Quantcast
Channel: www.artpedia.asia Blog Feed
Viewing all 1617 articles
Browse latest View live

【オークション】KYNE「無題」2017年2枚がヤフオクで265万円で落札

$
0
0

KYNE「無題」2017年2枚

ヤフオクで265万円で落札



2021年2月21日、今世界で注目を浴びて散る日本ストリート・アーティスト、KYNEのシルクスクリーン作品2枚セットが2,655,000円で落札された。サイズは2枚とも縦500mm × 横395mm。

 

商品説明によれば、本作品は2017年8月26日から同年9月17日にかけて、「KIYONAGA&CO.実験的POP-UP第4弾 "KYNE FUKUOKA"」で発売された各50枚限定のシルクスクリーンであるという。

 

これは、現在のKYNEの現代アートマーケットでの大ブレイクの引き金となった重要な展示である。この2枚セットではなかなか市場には出てこないもだったと見られている。ヤフオクはアート・オークションの台風の目になるかもしれない。


【美術解説】七戸優「イラストレーションの様式で幻想絵画を描く」

$
0
0

七戸優 / Masaru Shichinohe

イラストレーションの様式で幻想絵画を描く


概要


生年月日 1959年
国籍 日本
表現形式 絵画、イラストレーション
ムーブメント 幻想絵画

七戸優(1959年〜)は日本の画家。青森県生まれ。1981年武蔵野美術大学造形学部建築科卒業。3年間の会社員生活後、フリーイラストレーターになる。

 

稲垣足穂やフランツ・カフカなどの影響を受け少年や少女、兎をモチーフにして、古典的な絵画技術でシュルレアリスティックな具象絵画を描く。現代幻想美術の代表的な画家の1人。また、青木画廊第3世代の1人として知られている。

 

2005年に詩画集的絵本『オイシャサンゴッコ』を出版。また、イラストレーターとしても活躍しており、綾辻行人らの小説の表紙や黒色すみれのジャケットを手がけている。

 

七戸の作品は、30×30cmほどの小さな木のパネルにアクリル絵の具で描かれることが多く絵画の世界ではこのサイズは異端である。これは、七戸がもともとイラストレーションの世界で活躍していたことを示している。そして、これらの木のパネルは、それ自体が巨匠の手で額装されている。


■参考文献

https://www.escapeintolife.com/artist-watch/masaru-shichinohe/、2021年2月23日アクセス


【オークション】Backside works.「Maneater 」シルクスクリーン作品が120万円で落札

$
0
0

Backside works.「Maneater 」2020 シルクスクリーン

SBIオークションを超え!ヤフオクで120万円で落札



2021年2月22日、今世界で注目を浴びている日本のアーティストBackside works.の「Maneater 」のシルクスクリーン作品が1,200,000円で落札された。サイズは2枚とも縦500mm × 横395mm。

 

商品説明によれば、本作品は2020年にSH ART PROJECT抽選で当選して購入できた作品で、Backside works.代表作だという。エディション30でサイズは約60×60。サイン入り。

 

なお、同じ作品が、SBIアートオークションでは1,115,500円で落札されており、今回のヤフオクの落札結果はSBIアートオークションを上回ったという。



【美術解説】ジョゼッペ・アンチンボルド「果物や花で構成された不気味な肖像画」

$
0
0

ジュゼッペ・アルチンボルド / Giuseppe Arcimboldo

果物や花で構成された不気味な肖像画


『ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世像』1590年頃
『ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世像』1590年頃

概要


生年月日 1526もしくは1527年
死没月日 1593年7月11日
国籍 イタリア
表現形式 絵画
ムーブメント マニエリスム
代表作

・『ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世像』

・『司書』

ジョゼッペ・アンチンボルド(1526または1527〜1593年7月11日)はイタリアの画家。果物、野菜、花、魚、本などのオブジェで構成された不気味な頭部作品で知られている。

 

これらのアンチンボルド作品は、彼の別作品とはまったく作風が異なるものである。アンチンボルドは、ウィーンとプラハの3人の神聖ローマ皇帝のために肖像画を描いていた宮廷画家であり、また宗教的な主題や帝国動物園のエキゾチックな動物絵画を制作していた。

 

果実、動物、風景、さまざまな無生物などのオブジェでグロテスクで象徴的な人間肖像画は、おそらく宮廷を楽しませるため遊びで制作していたもだろうが、美術批評家のなかに、ルネサンス期の新プラトン主義やその時代の他の学問の潮流と関連して制作していたいたと主張するものもいる。

 

アンチンボルドは美術史において16世紀のマニエリスムの画家として位置づけられている。1520年から1590年までの過渡期であるマニエリスムは、盛期ルネサンスからさまざまな芸術的要素を取り込み、のちのバロック時代や幻想美術に多大な影響を与えた

略歴


ジョゼッペの父、ビアジア・アルチンボルドはミラノの芸術家だった。ジョゼッペ・アルチンボルドは、21歳のとき父と同じく地元の大聖堂のステンドグラスやフレスコ画のデザイナーとして仕事を始めた。

 

1562年に、オーストリア・ウィーンのハプスブルク家の宮廷でフェルディナンド1世の宮廷肖像画家となり、のちにはプラハの宮廷でマクシミリアン2世とその息子ルドルフ2世の宮廷肖像画家となる。

 

