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【作品解説】ルネ・マグリット「イメージの裏切り」

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イメージの裏切り / The Treachery of Images

これはパイプではない


ルネ・マグリット「イメージの裏切り」(1929年)
ルネ・マグリット「イメージの裏切り」(1929年)

概要


「イメージの裏切り」は、1928から1929年にルネ・マグリットによって制作された油彩作品。現在、ロサンゼルス現代美術館が所蔵しています。絵にはパイプが描かれているが、パイプの下に「これはパイプではない」という文字が記載されています。

 

マグリットによれば、この絵は単にパイプのイメージを描いているだけで、絵自体はパイプではないということを言いたかった。だから「これはパイプではない」と記述しているという。本物と見分けがつかないほどリアルにパイプを描いたとしても、やはり絵。どこまで頑張っても絵を超えることができない、だから「これはパイプではない」とマグリットは記述しています。

 

マグリットは作品についてこのようなコメントをしています。

 

「またあのパイプですか?もういいかげん、飽き飽きしました。でもまあ、いいでしょう。ところであなたは、このパイプに煙草を詰めることができますか。いえいえ、できないはずですよ。これはただの絵ですからね。もしここに「これはパイプである」と書いたとすれば、私は嘘をついたことになってしまいます。」

哲学者として絵描き


マグリットの仲間であったポール・コリネは

 

「もうルネ・マグリットの絵画を、普通の「見る」という行為ですでに見た人なんているんですか?」

 

といい、さらに

 

「絵が指し示すものについて考え、それが考えるものについて考え、それが私たちに考えるように教えてくれるものについて考えなければいけないのだ」

 

と説明しています。ここにマグリットの創作における問題が提示されているますマグリットにとって絵画とは精神分析ではなく哲学なのです。描かれたイメージ(視覚美術)は、視線と技術、つまり芸術家が目と手を使って表現する肉体的な行為であるため、イメージとは芸術家の人格と肉体をそのまま反映する個人的な思い込みのようなものであるとマグリットはいいます。

 

絵画とは現実を正確に複製した写生ではない。だから自分で描いたパイプは厳密にはパイプではないのだという。 

言葉を信じてはいけない


 言葉もまた絵画と同じく現実を指し示すものではないと分かる。「私は月の上にいる」という言葉を書くことはだれでもできる。そのような嘘を書くことは、現実ではない絵を描く行為とまた同じものである。

 

この作品はよく、哲学者ミシェル・フーコーが1966年に発表した「言葉と物」を説明する際に利用されます。1973年には「これはパイプではない」という著書で主題的に論じられます。マグリットがよく哲人画家など哲学者的なシュルレアリストと称されるのは、本作が要因となっています。

類似作品


『テーブル、海、果物』(1927年)
『テーブル、海、果物』(1927年)

「イメージの裏切り」の類似作品としては『テーブル、海、果物』がある。ヨーロッパ人がこの絵を見ると、一般的には左から「テーブル=木の葉」「海=バターの塊」「果物=ミルク壺」と解釈してしまいます。この作品は、マグリットにおける言葉とイメージの問題を典型的に示す一例です。

 

この場合、言語も現実を表したものではありません。「海」ときけば普通は青い広大な塩水の空間をイメージします。だがマグリットは「海」の下にバターの塊を描いています。マグリットにとっては海といえばバターなのかもしれません。

マグリットとよく似た芸術家


マグリットの哲学的絵画と同じような傾向の作品を制作する作家といえば、マルセル・デュシャンである。マルセル・デュシャンはただの男性用便器に「泉」という名称を付けて、グループ展に出品した。

 

アンディ・ウォーホルのポップ・アート作品もルネ・マグリットと同系列にあたる。

ルネ・マグリットTop

 

参考文献

Wikipedia

マグリット マルセル・パケ

 

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【完全解説】シンディ・シャーマン「コンセプチュアル・セルフ・ポートレイト」

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シンディ・シャーマン / Cindy Sherman

コンセプチュアル・セルフポートレイト


シンディ・シャーマン「Untitled Film Still #17」(1978年)
シンディ・シャーマン「Untitled Film Still #17」(1978年)

概要


生年月日 1954年1月19日
国籍  アメリカ
表現媒体 写真
表現スタイル コンセプチュアル・アート
ムーブメント ピクチャー・ジェネレーション

シンシア“シンディ”・モリス・シャーマン(1954年1月19日)はアメリカの写真家、映画監督。ニューヨーク在住。さまざまな表現方法によって、社会における女性の役割や表現を、重要な問題を提起しようと挑戦的に努めている。

 

急速かつ広範囲にマスメディア・イメージが広がった1980年代初頭に台頭したゆるやかな芸術集団「ピクチャー・ジェネレーション」の代表的な人物。

 

初期はアメリカンフェミニズムに影響を受けたスーパー・リアリズムの画家だったが、1970年代後半に写真家に転向。自らを被写体とするコンセプチャル・セルフポートレイトが代表的な作品で、50年代の映画のワンシーンに出演女優そっくりに扮装して撮影する写真作品が、一般的にはよく知られている。

 

シャーマンは、「俳優は、舞台や映画で、自分自身ではなく、架空の役を演じています。わたしは同じことをしているのです」と語っている。

 

1995年にはマッカーサー・フェローシップを受賞。マーケットでは、世界で最も高価な写真として取引されており、2011年には「Untitled #96」が3億1124万で落札された。

略歴


シンディ・シャーマンは、アメリカ、ニュージャージー州、グレンリッジで生まれました。5人兄妹の末っ子でした。シャーマンが生まれたあとすぐに、家族はニューヨークのハンチントンに引っ越します。お父さんはグラマン社のエンジニアで、母親は学習困難な子どもたちに読んで教えました

 

シャーマンはバッファロー州立大学に入学してからで視覚芸術に関心を持ち、絵を描き始めます。初期はスーパー・リアリズム的な作品でした。ただ、絵画では自分の表現に限界を感じたため、写真へ移行します。

 

きめ細かく他人の芸術を忠実に再現しようとしていましたが、後に再現作業はカメラを使ったほうがよく、自分はアイデアの方に時間を使った方がよいと気づきました」と写真へ移行した理由についてシャーマンは話しています。

 

また、シャーマンといえばセルフポートレイト作品ですが、セルフポートレイトに関心を持ち始めたきっかけについて「たぶん学校の先生の1人が、春に授業外の時間に生徒たちをバッファロー近くの滝のある場所に連れ出して、そこでみんなで服を抜いで遊び半分でお互いの写真を撮ったことかもしれない」と話しています。

 

シャーマンは、大学一年生のときに写真クラスの単位取得に失敗して留年しますが、翌年、同じクラスでバーバラ・ジョー・レヴェルと出会っい、コンセプチュアル・アートやほかの現代美術様式に関心を持ち始め、続いて、ハンナ・ウィルケ、エレノア・アンティン、エイドリアン・パイパーといった写真をベースにしたコンセプチュアルな作品に次々と出会い、自身の芸術の方向性をコンセプチュアル・フォトグラフィーに決めます。

 

1974年にロンゴ、チャールズ・クラフ、ナンシー・ダイヤーらとともにシャーマンは、多様な背景を持つ芸術家を収容する空間を意図として非営利組織「ホールウォール」を設立します。

初期作品


Cindy Sherman, Bus Riders, 1976
Cindy Sherman, Bus Riders, 1976

「バス・ライダーズ」(1976/2000)は、バッファロー州立大学卒業後、すぐに制作した15のモノクロ写真シリーズで、バスの乗客を観察して制作したセルフポートレイト作品です。シャーマンは1972年から76年まで大学に在籍していました。

 

15作品あり、シャーマンはそれぞれ異なる洋服、ウィッグ、メガネを身に着けて、足を組んで座ったりさまざなポージングをしています。タバコ、化粧鏡、ブリーフケース、膨らんだ紙袋、本などさまざまな小道具が使われており、これら小道具の効果により、鑑賞者は自由に乗客者の物語を想像します。1976年当時、実際のバス車内の広告設置部分に展示したといいます。

 

「バス・ライダーズ」学生時代にシャーマンが制作した写真であり、また1977年から1980年にかけて制作したシャーマンの最初のメジャー作品「Untitled Film Still」の橋渡しになる作品です。これら初期作品から、シャーマンのセルフポートレイトやドラマ仕立てへの関心

がよく表れています。

 

「バス・ライダーズ」は、2000年のニューヨーク、イースト・ハンプトンにある古書店Glenn Horowitz Booksellerで再版して展示するまで一般には公開されていませんでした。また同時代に制作し、「バス・ライダーズ」と同じく2000年にGlenn Horowitz Booksellerで展示されたほかの作品に「マーダー・ミステリー・ピープル」(1976/2000)があり、両シリーズともに20枚限定で再版されました。

マルセル・デュシャン「ローズ・セラヴィ」

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ローズ・セラヴィ /Rrose Sélavy

デュシャンの女装用ペンネーム


概要


ローズ・セラヴィとはマルセル・デュシャンのペンネームの1つ。ローズ・セラヴィは1920年の晩夏から初秋頃に、マルセル・デュシャンの心から生まれ出た。

 

