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【作品解説】ルネ・マグリット「水平線の神秘」

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水平線の神秘 / The Mysteries Of The Horizon

月は1つなのか、3つなのか


《水平線の神秘》1955年
《水平線の神秘》1955年

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1955年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 50 cm × 65 cm
コレクション 不明

《水平線の神秘》は、1955年にルネ・マグリットに制作された油彩作品。

 

作品には一見すると同一人物にみえる山高帽をかぶった3人の男性が描かれており、それぞれが異なる方向を向いている。水平線はうっすら光がかっているので夜明け前か日没後である。また空には、それぞれの人物の上空に三日月が描かれている。

 

マグリットは絵について、男が3人いれば3人それぞれが月に対して独自の概念を持っている。しかし一方で、三日月はまぎれもなくひとつしか存在しない。だからそれぞれ違う方向(概念)を向いている3人の上に同じ月を描いた。ひとつなのか、3つなのか、これは哲学的問題であると説明している。

 




【美術解説】劉野「普遍的な言語で内面を描写する中国現代美術家」

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劉野 / Liu Ye

普遍的な言語で内面を描写する中国現代美術家


《Smoke》2001-2002年
《Smoke》2001-2002年

概要


生年月日 1964年生まれ
国籍 中国
職業

画家、現代美術家

代表作

・Qi Baishi Knows

・Mondrian , Once Upon a

・Time in Broadway

関連サイト

Artnet(作品リスト、作者詳細)

劉野(リュウ・イ:1964年生まれ)は北京を拠点に活動している中国人画家。

 

明るい色彩の子どものような女性の肖像画や彼の好きなキャラクターのミッフィーうさぎ、抽象絵画の巨匠ピエト・モンドリアンへのオマージュ的な作品で知られている。

 

リュウ・イは文化大革命期に育ったアーティスト世代の1人であるが、同世代のほかの高く評価されている中国の現代美術家たちと異なり政治的なメッセージはない

 

リュウ・イは、外の中国現代社会よりも彼は普遍的な言語を使って内面的な世界を描写する方を好む。彼の作品は中国だけでなく、ヨーロッパやアメリカでも広く展示されている。

 

2019年10月、サザビーズ香港で出品された2001年から2002年にかけて制作された少女が煙草を手にしている作品《Smoke》は665万ドルで落札された。2020年にニューヨークにある最も有名な画廊デビッド・ツヴィルナー画廊での個展が予定されている注目の中国現代美術家だ。

リュウ・イ《Book Painting No.17》2017年,David Zwirnerより
リュウ・イ《Book Painting No.17》2017年,David Zwirnerより

略歴


幼少期


劉野は北京で生まれ育った。彼の父親は児童書作家で、毛沢東の文化大革命期に実行された上山下郷運動で田舎に下放された。

 

父はハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話、アレクサンダー・プーシキンの童話、アンナ・カレーニナ、戦争と平和、西遊記、水の余白など多くの文化大革命時期の禁止図書をベッドの下の黒い箪笥に隠していた。

 

父親が隠し持っていたこれらの児童書に描かれたイラストは劉野の芸術に絶えず影響を与えている。劉野は幼少期から絵を描くことに関心を持ち、才能を発揮していた。10歳のとき、父親は息子を版画家の锁黄龙に紹介し、锁黄龙は劉の最初の正式な美術教師となった。

 

以来、劉は週に1〜2回、5年間にわたって锁からデッサンの指導を受け、基本的な技術教育を習得した。

 

13歳の時、左目に弱視が見つかり、医師は空間感覚に影響を与えると判断して、一時的に美術の勉強を中断させた。しかし、劉は芸術家になるという夢をあきらめず、弱視が彼の作品を破壊することはなかった。

美術教育


1980年、劉野は北京の美術工芸学校のインテリアデザイン学科を志望したが、最終的には工業デザイン学科に入学し、そこで西洋の現代美術を学ぶ。バウハウスや、後に彼が強く影響を受けるピエト・モンドリアンの作品に初めて出会った。

 

1984年、美術工芸学校を卒業した後、北京公明(芸術工芸)グループの研究センターに勤務し、同時に大学入学試験の準備をする。1986年、中央美術学院壁画科に入学し、優秀な成績を収めた。

 

この頃、中国の大学生の間では心理学や哲学、特にフロイト研究が流行っていた時期で、劉もまたフロイトの『夢の解釈』やフリードリヒ・ニーチェやヘンドリック・ファン・ルーンの著書に刺激を受けた。

 

中央美術学院在学中、劉野はときどき漫画を描いて新聞に投稿し、収入を得ていた。

 

1989年、中央美術学院を卒業する前にドイツに渡り、ベルリン芸術大学の入学試験に合格し、1994年に修士号を取得。1998年にアムステルダムのライクスアカデミーのアーティスト・イン・レジデンスに参加し、さらに技術を磨き、2001年にはロンドンのデルフィナ・スタジオ・トラストでインターンシップとして参加した。

美術的評価


劉野は西洋美術への関心とベルリンでの留学経験もあって、1989年の天安門事件後に共産党政権に対抗する武器として芸術を利用してきた中国の現代美術家たちとは一線を画している

 

美術史家のPi Liによれば、「劉野と同時代の中国人芸術家との大きな違いは、彼は1989年の天安門事件後の激怒期を経ていないこと、また、作品に中国人がよく使う『集合的』なイメージ要素が含まれていないことである」と述べている。

 

天安門事件が発生した同時期、劉野はヨーロッパでベルリンの壁が崩壊した姿を目の当たりにし、ヨーロッパの美術館を巡り、パウル・クレーヨハネス・フェルメールなど西欧近代美術の巨匠たちを研究していた。

 

劉野の美術は「中国」に焦点を当てるのではなく、美、感情、希望といったより人類に普遍的なテーマを作品に取り入れている。

 

劉野は次のように話している。「美を求めることは人間にとって最後のチャンスです。それはゴールに向かって撃つようなもので、喜びに満ちた感情を呼び起こす」。1994年に中国に帰国するまでに、彼の作品はドイツ表現主義の影響を強く受けており、全体的に暗いトーンで強烈な個人表現が見える。

 

彼のヨーロッパ近代美術家の研究、幼少期の童話の影響、美、感情といった普遍的なテーマ、ドイツ留学、ドイツ表現主義、個人主義の影響は奈良美智の世界観と通じるところがある。

 

また、象徴としてのモンドリアンの作品の利用やモンドリアンの構図は、この頃までに彼の作品の多くに現れている。ほかに、鏡、彼の自画像、ルネ・マグリットのシュルレアリスム作品は、彼の初期作品の他の重要な指標である。この時期、劉はそれぞれの作品に小さな筋書きを描くようになり、それが彼独自のスタイルの1つとなった。

 

1994年以降、劉野が北京に戻ると、彼のスタイルと主題は環境に合わせて変化していった。それまではセルフポートレイトを青年画として描いたいたが、少年として描くようになりました。また、女性の姿も増え始めた。

 

絵の舞台は部屋から劇場へと移り、少年時代に見た中国の風景や幼い頃の夢が描かれるようになる。合唱、船団、船乗りの少年たちが繰り返し描かれている。

 

原色へのこだわりは、北京での幼少期にも通じるものがある。「私は赤の世界で育った」という振り返り、「赤い太陽、赤い旗、赤いスカーフ、緑の松、ひまわりなどが私の赤いシンボルを支えている」と話している。

リュウ・イ《剣》 2001–2002年,artnetより
リュウ・イ《剣》 2001–2002年,artnetより

2000年までには、劉野は徐々に独自のスタイルを確立していった。2000年から、彼は自画像から離れ、張愛玲、阮玲玉、アンデルセン、リトル・マーメイドなど、自分が興味を持っている人物を描くようになった。

 

代わりに同時期、自分自身を反映するものとして、自分の好きな漫画のキャラクターであるウサギのミッフィーを描き始めた。劉野はアムステルダム滞在時に一見地味だが実は非常に知的なミッフィーに自分の姿を見たという。

 

2000年代になると、象徴としてのモンドリアン作品のオマージュが、少女や少年と一緒に描かれるようになり、ときにミッフィーも少年や少女たちとともに作品に描かれるようになった。

 

2004年、2005年頃になると劉野の童話のようなファンタジーは、よりマイルドでリアルな作風に変わっていった。

 

思春期の少女が繰り返し登場する。読書や旅に出るといった単純な行為を描いた作品もあれば、性的な意味合いを含んだ作品もある。

 

人間の美の完璧さを追求した作品でフェルメールの影響が強く表れるようになった。

リュウ・イ《International Blue》2006年,David Zwirnerより
リュウ・イ《International Blue》2006年,David Zwirnerより

市場


2013年、劉野の絵画《剣》がサザビーズ香港で42.68M香港ドルで落札された。

 

2019年には、絵画《Smoke》(2001-2002)がサザビーズ香港で52,18M香港ドル(665万ドル)という新記録的な価格で落札された。

 

《Smoke》は、2001年から2002年にかけて制作されたの壮大なクリムゾン色の横長のキャンバスで、3枚の作品からなる最初の作品である。2枚目の作品はM+ Siggコレクションに、3枚目の作品は2013年にオークションに出品され著名な個人コレクションに収蔵されている。

2019年サザビーズ香港で落札された《Smoke》
2019年サザビーズ香港で落札された《Smoke》

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Liu_Ye_(artist)、2020年11月24日アクセス

https://www.davidzwirner.com/artists/liu-ye、2019年10月13日アクセス

https://en.thevalue.com/articles/liu-ye-auction-record-smoke-contemporary-art-sothebysm2020年11月24日アクセス


【芸術様式】社会主義リアリズム「社会主義国で採用された理想化された写実主義」

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社会主義リアリズム / Socialist realism

社会主義国で採用された「理想化された写実主義」


イサーク・ブロドスキー《スターリンの肖像画》
イサーク・ブロドスキー《スターリンの肖像画》

概要


社会主義リアリズムは、ソビエト連邦で発展した理想化された写実的な芸術。1932年から1988年までの間、ソビエト連邦および第二次世界大戦後の他の社会主義国でこの芸術様式が採用されていた。

 

社会主義リアリズムは、何よりもまず、プロレタリアートの解放などの共産主義的価値観の誇張された描写が特徴である。

 

リアリズムという名称が付いているが、19世紀の写実主義や社会的関心事をリアルに描く現実描写と決して混同してはいけない。「リアリズム」という名称にもかかわらず、この芸術様式で描かれる人物は、非常に理想化されていることが多く、特に彫刻においては古典彫刻の技法に重きを置いていることが多い。

 

社会主義リアリズムは、1920年代初頭の発展から、1960年代後半から1991年のソビエト連邦の崩壊に至るまで、ソビエト連邦で公式に認められた芸術の主要な形態だった。

発展


社会主義的リアリズムは、数十年にわたり、多様な社会の中で何千人もの芸術家によって発展した。

 

ロシア美術におけるリアリズムの初期の例としては、移動派イリヤ・イエフィモヴィチ・レピンの作品が挙げられる。これらの作品には政治的な意味合いはなかったが技術的な側面が見られる。

 

1917年10月25日、ボリシェヴィキがロシアを支配した後、芸術的スタイルに著しい変化が見られるようになった。ツァーリの没落からボリシェヴィキの台頭までの間に、芸術的研究の時期が存在した。

 

ボリシェヴィキが支配権を握った直後、アナトリー・ルナチャルスキーは、人民教育委員会のトップに任命され、新しく誕生したソビエト国家における芸術の方向性を決定する立場に置かれることになった。

 

ルナチャルスキーは、ソ連の芸術家が従うべき単一の美術モデルを指示したわけではないが、後に社会主義リアリズムに影響を与えることとなる人体に基づく美学のシステムを開発した。

 

彼は、「健康な肉体」「知性的な顔」「親しみやすい笑顔」を鑑賞することは、本質的に生命力を高めるものであると信じていた。また、芸術は人体に直接的な影響を与え、適切な状況下で芸術はポジティブに働くと結論付け、「完全な人物」を描写することで人々が完璧なソビエト人となる芸術教育になると考えた。

天安門広場に設置されている葛小光による「毛沢東の肖像画」。1949年から60年間で肖像画は8度修正されている(作家が変わる)されている。尚、現在の肖像画は葛小光によるものである。
天安門広場に設置されている葛小光による「毛沢東の肖像画」。1949年から60年間で肖像画は8度修正されている(作家が変わる)されている。尚、現在の肖像画は葛小光によるものである。

ソビエト芸術の運命を左右した2つの主要なグループがあった。ロシア未来派と古典主義である。カジミール・マレーヴィチがロシア未来派に属していた芸術家の一人として知られており、彼の軌跡を追うことで社会主義リアリズムの成り立ち、社会主義国における前衛芸術の衰退の理由もわかる。

 

未来派の多くは、ボリシェビキ以前から抽象芸術や左翼芸術を制作していたが、共産主義は過去との完全な決別を必要であるとし、それゆえソビエト芸術もそうであると考えていた。一方、古典主義者は日常生活をリアルに表現することの重要性を説いていた。

 

レーニン政権下と新経済政策の下でにおいては、ある程度の民間営利企業が存在し、未来派も伝統派も資本を持つ個人のために芸術を制作することができていた。

 

しかし、1928年頃までに、ソビエト政府が民間企業を廃止するほどの力と権限を持つようになると、未来派や前衛芸術などの少数派芸術グループの支援を止めるようになった。この時点ではまだ「社会主義リアリズム」という言葉は使われていなかったが、その特徴がソ連の規範となりつつあった。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Socialist_realism、2020年11月25日アクセス


【作品解説】エドヴァルド・ムンク「フリードリヒ・ニーチェの肖像」

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フリードリヒ・ニーチェの肖像 / Porträt Friedrich Nietzsche

偉大なる哲学者の精神と思考を完全に視覚化


エドヴァルド・ムンク《フリードリヒ・ニーチェの肖像》,1906年
エドヴァルド・ムンク《フリードリヒ・ニーチェの肖像》,1906年

概要


作者 エドヴァルド・ムンク
制作年 1906年 
サイズ 201 × 160 cm
所蔵者 ティールスカ・ギャレリー

《フリードリヒ・ニーチェの肖像》は、1906年にエドヴァルド・ムンクによって制作された油彩作品。201 × 160 cm。ストックホルムのティールスカ・ギャレリーが所蔵している。

 

本作品は、ニーチェの死から6年後、本作品は1905年に、スウェーデンの著名な銀行家、実業家、芸術のパトロンであったアーネスト・ティールに依頼され、またエリザベート・フェルスター・ニーチェにインスピレーションを得て制作されたものである。

 

アーネスト・ティールはフリードリヒ・ニーチェの熱烈なファンであり、また、エドヴァルド・ムンクをニーチェの精神と思想を最も視覚化した芸術的解釈者と考えていた。また、ムンクもまた熱心なニーチェの崇拝者であり、彼は積極的にニーチェの精神を描こうとしていた

 

表現主義の芸術様式で19世紀の偉大な哲学者フリード・ニーチェの肖像が描かれている。背景は、おそらく《叫び》と同じエーケベルグの丘からオスロの街、オスロ・フィヨルド、カヴォヤを見渡すことが可能な道からの景観である。

 

ムンクは、ニーチェの特徴的なセイウチの口ひげとふさふさした眉毛に至るまで、男性の肉体的本質をみごとにとらえている。山と鮮やかな空に面したバルコニーまたは橋の上に立ち、右腕で手すりにもたれかけ手を交差させ、ムンクは風景を見下ろしている。ウエストコート、ネクタイ、ロングコートを着用しており、すべて濃紺の色合いである。

 

ムンクの有名なモチーフ「叫び」を彷彿とさせるが、黄色と白の色調が支配的であり、赤色はちらつくだけになっている。

 

なお、ムンクとニーチェは会ったことはない。ムンクは最初にコペンハーゲンでニーチェを学び、次にニーチェ、ストリンドバーグ、シェリング、ヘッケルなどのドイツの哲学を広めたスウェーデンの詩人で批評家のオラハンソンを通じてよりニーチェを学んだ。

 

また、同年、ムンクは2枚目の細長いニーチェの肖像画をいており、こちらはオスロのムンク美術館が所蔵している。


■参考文献

https://de.wikipedia.org/wiki/Portr%C3%A4t_Friedrich_Nietzsche、2020年11月27日アクセス


【美術解説】エドヴァルド・ムンク「ノルウェーを代表する表現主義」

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エドヴァルド・ムンク / Edvard Munch

表現主義に影響を与えた象徴主義の巨匠


エドヴァルド・ムンク《叫び》(1893年)
エドヴァルド・ムンク《叫び》(1893年)

概要


生年月日 1863年12月12日
死没月日 1944年1月23日
国籍 ノルウェー
表現形式 絵画、版画
ムーブメント 象徴主義、表現主義
代表作品

叫び

マドンナ

病気の子ども

関連人物

フィンセント・ファン・ゴッホ

関連サイト

WikiArt(作品)

The Art Story(略歴)

エドヴァルド・ムンク(1863年12月12日-1944年1月23日)はノルウェーの画家、版画家。代表作は1893年に制作した《叫び》。ムンクはノルウェー国内だけでなく、フランスやドイツなど国際的に活動した。

 

ムンクは、自身の慢性的な精神疾患、遺伝的欠陥、性的自由、宗教的理想など、人間性や死に対してして多大な関心を持っていた芸術家で、こうした主題を強烈な色彩や半抽象的なフォルムで、女性のヌードやセルフポートレイトを描いた。

 

また、内面を表現するのにもっとも説得力のあるポーズを探求した結果、頭を両手で抱えたり、どこか演劇のステージ上に立つ役者たちのようなオーバーアクションで描かれる点がほかの作家と大きく異なる。《叫び》における頬を両手に当てたポーズは、のちに映画『ホーム・アローン』などでも使われており、その後のポップ・カルチャーへの影響も大きい。

 

ポール・ゴーギャン後期印象派からの影響が強く、美術史のなかでは後期印象派時代の象徴主義表現主義の作家として位置づけられている。

 

ムンクの内面不安の表現は、のちにシュルレアリスムフォーヴィスムドイツ表現主義など、その後の新しい世代の表現主義作家に大きな影響を与えた。ノルウェー国内においては最初の象徴主義の作家とされている。

チェックポイント

  • ノルウェー象徴主義または表現主義の作家
  • 内面における不安を表現している
  • 人物は演劇的なポーズで描かれることが多い

作品解説


概要


幼少期


エドヴァルド・ムンクは、1863年12月12日、スウェーデン=ノルウェー連合王国時代のロッテンにあるアダルバスクの村の農家で、牧師の息子であった父クリスチャン・ムンクと母ローラ・キャサリン・ビョルスタのあいだに生まれた。

 

父クリスチャンは医者で、1861年に彼の半分ほどの年齢だったローラと結婚した。エドヴァルドには姉ヨハンナ・ソフィーと3人の弟と妹がいた。エドヴァルドと姉のヨハンナは母親から芸術的才能を受け継いでいるように見えた。先祖には画家のヤコブ・ムンクや美術史家のピーター・アンドレアス・ムンクがいた。

 

ムンク一家は1864年に、父クリスチャンがアーケシュフース城で医療官として勤めることになったため、クリチャニア(現在のオスロ)へ移ることになった。

 

母ローラは1868年に結核で亡くなり、1877年には姉のヨハンナも結核で亡くなった。特に姉のヨハンナの死は幼少のエドヴァルドにとってトラウマとなり、病床の光景が繰り返して作品に現れるようになる。病死前の姉の姿を基盤にして制作した作品で代表的なのが《病気の子ども》である。母が死んで数ヶ月後、ムンクの兄弟は父親や叔母(母の妹)のカレン・ビョルスタに育てられることになった。

 

ムンクは病弱で、冬期の大半は慢性気管支炎を患うなど、学校を休みがちだったため、ムンクは叔母や家庭教師から教育を受けることになる。ムンクの父はムンクに歴史や文学を教え、またエドガー・アラン・ポーの怪奇小説を読ませていたという。

 

父クリスチャンの信心深い性格は、ムンクや子どもたちに病的な悲観主義の影を投げかける要因となった。子どもたちを叱るときは異常なほど厳しかった。ムンクは、父の狂信的な考えに反発して口論した日の夜、父の寝室を覗き、父がベッドの前にひざまずいて祈っているのを目撃し、衝撃を受けたことを後に回想している。 

 

ムンクは父について「父は神経質で異常なほど宗教的だった。私は父から狂気の遺伝子を受けついだのだろう。恐怖、悲しみ、死の天使は私が生まれたときから身近なものだった。」と話している。父は、死んだ母親が天国から私たちを監視し、不正行為があると嘆いていると伝え厳しく叱ったという。

 

この非常に抑圧的な宗教的環境に加えて、病弱だったムンクの心身問題、母親と姉の死、そして幼少期から植え付けられたポーの怪奇小説などは、のちのムンクの悪夢や不気味なビジョンを形成する基盤となった。ムンクは「死が常に身近なもの」であると感じていたのはこのためである。

 

また、ムンクの妹のローラは若いころから精神疾患と診断された。5人兄弟で結婚したのは弟のアンドレアのみだったが、結婚後すぐに亡くなった。

 

父クリスチャンが軍医のころの給料はとても安く、家族は非常に貧しかったという。ムンクの初期のドローイングは水彩作品では、貧しかった幼少時の部屋の室内が描かれている。10代の頃のムンクは芸術への関心で心が占有されていた。

 

13歳のときにムンクは新しく設立された芸術家連盟でほかの芸術家たちと引き合わされることになり、そこでムンクは評価されるようになった。その後、ムンクは油彩を始めるようになった。

初期キャリア


1879年にムンクは機械技術師を学ぶため工科大学に入学し、そこで物理学、数学、化学を学ぶ。建築設計のために透視図を使ったドローイングも学んでいた。

 

しかし、病気がちだったので学業を中断する。結局のところ父の期待をよそにムンクは学校をやめて画家になる決心をする。結果的に病弱なムンクは技術者としては仕事を続けられなかった。ムンクの父は芸術を「罪深い商売」としてみなしていたが、父親の宗教に対する熱狂的な信仰とは対照的に、ムンクは芸術を通じて人生や意味を問おうとしていた。

 

1881年にムンクは、クリスタニア美術デザイン王立大学(現・オスロ国立芸術大学)に入学する。この大学の創始者の一人はムンクの遠い親戚であるヤコブ・ムンクで、ムンクの先生となったのは彫刻職人のユーリウス・ミッデルトゥーンや自然主義画家のクリスチャン・クローグだった。

 

ムンクは大学で人物造形画をすぐにマスターし、1883年に初めて公に作品を展示するようになり、またほかの生徒とアトリエを共有して、絵画を制作しはじめる。

 

このころの代表作としては、1895年に100×190 cmの縦長キャンバスで描かれた《画家カール・ジェンセン・ヘルの肖像》がある。ムンクは自然主義、印象主義などさまざまな画風を試みた。マネの影響が色濃く作品に見られるものも多い。

エドヴァルド・ムンク《画家カール・ジェンセン・ヘルの肖像》(1895年)
エドヴァルド・ムンク《画家カール・ジェンセン・ヘルの肖像》(1895年)

ボヘミアン・グループとの交流と人妻不倫


この時代のムンクのヌード画はスケッチのみが残っている。絵画に関してはおそらく父親が没収したと考えられる。

 

しかし、父親はムンクの作品に対して否定的だった。ムンクのいとこの画家で伝統的な絵画スタイルだったエドヴァルド・ディリクスの批判的な意見に振り回されていたこともあったが、父親は少なくとも1枚はムンク絵画を破壊しており、画材費などムンクの芸術生活を支援することに消極的になった。

 

ムンクはアナーキスト作家ハンス・イエーガーと知り合う。彼は自由への究極の方法として自殺をすすめていた。イエ―ガ―は、自由な愛を説き、一夫一婦制や女性の支配、家族というものに反対し、社会主義や無政府主義への傾斜をはらんでいた。この頃からムンクはボヘミアン・カルチャーやハンス・イエーガーの思想の影響を受けるようになる。

 

ムンクはハンス・イエーガーの前衛集団「クリスチャニア・ボヘミアン」に参加する。グループの中心人物は、画家クリスチャン・クローグや、作家ハンス・イエーガーだった。このアナーキスト作家との関係も父親の怒りを買った。ムンクに魂で絵を描き芸術的慣習に反抗するよう促したのはイエーガーだったからだ。

 

ムンクは「自分の思想の発展は、ハンス・イエーガーとボヘミアン・カルチャーが根っこにある。多くの人は私の思想は、小説家のヨハン・アウグスト・ストリンドベリやドイツの影響にあると指摘するが、それは間違っている」と話している。

 

当時、ほかの多くのボヘミアンと対照的に、ムンクはボヘミアンではあるがボヘミアン仲間とは孤立し、サークルでは酒を飲んで喧嘩をしていた。ボヘミアンの連中について「絵についてのきりのない長話で人を苛つかせること以外に丸一日何もしやしない」、「反吐の出そうな馬鹿者」だと罵っている。 

 

またこのころ、ムンクは1885年から数年間、人妻ミリー・タウロヴとの禁じられた恋愛に陥り、苦しい思いをしていた。ムンクは1884年に遠縁のいとこの画家フリッツ・タウロヴの野外美術学校に参加する。フリッツ・タウロヴの弟カール・タウロヴの妻がミリー・タウロヴだった。

エドヴァルド・ムンク《ハンス・イェーゲルの肖像》(1889年)
エドヴァルド・ムンク《ハンス・イェーゲルの肖像》(1889年)
ミリー・タウロヴ
ミリー・タウロヴ

伝統的な表層絵画から内面的表現へ


さまざまな制作実験をした後、ムンクは印象派では十分に自分が描きたいものがかけないと理解する。印象派は非常に表層的で科学的実験のようなものだとムンクは感じた。ムンクは内面的なものや表現によるエネルギーのようなものを深く探求していきたかった。

 

1886年に制作したムンクの姉の死を基盤にした絵画《病気の子ども》は、ムンクの最初の「魂の絵画」であり、印象主義からのブレークスルー的な作品となった。しかし、この作品は批評家から「未完成作品だ」など酷評を受け、ムンクの家族からも非難され、家族やコミュニティから疎遠になる原因ともなった。

 

1889年5月9日から、カール・ヨハン通りの学生協会の小ホールでムンクは彼の全作品(110点)を展示する個展を開催。「病気の子ども」の批判に反発して自然主義を基調に描いた「春」が好評になった。伝統的な技術と流れる品性に裏打ちされた、この時期の傑作のひとつとされる。なお、当時のノルウェーでは、芸術家の個展というものが開催されること自体が初めての試みだった。

 

個展が好評だったことや、遠縁の画家、クリスチャニア・ボヘームの仲間でもあったフリッツ・タウロヴの好意的援助も得てフランスの画家レオン・ボナットのもとで学ぶため、国から2年の奨学金が授与されることになる。

エドヴァルド・ムンク《病気の子ども》(1885-1886年)
エドヴァルド・ムンク《病気の子ども》(1885-1886年)
エドヴァルド・ムンク《春》(1889年)
エドヴァルド・ムンク《春》(1889年)

パリへ


1889年にパリ万国博覧会に参加するため、ムンクはパリへ移り、2人の知り合いのノルウェー人芸術家と部屋を共有する。ノルウェー・パビリオンに1884年のムンクの絵画《朝》が出品されることになった。

 

パリ滞在中、ムンクはボナのアトリエで午前中を過ごし、午後から展示会場やギャラリー、美術館などをまわって過ごした。ムンクはボナのドローイングの授業には少し不満があり、「非常に退屈で麻痺してしまう。しかし美術館をまわっているときの巨匠の解説は面白かった」と話している。

 

ムンクは、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・デ・トゥールーズ・ロートレックなどのヨーロッパの近代美術に影響力のある3人の巨匠の作品の展示に魅了される。

 

特に彼ら巨匠が自らの感情を伝えるためにどのように色彩を用いていたか気になり、なかでもゴーギャンの「現実主義に対する反発」という思想に影響される。ムンクはゴーギャンやゴッホの後期印象派の影響を受け、外部の現実ではなくむしろ内面を状態を描いていて象徴主義的な方向へ向かっていった。 

 

ゴーギャンの影響もあって、ムンクは自身の作品の版画制作を始めるようになる。1896年にムンクは最初の木版画を制作。ニコライ・アストルプとともにムンクはノルウェーの木版画のイノベーターとみなされている。

 

1889年12月、ムンクの父は亡くなり、ムンクの家族は経済的に苦しくなりはじめる。そのため、ムンクは実家に戻って家計を支えることになる。親戚はムンク一家の家計を助けてくれなかったので、裕福なノルウェーのコレクターから大規模な借入金を手配する。

 

また、父クリスチャンの死は彼に大きな影響を与え、精神的不調が生じてムンクは自殺を考えるようになる。「私は生まれてからずっと死と隣合わせに生きてきた。母の死、姉の死、祖父の死、父の死。自殺して終わる。なぜ生きているのか」と日記に書いている。

 

また『サン・クルー宣言』と呼ばれているメモに「もうこれからは、室内画や、本を読んでいる人物、また編み物をしている女などを描いてはならない。息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描くのだ」と書いている。