また、宮廷装飾や衣装デザイナーとしても活躍した。1570年と1573年にウィーンを訪れたザクセン選帝侯アウグストゥスは、アンチンボルドの作品を見て、彼自身の君主シンボルを組み込んだ『四季』の複製を依頼した。

 

アンチンボルドの伝統的な宗教的主題としたつきなみな作品は、今では忘却されたが、野菜や植物、果物、海の生き物、木の根などで構成された人間の頭部の肖像画は、同時代の人々から絶大な賞賛を受け、今もなおその魅力を放っている。

『春』1573年
『春』1573年

遠くから見ると普通の人間の肖像画のように見えるが、実際には個々のさまざまな物体が重なり合い解剖学的な形相になっている。それらは、アンチンボルドの想像力によって丁寧に構成されたものである。

 

それぞれの肖像画の中敷き詰められているオブジェは、ランダムに選ばれたものではなく、それぞれの特徴によって関連付けられている。

 

現在では複数の模倣作が存在している「司書」と呼ばれる肖像画では、アンチンボルドは、図書館の中に個々の自習室を仕切るカーテンなど、当時の富裕層の書籍文化を象徴するものを使用している。

 

肖像画のひげとなる動物のしっぽは、ほこり落としとしても使用されている。身の回りのものを使うことで、肖像画は装飾であると同時に静物画として成立させた。アンチンボルドの作品は、自然と人間だけでなく、それらがいかに密接な関係にあったかを描写している。

『司書』,1566年頃
『司書』,1566年頃

この肖像画が公開された後、当時の書籍文化を密接な関わりがある学者の中には、『司書』は自分たちの学問文化を嘲笑するものだと批難するものもいた。

 

実際のところ、アンチンボルドは富裕層の悪行を批判し、そのときの様子を絵を通して皮肉まじりに他伝えていた。『司書』は、ばかげた絵に見えるが、実際のところ本を「読むため」ではなく、本を「所有する」ことを目的に本を収集していた富裕層に対する批判が含まれている。

自然との密接な関係


マニエリスムは、人間と自然との密接な関係を表現する傾向があった。 アンチンボルドもまた、肖像画を通して自然への感謝の気持ちを描いた。『春』では、様々な春の花や植物だけで肖像画を構成している。

 

帽子から首に至るまで、唇や鼻に至るまで、肖像画のあらゆる部分は花で構成され、身体は植物で構成されている。

 

一方、『冬』では、人間はほとんどが木の根で構成されている。常緑樹の葉や他の木の枝は髪の毛になり、人間の肖像画の衣装は藁のマットになった。

『冬』,1563年
『冬』,1563年

狂気の産物か?理性か?


美術評論家たちは、アンチンボルドの絵画が気まぐれな遊びであったか、狂気における産物であったかについて議論している。

 

大多数の学者は、謎、パズル、そして奇妙なもの(例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチのグロテスクな頭など)を伴うルネサンス時代の流行を考慮すると、アンチンボルトは、狂っていたわけではなく、その時代の流行に合わせて理性的に制作されたという見解を示している。

死去


アンチンボルドは、プラハで宮廷画家の勤務終え引退した後、ミラノで死去した。

 

ルドルフ2世の合成肖像画や自画像「四季」を制作したのは、晩年だった。イタリアの同時代人の人たちは、詩や文書を通じて彼の輝かしい経歴を讃えた。

 

三十年戦争中の1648年にスウェーデン軍がプラハに侵攻した際、アンチンボルドの絵画の多くはルドルフ2世のコレクションから没収された。

 

作品は、ウィーンのクンストヒストリーシュ美術館、インスブルックのハプスブルク城アンブラス、パリのルーブル美術館、スウェーデンの数多くの美術館に所蔵されています。イタリアでは、クレモナ、ブレシア、フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されているる。

 

また、コネチカット州ハートフォードのワズワース・アテネウム、コロラド州デンバーのデンバー美術館、テキサス州ヒューストンのメニル財団、ガーンジーのカンディ美術館、マドリードのレアル・アカデミア・デ・ベラス・アルテス・デ・サンフェルナンドもアンチンボルドの絵画を所蔵している。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Giuseppe_Arcimboldo、2021年2月25日アクセス


【美術解説】ウィリアム・ブレイク「最も偉大で特異なイギリスの幻想画家」

$
0
0

ウィリアム・ブレイク / William Blake

最も偉大で特異なイギリスの幻想画家


ダンテ『新曲』の挿絵《恋人たちの旋風》1826-1827年
ダンテ『新曲』の挿絵《恋人たちの旋風》1826-1827年

概要


 

生年月日 1757年11月28日
死没月日 1827年8月12日
国籍 イギリス
表現形式 絵画、版画、詩
ムーブメント ロマン主義
関連サイト WikiArt(作品)

ウィリアム・ブレイク(1757年11月28日-1827年8月12日)はイギリスの画家、版画家、詩人。ロマン主義の先駆者。

 

生涯の間、ほとんど知られることがなかったが、ブレイクは現在、ロマン主義において最も重要な芸術家の一人とみなされている。2002年にBBCは「最も偉大なイギリス人100」でブレイクを38位に位置づけた。

 

ブレイクは同時代の人々からその特異な作風のため狂人と見なされ無視されていたが、のちに作品内に秘められた哲学的で神秘的な表現力や想像力が再発見され、批評家から高い評価を受けるようになった。

 