自分の人格を男性から女性変えようとしたのではなく、男性と女性の2つの人格を同時にもとうとした」とデュシャンはローズ・セラヴィについて語っています。

 

ローズ・セラヴィという名前は、フランス語で「Eros, c'est la vie(エロティスムが人生だ)」の発音から取っています。またデュシャンはもともとカトリックの家庭で育ちましたが、これまでカトリックの育ちを打ち消し、ユダヤ系の名を名乗ろうと考え、ユダヤ系の名前に多く見られる「ローズ」という名前をとっています。ローズの綴りをRroseとしたのは、ピカビアの絵画「カコジル酸の眼」にデュシャンがarrose(水をかける)とサインしたことから思いついたといいます。

 

また、セラヴィというのはフランス語の「C'est la vie(これが人生だ)」という意味です。ユダヤ系的なエロティシズムこそが人生だと言う感じになります。実際にデュシャンがローズ・セラヴィ名義で活動する際は淫らな語呂あわせの作品を制作する機会が多かったようです。

 

ローズ・セラヴィ名義の作品


 ローズ・セラヴィは1921年にマン・レイの写真シリーズで女装した姿で最初に現れました。1920年代を通じて、マン・レイとデュシャンはローズ・セラヴィを通じてさまざまなコラボレーション作品を制作しています。マン・レイが撮影した写真は、デュシャンが編集を手がけたダダイスム雑誌『ニューヨーク・ダダ』の表紙を飾りました。

 

 

その後、デュシャンは作品の署名欄に度々、ローズ・セラヴィの名前を書き込むようになります。1921年の「ローゼ・セラヴィ、何故くしゃみをしない」や、リゴーの香水瓶を使った女性的なレディ・メイドのボトル作品「ベラレーヌ: オー・ド・ヴォワレット」や実験映像「アネミックシネマ」などに署名されています。

「ローズ・セラヴィ、なぜくしゃみをしない?」(1921年)
「ローズ・セラヴィ、なぜくしゃみをしない?」(1921年)
「ベラレーヌ: オー・ド・ヴォワレット」(1921年)。リゴーの香水瓶のラベルを独自のものに付け替えている。
「ベラレーヌ: オー・ド・ヴォワレット」(1921年)。リゴーの香水瓶のラベルを独自のものに付け替えている。
「アネミック・シネマ」(1926年)。ローズ・セラヴィ名義の実験映像作品。
「アネミック・シネマ」(1926年)。ローズ・セラヴィ名義の実験映像作品。

モデルはベル・ダ・コスタ・グリーン


実業家であるJ.P.モルガンの司書であるベル・ダ・コスタ・グリーンから影響をを受けている可能性は高いといわれています。

 

J.P.モルガンの死後、グリーンはモルガン・ライブラリの館長となりそこで43年間務めました。モルガンの力により、彼女はモルガンの美術収集品のライブラリを建設し、希少な写本、書物、芸術の売買をおこなっていたようです。

 

また「グリーンボックス」(1934年)と通称される、デュシャンの文章が書き込まれたノート類が緑色の箱に詰め込まれた作品がありますが、この作品もローズ・セラヴィ名義となっています。「グリーンボックス」のグリーンとはローズ・セラヴィ名義とあわせてベル・ダ・コスタ・グリーンの事を表わしていると思われます。 

ベル・ダ・コスタ・グリーンの肖像。
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「グリーン・ボックス」(1934年)
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【作品解説】マルセル・デュシャン「アネミックシネマ」

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アネミックシネマ / Anemic Cinema

視覚的錯覚と言語的錯覚の融合した実験映像


概要


「アネミックシネマ」は1926年にマルセル・デュシャンによって制作された実験映像。マン・レイが撮影協力しています。

 

「ロトレリーフ」と呼ばれるデュシャンのドローイング作品を回転させたアニメーションで、10枚の「螺旋のある円盤」と9枚の「地口を書いた円盤」が、交互にひとつずつゆっくり回転しながら映しだされます。

 

「地口を書いた円盤」の方には「ローズ・セラヴィ」に収められたような語呂合わせが、ひとつずつ螺旋を描いて書き込まれています。題名のアネミックシネマ(Anemic Cinema)は、反対から読んでも同じように聞こえ、一見回分のようなアナグラムによる言葉遊びがされています。視覚的な錯覚と言語的な錯覚をひとつに組み合わせた作品です。

 

なお、デュシャンは1920年に「回転ガラス板」という光学装置を作っており、「アネミックシネマ」は、その「回転ガラス板」の系譜に当たる作品となっている。

 

デュシャンによれば、「回転する機械を組み立てるかわりに、なぜフィルムを回さないのか、それのほうが回転する機械を作って錯視遊びをするより、ずっと楽だろう」と思いつき、制作にいたったといいます。

 

映像にはデュシャンの女装用の名前であるローズ・セラヴィの名前がサインされている。

 

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【作品解説】マルセル・デュシャン「処女から花嫁への移行」

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処女から花嫁への移行 / The Passage from Virgin to Bride

純粋芸術からエロティシズムへの移行


マルセル・デュシャン「処女から花嫁への移行」(1912年)
マルセル・デュシャン「処女から花嫁への移行」(1912年)

概要


昔のスタイルを捨てて新しいスタイルへ移行


「処女から花嫁への移行」は、1912年にマルセル・デュシャンによって制作された油彩作品。「階段を降りる裸体 No.1」「花嫁」の間の時期に描かれた作品で、ミュンヘンに2ヶ月間滞在していた時期に描かれた作品群「処女 No.1」「処女 No.2」「処女から花嫁への移行」「花嫁」「飛行機」の1つに当たります。

 

本作では、それまでデュシャンが基盤としていたキュビスムや運動の変化を表現する線が消え、それまでと違った視点を取り入れようとしています。その違った視点とは、この後の「大ガラス」をはじめ、デュシャンの作品に頻繁に現れ始める機械的要素です。肉体を機械のオブジェとしてとらえはじめた移行期の作品です。

 

処女とはキュビズム以前の絵画を、花嫁とはキュビズム以降の機械のことを指しています。その間の移行期にある作品だから「処女から花嫁への移行」というわけです。

 

デュシャン自身「ミュンヘンでの滞在では、わたし自身の完全な解放の好機となった。つまり、このときに、私は大きな作品(大ガラス)の基本的なプランをたてたからである」と語っているように、この二ヶ月間で、それまでデュシャンが影響を受けていた美術知識を一気に捨ててしまうようになります。

純粋美術とエロティシズムの融合


 

 また、デュシャンにおける「処女」とは、キュビスムをはじめとした当時流行していた純粋美術のことを指しています。純粋芸術という言葉はギヨーム・アポリネールがつけたようです。

 

デュシャンは当時ミュンヘンに滞在しており、ロシアの偉大な画家であり理想化であるカンディンスキーの純粋芸術絵画に目の当たりにしていましたが、これら抽象芸術の画家やドイツ表現主義にほとんど興味を覚えませんでした。抽象芸術に対する皮肉な反応した作品ともいえます。

 

デュシャンは20世紀美術の最重要課題である「純粋」な抽象の問題に無関心でした。デュシャンにとって「抽象」や「具象」や表現する際の道具に過ぎず、それが「イズム」「思想」になるとは思えませんでした。実際に、大ガラスでも、花嫁の部分は抽象的に表現されていますが、独身者の部分は抽象とは程遠く、具象オブジェです。

 

そして、デュシャンは「純粋美術にエロティシズム」入れるというアイデアを考えました。そうしたなかで、こうした一連の作品群ができた。デュシャンまた「エロティシズムもイズムとなるだろう」と話している。

 

まさに、処女から花嫁へと生まれ変わる移行的な作品である。

 

マルセル・デュシャンTop

<参考文献>

・マルセル・デュシャン自伝

MoMa「処女から花嫁への移行」

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【作品解説】マルセル・デュシャン「階段を降りる裸体 No.2」

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階段を降りる裸体 No.2 / Nude Descending A Staircase, No. 2

キュビスム時代の集大成でデュシャンの出世作


マルセル・デュシャン「階段を降りる裸体No.2」(1912年)
マルセル・デュシャン「階段を降りる裸体No.2」(1912年)

概要


近代美術を代表する作品


「階段を降りる裸体No.2」は、1912年にマルセル・デュシャンによって制作された油彩作品。147 Cm × 89.2 Cm。現在、フィラデルフィア美術館内のルイス&ウォルター・あれんずバーグコレクションに所蔵されている。

 

本作はパブロ・ピカソの「アヴィニョンの娘たち」と並んで、最も近代美術を代表する作品の1つと広くみなされている。

 

1912年、パリのサロン・デ・アンデパンダンのときに初公開されたが、当時はキュビスム・グループから未来派とみなされ酷評される。その後、1912年4月20日から5月10日までバルセロナのダルマウ画廊が開催したキュビスム・グループ展で展示。

