面の中心、つまり山の中心ではなく、城が設置されている画面上部へ中心から上方へ見上げるように視線移動するよう画面が構成されている。この視線移動によって山が浮遊しているということが分かる。

 

なお、画面下部は波打ちぎわが分かるものの、陸が見えないよう描かれています。絵全体で陸が分かるものは浮遊する山のみである。線上にはうっすらと大気のようなものが描かれており「大家族」の背景の海とよく似ています。

山へは空想によって入ることができる


マグリットは作品についてこのようなコメントをしている。

 

「巨大な岩の浮遊は、普通に考えると重力に逆らうありえない事象である。ここで考えることがあります。山は空中にあり土台はない。本来は山は地球の一部であるが、この絵では山は地球と分離されている。どのようにして頂上の城に入ることができるのだろうか? 山へ入る入口もない。海からも陸からも登ることができない。空や想像力によってのみ入ることができる。」

ピレネーの城とは


ピレネーは南西ヨーロッパにある山脈の名前でフランスとスペインを隔てる自然の境界線です。

 

その語源はギリシャ神話によれば、ピュレネはナルボンヌ地方の王べブリクスの娘の名前。王の宮廷でヘラクレスに犯されたピュレネは、次の日、みごもり蛇を産みあした。驚いてピュレネは山へ逃れるが野獣に殺されてしまいます。ヘラクレスは彼女の死骸を発見して、埋葬し、山にピレネーという名前を付けたといいます。

 

おそらくピレネーの城は、ピレネーの墓、もしくは彼女が隠れた山のことかもしれません。

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【作品解説】ルネ・マグリット「人の子」

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人の子 / The Son of Man

緑のリンゴで隠された男


「人の子」1964年
「人の子」1964年

概要


セルフ・ポートレイト


「人の子」は、1964年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品です。マグリットはこの作品をセルフ・ポートレイトとして位置づけています。

 

海と曇り空を背景にして、低い壁の前にオーバーコートと山高帽を身につけた男が立っている絵です。男の顔の大部分は緑のリンゴで隠されています。しかしながら、男の目は緑のリンゴの端からチラッとのぞくように目が出ています。この絵のなかでもうひとつ不思議な箇所は左腕の関節が後ろに曲がっているように見えるところです。

 

マグリットはこの絵についてこのようなコメントを残しています。

 

「少なくとも、それが顔であることは分かっているものの、リンゴが顔全体を覆っているため、部分的にしかわかりません。私達が見ているものは、一方で他の事を隠してしまいます。私たちはいつも私達が見ることで隠れてしまうものを見たいと思っている。人は隠されたものや私たちが見る事ができない事象に関心を持ちます。この隠されたものへの関心はかなり激しい感情の形態として、見えるものと見えないもの間の葛藤となって立ち合われるかもしれない。」

類似作品


「人の子」とよく似たマグリットのほかの作品に「世界大戦」があります。両方とも共通して海が見える壁の前に立っていますが、「世界大戦」のほうは女性で、手に傘を持ち、顔はすみれで隠されています。

 

ほかに似た作品では「山高帽の男」があり、こちらは人の子と同じ山高帽の男性ですが、顔はリンゴではなく鳥で隠されています。

「世界大戦」
「世界大戦」
「山高帽の男」
「山高帽の男」

ポップカルチャーと「人の子」


・アレハンドロ・ホドロフスキーの「ホーリー・マウンテン」で、富豪の1人の家の中に「人の子」が飾られています。

 

・アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の第一話で「人の子」から影響を受けた演出が見られます。

 

・映画「トーマス・クラウン・アフェアー」でルネ・マグリットの絵が現れ、また全体的にマグリットの影響が濃く見られます。

 

・ノーマン・ロックウェルの作品「ミスター・アップル」というマグリットから引用した作品があります。

「魔法少女まどか☆マギカ」第一話の魔女との戦闘シーン。
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映画「トーマス・クラウン・アフェアー」
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【作品解説】ルネ・マグリット「自由の扉で」