ブレイクの個人的な神話を描いた難解な詩のシリーズは、長らく理解されないままだったが、20世紀の文芸評論家ノースロップ・フライに『預言書的書物』として論じられ話題になった。また、彼の視覚芸術は21世紀の美術批評家ジョナサン・ジョーンズはブレイクについて「イギリスが生んだ遥かなる最大の芸術家」と評された。

 

ブレイクは、小さな版画や水彩画を中心に宇宙的ビジョンを展開しており、油彩の大作は少ない。詩人だったブレイクは中世写本を手本とした絵と文字の総合的幻想芸術を目指し、文字も絵も自作の「装飾版本」に取り組んだ。代表作は『無垢の歌』である。ほかにダンテの『新曲』やミルトンの『失楽園』の挿絵として幻想芸術的な水彩画をのこしている。

 

ブレイクは多くの政治的信念を拒絶していたが、『コモン=センス』の著者でアメリカ独立革命時に独立派に勇気を与えた政治活動家トマス・ペインと親密な関係を築いており、ブレイク自身はフランス革命やアメリカ独立革命を称賛していた。また、スウェーデンの科学者で神秘主義思想家のエマヌエル・スヴェーデンボリから影響を受けていた。

 

これらの人々から影響を受けているにも関わらず、レイクの作品の特異性はきわめてジャンル分類が困難とされている。今日、彼の絵画や詩などの芸術作品は、美術史において、初期ロマン主義運動の系譜に位置づけられているが、実際は象徴主義的でもあり、シュルレアリスム的でもある。そして、最も偉大な幻想絵画の1人とみなされている。

略歴


幼少期


ウィリアム・ブレイクは、1757年11月28日にロンドンのソーホーにある28ブロード・ストリート(現在のブロードウィック・ストリート)で生まれた。7人兄弟の3番目で、2人は幼児期に亡くなった。ブレイクの父ジェームズは靴商人だった。

 

ブレイクは読み書きの習得に必要な時間だけ学校に通ったあと、10歳退学し、そのほかの教育は母親のキャサリン・ブレイク(ニー・ライト)から自宅で学んだ。

 

ブレイクはイギリスで国教会に反対だったが、12月11日にロンドンのピカデリーにあるセント・ジェームズ教会で洗礼を受けた。聖書は幼少期にブレイクに深い影響を与え、生涯、インスピレーションの源であり続けた

 

ブレイクは父親が買い与えた古代ギリシャのドローイングのコピー版画を作りはじめた。版画を制作する過程で、ブレイクはラファエル、ミケランジェロ、マールテン・ファン・へームスケルク、アルブレヒト・ヂューラーの作品を通して古典形式に初めて触れる影響を受ける。

 

父ジェームズと母キャサリンが若いウィリアムのために購入した版画と製本の数の量から、少なくともしばらくの間、ブレイクの一家は裕福な環境にあったと推測されている。

 

ブレイクが10歳のとき、気難しい気質を理解していた両親は学校に連れて行くのをやめ、代わりにストランドにあるParsの美術学校でドローイング科に入学させた。

バジールの元へ見習い修行


1772年8月4日、ブレイクはグレート・クイーン・ストリートの彫刻家ジェームズ・バジールのもとに弟子入りし、7年間52.10ポンドで働いた。21歳で7年間の期間を終え、プロの彫刻家となった。

 

ブレイクが弟子入りしていた期間中に二人の間で深刻な意見の相違や対立があったという記録は残ってないが、ピーター・アクロイドの伝記によれば、ブレイクは後に芸術的な敵対者のリストにバジールの名前を加え、それを消したと書いている。

 

バジールの線画スタイルは、当時、より派手なスティップルやメゾチントのスタイルと比較すると古臭いものだとみなされていた。ブレイクが時代遅れの形式で指導を受けたことが、のちの人生における彼の仕事の受注や知名度に悪影響を与えたのではないかと推測されている。

 

2年後、バジールはロンドンのゴシック教会のイメージを模倣するために弟子を派遣する(おそらくブレイクと弟子仲間のジェームズ・パーカーとの不仲を解決するため)。ウェストミンスター寺院での経験が、彼の芸術的なスタイルとアイデアを形成するのに役立った。

 

当時の修道院は、鎧、葬儀の彫像、色とりどりの蝋細工で装飾されていた。アクロイドは、「色あせた明るさと色であっただろう」と指摘している。このゴシック様式の研究は、後の彼の作風に明確な痕跡を残している。

 

ブレイクが修道院でスケッチをしているとき、ウェストミンスター学校の生徒がときどきブレイクをからかうことがあった。怒ったブレイクは少年を現場の足場から地面に叩き落したという。

 

ブレイクは修道院で幻視を見たと話している。キリストが使徒たちが一緒にいたり、修道士や司祭たちの大行列を見て、彼らの聖歌を聞いたという。ブレイクは子どものころ、深夜に家の庭の木に天使が舞い降りてキラキラ輝いているのを見たという。そのため、変人扱いされていた

ロイヤル・アカデミー


1779年10月8日、ブレイクはストランド近郊のオールド・サマセット・ハウスにある王立アカデミーの学生となった。そこで彼は、学校の初代学長ジョシュア・レイノルズがルーベンスのような流行の画家の未完成なスタイルとみなされるものに反発した

 

時が経つにつれ、ブレイクはレイノルズの芸術に対する姿勢、特に「一般的真理」と「一般的美」の追求を嫌うようになった。レイノルズは『言説集』の中で、「抽象化、一般化、分類への気質は、人間の心の偉大な栄光である」と書いている。ブレイクは、彼の個人的なコピーの余白に、「一般化することは愚か者になることであり、特定化することは功利の単独の区別である」と答えている。