 

しかし1913年、ニューヨークのアーモリー・ショーでの展示で大変なセンセーショナルを巻き起こす。また1913年に出版されたギヨーム・アポリネールの美術批評集『キュビスムの画家たち』に掲載され注目を集める。

キュビスムを基盤にして制作


本作は一見したところ黄土色と茶色を中心に人物の抽象的な動きを表現したものとなっています。キュビスムと未来派を融合させた状態のもので、連続した人物イメージを重ねることで「動き」を表現しようとしました。

 

1912年の発表当時、ピカソが1907年に発表した「アヴィニョンの娘」から始まったキュビスム・ムーブメントがちょうど下火になり始めているころでした。

 

キュビスムとは、ある対象をバラバラに分解し、分対象の特徴的なパーツを強調して再構成する手法です。万華鏡をのぞいた時の感じに近いともいえるが、細分化された個々のパーツにシンメトリーのような法則性はない点が異なります。

 

 

「階段を降りる裸体No.2」は、このキュビスム的手法を下敷きにして描かれています。デュシャンは元々キュビスム出身の画家でした。

時間を分解して平面的に表現


エドワード・マイブリッジ「階段を降りる女性」(1887年)
エドワード・マイブリッジ「階段を降りる女性」(1887年)

 

しかしこの作品が、これまでのキュビスムと異なるのは、「動き」「時間」といった4次元的な要素を分解して表現しようとした点です。

 

デュシャンは、これまでのキュビスムが対象していた「形態」だけでなく、「動き」「時間」の分解を絵画で試みようとしました。二次元の画面に、三次元的立体性に加えて、さらに四次元性の時間的連続性を絵画に導入したのが大きなポイントです。

 

 

ちょうど同年の1912年に、デュシャンと同じく「動き」を表現する前衛芸術のグループ「未来派」が誕生していますが、デュシャンはそれより1年前にすでに油彩で「階段を降りる裸体」の下描きを描いているため、未来派の影響は受けていません。偶然、未来派と同じような表現を始めていたといっていいでしょう。

 

また未来派の「動き」の概念とも異なります。未来派の「動き」の表現はイリュージョン的で、スピードを表現するような誇張的なものです。漫画でよくある足を何本も描くことで走っているように見せる表現というのが未来派の表現です。

 

 

デュシャンの「動き」の表現は客観的で科学的な分析のようなものです。それは、変化していく対象の静止した表象の連続を写し取るもので、連続写真撮影に近いものです

 

本作を制作する上で影響を受けていると思われるものはあります。フランスの生理学者で連続写真撮影機を発明したエティエンヌ=ジュール・マレーや、エドワード・マイブリッジが1887年に出版した「The Human Figure in Motion」内の「階段を降りる女性」の写真シリーズです。

ジャコモ・バッラ「つながれた犬のダイナミズム」(1912年)
ジャコモ・バッラ「つながれた犬のダイナミズム」(1912年)
エドワード・マイブリッジ「階段を降りる女性」(1887年)
エドワード・マイブリッジ「階段を降りる女性」(1887年)

ニューヨークで大反響


「階段を降りる裸体 No.2」は、1912年にパリのアンデパンダン展で始めて展示されましたが、当時は大変な反発を受けました。おもな理由はその表題のせいだといいます。「階段を降りる裸体」とは、たいへんエロティックな興味をそそるタイトルですが、画面には裸体が見当たりません。それは仕方がない。デュシャンは、運動とともに変容する時空と物体を「線の移動」の連続として表現しているからです。

 

同展に参加していたデュシャンの兄たちがは、タイトルの変更をデュシャンに伝えましたが、デュシャンはそれを拒否します。アンデパンダン展には審査はありませんでした。美術史家のピーター·ブルックによると、当時本作を展示するかしないか、またはキュビスム・グループとして出品するかしないか、タイトルを変更するかしないかという論争があったといわれています。

 

デュシャンはのちに「私は兄のクレームに何も反論していない。クレームがあったとき、私はすぐにタクシーで会場にいって自分の作品を外して持ち帰った。この事件は私の人生におけるターニングポイントだったとおもう。私はその事件のあとキュビスム・グループへの関心がまったくなくなった」と話しています。

 

翌年1913年にニューヨークのアーモリー・ショーで「階段を降りる裸体.No2」を展示します。この展覧会は公式には「国際近代美術展」という企画で、当時のアメリカの近代美術家と、パリで流行の近代美術が一同に集められた最初の主要な展覧会でした。

 

展示中に本作は、サンフランシスコの弁護士で画商のフレデリック・C・トレイが買い上げられ、バークレイの自宅の階段の側に飾られていました。1919年にルイス&ウォルター・アレンズバーグ夫妻に売却。1954年にフィラデルフィア美術館に遺贈されました。

1913年アーモリー・ショー。キュビズムグループ展示。右から二番目が「階段を降りる裸体 No.2」
1913年アーモリー・ショー。キュビズムグループ展示。右から二番目が「階段を降りる裸体 No.2」
「階段を降りる裸体 No2」のパロディで地下鉄のラッシュを表したもの。「The New York Evening Sun」(1913年3月20日号)
「階段を降りる裸体 No2」のパロディで地下鉄のラッシュを表したもの。「The New York Evening Sun」(1913年3月20日号)
フレデリック・C・トレイの自宅に飾られてた頃の「階段を降りる裸体 No.2」
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壱岐紀仁インタビュー201604

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芸術家であり民俗学者でもある映画監督が探求する世界とは

映画「ねぼけ」監督 壱岐紀仁インタビュー Part2


映画「ねぼけ」の壱岐紀仁監督は、自身を芸術家である以上に民俗学者であると考えている。そのため、映画「ねぼけ」では人情ドラマであると同時に、歴史ある鈴本演芸場での入船亭扇遊による人情噺「替り目」や、宮崎県新富町に伝わる「新田神楽」など、民俗学的見地からも目を見張る場面が多数登場する。今回は芸術に民俗学的要素を取り入れた理由を聞いた。(山田太郎)

壱岐紀仁とは


壱岐 紀仁 (いき のりひと)/監督

1980年、宮崎県生。ディレクター、カメラマン。武蔵野美術大学映像学科卒、多摩美術大学修士課程修了。(株)東北新社 Cm演出部に入社、2007年同社を退社後、写真家として活動を開始。瀬々敬久監督作品「へヴンズ・ストーリー」にスタッフとして参加後、映画制作を志す。初の監督作となる映画「ねぼけ」の制作費をクラウドファンディングで調達して話題になる。


映画「ねぼけ」

うだつの上がらない落語家と取り戻せない過去に生きる真海の愛と葛藤の群像劇。クラウンドファンディングによる大規模な資金調達に成功して話題に。第39回モントリオール世界映画祭正式出品作品。新宿ケイズシネマにて、2016年12月17日(土)より劇場公開。

公式サイト:http://neboke.info


神楽と落語に関心をもったのはどうしてでしょうか?

目に見えない『言霊』的な表現を模索していた


まず、僕は美術大学出身で、卒業した後は現代美術の方向へ進みました。でも、どこか僕が表現したい部分と異なる部分がありました。それは、現代美術で活動している芸術家たちの資質ではなく、システムのほうです。現代美術は伝え方がすごく近代的だと感じています。美術史を汲んだ上でパッケージングして、評価の基準がアカデミズムに徹底的に準じていて。

 

西洋美術というと徹底的に“物質主義”みたいな部分があると思います。物質や実空間を提示しないと、いわゆる『美術』として認識されないような。それで色々考えたら、どうやら自分はモノや物質を提示して伝える方法にあまり関心がない事がわかってきました。僕はどちらかというと「目に見えないもの」、物質として提示しづらいものを伝えることに関心がありました。

 

僕は宮本常一先生や水木しげる先生が大好きで、芸術家というよりも民俗学者でありたいという意識が強くあります。水木しげる先生の場合、お婆ちゃんから聞いたお化けや妖怪の世界を話をもとにした「のんのんばあと俺」という作品がありますが、僕も実際に祖母に同じような話を聞かされて育ったこともあり、そのような物質を必要としない『言霊』的な表現を模索していました。

 

それで「目に見えないもの」の表現を探求していくうちに、自然と「落語」と「神楽」に行き着きました。落語は何もない空虚な高座に、何十人という登場人物や江戸のあらゆる建築・街並が立ち昇ってくるのですが、美術のようにモノとして観客に提示しません。神楽は、一時的に神様が人間の身体に降りてきて、身体を借りて遊ぶみたいな感覚、神様自体が見えるわけではありません。

 

それからもう 1 つ、僕には民俗学者でありたいということもあり、日本人の思考回路とか心みたいなものに興味があって、日本人の心のルーツや思考回路を探るという点でも、落語と神楽に表現のヒントを見出していました。僕の解き明かしたい謎を、一気に解決するような。そういった経緯で、神楽と落語を題材にしました。

 

映画監督や批評家の方々からも、1 つの映画の中にテーマが2つあって、実に不思議な映画だなぁといわれたのですが。本当は東京編(落語)だけでいってたらもうちょっとすっきりしていたのでしょうけど。

映画「ねぼけ」では、宮崎県新富町の新田神楽が現れる。劇中の神楽の舞手は実際の新田神楽の舞手でもあり新田神楽保存会代表の緒方利幸さん。
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映画「ねぼけ」では落語映画でもある。劇中では江戸安政四年より続く歴史ある鈴本演芸場が撮影場所として使われており、入船亭扇遊さんが主人公の師匠役として出演して「替り目」を披露。
映画「ねぼけ」では落語映画でもある。劇中では江戸安政四年より続く歴史ある鈴本演芸場が撮影場所として使われており、入船亭扇遊さんが主人公の師匠役として出演して「替り目」を披露。

神楽を通してどのような事を伝えたかったのでしょうか?