ベルリン時代


1892年、《メランコリー》で見られるような色はシンボルを含む要素を持つという彼独自の総合主義の美学を考え出した。美術家で記者のクリスチャン・クローグによれば1891年の秋にオスロでの展示された《メランコリー》はノルウェー芸術家による最初の象徴主義の絵画だという。

 

1892年にベルリン芸術家連盟のアデルスティーン・ノーマンはムンクを11月の展示に招待し、それは公的な意味での最初のムンクの個展となった。ムンクは、この個展では《朝》《接吻》《不安》《メランコリー》《春》《病気のこども》《その翌朝》《カール・ヨハンの春の日》《雨のカール・ヨハン街》といった重要な作品を含む55点を展示した。《生命のフリーズ》の最初の展示といえるものであった。

 

しかしながら、ムンクの絵は激しい論争を引き起こし(「ムンク事件」と名付けられる)、1週間後に展示は終了となった。ムンクは事件で大騒ぎになったことに満足し、のちに「あのときのような時間を過ごしたことはない。絵画ほど無害なものが、こんな騒ぎを起こすことになるなんて信じられなかった」と話している。

 

ベルリンでムンクは、スウェーデンの劇作家や知識人のアウグスト・ストリンバーグなどが参加する国際的な作家、芸術家、評論家のサークルに参加。ベルリンでの4年間、ムンクはのちに彼の主要作品《生命のフリーズ》の基盤となる膨大なアイデアをスケッチしている。これは、フリーズの装飾のように、自分の作品をいくつかのテーマによって結び合わせていこうというものである。

 

《生命のフリーズ》は当初、書籍のイラストレーションにスケッチされたが、後に絵画で表現することになったという。ムンクの絵はほとんど売れなかったので、議論を引き起こした絵画を鑑賞するための入場料をとって収入を得ていた。

 

このころからムンクは、奥行きはあまり出さず、前景の人物像を強調するため背景は最小限に描きはじめた。1894年作の《灰》や1895年の《病室での死》のように心理状態を表現するために最も説得力のあるポーズを探求しはじめた。その人物の描写はどこか演劇のステージ上に立つ役者たちのように見え、固定した姿勢での黙劇はさまざまな感情を表現している。

《灰》(1894年)
《灰》(1894年)
《病室での死》(1895年)
《病室での死》(1895年)

度重なる身内の不幸とそこから生み出された傑作


1893年12月、ベルリンのウンター・デン・リンデンはムンク作品の展示場のとなり、《愛:シリーズのための習作》というタイトルの6つの絵画が展示された。これはのちの《生命のフリーズー生命の詩、愛と死》と呼ばれるシリーズ、いわゆる「生命のフリーズ」の始まりといえる。この頃のムンクは、人生の中で特に精神不安定な時代だった。

 

この時期は、結核で亡くなった姉、父の死、さらに今度は1894年に妹(次女)ラウラ・カトリーネが精神分裂病に陥るようになり、ムンクは家族全体の肖像を劇的に描くことに焦点を当て、孤独と断絶された悲しみを表現している。

 

精神病になった痛ましい姿の妹は、1899年制作の《メランコリー》と題された作品で描かれている。戸外から遮断された真っ赤な部屋の片隅に、青黒い服を着た女が、こわばったように坐っている。妹はそのような状態で、59歳まで生きたという。

 

エドヴァンド・ムンク「メランコリー(ラウラ)」(1899年)
エドヴァンド・ムンク「メランコリー(ラウラ)」(1899年)

翌年1895年にはペーテル・アンドレアースが、結婚後わずか6ヵ月後に死亡した。ムンクは弟の結婚に反対だった。弟の婚約者の女性は精力がみなぎり、一方、弟の肉体は自分と同じく虚弱だった。ムンク一族においてセックスは男の生命を吸いとり、死に至らしめると考えていたのである。その予言は見事的中した。

 

次々と襲う家族の不幸。ムンクにとっては人生で最大に精神が不安定な時期だった。しかし、またこの時代に、ムンクの代表作となる《不安》《マドンナ》《女性の三段階》《吸血血鬼》《月光》《星月夜》などの傑作の大半が制作されている。《叫びもこの時期に描かれた。

 

20世紀の始まり前後にムンクの《生命のフリーズ》は完成した。数多くの作品を制作し、そのうちのいくつかはアール・ヌーヴォー様式に影響を受けたものが見られた。《生命のフリーズ》全体は、1902年にベルリンで開催された分離派展示会で初めて公開された。

 

《生命のフリーズ》は、特に1890年代半ばにムンクが自分の内面から滲み出してくるさまざまなモチーフやテーマを基盤にして長期間かけて制作したものだった。そのテーマとは「生命の段階」「女性の死」「愛と絶望」「不安」「不倫」「嫉妬」「性的な恥」「生と死の分離」などであった。

 

ムンクは、恐怖、脅威、不安、性的な不安を強調するために人物の周囲に色の影や輪を描くことがある。これらの絵画はムンク自身の性的不安の反映と解釈されてきたが、人間存在に対する悲観主義や、ムンクの愛に関する波乱万丈な関係を表現すると主張することもできるだろう。

 

なお、《生命のフリーズ》シリーズの作品の多くには複数のバージョンが存在するが、その場合、大半は絵画ではなく木版画やリトグラフなど版画形式で制作されている。これは、ムンクにとって作品とは自身の身体と切り離せないものであり、オリジナルの作品を手放すことを嫌っていたためである。

愛されることへの渇望と恐怖心


1896年、ムンクはパリへ移り、《生命のフリーズ》で描いた絵画の版画作品の制作に重点を置く。パリの批評家の多くは、ムンクの作品について「暴力的で残酷なもの」とみなしていたが、ムンクの展覧会はパリで注目を集めていた。

 

1897年になるとムンクの収入は大幅に改善され、生計が楽になる。ムンクはノルウェーのオースゴールストランの小さな町のフィヨルドに面した場所にある東屋、18世紀後半に建てられた小さな漁師小屋を購入する。その小屋を「ハッピーハウス」と名付け、そこで毎年夏を過ごすようになった。

 

外国にいて落ち込んで疲れたとき、ムンクは逃避場所のように「ハッピーハウス」に帰った。ムンクは「オースゴールストランを歩くことは私の絵画の世界を歩くようなものです。私はここでインスピレーションを得ています」と話している。

 

1899年にムンクはトゥラ・ラーセンという女性と出会い、交際を始めた。彼女はリベラルの上流階級の女性だった。彼女はムンクの《生命のフリーズ》の終盤でよく描かれる女性である。1899年の《生命のダンス》では赤いドレスを着ている。

 

ラーセンはムンクとの結婚を切望していたが、ムンクはいろいろ言い訳をして断っていた。その理由としては、ムンクの幼少期からの家族の不幸、自身の虚弱体質、遺伝的な精神的欠陥などに恐怖心を抱いており、家庭を持つことに自信がなかったためであるといわれている。「ムンクは幼いころから結婚を嫌がっていた。彼の病気と神経症的な家系は結婚する権利はないと考えられていた」とムンクの批評家は話している。

 

ユング派の心理学者G・W・ディグビーの次のように書いている。「なぜムンクは愛せないのだろうか。なぜ女性に対する理想や女性の愛に身を委ねることができないのであろうか。それは母親が彼を拒絶し、見棄て、愛への憧れをくじき、腐敗する屍になってしまったことという意識にあるのではなかろうか。」

 

1902年6月、2人は久しぶりにオースゴールストランで会うことになったが、トゥラは「自殺する」と言ってピストルを持ち出す。ムンクともみ合ううちに、ピストルが暴発し、ムンクは左手中指の第2関節を撃ち砕くけがを負うという事件が起こった。この事件で2人の関係は決定的に破局する。

 

その後、彼女はムンクから去り、ムンクの同僚だった若い男と結婚する。ムンクはこれを裏切りとして受取り、しばらくのあいだ彼女に執着する。ムンクは1909年になっても、友人ヤッペ・ニルセンに手の痛みを訴えつつ、「彼女の卑劣な行為が僕の人生を滅茶苦茶にしたんだ。」と罵っている。彼女を描いた作品として1907年の《マラーの死》などがある。

ムンクとトゥラ・ラーセン
ムンクとトゥラ・ラーセン

1900年代


このころ、ムンクは、リューベックの眼科医で美術愛好家のマックス・リンデと交友するようになり、1902年末ごろから、リンデの子供部屋に飾るための絵の依頼を受けて制作を始める。

 

1903年にエッチング集『リンデ博士の家庭から』を完成させ、同じ年に次いで油絵《リンデ博士の4人の息子》を制作した。これらの一連の作品は「リンデ・フリーズ」と呼ばれ、1904年末に全作品が完成した。

 

1903年から1904年にかけて、ムンクはパリで展示を行う。その後、1905年にはパリでフォーヴィスムが流行しつつあるが、彼らはこのときのムンクの展示からインスピレーションを受けた可能性があるかもしれない。1906年にフォービストたちはムンクを招待し、ムンク作品をフォーヴィスム作品と並べて展示している。

 

このころにルドンから彫刻を教わっているが、ムンクは彫刻は結局ほとんど制作することはなかった。この時代、ムンクは肖像画制作で収入をかなり稼ぎ、不安定な経済状態は改善していった。

 

1903年には、イギリスの女流ヴァイオリニスト、エヴァ・ムドッチと知り合い、彼女を愛するようになった。彼女をモデルに《ブローチをつけた婦人》といった優れたリトグラフ作品を残している。

エドヴァルド・ムンク《リンデ博士の4人の息子》(1903年)
エドヴァルド・ムンク《リンデ博士の4人の息子》(1903年)
エドヴァルド・ムンク《ブローチをつけた婦人》(1903年)
エドヴァルド・ムンク《ブローチをつけた婦人》(1903年)

精神病院に入院


1908年の秋、過度の飲酒や喧嘩などが重なりムンクの憂鬱は急に深まっていく。のちにムンクは「私の精神状態は狂気の縁にあり、危なかった」と話している。幻覚と疎外感が襲う中、ムンクはダニエル・ジャコブソン医師の精神病院へ入院する。8ヶ月間の電気ショック治療を受けてムンクの精神状態は改善した。

 

1909年に退院してノルウェーに戻って創作活動を再開すると、作品の色合いは以前と異なりカラフルになり、悲観性はなくなっていた。

 

また、オスロの一般市民がムンク作品を受け入れるようになる。オスロ美術館が彼の作品を購入するようになったことは、ムンクの精神を安定させる要因となった。ムンクは芸術分野においてノルウェー政府から聖オーラヴ勲章を受賞。1912年にはアメリカが初個展を開催。

 

精神の回復にともない、ジャコブソン医師は飲酒を止め、理解ある友人とのみコミュニケーションをとるようアドバイスする。ムンクはアドバイスに従い、友人やパトロンたちの質の高い複数のポートレイト作品を制作するようになった

 

また、このころはムンクは職場や遊技場での人々の風景を楽しげに描くようになった。白い余白が多くなり、黒は少なくなり、鮮やかで緩やかな筆使いに変化した。

 

収入が増えるにつれてムンクはさまざまな不動産を購入し、そこで休養して芸術に新たな視点を得られるようになり、また家族に土地を提供することもできるようになった。

 

第一次世界大戦の勃発によるドイツとフランスの対立はムンクの信義を引き裂く結果となった。ムンクは「私の友人はすべてドイツ人だが、私が愛しているのはフランスだ」と話している。1930年代には、ムンクのパトロンだった多くのユダヤ人たちは、ナチズムが台頭するなかで、彼らの運命や人生を失っていった。

エドヴァルド・ムンク《太陽》(1910-1911年)
エドヴァルド・ムンク《太陽》(1910-1911年)

晩年


ムンクは最後の20年をオスロ郊外のエーケリーで土地を購入し、一人で過ごした。晩年の絵画の多くは、彼のアトリエで飼っていた馬「ルソー」をモデルに農場の生活を中心とした主題で、牧歌的なものとなっている。

 

また、特にムンクは何の努力もせず、女性モデルたちを着実に魅了して、彼女たちの膨大な数のヌード画を主題にした絵画を制作した。モデルの中には、おそらく性的な関係も持っていた女性もいただろう。

 

晩年になるとムンクは控えめなセルフポートレイトを描き続けたが、彼の人生における感情的または身体的状態を主題とした作品も繰り返し描いている。

 

ドイツでナチスが台頭すると、ムンクの作品は1937年、退廃芸術としてドイツ国内の美術館から一斉に外された。1940年4月9日、ドイツがノルウェーに侵攻すると、親ドイツのクヴィスリング政権になった、フランス愛だったムンクは親ドイツ政権の懐柔に応じずアトリエでナチスによる作品の没収を恐れながら、引きこもるように過ごした。

 

自宅の近くでレジスタンスによる破壊工作があり、自宅の窓ガラスが爆発で吹き飛ばされた。凍える夜気に彼は気管支炎を起こし、翌1944年1月23日に亡くなった。80歳の誕生日を祝ったその一ヶ月後だった。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Edvard_Munch 2018年12月12日アクセス


【作品解説】ジョージ・フロイド追悼壁画「BLM運動の起爆剤となったフロイド追悼壁画」

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ジョージ・フロイド追悼壁画/ George Floyd Mural

BLM運動の起爆剤となったフロイド追悼壁画


グレタ・マクレイン、ゼナ・ゴールドマン、カデックス・ヘレラによるジョージ・フロイドの壁画。Artsyより。
グレタ・マクレイン、ゼナ・ゴールドマン、カデックス・ヘレラによるジョージ・フロイドの壁画。Artsyより。

作者 グレタ・マクレーン、ゼナ・ゴールドマン、カデックス・ヘレラら複数の芸術家
制作年 2020年5月28日
ムーブメント プロテスト・アートストリート・アート、BLM運動
場所 ミネソタ州ミネアポリス東38丁目&シカゴ・アベニュー

《ジョージ・フロイド追悼壁画》は、2020年5月28日、グレタ・マクレーンやゼナ・ゴールドマン、カデックス・ヘレラらによって制作されたストリート・アート。東38丁目&シカゴ・アベニューの角にあるコンビニエンスストア「カップフーズ」の壁に描かれている。

 

この場所は、ジョージ・フロイドがミネアポリスの警察官の膝で押さえつけられ死亡した殺害現場の近くである。

ジョージ・フロイドの肖像と彼の名前が描かれており、名前の中には抗議者が描かれている。また、背景には警察の横暴で亡くなった他のアフリカ系アメリカ人の名前が入った大きなひまわりが描かれている。イメージ下部にはジョージ・フロイドの言葉「I can't breathe」を癒やす目的で「I CAN BREATHE NOW」と書き換えられている。

 

この壁画は抗議者たちが被った悲しみの表れとなり、さらなる市民行動のための起爆剤となった。壁画の周囲には多くのアーティストたちが、人種差別との闘争における黒人コミュニティの物語を記録するためさまざまな飾りが設置され、壁画前にはBLM運動の象徴である黒い拳のパブリックアートも設置された。

 

なお、この壁画は黒人によってではなく、黒人を巻き込むプロセスなく白人とラテン系アーティストによって描かれたものであるため「これは、社会正義擁護の枠組みの中で、黒人がいまだに取り残されていることを浮き彫りにしている」と批判的な声も上がっている。

 

現在、壁画のあることろには何千人もの訪問者が訪れ、「ジョージ・フロイド・スクエア」と名付けようとするキャンペーンなどの取り組みが行われ、黒人コミュニティの活動を絶やさないようにしている。



【作品解説】バンクシー「Aachoo!!」

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Aachoo!!

入れ歯が飛び出るほどの勢いのくしゃみをしている女性


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概要


『Aachoo!!』は2020年12月11日にインスタグラムにアップされたバンクシーの作品。彼の故郷ブリストル郊外のトッターダウンにあるベイル・ストリートにある半戸建て住宅の壁に描かれたもので、現地時間の12月10日の木曜日の朝に現れた。

 

ヘッドスカーフを被った年配の女性が、入れ歯が飛び出るほどの勢いのくしゃみをしている姿を描いている。先週退去したばかりのフレッド・ルースモアさんの家の寝室の壁に描かれているという。

 

近所住民のデイル・コムリー(27歳)は、木曜日の早朝に、バンクシーだと思われる「反対側の手すりにもたれかかって壁を見ている安全ベストを着込んだ厚着の男」を見たと話している。

 

コムリーによれば、彼は朝7時頃にコーヒーを入れていて、窓の外を見ていると、「朝早くから足場組み屋がいるな」と思ったという。それから約1時間後にまた見たら、通りにたくさんの人が集まっていたという。

 

ベイル・ストリートは、国内でも有数の急勾配の坂道の通りで、傾斜角度は22度ある。ここでは、毎年イースター・サンデーのエッグローリング・コンテストで多くの人を魅了している。ベイル・ストリートの下方に描かれたこの作品は、地元でも注目を集めている。

 

坂を水平にして見ると、おばさんがくしゃみで家を倒しているよう見えるよう描かれている。

作品は現在、破壊行為を防ぐために透明なアクリルシートで覆われている。おそらく、この作品はCOVID-19に関するものと思われ、以前描いたくしゃみをするネズミの作品と主題的に関連しており、マスクを着用しないことについてのユーモアのある警告と解釈できる。



【美術解説】フィンセント・ファン・ゴッホ「後期印象派の代表で近代美術の父」

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フィンセント・ファン・ゴッホ / Vincent van Gogh

狂気と孤独が生み出した近代美術の父


フィンセント・ヴァン・ゴッホ「星月夜」(1889年)
フィンセント・ヴァン・ゴッホ「星月夜」(1889年)

概要


生年月日 1853年3月30日
死没月日 1890年7月29日
国籍 オランダ
表現形式 絵画、ドローイング
代表作品

星月夜

ひまわり

医師ガシェの肖像

ムーブメント

後期印象派表現主義

関連人物

ポール・ゴーギャンアンリ・マティス

関連サイト

WikiArt(作品)

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年3月30日-1890年7月29日)はオランダの画家。後期印象派運動の中心人物西洋美術史において最も有名で影響力のある芸術家の1人。近代美術の創設者とみなされており、20世紀初頭に出現した前衛芸術家たちに大きな影響を与えた。

 

わずか10年の創作期間のうちに約2100点以上の作品を制作。そのなかの約860点は油彩作品であり、また、作品の大半は、37歳で自殺するまでの約2年間に制作された。

 

風景画、静物画、ポートレイト、セルフポートレイトを大胆な色使いと、表現主義的な激しいブラシストロークで描くのがゴッホ作品特徴である。

 

上層中産階級の家庭で生まれたゴッホの子ども時代は、真面目で、大人しく、ナイーブだったという。若いころのゴッホは画商で、ロンドン転勤時に現地で失恋を経験し、その後、急速にうつ病を患い、画商の仕事をたたむ。

 

宗教に関心を移し、南ベルギーのプロテスタント宣教師として活動を始めるも、その後も精神状態はよくならず次第に病気と孤独に苛まれていく。1881年ごろから絵を描き始め、両親や弟のテオとともに暮らすようになる。このころから弟のテオが経済的にゴッホの生活を支援することになり、二人は手紙で頻繁にコミュニケーションを行うようになった。

 

ゴッホの初期作品の大半は静物画か貧しい農民の生活を描いたリアリズムだったが、このころは後期作品で見られるような鮮やかな色使いはほとんど見られない。

 

1886年にパリに移り、そこで前期印象派に反発する前衛芸術家のエミール・ベルナールやポール・ゴーギャンジョルジュ・スーラポール・シニャックらの新印象派と出会い大きな影響を受ける。彼らと出会ったことでゴッホの作品に新しい手法が絵画に取り入れられ、晩年の傑作で見られる鮮やかで大胆で明るい色使いと筆致に変化した。

 

1888年にフランス南部のアルルに滞在しているころに、ゴッホの代表的な絵画で見られる作風に変化。またこの時期にゴッホは主題をオリーブの木、糸杉、小麦畑、ひまわりなどへ関心を広げる。しかし、ゴッホの精神状態は悪化、精神病や妄想で苦しみ始める。

 

ゴッホは健康を無視し、過剰なアルコールの摂取や不摂生な食生活をしていたという。また、梅毒を患っており症状の末期である痴呆性脳麻痺に移行していた時期でもあるといわれる。

 

アルルの「黄色い家」で共同生活をしていた友人のゴーギャンと喧嘩で、ゴッホはカミソリでゴーギャンを切りつけようとするが、自分の左耳の一部を切り落とすさらにその肉片を封筒に包み、行きつけの売春宿に持っていき、娼婦レイチェルに渡した。その後、ゴッホはサン・レミにある精神病院で過ごすことになる。

 

パリ近郊のオーヴェシュール・オーワーにあるオーベルジュ・ラヴォーに移った後、画家でホメオパシー医者のポール・ガシェのもとで治療を受ける。しかし、ゴッホのうつ病は深刻化していき、1890年7月27日拳銃で自分の胸を撃ち、2日後に死去。

 

ゴッホが生存中は、ほぼ無名のままで芸術家として成功することはなかった。自殺後にゴッホは「狂気と想像力が芸術を養う」といった典型的に誤解されたキャッチで公に宣伝され知られるようになる。ゴッホが美術史の文脈で評価されるようになるのは20世紀初頭で、彼の画風はアンリ・マティスを中心としたフォーヴィズムやドイツの表現主義に直接大きな影響を与えた。

 

1987年3月30日、ロンドンで行なわれたオークションにて、ゴッホの《ひまわり》」を安田火災海上(現・損害保険ジャパン日本興亜)が58億円で落札した。

重要ポイント

 

  • 後期印象派の代表的な作家
  • 精神的不安定から生み出される激しい表現主義的な筆致
  • 精神錯乱を起こして自分の耳を切断した
  • フォーヴィズムやドイツ表現主義に多大な影響を与えた
  • 弟テオは生涯、ゴッホを精神的にも経済的にも支援したキーマン

作品解説


星月夜

星月夜》は、1889年6月にフィンセント・ファン・ゴッホによって制作された後期印象派の油彩作品。月と星でいっぱいの夜空と画面の4分3を覆っている大きな渦巻きが表現主義風に描かれている。ゴッホの最も優れた作品の1つとして評価されており、また世界で最もよく知られている西洋美術絵画の1つである。

 

《星月夜》は、サン=レミのサン=ポール療養院にゴッホが入院しているときに、部屋の東向きの窓から見える日の出前の村の風景を描いたものである。「今朝、太陽が昇る前に私は長い間、窓から非常に大きなモーニングスター以外は何もない村里を見た」と、ゴッホは弟のテオに手紙をつづり、《星月夜》の制作背景を説明している。(続きを読む

ひまわり

《ひまわり》はフィンセント・ファン・ゴッホの静物絵画シリーズ。ひまわりシリーズは2つある。ゴッホにとってひまわりとはユートピアの象徴であったとされている。しかし、ほかの静物画作品に比べるとゴッホの主観や感情を作品に投影させることに関心がなかったと見られている。ひまわりシリーズの制作は、ゴッホの友人だったゴーギャンと関わりの深い作品で、特に後期は自身の絵画技術や制作方法を披露することを目的に制作されていたという。(続きを読む

ゴッホの手紙


弟でアート・ディーラーのテオ
弟でアート・ディーラーのテオ

ゴッホの生涯に関する最も信頼のある情報源は彼と弟テオとの間でのやり取りである。兄弟の生涯にわたる友情やゴッホの思想や芸術理論の大部分は、1872年から1890年にかけて交わされていた数百枚の手紙に記録されている。

 

弟のテオは画商で、彼は経済面や精神面でゴッホを支援し続け、またテオは現代美術の影響力のある人達にゴッホを紹介していた

 

ゴッホが死去して約1年後にテオも追うように死去するが、テオの妻のヨハンナは二人の間で交わされた手紙を整理し、1906年と1913年に手紙の一部が公表したのち、1914年にオランダ語で出版した書簡集で大半を公表した。ゴッホの手紙は達筆で表現豊かで「日記のような親しみ」があり、自伝のように読むことができる。

 

翻訳者のアーノルド・ポメランスは二人の手紙について「二人の手紙には、ゴッホの芸術的偉業を理解をするための新鮮な価値観があり、事実上のほかのどの画家も世の中にゴッホのように理解されたことはないだろう。」と話している。

 

ゴッホからテオに送られた手紙は600通以上残っており、テオからゴッホに送られた手紙は約40通ほど残っている。テオはゴッホから送られてきた手紙はすべて保管していたが、ゴッホはテオから送られてきた手紙のほとんどは保存していなかった。

 

ほかに妹のウィルに宛てた手紙が22通、画家のアントン・ファン・ラッパルトに宛てた手紙が58通、エミール・ベルナールに宛てた手紙が22通、ほかにポール・シニャック、ポール・ゴーギャン、批評家のアルベール・オーリエに宛てた手紙が残っている。

 

いくつかの手紙にはスケッチ画が添付されている。多くは日付が書かれていないが、美術史家は多くは年代順に整理することが可能だという。

650通以上あるゴッホのスケッチ付き手紙を弟のテオはすべて保管していた。写真は初期作品の傑作「ジャガイモを食べる人々」についての解説手紙。
650通以上あるゴッホのスケッチ付き手紙を弟のテオはすべて保管していた。写真は初期作品の傑作「ジャガイモを食べる人々」についての解説手紙。

略歴


幼少期


13歳のときのゴッホの写真。(テオの写真と最近判明されました)
13歳のときのゴッホの写真。(テオの写真と最近判明されました)

フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の北ブラバント州のカトリック文化圏にあるズンデルトの村で生まれた。

 

オランダ改革派の牧師の父テオドルス・ファン・ゴッホと母アンナ・コーネリア・カルベントスのあいだに生まれて生き延びた子どもの中で一番年上で、実質的に長男だった。ゴッホは祖父の名前と、自身が生まれる一年前に死産した兄弟の名前から由来している。

 

"フィンセント"というのはファン・ゴッホファミリーの共通した名前だった。1811年にライデン大学で神学の学位を取得していたゴッホの祖父のフィンセント(1789-1874)は、6人の子どもをもうけ、そのうちの3人は画商だった。このフィンセントという名前は偉大な叔父で彫刻家(1729-1802)のもとに名付けられたという。

 

ゴッホの母親はハーグの豊かな家庭出身で、父親は牧師の子だったという。父と母の二人はアンナの妹コーネリアとテオドルスの兄の結婚式のときに出会ったという。2人は1851年に結婚し、ズンデルトへ移る。ゴッホが生まれて4年後にゴッホの生涯の理解者であった弟のテオが1857年5月1日に生まれた。ほかにゴッホには弟のコル、それにエリザベート、アンナ、ヴィレミーナ(通称"ウィル")の3人の妹がいる。のちにゴッホは兄弟のなかでテオとウィルのみ、手紙などでコミュニケーションをしていた。

 

ゴッホの母親は極めて厳格で信仰心の篤い女性だった。テオドルスの給料は少なかったが、教会が家族に家、メイド、料理人、庭師、馬車と馬を提供し、アンナは子どもたちに高い社会的地位を授ける教育に情熱を注いだ。

 

ゴッホは真面目で思慮深い子どもだった。幼少のころのゴッホは母親と家庭教師によって家庭で育てられ、1860年に村の学校に入学する。1864年にゼーフェンベルゲンにある寄宿学校に移るが、そこでゴッホはホームシックにかかり、自宅に帰りたいと騒ぐ。代わりに1866年に両親はティルブルフの中学校に進学させたが、ゴッホは非常に惨めな学校生活を送ったといわれる。

 

芸術に対する関心は若いころからあり、母親からドローイングの才能を励まされた。ゴッホの初期ドローイングは表現主義的だったが、のちの作品で見られるような激しさはまだ見られない。ゴッホが中学生のときは、パリで成功を収めていた画家のコンスタンチ・C・フイスマンスがディルブルフの学生に美術を教えていた。フイスマンスの美術哲学は物事の印象を捉えるのを重視し、特に写実的な技術は重要視しないことだったという。なかでも自然風景や一般的な静物画を拒否していた。

 

ゴッホの憂鬱は美術の授業でやわらぐとおもっていたが、ほとんど効果は見られなかったという。1868年3月にゴッホは突然帰宅する。のちにゴッホは思春期について「厳しく冷たく不毛」と書いている。

 

1869年7月、16歳のとき、ゴッホの叔父のセントはハーグの美術商会社グーピル商会の職をゴッホのために用意する。この当時は、ゴッホにとって非常に幸せな時期だったという。ゴッホは仕事で成功し、16歳のときから4年を画商で楽しく過ごし、20歳のときには父親よりも多くの収入を得るようになった。テオの妻はのちにゴッホの生涯でこのころが一番幸せな時期だと話している。

 

1873年に画商のため研修教育を終えると、ゴッホはロンドンのサザンプトン通りにあるグーピル商会ロンドン支部に移り、ストックウェルにあるハックフォード・ロード87番地で勤務することになった。ロンドンに転任した実際の理由は、ハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係がうまく行っていなかったからだと見られている。

画商をやめて聖職者へ転身するも挫折する


19歳のときのゴッホの写真。
19歳のときのゴッホの写真。

1873年5月、ゴッホはロンドン支店に転勤することになったが、下宿先の娘のユージ二・ローヤーに恋をし、告白するもふられる。彼女は前の下宿人と秘密裏に婚約していたという。失恋にゴッホは落ち込み、孤独感を募らせ、宗教へ関心を寄せるようになるゴッホの精神的退廃はこの時期から始まる

 