 

ブレイクはまた、レイノルズの見かけ上の謙遜さを偽善として嫌っていた。ブレイクは、レイノルズのファッショナブルな油絵に反して、初期の影響を受けたミケランジェロやラファエロの古典的な精密さを好んだ。

 

画家としては権威ある王立アカデミーの院長で、肖像画の第一人者であったレノルズとことごとく対立したため、ブレイクは世間的に認められず、生活も貧しいままに一生を終えることになる原因となった。

 

ブレイクは、ロイヤル・アカデミーに入学した最初の年に、ジョン・フラックスマン、トーマス・ストサード、ジョージ・カンバーランドらと友人になった。彼らは急進的な意見を共有し、ストサードとカンバーランドは憲法情報協会に参加した。

ゴードン暴動


ブレイクの最初の伝記作家であるアレクサンダー・ギルクリストは、1780年6月、ブレイクがグレート・クイーン・ストリートのベイザーの店に向かって歩いていたところ、ニューゲート刑務所を襲撃した暴れ狂う暴徒に巻き込まれたと記録している。

 

暴徒がスコップとつるはしで刑務所の門を攻撃し、建物に火をつけ、囚人を脱走させた。ブレイクは暴動の間、暴徒たちの最前列にいたと言われている。ローマ・カトリックへの制裁を撤回する議会法案に呼応して起きた暴動は、ゴードン・暴動として知られ、ジョージ3世政府の立法や初の警察組織の創設などを次々と引き起こした。

結婚と初期キャリア


ブレイクがキャサリン・ブーシェと出会ったのは1782年、プロポーズを断られて絶頂に達した関係から立ち直っていた時だった。

 

ブレイクはキャサリンと彼女の両親への失恋の話をした後、キャサリンに「私に同情するか?とキャサリンに尋ね、キャサリンが肯定的に答えると、彼は「じゃあ、愛してるよ」と話し、1782年8月18日、バッターシーの聖メアリー教会で5歳年下のキャサリンと結婚した。

 

文盲だったキャサリンは結婚の契約書に「X」で署名している。結婚証明書の原本は教会で見ることができ、1976年から1982年にかけて記念のステンドグラスの窓が設置された。

 

その後、ブレイクはキャサリンに読み書きを教えただけでなく、彫刻も教えた。ブレイクの生涯を通じて、彼女は彼のイルミネーション作品の印刷のアシスタントを行い、数々に見舞われる不幸の中で彼の精神を介護することになった。

 

ブレイクの最初の詩集『Poetical Sketches』は1783年頃に出版された。父の死後、元弟子のジェームズ・パーカーとともに1784年に印刷所を創設し、急進的な出版社ジョセフ・ジョンソンのもとで仕事を始めた。

 

ジョンソンの家は、当時のイギリスを代表する知的反体制派の何人かが集まる場所であった。神学者で科学者のジョセフ・プリーストリー、哲学者のリチャード・プライス、芸術家のジョン・ヘンリー・フュセリ、初期のフェミニストのメアリー・ウォルストンクラフト、イギリスの革命家トーマス・ペインなどが集まっていた。

 

ブレイクは、ウィリアム・ワーズワースやウィリアム・ゴッドウィンとともに、フランスやアメリカの革命に大きな期待を寄せ、フランス革命家と連帯してフリジア帽をかぶっていたが、ロベスピエールの台頭とフランス革命での恐怖政治に絶望した。1784年、ブレイクは未完の原稿『月の島』を作曲した。

 

ブレイクは、メアリー・ウォルストンクラフトの『実生活からのオリジナルストーリー』(第2版、1791年)の挿絵を描いている。

 

二人は性の平等や結婚制度について意見を共有していたようだが、二人が会ったことを証明する証拠ない。

 

1793年に出版された『アルビオンの娘たちのビジョンズ』でブレイクは、貞操観念と愛のない結婚という残酷な不条理を非難し、女性の自己実現の権利を擁護している。

 

1790年から1800年まで、ウィリアム・ブレイクはロンドンのノース・ランベス、ヘラクレス・ロードのヘラクレス・ビルディング13番地に住んでいた。この物件は1918年に取り壊されたが、現在は敷地内にプレートが設置されている。

『オベロンとティターニアとパックと妖精たちのダンス』 1786年
『オベロンとティターニアとパックと妖精たちのダンス』 1786年

■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/William_Blake,2018年7月30日アクセス

・西洋美術の歴史7 19世紀 中央公論新社


【美術解説】ヒエロニムス・ボス「初期フランドルの異端画家」

$
0
0

ヒエロニムス・ボス / Hieronymus Bosch

初期フランドルの異端画家


概要


生年月日 1450年
死没月日 1516年8月
国籍 オランダ
表現媒体 絵画
ムーブメント

初期フランドル派

ルネサンス

幻想美術

代表作

・《快楽の園》

・《聖アンソニーの誘惑》

ヒエロニムス・ボス(1450年-1516年8月)は初期フランドル派の画家。日本ではヒエロニムス・ボッシュと表記される事も多い。

 

風変わりなイメージや緻密な光景、宗教思想や神話のイラストレーション作品で知られる。シュルレアリスムのルーツの1つとみなされている。

 

生涯のうちにボスの作品は、ネーデルランド、オーストリア、スペインなど幅広い地域で人気を呼び、作品が収集されている。特に地獄の不気味で悪夢的な描写の作品が人気だった。