原理的な宗教体験を味わってほしい


「ねぼけ」では、神楽を通して人の心に患っているもの、呪縛を解放することを描こうとしました。神楽そのものを伝えたかったというわけではなく、神楽を通した原理的な宗教体験です。

 

たとえば、映画の中で、ヒロインの真海が神楽の舞手に扮した父と海辺で邂逅するモノクロのシーンがあるわけですが、あそこが「死者との対話」「浄化」のシーンなんです。そのあたりはお客さんも何となくわかっていたと思います。

 

試写会で、観客の女性が『得体のしれない畏れを感じて、神楽面を直視出来ず目を手で覆ってしまった』という感想を頂いたりして、監督として手応えを感じています。お盆とか宗教儀礼というのは、死者と対話することが、何よりも重要な目的となります。それは神との対話でもあります。特にアジア圏では、死んだ人間はみんな霊格が高くなって神様になっていくという発想があります。

 

そうした背景にあって、バリでも日本でも僧侶や神官の一番大事な役割は「死の扉の番人」であること。「ねぼけ」における波打際のシーンというのは、死んで神様になった父と娘の真海が対話する心象風景でもありました。また真海の視点とは別に、客観的なところで、観客にとってたった今、宗教儀礼に立ち会っているかのような疑似体験が出来ることを意図しました。劇場であのシーンを見た人が、「浄化」を共有し、実感できること。

映画「ねぼけ」では印象的な波打際のシーンが幾度となく登場し、劇中で重要な役割を果たしている。
映画「ねぼけ」では印象的な波打際のシーンが幾度となく登場し、劇中で重要な役割を果たしている。

原理的な宗教体験とは具体的にどういったもの?

人をトランス状態にする役割 / 感覚拡張


演出上注意したのは、宗教というものを押し出したくなかったのです。映画は劇場で1800円で鑑賞する間口の広い表現なので、狭義にしたくなかった。できるだけ密教的なものにしたくなかったのです。宗教って、密教的なイメージが付きまとうものです。山にこもっているとか、選ばれし者たちみたいな。

 

そういうものではなくて、元々、神楽が持っているエネルギーというのは、人間の領域を拡張するような効果があります。人をトランス状態にする役割としての宗教ですよね。宗教儀礼においてトランスになった人っていうのは、一例によると、自分が宇宙の星々になったように感じたり、自己の肉体や精神が空や海に溶けて世界そのものになったように感じたりするらしいのです。いわゆる感覚拡張です。

 

オウム真理教事件のあと、宗教に対する見方が極端に一義的に変質してしまったと感じているんですけど、僕は宗教儀礼が本来持っているエネルギーは、人間の感覚を拡張する働きがあると思っています。感覚拡張したときに身体中の穴がバーっと開いて、色々日常で溜まっているストレスや業が流れ落ちていくと思うのですよね。

 

昔の人はその事を感覚的に知っていて、お祭りのときに穴を広げて、終わったら閉めて、

明日からまた頑張ると。それは、飲んで食って寝るのと同じ、人の営みの一部に他なりません。神楽の歴史とか文献を調べると、ストレスや業を解放してあげるための原理宗教みたいな役割を担っています。

 

神楽を知らない人でも、原理宗教のエネルギーのようなものを感覚的に感じて欲しいという思いがありました。「感覚拡張として宗教体験」「原理宗教のような宗教体験」というのは、僕が監督として、映画「ねぼけ」を作る際に一番心を砕いたところです。

壱岐紀仁インタビュー201605

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落語にも神楽と同じような要素があるのでしょうか?

多数の次元が同居する多元的空間 / 容れ物


そして落語も神楽と似たようなことがあります。日本の古典芸能には、欧米圏とちがって自我が自己主張するよりも、見えざる他者や隠世の霊魂が自分に降りてくるのを待ち、降りてきたものをみんなが取り囲んで、現実とは異なる次元の場が刹那的に生じるという多元的な空間を内包しています。

 

落語は高座で1人で喋っていて、それに大勢が耳を側立ててる…というのが、当たり前に見えて実は異様な風景なんですよね。お茶のすする音を聞くために、誰もが耳を側立てるんです。それって、ものすごい変な状況じゃないですか。一種の宗教儀礼の構造ですよね。

 

日本人って真似ることが得意な民族です。渡来のものを真似る、架空の人物を真似る、神の物を真似るという部分に心が強く感応するという、日本人特有の精神構造がある。だから日本人にとって、個人というのは「個性」ではなく「容れ物」なんだと。個人がより「優れた容れ物」であればあるほど、より神を感じるというような考え方なんだなと、今回、落語を探求していてわかりました。

 

 落語も神楽も宗教的であり芸術的なんですね。僕の中では宗教的と芸術的というのは全く同じものなんです。

 

物語の流れとして、最初は落語っていう庶民という地続きの地点から始まって、次に神楽で感覚を拡張して、それでもう一回最後に「ねぼけ」のエンディング曲で感覚を高みにもっていきたいと思ったんです。エンディング曲が1つのピークなんです。イノトモさんにお願いして、鎮魂歌(レクイエム)を作曲していただいた。

 

だから本当のカタルシスはエンディングにあるんですね。魂の救済は、最後の最後に設える。その構造っていうのは、僕がバリのランダで体験したことでもあるんです。

映画「ねぼけ」の本当のカタルシスはエンディングで流れる日本を代表するアコースティック系シンガーソングライター、イノトモによる主題歌「イトナミ」にあるという。
映画「ねぼけ」の本当のカタルシスはエンディングで流れる日本を代表するアコースティック系シンガーソングライター、イノトモによる主題歌「イトナミ」にあるという。

映画制作時に影響を受けた監督や作品などはあるでしょうか?

タイのアピチャートポン監督は理想形です


タイのアピチャートポン・ウィーラセータクン監督ですね。『ブンミおじさんの森』でカンヌでいきなり最高賞をとった人なんですが、彼の映画を見たときに、自分がやりたいと思っていたことがやり尽くされている感じがして、度肝を抜かれました。僕にとって理想形のような映画監督です。

 

『ブンミおじさんの森』というのは、腎臓病を患い自らの死期を悟ったブンミおじさんの話なんですけど、庭先の食卓のシーンで、何の前触れもなく、いきなり半透明の人が現れるんです。それは生き別れた奥さんの幽霊なんです。

 

それでびっくりしたのが、現れた幽霊に向かってさほど驚くことなく、普通に雑談し始めるんです。「ああ、お前か」「元気にしてたか」と。さらに、目の赤く光った類人猿みたいのが、唐突に食卓に姿を現れるんですよ。それはブンミおじさんの甥っ子が猿の精霊になった姿なんです。それで、幽霊と精霊とおじさんの家族が、食卓でご飯を食べながら淡々と世間話をしているんですよ。

 

現実とイリュージョンが当然のごとく同居している神秘に、誰もが腰を抜かしました。ティム・バートンが『この映画にはミラクル(奇跡)がある』と絶賛したのも頷けます。

映画「ブンミおじさんの森」より。画面中央左に見える半透明の姿の女性は幽霊。劇中、突然現れる。
映画「ブンミおじさんの森」より。画面中央左に見える半透明の姿の女性は幽霊。劇中、突然現れる。

「共存」という感覚


 商業映画だとこういうシーンは考えられないし、許されません。たとえば商業アニメーションだと現実とファンタジーの世界の境界が明確に区別されている。でも、アピチャッポン監督は「現も夢も、生も死もすべて等価である」という思想があるので、映画を見ていると現実とイリュージョンの区別がしづらいのです。

 

 

SF映画のように魔法や未来の科学を使って、新しい世界が開けて次の物事が展開していくという、単一の空間がバラバラに多層的にあって、それを物語で強引に繋げてくことはしません。現実と幽霊と精霊が当たり前のように、同じ空間・時間軸に浮遊するように存在している。「共存」って言う感覚でしょうか。僕もそういう問いかけを、映像を通じて探っていきたいです。

ポスト・フラットと古典


また、あらゆるものがフラットになった現代においては「古典」が強くなると思ってます。古いものというのは、人間の本質に寄り添うものだから、やはり時代に左右されない堅牢さがあります。も

 

し、表現の細分化の横溢にウンザリしている人がいたら、落語にせよ神楽にせよ、もう一度古いものを見直してもいいんじゃないかと思います。古典を紐解くことが、自分の根源に繋がっていくんじゃないかと感じています。


壱岐紀仁インタビュー201606

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民俗学的なものへ関心はいつごろから芽生えたのでしょうか?