ゴッホの父と叔父は、1875年にゴッホをロンドンからパリへ転勤させる。しかし過度に商業主義的なアートビジネスを追求するグーピル商会の仕事にゴッホはしだいに反感を募らせるようになる。翌1876年1月、彼はグーピル商会から解雇するとの通告を受け、4月に退社する。

 

退社後、1876年4月にゴッホはイギリスに戻り、ラムズゲートにある小さな寄宿舎学校で臨時教師の職を得る。同年6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイズルワースに移るこになったのでゴッホも一緒に移る。しかし、仕事はうまくいかずゴッホは教職を辞め、かねてから関心があったソジスト牧師の見習いとして再出発することになる。

 

ゴッホの両親はこのころにエッテン=ルールへ移る。1876年のクリスマスにゴッホは両親のもとに戻り、聖職者になるため勉学に励みつつ、またドルトレヒトにある書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働く。しかし仕事に不満をいだき、本に悪戯書きをしたり、聖書を英語やフランス語やドイツ語に翻訳するなどして時間を潰して過ごしたという。

 

ゴッホはますます信仰に没頭するようになる。当時の同居人だったヘルリッツによれば、ゴッホは食卓で長い間祈り、肉は口にしなかったという。

 

宗教的信念と牧師になりたいという要望をサポートするため、1877年にゴッホの家族は彼をアムステルダムで著名な神学者であった叔父のヨハネス・ストリッケルに預けることにした。ゴッホはアムステルダム大学の神学部への入学準備をしていたが、入学試験に失敗してしまう。結果、1878年7月に叔父のもとを出ていくことになった。その後、ブリュッセル近郊のラーケンにあるプロテスタント宣教師学校で3月のコースを受講したがこれも挫折してしまう。

 

1879年1月、ゴッホはベルギーのボリナージュ地方のプチナムで勝手に伝道を始める。貧しい人々への支援を示すため、ゴッホは当時下宿していたパン屋の快適な施設で生活するのを諦め、小さなみすぼらしい小屋に移り、そこで寝泊まりした。1879年1月から、信仰の熱意が認められて、半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。

 

しかし、彼の自罰的な貧しい生活の中に神の癒しを見出すという信念は、苛酷な労働条件で労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こっていた炭鉱の町において人を惹きつけることはなかった。むしろ伝道師の威厳を損なうものとして教会からゴッホの自罰的な貧しい生活を否定されることになり、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られることになった。

 

同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方のクウェム(モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住む。ゴッホはそこで1880年3月ごろまで滞在し、その後、北フランスへ放浪の旅に出るも、金も食べるものも泊まるところもなくほぼ乞食状態でエッテンの実家へ戻る。ゴッホの両親は不満を抱き、特に父親はゴッホの現状の生活態度に対して不満が募り、ベルギーのヘールにある精神病院に入院させようとした。

 

1880年8月にクウェムに戻り、テオから生活資金をサポートされながら10月まで鉱夫として働く。このころからゴッホは周囲の人物や景色に関心を持つようになり、また、芸術で生計を立ててはどうかというテオの提案と生活支援が始まり人々や風景のドローイングを描きはじめたゴッホが画家として活動を始めるのはこのころからである。

 

その年の末にブリュッセルを旅行し、テオのすすめでオランダの画家ウィレム・ルーロフスのもとで絵を学ぶ。さらに1880年11月にはブリュッセル王立美術アカデミーに入学し、解剖学や一点透視図法といった基本的な美術技術を学んだ。

エッテンとハーグ時代


ケー・フォス・ストリッケルと、その息子ヤン。
ケー・フォス・ストリッケルと、その息子ヤン。

1881年4月にゴッホは、経済的事情もあってブリュッセルからエッテンの自宅に戻り、両親と暮らしはじめる。自宅でゴッホはドローイングをはじめ、このころは田園風景や近くの農夫たちなど身近な人々を主題として絵を描いていた。

 

1881年8月、夫を亡くして未亡人となったいとこのケー・フォス・ストリッケル(母の姉のウィレミニアとヨハネス・ストリッケル牧師の娘)が、ゴッホの父からの招きでゴッホ邸に滞在する。そのときにゴッホは彼女に恋をする。

 

ケーはゴッホより7歳年上で8歳になる息子がいた。それにも関わらずゴッホは彼女に求婚をして周囲を驚かせた。彼女はゴッホからの求婚を断った。

 

ケーがアムステルに戻ったあと、ゴッホはハーグへ向かい、これまで制作した絵画を売り払い、義理のいとこで画家として成功しているアントン・モーヴに会う。モーブはゴッホが憧れていた画家の1人だった。モーブは数ヶ月後に戻るよう呼びかけ、暇なときに木炭やパステルで絵画を描いてみるようアドバイスをした。ゴッホはエッテンに戻るとモーブのアドバイスに従うことにした。

 

1881年11月末、ケーを諦めきれないゴッホはアムステルダムへ向かい、ケーに面会しようとしたが、彼女はゴッホとの面会を拒否。裏口から彼女は逃げ出した。またケーの両親は「ゴッホの執着気質に困っている」とゴッホの家族に手紙で書いて伝えている。ゴッホは絶望すると、ランプの炎の中に左手の指を入れて「私が苦痛に耐えられている間だけ、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、あわててランプの炎を吹き消し、会うことはできないと断った。

 

その後、ゴッホはハーグのモーブのもとで水彩画を教学ぶことになる。クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省するが、ゴッホは彼が教会に行くか行かないかで父親と激しく口論し、結局再びハーグへ発ってしまう。

 

1882年1月、ゴッホはモーブを頼り、モーブはゴッホに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見てくれた。しかし数ヶ月でモーブとゴッホは仲違いを始める。モーブは石膏像のデッサンをするよう助言したが、ゴッホは実際のモデルを使ったデッサンに固執しており、二人の間に美術教育における意見の不一致があった。

 

1882年6月、ゴッホは淋病にかかり病院で3週間入院。退院すると初めて油彩絵画に取り組みはじめる。

 

ゴッホは油彩のメディウムを好み、自由にメディウムを広げては、キャンバスから削り落としてブラシに戻した。ゴッホはのちに手紙で油彩が自分にとって一番良いと書いている。

娼婦シーンと連れ子たちとの生活


シーンを描いた「悲しみ」(1882年)
シーンを描いた「悲しみ」(1882年)

1882年3月までにモーブは意見があわないゴッホに冷たい態度を取るようになり、彼の手紙に返信するのを止めてしまう。

 

美術的価値観のほかに、ゴッホがアルコール依存症の娼婦クラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)(1850–1904)に入れ込み彼女と同棲しはじめたのが、モーブとの関係悪化の直接的な原因だったともいわれている。

 

ゴッホは1882年1月末にシーンと出会った。彼女には5歳の娘がおり、また妊娠中だった。彼女は以前に2人の死んだ子どもがいたらしいが、ゴッホはこのことは知らなかった。7月2日、シーンは男の子ウィレムを産み、ゴッホはウィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と一緒に暮らしはじめる。

 

ゴッホの父は息子とシーンの関係を知るやいなや、彼女と二人の子どもと絶縁するよう迫った。ゴッホは当初父親に抵抗したが、同棲生活を続けているうちにゴッホは、自分の貧困生活はシーンを売春の仕事に押し戻すことになるかもしれないと感じはじめる。また同棲生活をしてみると二人とのあいだに喧嘩が絶えなかったため、ゴッホにとって家族の生活はあまり幸せと感じられず、家庭生活と芸術的発展は相容れないと感じはじめたという。

 

結局、シーンは娘を母親に預け、息子ウィレムを兄に預けることになった。息子ウィレムは12歳のときに、ゴッホが息子を合法的に子どもにするためシーンと結婚しようとロッテルダムを訪れたのを覚えているという。

 

ウィレムはゴッホを本当の父親と思っていたが、出生日付から見てゴッホが父親ということはありえなかった。その後、1883年なかばまでにゴッホとシーンと家族たちは別れる。なお、シーンは1904年にスヘルデ川で入水自殺をした。

 

1883年9月にゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に移る。12月に孤独に苛まれるようになり両親とともに暮らす。その後、北ブラバントのヌエーネンに移る。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「ハーグのアトリエからの風景」(1882年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「ハーグのアトリエからの風景」(1882年)

最初の名作「ジャガイモを食べる人々」


ヌエネンではゴッホは絵画とドローイングに焦点を当て、織工と小屋のスケッチと絵画を完成させる。

 

1884年8月から近所の10歳年上のマルガレータ・ベーヘマンと恋に落ち、彼女の家を往復するようになる。二人は結婚を考えていたが、両方の家族とも二人の結婚に好意的ではなかったため、マルガレータは気を乱して興奮剤のオーバードーズで自殺未遂をする。ゴッホが彼女を近くの病院に搬送して危うく一命はとりとめた。

 

1885年3月26日、ゴッホの父は心臓病で亡くなった。

 

ゴッホは1885年に複数の静物画を描いている。ヌエネンでの2年間の滞在で、ゴッホは膨大な数のドローイング作品や水彩画、約200点の油絵を完成させている。ゴッホのパレットはおもに暗い色調、特に濃い茶色で構成されており、この当時はまだのちの作品で見られる鮮やかな色彩の兆候は見られなかった

 

1885年の春には、数年間にわたって描きつづけた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる《ジャガイモを食べる人々》を完成させた。1885年初頭にはパリの画商からゴッホは少しずつ関心を持たれはじめる。

 

テオはゴッホに5月に個展開催の準備を提案し、ゴッホはこの個展で《ジャガイモを食べる人々》や農夫のポートレイトシリーズの作品を展示した。この個展はこれまでのゴッホの画業の集大成というべきものになった。

 

しかし、パリでゴッホの作品はまったく売れなかった。このことに対してゴッホが不満を述べたとき、テオは作品の色味がかなり暗めで、印象主義のように明るめではないからだと売れない原因を分析した。

 

8月にゴッホの作品は、ハーグにある画廊のウインドウに初めて公衆に公開された。また農夫のポートレイト絵画でモデルになった女性が9月に妊娠した件で、女性からゴッホのせいであると非難される事件が起き、村の教会からは村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられた。

フィンセント・ファン・ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」(1885年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」(1885年)

アントワープ時代


ゴッホは1885年11月にハーグからアントワープに移り、イメージ・ストリートにあるギャラリーの二階に部屋を借りる。当時のゴッホの生活は非常に貧しく、テオから仕送りされるお金のみが頼りで、それで画材を購入したり、モデルにお金を支払っていた。

 

あまりに貧乏なためパン、コーヒー、タバコを節約するようになる。1886年2月のゴッホは手紙では「6度だけ、暖かい食事を食べたことを覚えている」と書いている。また歯も悪くなり、緩み、痛みを発するようになった。

 

アントワープでゴッホは色彩理論の研究をはじめ、美術館で過ごす時間が多くなる。特にピーテル・パウル・ルーベンスの研究に没頭するようになり、その結果、ゴッホのパレットにはカルミン、コバルトブルー、エメラルドグリーンなどの色が使われるようになった。また日本の浮世絵に影響を受け、コレクションを始める。のちに絵画の背景に日本の浮世絵の影響が見られるようになった。

 

ゴッホは再びアルコール中毒に陥り、さらに梅毒を患い、1886年2月から3月にかけて入院する。回復後、アカデミズム教育への反感を持っていたにもかかわらず、ゴッホはアントワープにある美術大学の高等クラスの試験を受け、1886年1月に絵画とドローイングのクラスに入学する。しかし学内でたびたび教授らと衝突を起こす。

 

ドローイングクラスに在籍しているさいにミロのヴィーナスを描く指示を受けたゴッホは、フランドルの農民女性の肢体不自由の裸体を描いた。当時の教師であったユーゲン・シベルドは、ゴッホの描いたドローイングを芸術教育に対する侮辱的な行為であるとみなし、クレヨンで激しい校正指示を入れた上で紙を引き裂いた。ゴッホは激しく怒り、シベルドに向かって叫んだ。「あなたは若い女性がどのようなものであるかはっきりと知らない。神よ!女性は赤ちゃんを支えるためにしっかりした腰、尻、骨盤を持っている必要がある」と。

 

この後、ゴッホはたった一ヶ月ほどで学校を退学して、アントワープからパリへ移ることになった。

「悲しむ老人」(1882年)
「悲しむ老人」(1882年)
「火の付いたタバコをくわえた骸骨 」(1885-1886年)
「火の付いたタバコをくわえた骸骨 」(1885-1886年)
「開かれた聖書の静物」(1885年)
「開かれた聖書の静物」(1885年)
「耕す農夫の女性」(1885年)
「耕す農夫の女性」(1885年)

後期印象派作家たちとの交流


ロートレックが描いたゴッホの肖像。1887年。
ロートレックが描いたゴッホの肖像。1887年。

ゴッホは1886年3月にパリへ移り、モンマルトルのルーブル通りにあるアパートで弟と共同生活を始め、フェルナン・コルモンのもとで絵を学びはじめる。また、6月にはルペック通り54番地のより大きな部屋へ移った。

 

このパリ時代には、兄弟が同居していたため手紙のやり取りがなく、ゴッホの生活について分かっていないことが多い。

 

パリでゴッホは、カフェ・タンブランの女、友人たちのポートレイト、静物画、ル・ムーラン・ド・ラ・ギャレット、モンマルトルの風景、セーヌ川沿いのアニエールの風景などのシリーズを制作している。

 

1885年にアントワープでゴッホは日本の浮世絵に関心を持ったのをきっかけに浮世絵の本格的な蒐集をはじめ、それらをアトリエの壁に掛けた。パリにいる間にゴッホは浮世絵を数百枚も収集したという。なお、1887年に制作した《高級売春婦》は渓斎英泉の浮世絵を油絵で模写した作品である。

 

デラリーバレット画廊でアドルフ・モンティセリのポートレイト作品を見たあと、ゴッホは明るめの色と大胆に簡略化した形の絵を描きはじめるようになる。1888年の《サント=マリーの海辺》などが代表的な作品である。

 

1886年の春ごろ、ゴッホはフェルナン・コルモンの画塾の同僚だったオーストラリアの画家ジョン・ピーター・ラッセルのサークルに参加し、そこでエミール・ベルナール、ルイ・アンクタン、ロートレックらと出会う。

 

また、このころに《タンギー爺さんの肖像》で知られる絵具屋のジュリアン・ペレ・タンギーと出会う。当時、彼の店ではポール・セザンヌの絵画が飾られていた。1886年に点描主義と新印象主義の2つの大きな展覧会がそこで行われ、ジョルジュ・スーラポール・シニャックが当時注目を集めた。

 

当時のパリでは、今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭してきた時期、いわゆる後期印象派が興隆してきた時期だった。テオはモンマルトル大通りにある自身の画廊で新傾向の印象派の作品を扱っていたが、ゴッホはこの印象派の新しい展開を知るのは遅かった。

 

1886年末、テオとゴッホは衝突し、テオはゴッホとの生活が耐えられなくなり、1887年初頭にはゴッホは北西郊外にあるアス二エールへ移ることになった。ゴッホはそこでシニャックを知り、点描画法を制作に導入しはじめる。

 

アニエールにいるあいだ、ゴッホは公園、レストラン、セーヌ川などの風景画をおもに描いた。《アニエールのセーヌ川を横切る橋》が代表的作品である。1887年11月、テオとゴッホはパリにやってきたポール・ゴーギャンと親交を深める。

 

その年の終わりに、ゴッホはモントマルトにあるレストランでバーナード、アンクタン、ロートレックらと作品の展示を行うスケジュールを立てた。バーナードはこの展覧会についてパリで開催されているどの展覧会よりも先行したものであったという。そこでバーナードとアンクタンは初めて絵画を売り、ゴッホはゴーギャンと作品を交換した。

 

またこの展覧会では、アート、アーティスト、政治や社会についてのディスカッションが行われ、カミーユ・ピサロや彼の息子のリュシアン・ピサロ、シニャック、スーラなどが展示に訪れた。

 

1888年2月にパリの生活に疲れたゴッホは、休暇も兼ねてアルルへ移ることに決める。なお、このパリ時代の2年で200以上の絵画を制作している。

「高級売春婦」(1887年)
「高級売春婦」(1887年)
「タンギー爺さんの肖像」(1887年)
「タンギー爺さんの肖像」(1887年)
「梅の開花」(1887年)
「梅の開花」(1887年)
「静物画」(1887年)
「静物画」(1887年)

アルルの黄色い家へ


アルコール依存症やニコチン中毒から逃れるため、1882年2月にゴッホはアルルへ移ることにした。また、ゴッホは以前から計画していた芸術家たちの共同アトリエ「芸術コロニー」をアルルで創設するつもりでもあった。

 

アルル滞在時のゴッホは、生涯において非常に生産的な時期だった。ここでゴッホは、200点の絵画、100点以上のドローイングや水彩絵画を残している。ゴッホはアルルの街の風景や光に魅了させられた。この時代の作品では豊かな黄色、ウルトラマリン、モーブ色の絵具がよく使われており、モチーフとしては、収穫物、小麦畑、カフェなどの農村のランドマークがよく描かれた。

 

アルル時代を代表するものとして、小麦畑に接する美しい構造の水車小屋を描いた1888年の「古水車小屋」がある。この作品はポール・ゴーギャンやエミール・バーナード、チャールズ・ラベルらと作品の交換をするために、1888年10月4日にポン=タヴァンに送付された7作品の1つである。

 

アルル村の風景画はゴッホのオランダの生い立ちを反映させてもいた。平野と通りのパッチワークは平面的で、遠近感がないように描かれ、平面的である分、コントラストの大きい色の使い方が非常に優れたものになっている。1888年3月、ゴッホはグリッドを使った遠近法で描いた風景画を制作。これらの作品はサロン・ド・アンデパンダンで展示された。

 

1888年5月1日、月に15フランで、ゴッホは「黄色い家」というアトリエを借りる。この家は未完成のままで何ヶ月も無人だったという。ゴッホはこの黄色い家を芸術コロニーの拠点にしようとしていた。

 

5月7日、ゴッホはホテル・キャレルからカフェ・デ・ラ・ガールへ移り、そこでオーナーのジョゼフ・ミシェルとその妻マリー・ジヌーと出会う。この夫妻が経営したカフェが題材になっている作品が《夜のカフェ》である。ゴッホは「黄色い家」に家具や寝具を揃えるまで、ホテルとカフェに数か月寝泊まりしていた。黄色い家は入居する以前に家具を整えなければならなかったが、スタジオとして利用することは可能だった。

 

ゴッホは黄色い家でさまざまなシリーズ作品を制作しはじめた。アルル時代に制作した名画として1888年制作《ファン・ゴッホの椅子》《ファンゴッホの寝室》《夜のカフェ》《夜のカフェテラス》《ローヌ川の星月夜》《ひまわり》などがある。これらの作品は、黄色い家のインテリア用絵画でもあった。

「黄色い家」(1888年)
「黄色い家」(1888年)
「ひまわり」(1888年)
「ひまわり」(1888年)
「夜のカフェテラス」(1888年)
「夜のカフェテラス」(1888年)
「ローヌ川の星月夜」(1888年)
「ローヌ川の星月夜」(1888年)

黄色い家でのゴーギャンとの共同生活


ゴーギャンは1888年にゴッホの希望もあってアルルを訪れ、ゴッホが考えた芸術家たちの集団的な活動企画に理解を示す。アルルの《黄色い家》で集団で制作するというものだった。

 

企画に賛同したゴーギャンは、アルルに移る準備をはじめる。このころにゴッホは《ひまわり》シリーズの絵を描いているが、これは、黄色い家の壁にかけるインテリア用絵画として制作されたものとされている。

 

ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、ゴッホは郵便夫のジョゼフ・ルーランの助言でで2つのベッドを購入する。9月17日にゴッホは黄色い家へ、まだまばらだったが家具類を運び込みんで、初めて寝泊まりをする。同年9月中旬に《夜のカフェテラス》を描き上げた。

 

おそらくこのころが、ゴッホにとって最も野心的で絵画制作に対して真摯に取り組んでいた時期だったと思われる。ほかに《ファン・ゴッホの椅子》や《ゴーギャンの椅子》を描きあげた。10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった。

 

11月から二人は共同で制作を始める。ゴーギャンは《ひまわりの画家》でゴッホのポートレイト絵画を描いている。また、このころからゴーギャンの提案により、ゴッホは記憶を頼りに絵を描きはじめる。代表作として1888年の《エッテンの庭の記憶(アルルの女性)》が挙げられる。その後の《星月夜》も記憶を頼りにコラージュして描いた作品である。

 

二人の初めての戸外での合同制作はアリスカンだった。1888年12月、ゴッホとゴーギャンの二人はモンペリエを訪問。ファーブル美術館で二人はクールベやドラクロワの作品を鑑賞する。

 

しかし、共同生活から2ヶ月も経ったころ、二人の関係は悪化し始める。ゴッホはゴーギャンを賛美し、彼と同じレベルで扱ってほしかったが、ゴーギャンは傲慢で横暴だったため、ゴッホが精神的に挫折する原因となった。二人はしばしば口論し、ゴッホは次第にゴーギャンから見捨てられることに恐れを抱いた。二人の関係は急速に危機的状況に向かっていった。

「ファン・ゴッホの寝室」(1888年)
「ファン・ゴッホの寝室」(1888年)
「夜のカフェ」(1888年)
「夜のカフェ」(1888年)
「ファン・ゴッホの椅子」(1888年)
「ファン・ゴッホの椅子」(1888年)
「赤いブドウ園」(1888年)
「赤いブドウ園」(1888年)

ゴッホの耳切断事件


1888年12月23日、ゴッホが自ら耳たぶを切断する事件が発生。ゴッホが耳を切断した正確な事情については分かっていない。事件の15年後、ゴーギャンが事件当日の夜のことを振り返ってはいる。

 

ゴーギャンの話では、事件の当日、ゴーギャン自身が身の危険を感じさせるふるまいをゴッホはしていたという。当時の二人の関係は複雑で、テオはゴーギャンからお金を借りており、ゴーギャンはこの兄弟が自分からお金を搾取していると疑いを持ち、ゴーギャンは黄色い家を出ていく素振りを見せていた。そして、ゴッホはゴーギャンが出ていくことに感づいており、またテオが結婚する予定だったので、二人から見捨てられてしまうという強い不安に襲われていたという。

 

事件当日、ゴーギャンが家を出ていくと、慌てたゴッホが剃刀を持ってあとを追ってくる。口論した後、身の危険を感じたゴーギャンは黄色い家に戻らず、市中のホテルに泊まった。その後、ゴッホは黄色い家の自分の部屋に戻り、幻聴に襲われ、自らの左耳たぶを切り落としたといわれる。

 

ゴッホは自ら耳を包帯で巻いて止血し、切断した耳たぶを紙にくるんで、ゴッホとゴーギャンともに馴染みだった売春婦の女性に届け、黄色い家に帰ってくると意識不明で倒れこむ。翌朝、警官が部屋で意識不明状態で倒れているゴッホを発見し、病院へ搬送された。切断した耳は病院に届けられたが、切断後かなりの時間が経過していたため接合手術はできなかったという。

 

ゴッホ自身は耳を切り落としたことに関して記憶がなく、不安が原因で急性的な幻聴を伴うなど精神障害を患ったと見られている。医者の診断によれば急性精神錯乱だという。

 

事件後、ゴーギャンは翌日24日に結婚したばかりのテオに連絡。その夜、テオは大急ぎで電車に乗ってアルルに向かった。クリスマスに到着し、ゴッホの健康を確認してすぐにパリへ戻った。ゴーギャンはアルルを去り、二度とゴッホに会うことはなかったが、手紙でやり取りはしていたという。

「パイプをくわえ耳に包帯をした自画像」(1889年)
「パイプをくわえ耳に包帯をした自画像」(1889年)

サン・レミの精神病院に入院


ゴッホは1889年5月8日に世話人のプロテスタント牧師フレデリック・サーレスの紹介で、サン・ポール・ド・マウソロス病院に入院することになった。サン・ポールはアルルから30キロメートルほど離れたサン・レミにある元修道院で、以前は海軍医だったテオフィル・ペイロンが経営していた。

 

ゴッホは格子の付いた窓がある2つの独房部屋を与えられた。片方の部屋は昼にアトリエとして利用することができた。病院と窓から見える景色はゴッホの絵画の主題となった。この時代の代表作は《星月夜》である。彼は短時間の監督下にある散歩を許され、そのときに見た糸杉やオリーブの木が絵の要素にあられるようになった。

 

ゴッホは、《オリーブ畑》、《星月夜》、《キヅタ》などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている。

 

ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年1889年7月半ば、再び発作が起きた。1889年のクリスマスのころ、再び発作が起き、1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた。

 

ペイロン院長による記録では「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている。

 

一方、ゴッホの絵画は少しずつ評価されはじめた。1890年1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せる。また、2月にブリュッセルで開かれた20人展にゴッホは参加し、出品作品の1つであった《赤い葡萄畑》が初めて400フランで売れた。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に《渓谷》など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けた。

 

体調が回復した5月、ファン・ゴッホは、ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地する。病院で最後に描いた作品が《糸杉と星の見える道》である。

フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」(1889年)
フィンセント・ファン・ゴッホ「星月夜」(1889年)

ゴッホの死


1890年5月20日、ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に住んでいるポール・ガシェ医師を訪れた。

 

ガシェ医師について、ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在する。

 

ここでゴッホはガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めにはオーヴェルの教会を描いた。

 

1890年7月6日、ゴッホはパリを訪れる。アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人がゴッホを訪ねた。

 

7月10日ごろ、テオに手紙で大作3点(「荒れ模様の空の麦畑」、「カラスのいる麦畑」、「ドービニーの庭」)を描き上げたことを伝えている。7月23日に最後の手紙を書く。

 

7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったゴッホが帰り着いた。彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。

 

ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。

 

翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。7月30日、葬儀が行われ、テオのほかガシェ、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、ジュリアン・フランソワ・タンギーなど、12名ほどが参列した。

 

一方、9月12日ごろ、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日、兄のあとを追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された。

 

■参考文献

Vincent van Gogh - Wikipedia



【展覧会】香港人は変幻自在展2020「友よ、水になれ」

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香港人は変幻自在展2020「友よ、水になれ」

香港プロテスト・アートの展覧会


概要


日時 2020年12月16日〜20日
会場 東京・目黒区美術館区民ギャラリー 
運動 プロテスト・アート
関連サイト

公式サイト

Twitter

「香港人は変幻自在展2020『友よ、水になれ』」は、2020年12月16日から20日まで東京・目黒区美術館区民ギャラリーで開催された展覧会。

 

香港政府の覇権や理不尽な法律と政策に対して行われた2019〜2020年の抗議運動の際に使われたさまざまな道具、ポスター、スローガンやデモ隊の写真が一堂に展示された。ジア、または世界に先駆けたプロテスト・アートに特化した展覧会でもある。

 

展覧会名の「水になれ」とは、香港のアクション俳優李小龍(ブルースリー)の名言で、水のように自在に動き、ときに破壊的な力を持って政府機関に対処するという意味である。同時に、今回の民主化運動に参加している香港人の中心思想となっている。

 

香港政府の覇権に対抗し、民主を求める運動の中、香港人は「Be Water, my friend.」で自分たちに柔軟性を忘れないようにと言い続けている。

ロードブロックの再現


特に目立った展示物は、香港警察の前進と攻撃を防御するために考案された「ロードブロック」の再現だろう。「傘の陣」はゴム弾やビーンバック弾などの攻撃力を弱め、また傘はある程度、視線の妨げになった。傘の陣の前に設置された無数の小さなレンガは車の通過を妨げるのためのバリケードである。美術的でもあり2020年10月末、イギリス博物館の最優秀デザイン賞候補の一つとしてノミネートされた。

民主女神像


また、香港の民主を象徴する「民主女神像」のレプリカが展示された。東京都内のメーカーに依頼して作られたもので、2020年10月3日に池袋で初披露された。なお、本物の民主女神像は2019年8月に完成し、ライオンロックに運ばれたがすぐに破壊された。その破壊された本物の民主女神像の頭部も展示された。

香港デモに関する絵画・イラストレーション


香港デモに関するイラストレーションや絵画も多数展示された。最もよく知られている作品はKai_lan_egg『女性「武勇派」』だろう。武勇派を表現した女性像は香港民主化運動において重要な役割を担ってきた。彼女の服には今回の運動に関する大事件やポイントが描かれている。

香港デモのドキュメンタリー映画『香港画』


なお、香港デモの短編ドキュメンタリー映画『香港画』が、2020年12月25日から渋谷アップリンクで上映されており、同展覧会のサテライト展示が行われている。



【作品解説】バンクシーの作品 2020年作品一覧

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バンクシーの作品 2020年

バンクシーが2020年に発表した作品一覧です。今年はパンデミックやを主題とした作品が多く、政治問題に関してはブラック・ライブズ・マターに関するものが中心でした。『ルイーズ・ミッシェル号』は「投資」を主題とした新しい作品。


『Aachoo!!』
『Aachoo!!』

『Aachoo!!』は2020年12月11日にインスタグラムにアップされたバンクシーの作品。ヘッドスカーフを被った年配の女性が、入れ歯が飛び出るほどの勢いのくしゃみをしている姿を描いている。続きを読む