 

ボスの絵画には、異様な怪物や動物、奇妙な植物や建物といった、想像力の限りを尽くして創り出された不可思議にして奇怪なモチーフが、混沌とした世界を現出させているものがある。

 

ボスの生涯のほとんどは知られておらず、数少ない記録が残っているだけである。スヘルトーヘンボスにある祖父の家で生まれて、人生の大半をこの町で過ごした。先祖のルーツは、現在のドイツのアーヘン地方周辺にあるという。

 

ボスの悲劇的かつ幻想的なスタイルは、16世紀に北方芸術に広く影響を及ぼした。特にピーテル・ブリューゲルがボスの影響を受けていたことは有名である。

 

ボスの作品は、現代の視点から解説することは非常に難しい。ボスをアダム派と言われる異端の一派や、薔薇十字騎士団のような秘密結社と結びつけてみたりする試みも存在する。ボス自身は経験なカトリック信者だった。

 

今日、ボスは人間の欲望と深淵な恐怖を洞察する個性的な画家として受け止められており、特に美術史のスタイルやカテゴリを付けることは困難な作業となっている。宗教改革の際に作品の大部分が破壊されて消失しており、現在、確実にボスが描いたとされる作品は25作品残っている。代表的な作品は『快楽の園』である。

『最後の審判』
『最後の審判』
『聖アントニウスの誘惑 左扉』
『聖アントニウスの誘惑 左扉』

略歴


生涯


ヒエロニムス・ボスの本名はイェルーン・ファン・アーケン(Jeroen van Aken)。オランダ語でイェロニムス・ボス(Jheronimus Bosch)。彼は自身の絵画の多くにオランダ語のイェロニムス・ボス(Jheronimus Bosch)とサインをしている。この名前は彼の生誕地であるベルギー国境近くのヘルトゲンボッシュ(公爵の森)に由来している。

 

ボスの生い立ちや美術学習についてはほとんどわかってない。手紙や日記は残っておらず、ヘルトゲンボッシュ市の記録や聖母マリア修道会の会計帳簿に記録されているボスに関する少ない記録からしかわからない。彼の人柄や芸術の意図に関しては何も知られていない。

 

ボスの生年月日もはっきりとしたことはわかっていない。1516年に亡くなる直前に描かれた手描きの肖像画(自画像の可能性もある)から、1450年頃と推定されている。この肖像画には、おそらく60代後半である。

 

ボスはブラバント公国の都市ヘルトゲンボッシュで生まれ、生涯をそこで過ごした。彼の祖父ヤン・ファン・アーケン(1454年没)は画家で、1430年の記録に初めて現れる。ヤンには5人の息子がいたが、そのうち4人は画家だった。ボスの父アントニウス・ファン・アーケン(1478年頃没)は、宗教的友愛グループ「聖なる聖母の兄弟団」の芸術顧問を務めていた。

 

一般的には、ボスの父か叔父が絵を教えたと考えられているが、彼らの作品は現存していない。

 

ヘルトゲンボッシュは、15世紀に現在のオランダ南部のブラバントで栄えた都市で、当時はブルゴーニュ領ネーデルラントの一部であり、末期にハプスブルク家との結婚を経て、ハプスブルク領の一部になっていた。ボスの作品がスペインやオーストリアで収集されたのはハプスブルグ領であったことが起因しているだろう。

 

1463年、町で4,000軒の家が壊滅的な火災に見舞われる事件が起きたが、当時(約13歳)のボスはこれを目撃してトラウマになったと言われている。ボスは現役中に人気画家となり、しばしば国外から依頼を受けるようになった。 1486年7月、彼は非常に尊敬されている聖母同胞団に加入した。

 

1479年から1481年の間に、ボスは数歳年上のアリエット・ゴヤーツ・ファン・デン・ミーリーンと結婚。夫婦は近くの町オイルショットに移り住んだ。そこは裕福な家系出身の妻が家と土地を相続していた。

 

聖母同胞会の帳簿には、1516年にボスが亡くなったことが記されている。その年の8月9日、聖ヨハネ教会で彼を偲ぶ葬儀が行われた。

作品


ボスは少なくとも16点の三連画を制作しているが、そのうち8点は完全無傷で、5点は損傷している。ほとんどの作品が16世紀の宗教改革運動での偶像破壊のあおりを受けて紛失したという。

 

ボス作品は一般的に、初期(1470〜1485年頃)、中期(1485〜1500年頃)、後期(1500年頃〜没後)の3つの時期に分類される。ステファン・フィッシャーによれば、現存するボスの絵画のうち13点は後期に完成したもので、7点は中期に完成したものとみなされている。

 

ボスの初期について、彼の工房での活動とおそらくいくつかのドローイングの面から研究されている。実際、工房で教えていた生活たちはボスから影響を受けていた。

 

透明な釉薬を何度もかけて滑らかな表面に仕上げることで、ブラシワークを隠すという伝統的なフランドル絵画のスタイルとは対照的に、ボスは比較的大雑把な描き方をすることもあった。

 

インパスト絵画と呼ばれる荒い表面のボスの絵は、15世紀から16世紀初頭の偉大なオランダ画家たちのストローク跡など筆致をできるだけ隠し、人為性を感じさせない神聖な作品に仕上げようとしていた伝統様式とは異なるものだった。

 