故郷での暴力と殺意の記憶


本格的に関心を持つようになったのは大学生からですけど、小さい頃からずっと関心はありました。みんなと遊ぶより、こっそり一人で神社の境内に行ったり、夜明けの海へく行くと変わったおじいさんとかいたんです。

 

まるで亡霊のようにずーっと水平線を見ている人とか。そういう原風景が強く印象に残っていて、どういう因果でその風景が成り立っているのか、素朴に疑問を持ったりして。きっと、自己実現より、世界への好奇心が圧倒的に勝ってしまうところがあるんでしょうね。

 

あと、当時の時代背景もあって、飼い犬に避妊をしないから、増え過ぎて育てられなくなった仔犬を海岸端に捨てに行く人が後を絶たなかったんです。そうすると海で仔犬たちが自分たちで生きていかないといけないから、野犬化し群れ化して、人間を襲うようになったんです。そういう野生化した犬の記憶が強くあります。暴力と殺意の記憶というか。

 

映画「ねぼけ」で現れる海は、壱岐監督の故郷であり、強い原風景が残っている宮崎県の日向灘の海岸で撮影されている。
映画「ねぼけ」で現れる海は、壱岐監督の故郷であり、強い原風景が残っている宮崎県の日向灘の海岸で撮影されている。

アブノーマルな部分を普遍化したい欲望


 海辺を歩いてたら、ヒッチコックの映画みたいですけど、気づいたら数十匹の犬に囲まれている状況が実際にありました。

 

学校から帰っているときに校内放送で「猟友会の人が野犬の駆除をしていますので絶対に海に近づかないでください」って、それで「パーン」っていう銃声が聞こえてくるんです。野生も人も飲み込んだ、純粋な悪意が剥き出しの環境でした。

 

 

そういう小学校の頃の経験はごく普通の事かと思ってたのですけど、東京に出て来て、これは只事ではなかったんだなと気づき、僕の記憶のアブノーマルな部分を普遍化したいという創作意欲が湧き出てきて、必然的に民俗学に対する関心を高めたのだと思います。それは、自分自身のルーツを信じることでしょうし。

今後、撮影したいものとかは?

人情ものの反動で暴力的なものを撮りたい


「ねぼけ」では自分にミッションを課していました。落語を扱う以上、悪人を出さないようにする。寅さんを目標にする。でも、人情物を作った反動もあって、ラディカルなものとか、暴力的なものとかを撮りたくなっています

 

自衛隊のことで気になった話があります。とある災害救助の際に、ある若い自衛隊員が義憤にかられて命令が下る前に救助活動をしようと独断で動こうとしたらしいのです。でも自衛隊という組織では、勝手な行動はクーデターだと見做されます。結局大事にはならなかったのですが、善意の行動を静止されたときの彼の気持ちを想像すると、相当に厳しい憤りがあっただろうなと。小さな良心が大きな怒りに代わるような瞬間というか、途方もないものに抗い続ける孤独そのものを撮りたいと思っています。

 

韓国だと、軍事境界線で濃厚な人間ドラマが生まれます。兵役を含め、戦時の体験ってすごい大きいと思います。軍隊を経験するか、しないか。友達だったのに境界線ができて分断されてから殺し合わないといけなくなったとか。今の日本において、取りあえずはそういった状況は考えられない。悲惨なものは、益々見え辛くなっています。

 

日本の映画って、どんどん、ふにゃふにゃで手応えを感じにくいものになっていく予感がします。不都合な真実には目を瞑って、単純な快楽や自己啓発だけを見ようとするような。僕自身はアーティスト出身だと思っているので、また民俗学者として、不快なものやおぞましいものも含めて、正面から描いていきたいと考えています

 

学者であり市井の一人でありたい


ただ単に、間口が広いものを作りたいわけじゃないんです。次世代にヒントになるようなものになればいいなと思っていて。

 

「ねぼけ」を作ることで、これから先に 100 年後、落語を知らない人が、「落語の映画 10選」みたいなので「へえ、こんなのあったんだ」と感じるぐらいの残し方でもいいんです。そういうさり気無さは、学者であり市井の一人であろうとした宮本常一先生への憧れなんです。

 

 

宮本先生は、今、この文化や証言を採取しておかないと、古代の思想そのものが根絶すると直感して、足と言葉を駆使して、気の遠くなるような地道な取材と執筆を重ねました。僕も映画を通して、宮本先生のような実直な仕事をしていきたいと願っています。

劇場情報


新宿ケイズシネマにて12月17日(土)より劇場公開 モントリオール世界映画祭正式出品

◆映画「ねぼけ」公式サイト
東京

ケイズシネマ(2016年12月17日〜2017年1月13日迄公開)

大阪 第七藝術劇場(2017年ロードショー)
京都 京都みなみ会館(2017年ロードショー)
愛知 シネマスコーレ(ロードショー)
宮崎 宮崎キネマ館(2016年10月15日〜10月28日迄公開)

 

 

 

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ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」

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愛の歌 / Love Song

ギリシア彫刻、ゴム手袋、緑のボール、闇の汽車、青い空……


ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」(1914年)
ジョルジョ・デ・キリコ「愛の歌」(1914年)

概要


「愛の歌」は、1914年にジョルジョ・デ・キリコによって制作された油彩作品。73cm×59.1cm。ニューヨーク近代美術館が所蔵。キリコ作品の中で最も有名なものの1つであり、形而上絵画の代表的作品。「愛の歌」は1914年にニューヨークで初めて展示され、1922年にパリのポール・ギリアムギャラリーで展示されました。

 

この絵に並列されているオブジェは、直接的には互いに何の関係もないものである。ただ絵を描いているキリコにとっては、心の中に浮かんでいることをそのままキャンバスに描いているので、個人的なつながりはあると思われます。

 

「愛の歌」で描かれているのは古代ギリシア彫像の頭、ゴム手袋、緑のボール、暗闇に包まれた列車とそれと対照的な青空です。不安や憂鬱の空気が漂うキリコの人型造形、空虚感のある古代建築物、謎めいた通路、そして不気味に長い道路は、第一次世界大戦によって引き裂かれた世界の不条理性をよびおこします。

 

古代彫刻の頭部は、フランスの考古学者サロモン・レイナッの著作「古代ギリシャ彫刻」の本にあるアポロン彫刻の写真をコピーしたものであるのが分かっています。汽車はキリコの子供時代の風景を象徴するもの、アーケード建築はイタリアの街です。

 

手袋はキリコが敬愛していたティツィアーノの絵からの引用と考えられていますが、ほかに錬金術を手がけた手を暗示することもあるようです。ボールは「完璧性」を象徴しています。

 

キリコはこのような、互いに何の関連もないオブジェを並列させるスタイルを形而上絵画と呼んだ。このキリコの作風はシュルレアリスムの先駆的作品の1つであり、のちにブルトンやダリを多くのシュルレアリストに多大な影響を与えています。

 

特にルネ・マグリットに影響を与えており、マグリットは1920年代初頭に初めてこの作品を見たとき、涙が溢れて止まらなかったといいいます。のちにマグリットはこの互いになんら関連のないオブジェの並列、デペイズマン手法を利用しますが、原点はキリコにありました。

【作品解説】ジョルジョ・デ・キリコ「通りの神秘と憂愁」

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通りの神秘と憂鬱 / Melancholy and Mystery of a Street

光と闇の狭間を不安げにひた走る少女


ジョルジョ・デ・キリコ「通りの神秘と憂愁」(1914年)
ジョルジョ・デ・キリコ「通りの神秘と憂愁」(1914年)

概要


少女と影を通してのみ存在が分かる彫像の二人の出会い


「通りの神秘と憂鬱」は1914年にジョルジョ・デ・キリコによって描かれた油彩作品。87×73cm。個人蔵。

 

作品は輪を回して走っている少女と影を通してのみ存在が分かる彫像の二人の出会いを表現しています。少女は右の暗い建物の後ろから差し込む光源の方向へ輪を回しながら走っており、左の建物のアーケードは対照的に明るく照らしだされています。

 

地平線まで伸びる黄色に光り輝く道は、光と闇の2つの建物を分離する。少女はひたすらグルグルグルグルと輪を回転させながら、怪しげな影の向こうにある方向へ不安げに進みます。

 

画面左側の永遠に続く円形アーケードの明るい壁と少女が回す輪が対応し、また右側の途切れる暗い壁は、奥に見える彫像の影と対応しています。手前にあるのは馬車のようです。

 