『自転車のタイヤでフラフープをする少女』
『自転車のタイヤでフラフープをする少女』

『自転車のタイヤでフラフープをする少女』は10月に制作された作品。ノッティンガム市には巨大なサイクリングコミュニティが存在している。ノッティンガム市と「社会的距離」を少女を通して表現した作品だと思われている。続きを読む



『ルイーズ・ミッシェル号』
『ルイーズ・ミッシェル号』

「ルイーズ・ミッシェル」はバンクシーの投資アート。19世紀フランスのフェミニストで無政府主義者として知られるルイーズ・ミッシェルにちなんで名付けられた難民救助船に対して資金提供を行ったプロジェクト。続きを読む



『もしマスクをしないなら、得ることはできない』
『もしマスクをしないなら、得ることはできない』

『もしマスクをしないと、得ることはできない』は、2020年7月14日にバンクシーがInstagramに投稿したビデオ作品。消毒清掃員を装った男がロンドン地下鉄車内で落書きしている映像である。男がバンクシー本人かどうかは不明。続きを読む



『抗議者に引き倒されようとしているコルストン像』
『抗議者に引き倒されようとしているコルストン像』

本作品は2020年6月9日に、バンクシーのインスタグラムのアカウントに投稿されたドローイング作品。2020年6月7日、イギリスのブリストルで「ブラック・ライブズ・マター」運動の過激化ともない、市の中心に立てられていた17世紀の奴隷所有者エドワード・コルストン像が撤去され、海に投げ落とされる事件が発生した。(続きを読む



『黒い影の肖像と燃えるアメリカ国旗』
『黒い影の肖像と燃えるアメリカ国旗』

2020年にアメリカで発生したジョージ・フロイド殺害事件と警察の残虐行為に触発され発生した抗議デモ「ブラック・ライブズ・マター」運動に対するオマージュ作品。黒い影の額装された肖像画の側にメモリアルキャンドルの火で燃え落ちようとしているアメリカ国旗が描かれている。続きを読む



『ゲーム・チェンジャー』
『ゲーム・チェンジャー』

『ゲーム・チェンジャー』は、バンクシーが2020年5月7日にインスタグラムに発表したドローイング作品。新型コロナウイルスの影響でイギリス中の病院で感染者であふれかえり、医療従事者がウイルスと必死に戦っている時期に制作されたものである。続きを読む



『浴室で悪夢を引き起こすネズミ』
『浴室で悪夢を引き起こすネズミ』

『浴室で悪夢を引き起こすネズミ』は、バンクシーが2020年4月15日にインスタグラム上で発表した作品。新型コロナウイルスの影響で世界中でロックダウンが起きているさなかに発表したもので屋内のユニットバス内で制作された。続きを読む




【美術解説】バンクシー「世界で最も人気のストリート・アーティスト」

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バンクシー / Banksy

世界で最も注目されているストリート・アーティスト


※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年
※1:バンクシー《愛はごみ箱の中に》2018年

概要

バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
バンクシー。映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』より。
本名

不明

生年月日 1974年生まれ
国籍 イギリス
表現媒体 絵画、壁画、インスタレーション、版画
ムーブメント グラフィティストリート・アートブリストル・アンダーグラウンド
代表作

《愛はごみ箱の中に》2018年

《風船と少女》シリーズ

《東京2003》

Better Out Than Inシリーズ

そのほかバンクシー作品一覧

公式サイト

http://banksy.co.uk

Instagram(バンクシーはInstagramしか使ってません)

バンクシーはイギリスを基盤にして活動している匿名の芸術家、公共物破壊者(ヴァンダリスト)、政治活動家。

 

もともとは、芸術家と音楽家のコラボレーションが活発なイギリス西部の港湾都市ブリストルで活動していたローカルな芸術家だったが、2000年代に入るとイギリスを飛び出し、ニューヨーク、パレスチナなど世界中を舞台にして活動することが多くなった。

 

アート・ワールドにおいてバンクシーは、おもにストリート・アート、パブリック・アート、政治活動家として評価されている。反戦問題、パレスチナ問題、難民問題、人種問題、反資本主義などの政治的メッセージが明確に作品に込められている。

 

バンクシーはだれでも閲覧できる公共空間に作品展示することが多く、ギャラリーや屋内など密室的な空間で展示することは少ない。屋内で作品を発表することもあるが、その場合は、自身のウェブサイトやインスタグラムなどインターネットを通じて発表している。

 

ドローイング、絵画、映画、書籍などさまざまなメディアを利用しているが、特に知られているのはステンシル(型板)を使用したグラフィティ絵画とその絵画に添えられるエピグラム(簡潔でウィットのある主張を伴う短い詩)である。

 

バンクシー自身はアート・ビジネスに対して消極的なため、自身のストリート・アートの複製物や写真作品を直接販売することは少ないが、アート関係者はさまざまな場所に描かれたバンクシーの作品を何とか手に入れて販売しようとしたり、無断でグッズを作成したり、展覧会を開いたりしている。

 

バンクシーは、パレスチナ問題に関わったり、世界中の有名美術館に自身の作品を無断で展示しはじめた2000年代前半から有名になりはじめたが、もっとも世界中を騒がせたのは2018年10月の「シュレッダー事件」である。この事件は、世界中のメディアで大きく紹介され、美術界だけでなく一般的にも話題になった。

 

2019年にイギリスのインターネット・マーケティング会社YouGovが『ホーム&アンティーク』誌で「現代のイギリスで、歴史上もっとも人気のあるアーティストは現在誰か」という調査をおこなったところ、レオナルド・ダ・ヴィンチやヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、クロード・モネなどの歴史上の巨匠を抑えて、バンクシーが一位に選ばれた。

 

日本では、2019年1月、東京都港区の東京臨海新交通臨海線(通称、ゆりかもめ)の日の出駅近くの防潮扉で日本で唯一のバンクシーの絵が見つかり話題になった。

バンクシーの重要ポイント

  • 明確に政治的メッセージが込められた作品
  • イギリスの地方都市(ブリストル)と世界各地で活動している
  • ステンシルを利用した絵とその絵に添えられる詩が特徴

バンクシーに関する記事の更新履歴


作品・個展解説


バンクシー個人情報は明らかにされていない


バンクシーの名前やアイデンティティは公表されておらず、飛び交っている個人情報はあくまで憶測である。

 

2003年に『ガーディアン』紙のサイモン・ハッテンストーンが行ったインタビューによれば、バンクシーは「白人、28歳、ぎっしりしたカジュアル服、ジーンズ、Tシャツ、銀歯、銀のチェーンとイヤリング。バンクシーはストリートにおけるジミー・ネイルとマイク・スキナーを混じり合わせたようなかんじだ」と話している。

 

バンクシーは14歳から芸術活動をはじめ、学校を追い出され、軽犯罪で何度か刑務所に入っている。ハッテンストーンによれば「グラフィティは行為は違法のため匿名にする必要があった」と話している。

 

1990年代後半から約10年間、バンクシーはブリストルのイーストン地区の家に住んでいた。その後、2000年ごろにロンドンへ移ったという。

 

初期は新聞や雑誌のインタビューにも積極的に登場しており、地元のほかのアーティストとイベントを企画しており、全く誰も知らないような完全に匿名ではない。ブリストル住民なら知っている人は知っているローカルに根付いたグローバルアーティストである。

 

何度かバンクシーと仕事をしたことのある写真家のマーク・シモンズは以下のように話している。

 

「ごく普通のワーキングクラスのやつだった。完璧にまともなやつだった。彼は目立たないことを好んだから、グラフィティ・アーティストであることも気にならなかった。謎めいているとされる辺りが気に入っていて、ジャーナリストやメディアから壁で隔離されることが彼は好きなんだ。BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用)  

確証のないバンクシーの個人情報


噂されているのはロビン・ガニンガム。1973年7月28日にブリストルから19km離れたヤーテで生まれた。ガニンガムの仲間や以前通っていたブリストル大聖堂合唱団のクラスメートがこの噂の真相について裏付けており、2016年に、バンクシー作品の出現率とガニンガムの知られた行動には相関性があることが調査でわかった。

 

1994年にバンクシーはニューヨークのホテルに「ロビン」という名前でチェックインしている。2017年にDJゴールディはバンクシーは「ロブ」であると言及した。

 

過去にロビン・ガニンガム以外で推測された人物としては、マッシブ・アタックの結成メンバーであるロバート・デル・ナジャ(3D)やイギリスの漫画家ジェイミー・ヒューレットなどが挙げられる。ほかにバンクシーは複数人からなる集団芸術家という噂が広まったこともある。2014年10月にはバンクシーが逮捕され、彼の正体が明らかになったというネットデマが流れた。

 

ブラッド・ピットはバンクシーの匿名性についてこのようにコメントしている。

「彼はこれだけ大きな事をしでかしているのにいまだ匿名のままなんだ。すごい事だと思うよ。今日、みんな有名になりたがっているが、バンクシーは匿名のままなんだ」

 

2019年7月、英テレビ局「ITV」のアーカイブからバンクシーらしき人物のインタビュー映像が発見され世界で話題になっている。インタビューは、バンクシーが2003年にロンドンで初めて開き、一躍有名になった展覧会「Turf war」前に行われたものである。

バンクシーと関わりの深い人物


ロバート・デル・ナジャ

マッシヴ・アタックのメンバーであり、ブリストル・アンダーグラウンド・シーンの中心的人物。

 

ミスター・ブレインウォッシュ

バンクシー初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』でバンクシーに撮影された主演男性。

 

ニック・ウォーカー

ロバート・デル・ナジャとともにブリストル・アンダーグラウンド・シーンを盛り上げたアーティストで、バンクシーに影響を与えている。

 

ブレック・ル・ラット

「ステンシル・グラフィティの父」と呼ばれるフランスのグラフィティ・アーティスト。極めてバンクシーの作品と似ているため、最近ブレックはバンクシーに対して不満をもらしはじめている。

 

スティーブ・ラザリデス

イギリスの画商。以前はバンクシーの代理業者として知られていた。ラザリデスはストリート・アートの普及に貢献した最初の人物の1人であり、またアンダーグラウンド・アートの最新トレンドにおける権威として知られている。

いつから世界的に有名になったのか


バンクシーの名前が、グラフィティやサブカルチャーの世界を超えて広がり始めたきっかけは、2003年のイラク戦争の際に起こった抗議運動である。

 

バンクシーは、「爆弾を抱きしめる少女」やリボンを付けた戦闘用のヘリコプターの絵に「NO」「WRONG WAR」というメッセージを添えたダンボールのプラカードを作って参加した。

 

また、バンクシーが世界的に報道されるようになったこととして美術館侵入事件がある。バンクシーは2000年代何度か美術館に侵入して無断で作品を設置するなどの事件を起こしており、「芸術テロリスト」というキャッチが付けられはじめたのはこのころである。

 

・2003年10月、テート・ブリテン美術館に侵入して、風景画の上に警察の立ち入り禁止テープが描かれた絵を壁に接着剤で貼り付けた。床に絵が落下するまで発見されなかった。

 

・2004年4月、美術館員を装って、ガラス張りの箱に入れられたネズミを、ロンドン自然博物館に持ち込む。ネズミはサングラスをかけ、リュックを背負い、マイクとスプレー缶を手にしている。後ろの壁には「我々の時代が来る」というメッセージがスプレーで描かれていた。

 

・2005年3月、ニューヨークの4つの世界的な美術館・博物館であるニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館、ブルックリ美術館、アメリカ自然史博物館に侵入し、作品を展示する。グラフィティ系ウェブサイト(www.woostercollective.com)に「この歴史的出来事は、ファインアートの権威たちにとうとう受け入れられるようなったというより、巧妙な偽ひげと強力接着剤の使用によるところが大きい」とコメントしている。

 

・2005年5月、大英博物館に侵入し動物とショッピングカートを押している原始人が描かれた壁画を展示する。タイトルは「洞窟壁画」で同作品の説明が書かれたキャプションが設置された。この作品はバンクシー自信がウェブサイトで公表するまでの3日間、気づかれなかった。この作品は2018年8月30日に大英博物館が公式展示することを発表した。

※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。
※7:ロンドン自然博物館に設置されたガラス張りの箱に入れられたネズミ。

略歴


若齢期


バンクシーは1990年から1994年ころにフリーハンドによるグラフィティをはじめている。ブリストル・ドリブラズ・クルー(DBZ)のメンバーとして、カトーやテスらとともに知られるようになった。

 

バンクシーは、ニック・ウォーカーインキー3Dといった少し上の世代の地元ブリストル・アンダーグラウンドシーンの芸術家から影響を受けている。この時代に、バンクシーはブリストルの写真家スティーブ・ラザライズと出会う。彼はのちにバンクシーの作品を売買するエージェントとなった。

 

初期はフリーハンド中心だったが2000年ころまでに制作時間を短縮するため、ステンシル作品へ移行しはじめた。ステンシルとはステンシルプレートの略称。板に文字や記号、円などの図形やイラストをの形をくりぬき、くり抜いた部分にスプレーを吹き付けることによって絵を描く技法である。

 

バンクシーはゴミ箱の下や列車の下に隠れて、警察の目から逃げているときにステンシル作品に変更しようと考えたという。

 

「18歳のとき、旅客列車の横に描こうとしていたら警察がきて、1時間以上ダンプカーの下で過ごした。そのときにペインティングにかける時間を半分にするか、もう完全に手をひくしかないと気がついた。それで目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見上げていたら、このスタイルをコピーして、文字を3フィートの高さにすればいいと気付いた(BANKSY'S BRISTOL:HOME SWEET HOMEより引用)」と話している。

 

ステンシル作品に変更してまもなく、バンクシーの名前はロンドンやブリストルで知られるようになった。

 

バンクシーが最初に大きく知られるようになった作品は、1997年にブリストルのストーククラフトにある弁護士事務所の前の広告に描いた《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》で、3人の機動隊と火炎瓶を手にした熊が対峙した作品である。

※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年
※3:《ザ・マイルド・マイルド・ウエスト》1997年

 バンクシーのステンシルの特徴は、ときどきかたい政治的なスローガンのメッセージと矛盾するようにユーモラスなイメージを同時に描くことである。

 

この手法は最近、イスラエルのガザ地区で制作した《子猫》』にも当てはまる。なおバンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦反資本主義反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

 

 

2002−2003年


2002年6月19日、バンクシーの最初のロサンゼルスの個展「Existencilism(イグジステンシリズム) 」が、フランク・ソーサが経営するシルバーレイク通りにある331⁄3 Galleryで開催された。個展「Existencilism」は、33 1/3ギャラリー、クリス・バーガス、ファンク・レイジー、プロモーションのグレース・ジェーン、B+によってキュレーションが行なわれた。

 

2003年にはロンドンの倉庫で「Turf War(ターフ・ウォー)」という展示が開催され、バンクシーはサマセットの牧場から連れて来られた家畜にスプレー・ペインティングを行った。この個展はイギリスで開催されたバンクシーの最初の大きな個展とされている。

 

展示ではアンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛、ホロコースト犠牲者が着ていたパジャマの縞模様をステンシルされた羊などが含まれている。王立動物虐待防止協会も審査した結果、少々風変わりではあるけれども、ショーに動物を使うことは問題ないと表明した。しかし、動物保護団体で活動家のデビー・ヤングが、ウォーホルの牛を囲っている格子に自身の身体を鎖で縛りつけて抗議した。

 

バンクシーのグラフィティ以外の作品では、動物へのペインティングのほかに、名画を改ざん、パロディ化する「転覆絵画(subverted paintings)がある。代表作品としては、モネの「睡蓮」に都市のゴミくずやショッピングカートを浮かべた作品シリーズがある。

 

ほかの転覆絵画では、イギリスの国旗のトランクスをはいたサッカーのフーリガンかと思われる男とカフェのひび割れたガラス窓に改良したエドワード・ホッパーの《ナイトホーク》などの作品が有名である。これらの油彩作品は、2005年にロンドンのウェストボーングローブで開催された12日間の展示で公開された。

 

バンクシーはアメリカのストリート・アーティストのシェパード・フェアリーと2003年にオーストラリアのアレクサンドリアの倉庫でグループ展を開催している。およそ1,500人の人々が入場した。

※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※3:アンディ・ウォーホルのポートレイトが描かれた牛
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年
※4:バンクシーの転覆絵画《Show Me The Monet》2005年

かろうじて合法な10ポンド偽札(2004-2006年)


2004年8月、バンクシーはイギリス10ポンドの偽札を作り、エリザベス女王の顔をウェールズ公妃ダイアナの顔に入れ替え、また「イングランド銀行」の文字を「イングランドのバンクシー」に書き換えた。

 

その年のノッティング・ヒル・カーニバルで、群衆にこれらの偽装札束を誰かが投げ入れた。偽の札束を受け取った人の中には、その後、地元の店でこの偽札を使ったものがいるという。その後、個々の10ポンド偽札は約200ポンドでeBayなどネットを通じて売買された。

 

また、ダイアナ妃の死を記念して、POW(バンクシーの作品を販売しているギャラリー)は、10枚の未使用の偽紙幣同梱のサイン入りの限定ポスターを50枚販売した。2007年10月、ロンドンのボナムズ・オークションで限定ポスターが24,000ポンドで販売された。

『イングランドのバンクシー」Artnetより。
『イングランドのバンクシー」Artnetより。

2005年8月、バンクシーはパレスチナへ旅行し、イスラエル西岸の壁に9つの絵を描いた。

バンクシーは2006年9月16日の週末にロサンゼルスの産業倉庫内で「かろうじて合法」という個展を3日間限定で開催。ショーのオープニングにはブラッド・ピットなどのスターやセレブがたくさん訪れた。

 

「象が部屋にいるよ」という「触れちゃいけない話題」のことを指すイギリスのことわざを基盤にした展示で、この展示で話題を集めたのは全身がペンディングされたインド象だった。動物の権利を主張する活動家たちが、インド象へのペインティング行為に非難した。しかし、展覧会で配布されたリーフレットによれば、世界の貧困問題に注意を向けることを意図した展示だという。

 

この古びた倉庫での3日間のショーがアメリカ話題になり、美術界の関係者もこのショーをきっかけにバンクシーとストリート・アートに注目をしはじめた。美術館の有力者もバンクシーをみとめはじめ、ストリート・アート作品がオークションで急激に高騰をしはじめた。コレクターも新しい市場に殺到した。

 

「かろうじて合法」では、ブラッド・ピットやアンジェリーナ・ジョナリーなど映画や音楽産業の有名人も訪れ、作品を購入した。

※6:全身ペインティングされたインド象。
※6:全身ペインティングされたインド象。

バンクシー経済効果(2006-2007年)


クリスティーナ・アギレラは、バンクシー作品『レズビアン・ヴィクトリア女王』のオリジナル作品と2枚のプリント作品を25,000ポンドで購入。

 

2006年10月19日、ケイト・モッシュのセット絵画はサザビーズ・ロンドンで50,400ポンドで売買され、オークションでのバンクシー作品で最高価格を記録した。

 

この作品は6枚からなるシルクスクリーン印刷の作品はアンディ・ウォーホルのマリリン・モンロー作品と同じスタイルでケイト・モスを描いたもので、推定落札価格の5倍以上の値で取引された。目から絵の具が滴り落ちた『緑のモナリザ』のステンシル作品は、同オークションで57,600ポンドで売買された。

 

同年12月、ジャーナリストのマックス・フォスターはバンクシーのアート・ワールドにおける成功とともに、ほかのストリート・アーティストの価格の上昇や注目の集まりを説明するため「バンクシー効果」という言葉を使った。

 

2007年2月21日、ロンドン・サザビーズはバンクシー作品を3点出品し、バンクシー作品において過去最高額を売り上げた。『中東イギリス爆撃』は10万2000ポンド、ほかの2つの作品『バルーン少女』と『爆弾ハガー』はそれぞれ3万7200ポンドと3万1200ポンドで落札され、落札予想価格を大幅に上回った。

 

翌日のオークションではさらに3点のバンクシー作品が値上がりした。『バレリーナとアクション・マン・パーツ』は9万6000ポンド、『栄光』は7万2000ポンド、『無題(2004)』は3万3600ポンドで落札され、すべて落札予想価格を大幅に上回った。

 

オークション2日目の売上結果に反応するように、バンクシーは自分のサイトを更新し、入札している人々が描いた新しいオークションハウスの絵画をアップし、「とんちきが糞を購入する姿が信じられない」とメッセージを添えた。

 

2007年2月、バンクシーに描かれた壁画を所有するブリストルの家主は、レッド・プロペラ画廊を通じて家の売却を決めた。オークションの目録には「家に付属している壁画」と記載された。

 

2007年4月、ロンドン交通局は、クエンティン・タランティーノの1994年作映画『パルプ・フィクション』から引用して描いたバンクシーの壁画を塗りつぶした。この壁画は非常に人気があったけれども、ロンドン交通局は「放置や社会的腐敗の一般的な雰囲気は犯罪を助長する」と主張した。

 

2008年、イギリス、ノーフォーク出身のネイサン・ウェラードとミーブ・ニールの二人はバンクシーが有名になる以前の1998年に描いた30フィートの壁画『脆弱な沈黙』付きのモバイルホーム自動車を売却すると発表した。

 

ネイサン・ウェラードによれば、当時バンクシーは夫婦に「大きなキャンバス」として自動車の壁を使うことができるかたずね、夫婦は承諾したという。キャンバスのお礼にバンクシーは2人にグラストンベリー・フェスティバルの入場無料券をくれたという。

 

11年前に夫婦が1,000ポンドで購入したモバイルホームは、現在は500倍の価格の500,000ポンドで売られている。

 

バンクシーは自身のサイトに「マニフェスト」を公開した。マニフェストの文書には、クレジットとして、帝国戦争博物館で展示されているイギリス軍中尉ミルヴィン・ウィレット・ゴニンの日記と記載されていた。このテキストは第二次世界大戦が終わるころ、ナチスの強制収容所の解放時に届いた大量の口紅がどのようにして捕虜たちの人間性を取り戻す助けとなったかが説明されている。

 

しかし、2008年1月18日、バンクシーのマニフェストは、泥棒のジョージ・デイヴィスを投獄から解放するために制作した1970年代のピーター・チャペルのグラフィティを探求した作品『Graffiti Heroes No. 03』に置き換えられた。

2008年


2008年3月、ホランド・パーク通りの中心にあるテムズ・ウォルター塔に描かれたステンシル形式のグラフィティ作品は、広くバンクシーが制作したものだとみなされている。黒い子ども影の絵と、オレンジ色で「Take this—Society!」という文字が描かれていた。ハマースミス・アンド・フラム区のスポークスマンで評議員のグレッグ・スミスはグラフィティを破壊行為とみなし、即時除去を命じ、3日以内に除去された。

2008年8月後半、ハリケーン・カトリーナ三周忌とグレーター・ニューオーリンズの2005年の堤防の崩落の三周忌として、バンクシーはルイジアナ州ニューオーリンズの災害で崩壊した建物に一連のグラフィティ作品を描いた。

 

バンクシーと思われるステンシル作品が、8月29日、アラバマ州バーミンガムのエンスレー近郊にあるガソリンスタンドに現れた。ロープから吊り下げられたクー・クラックス・クランのフードを被ったメンバーが描かれたが、すぐに黒スプレーで塗りつぶされ、のちに完全に除去された。

 

バンクシーは2008年10月5日、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで最初のニューヨーク個展『The Village Pet Store and Charcoal Grill』を開催。偽のペットショップという形態をとり、動物や道徳や農業の持続可能性の関係を問いただすことを目的としたインスタレーション形式の展示となった。

 

ウェストミンスター市協議会は2008年10月、2008年4月にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品『CCTVもとの1つの国』は落書きのため塗りつぶすと発表した。評議会はアーティストの評判にかかわらず、あらゆる落書きを除去する意向を示し、はっきりとバンクシーに「子どもとは違い落書きをする権利はない」と表明した。

 

評議会の議長であるロバート・デービスは『Times』紙に対して、「もしバンクシーの落書きを許したら、スプレー缶を持った子どもであれば誰でも芸術を制作していることいえるだろう」と話している。作品は2009年4月に塗りつぶされた。

 

2008年12に、オーストラリアのメルボルンに描かれたダッフルコートを着た潜水ダイバーのグラフィティ作品『リトル・ダイバー』が破壊された。当時、作品はクリアなアクリル樹脂で保護されていた。しかしながら、銀の絵の具が保護シートの背後からそそがれ、"Banksy woz ere"という言葉のタグが付けられ、絵はほぼ完全に消された。

 

2008年5月3日〜5日にかけて、バンクシーはロンドンで「カンズ・フェスティバル」と呼ばれる展示を開催した。ロンドン、ランベス区のウォータールー駅下にある以前はユーロスターが使っており、今は使われていないトンネル「リーク・ストリート」でイベントは行なわれた。

 

ステンシルを利用したグラフィティ・アーティストたちが招待され、グラフィティ・アートでトンネル内を装飾した。なお、ほかのアーティストの作品に上書きする行為はルールで禁止された。

 

トンネル内でのグラフィティ行為は法律的に問題はあるものの、この場所は大目に見られていた。

2009年


2009年7月13日、ブリストル市立博物館・美術館で「バンクシーVSブリストル美術館」展が開催され、アニマトロニクスやインスタレーションを含む100以上の作品が展示された。また過去最大のバンクシーの展覧会でもあり、78もの新作が展示された。

 

展示に対しては非常に良い反応が得られ、最初の週末には8,500人もの人々が訪れた。展覧会は12週間にわたって開催され、合計30万人以上の動員を記録した。

 

2009年9月、ストーク・ニューイントンにある建物にイギリス王室をパロディ化したバンクシーの作品が描かれ、残ったままになっていた。内容に問題があるため、当局から土地所有者に対してグラフィティの除去施行通知が送られた後、ハックニー区役所によってグラフィティの一部が黒く塗りつぶされた。

 

この作品は2003年にロックバンド「ブラー」からの依頼でバンクシーが制作したもので、ブラーの7インチシングルCD「クレイジー・ビート」のカバーアートとして利用されたものである。

 

土地所有者はバンクシーのグラフィティ行為を許可しており、そのまま残す意向だったが、報告によれば所有者の目の前で当局によって絵が塗りつぶされ、涙を流したという。

2009年12月、バンクシーは地球温暖化に関する4つのグラフィティ作品を描いて、第15回気候変動枠組条約締約国会議の破綻を風刺した作品を制作。「地球温暖化を信じていない」という語句が記載された作品で、地球温暖化懐疑論者たちを皮肉ったもものである。その作品は半分水の中に沈められた状態で壁に描かれた。

2010年


2010年1月24日、ユタ州パーク・シティで開催されたサンダンス映画祭で、バンクシーの初監督の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』が上映された。バンクシーはパーク・シティやソルト・レイク・シティ周辺に映画の上映を記念して、10点のグラフィティ作品が制作している。

 

なお、2011年1月、バンクシーはこの映画でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。

 

2010年4月、サンフランシスコで『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』の上映を記念して、街のさまざまな場所に作品が5点描かれた。バンクシーはサンフランシスコのチャイナタウンのビルの所有者に50ドルを支払い、ステンシル作品を描いたといわれる。

2010年5月、7点の新しい作品がカナダ、トロントに現れたが、そのほとんどは塗りつぶされたか、除去された。

 

2010年2月、イギリスのリバプールにある公衆建築物「ホワイトハウス」は11万4000ポンドでオークションで売買された。この建物の外壁に描かれたネズミのグラフィティはバンクシーの手によるものである。

 

2010年3月、バンクシーの作品『我らの不法侵入を赦したまえ』はロンドン地下鉄でアート・ショーを実行したアート会社の「アート・ベロー」と共同でロンドン橋に展示された。地下鉄でグラフィティが流行していたため、ロンドン交通機関によって検閲され、取り除かれた。

 

少年の頭の上に描かれた天使の輪がないバージョンが展示されたが、数日後、輪はグラフィティ・アースィストによって修復させられた。ロンドン交通機関はこのポスターを廃棄した。

 

5月、バンクシーはデトロイトを訪れ、デトロイトとウォーレンのさまざまな場所でグラフィティを描いた。赤いペンキを持った少年とその絵の横に「I remember when all this was trees」という言葉が書かれたグラフィティがデトロイトの廃墟となった壁に描かれたが、この作品は555ギャラリーによって発掘され、持ち去られた。

 

ギャラリーは作品を販売するつもりはないが、自身のデトロイトにあるギャラリーで展示する予定だとはなして。また、彼らはウォーレンにある『ダイヤモンド・ガール』として知られる作品も壁から取り除こうとした。

2011年


2011年5月、バンクシーは「テスコ・バリュー」缶に火炎瓶の煙が出ているリトグラフ・ポスターの販売をはじめる。これは、バンクシーの故郷ブリストルでのテスコ・エクスプレス・スーパーマーケットの進出に反発する地元民によるキャンペーンに乗じたもので、このキャンペーンは長く続いた。

 

ストークス・クロフト地区で、進出反対派のデモ隊と警察官の間に激しい衝突が発生。バンクシーはストークス・クロフト地区の地元民や騒動中に逮捕されたデモ隊を法的弁護のための資金調達をするためにこのポスターを作成した。

 

ポスターはストークス・クロフトで開催されたブリストル・アナーキスト・ブックフェアで5ポンドで限定発売された。

 