ボスは自分の絵画に日付を入れていないが、当時としては珍しく、いくつかの絵画にサインをしているが、彼のものと思われるサインは確かではない。

 

16世紀後半に、スペインのフィリップ2世がボスの絵画のたくさん購入しているため、現在ではマドリードのプラド美術館に《魔術師の崇拝》、《土の喜びの庭》、《七つの大罪と四つの最後のもの》の卓上絵、《ヘイウェイン三部作》が所蔵されている。

絵具素材


ボスはおもにオーク材のパネルに油絵具を使って作品を描いた。ボスが使う画材はかなり限られたもので、当時の普通の顔料しか使っていなかった。青空や遠景には主にアズライトを、葉や前景にはマラカイトやバーディグリスなどの緑銅釉や絵具を、人物には鉛錫黄色や黄土色、赤湖などを用いている。

快楽の園


『悦楽の園』(1490−1510年)
『悦楽の園』(1490−1510年)

ボスの最も有名な三連画は《快楽の園》(1495年~1505年頃)で、左の『エデンの園』と右の『最後の審判』が中央のメインパネルを囲むように配置されている。フィッシャーは、ボッシュが中期から後期にかけて描いた移行期の絵画であるとみなしている。

 

左側のパネルでは、神はアダムとイヴとともに革新的に若々しい姿で神が描かれている与ほかに、描かれているのはエキゾチックな動物や珍しい半有機的な小屋のような形をした動物たちが住む風景である。

 

中央のパネルには、無邪気で独りよがりな喜びに満ちた裸体と、幻想的な複合動物、特大の果実、ハイブリッドな石の造形などが大パノラマで描かれている。

 

右側のパネルは、人類が悪の誘惑に屈し、永遠の呪縛を受けている地獄の世界が描かれている。夜に設定されたこの絵は、冷たい色、拷問された人物と凍った水路を特徴としている。

解釈


・20世紀になって芸術的カラーが変化し、ボスのような芸術家がヨーロッパの想像力をかいたてるようになったとき、ボスの芸術は異端的な集団(たとえば語るカタル人や、アダム派、自由心霊兄弟団)や、理解不能な異民族の習慣に触発されたものではないかという論争が起きた。

 

・エラスムスはヘルトゲンボッシュの共同生活兄弟会で教育を受けており、町は宗教的に進歩的であったため、エラスムスの辛辣な文章とボスのしばしば大胆な絵画との間に強い類似性があるのは当然であると考える人もいる。

 

・ボスの作品はイタリア・ルネッサンスの「グロテスク」のように、単純に人を刺激させたり、驚かせたりするために作られた絵画であると考えた人もいた。

 

・旧来の巨匠たちの作品が、日常的に人々が経験する物理的な世界に基づいていたのに対し、ボスは、美術史家ウォルター・ギブソンの言葉を借りれば、「目の前で形がちらつき、変化していくように見える夢の世界、悪夢の世界」を鑑賞者に突きつけている。

 

・1560年、スペイン人のフェリペ・デ・ゲバラは、ボスの絵画に関して、ボスは「怪物とキメラの発明者」に過ぎなかったと書いている。

 

・17世紀初頭、美術家の伝記作家カレル・ファン・マンデルは、ボスの作品を「不思議で奇妙な空想」で構成されていると評しているが、彼はボスの絵画は「見ていてぞっとするようなものではなく、気持ちのいいものではないことが多い」と結論づけている。

 

・最近数十年の間に、学者たちはボスのビジョンは幻想的だったり異常的なものではなく、同時代の正統的な宗教的信念体系を反映しているという見解を示している。ボスの罪深い人間性の描写や天国と地獄の概念は、現在では中世後期の教典文学や説教と一致していると考えられている。

 

・そのため、ボスの芸術は、詩人ロバート・ヘンリーソンのような北方ルネッサンスの他の人物に見られるように、特定の道徳的・精神的な真理を教えるために制作された宗教界であり、描かれたイメージは正確で計画的な意味があると考えられている。

帰属に関する議論


ボスの現在している作品の正確な数はかなり議論の的になっている。ボスのサインが確認できるのは現存する絵画のうち7点のみだが、実際に彼が描いたかどうかは不明である。

 

16世紀初頭以降、彼の絵画の多くの複製やバリエーションが流通し始めたことが知られている。また、彼のスタイルは非常に影響力があり、多くの芸術家に模倣された。

 

長年にわたり、学者たちは、かつて彼の手によるものと考えられていた作品を帰属させる作業は少なくなってきている。これは、赤外反射法のような技術の進歩により、研究者が絵画の下絵を調べることができるようになったことが一因である。

 

20世紀初頭から半ばにかけて、トルネイやバルダスといった美術史家たちは、ボスの手によるものと思われる絵画30~50点を特定しているが、後に発表されたゲルト・アンバーフェルトの論文では、ボッシュの手によるものは25点の絵画と14点のドローイングにすぎないとしている。

 

2016年初頭、ミズーリ州カンザスシティのネルソン・アトキンス美術館に展示されている小さなパネル《聖アンソニーの誘惑》は、ヒエロニムス・ボスの工房によるものとされてきたが、ボス研究保存プロジェクトによる集中的な法医学的研究の結果、ボス自身の作品であることが確認された。

 

一方、ボス研究保存プロジェクトは、これまでボスの作品とされてきた《プラドの七つの大罪》とヘント美術館の《十字架を運ぶキリスト》という2つの有名な絵画は、ボス自身の手によるものではなく、ボスの工房によるものとするべきかどうかについても疑問を呈している。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Hieronymus_Bosch、2020年4月18日アクセス