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自由の扉で / On the Threshold of Liberty

さまざまなモチーフのパネルと一台の大砲


ルネ・マグリット「自由の扉で」(1929年)
ルネ・マグリット「自由の扉で」(1929年)

概要


「自由の扉で」は、1929年と1937年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。異なる主題やパターンが描かれたパネルが壁にはめられた部屋の絵です。

 

各パネルには、空、炎、木目、森、建物、装飾パターン、女性の胴体、鈴などが描かれており、これらはマグリットが作品中で頻繁に用いるモチーフです。そして部屋の中には一台の大砲が置かれています。

 

オリジナルの作品は、1929年に完成し、現在はロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館に所蔵されています。セカンドバージョンが1937年に制作された本作であり、コレクターでマグリットのパトロンだったエドワード・ジェームズが購入して、現在はシカゴ美術館に所蔵されています。

「自由の扉で」(1946年)
「自由の扉で」(1946年)

【作品解説】ルネ・マグリット「白紙委任状」

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白紙委任状 / Carte Blanche

「見えるもの」と「見えないもの」


「白紙委任状」(1965年)
「白紙委任状」(1965年)

概要


空間と移動との関係


1930年以降のマグリットの絵画でよく現れるようになったのが「だまし絵」「哲学性」です。「白紙委任状」は1965年に制作された油彩作品。

 

馬は区分されてしまっており、その断片はあいまいに配置されています。また馬は樹々の背後と前にもあるように見えます。よくよく見ると、馬上の女性は木の幹に描かれているように見え、女性が乗っている馬の身体と思われる部分は木の色であるように見えます。

 

マグリットは『ライフ』誌のインタビューでこの作品について「空間」と「移動」との関係を説明している。

 

見える物は常に他の見える物を隠している。誰かが馬に乗って森を通り抜ける場合、その馬と人物はときどき見え、ときどき見えなくなる。だが、存在していることは察知できる。また馬と女性はときどき樹木を隠し、馬上の女性だけを隠すこともある。

 

つまり私たちの思考は「見えるもの」と「見えないもの」を同時に見ることはできないが、両方の存在を察知することはできているということです。マグリットは「見えるもの」と「見えないもの」を同時に表現するために絵画を利用します。たとえば「光の帝国」では昼と夜という、同時に見ることはできないが両方の存在は察知している要素を表現しました。

 

そして「白紙委任状」とは馬上の女性が、見えなかったり、見えたりしながら行動することを許す許可証なのです。

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【作品解説】ルネ・マグリット「ゴルコンダ」

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ゴルコンダ / Golconda

個人と集団の葛藤


ルネ・マグリット「ゴルコンダ」(1953年)
ルネ・マグリット「ゴルコンダ」(1953年)

概要


平凡性と自画像


「ゴルコンダ」は1953年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。アメリカ・テキサス州ヒューストンにあるメンリル財団が所蔵しています。

 

「ゴルコンダ」とは1687年にムガル帝国によって滅ぼされたインドの都市の名前で、かつて富で知られた、幻の都のような都市であったといいます。「ゴルコンダ」というタイトルは、友人の詩人ルイ・スクテネアがつけたそうです。

 

この絵では、黒いオーバーコートと山高帽を被った同一の男性が多数浮遊しています。男性たちは菱型のグリッド線に添って一定の間隔を置きながら配置されています。この男たちはごく「普通の目立たない平均的な人間」を表しているように見えます。

 

また、マグリット自身が山高帽の男に投影されています。マグリットのコメントによれば「目立ちたいと思わないから」という理由で、山高帽を描いているといいます。

 

浮遊した平均的な男たちは、遠くから見ると、山高帽の大雨の雫が落下しているように見え、「浮遊」と「落下」という矛盾した要素を同時に表現し、また「浮遊」と「落下」はマグリットの憂鬱とした感情を表現しているように見えます。