12月、バンクシーは、リバプールにあるウォーカー・アート・ギャラリーで『7つの大罪』を発表。司祭の顔をピクセル化した胸像彫刻作品は、カトリック教会における児童虐待騒動を風刺したものだという。

『7つの大罪』
『7つの大罪』

2012年


2012年5月、1990年代後半にメルボルンで描いた『パラシュート・ラット』がパイプを新設する工事中にアクシデントで破壊された。

 

2012年ロンドンオリンピック前の7月、バンクシーは自身のサイトにオリンピックを主題にしたグラフィティ作品の写真をアップしたが、どこに描いたのか場所は明かさなかった。

『パラシュート・ラット』
『パラシュート・ラット』

2013年


 2013年、2月18日、BBCニュースは2012年に制作したバンクシーの近作グラフィティ『奴隷労働』を報告した。この作品はイギリスの国旗(エリザベス2世のダイヤモンド・ジュビリーのときに作られた)を縫っている幼い子どもの姿が描かれたものである。ウッド・グリーンのパウンドランド店の壁に描かれた。

 

 

その後、このグラフィティは取り除かれ、マイアミの美術オークションのカタログに掲載され市場で販売されることになった。

『奴隷労働』
『奴隷労働』

2013年10月からバンクシーはニューヨークに1ヶ月滞在して、毎日少なくとも1つの作品を発表し、専用のウェブサイトとインスタグラムのアカウントの両方でその様子を記録する『Better Out Than In』シリーズを制作。

 

企画の予測不可能性とバンクシーの捉えどころのなさがファンを興奮させる一方で、競合するニューヨークのストリート・アーティストや荒らしたちによる、バンクシー作品の破壊も問題となった。

 

2014年に公開されたHBOドキュメンタリー映画『Banksy Does New York』でニューヨーク滞在中に活動した様子が記録されている。

2015年


2015年2月、バンクシーはガザ地区を旅したときの様子をおさめた約2分のビデオを自身のウェブサイトにアップした。これは、2014年夏の7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の被害を受けた小さな地区でのパレスチナ人の現在の窮状と苦しみに焦点を当てた内容である。

 

また、バンクシーはガザ滞在時に破壊された家の壁に大きな子猫の絵を描いて注目を浴びた。バンクシーは子猫の絵についてウェブサイトで意図を説明している。

 

「地元の人が来て「これはどういう意味だ?」と聞いてきた。私は自分のサイトで、対照的な絵を描いた写真をアップすることでガザ地区の破壊を強調したかった。しかし、インターネットの人々は破壊されたガザの廃墟は置き去りにして、子猫の写真ばかりを見ている。」

2015年8月21日の週末から2015年9月27日まで、イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで、プロジェクト・アート『ディズマランド』を開催。ウェストン・スーパー・メアの屋外スイミング・プールなどさまざまな施設を借り、邪悪な雰囲気のディズニーランドが構築された。

 

バンクシー作品のほか、ジェニー・ホルツァー、ダミアン・ハースと、ジミー・カーターなど58人のアーティストの作品がテーマパーク内に設置された。

2015年12月、バンクシーはシリア移民危機をテーマにしたいくつかのグラフィティ作品を制作している。『シリア移民の息子』はその問題を反映した作品の1つで、シリア移民の息子であるスティーブ・ジョブズを描いたものである。

 

バンクシーは作品についてこのようなコメントをしている。

 

「私たちは、移民達は自国のリソースを浪費させるものであると考えている。しかし、スティーブ・ジョブズはシリア移民の息子だった。アップルは世界で最も価値のある国で、一年間に70億ドル以上の税金を支払っており、それは元をたどればシリアのホムスからやって来た若い移民の男(ジョブズの父)の入国を許可したのが始まりではなかったか。」

2017年 ザ・ウォールド・オフ・ホテル


2017年、パレスチナのイギリス支配100週年記念としてベツレヘムに建設予定だったアートホテル「ザ・ウォールド・オフ・ホテル」に投資し、開設。

 

このホテルは一般に開かれており、バンクシーやパレスチナ芸術家サム・ムサ、カナダの芸術家ドミニク・ペトリンが設計した部屋もあり、各寝室はイスラエルとパレスチナ自治区を隔てる壁に面している。

 

また、現代美術のギャラリーとしても利用されている。

 

 

2018年 断裁された風船少女


2018年10月、バンクシーの作品の1つ『風船と少女』が、ロンドンのサザビーズのオークションに競売がかけられ、104万ポンド(約1億5000円)で落札された。

 

しかし、小槌を叩いて売却が成立した直後、アラームがフレーム内で鳴り、絵が額内に隠されていたシュレッダーを通過し、部分的に断裁されてしまった。

 

その後、バンクシーはインスタグラムにオークションの掛け声と「消えてなくなった」の意味をかけたとみられる「Going、going、gone ...」というタイトルのシュレッダーで断裁された絵と驚いた様子の会場の様子をおさめた写真をアップした。

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Going, going, gone...

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 売却後、オークションハウスは作品の自己破壊はバンクシーによるいたずらだったことを認めた。

 

ヨーロッパのサザビーズの現代美術部門長のAlex Branczik氏は、「私たちは、”Banksy-ed(バンクシーだったもの)”を手に入れたようだった。」とし、「予期せぬ出来事は、瞬時にしてアートの世界史となった。オークションの歴史の中でも、落札された後に、アートが自動的に裁断されたことはない。」と述べた。

 

その後、作品名は『愛はごみ箱の中に』に改題された。

 

 

テクニック


バンクシーに関することは秘匿性が高いため、ステンシルで絵画を制作をする際にどのようなテクニックが使われているかはっきり分からないが、作品の多くは写真レベルのクオリティにするため、事前にPCで綿密に制作していると思われる。

 

バンクシーがステンシルを使う理由はいくつかある。1つはフリーハンドでの絵が下手なためステンシルに代えたという理由。子どものころ、一般中等教育修了証で美術の評価はE(8段階で下から2番目)しかとれなかったという。

 

また、いつも制作中に警察に見つかり最後まで絵を描きあげることができず、ペインティングに限界を感じていたのも大きな理由である。警察に追われてごみ収集のトラックの下に隠れているときに目の前の燃料タンクの底にステンシルされた鉄板を見て、このスタイルなら時間を短縮できると思いついたという。

 

作品スタイルについてもさまざまな議論がされている。最もよく批評されるのはミュージシャンでグラフィティ・アーティストの3Dに影響を受けていることである。バンクシーによれば、10歳のときに街のいたるところにあった3Dの作品に出会い、グラフィティに影響を受けているという。

 

ほかには、フランスのグラフィック・アーティストのBlek le Ratの作風と良く似ていると指摘されている。

 

バンクシーの政治的メッセージの内容の大半は反戦、反資本主義、反体制であり、よく使うモチーフは、ネズミ、猿、警察、兵士、子ども、老人である。

バンクシーへの批判


『キープ・ブリテイン・テディ』のスポークスマンのピーター・ギブソンは、「バンクシーの作品は単純にヴァンダリズム(破壊行為)である」と断言し、また彼の同僚であるダイアン・シェイクスピアは「バンクシーのストリート・アートは本質的に破壊行為であるが、それを称賛することを私たちは心配している」と話している。

 

 

また、バンクシーの作品は以前から、1980年初頭のパリで等身大のステンシル作品で政治的なメッセージとユーモラスなイメージ組み合わせて制作していたBlek le Ratの作品を模倣していると批判されている

 

当のBlek自身は当初、アーバンアートへ貢献しているバンクシーを称賛し「人々はバンクシーは私のパクリというけど、私自身はそう思わない。私は古い人間で彼は新しい人間で、もし私が彼に影響を与えたらそれでいい、私は彼の作品が大好きだ。彼はロンドンで活動しているが、60年台のロック・ムーブメントとよく似ていると感じる」と話していた。

 

しかしながら、最近になって、ドキュメンタリー『Graffiti Wars』のインタビューでは、これまでと異なるトーンで「バンクシーのネズミや子どもや男性の彼絵を見たとき、すぐに私のアイデアを盗んだと思い、怒りを感じた」とコメントしている。

※8:Blek le Rat "Selfie Rat"
※8:Blek le Rat "Selfie Rat"

バンクシーの公式本


バンクシーはバンクシー自身の手による公式の著作物を数冊刊行している。

  • 『Banging Your Head Against A Brick Wall』2001年  ISBN 978-0-9541704-0-0
  • 『Existencilism』2002年 ISBN 978-0-9541704-1-7
  • 『Cut It Out』2004年  ISBN 978-0-9544960-0-5
  • 『Pictures of Walls』2005年 ISBN 978-0-9551946-0-3
  • 『Wall and Piece』2007年 ISBN 978-1-84413-786-2

『Banging Your Head Against a Brick Wall』『Existencilism』『Cut It Out』の3冊は自費出版の小さな小冊子シリーズである。

 

『Pictures of Walls』はバンクシーによるキュレーションで自費出版された他のグラフィティ・アーティストを紹介した写真集である。

 

『Wall and Piece』は最初の3冊の文章と写真を大幅に編集し、また新たな原稿を追加して1冊にまとめたものである。この本は商業出版を意図したもので、ランダム・ハウス社から出版された。日本語版も出版されている。自費出版された最初の3冊は故事脱字が多く、また暗く、怒りに満ち、病的なトーンだったという。『Wall and Piece』では商業出版用にそれらの問題点が校正・編集されている。



【作品解説】バンクシー作品一覧 ねずみ、風船の少女などバンクシーの作品完全解説

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バンクシーの作品一覧

ねずみ、風船の少女、シュレッダー作品などバンクシーがこれまで発表した作品について解説します。バンクシーの概要や略歴を知りたい方はこちらへ。

 

2020年に発表した作品一覧はこちらへ。

オークション高額作品


《分離国会》
《分離国会》

『分離国会』は2009年にバンクシーが制作した油彩作品『Question Time』をリワークした作品。作品のサイズは2.5メートル×4.2メートルで、バンクシーが描いたキャンバス作品としては最大級となる。英国下院で議論している政治家たちをチンパンジーに置き換えて描いている。(続きを読む



《SHOW ME THE MONET》
《SHOW ME THE MONET》

『SHOW ME THE MONET』は、2005年にバンクシーによって制作された油彩作品。バンクシーの挑発的作品の代表作として評価されており、現代における社会批評家としてのバンクシーの地位を確固たるものにした。(続きを読む



《愛はゴミ箱の中に》
《愛はゴミ箱の中に》

《愛はごみ箱の中に》は2018年10月にサザビーズ・ロンドンのオークション中にバンクシーによって介入された芸術作品であり、介入芸術の代表作の1つ。2006年にバンクシーが制作した風船少女シリーズの1つ《風船と少女》の絵画が、オークションで104万2000ポンドで落札された直後に介入された作品である。(続きを読む


代表作


《風船と少女》
《風船と少女》

『風船と少女』は2002年からバンクシーがはじめたステンシル・グラフィティ作品シリーズ。風で飛んでいく赤いハート型の風船に向かって手を伸ばしている少女を描いたものである。「風船少女」や「赤い風船に手を伸ばす少女」とよばれることもある。(続きを読む



《東京2003》
《東京2003》

《東京 2003》は、2003年に東京都港区の東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の日の出駅付近にある東京都所有の防潮扉に描かれたバンクシーによるものと思われるストリート・アート。傘をさし、カバンを持ったネズミのステンシル作品。(続きを読む



《小さな植物と抗議する少女》
《小さな植物と抗議する少女》

《小さな植物と抗議する少女》(仮)は2019年4月末にロンドンのマーブル・アート付近の壁に描かれた作品。描かれた場所は環境保護団体「Extinction Rebellion(絶滅への反逆)」が4月15日から2週間におよぶ抗議を行っている場所である。(続きを読む



《クリスマスおめでとう》
《クリスマスおめでとう》

《クリスマスおめでとう》は2018年12月にバンクシーによって制作されたストリート・アート。イギリス、ポートタルボットにある鉄工所労働者のガレージの2つの壁に描かれた作品で、地元の製鉄所から噴出される粉じんに対する抗議を示唆した内容となっている。(続きを読む



《シリア移民の息子》
《シリア移民の息子》

《シリア移民の息子》は2015年に制作されたバンクシーの壁画作品。本作は留学移民としてアメリカに滞在していたシリア移民の息子のスティーブ・ジョブズを描いたものである。ジョブズは黒いタートルネックにジーパン、丸メガネのいつものジョブズ・ファッションで、手にはオリジナルのマッキントッシュ・コンピュータと荷物を持って立っている。(続きを読む



《愛は夜空に》
《愛は夜空に》

《愛は空中に》は2003年にバンクシーによって制作されたステンシル作品。パレスチナのヨルダン川西岸地区南部の県ベツレヘムのアッシュ・サロン・ストリート沿いの建物に描かれている。(続きを読む



『白黒英国旗柄の防刃ベスト』
『白黒英国旗柄の防刃ベスト』

『白黒英国旗柄の防弾チョッキ』はバンクシーがデザインした白黒カラーのユニオンジャック柄防刃チョッキ。2019年6月28日、イギリスで開催されたロック・フェスティバル「グラストンベリー」で、49年の歴史で初めて黒人のトリを務めたストームジーがステージで着用して話題になった。(続きを読む



『Nola傘少女』
『Nola傘少女』

《Nola》は2008年にバンクシーによって制作されたストリートアート作品。「傘少女」「雨少女」とも呼ばれることもある。アメリカ、ルイジアナ州ニューオーリンズのマリニー地区のストリート上に描かれた。(続きを読む



『モバイル・ラバーズ』
『モバイル・ラバーズ』

《モバイル・ラバーズ》は2014年4月にバンクシーがブリストルで制作したストリート・アート。男女二人が今にもキスをしようとしているが、二人の視線は手に持つ携帯電話に向かっているように見える。(続きを読む



《Think Tank》
《Think Tank》

『Think Tank』は、2003年5月に発売されたイギリスのロック・バンドBlurの7枚目のアルバム。カバーアートにバンクシーのステンシル作品が使われている。 バンクシーは通常は商業作品を制作しないと主張していたが、のちにカバー作品の制作を養護した。(続きを読む



《Well Hung Lover》
《Well Hung Lover》

《Well Hung Lover》は2006年にバンクシーによって制作されたストリート・アート。イギリス、ブリストルのフロッグモア・ストリートに描かれた。全裸の男が窓に片手でぶらさがっており、窓にはスーツを着た男性が裸の男性に気づかずよそ見をしている。男性の隣には下着姿の女性がいる。(続きを読む



《ディズマランド 》
《ディズマランド 》

『ディズマランド』は2015年に企画・実行されたバンクシーによるプロジェクトアート。イギリスのウェストン・スーパー・メアの海辺のリゾートで開催。(続きを読む



《ピンク色の仮面をつけたゴリラ 》
《ピンク色の仮面をつけたゴリラ 》

《ピンク色の仮面をつけたゴリラ》は2001年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。初期作品のなかでも最も有名な作品の1つである。彼の故郷であるブリストルにあるソーシャルクラブで描かれた、特に政治的なメッセージ性のないシンプルなグラフィティ作品である。(続きを読む



《パラシュート・ラット》
《パラシュート・ラット》

《パラシュート・ラット》は、パラシュートで降下する飛行用グラスをかけた紫色のネズミの絵である。バンクシー作品は大雑把にいえば「反資本主義」と「反戦主義」を主題とし、それらを風刺的であり挑発的な方法で表現するのが特徴である。(続きを読む



《奴隷労働》
《奴隷労働》

《奴隷労働》は2012年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。122 cm ×152 cm。2012年5月、ロンドンのウッドグリーンにある1ポンドショップ「パウンドランド」脇の壁に描かれたものである。(続きを読む



《爆弾愛》
《爆弾愛》

『爆弾愛』は2003年にバンクシーによって制作されたプリント作品。戦争と愛という二項対立を探求したバンクシー初期の象徴的な作品。ポニーテールの無垢な少女が爆弾(軍用機用の爆弾)をクマのぬいぐるみのように抱いている絵である。(続きを読む



《子猫》
《子猫》

《子猫》は2015年初頭ころにバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。2014年夏、7週間におよぶイスラエルの軍事攻撃の受け廃墟化したガザ地区の家の壁に描かれている。(続きを読む



《アート・バフ》
《アート・バフ》

《アート・バフ》は2014年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。イギリスのフォークストンにある壁に描かれており、バンクシーによれば「フォークストーン・トリエンナーレの一部のようなもの」だという。(続きを読む



《パルプ・フィクション》
《パルプ・フィクション》

『パルプ・フィクション』は2002年から2007年にまでバンクシーによって制作されたグラフィティ作品シリーズ。2002年から2007年までロンドンのオールド・ストリート駅近郊の壁にステンシル形式で存在していた。(続きを読む



《マイルド・マイルド・ウェスト》
《マイルド・マイルド・ウェスト》

『マイルド・マイルド・ウェスト』は、1999年にバンクシーによって制作されたグラフィティ作品。テディ・ベアが3人の機動隊隊員に向けて火炎瓶を投げている絵である。(続きを読む



個展「軽ろうじて合法」
個展「軽ろうじて合法」

「かろうじて合法」は2006年にカリフォルニア州ロサンゼルスにある産業倉庫で開催されたバンクシーの個展。2006年9月16日の週末に無料ショーが開催された。37歳のインド象「Tai」が展示物の1つとして設置され、象の身体に周囲の部屋の壁紙にあわせて絵柄が描かれた。(続きを読む



【美術解説】烏合麒麟「暴力やテロを賛美するアートに疑問を投げかける中国の画家」

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烏合麒麟 / Wuheqilin

暴力やテロを賛美するアートに疑問を投げかける中国の画家


オーストラリア兵が子供の喉を切り裂くC
オーストラリア兵が子供の喉を切り裂くC

概要


烏合麒麟(1980年代生まれ)は中国のCG(コンピューター・グラフィック)画家、戦狼芸術家。中国外務省情報部副部長の趙立堅がツイッターにアップロードして物議をかもした画像の作者として知られている。

 

2020年12月、趙はオーストラリア兵が子供の喉を切り裂くCGをTwitterに投稿して物議をかもす。オーストラリアは中国に対し謝罪を要求するが、中国は翌日、謝罪要求を拒否した。趙がツイッターに掲載する1週間前の11月23日にこの画像を微博で発表している。

 

中国の領土であるはずの香港のデモに外部勢力が関与していることを知り、危機感を覚えて制作した『進撃的国漫人』(進撃の中国人漫画家)という作品を自らの微博アカウントに公開して注目を集めた。

 

烏合麒麟は趙立堅が自分の作品をツイートしたことに興奮し、「趙監督、めちゃくちゃパワフル!彼らの尻を蹴りあげましょう!私のために武装解除してください!!!」と微博に書いている。

 

中国のプロバガンダ・アートの新世代


 烏合麒麟は、テロや暴力は批判されるべきなのに、香港のプロテストたちは、漫画や文芸作品を使うことで、暴力を美化し粉飾した香港のプロテスト・アートを批判している。

 

2019年には「香港警察を醜く、自分たちテロリストを英雄のように描いた。そこで自分は自分の武器を使って反撃したのだ」-と述べ、火炎瓶を持った自由の女神に香港の活動家が跪く「偽物の神(偽神)」というCGを発表した。

 

 

烏合麒麟のソーシャルメディアのフォロワーの数は、その後100万人に増加し、中国のプロパガンダ・アートの新世代としての作品を称賛する人もいる。

「武漢日記」に対する批判作品「臣下に冠を授ける(為弄臣加冕)」


また、「臣下に冠を授ける(為弄臣加冕)」という、刃物が刺さった血染めの本を手にかしずくピエロに王様が冠を授ける絵を微博で発表している。これは、国際的な反響を呼んだ「武漢日記」が海外で出版された方方に対する批判だという。

 

「自分は断固とした国家主義者だ。自分はまず中国人であり、その次に文芸工作者なのだ。創作は自由だが、国家意識を持たねばならない。自分だったらまず外国での出版を断っていただろう」彼は番組でこう語っている。



【美術解説】SABO「SAY HER NAME」

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SABO『SAY HER NAME』

左翼のレトリックでトランプ支援者の死を讃える


概要


ストリート・アーティストのSABOが、2021年1月6日の米国議事堂抗議事件で警察に銃撃され死亡した女性アシュリ・バビットを讃えるポスター『SAY HER NAME』を作成し、公開している。

 

バビット(35歳)は、米国議会議事堂を突破した暴徒の1人だった。彼女は、混乱の中で亡くなった5人の1人として米国議会議事堂警察によって特定されている。

 

議事堂での暴動時に現場にいたアーティストのSABOは左翼を挑発することで知られるストリート・アーティスト左翼政治家ハリウッド、そしてトランプをからかうことでよく知られている。

 

今回は、SABOがラック・ライブズ・マターなどの左翼のレトリックを使って、彼女の死亡事件に対して注意を呼び起こしている。彼は、「トランプ・サポーターズ・ライフ」が忘れられないことを願い、無料でダウンロードできるバビットのポスターを作成した。

 

SABOがPJメディアに語ったところによれば、左翼は「武装していない人は危険ではない」と言い続けているという。しかし、「バビットは当時丸腰で、抗議者の多くは建物内で護衛されていた」とSABOは語り、

 

「なのに、なぜ彼女は殺されたのですか? 夏の間、法執行機関が何もしないとき、ブラック・ライブズ・マターやアンティファが東から西まで放火し、略奪し、人を殺すのを見てきました。なぜ、彼女が撃たれるのか?

 

ブリーナ・テイラーと違って、アシュリは車のトラックの中に死体があったことはなかった。ボーイフレンドは麻薬の売人ではなかった ジョージ・フロイドと違って彼女は麻薬もやっていなかったそ、警察に殺されたときも抵抗していなかった。 

 

このポスターを無料でダウンロードして彼女の名誉のために使って欲しい。左翼が自分たちの死んだ人たちを称えたように。」

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レオナルド・ダ・ヴィンチのパーソナルライフ

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性愛


レオナルドは、セシリア・ガレラーニとの交友関係や、フェラーラ公エルコレ1世・デステの娘で、マントヴァ侯妃イザベラとミラノ公妃ベアトリーチェの姉妹の交友関係を除いては、女性との親密な関係はなかったと思われる。

 

マントゥーアの旅行中に、イザベラの肖像画を描いたと思われるが、それは現在は消失している。しかし2013年10月、スイス銀行の貴重品保管庫から彩色された肖像画が発見され、当局に押収された。レオナルド研究家であるペドレッティ教授の鑑定では、レオナルドの真筆であることはほぼ間違いないとみられている。

 

レオナルドは私生活を秘密にしていた。彼のセクシュアリティは、風刺、分析、推測の対象となってきた。レオナルドのセクシャリティの分析は16世紀半ばに始まり、19世紀から20世紀にかけて再燃したという。特にジグムント・フロイトの『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼少期の記憶』が有名な批評である。

 

レオナルドと最も親密な関係を築いていたのは、おそらく弟子のサライとメルツィであろう。メルツィは、レオナルドの兄弟にレオナルドの訃報を知らせるため手紙を書いており、そこで、レオナルドの弟子たちへの気持ちは愛情と情熱の両方があったと語っている。

 

弟子とレオナルドの関係は、性的またはエロティックな性質のものであったと16世紀から主張されている。1476年、彼が24歳の時の法廷記録には、レオナルドと他の3人の若い男性が、有名な男性娼婦が関与した事件でソドミーの罪に問われたと記録されている。

 

告訴は証拠不十分で却下されたが、被告人の一人であるリオナルド・デ・トルナブオーニがロレンツォ・デ・メディチと親戚関係にあったことから、メディチ一族がその影響力を行使して告訴を取り下げたと推測されている。

 

その事件以来、レオナルドの同性愛疑惑や芸術表現おける同性愛についてさまざまな書かれてた。特に『洗礼者聖ヨハネ』と『バッカス』といった絵画作品、そしてより明確にはエロティックなドローイング作品で証拠が残っている両性具有的な性愛表現にエロティシズムについて批評されてきた。




【美術解説】市場大介「日本で最もグロテスクな作品を描く美術家」

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市場大介 / Daisuke Ichiba

日本で最もグロテスクな作品を描く美術家


概要


生年月日 1963年4月7日
国籍 日本
表現様式 絵画、漫画、写真、冊子

市場大介(1963年4月7日生まれ)は東京を基盤に活動している日本の画家、漫画家、写真家。熊本県出身。独学で美術を学ぶ。根本敬と並んで最もグロテスクな芸術家として紹介されることが多いが、根本のように商業誌での全国活動はほぼなく、東京ローカルと世界(おもに欧米圏)の両極で活動、評価されている。

 

おもにグロテスク、エロティシズム、処女、母を主題とした作品を描いており、作品の多くは冊子形式で自費出版されている。白い紙に墨で絵を描くスタイルで、色はほとんど使われない。

 

反芸術運動ダダイズムの影響を受け、そこに自分の求めていた芸術スタイルを見つけ、自身の芸術様式「バダイズム」を作り上げる。

 

1990年に初の冊子形式作品『三十七才落し子』を発刊。これ以降作品は1、2年に一冊のペースで発表しており、中野・タコシェや高円寺の古着屋など中央線沿線の店で販売されていた(現在も販売している)。なお、一般大手書店にも委託販売の営業もしているが、「内容が過激過ぎておけない」などの理由で断られている

 

2006年にフランスの「le monte en l'air」にて初個展を開催し画家宣言する。翌年にも同地で個展を開いている。日本が初個展ではない。2008~2010年同地で「LE JAPON PARANO」という日本人作家との合同展を企画。

 

それ以降はパリのArsenicgalerieにて年に1度のペースで個展をし、現在市場ウイルスがパリを中心としたヨーロッパで感染を拡大している。日本ではタコシェでも年に1度ぐらいのペースで個展を開催しており、感染は抑えられている。

略歴


若齢期


1963年4月7日、日本の熊本県で生まれる。5、6歳の頃に滅多に降らない雪が降り、積もった美しい雪の地面に足を一歩踏み入れたときになんともいえない快感を覚え、処女地に突入し、思いのままに足跡を残すという創作に目覚める。これが市場の創作の原点だという。

 

絵もその頃に描き始める。漫画のキャラクターを模写したり、同級生を虐待する漫画を描いていた。後頭部が長いノブアキって男の顔の人形を作って学校に持っていって針でつついてたりもしていた。その頃は絵は描いていない。しかし、絵よりも昆虫や魚を捕まえたり、女子生徒のスカートめくりのほうに熱中する。中学生から社会人になるまで絵はほとんど描いていない。

 

8歳のときに母親ががんで亡くなる。布団の中の母親が市場を見つめ泡をふいて絶命するが、当時の市場には何が起きているのかわからなかったという。しかし、20歳の頃、酔っ払ったときに自転車がぎっしり並んだ狭い路地の薄明かりの中で、突如、母の死がよみがえり母のために泣き出す。母の死と母の死のときに泣けなかった己の悔しさに対して二重の涙を流したという。以降、「母」は市場の主題のひとつになる。

 

途中、父親の転勤で北海道へ移る。子どもの頃は野球選手になりたかったが、才能がないので高校に入ってからバンドに目覚め、ショーケンのバンド「ドンファン」のコピーバンドをしていた。

 

卒業後、上京して国分寺に住み古着屋のアルバイトをする。この頃から絵を描き始め、古着屋の社長から影響を受ける。

芸術家デビュー


20代なかばに、日本のサブカルチャームーブメントの洗礼を受け、眠っていた絵魂が目覚める。当時は横尾忠則や粟津潔や丸尾末広のアングラアーティストの作品に影響を受け、彼らの作風を模倣して趣味で描いていたわけで、特に職業アーティストを目指していたわけではなかった。

 

市場が働いていた古着屋の先輩が独立することになり、看板制作の依頼を頼まれたのをきっかけに、「描く」という行為に改めて関心を描くようになる。大きな板に白いペンキを塗ることに快感を覚えたという。

 

独学で本格的に絵の勉強を始めるため、図書館へ行きデッサンを学ぼうとしたが、不毛な作業に3日で飽きる。まともな画家の道は捨て、自分の絵をただ好きなように描こうと決意する。以後、少女の首が吹っ飛んだり、腸が飛び出したり、化け物が酒盛りをしたり、意味のわからない気味が悪い模様の緻密画などを描く。

 

ちょうどその頃に、反芸術運動ダダイズムの影響を受け、そこに自分の求めていた芸術スタイルを見つけ、ますますデッサンのようなファイン・アートに対して自身から距離を置くようになる。

 

ただ、「芸術に対する既成概念や方法論を破壊する」というダダイズムの精神に興味はもったが、ダダイストたちのような多様なメディウムを使った作品には関心がなく、絵画という古典的なメディウムの中で独自の反芸術を行なう。ダダイストたちがしていた何でもありの無制限の表現形態よりも「制限された」中で「外れる」ほうが「自由」を感じるからだという。

 

その後、売れることも称賛もされることもない様式なのに、一方で世間や人に合わせて描かねばならぬことに葛藤を覚えながらアーティストの道を進むことになる。

冊子での表現活動


1990年に初の冊子形式作品『三十七才落し子』を発刊する。タイトルは母親が自身を生んだときの年齢からきているという。根本敬がこの処女作品を買ってくれたという。これ以降作品は1、2年に一冊のペースで発表しており、中野・タコシェや高円寺の古着屋など中央線沿線の店で販売されていた。

 