【作品解説】ウィリアム・ブレイク「オベロン、ティタニア、パックと踊る妖精たち」

$
0
0

オベロン、ティタニア、パックと踊る妖精たち

Oberon, Titania and Puck with Fairies Dancing


《オベロン、ティタニア、パックと踊る妖精たち》1785年頃
《オベロン、ティタニア、パックと踊る妖精たち》1785年頃

概要


作者 ウィリアム・ブレイク
制作年 1785年頃
サイズ 475 × 675 mm
媒体 紙に鉛筆と水彩
所蔵 テート・モダン

《オベロン、ティタニア、パックと踊る妖精たち》は、1785年頃にウィリアム・ブレイクによって制作された水彩画。約47.6 × 67.3cm。テート・モダン所蔵。

 

ブレイクが描いた最初の大判のシェイクスピアのイラストレーション。具体的には『真夏の夜の夢』の結末場面で、妖精王オベロンと女王ティタニアが再会し、蛾、エンドウ豆の花、クモの巣 、カラシの種子が輪になって踊り、中央でパックが手拍子をしている。

 

妖精たちは、花びらや葉っぱ、ゴージャスなドレスを身にまとい、無重力のようにつま先で踊っている。彼女たちは人間のように見えるが、木の幹に比べれば小さい。蛍の不思議な銀色の光が、妖精たちを魔法のような存在に変えている。

 

ブレイクの描写では、舞台はシーシアスの宮殿ではなく、アテネ近くの森に設定されている。妖精たちは魔法の輪を作って踊っている。

 

ブレイクの妖精描写の特徴と輪になって踊る妖精は、今日の妖精に対する概念を定義するのに役立っている。アンリ・マティスの《ダンス》の元絵としても知られる。


■参考文献

テート・モダン、2021年3月1日アクセス


【作品解説】ウィリアム・ブレイク「恋人たちのつむじ風:ダンテ『地獄編』第五部挿絵」

$
0
0

恋人たちのつむじ風:ダンテ『地獄編』第五部挿絵

The Lovers' Whirlwind illustrates Hell in Canto V of Dante's Inferno


《恋人たちのつむじ風:ダンテ『地獄編』第五部の挿絵》1824-1827年頃
《恋人たちのつむじ風:ダンテ『地獄編』第五部の挿絵》1824-1827年頃

概要


作者 ウィリアム・ブレイク
制作年 1824-1827年頃
サイズ 368 × 522 mm
媒体 紙に鉛筆と水彩とペンとひっかき
所蔵 バーミンガム市立美術博物館

《恋人たちのつむじ風:ダンテ『地獄編』第五部挿絵》は、1824年から1827年頃にウィリアム・ブレイクによって制作された水彩画。約36.8 × 52.2cm。バーミンガム所蔵。

 

この水彩画は「地獄篇」第5部25-455,127-142の挿絵で、この連作の中で最も有名で人気が高い作品である。

 

ダンテはいまだ肉欲の罪人の圏の中で中央に倒れて横たわっている。「恋人たちのつむじ風」はさまざまな男女のカップルと、フランチェスカ・ダ・リミニと彼女の夫ジャンチオッティの弟で恋人のパオロ・マラテスタを一緒に引き寄せる。彼ら2人は、横たわるダンテの上にある別の炎の中に描かれている。

 

これは作者であり、自作の詩の中の登場人物でもあるダンテが、地獄で罰せられた人たちに憐れみをかんじ、またブレイク自身の作品《憐れみ》をも暗示する重要な例である。

 

つむじ風のような構図のエネルギーは、ブレイクがこの禁じられた恋の物語によって引き起こされたエネルギーの爆発に賛嘆を禁じえないことを暗示している。


■参考文献

・ウィリアム・ブレイク展1990年図録



【作品解説】ウィリアム・ブレイク「グレート・レッド・ドラゴン」の絵画シリーズ」

$
0
0

「グレート・レッド・ドラゴン」の絵画シリーズ

The Great Red Dragon paintings


《グレート・レッド・ドラゴンと太陽の女》1805-1810年頃
《グレート・レッド・ドラゴンと太陽の女》1805-1810年頃

概要


作者 ウィリアム・ブレイク
制作年 1805-1810年頃
媒体 紙に鉛筆と水彩とペンとひっかき

『グレート・レッド・ドラゴン』の絵画シリーズは、1805年から1810年の間に描かれたウィリアム・ブレイクの水彩画である。

 

ブレイクは、聖書の内容をわかりやすく説明するため100点以上の絵画の制作を依頼されたのは、この期間中だった。これらの絵画には、黙示録の様々な場面で「グレート・レッド・ドラゴン」が描かれている。

 

「見よ、大きな赤い竜がいて、七つの頭と十本の角を持ち、その頭には七つの冠があった。その尾は天の星の第三の部分を引き抜き、それらを地に投げ捨てた。」

グレート・レッド・ドラゴンと太陽の女


《グレート・レッド・ドラゴンと太陽の女》1805-1810年頃
《グレート・レッド・ドラゴンと太陽の女》1805-1810年頃

サイズ:43.7×34.8cm

所蔵:ブルックリン博物館

グレート・レッド・ドラゴンと太陽の女


《グレート・レッド・ドラゴンと太陽の女》1805-1810年頃
《グレート・レッド・ドラゴンと太陽の女》1805-1810年頃

この作品はブルックリン博物館にある同名の作品と類似しているが、被写体が異なる視点から描かれており、人物の位置も異なっている。

 