この作品は第一次世界大戦が始まった直後の1914年に描かれたものであり、またキリコが従軍する前年に描かれたもので、戦争に対する不安が反映されているように見えます。少女はキリコ自身、大きな彫像の影は戦争や死を暗喩していると思われます。

 

「戦争の結果は、おそらくこのような絵のものになる」だろうとキリコはコメントしています。

トリノのポルチコの街並みから着想


描かれている場所はイタリアのトリノです。当時のトリノの街には、きわめて特徴的な全く同じ長いアーケードの建物「ポルチコ」がたくさんあったといいます。トリノではポルチコが18 km にわたって伸びており、観光名所となっています。

複数の消失点が違和感を生じさせている


この作品でキリコは意図的に1つの絵画のなかに消失点を複数取り入れていれいます。

 

左側の白い壁のほうの消失点は並列するアーチが続く方向にありますが、右側の黒い建物消失点は手前の馬車の屋根の中心あたりに設定されています。

 

この消失点の違いが非現実的なパラレル空間を生み出す効果を担い、のちのシュルレアリスム運動にも大きな影響を与えました。

ギャスパー・ノエ「馬肉屋の親父と白痴の少女」

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ギャスパー・ノエ / Gaspar Noe

馬肉屋の親父と白痴の少女


概要


ギャスパー・ノエ(1963年12月27日生まれ)はアルゼンチンの映画監督、映画評論家。アルゼンチンの画家で作家のルイス・フェリペ・ノエの息子。


12歳でパリに移住。ルイ・リュミエール国立高等学校卒業後、スイスのサースフェーにあるヨーロッパ大学の映画科の客員教授となる。最も知られている作品は世界標準だと「I Stand Alone」「Irréversible」「Enter the Void」の3本の映画。


91年『カルネ』でカンヌ映画祭国際批評家週間賞受賞。98年、続編にあたる初長編映画「I Stand Alone(カノン)」をカンヌ国際映画祭出品。02年長編2作目「Irréversible(アレックス)」、09年長編3作目「Enter the Void」共にカンヌ映画祭コンペ部門出品。


スタンリー・キューブリックの作品は、ノエに大きく影響を与えているものの1つで、自身の作品内でもキューブリック作品に言及することがよくある。映画雑誌『Sight & Sound』2012年9月号でノエは、7歳のときに見た「2001年宇宙の旅」の存在なしに、自身の映画監督の立場はありえないとコメントをしている。


また1983年のジェラルド・カーギル監督のオーストリア映画「Angest」も大きな影響を与えた作品であるという。ほかにミヒャエル・ハネケ「Amour」、ルイス・ブニュエル「アンダルシアの犬」、ディヴィッド・リンチ「イレイザー・ヘッド」などからも影響を与えたという。


彼の3本の長編映画は、フランス俳優フィリップフィリップ・ナオン演じる名無しの馬肉屋は、ノエの映画を語る際には外せないキャラクターで、これまでこの馬肉屋は『カルネ』『I Stand Alone』、そして『Irréversible』でゲスト出演している。

馬肉屋の出世作「カルネ」。日本でもおなじみ。隠れ馬肉屋ファンは多いはず。
馬肉屋の出世作「カルネ」。日本でもおなじみ。隠れ馬肉屋ファンは多いはず。
日本タイトルは「カノン」。カルネ後の馬肉屋の話らしい。未見。
日本タイトルは「カノン」。カルネ後の馬肉屋の話らしい。未見。
日本タイトルは『アレックス』。主演ではなくゲスト出演しているよう。未見。
日本タイトルは『アレックス』。主演ではなくゲスト出演しているよう。未見。

作品


カルネ


フランスで一部の人に人気の映画監督ギャスパー・ノエの代表作品。タイトルの「カルネ」とは馬肉のことだが、その色と安さからフランスでは軽蔑的な意味が含まれている。


肉屋の店主の妻は女の子を出産後、知的障害であることがわかると2人を残したまま出て行ってしまう。屠畜という職業上のためか男は周囲から蔑まれ孤独にみえる。妻が出て行った現在、そうした軽蔑的環境における唯一の仲間は知恵遅れで一言もしゃべれない人形のような一人娘だった。馬肉屋の娘を溺愛する生活が続く。 

 

ある日、娘に初潮が訪れる。スカートの血のシミを見た父は、男に襲われたと逆上して若者を殺しにいってしまい、投獄されることになる。しかし、刑務所生活のおかげでこれまでの環境から距離を置くことができ、娘と自分との関係を見つめなおすことになり、男に心の変化が現れるように……

 

この映画は孤独な男の一人娘への屈折した「愛と成熟」がテーマのように思える。この父親の娘への愛はすごく一方的なもの。まったく口の利けない白痴の娘は、かわいがってくれている男が「自分の父」であるかどうか認知しているのも怪しく、また男は父である自分のことを愛してくれているのか分からないことに悩む。しかし保釈後、保釈金返済のため馬肉屋を売りわたし、バーの豚みたいな女の男娼になるのをきっかけに、過去(馬肉屋)を精算し、溺愛する娘とも距離を取り離れ、男は新しい人生に旅立つことで成熟を迎える

 

かつては人形のように扱っていた娘との抱擁はまさに親子のもの。しかし、やっと正常な親子関係になれたはずなのに、「カルネ」を止めることで、馬の頭を叩き切ることで、親子は別れなければいけなかったのである。

 

冒頭の過激的な「死(馬肉屋の終わり)」と「生(娘の出産)」のシーンが、この映画のすべてを伝えている気がする。

【作品解説】アンリ・マティス「帽子の女」

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帽子の女 / Woman with a Hat

フォーヴィスムの原点となったエポック作品


アンリ・マティス「帽子の女」(1905年)
アンリ・マティス「帽子の女」(1905年)

概要


フォーヴィスムの起源となる作品


「帽子の女」は、1905年にアンリ・マティスによって制作された油彩作品。80.65cm×59.69cm。1905年の第二回サロン・ドートンヌで展示するために描かれたもので、マティス周辺の画家たちが“フォーヴィスム”と呼ばれるきっかけとなったエポック作品です。現在はサンフランシスコ近代美術館が所蔵しています。

 

批評家のルイス・ボークセルズは、アンドレ・ドランやそのほかのメンバーたちと展示していた部屋で、その原色を多用した強烈な色彩の絵画とほかのマティスのルネッサンス風の彫刻を比較して、「この彫像の清らかさは、乱痴気騒ぎのような純粋色のさなかにあってひとつの驚きである。野獣(フォーヴ)たちに囲まれたドナテロ!」と叫んだといいます。ボークセルズのこのコメントは新聞『Gil Blas』の1905年10月17日号に掲載され、話題を呼びました。

 

また、マティスが初期に影響を受けていた印象派の分割描法からシフトしたターニング作品でもあります。

モデルは当時の妻アメリー


 モデルとなっているのはマティスの妻のアメリーです。

 

アメリーはフランスのブルジョアジー女性の典型的な象徴として、手の込んだ衣装を身につけて描かれています。手袋を身につけ、手には扇子を持ち、頭に豪華な帽子を被っており、彼女の衣装は非常に鮮やかな色合いで、純粋であり、豪奢な感じが出ています。

 

のちにマティスに、当時マティス夫人が絵のモデルをしているときに着ていた実際の服の色合いを尋ると「もちろん、チープなブラックさ」と答えたといいます。マティスによれば現実の色合いをリアルに描く必要なく、作者の心や感情を軸に、自由きままに色彩表現されていればよいのです。それこそが、フォーヴィスム表現なのです。

マティスとアメリー。
マティスとアメリー。

作品の所有者


作品はマティスやピカソのコレクターで知られるガートルード&レオ・ステインが購入しました。そのため当時は不評を買った作品でしたが、マティスにとって大コレクターが購入してくれたことは大きな励みになりました。

 

最終的にはガートルードとレオの弟のミヒャエルの妻であるサラ・ステインが購入者となりました。レオ・ステインは初めこの絵が好きではなかったようです。マダム通りにあったサラ&マイケル夫妻の自宅で、この絵が飾られていました。1950年代に作品はアメリカ、カリフォルニア州、パロ・アルトにあるサラの自宅の目玉作品として飾られていました。

 

その後、ハース一族が絵を購入し、1990年にエリス・S・ハースがサンフランシスコ近代美術館に「帽子の女」を含む約40のマティス作品を寄贈しました。

【作品解説】アンリ・マティス「赤いハーモニー」

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赤いハーモニー / Harmony in Red (The Red Room)

フォーヴィスム時代の最高傑作


アンリ・マティス「赤いハーモニー」(1908年)
アンリ・マティス「赤いハーモニー」(1908年)

概要


「赤いハーモニー」は、1908年にアンリ・マティスによって制作された油彩作品。180cm×220cm。1908年から1913年にかけてのフォーヴィスムの時期において、最も完成度の高いマティス作品。別名「赤い部屋」呼ばれることもあります。現在、ロシアのエルミタージュ美術館が所蔵しています。

 

本作は装飾性、絵画性、そして前衛性の3つの要素持ち合わせています。

 