また、故・山田花子も最初期に市場大介を発見し、さらに生前、山田は市場と手紙のやり取りをしていたことがある。残念ながらその手紙は存在していない。山田の『自殺直前日記』に好きな芸術家リストで、ガロ系作家とともに市場の名前が挙げられている。また、日記に書かれている「詩人・鈴木ハルヨとして再出発する」の鈴木ハルヨとは、1991年の自費出版作品『市場大介之逃場無し○』のノンブルに記載されている女の名前「鈴木ハルヨ」から由来しているという。

 

自費出版で表現活動するかたわら、サブカルチャー系の出版社を回って営業するがどこからもよい反応はなく、また、『ガロ』にも1、2回応募したことがあるが掲載されたことはない。一般大手書店にも委託販売の営業もしているが、「内容が過激過ぎておけない」などの理由で断られている。

 

こうした、拒絶反応が積り積もり、市場の作品はさらに暴力的で鬱屈したものになっていく。

 

1997年にはコンビニで買物をした際に出会った口の曲がった若い女子店員に影響を受ける。怒り、懐しさ、哀れさ、恋心、泣かなかった自分、己のフラストレーション、真理、嘘、愛、糞、夢、蛆虫、もろもろの混沌が渦巻きはじめそれらを還元すべく芸術活動にのめりこむ。これをきっかけに8月に市場作品のおもな女性キャラの『美杖エズミ(みづええずみ)』が誕生した。これ以前に女性に名前を付けキャラを作るという発想はなかったという。

 

美杖エズミとは世間と市場を繋ぐ仲介的な役割を持ちつつそんなことはどうでもいい、ぶち壊してやるという芸術魂、創造と破壊の両性具有者の表現であるという。

 

エズミは左目が潰れておりガーゼで隠しているが、市場はここに人間性を描いているおり、「目さえ潰れてなければ美人なのにね」という感想は「みんな人間はどこか欠陥があるのにそれに気が付かないのね」と同義であるという。この頃に、パブロ・ピカソの偉大さに気付き影響を受けるようになる。また、美人画家という名乗るようになる。

市場大介『美杖エズミ』(1997年)
市場大介『美杖エズミ』(1997年)

『へそガエル』という漫画を作った頃に転換期を迎える。この漫画はこれまでのエログロ路線と異なるゆるいカエルのキャラクターが登場する。

 

知り合いのバンド「面影ラッキーホール」のメンバーのaCKyが、市場に「内容がちょっと変でも絵柄がかわいければ、もう少し興味をもってくれるんじゃないか」ってアドバイスを受け、制作したという。

 

その後、今にいたるまでゆるいキャラクターはエログロな画風と並列して描かれる。

市場大介『へそガエル』(1998年)
市場大介『へそガエル』(1998年)
エログロ絵画とともにこのようにゆるキャラが描かれることが多くなる。
エログロ絵画とともにこのようにゆるキャラが描かれることが多くなる。

自動書記(オートマティスム)


続く1999年の作品『地獄』で時代劇漫画に挑戦するが、途中でセリフを書く事がめんどうになり、存在しない言語や目に付いた新聞や雑誌の文字を取り入れるようになる

 

外国の雑誌やポスターを見たときに意味はわからないが文字の並びやレイアウトにかっこよく感じる感覚を取り入れ、日本語を知らない外国人がどう反応するか知りたかったという。それが、現在まで市場作品に続いているダダイズムで使われていたタイポグラフィである。また、本格的にシュルレアリスム自動書記(オートマティスム)方式が標準的な制作手法の1つになる。

 

2004年の500ページの大作漫画『アナザーホワイト』は、エズミだけは主人公にしておいてあとは思いつきで描いていく自動書記漫画の集大成であるという。

市場大介『アナザーホワイト』(2004年)
市場大介『アナザーホワイト』(2004年)

海外での活動


2000年代初頭、パリのバスチーユ地区にあったフランスと日本のアンダーグラウンド文化の架け橋的な存在だったレコードショップ「ビンボータワー」で、パキート・ボリノが市場大介の存在を発見する。SONOREが出版していた『JAPANESE INDEPENDENT MUSIC』という本の表紙を市場が描いていたという。

 

パキートはマルセイユを拠点に活動する出版芸術家で、自らの嗅覚で見出した世界中のアーティストたちにコンタクトをとり、シルクスクリーン刷りの色鮮やかなアートブックやポスターを制作していた。

 

市場の連絡先を知人から教えてもらったパキートは、自身が出版しているジン「オビタル・ブリュ」の特集で市場を紹介する。その後、フランスのリザード・ノワール(LIZARD NOIR)という出版社の目に留まり、市場の本を編集すると、一方のパキートも出版芸術「ル・デニエル・クリ」を始め、本格的に市場作品をてがけ、日本よりフランスで名が知られるようになる。

 

2006年にギャラリーでの初個展をパリのLe Monte-en-l'airで開催。以後、毎年フランスを中心にデンマーク、スイス、ベルリンなどおもにヨーロッパで個展を開催している。

 

また、パキートと日本のヘタウマ作家たちとのつながりから派生した「MANGARO/HETA-UMA展」に参加する。この展覧会は、湯村輝彦をはじめ、今日までのヘタウマ作家約50人+フランス内外の作家を加えて100人規模の作家が紹介された。

年譜表


冊子


1990年:『三十七才落とし子』

1990年:『顔』

1991年:『市場大介之逃げ場なし○』

1992年:『BADA』(cosmo9)

1994年:『三十七才落とし子小百合編」(火星書房)

1996年:『女の心』(cosmo9)

1997年:『美杖エズミ』(cosmo9)

1998年:『へそガエル』(cosmo9)

1999年:『地獄』(cosmo9)

2000年:『90年代まぼろし』(cosmo9)

2000年:『DAISUKE ICHIBA PICTURING BEAUTY KOHAL』(cosmo9)

2001年:『残酷ネクスト」(cosmo9)

2001年:『きっちりしてます』(水着出版)

2002年:『未完の極北』(cosmo9)

2004年:『アナザーホワイト』(cosmo9)

2005年:『豚』(cosmo9)

2005年:『へそガエル・エズミの覆面作家(再版)』(cosmo9)

2006年:『市場大介美人画集下水道鯰子の生涯』(BADA)

2007年:『犬死OK』(BADA)

2008年:『METHYLETHYLKETONEPEROXIDE』(BADA)

2009年:『ミダレガミ』(BADA)

2011年:『KSKHH 高卒真理兄妹華と光』(BADA)

2012年:『素敵』(BADA)

2013年:『心臓やぶり』(BADA)

2014年:『下水道鯰子の生涯(再版)』(BADA)

2015年:『素敵2』(BADA)

2016年:『迷惑派』(BADA)

2020年:『もう、帰らない』(BADA)

バーコード付き冊子


2013年:『badaism』(書苑新社 2013年10月)画集 ISBN 978-4883751563

2014年:『自家中毒OVERDUB』(青林工藝舎 2014年10月) 画集 ISBN 978-4883794034

その他の出版(おもに海外)


2005年:『EZUMI』LEZARD NOIR publication(パリ)

2006年:『Meaning Without Meaning』JHON Portfolio bimestriel & artbook!(フランス)

2007年:『el suicide delamoe』lospapelespintados(マドリード)

2007年:『ichibadaisukebijingaka』Le Dermer Cri(マルセイユ)

2007年:『yokai bar』Le Dernier Cri(マルセイユ)

2009年:『VOVO』Le Dernier Cri(マルセイユ)

2009年:『Grossesse Nerveuse』 United Dead Artists(パリ)

2011年:『album』maki(マルセイユ)

2012年:『BADAFOTO』Le Dernier Cri(マルセイユ)

2012年:『Kuso-Rare』Le Dernier Cri(マルセイユ)

2013年:『ONNA』maki(マルセイユ)

2013年:『Romance Mure』 United Dead Artists(パリ)

2013年:『badaism』ATELIER THIRD(日本)

個展


2002年:未完の極北(中野・タコシェ)

2006年:Le Monte-en-l'air(パリ)

2006年:Le Dernier Cri(マルセイユ)

2007年:Le Monte-en-l'air(パリ)

2008年:菊とファミコン(銀座・ヴァニラ画廊)

2008年:「DAISUKE ICHIBA & JAPON PARANO」Le Monte-en-l'air(パリ)

2008年:「EXPOSITION ICHIBA DAISUKE in LYON」(フランス)

2009年:「SMITTEKILDE ANTI SKUM」exhibition(デンマーク)

2009年:「FUMETTO2009」commercial Art-Festival exhibition(スイス)

2009年:「JAPON PARANO2」Le Monte-en-l'air(パリ)

2010年:「Exhibition ICHIBA DAISUKE 2 in LYON」(フランス)

2010年:「40億年塵の欲情」(中野・タコシェ)

2010年:「MESS JAPAN」(カナダ)

2010年:「ヨナの食卓」(渋谷・ポスターハリスギャラリー)

2010年:「JAPON PARANO3」Le Monte-en-l'air(パリ)

2010年:「PHOTO Exhibition in Le DernierCri(マルセイユ)

2011年:「Les Primitifs Contemporains」Nuvish-Moolines-Ichiba(パリ)

2011年:「Angura-Expermental Art and Musik from Japan」(ベルリン)

2011年:「Daisuke Ichiba and Yasutoshi Yoshida(ベルリン)

2011年:「DNAショッピング」(渋谷・ポスタリーハリスギャラリー)

2012年:「COMMUNIQUE DE PRESSE EXPOSITION Daisuke Ichiba」(パリ・Arsenicgalerie)

2012年:「胃画廊展」(渋谷・ポスターハリスギャラリー)

2012年:「DAISUKE ICHIBA Exhibition」(マニラ・Pablo Fort)

2013年:「le monte-en-l'air presente exhibition」(パリ・DESSIN[13])

2013年:「Arsenicgalerie(ambiguous hana)」(パリ)

2013年:「BADAISM」(渋谷・ポスターハリスギャラリー)

2014年:「Daisuke Ichiba Exposition 2014」(パリ・Arsenicgalerie)


■参考文献

・市場大介公式サイト

・『自家中毒OVERDUB』(青林工藝舎)

・『アックス101号』(青林工藝舎)


【美術解説】四谷シモン「日本の球体関節人形シーンの草分け」

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四谷シモン /Shimon Yotsuya

日本の球体関節人形シーンの草分け


概要


生年月日 1944年7月12日生まれ
国籍 日本
表現形式 人形、芝居
ムーブメント 昭和アヴァンギャルド
関連人物 澁澤龍彦金子國義
代表作

・「ドイツの少年」

・「未来と過去のイヴ」

・「慎み深さのない人形」

四谷シモン(1944年〜)は日本の人形作家。俳優。1960年代の昭和アヴァンギャルドムーブメントを支えた人物の一人。「人形は人形である」という哲学から出発したが、「人形は自分で自分は人形」という「自己愛」と「人形愛」という哲学に次第に移行した。

 

幼少のころから人形に関心を持ち、ぬいぐるみ技法で制作を続けていたが、雑誌『新婦人』で澁澤龍彦が紹介していたハンス・ベルメールの作品に多大な影響を受け、本格的な球体関節人形の創作を始める。

 

親友の金子國義とともに澁澤龍彦邸を訪れ、交友を深める。澁澤龍彦の後押しを受けて、銀座の青木画廊で初の個展『未来と過去のイヴ』を開催。一般的に人形作家として知られるようになる。

 

俳優やタレントとしても活躍。特に唐十郎率いる「状況劇場」では女形として人気を博し、寺山修司率いる「天井桟敷」とともに昭和アヴァンギャルドムーブメントを支えた。

 

78年には、現在にまで続く「エコール・ド・シモン(四谷シモン人形学校)」を開設。以降、人形教室を経営しながら、コンスタントに人形制作と作品の発表を続けている。

略歴


幼少期


四谷シモン(本名:小林兼光)は昭和19年7月12日五反田で、父の小林兼次郎と母の都多世の間に生まれた。

 

父兼次郎は秋田出身で独学でバイオリンを学び、タンゴの楽士として活動していた。母都多世は、創作ダンスの先駆者である石井漠門下のダンサーで、戦後は浅草百万弗劇場の舞台に出演していた。立川や横須賀の基地の進駐軍に踊り子をあっせんして、ギャラのピンハネのようなこともしていたという。また、シモンには3才年下の弟、兼人がいる。

 

シモンは幼少の頃、家の縁側にすわって紙皿にクレヨンで絵を描いたり、父が買ってきた人形たちを集めて、ひとつの家族のようにして遊んでいたという。

 

両親はいつも喧嘩をしており、喧嘩の間、シモンと弟は放置され、すがるものがないのでただ泣くことの繰り返しだった。その幼少期の家庭的不和のトラウマがのちに人形を作るきっかけになったと話している。

 

また、シモンは母が所属する三遊亭歌笑の踊り子巡業の一座に加わり、その巡業の高座にも上げられたが、舞台の上ではなぜか平気で、幼少期から舞台度胸のある子どもだったという。のちに、シモンはアングラ演劇に参加したり、芸能界でも活躍する。

 

幼少期の強烈な記憶のひとつに母親のストリップ姿があるという。10才にもなっていないシモンを母はストリップ劇場に連れていき、ストリップをして踊っている母の姿を見せられていた

 

9才の頃、母が家出をしてほかの男のもとへ行く。シモンはふと「この世ではだめなものはだめなんだ。どんなに望んでもこの願いはかなわないんだ」と思うようになる。その後、母と連絡がとれると、シモンと弟は母親が妾として1人暮らししている根津のもとへ移る。このとき「この世の仕組み」に気がつき、「人生が始まった」と思ったという。

 

妾宅の家は、春画が春画が描かれた絵皿や盃だらけだった。男が家にくるとシモンは追い出され、外で時間を潰す必要があり、映画館で映画をよくみていたという。男がいないときは、母と大衆演劇をよく見に行っていたという。

 

11才のとき、母が小料理屋を経営することになるり深川へ移る。「小菊」という店で新宿ゴールデン街のような二階建ての一階がカウター七席ぐらいのせまい店で、2階が住居だった。

 

あるとき、男が来て「おかあちゃんはどこだ」と訊かれ「知らないよ」と答えると、いきなり頭をひっぱたかれる。このときシモンは、愛人の男の個人を超えて、社会とか世間とかいうもの全体に対して復讐心が心に深く刻まれる。「どうしようもない世間のしくみ」を明確に理解したという。

 

昭和31年、シモン一家は王子へ移る。この頃からシモンは布を使った人形を作りはじめる。川崎プッペの本を見ながら、ジョーゼットという布で人形を作っていたという。

 

王子に越したあと、母から父に会いに行くように言われひとり、北池袋のバラックの長屋でゴミの山のようなところに住んでいた父のもとへ行く。絵具をもらったが、父の家を出たあとすぐに捨て「汚い!」という言葉だけが心の中に渦巻く汚い!」という言葉だけすべてを「関係ない」ことにして切り捨てたかったという。

 

王子中学に入学。友人もできなかったシモンはますます人形制作に没頭するようになる。また、人形作りの林俊郎のアトリエをたずね、人形作りのアシスタントになる。学校の授業が終わると毎日赤羽のアトリエへ通い、手伝いをした。ここでは、生まれて初めてプロの人形作家からぬいぐるみ作りの技術を覚える。

 

中学二年のときに、人形作家・川崎プッペのアトリエを訪ねる。プッペは戦前から有名で、中原淳一たちとともに活躍していた。シモンは『フランス人形のやさしい作り方』という本で以前からプッペの影響を受けていた。

 

母親の再婚をきっかけに原宿へ移り、外苑中学に転向する。ここでシモンは新宿や渋谷の愚連隊と関係している悪い連中と親しくなり、不良になっていく。外苑中学卒業後、進学せずしばらくぶらぶらした生活を続け、中野の洋品店キクヤでアルバイトをしていたときに栄養不足が原因で肋膜炎になり、入院する。

四谷シモンの母
四谷シモンの母

新宿へ


退院して回復すると、酒場でアルバイトを始め、新宿へ移り、これまでの昼の仕事から夜の仕事へ変わっていく。この頃、ロカビリーの全盛時代で、酒場には連日生バンドが演奏しており、ロカビリーを見ているうちに自分で歌いたいと思うようになり、ボーカル教室に通い始める。

 

また同時期、ジャズ喫茶で金子國義と知り合い、金子を通じてコシノジュンコとも知り合うようになる。この頃知り合った彼らがシモンの精神の核になる。

 

酒場のアルバイトで何軒か転々しているうち、そのなかの一軒で流行のモダン・ジャズを流している店があった。店のマスターが女性ボーカル好きで、ジュリー・ロンドン、クリス・コーナー、ニーナ・シモンらの輸入盤をいつもかけており、そのときにシモンはニーナ・シモンに影響を受け、彼女のレコードを購入するようになり、金子が「シモン」というニックネームを付けたので、このころから「シモン」と名乗りはじめる。四谷はまだなく、単純に「シモン」と呼ばれていた。

 

金子が務めていたデザイン会社をやめて四谷左門町へ移ると、四谷で毎日、当時の仲間で集まりおしゃべりをする生活を続ける。当時、男ばかりの集まりの「世田谷婦人会」というのがあり、それを真似て、金子やシモンをはじめとした四谷の男たちの集まりの四谷婦人会」というサークルを作り始める。これが四谷シモンの名前の由来となる。

 

また、この頃、雑誌『それいゆ』のスター内藤ルネや女優としてデビューする前の江波杏子とも知り合う。この頃のシモンはなんとなくいつも近しい人達と一緒にいて、若くて貧乏でなんとも定まらないボワーっとした状態だったが、この頃のメンバーは将来に色んな意味で関わってきた。

 

また、酒場でアルバイトをするかたわら、朝日新聞社主催の現代人形美術展に応募すると、一発で入選し、人形作家としてスタート地点に立つことになる。

 

人形を作る一方で、ロカビリー歌手にもなりたかったので、歌やピアノのレッスンを重ねているうちに、紹介でロリポップというバンドで歌手をすることになる。ロリポップは、佐々木功の前座バンドとして活動することになった。

 

しかし、あまりにハードなスケジュールのため過労で入院し、すっかり体力に自身がなくなりロカビリー歌手をやめる。

 

また、酒場のアルバイトに戻るかたわら人形制作を再び始めていると、酒場のお客さんからサルバドール・ダリという画家の作品を見てごらん」と教えてもらい、ダリの画集を手に入れ、シュルレアリスムの表現世界に熱中しはじめる。

 

その後、四谷片町へ移り、昼は人形を作り、夜は新宿で飲む毎日を過ごす。金子は四谷左門町で油絵を描き始めていた。

 

1965年の春、酒場でのアルバイトを続けながら漠然と人形を作っていたときに大きな転機が訪れる。大岡山の書店で『新婦人』という雑誌を手にとり、パラパラめくっているとドイツのシュルレアリスト、ハンス・ベルメールの人形の写真が掲載されており、見た瞬間「何、これが人形?」という火花のような感覚が身体を貫く。

 

写真を紹介した記事の中に「女の標識としての肉体の痙攣」という意味の言葉があったが、シモンは文字とおりにその写真に痙攣したという。そして、その日から、ハンス・ベルメールという名前とともにそれを紹介していた澁澤龍彦という文学者の名前が特別なものになった。

 

それまで知っていた人形はポーズがついたものがほとんだったが、ベルメールの人形は動かすことができポーズが固定されないし、タイトルもなかった。「人形」はただ「人形」なのだという当たり前のことを教えてくれ、人形はただ「かわいい」人形本来の姿に気づかせ、出会わせてくれたという。

澁澤龍彦、龍子夫人
澁澤龍彦、龍子夫人
江波杏子、金子國義
江波杏子、金子國義

四谷シモンの誕生


ベルメールと澁澤龍彦にショックを受けてまもなく、自分の部屋を飾る目的で油絵を描いていた金子國義の絵を見て驚いた高橋睦郎が澁澤龍彦を金子の部屋に連れてくる。澁澤はすぐに金子の作品にほれこみ、金子と澁澤の蜜月が始まる。

 

その余波で、金子はシモンを「A LA MAISON DE M.CIVECAWA」(澁澤さんの家の方へ)というサブタイトルがついた土方巽の暗黒舞踏公園「バラ色ダンス」に誘い、シモンはそこで初めてみる暗黒舞踏に強い衝撃を受け、土方巽の魅力にしびれる

 

翌1966年、澁澤が北鎌倉の新居に飾る絵と、『O嬢の物語』の挿絵を金子に依頼するようになると、シモンは澁澤の今までの本を読み始め、文学者・澁澤龍彦のすごさや、当時進んでいたサド裁判の意味をひしひしと感じ始め、澁澤龍彦に関心を持ち始める。

 

金子と交流があったことから、1967年の正月、金子に誘われて北鎌倉の澁澤邸を訪問し、澁澤龍彦と初めて会合した。

 

また、ちょうどそろ頃、唐十郎率いる状況劇場に参加していた金子から芝居で使う人形を作って欲しいと依頼される。その頃は、舞台に出すような大きな人形を作ったことがないのでイメージがあわず、結局、金子が粘土で即興的に作ったものを使うことになったが、公演当日、シモンは金子を訪ねて、新宿のピットインで開催される状況劇場の公園「時夜無銀髪風人<ジョン・シルバー>」を訪ねる。また、そこはいつもシュルレアリスムの話をしているという噂だった。

 

そこで、金子から劇団主催者の唐十郎を紹介され、唐十郎という人に惹きつけられる。彼は両手に山盛りのヘアピンを持ち、「これ全部僕の頭にさしてくれない?」といった。そのとき、こういう変な人にようやく会えた、そう思ったという。世の中の異様なもの、奇怪なるものに憧れていたシモンは、状況劇場での表現に火照るような喜びを感じる。

 

また、客席には、詩人の瀧口修造、澁澤龍彦、種村李弘らを代表する作家・文化人が勢揃いしていた。異常なものに惹かれる性癖、シモンの中にある「異常願望」が、新宿の湿った闇と唐十郎に出会いバチバチと発火しはじめたという。それから、シモンは唐の状況劇場に女優として参加することになる。このときの俳優名は「小林紫紋」だった。

 

草月会館の舞台を見た舞踏家の中嶋夏が、自身のリサイタルへの出演を依頼し、シモンは女装でヌードショーを行った。

 

また、この頃、ベルメールの写真の載っていた雑誌『新婦人』を手にとったきっかけとなった表紙イラストを担当していた宇野亜喜良、マリ夫妻と知り合う。マリ夫人からグラフィックデザイナーの植松國臣を紹介されると、彼から東急百貨店開業キャンペーンの仕事を頼まれるようになり、ポスター用の胸像のマネキンを制作することになる。このときに、雑誌で初めて「四谷シモン」の人形だとクレジットされた。

 

その後、状況劇場の紅テントの芝居『由井正雪』に「的場のお銀」役で出演する。この時から「四谷シモン」の芸名を使うようになった。

1971年 吸血鬼 四谷シモン:高石かつえ役 後方は根津甚八
1971年 吸血鬼 四谷シモン:高石かつえ役 後方は根津甚八

本格的な人形作家として活動


内藤ルネのアトリエで初めて西洋の球体関節人形を見たときから、シモンの人形創作の方向性は固まっていた。それは職人的な人形を作ることだった。

 

シモンにとって人形制作と芝居はまったく別のものである。芝居は即興的や発作的に表現できるが、人形制作にはそのような芸術的表現はないという。「芸術」とはほど遠い地味な作業をコツコツ続けていく必要があり、芝居と人形制作は全く別のもだから両立できたという。

 

嵐山光三郎が、自身が編集する雑誌『太陽』の昭和45年2月号「特集・世界の人形」で、シモンの創作活動を5ページにわたり紹介する。このなかで、18才のときの作品から、制作中のものまで、3作品がカラーで大きく取り上げられ、このことは後に人形作家として活動していくうえで、大きな力となった。

 

同時期、植松國臣から、大阪万国博覧会の仕事の手伝いを依頼され、繊維館パビリオンの空間を占めるための人形を制作することになる。当時、シモンはシュルレアリスムの画集をよく見ていて影響を受けていたこともあり、ルネ・マグリットの代表作である山高帽に黒いフロックコートの男をモチーフとした作品『ルネ・マグリットの男』を制作する案を出す。人形の制作はマネキンの会社に依頼し、2メートルくらいある大きな人形を15体制作し、パビリオンに設置した。

モデルとして活動


写真家の細江英公からモデルになってほしいと要請される。被写体がこれまで実際に過ごした街を背景に写真を撮るというコンセプトで、東京を背景にシモンに出演してほしいというものだった。細江は以前に土方巽を故郷の秋田で撮影した作品『かまいたち』を作っており、その流れの一環だった。

 

シモンは浅草の芸者が着ていた着物を借りて、白塗りで東京のあちこちの街で撮影された。この細江によるシモンの写真は、『季刊・写真映像9』の巻頭に掲載され、その後抜き刷り作品も作ることになり『四谷シモンのプレリュード』という三十部限定の私家版写真集となった。

 

このときの写真は、「シモン 私風景」というタイトルでのちにロンドンのテート・モダンで展示され、同美術館のコレクションにもなっている。

細江英公『荒川放水路河川敷、四ツ木付近』 1971年
細江英公『荒川放水路河川敷、四ツ木付近』 1971年

1972年2月、紀伊國屋画廊にて、朝倉俊博、有田泰而、石元泰博、加納典明、沢渡朔、篠山紀信、十文字美信、細江英公、宮崎皓一、森田一朗による「10人の写真家による被写体四谷シモン展」開催する。

 

当時を代表する総勢十名の写真家がシモンを被写体にした作品を5点ずつ出品するものだったが、シモンは被写体だけでは満足できず、人形作品も出品する。

 

このときに出品されたのが『ドイツの少年』である。展覧会は大盛況で、『ドイツの少年』を中心に土方巽、四谷シモン、寺山修司、唐十郎らが並んでいる写真をよく見かけるが、それはこの展覧会のオープニングの細江の写真である。『ドイツの少年』は、人形作家として本格的に出発する手がかりとなった。

 

シモンは人形を人間に近づけたいという理想、人間のように見せたいという願望が強くある。そのほうがゾクゾクするからだが、リアルな人間の人形を追求すると死体が人形にもっとも近くなるという。そのため、シモンにとって良い人形とは「このお人形さん、まるで生きているみたい」と言われるような人形ではなく、息がとまって死んでいる人間に近い、凍てついた人体表現だという。

 

楳図かずおは、雑誌「プリンツ21」シモンの人形について次のように批評している。

「シモンさんの人形はきれいなんだけど、エロティック、そして大胆なポーズをとらずにアピールしているのが面白い。表情やポーズで媚びないで、あくまで人形は人形っていうかたち。人形っていうよりはもう「死体」ですね。シモンさんの作品は人形から「死体」に進化している。それって素晴らしいですよ。」

 

また、この写真展は多くのカメラ雑誌に取り上げられる一方、これまでアングラ劇団の役者として印象が強かったシモンが人形作家として注目される一因となった展覧会でもあった。

細江英公『10人の写真家による被写体四谷シモン展』1972年
細江英公『10人の写真家による被写体四谷シモン展』1972年

初個展「未来と過去のイヴ」で人形作家


翌1973年4月、青木画廊を訪ね、10月頃に展覧会をさせてほしいと頼み、同時にお金を貸してほしいと頼む。人形を作るにも収入がなく、家賃も払えない状態だった。青木画廊のオーナー・青木外司は快く承諾してくれ、何度かにわけてお金を貸した。

 

状況劇場の役者は1971年にやめていたので、その後は人形作りに没頭する日々となった。目が醒めたら飯を食ってすぐにとりかかり、限界がきたら寝る。ひたすらその繰り返しで半年間ぶっ続けで創作をしていた。

 

半年で、12体の人形を制作する。12体作ろうと思ったのは、漠然と一ダースにしたいという感覚だった。

 

個展のタイトル未来と過去のイヴは、澁澤龍彦に頼んでもらったオマージュから付けてたものである。当時、創作する人間にとって、澁澤から一筆もらうということは巨大な力があった。金子國義がのしあがったきっかけの個展タイトル「花咲く乙女たち」も澁澤が与えたオマージュだった。

 

個展の案内状には澁澤が付けたタイトルのほかに瀧口修造の「人形螺旋」という文章を掲載し、篠山紀信が撮影した写真が掲載された。

 

人形は初日に8体売れ、翌日12体すべて完売した。大成功だった。展覧会は朝日新聞の「展評」欄ほかいろいろな新聞で取り上げられた。新宿のアンダーグラウンドで生きてきたことが花開いたのだと思ったという。この展覧会によってシモンはようやく「人形作家」としてデビューする確信ができ、これで人形を作り続けていけると感じたという。

 

「未来と過去のイヴ」は金髪で青い目をして、赤い口紅をして、ハイヒールを履いているパターン化した人形である。

『未来と過去のイヴ 7』1973年
『未来と過去のイヴ 7』1973年

青木画廊での第一回個展のあと、シモンは今以上に自分流の人形感を模索する。当時の人形は作家はどこか人形を「アート」に高めたいと思いながら、逆に「アート」にとらわれて、結局手工芸品という枠から出ていないように思え、シモンは工芸的ではない、もっと違う人形の世界を模索し続け、ベルメールとの出会いからこれが自分進む方向だと決めた。

 