 

しかしながら、背景は青空が澄み渡っており、憂鬱な感情と真逆です。背景のアパートはマグリットが実際に住んでいた郊外の環境とよく似ており、マグリットの「目立ちたいと思わない」喜びと、「普通」というどこか憂鬱な矛盾した感情を1つの絵にうまく表現しています。

 

実際にマグリットはそういう人物で、スキャンダラスにも無縁で、幼なじみの妻と慎ましく生活していた芸術家であった。実際にマグリットはこのようなアパートに住んでました。 

個人と集団の間


もう一つの解釈は、マグリットは個人と集団の間を「ゴルゴンダ」において表現しようとしました。

 

「ゴルゴンダ」は81cm × 100cmのそれなりに大きな絵で、近くに寄ると、この男性たち1人1人には異なる顔が描かれている事がわかります。

 

しかし、遠くから見ると、どの人も似たようなノッペラボウのような男性に変化し、特徴のない大衆を表現しているように見えます。

 

つまり、1人1人に焦点を当てれば、きちんと差異があることが分かるにも関わらず、一斉に見ようとすると差異が分からなくなってしまうのです。マグリットは視覚美術において、このような個人と集団の間を表現を試みました。

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【作品解説】ルネ・マグリット「世界大戦」

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世界大戦 / The great war

スミレで隠された白ドレスの婦人


ルネ・マグリット「世界大戦」(1964年)
ルネ・マグリット「世界大戦」(1964年)

概要


「世界大戦」は1964年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。

 

上流階級を思わせるきれいなドレスを着て日傘をさした婦人。婦人の顔の真ん中にはスミレの花束が置かれている。一番見たい、知りたいその顔はスミレによって隠されている。

 

1946年に制作した「人の子」の対になるような作品で、海と壁の背景をバックにした構図となっています。マグリット作品では、「人の子」のような山高帽の男性の顔がリンゴで隠されている作品をよく制作していますが、このようなスミレで顔が隠された女性作品は本作品だけです。あとの女性ポートレイトは、ほとんど具体的な顔が描かれています

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【作品解説】ルネ・マグリット「選択的親和力」

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選択的親和力 / Elective Affinities

眠っている鳥の姿と卵の親和性


ルネ・マグリット「選択的親和力」(1933年)
ルネ・マグリット「選択的親和力」(1933年)

概要


「選択的親和力」は1933年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。作品タイトルはゲーテの「選択的親和力」という言葉から引用している。

 

鳥と卵の親和性が主題となっているデペイズマン作品

 

ある夜、マグリットは眠っている鳥が入れられたケージが置かれた部屋で目覚めた。そのときマグリットは眠っている鳥が卵に見え、鳥と卵という2つのオブジェクトの偶然の親和性と詩的さに、ショックを受けて制作を始めたという。

 

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【作品解説】ルネ・マグリット「貫かれた時間」

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貫かれた時間 / Time Transfixed

機関車と暖炉とトンネルの驚異の並列


ルネ・マグリット「貫かれた時間」(1938年)
ルネ・マグリット「貫かれた時間」(1938年)

概要


デペイズマン表現の代表作


「貫かれた時間」は、1938年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。現在、シカゴ美術館が作品を所蔵しており、20世紀以降の美術を収集するモダン・ウイング館で常設展示されています。

 

中央に描かれているのは暖炉から蒸気を吹き上げながら出てくる機関車である。機関車のモデルはロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道4-6-0です。マントルピースの上に時計とろうそく台と鏡が設置されています。鏡には時計とろうそく台が写っているが部屋に人影は見えません。

 

この作品についてマグリットはこのようなコメントをしている。

 