「赤いハーモニー」は、ロシアの大コレクターのセルゲイ・シチューキンの依頼で制作した装飾パネルとして制作されたもので、セルゲイが住んでいたモスクワのマンションのダイニングルームに飾るためのものでした。

 

ねじれた青い蔓草模様とラズベリー・レッドの壁紙とテーブルクロスが、壁とテーブルの境を曖昧な状態にし、部屋本来の3次元空間を消失させ全体を1つのフラットな赤い空間にすることで、装飾性の高いキャンバスになっています。

 

しかし、窓から見える赤とは対照的な緑の庭、青い空、果物を入ったボールを動かそうとする女性の存在などが、鑑賞者の視線を移動させる効果をもたせ、絵画的な奥深さをもたせています。さらに、赤、黒、青、オレンジ、紫という鮮やかで大胆なフォービスム的な色彩構成になっています。

 

この絵画は3つの過程を経ており、初めは緑の部屋でした。その後、シチューキンの要望で青色に塗りつぶされ「青いハーモニー」というタイトルになりましたが、その出来上がりに対しマティスは納得行かなかったため、最終的にはマティスが好きな赤色で塗りつぶして「赤いハーモニー」となりました。

 

描かれている風景は、パリにあったマティスのアトリエで、窓から見える景色は、スタジオの窓から見える修道院の庭です。またテーブルや果物のレイアウトをしているメイドは、色や構図を考えているマティス自身を表しています。

【完全解説】ジョエル=ピーター・ウィトキン「アウトサイド・ファンタジー」

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ジョエル=ピーター・ウィトキン / Joel-Peter Witkin

アウトサイド・ファンタジー


概要


ジョエル・ピーター・ウィトキン(1939年9月13日-)はアメリカの写真家。ニューメキシコ州アルバカーキ在住。

 

死、死体(ときどきバラバラ死体)、小人、性転換者、両性具有者などのアウトサイダー、畸形の人たちを被写体に、それらを宗教的なエピソードやクラシック絵画を彷彿させるオブジェや小道具と組み合わせて、暗く薄汚れたセットを背景に、ひとつのイメージにまとめあげる。

 

ウィトキンは個人的な体験から内部に形成されたダークなヴィジョンをダイレクトに視覚化するのではなく、西欧の美術や文学、神話や歴史の基盤にして制作している。特に大きな影響を与えているのは、クリムト、フェリシアン・ロップス、アルフレッド・クービンらに代表される19世紀末の象徴主義である。シュルレアリスムでマン・レイやマックス・エルスントに大きな影響を受けている。

 

撮影技法に関しては初期のダゲレオタイプならびにE・J・ベロック(E. J. Bellocq)の作品から学んでいる。ネガには擦り傷や引っかき傷をつけたり、わずかにセピアがかったソフトなトーンを出すために、印画紙に非常に薄いティッシュのような紙を重ねるといった技巧を施している。

 

1961年から1964年の間のベトナム戦争時に戦場写真家として働き始める。ベトナム戦争終結後、ウィトキンはフリーランスの写真家となり、City Walls Inc.の公式カメラマンとなった。

略歴


ウィトキンは、1939年にニューヨークのブルックリンで生まれた。父親はユダヤ系で母親はカトリックだった。ウィトキンは三つ子の兄弟のひとりとして生まれおり、そのうち無事に生き延びたのは男の兄弟ふたりで、 もうひとりの女の子は流産している。

 

両親は兄弟がまだ幼い頃に離婚。ウィトキン兄弟は母親の厳格なカトリックの環境のなかで育てられた。父親は定期的に養育費を支援するだけだった。

 

ウィトキンは6歳のとき、強烈な出来事に遭遇する。それは、兄弟が母親に手を引かれて教会に向かう途上で起きた3台の車の衝突事故だった。横転した車から小さな女の子の首がウィトキンの足元に転がってきたのだ。彼はかがみ込んでその首に触れ、話しかけようとしたが、その前に誰かに引き離されてしまったという。

 

ウィトキンは16歳のときに初めてカメラを手にし、写真に関する何冊かの本を読み、写真を撮りはじめた。彼が強い関心を示したのは、コニー・アイランドのフリークス・ショーだった。 彼はそのショーに足しげく通い、3本の足を持つ男や小人、両性具有者の写真を撮り、しかもそれだけにとどまらず、最初の性体験の相手としてその両性具有者を選んでもいる。

 

60年代に入り、写真技術者として職を得たウィトキンは、一方でニューヨークにある美術学校クーパー・ユニオンで彫刻を学ぶ。その後、徴兵され、写真班として訓練を受け、アメリカ諸州やヨーロッパを回り、 テキサスの陸軍写真班として兵役を終える。彼の任務のひとつは、訓練中の事故で死亡したり自殺した兵士の肉体を撮影することだった。

 

退役後、ウィトキンはクーパー・ユニオンに戻るが、今度は、東洋の神秘主義や瞑想に熱中し、インドに渡ってヨガを学ぶ。74年に美術の奨学金を受け、ニューメキシコ大学に大学院生として迎えられた彼は、 以後、家族とともにアルバカーキに住み、神秘のベールに包まれた創作活動を続けている。

 


【作品解説】アンリ・マティス「ダンス」

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ダンス / Dance

涼やかな背景と熱く肉踊る身体


アンリ・マティス「ダンス(Ⅰ)」1909年
アンリ・マティス「ダンス(Ⅰ)」1909年

概要


「ダンス」はアンリ・マティスによって制作された油彩作品。1909年版「ダンス(Ⅰ)」と1910年版「ダンス(Ⅱ)」の2作品が一般的によく知られています。ほかに「ダンス」を基盤にしたいくつかよく似た作品があります。ダンスを行う人物たちの構図は、ウィリアム・ブレイク1786年の水彩絵画「Oberon, Titania and Puck with fairies dancing" 」を基盤にしています。

ウィリアム・ブレイク「「Oberon, Titania and Puck with fairies dancing" 」(1786年)
ウィリアム・ブレイク「「Oberon, Titania and Puck with fairies dancing" 」(1786年)

習作となる「ダンス(Ⅰ)」


1909年3月にマティスは「ダンス(Ⅰ)」の習作を制作。全体的に淡いかんじで、ラフに描かれています。現在、MoMAにある大きくて人気の高い作品「ダンスⅠ」です。サイズは259.7cm×390.1cm。

 

「ダンス(Ⅰ)」はマティスの息子が運営するピエール・マティス画廊経由でニューヨークにわたり、その後、さまざまな人の手に移りながら、1963年にネルソン・ロックフェラーからMoMAに寄贈されることになりました。

MoMAにある「ダンス(Ⅰ)」
MoMAにある「ダンス(Ⅰ)」

ダンス(Ⅱ)


「ダンス(Ⅰ)」のあとに制作された、1910年版「ダンス(Ⅱ)」は、1909年にロシアの富裕コレクターのセルゲイ・シチューキンからの依頼によって制作された装飾パネル作品です。

 

モスクワにあるシチューキンのマンションの階段に飾るため2つの作品が依頼されました大サイズの装飾絵画を依頼されました。1つが本作「ダンス」で、もう1つはミュージック」です。大きさは260cm×391cmで、「ダンス(Ⅰ)」とほぼ同じです。

 

本作は1917年のロシア革命が勃発するまで、階段のところに「音楽」とともに飾られていました。現在はロシアのサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館が所蔵しています。

 

アンリ・マティス「ダンス」1910年
アンリ・マティス「ダンス」1910年
アンリ・マティス「音楽」1910年
アンリ・マティス「音楽」1910年

5人のダンスをする人物は赤色で力強く描かれ、対照的に背景はシンプルな緑とブルースカイで描かれています。当時マティスは、プリミティブ・アートに影響を受けており、芸術における初期衝動を反映したもので、古典的なフォービスムスタイルが採用されています。

 

涼やかな青と緑の背景の上に、対照的な激しい暖かい色とリズミカルなダンスをするヌードという構図は、抑圧された感情の解放や快楽主義を鑑賞者に伝えます。本作はロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーの有名ミュージカル作品『春の祭典』に現れる『少女のダンス』との関連が指摘されます。

 

手を繋いで輪になって踊っている人々をよくよく見ると、手前の二人の手が離れていることに気づきます。これはなぜでしょうか? 意図は明らかにされていませんが、鑑賞者をこのサークルに参加させる意図だと解釈されたり、緊張を帯びたかんじで「決断」や「覚悟」といった感情を表現していると解釈されることがあります。ただし、色の連なりを潰さないように、膝の部分で注意深く手が離れるよう描かれていることが分かります。

 

 

ダンスはマティスの芸術におけるキーポイントとなるモチーフです。

【作品解説】マルセル・デュシャン「ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?」

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ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない? / Why Not Sneeze Rrose Sélavy?