また、生活の基盤となる仕事として「十人の写真家による被写体四谷シモン展」をプロデュースしてくれた鶴本正三が経営する、コレクターズコレクションという会社を手伝う。そこで、人形を商品化し、シモンドールという40センチくらいの愛らしい人形が生まれた。三越で置くとよく売れたという。

 

また、海外から仕入れたアンティーク・ドールから型をとって再現するアンティーク・リプロダクションを行う。日本初の西洋のアンティーク・ドールの再現、量産だった。10万円以下で商品化したところ、大当たりとなった。

 

1976年、日本橋三越の「日本洋画商協同組合展・春の祭典」で、金子國義と二人展を開催する。このとき状況劇場の女形のようにギラギラした作品『慎み深さのない人形』を出品する。この人形はピエール・モリニエを意識した作品であるという。

『慎み深さのない人形』1975年
『慎み深さのない人形』1975年

略年譜


   
1944年 ・7月12日、東京・五反田に小林家の長男として生まれる。本名は小林兼光。父・兼治郎はタンゴの楽師、母・都多世は石井漠門下のダンサー。
1947年

・弟・兼人が生まれる。

・父と母の喧嘩が激しくなる。

1948年 ・母が落語家・三遊亭歌笑らの一座に加わり、高座に上がる。
1949年 ・父がお土産に人形を買って帰り、初めて人形と出会う。
1951年

・大田区立池雪小学校入学。

・小学校にて、父のヴィオリン引きで母がストリップを披露。

1953年 ・母がガソリンスタンドを経営する笠井という男の妾になり家出する。
1954年

・シモンと弟は母を探しにいき、そのまま根津八重垣町の母のもとに住みつく。

・文京区立根津小学校に転入。

・映画『新諸国物語 笛吹童子』を観てしゃれこうべのお面を作る。

1955年

・母が深川で小料理屋を開いたため、門前仲町に引っ越す。江東区立数矢小学校に転入。

・母に別の男の影がちらつく。苛立つ笠井氏にシモンは殴られる。世間に対して復讐心が生まれる。

・父が訪ねてくるが取り合わず。

1956年

・北区西ヶ原に引っ越す。北区立滝野川小学校に転入。

・母が麦茶屋をはじめ、笠井氏に買ってもらった王子の家に引っ越す。

・紙粘土や布を使った人形を作り始め、日本橋・高島屋の人形展に通うことになる。

・川崎プッペの存在を知る。

1957年

・北区立王子中学校に入学。

・日本橋・高島屋に飾られていた人形が好きになり作家・林俊郎を訪ねる。内弟子・坂内俊美の手伝いをすることになる。そこでぬいぐるみの技法をおぼえる。

1958年

・母再婚。弟とともに叔母の家に預けられる。王子の家を売り、再婚相手の娘も交えた五人暮らしをはじめるが、その後再婚相手の事業が失敗。行く先を失い原宿のアパートへ移る。母に言われて質屋に通う毎日。

川崎プッペのアトリエを弟と訪ねる。

・現代人形美術展や日展など人形を盛んに見に行くようになる。人形を作り続けたいと考える。

・学芸大学前に引っ越す。不良仲間と付き合い万引き事件をおこす。

・学区外に引っ越したことを理由に学校を辞めさせられ、外苑中学校に転入。

1959年 ・自由が丘に引っ越す。外苑中学校卒業。
1960年

・代々木の日本デザインスクールに入学するが、すぐ辞める。

・家を出て奥沢にひとりで住むことにする。自由が丘の寿司屋でバイトをしながら林俊郎に師事。

・制作した少女のぬいぐるみが2000円で売れる。

1961年

・坂内俊美の紹介でぬいぐるみ作家・水上雄次の内弟子となるが、水上雄次が癌になり独立をめぐる内弟子との争いが勃発。教室を辞める。

・中野の洋品店「キクヤ」に住み込みで勤めはじめるが栄養失調になり辞める。

・新宿のジャズ喫茶に出入りして川井昭一と知り合う。

・バーでバイトを始める。新宿ACBに出入りしてロカビリー歌手になろうかと思う。

・川井の紹介で金子國義と出会い、コシノジュンコ内藤ルネ江波杏子らと知り合う。

・歌手のニーナ・シモンが好きだったので『シモン』と名乗り始める。

1962年

・日立化成のカレンダーのためコマーシャル用人形を作る。

・朝日新聞社主催『現代人形美術展』にぬいぐるみ『希望』を出品し入選。

・ロカビリー歌手になるべくオーディションを受けて落選するが、佐々木功の前座歌手となる。公演について廻る日々。

 

1963年

・披露のため発生した昔の盲腸の傷が癒着、手術の疲労で虚脱状態になる。

・ロカビリーをやめて新宿のバーに戻る。

1965年

・四谷片町に引っ越す。

・大岡山の古本屋で『新婦人』を手に取り、そのなかで澁澤龍彦がハンス・ベルメールを紹介する記事「女の王国」を観て衝撃を受ける。今まで持っていたぬいぐるみの材料をすべて捨てる。内藤ルネが球体関節人形を持っていると聞いて見せてもらう。

・金子國義のアパートに遊びに行き、高橋睦郎を知る。高橋睦郎が、金子國義に澁澤龍彦、唐十郎を引きあわせたことが、のちに大きな転機をもたらす。

1967年

・1月、北鎌倉の澁澤龍彦邸を金子國義とともにはじめて訪れる。

・四谷坂町に引っ越し、弟と暮らす。

・新宿・ピットインの楽屋で唐十郎に出会う。

・状況劇場『ジョン・シルバー 新宿恋しや夜鳴篇』に出演、小林紫紋を名乗る。

・渋谷東急本店開店キャンペーンでディスプレイ用の人形を作る。

・パリへ発つが、日本語が通じないうえ寒いので20日あまりで帰国。出国のため取り寄せた戸籍謄本で父が死んだことを知る。

1968年

・状況劇場『由比正雪』に出演、四谷シモンを名乗る。

・この頃アンティークドールを売って生活する。

1969年

・状況劇場『腰巻お仙 振袖火事の巻』ゲリラ公演、『少女都市』に出演。状況劇場と天井桟敷の乱闘事件がおこり、警察に二晩拘留される。

・植松國臣から大阪万国博覧会「せんい館」の依頼をうけ『ルネ・マグリットの男』を制作。

・映画『新宿泥棒日記』に出演。

1970年

・大阪万国博覧会「せんい館」にて『ルネ・マグリットの男』を発表。

・嵐山光三郎編集の雑誌『太陽』に「犯された玩具」というサブタイトルで人形創作活動が紹介される。

・状況劇場『河原者の唄(ボタンヌ袋小路ショー)』、『愛のリサイタル』、『ジョン・シルバー 愛の乞食篇』に出演。

1971年

・等々力に引っ越す。

・状況劇場『吸血姫』に出演。

・状況劇場『あれからのジョン・シルバー』に出演。以後13年間、状況劇場の舞台には立たない。

・テイチクレコードより金井美恵子とともにレコード『春の画の館』を発売。歌詞が近親相姦を思わせるため放送禁止になる。

・細江英公の被写体となった『四谷シモンのプレリュード(シモン・ある私風景)』が雑誌『季刊写真映像』に発表され、私家版写真集刊行。

1972年

・新宿大京町に引っ越す。

・紀伊國屋画廊にて、朝倉俊博、有田泰而、石元泰博、加納典明、沢渡朔、篠山紀信、十文字美信、細江英公、宮崎皓一、森田一朗による「10人の写真家による被写体四谷シモン展」開催。

・雑誌『アサヒカメラ』にて篠山紀信が『ドイツの少年』を撮影。

1973年

・大岡山に引っ越す。

・歌謡ショー『唐十郎・四角いジャングルで唄う』に友情出演。

・青木画廊にて第一回個展「未来と過去のイヴ」を開催。澁澤龍彦からオマージュをもらう。

1974年

・『未来と過去のイブ』が「第11回日本国際美術展」(東京ビエンナーレ)の招待作品になる。

1975年

・エッセイ集『シモンのシモン』(イザラ書房)刊行。

・日本橋三越の「日本洋画商協同組合展・春の祭典」に出品。

1976年 ・かつての向田邦子が住んだという西麻布のマンションに引っ越す。
1978年

・人形学校「エコール・ド・シモン」開校。

・エッセイ集『機械仕掛の神』(イザラ書房)刊行。

・パリの装飾美術館の「間-日本の時空展」に出品。

1980年

・青木画廊にて第2回個展「機械仕掛の少年」開催。

・TBSドラマ『真夜中のヒーロー』の小道具に人形作品数体が使用される。

1981年

・紀伊國屋画廊にて「第一回エコール・ド・シモン人形展」開催。

1982年

・青木画廊にて個展「ラムール・ラムール」開催。

・富山県立近代美術館の「瀧口修造と戦後美術」に出品。

1983年

・アメーバ性肝膿瘍にかかり入院。

・紀伊國屋画廊にて「第2回エコールド・シモン人形展」開催。以後同画廊で毎年開催することになる。

1984年

・13年ぶりに状況劇場の公演、『あるタップ・ダンサーの物語』に出演。

・青木画廊にて個展「未来と過去のアダム」開催。

1985年

・NHK大河ドラマ『春の波濤』にレギュラー出演。

・澁澤龍彦監修『四谷シモン 人形愛』(美術出版社)刊行。

1986年

・TBSドラマ『女の人さし指』に準レギュラー出演。

・青木画廊にて個展「四谷シモン人形展1973-1986」開催。

1987年

澁澤龍彦死去。以後しばらく人形を作れなくなり、教会や座禅にでかける。

・松竹・関西テレビ制作ドラマ『女と男』に出演。

・TBSドラマ『麗子の足』に出演。

1988年

・澁澤龍彦の生前から着手している人形「天使シリーズ」の第1作目が完成。

・TBSドラマ『男どき女どき』に出演。

1989年

・TBSドラマ『わが母の教えたまいし』に出演。

・映画『キッチン』に出演。

・新版『シモンのシモン』(ライブ出版)刊行。

・宮城県美術館の「美術の国の人形たち」に出品。

1990年

・TBSドラマ「隣の神様」出演。

・TBSドラマ「思い出トランプ」出演。

1991年

・TBSドラマ『女正月』出演。

・青木画廊の「眼展 Augen Ⅶ」に出品

1992年

・TBSドラマ『華燭』出演。

・フジテレビドラマ「怪談 KAIDAN」出演。

・埼玉県立近代美術館の「アダムとイヴ」などに出品。

1993年

・TBSドラマ『家族の肖像』

・新版『四谷シモン 人形愛』(美術出版社)刊行。

1994年

・雑誌『ユリイカ』にて1年間、12冊にわたって「機械仕掛の少女 2」などが表紙として使用される。

・TBSドラマ『いとこ同志』出演。

・徳島県立近代美術館の「20世紀の人間像-4 現代との対話」などに出品。

1995年

・TBSドラマ『風を聴く日」出演。

・TBSドラマ『いつか見た青い空』出演。

・NHKドラマ『涙たたえて微笑せよ-明治の息子・島田清次郎』出演。

・aptギャラリーにて個展「四谷シモン展-人形」開催。

・青木画廊の「眼展 Augen X-Ⅱ」に出品。

1996年

・TBSドラマ『響子』に出演。

・TBSドラマ『言うなかれ君よ、別れを』に出演。

・O美術館の「ひとがた・カラクリ・ロボット展」などに出品。

1997年

・TBSドラマ『空の羊』に出演。

・TBSドラマ『蛍の宿』に出演。

・『日本の名随筆 別巻81人形』(作品社)に選者として参加。

1998年

・TBSドラマ『終わりのない童話』に出演。

・TBSドラマ『昭和のいのち』に出演。

・写真集『NARCISSISME』(佐野画廊)刊行。

・画廊春秋の「種村季弘<奇想の展覧会>実物大」などに出品。

1999年

・TBSドラマ『小鳥のくる日』に出演。

・TBSドラマ『あさき夢みし』に出演。

・中京大学アートギャラリーC・スクエアの「種村季弘<奇想の展覧会>実物大 Part Ⅱ」などに出品。

 

(参考文献:プリンツ21「四谷シモン」

人形作家「四谷シモン」


●ベルメール

「新婦人」という雑誌には僕の人生を変える一枚の写真が載っていました。ハンス・ベルメールの人形の写真です。全体は人間の下半身が2つ胴体でつながったようなぐにゃぐにゃとした形で、その股ぐらから少女の顔が突き出しているのです。瞬間、「何、これが人形?」ということが僕の体を火花のように貫きました。その写真を紹介した記事のなかに「女の標識としての肉体の痙攣」という意味の言葉がありましたが、僕は文字どおりその写真に痙攣したのです。エロティシズムに驚いたのではなく、「関節があって動くこと」、だからポーズがいらないということがいちばん大きかったのです。

 

●アングラ演劇

唐十郎と寺山修司はのふたりは、アングラ劇団を率いるものとして同じようにくくられることが多いようですが、芝居の方向性、作り方はまったく違っています。唐十郎は、子役出身の役者です。きちっと台本がある本格的な芝居を作るようになっていきます。自ら台本を書くという文学性のある世界に入っていくにつれ、芝居そのものが凝縮する方向に進んだのです。いろいろなものが一見脈絡なく絡み合った芝居で物語は複雑ですが、意外に情感的で、ドラマそのものを重視しています。ただ、そのドラマが要求するリアリティが劇場という「枠」に収まり切らないことからテント芝居にこだわっているのだと思います。唐の芝居は難解で、正直いって一度見ただけでは理解できません。何回かみているうちに、「あ、これがさっきのあれとつながっているのか、なるほど」と把握するという感じです。観客もそういうふうに楽しんでいるのだと思います。唐はサルトルや実存主義に強く影響を受けているし、劇団員も思想や文学をかなり勉強していた、いわゆる屁理屈集団でした。

 

寺山さんは、まず既存の劇場そのものに対する反発が強かったのではないでしょうか。だから街頭で移動しながら芝居をし、観客もそれについてまわるような見せ方をして、芝居そのものを壊すという拡散的な方向に向かいました。

 

●自己愛

20数年間人形を作ることを教えていて、すべての生徒にいえることがひとつあります。全員の作品にその人の「自分」が出ているのです。それを見ていると、人という生き物はこんなにも自分自身から逃れられない自己愛の強い存在なのだなと感じます。人形は具体的なものですから、表現に個が出やすいということはあります。料理や花の生け方などにもその人の個性はでますが、いかんせん人形はヒトガタですから、明快に個性が露出するのです。人形には作者本人に似るなにかがどうしても出てしまうものなのです。

 

そんなことを考えているうちに、逃れ切れない自己愛、ナルシズムが誰にでもあるならば、あえてそれをテーマにして意図的に作品化しようと思いました。人形というのは自分自身であり、分離しているようでしていないという作為的、幻想的な考え方をするようになったのです。こうして生まれた「ナルシズム」「ピグマリオ二スム・ナルシシズム」などの作品は、絵画や写真のセルフポートレートとは少し違っていますが、おそらく「これも僕です」といえるものではないかなと思っています。

 

「人形は人形である」というところから出発しましたが、人形は自分で自分は人形という、自己愛と人形愛の重ね合わせが現段階での僕の考え方です。

 

インタビュー



【美術解説】金子國義「花咲く乙女たち」

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金子國義 / Kuniyoshi Kaneko

花咲く乙女たち


「王女に扮したアリス」2005年
「王女に扮したアリス」2005年

概要


生年月日 1936年7月23日
死没月日 2015年3月16日
国籍 日本
表現形式 絵画、イラストレーション、写真、デザイン
ムーブメント 昭和アヴァンギャルド
関連人物 澁澤龍彦四谷シモン

金子國義(1936年7月23日 - 2015年3月16日)は日本の画家、イラストレーター、写真家、舞台デザイナー。

 

デザイン会社退社後、独学で絵を描き始める。その独特の画風が澁澤龍彦の目に留まり、『O嬢の物語』の挿絵を手がけることになる。澁澤の金子評は「プリミティブだ。いや、バルテュスだ」。翌年、澁澤の紹介により青木画廊にて「花咲く乙女たち」を開き、正式に画家としての活動を始める。

 

イタリア旅行の際にジョルジオ・ソアビとの出会いがきっかけで絵本「不思議の国のアリス」を刊行。以後、アリスは金子のイラストレーション作品の代表的なモチーフとなり、また金子自体もアリスに思い入れが大きく、死ぬまでアリスシリーズを描き続ける。

 

90年代には写真家としても活動を始める。「お遊戯」「Drink Me Eat Me」「Vamp」など挑発的な女性のポートレイト写真集を刊行。

 

2015年3月16日午後、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去。78歳没。

略歴


幼少期


金子國義は1936年7月23日埼玉県蕨市で、父正次郎、母富久のあいだに4人兄弟の末っ子として生まれた。兄弟に長女敏子、長男積行、次男和夫がいる。

 

金子の家は祖母たかを中心とした大家族で、父の兄弟の家族あわせて三所帯総勢13人が一緒に暮らし、祖母が織物工場を経営していた。祖父の正次郎(初代)は日本で最初のカシミア織をはじめた織物業者で、宮内省御用達にまでなったという。

 

こうして金子は幼少の頃から、いろいろな種類の反物のなかに埋もれて育った。ものごころついて最初に意識した色は、母の着物の紅絹裏の赤だった。

 

叔父に連れられた観た東京宝塚劇場で少女歌劇「ローレライ」で、生まれてはじめて西洋の薫りの洗礼を受けた。5歳のとき、夏休みを家族で房州大網で過ごすことになり、そこで滞在中のロシア大使の令嬢と仲良くなり、金子は愛らしく黄金に輝く髪にブルーの眼を持った異国の少女に影響を受けた。金子が描く少女にはどこかこのときに出会った少女が面影をひそめているという。

 

1943年、蕨第一小学校に入学。図画工作と習字が得意だった。全校習字大会で金賞も受けた。戦争が激しくなると栃木県の黒羽に疎開する。疎開先の学校にたどりつく前に渓流があり、金子はその渓流で遊んでいて溺れそうになる。そのときに助けられた見知らぬ若者の全裸の美しいプロモーションが脳裏に焼き付き、のちの少年像、青年像の原型となった。

 

小学校の高学年では、姉の買ってくる中原淳一編集の少女向け雑誌「それいゆ」や「ひまわり」に一緒に読みひたり、センスのいい服を見つけたりすると、すぐに真似て描くようになった。

 

中学生になると、母や兄弟から離れて広い部屋でひとりで寝るようになる。孤独になったことのない金子にとって、ひとりの部屋の空間は大きな変化だった。床についてからスタンドの灯りの下で、映画女優やモード雑誌のマヌカンやバレリーナの絵を、眠くなるまで描き続けた。

 

この頃はじめて金子はいつものモード誌の模写ではない。オリジナルの絵を描いた。これはある種の事件で、その後、もっと美しい想像上の人を描きたいと、気持ちはエスカレートしていった。

 

中学・高校と東京・駒込のバプティスト系ミッションスクールの聖学院に通う。ファッションにこだわりを持つようになり、制服の中に着るシャツを毎日工夫する。勉強よりも着ていく服のことばかり考えるようになった。授業中は教科書の余白にマネキンの顔やハイヒールなどのモード画を描くことに熱中する。

 

また、銀ブラの趣味がはじまり、お決まりのコースは、洋書専門のCIE図書館で外国のモード雑誌や画集を見、GI専用映画館のアニー・パイル劇場で映画の看板、特にイラストと英文字の組み合わせに見とれ、続いて白木屋百貨店の輸入雑貨売場OSSを覗き、最後は喫茶店「ガス灯」。映画にも夢中になる。

 

上野のアメ横にもよくいった。色とりどりの輸入品が並びはじめ、ビスケットの缶や虹色のキャンディーが金子の目を惹いた。そうした外国のタイポグラフィやデザインに憧れ、しげしげと眺めているうちに自然とそのセンスを自分のものにできたという。

 

1954年、「麗しのサブリナ」を観て、コスチューム・ディレクター、エーデス・ヘッドによって、コスチューム・ファッションの魅力に開眼させられる。「ハーパース・バザー」、「ヴォーグ」誌などを買って読み、スタイル画に熱中する。

 

勉強そっちのけで絵を描いていた高校時代、心配した父に「お前は何になりたいんだ」と問われ、金子は「美」の字がついているものばかりに丸をつけた。数日後、金子の父はとりわけ大切にしていた興福寺の阿修羅像と中宮寺の弥勒菩薩の写真を朱塗りの額縁に入れて、金子の部屋に掛け、美術の道に進むことを認めたという。

青年期


1955年、東京藝術大学デザイン科を受験するも失敗して浪人。新橋にある光風会デッサン研究所に通うことになった。1956年、日本大学藝術学部デザイン科に入学するが、教授と意見が合わず学校にはほとんどいかないようになる。

 

そんなとき、舞台美術家の長坂元弘に出会い、同年の1956年に弟子入りすることになる。大学の授業もそこそこに、長坂の家に通い仕事の手伝いや掃除をする日々が始まる。長坂から「いいものをそのまま模倣するところから創作が始まる」と模倣を長坂から教わったという。

 

そして、金子が当時好きな画家であり、長坂の師匠にあたる小村雪岱がおもな手本だった。金子は大学の卒業制作は雪岱の《深見草》をそのまま模写し、「JAPAN」と書き文字して提出するが、担当教授から批判され、棟方志功風にアレンジして再提出して卒業する。

 

18歳から23歳までの5年間は、美大より舞台装置という裏方の世界で大切なことをたくさん学んだ。1957年、若手の舞踊家、脚本家、舞台装置家たちの集まり「二十日会」が結成され、第一回公演が大和ホールで開催される。

 

金子はオスカー・ワイルド「わがままな巨人」に舞台美術家として参加する。その後、1958年に新橋演舞場の東をどりでは「青海波」の舞台美術を担当し、大劇場のプログラムに初めて名前が出た。

 

1959年、23歳のときに初めて生家を出て、一人暮らしをする。麹町二丁目にアパートを借りた。働かなくても生活に困ることのない家だったが、長坂のもとを離れ「じゃあ働いてみよか」という気持ちで銀座にあるデザイン会社へ入社試験を受ける。絵のことは何も言われず面接で「いい靴はいてるね」とか「服のセンスがいい」と言われただけで、金子のみ合格した。

 

入社後、金子は静まり返った職場の雰囲気にあきて、小さなプレイヤーを持参して音楽を鳴らし踊るようになる。それから昼休みはゴーゴー大会になり会社の風紀はいっきにみだれ、入社して三週間で解雇される。

 

その後、スタディオ・グラフィスに入社。ビクターレコードのソノシートのジャケット「ミュージックブック」や「女性セブン」のレイアウトを創刊号から一年手がけて、退社。退社後もデザインの仕事は続けたという。

四谷シモンや澁澤龍彦と出会う


1961年、日宣美にジャン・ジュネの「女中たち」のポスターを作り応募するが落選。当時、選者であった宇野亜喜良だけが金子作品を評価したという。

 

60年代になるとジャズ喫茶に通いはじめる。この時代に白石かずこ、川井昭一、コシノジュンコ、内藤ルネ、本間真夫、篠山紀信、江波杏子、合田佐和子、古田マリ子、栗崎昇らと知り合う。新宿のジャズ喫茶でスパニッシュ・ダンサーの中村タヌコが、16歳の美少年を金子に引き合わせる。その美少年が後の四谷シモンである。

 

1964年4月、麹町のアパートから四谷左門町のアパートへ引っ越す。アパートの先住者が忘れていったのか、押入れの上の戸棚でキャンバスを偶然見つける。閃いた金子はさっそく絵の具や筆を買ってきて、「マッコールズ・マガジン」に掲載れていたお気に入りのプリミティブな肖像画を模写しはじめる。自分流に工夫して納得のいくまで描くことに熱中した。

 

1965年、その頃に知り合った詩人の高橋睦郎が、澁澤龍彦、矢川澄子夫妻を金子のアパートに連れてくる。澁澤は壁にびっしりかけてあった金子のプリミティブ絵画を見るなり「プリミティブだ。いや、バルテュスだ」と言ってコートも脱がずに話し始めた。澁澤と初めて会ったのは草月ホールでのアニメーション映画上映のときだった。

 

後日、金子は鎌倉にある澁澤宅の宴会によばれ、そのときに水玉模様の赤いドレスを着た女の子が虫取り網を持った絵を持参し、賞賛される。この絵はその後、矢上澄子が現在も所有しているという。

 

澁澤から50号の絵と『O嬢の物語』の装幀と挿絵のいらいがを受ける。この澁澤からの仕事依頼が金子の転機となった。澁澤のエロティシズムの世界へ導かれ、澁澤は金子が成長するための機会をたくさん与えてくれたという。

 

また澁澤と金子の出会いがきっかけでほかの友人にも大きな刺激となり、川井昭一はレオノール・フィニの絵を巧みに模写し、四谷シモンはそれまでのぬいぐるみを捨てハンス・ベルメール風の人形を作るようになった。いわば澁澤経由で全員がシュルレアリスムの影響を受けた作風に変化していった。

初個展「花咲く乙女たち」


1966年4月、澁澤と青木画廊主人の青木外司が四谷の金子宅を訪れ個展の話になる。翌1967年に初個展「花咲く乙女たち」を開催。展覧会で澁澤は案内状に「花咲く乙女たちのスキャンダル」と題するオマージュを書く。

 

「流行の波の上でサーフィンをやりながら、“造形”だの“空間”だのと口走っている当世風の画家諸君には、私は何の興味も関心もない。ネオンやアクリルは、商業資本の丁稚小僧にまかせておけばよろしい。高貴なる種族の関知するところではなかろう。

 

「私が興味をいだくのは、あのれの城に閉じこもり、小さな壁の孔から、自分だけの光り輝く現実を眺めている、徹底的に反時代的な画家だけである。

 

 金子國義氏が眺めているのは、遠い記憶のなかにじっと静止したまま浮かんでいる、幼年時代の失われた王国である。あのプルーストやカフカが追いかけた幻影と同じ、エディプス的な禁断の快楽原則の幻影が、彼の稚拙な(幸いなるかな!)タブロオに定着されている。正面に視線を固定させたまま、生への期待と怖れから、身体を固く硬ばらせている少年と少女は、ふしぎなシンメトリックな風景のなかで、つねに子宮を夢みているナルシストの、近親相姦的共生の最も素朴なイメージである。

 

 前衛逃亡者の騒々しいスキャンダリズムに不感症になった人は、この歴史とともに古い、俗悪なほど純粋な、痴呆的なほど甘美な「花咲く乙女たち」の桃色のスキャンダリズムに腹を立てるがよい。」 

初個展「花咲く乙女たち」パンフレット。
初個展「花咲く乙女たち」パンフレット。

澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』でバルテュスを知る。その本に掲載されていた「ギターの練習」に衝撃を受けたという。またバルテュス自身の趣味の良さと金子にあった点も大きい。

 

ローマのフランス・アカデミー館長に就任して手がけた、ヴィラ・メディチの改装、1962年に来日したときにバルテュスが骨董屋で購入していった桐の箪笥の選び方が的確だったとこと。このようなバルテュスの趣味の良さに金子は共感している。

唐十郎の状況劇場に四谷もも子として出演


1968年、肌を焼くために鎌倉海外に通ったときに、海の家でアルバイト中に日大応援団と懇意になり居候する。彼らはその後、四谷アパートに寝泊まりすることになり、そのイメージは後の写真シリーズ《寄宿舎》の源泉となった。

 

1966年に唐十郎が金子のもとを訪れ、唐が主催する状況劇場への出演の依頼をし、金子は承諾する。金子が状況劇場に出演することになり、澁澤は状況劇場発行の機関紙「SITUATION」に「麗人・金子國義」と題して寄稿した。

 

1967年2月11日「時夜無銀髪風人(ジョン・シルバー)」新宿ピット・インでの公演。金子は四谷もも子の芸名で出演する。数日後、舞台を観た寺山修司から「君を観て、君のために一晩で戯曲を書いたのだよ」という電話がくる。その戯曲とは、のちに美輪明宏が演じた「毛皮のマリー」だった。

 

寺山修司は金子を劇団に誘うが、金国は画業に専念しようと思い始めちたため、演劇は断った。同年5月、草月アートセンターで上演された「ジョン・シルバー 新宿恋しや夜鳴き篇」に四谷シモンとともに女装で出演。

ミラノ個展と「不思議の国のアリス」のイラスト


1970年3月、ミラノから来日していたナビリオ画廊主人カルロ・カルダッツォが、青木画廊での金子の個展を観て、イタリア・ミラノでの個展を依頼する。

 

1971年3月4日から16日まで個展を開催。会期中にほとんどの絵が売れ、イタリア在住の日本人美術家たちとも交流を持つようになる。展示した作品は、画家カポグロッシ、ジェンティリーニ、作家ブッツァーティ、オリベッティ社アート・ディレクターのジョルジュ・ソアビ氏らのコレクションとなった。さらにソアビ氏からオリベティ社のダイアリーにイラストレーションの仕事依頼を受けることになる。これが、金子の代表作の1つとなる絵本『不思議の国のアリス』である。

 

ミラノ在住の彫刻家、熊井和彦と知り合い、彼の家に投宿する。この頃にイタリア文化に目覚め、イタリア料理とワインに興味を持ち始める。

 