「私は機関車のイメージを描こうと思った。謎めいた感覚を呼び起こすために、謎めいたとはまったく無縁そうな機関車とよく似た性質のモチーフ、ダイニングルームにある暖炉を並列して描いた。また暖炉の通気孔の部分に電車を置いたのは、鉄道トンネルから出てくるような場面に思えるからだ。」

 

マグリットによれば、蒸気機関車と石炭燃焼暖炉とトンネルを似たような性質なものとして、イメージを並列しているといいます。

 

機関車と石炭燃焼暖炉という“驚異の並列”や互いにまったく無関係なオブジェを並列して緻密な描くことで鑑賞を困惑させ、また同時に魅力を発する表現はデペイズマンと呼ばれるもので、マグリットの18番的な表現スタイルで、マグリットのデペイズマン作品の中でも代表的なものです。

 

マグリットは、この頃、ジョルジョ・デ・キリコのデペイズマン表現にかなり影響を受けており、そのためキリコがよく使う時計や機関車というモチーフを取り入れているとも思われる。

ルネ・マグリット「リスニング・ルーム」
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ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」
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ルネ・マグリット「選択的親和力」
ルネ・マグリット「選択的親和力」

エドワード・ジェームズの注文


この作品は、マグリットのパトロンだったエドワード・ジェームズの自宅の客室に飾るための絵として制作された二番目の作品です。ちなみに最初の作品は「自由の扉で」です。

 

「貫かれた時間」はジェームズがメキシコシティにシュルレアリスム彫刻庭園「ラス・ポサス」を建てる際に、資金調達目的で1970年にシカゴ美術館に売却されました。

 

本作のタイトルはフランス語で「La Durée poignardé」だが、英語に翻訳されるときにで「Time Transfixed」となるのは嬉しくなかった。フランス語の意味としては「ongoing time stabbed by a dagger(短剣で刺された現在進行の時間)」です。

 

マグリットはジェームズに対して、この絵を客室に上がる階段の一番下にかけてもらうことを希望していたが、皮肉にもジェームズは客室の暖炉の上に飾っていました。

【作品解説】ルネ・マグリット「水平線の神秘」

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水平線の神秘 / The Mysteries Of The Horizon

月は1つなのか、3つなのか


概要


「水平線の神秘」は、1955年にルネ・マグリットに制作された油彩作品。


作品には一見すると同一人物にみえる山高帽をかぶった3人の男性が描かれており、それぞれが異なる方向を向いている。水平線はうっすら光がかっているので夜明け前か日没後かである。また空には、それぞれの人物の上空に三日月が描かれている。


マグリットは絵について、男が3人いれば3人それぞれが月に対して独自の概念を持っている。しかし一方で、三日月はまぎれもなくひとつしか存在しない。だからそれぞれ違う方向(概念)を向いている3人の上に同じ月を描いた。ひとつなのか、3つなのか、これは哲学的問題であると説明している。


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【作品解説】ルネ・マグリット「共同発明」

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共同発明 / The Collective Invention

人の勝手な幻想を裏切る作品


概要


頭が魚で体が人間


「共同発明」は、1934年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。一度見たら忘れられない強烈なインパクトの人魚、ならぬ魚人の絵です。

 

マグリットは「人魚」という言葉に対して、世間一般が無意識におとぎ話のイメージを想像する、上半身が美女の肉体、下半身が魚という形態に対し、反対に上半身が魚、下半身が女という形態の人魚を描きました。

 

イメージと言葉を意図的に分離することによって、鑑賞者に文字や記号のでたらめさを突きつけました。マグリットは「共同幻想」という言葉を嫌っていました。共同幻想などありえない。一人一人がでたらめ勝手なイメージを抱いているだけだと。

 

代わりにマグリットは「共同発明」という言葉を使いました。マグリットは、「共同幻想」をする空想家でも思想家でもありません。発明家、思索家、哲学者なのです。現実から浮遊した不思議の世界に誘い込むだけでなく、通常の思考回路や観念から想起するイメージを裏切るのです。

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