この小さな鳥篭は角砂糖で一杯だ…


マルセル・デュシャン「ローズセラヴィ、何故くしゃみをしない?」(1921年)
マルセル・デュシャン「ローズセラヴィ、何故くしゃみをしない?」(1921年)

概要


「ローズ・セラヴィ、何故くしゃみをしない?」は、マルセル・デュシャンによって制作されたレディ・メイド作品。修正レディメイドの1つ。デュシャンのコレクターであるキャサリン・ドライヤーによる依頼で、妹のプレゼント用に制作されました。11.4 x 22 x 16 cm。フィラデルフィア美術館所蔵。1963年と1964年にレプリカが制作されています。

 

角砂糖のようなたくさんの大理石の立方体、温度計、そしてイカの甲が、手ごろな大きさの古い長方形の鳥篭の中に詰まっています。 この作品に残されたデュシャンのサインはデュシャンの女装用のペンネーム「ローズ・セラヴィ」(Rose Selavy)。それが「ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?」です。

 

デュシャン自身は、次のような解説を残しています。

 

「この小さな鳥篭は角砂糖で一杯だ…しかし角砂糖は大理石でできていて、鳥篭を持ち上げた時には予測できなかった重さに驚かされる。/温度計は大理石の温度を示すためのものだ。」

 

詳細な解説は残されていませんが、さまざまな憶測がされています。たとえば、制作依頼者であるキャサリン・ドライヤーはキュビズムのパトロンとして有名でした。大理石の立方体はキュビズム=ヨーロッパ芸術=キャサリン・ドライヤーの好みのことを指していると思われます。また、152個の大理石にはMade in Franceの刻印が押してあるのですが、152とは英知的な意味があるようです。

 

ずっしりと重い大理石は、同時に角砂糖にも見え甘そうです。その甘さは快楽や女性を暗示し、また女性とは、女装したローズ・セラヴィであり、デュシャン自身のことでもあります。

 

そして鳥篭から半分はみだしイカの甲は大理石と同じ石灰質。しかし鳥篭から脱出しようとしいるところから、角砂糖と似て非なるものであることを主張したい。そのイカの甲もまたデュシャン自身でもある。

 

つまり、ヨーロッパ芸術世界からニューヨークの新しい世界へ脱出しようとしているデュシャン自身を表現した作品だといわれます。

 

また、イカの甲はフランス語では「Os de Seiche」で、甲=「Os」は発音は[O]であり、[O]はゼロともいえます。温度計には普通、摂氏と華氏の目盛りが付いていますが、摂氏0度とは華氏32度。0度か32度か分からない、評価(温度)の分からない私はくしゃみができない。

 

くしゃみをするという観念とくしゃみをしない?という観念との間には、はっきりした隔たりがあります。なぜなら、人は結局のところ、自分の意思でくしゃみをすることはできないのです。kすはみというのは、たいてい意に反してしまうものでしょう。

 

ローズ・セラヴィ(マルセル・デュシャン)は、ヨーロッパで不遇扱いされている。この鳥篭から飛び出しニューヨークへ向かうというようなことかもしれません。

 

この作品は300ドルでキャサリン・ドライヤーの妹に販売しましたが、彼女はこの作品が気に召さず姉のキャサリンに転売しました。キャサリンも短い間しか所有せず、同じ値段でアレンズバーグに譲ってしまいました。

<参考文献>

Why Not Sneeeze, Rrose Selavy?

・マルセル・デュシャン展 高輪美術館 西武美術館

【作品解説】マルセル・デュシャン「なりたての未亡人」

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なりたての未亡人 / Fresh Widow

ローズ・セラヴィ署名の初作品


マルセル・デュシャン「なりたての未亡人」(1920年)
マルセル・デュシャン「なりたての未亡人」(1920年)

概要


「なりたての未亡人」は1920年にマルセル・デュシャンによって制作されたオブジェ作品。フランス窓のミニチュアで、ペンキ塗りの木枠に8枚の黒い皮がはめられている。デュシャンの扉・窓系作品の代表的なもの。ニューヨーク近代美術館が所蔵しています。

 

ミニチュア自体はニューヨークの指物師による受注で、デュシャン自身がした作業は、仕上げとして窓ガラスを黒皮のパネルに取替えただけです。デュシャンによれば「毎日磨いてもらいたい」という気持ちで、ガラスを黒皮に取り替えたようです。

 

「なりたての未亡人」の原題は「Fresh Widow」で、両開き式のフランス窓の「French Window」から由来しています。フレッシュのrをlにすれば「肉欲」という意味になり、肉欲に飢えたフランスの両開きという意味にもなります。

 

「なりたての未亡人」が制作された頃は、第一次世界大戦直後で、パリの街では戦死した夫の喪に服する数多くの未亡人たちの姿が見られたといいます。そして戦時中、空爆に備えて貼られていた窓の黒い目隠しは、戦後には喪を示すための目隠しとして利用されていました。

 

「なりたての未亡人」は、夫の喪失と同時に「毎日磨いてもらいたい」フランスの未亡人をかけあわせている作品です。なお、この作品はデュシャンがローズ・セラヴィという女装用のPNで署名した最初の作品でもあるため、女性の心性を表現しているのは明らかです。

マルセル・デュシャンTop

 

<参考文献>

・マルセル・デュシャン展 高輪美術館 西武美術館

【作品解説】マルセル・デュシャン「グリーンボックス」

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グリーンボックス / The Green Box

バラバラのメモを集めて共通する概念を提示


マルセル・デュシャン「グリーンボックス」(1934年)
マルセル・デュシャン「グリーンボックス」(1934年)

概要


「グリーンボックス」は1934年にマルセル・デュシャンによって制作されたメモ集作品。

 

緑色のスウェードを貼った1つ箱の中に、1923年の作品「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(大ガラス)の制作に関係するスケッチ、メモ類、写真などが整理されず、綴じられずに、ばらばらに保存した形式となっています。1911−20年に書き溜めたもので全部で94点あります。

 

デュシャンは「大ガラス」について、出来上がった視覚美術だけで終わらず、完了にいたるまでの「思考のプロセス」も美術だと主張しました。そのため「大ガラス」の制作期間(パリとニューヨーク滞在中)におけるデュシャンの創造的思考のプロセスがメモから分かるようになっています。

 

デュシャンは、制作メモがただのバラバラな状態で終わらず、それぞれが同じ表現概念の異なるパーツのようにして関係していることを「グリーンボックス」で表現したかったようです。

 

それらバラバラのアイデアを一所に集めて全体に共通するコンセプトが浮かびあがるように見せることがこの作品のポイントです。読者は自由に94点のメモを選び、配列して、自分自身のストーリーを作ることができます。

 

グリーンボックスは通常版とメモの原本を一点ずつ添えた特装版10部をくわえて1934年9月に最初の箱が出版されました。その年に、特装版10部と通常版35部が売れて、印刷費はほぼ回収できました。

 

グリーンボックスのメモを誰よりも読みふけったのはアンドレ・ブルトンでした。「ミノトール」1934年12月号で、ブルトンは「花嫁の燈台」というタイトルのエッセイで、グリーンボックスのメモを参照に「大ガラス」を解読し、現代美術の最高峰に位置づけました。

マルセル・デュシャンTop

 

<参考文献>

・マルセル・デュシャン自伝

・マルセル・デュシャン展 高輪美術館 西武美術館

メトロポリタン美術館

【作品解説】マルセル・デュシャン「自転車の車輪」

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自転車の車輪 / Bicycle Wheel

デュシャンの最初のレディ・メイド作品


マルセル・デュシャン「自転車の車輪」(1916-1917年)
マルセル・デュシャン「自転車の車輪」(1916-1917年)

概要


「自転車の車輪」は1913年にマルセル・デュシャンによって制作されたレディ・メイド作品。自転車の前輪を取り外して、木製の台所用の椅子の上に逆さまにしてネジ留めし、立てかけています。

 

1913年にパリのスタジオにいるとき、なんとなく自転車の車輪を逆さまにして台に乗せて回して見ているときにこのアイデアを考えきました。当時は、特にレディ・メイド制作を意図して制作されたものではありませんが、これが最初のレディ・メイド作品として知られるようになりました。

 

タイヤを回すとスポークがぶれて、やがて目には見えなくなり、回転が遅くなるにつれてまた見えてくる車輪が、デュシャンの気持ちをなごやかにしてくれたようです。デュシャンはこのようにコメントしています。「車輪が回転しているのを見ると和やかな気分になった。それはまるで暖炉の火を眺めているときのように」。

 

オリジナルの「自転車の車輪」をパリに残したまま、デュシャンは1915年にニューヨークわたります。そしてここでも「スタジオに一種の創造された雰囲気をかもしだす」ために、レプリカ「自転車の車輪」セカンドバージョンを制作。この頃に「レディ・メイド」という言葉も思いつきましあ。

 

「自転車の車輪」は最初のキネティック・アートともみなされています。

 

1913年に制作オリジナル版は消失、セカンドバージョンも紛失しています。1951年にレプリカ版が制作されました。

<参考文献>

Bicycle Wheel - Wikipedia

・マルセル・デュシャン展 高輪美術館、西武美術館

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