1972年に大森へ移る。絵に専念できるように外国人向けの不動産屋で物件を探し、その結果見つかったのが晩年まで居住した大森の家である。大森はドイツ人学校があったため洋館が多く町並みもお気に入りだった。

 

同年6月、金子は六本木のスナック「ジョージ」で事件を起こす。ジュークボックスの音楽にあわせて踊っているうちに、興奮して店内を飛び出し隣の防衛庁の塀の上によじ登ってそこで踊り出す。そこに機関銃を手にした隊員たちが押し寄せ金子は慌てて飛び降り、その際に靭帯を切ってしまう。

 

同年、再びミラノへ訪問。個展の影響は予想をはるかにうわまり大盛況で、開催から既に1年経っていたが、そのときにと落とした波紋がいまだに挽けていく力を失っていなかった。一日おきに貴族や富豪のサロンに招待され、そこで多くのイタリア在住の美術家にあった。また、ソアビからかねてから依頼のあったアート・ダイアリーの打ち合わせをする。そこで『不思議の国のアリス』の挿絵の依頼を受けることになった。

 

アリスの挿絵の仕事になった理由は、金子が知り合った女流画家グラッチェラ・マルキのスケッチブックにリボンをつけた彼女の少女時代の想像画を描いたことだった。金子が描いた少女像を見たグラッチェラは「アリーチェ!(アリス)」叫んだという。

 

そのグラッチェラのスケッチブックに描いた少女像をソアビは彼女から見せてもらったという。こうして、金子はイタリアの少年少女のための『不思議の国のアリス』の挿絵を描くことになった。なお、それまで金子は特に『不思議の国のアリス』に関心があったわけではなかったので、不安な思いもありりつ、この仕事を受けたという。

 

このイラストレーションの仕事は、それまで順調に運んでいた絵画作業からはともて想像できないほど難航をきわめた。物語に忠実に描かなければならないという制約があったためだ。それまで好き勝手描いてきた僕には、人の指図を受けながら作品を制作するということが、かなりプレッシャーになり、この1973年というアリス制作期はひどく気が滅入ったという。

 

二年がかりでようやく完成した。出版された『不思議の国アリス』は、オリベッティ社からイタリア全土の小・中学生に宛てたクリスマスプレゼントとなった。1974年末に金子の手元に届き、その印刷も造本も予想以上に素晴らしい出来栄えの『アリス』を受け取り、気持ちも切り替わってようやく自分自身の作品に没頭できるようになった。

 

また『アリス』をきっかけにして、青空を背景に金子はそれまでの豊満な肉体をさらけだす成熟した女性から、部屋の中を舞台に焦点の定まらない目で痴戯すに耽るあどけない少女たちへと関心を移していった

 

まもなく開かれた個展「お遊戯」では、カタログに載せるエッセイを瀧口修造に寄稿してもらう。「絵のなかの雑記帖」というタイトルだった。瀧口修造は澁澤龍彦とはまた異なる意味でダンディなセンスを持っていたという。

 

「絵が触れる、絵に触れる。気がふれる。ふれるもの、さまざまだ。このふれるものについて、触れてみたいのだが、怪しいものだ。鏡に触れても、鏡はないのと同然である。」

 

■画像元

金子國義の絵本「Alice's adventures in Wonderland」(1974) : ガレリア・イスカ通信 : http://galleriska.exblog.jp/12820721/

金子國義挿絵『不思議の国のアリス』(1974年)
金子國義挿絵『不思議の国のアリス』(1974年)

1975年、酔って階段から転落して肋骨二本骨折する。一週間後に迫った展覧会のために痛みに耐えながら必至に絵を描き上げると絵のモチーフと身体の状況が奇妙な一致を示した。これが《アリスの夢》連作後半の主要なテーマとなる。芸術家は「病気や怪我をすると作風が変わる」という噂があったが、金子はそれがピタリと当てはまった。

 

また、1975年10月、生田耕作から依頼されたジョルジュ・バタイユの『マダム・エドワルダ』の挿絵の仕事は、金子にとって画風を決定的に確立する転機となった。

青年の時代


1980年前後から、青年の肉体がキャンバスの上に多く登場するようになる。「青年の時代」シリーズである。「青年の時代」というタイトルを付けたのは澁澤龍彦だった。ギリシア時代に青年像をテーマにした彫刻時期「青年の時代」があり、そこから引用したものだという。

 

青年を描く機会が多くなった理由の1つは男性舞踏家の存在である。特にルドルフ・ヌレエフに影響を受ける。金子は幼少からバレエを学んでおり、絵画の題材にもバレエを使うことは多かったが、当時のバレエのなかの男性美復権の動きを見て、自分の仕事の上でも青年の肉体の持つ美しさを志向するようになったという。

 

金子は青年像を描くときは、アメリカの1950年代のハイスクールの放課後や少年院の教室の出来事を意識して描いた。キリスト役の少年や、セバスチャン役の少年がキャンバスに登場した。そこには、金子が通っていた聖学院の風景がダブルイメージとなって現れた。

 

女性を描いていた絵が、次第に青年像ばかりになる。そして1982年に渋谷西武で個展「青年の時代」を開催する。「花咲く乙女たち」の油絵から見続けてきた人にとって、過去の「少女」と目の前に現れた「青年」のイメージがすぐには結びつかなかったという。

 

また、並行して1980年9月にラフォーレミュージアム原宿で「アリスの夢 金子國義とバレエ・ダンサーたち」を、1981年1月に渋谷の西武劇場でそれを再構成したバレエ「アリスの夢」を公演。踊りをのぞいて、構成・演出・衣装・ヘア・メイキャップなどほとんど金子が担当し、舞台芸術家として金子は才能を発揮。三日間とも切符は売り切れ、最終日は立ち見を出して、やっと収容できるほどの混雑ぶりだったという。

《ドレッシングルーム》1981年
《ドレッシングルーム》1981年

写真作品集『Vamp(放蕩娘)』


1994年夏、のちの金子の写真作品集『Vamp(放蕩娘)』のモデルとなる和歌と出会う。石膏のように白くてかたい顔、緊張した眉間からすんなり延びきった鼻、結んんだままの唇、突き付けた切っ先のように傲慢な顎、彼女はまさに金子の理想的な顔立ちだった。

 

撮影のために自宅の一室を娼婦部屋に作り変えた。一番イメージに近かったジェーン・マンスフィールドの部屋を参考にしたという。ぬいぐるみや、ゆるいフォルムのスタンド、全体にピンクや薄いブルーの色合い。生活の随所にさりげなくかわいいセンスが光っている。それが娼婦部屋の鉄則だと金子は気づいた。

 

また金子自身が娼婦になって、彼女を娼婦の世界に非込んだ。つまり金子が娼婦のポーズをとり、モデルが同じポーズをし、金子が踊るとモデルも踊るのである。金子を真似るたびシャッターを切るという独特な撮影方法だった。こうしてできたのが処女写真集『Vamp』である。

 

第二写真集『お遊戯(Les Jeux)』姉妹の娼婦という設定だ。まず自分で短編小説「不道徳な娘たち」を書いた。お姉さんは前回に引き続き和歌で、妹役には当時高校三年生だった絵理子をモデルとして起用した。前回と同じく自宅を娼婦部屋にし、バービー人形を100体くらい用意した。その後、2人をローマへ連れていき撮影をした。メイクや衣装を撮影時のままうろうろしたので、本物の娼婦と間違われたという。

 

また同時に男性ヌードも撮影した。モデルは養子の金子修である。

略年譜


   
1936年 ・7月23日、埼玉県蕨市に生まれる。四人兄弟の末ッ子(兄二人、姉一人)。生家は織物業を営む裕福な家庭で、特別に可愛がられて育った。
1938年

・クレヨンで夕焼けの景色を巧みに描き、母を驚かせる。

1940年 ・母と叔父に連れられ、東京宝塚劇場にて、少女歌劇「ローレライ」を観る。
1943年 ・蕨第一国民学校(現・蕨北小学校)入学。特に図画工作、習字に秀でる。華やかなものに憧れ、映画に影響をうけて衣装をつけて踊ったり、絵を描くとほとんどリボンをつけた人形だった。
1947年

・学芸会で「月の砂漠」に王子の役で出演。自分のコスチュームを自分なりにデザインする。

1949年

・東京・駒込のミッションスクール、聖学院中学校に入学。

「門を入ると西洋だったという感じで、ポーのウィリアム・ウィルスンの世界でした。アーサー・クラークの英国怪奇映画の中にいるみたいで、学校に行くのが愉しくてしょうがなかった」

1950年

・級友で幼なじみの五十嵐昌と銀座教会の日曜学校に通う。この教会に通っていたのが、おしゃれな少年少女ばかりであったのも、教会通いが続いた理由の1つ。

「春先になると誰よりも早く半ズボンを穿きシャツの裾にゴムを入れるような男の子でしたから、日曜学校通いも、おしゃれ志向の現れだったんでしょう。」(『エロスの劇場』)

ソニア・アロアやノラ・ケイの来日バレエ公演を観て憧れ、ひそかにバレエのレッスンにも通う。そのかたわら、古流松濤会の花、江戸千家の茶道も習い始める。

1952年

・聖学院高等学校に進学。映画狂時代。『巴里のアメリカ人』『ローマの休日』などが印象に残る。歌舞伎や新劇にも熱中する。

1954年

・『麗しのサブリナ』のコスチューム・ディレクター、イーデス・ヘッドによって、コスチューム・ファッションの魅力に開眼。『ハーパース・バザー』『ヴォーグ』誌などを洋書店や古本屋で見つけては買って読み、スタイル画に熱中する。

1955年

・東京芸術大学を受験するも不合格。新橋の光風会デッサン研究所に通う。

1956年

・日本大学芸術学部デザイン科入学。しかし遊ぶことが好きだったから、歌舞伎や明治座、新橋演舞場をまわり芝居の稽古ばかりする。

1957年

・若手舞踊家の集まり「二十日会」を結成。第一回公演「わがままな巨人」(大和ホール)で、春陽会・舞台美術部門に入選。

・草月流生け花を習い始める。

1958年

・「東をどり」(新橋演舞場)、「名古屋をどり」(名古屋・御園座)で「青海波」の舞台美術を担当。

1959年

・大学卒業後、東京・麹町で一人暮らしを始める。新宿のジャズ喫茶に通い、川井昭一四谷シモン内藤ルネ本間真夫白石かずこ篠山紀信江波杏子コシノジュンコらを知る。

1960年

・デザイン会社に入社するが、3ヶ月で解雇。なんとなく音楽が聞こえないと落ち着かないので、仕事中に踊りだし始めたのがクビの理由だった。その後、スタジオ・グラフィスでビクターのソノシートのデザインなどを手がけるも翌年退社。

1964年

・東京・四谷左門町に引っ越す。独学で油絵を描き始める。自分の部屋に絵を飾るために絵を描き始めたのがきっかけ画家・金子國義となる転機といえる年である。

1965年

・この頃、高橋睦郎澁澤龍彦らと知り合う。澁澤「プリミティブだ。いや、バルテュスだ」と金子の自室に飾られた作品を見て感想を述べる。

1966年

・唐十郎を知り、その誘いで新宿のジャズ喫茶「ビットイン」公演の状況劇場「ジョン・シルバー望郷篇」の舞台美術を担当、四谷もも子の薬名で女形としても出演。澁澤龍彦の勧めにより個展の準備に入る。

1967年

・状況劇場「ジョン・シルバー望郷編」(新宿ビットイン)の舞台美術・四谷シモンと共演。

・状況劇場「ジョン・シルバー新宿恋しや世鳴き篇」(草月ホール)の舞台美術/李礼仙(李麗仙)と共演。

・銀座・青木画廊にて初個展「花咲く乙女たち」を開催。

1968年

・「唐十郎 愛のリサイタル」(新宿文化劇場)に出演。

・映画『うたかたの恋』の美術を担当。

・夏、鎌倉海岸で出会った日大応援団の面々との交流が、のちの写真シリーズ『寄宿舎』のエスキースとなる。

1969年

・映画『新宿泥棒日記』に特別出演。

1971年

・ミラノ・ナビリオ画廊にて個展開催。

・『婦人公論』1月号より表紙画を担当。

1972年

・東京・大森に転居したのち、脚を骨折。占い師の勧めで、西に方違えをするため再びミラノへ行ったところ、オリベッティ社のアート・ディレクター、ジョルジオ・ソアビに出会う。

1974年

・オリベッティ社より、絵本『不思議の国のアリス』刊行

1975年

・生田耕作訳『バタイユ作品集/マダム・エドワルダ』の装幀・挿絵を担当。バタイユのエロティシズム溢れる世界は、まるで合わせ鏡で見たような金子の大好きな物語で、その中にあっさりと入り込んでいったとか。

1977年

・『アリスの夢』制作中の2月、自宅階段から落ちて肋骨を折る大怪我。この時に見たレントゲン写真と、主治医からもらった解剖学の書物が、『アリスの夢』に大きな影響を与える。

1978年 ・赤木仁が内弟子となる。
1980年

・バレエ「アリスの夢-金子國義とバレエ・ダンサーたち」(原宿ラフォーレミュージアム)の構成・演出・美術を担当。

1981年

・バレエ「アリスの夢」再構成版(西武劇場)を上演。

1982年

・「第二回雀右衛門の会」(草月ホール)、坂口安吾作『桜の森の満開の下』の美術を担当。

1983年

・バレエ「オルペウス」(西武劇場)の構成・演出・美術を担当。

・加藤和彦のアルバム『あの頃、マリー・ローランサン』のジャケットデザインを手がける。

1984年

・5月〜86年9月まで、ハナエモリビル(表参道)のウィンドー・ディスプレイを手がける。

・流行通信別冊・メンズ版『X-MEN』の表紙画を担当。

・コシミハルのアルバム『パラレリズム』のジャケットデザインを手がける。

1987年

・舞台「echo de MIHARU」のパンフレットとステージデザインを担当。

1988年

・雑誌『ユリイカ』1月号より表紙画・装幀を担当。

・加藤和彦のアルバム『ベル・エキセントリック』のジャケットデザインを手がける。

1990年

・映画『シンデレラ・エクスプレス』の宣伝美術、特別出演。

1992年

・銅版画の制作を始める。

1993年

本格的に写真を撮り始める

・松山バレエ団公演『シンデレラ』のパンフレット表紙画を手がける。

1996年

・モデルを伴い、イタリアへ撮影旅行。

・「天使の妖精展」をプロデュース。

1997年

・フランスに旅行。滞在中に、マダム・エドワルダをモチーフにしたドローイングを描き始める。

1998年

・東京・神田神保町に「美術倶楽部ひぐらし」を開設。

・国立劇場にて日舞・長唄の「黒髪」を舞う。

・『みだらな扉』の撮影のため、モデル・濱田のり子を伴い、再度フランスへ。

1999年

・NICAF'99 TOKYOに作品出展(早川画廊)。

2000年

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年

・オリジナルの訳文・挿絵による絵本「不思議の国のアリス」を刊行。「僕のアリスは、物語よりもむしろ、ルイス・キャロルが撮ったアリスの写真に触発されて生まれたもの。少女特有の、どこかエロティシズム漂う危険な世界。だから、アリスをちょっと冒険させれば『眼球譚』のシモーヌになるし、さらに大人にすれば『マダム・エドワルダ』になる。そういう具合に、僕の中で、アリス(純粋無垢)、シモーヌ(思春期少女)、エドワルダ(娼婦)は、僕が描きたいものとして自然な流れで循環していく」。

2015年3月16日午後、虚血性心不全のため東京都品川区の自宅で死去。78歳没。


■参考文献

・「美貌帖」河出書房

・プリンツ21「金子國義」

・「金子國義の世界」コロナ・ブックス 


【美術解説】エルンスト・フックス「ウィーン幻想派の創始者」

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概要

エルンスト・フックス / Ernst Fuchs

ウィーン幻想派の創始者


『Transformations of Flesh 』1949年
『Transformations of Flesh 』1949年

概要


生年月日 1930年2月13日
死没月日 2015年11月9日 
国籍 オーストリア
表現形式 絵画、版画、彫刻、建築
ムーブメント ウィーン幻想派
関連サイト WikiArt

エルンスト・フックス(1930年2月13日-2015年11月9日)は、オーストリアの画家、製図家、版画家、彫刻家、建築家、舞台美術家、作曲家、詩人、歌手。

 

ウィーン幻想派の創始者であり代表的な作家として評価されている。当時の戦後欧米の前衛美術と異なるのは、彼らは古典巨匠の技法に重点を起き、幻想的で非現実的な写実絵画を描いたことである。また、近代絵画を積極的に捨て去った宗教や終末論的なものを主題としていた。

 

聖アンナ美術学校でフレーリッヒに、ウィーン美術学校でギュテルスローに師事。旧約聖書や神話を題材に幻想的レアリスムを生み出した。日本では昭和アヴァンギャルドムーブメントで、青木画廊や種村季弘らに紹介され知られるようになった。

 

1972年、フックスはヒュッテュルドルフにある廃墟となったオットー・ワーグナー邸を購入して改修し、1988年にエルンスト・フックス美術館として開館。2015年85歳で死去。

略歴


ユダヤ人だったフックスは第二次世界中、強制収容所に送還されるのを逃れるため12歳のときに、母親から強制的にローマ・カトリックに改宗させられる。

 

1943年にエミー・スタインボックから彫刻を学び、1944年に聖アンナ絵画学校に入学してフレーリッヒ教授に師事する。1945年にウィーン美術大学に入学して、ロビン・C・アンダーソン教授に師事するが、のちにアルベルト・パリ・フォン・ギュテルスローのクラスに移る。

 

同じオーストリアの画家グスタフ・クリムトエゴン・シーレの芸術に影響を受け、その後、マックス・ペヒシュタイン、ハインリッヒ・カンペンドンク、エドヴァルド・ムンク、ヘンリー・ムーア、パブロ・ピカソの影響を受けた。

 

大学時代、アーク・ブラウアー、ルドルフ・ハウズナー、フリッツ・ヤンシュカ、ヴォルフガング・ハッター、アントン・レームデンらと出会い、のちにウィーン幻想派として知られる芸術グループの原型を作る。

 

1950年から1961年の間、フックスはパリに住んでいたが、アメリカとイスラエルへ何度か旅をしている。当時の彼のお気に入りの本は、マイスター・エックハートの説教書だった。また、錬金術師の象徴主義を研究し、ユングの『心理学と錬金術』を精読した。

 

この頃フックスはマニエリスムに関心を持ち、特にジャック・カロー、ヤン・ファン・エイク、ジャン・フーケに大きな影響を受けている。

 

1957年、シオン山の休眠修道院に入り、記念碑的な『最後の晩餐』の制作を始める。『モーゼ』や『燃えるブッシュ』などの宗教的主題の小品の制作に力を注ぎ、ウィーンのヘッツェンドルフにあるローゼンクランツキルヒのために羊皮紙の祭壇画『聖なるロザリオの神秘』(1958-61年)のために描いた3作品のときに最高潮に達した。

 

1958年に、ウィーン幻想派の若手画家を支援するために、ウィーンにギャラリ・フックス=フィスチョフを設立する。また、フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー、アルヌルフ・ライナーとともにピントラリウムを設立。

 

1959年にウィーンのベルヴェデーレで開催された最初の合同展示会、また、その後すぐに海外の他の展示会が開催され、ウィーン幻想派は国際的に知られるようになった

 

1961年にウィーンに戻ったフックスは、「verschollener Stil」(スタイルの隠れた素顔)というビジョンを掲げる。その理論は、彼のインスピレーションに満ちた壮大な本「Architectura Caelestis: Die Bilder des verschollen Stils」(ザルツブルク、1966年)で説明されている。

 

1972年、ヒュッテデュッセルドルフにある廃墟となったオットー・ワーグナー邸を購入してリノベーションし、1988年にエルンスト・フックス美術館を開館する。

 

また、1970年から、美術館の入り口にある「エステル女王」(高さ2.63m、1972年)や、スペインのカタルーニャ州フィゲレスにあるダリ美術館の入り口にあるキャデラックのラジエーターキャップに取り付けられた作品など、数々の彫刻プロジェクトにも着手した。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_Fuchs_(artist)、2021年2月19日アクセス

https://de.wikipedia.org/wiki/Wiener_Schule_des_Phantastischen_Realismus、2021年2月19日アクセス


【美術解説】幻想絵画「シュルレアリスティックな写実主義」

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幻想絵画 / Fantastic art

シュルレアリスティックな写実主義


概要


シュルレアリスティックな写実主義


幻想絵画(幻想芸術)は、その名前の通り、幻想的なモチーフが描かれた芸術である。「幻想」は英語では「ファンタスティック」と呼び、1950年代にウィーン幻想派(ファンタスティック・リアリズム)という芸術ムーブメントが発生したのをきっかけに、世界的に「幻想絵画」が広まるようになる。

 

1960年から61年にかけて、クロード・ロワ、マルセル・ブリヨン、ルネ・ド・ソリエは同じく『幻想美術』という著書を出版し、幻想文学もまた広く読まれた。

 

1971年にツヴェタン・トドロフは「ファンタスティックとは、自然の法則しか知らないものが、超自然的様相をもった出来事に直面して感じるためらいのことである」(『幻想文学序説』)と幻想文学上で定義しているが、同じ「ファンタスティック」という言葉が使われている以上、美術、絵画にもほぼ通用する定義である。

 

要するに、私たちがふだん慣れ親しんでいるような現実世界のただなかに、超自然的なもの、異常なもの、説明のつかないものが侵入してくるとき、私たちは「ファンタスティック」を体験するのだという意味である。

 

 

巖谷國士によれば「幻想絵画」の定義はこれで完了している。シュルレアリスムとほぼ同じだが、幻想絵画はマッソンやミロのようなオートマティスム系の抽象画ではなく暗い陰鬱な写実的な具象画であることが違いだろう。それが「ファンタスティック・リアリズム(ウィーン幻想派)」であり、「幻想絵画(ファンタスティック・アート)」である。

 

ウィーン幻想派


ウィーン幻想派は、第二次大戦直後のオーストリアの首都ウィーンに出現した、奇妙な幻想絵画を描く画家たちである。ウィーン美術学校のギュータースロー教授のもとに集まった5人の若い画家たち、ルドルフ・ハウズナー、ヴォルフガング・フッター、アリク・ブラウアー、アントン・レームデン、エルンスト・フックスがウィーン幻想派の代表的な作家として知られている。

 

彼らはお互いに主題も技法も問題意識も大きく異なっていながら、

  • 細密描写と鮮烈な色彩によって具象的なイメージを描いている点
  • 幼少期の記憶や過酷な戦争体験などの個人的なトラウマを自己の芸術の下敷きとしている点
  • 社会と人間存在の暗黒を戯画的に描こうとする点

などにおいて共通項を持っていた。

 

それらは、ウィーン分離派シュルレリスムの正当な後継者であり、また長い西欧美術の中連綿と受け継がれてきた具象絵画の系譜の末裔であり、同時期にアメリカ中心に発展して抽象・コンセプチュアルが中心の現代美術とは明らかに異なるものだった。

 

日本では1971年に小田急百貨店にて日本人作家61名による「現代の幻想絵画展ー不安と恐怖のイメージを探る」が開催され、広い意味で日本における幻想絵画を探索してみようと企画された。

 

同年、東京小田急百貨店で「ウィーン幻想絵画展」が開催され、ルドルフ・ハウズナー、エルンスト・フックス、アントン・レームデン、ヴォルフガング・フッター、エーリッヒ・ブラウァの作品100点が紹介されている。

 

また、1993年に滋賀県立近代美術館で「ウィーン幻想派展」が開催されている。上記の「ウィーン幻想絵画展」から約20年ぶりの総合的な展覧会である。その後、ウィーン幻想派の総合的な展覧会は日本で開催されていない。

 

日本の戦後美術史を把握する『美術手帖』1978年7月号増刊「特集:日本の現代美術三年」は、戦後美術を概観するには信頼できる資料であったが、残念ながら「ウィーン幻想絵画展」は掲載されておらず、現在も「幻想絵画」と呼ばれる作家とは距離を置いているように思われる。

「ウィーン幻想絵画展」1972年図録
「ウィーン幻想絵画展」1972年図録

日本の曖昧な「幻想絵画」


 日本で現在使われている「幻想絵画」「幻想芸術」にはこのような定義がなく、また美術史的文脈においても「もの派」や「実験工房」のような明確な「幻想」を主張した芸術集団、定義した学者は存在せず曖昧な状態になっている。

 

西洋の言葉の「ファンタジー(根拠のないはっきりしない思いつき、奇想)」、「イリュージョン(実在しないものを実在するかのように感じること、幻影、錯覚)」、「ヴィジョン(見えなものを見ること、幻視)」、シュルレアリスム、女性ポートレイト、エロティック・アート、その他もろもろの言葉であらわされ区別されている言葉をひとまとめに「幻想」と称している

 

 

 

青木画廊と瀧口修造


現在このような背景を持つ日本の幻想絵画であるが、日本で幻想絵画という言葉が使われるようになったと思われるルーツはいくつか存在する。

 

最も有力なルーツの1つは青木画廊と瀧口修造である。青木画廊が1965年に開催した瀧口修造によるキュレーションで、エーリッヒ・ブラウナー、ヴィクトル・ブローネル、フンデルトウァッサー、ゾンネンシュターン、フェリックス・ラビス、E・バイなど、傍流シュルレアリスムとウィーン幻想派(ファンタスティック・リアリズム)が入り乱れた展覧会「夜想」を開催する。

 

このときの展覧会全体の印象が日本における「幻想絵画」の源流の1つとなっている。その後、青木画廊はウィーン幻想派の画家を日本に積極的に紹介するようになる。1965年から1966年にかけてウィーン幻想派の創設者で代表的な画家だったエルンスト・フックスの個展『一角獣の変身』を開催する。

 

このとき、すで本家ヨーロッパのシュルレアリスム作家と親交が深く、また日本の美術評論に強い影響力を持ち、青木と親交の深く、1958年に『幻想画家論』というタイトルの書籍を出していた瀧口修造は、ウィーン幻想派を紹介すると同時に松澤有や野地正紀などの国内の作家を紹介する。なお、『幻想画家論』で紹介されている画家は戦前の前衛美術が中心で、ウィーン幻想派の紹介ではない。

 

青木画廊の創業者・青木外司と瀧口修造は富山の同郷だった。そのつきあいは、青木外司の東京画廊時代までさかのぼる。青木は東京画廊時代に、瀧口修造と協力して、斎藤義重、浜口陽三、フンデルトヴァッサーなどの展覧会を企画している。

 

また、1961年に開廊した青木画廊は最初期は、池田龍雄、中村宏、山下菊二など戦前のヨーロッパの前衛芸術に影響を受けた戦後日本の若手の前衛芸術家を紹介していた。

 

 

ちなみに、幻想文学や幻想美術を紹介していたペヨトル工房の雑誌『夜想』というタイトルの由来は、今野裕一によればこの展覧会名を由来としている。

澁澤龍彦の「幻想絵画」


もう一つの「幻想絵画」のルーツとなるのが澁澤龍彦である。1967年に澁澤龍彦が出した『幻想の画廊から』という美術書は世間に対して影響を与え、その後「幻想絵画」という言葉が日本で拡散しはじめた。

 

このとき、澁澤が紹介して「幻想絵画」は前半はシュルレアリスムの画家たちで占められていた。

 

紹介されたシュルレアリスム作家は、スワンベルク、ハンス・ベルメール、ヴィクトル・ブローネル、ジョゼフ・クレパン、ルイス・ウェイン、ポール・デルヴォー、レオノール・フィニー、バルテュス、イヴ・タンギー、ルネ・マグリット、ゾンネンシュターン、サルバドール・ダリ、マックス・エルンスト、フランシス・ピカビア、エッシャーである。

 

後半はモンス・デシデリオ、アルチンボルド、ホルバイン、ギュスターブ・モローなど近代美術以前のマニエリスムの系譜(後期イタリア美術の様式で高度な技術で非現実的な絵画を描写するようなもの)にある絵画全般を時代に関係なく、好きなものを選んで批評している。なお、ウィーン幻想派の画家は紹介されていなかった

 

シュルレアリスム絵画とマニエリスムの系譜にある絵画を融合した形で、「幻想絵画」という独自の澁澤美術が誕生していた。ウィーン幻想派よりもおそらく澁澤龍彦が扱っていた芸術家たちのほうが一般的に「幻想絵画」として知られている。

 

青木画廊と澁澤龍彦


独自の「幻想絵画」を形成していた澁澤龍彦が、1966年の横尾龍彦の個展パンフレットに関わるようになって以来、青木画廊と関わるようになる

 

これまでウィーン幻想派と瀧口が紹介する画家を中心に紹介していた青木画廊にとって大きな契機となったのは澁澤龍彦の参加だった。

 

 

以降、青木画廊は、瀧口修造とともに澁澤龍彦という時代のアジテーターを得て、四谷シモン、川井昭一、横尾龍彦などの個展を次々とおこない、1960〜1970年代に日本の幻想芸術、具象シュルレアリスム、耽美的な作家を扱う画廊として認知されるようになった。(続く)


■参考文献

https://ja.wikipedia.org/wiki/幻想絵画

・『一角獣の変身 青木画廊クロニクル1961-2016』青木画廊編

・『現代パリの幻想画家たち』図録


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