サイズ:40.8 × 33.7cm

所蔵:ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー

グレート・レッド・ドラゴンと海の獣


《グレート・レッド・ドラゴンと海の獣》1805-1810年頃
《グレート・レッド・ドラゴンと海の獣》1805-1810年頃

サイズ:40.1 × 35.6cm

所蔵:ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー

獣の数は666


《獣の数は666》1805-1810年頃
《獣の数は666》1805-1810年頃

サイズ:40.6 × 33.0cm

所蔵:ローゼンバッハ博物館・図書館


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/The_Great_Red_Dragon_paintings、2021年3月1日アクセス


【真作保証】オークション高額作家に注意【模写】

$
0
0

美術的価値もきちんと定まってないまま、オークション会社やオークションサイトなどアートプレイーによって、一桁から二桁も釣り上げられている若手画家の作品の購入にご注意ください。おそらく、作家自身も困惑していることだと思いますので、作家を責めたてるのはやめてください。

作家リスト


  • ロッ○○アヤコ
  • K○ne
  • 小○美羽
  • Back○○○○ works.
  • 天野タ○ル←特にたち悪い業者に狙われている
  • 山○歴
  • ハシ○メユウ○←特にたち悪い業者に狙われている
  • Him○←特にたち悪い業者に狙われている
  • 古○つみ←特にたち悪い業者に狙われている

【オークション】ロッカクアヤコ「無題」木版画作品が200万円以上で落札【価格】

$
0
0

ロッカクアヤコ「無題」木版画作品が200万円以上で落札

前回のダンボール版画160万を大幅に上回る


2021年3月6日、ヤフオクでロッカクアヤコの木版画作品「無題」が2,015,000円で落札された。

 

本作品に詳細な説明はないが、おそらく2020年11月に制作され、2021年1月にギャラリー・ターゲットで抽選販売された木版画作品『無題』(エディション120)で、「魔法の手 ロッカクアヤコ作品展」にて展示された作品の版画だと思われる。元値は385,000円(税込、送料別途)額なし。

 

商品説明画像にはギャラリー・ターゲットからの当選メールや納品書の写真が添付されているので、真作の可能性は高い。

 

ロッカクアヤコ作品は、12月に抽選で販売されたロッカクアヤコ サイン入りポスターが定価11,000円から200,000円前後で転売されている。

 

また、昨年12月には66枚限定+サイン入りのダンボール版画作品が1,600,000円で落札されたが、その版画作品を大きく上回る値段で落札された。

 

なお、今年1月末に開催されたSBIオークションでは、2012年のリトグラフ作品「無題」(ED75)が3,220,000円で落札、2017年のシルクスクリーン作品「早生まれ行進曲」(ED66)が2,127,500円で落札されている。今回の木版画作品は「早生まれ行進曲」(ED66)と同程度の価格で取引された。このヤフオクの結果は次のSBIオークションの価格にも影響を与えるだろう。

 

現在、奈良美智の2014年木版画(ED25)が約4,000,000円で取引されているが、おそらく今年中には奈良美智を追い抜くことは間違いないだろう。

 

今後まだまだ作品の値段は上がる注目のオークション作家である。ヤフオク、またロッカクアヤコをプッシュしているSBIオークションや美術手帖の動向にも注目していきたい。





【美術解説】烏合麒麟「暴力やテロを賛美するアートに疑問を投げかける中国の画家」

$
0
0

烏合麒麟 / Wuheqilin

暴力やテロを賛美するアートに疑問を投げかける中国の画家


オーストラリア兵が子供の喉を切り裂くC
オーストラリア兵が子供の喉を切り裂くC

概要


烏合麒麟(1980年代生まれ)は中国のCG(コンピューター・グラフィック)画家、戦狼芸術家。中国外務省情報部副部長の趙立堅がツイッターにアップロードして物議をかもした画像の作者として知られている。

 

2020年12月、趙はオーストラリア兵が子供の喉を切り裂くCGをTwitterに投稿して物議をかもす。オーストラリアは中国に対し謝罪を要求するが、中国は翌日、謝罪要求を拒否した。趙がツイッターに掲載する1週間前の11月23日にこの画像を微博で発表している。

 

中国の領土であるはずの香港のデモに外部勢力が関与していることを知り、危機感を覚えて制作した『進撃的国漫人』(進撃の中国人漫画家)という作品を自らの微博アカウントに公開して注目を集めた。

 

烏合麒麟は趙立堅が自分の作品をツイートしたことに興奮し、「趙監督、めちゃくちゃパワフル!彼らの尻を蹴りあげましょう!私のために武装解除してください!!!」と微博に書いている。

 

中国のプロバガンダ・アートの新世代


 烏合麒麟は、テロや暴力は批判されるべきなのに、香港のプロテストたちは、漫画や文芸作品を使うことで、暴力を美化し粉飾した香港のプロテスト・アートを批判している。

 

2019年には「香港警察を醜く、自分たちテロリストを英雄のように描いた。そこで自分は自分の武器を使って反撃したのだ」-と述べ、火炎瓶を持った自由の女神に香港の活動家が跪く「偽物の神(偽神)」というCGを発表した。

 

 

烏合麒麟のソーシャルメディアのフォロワーの数は、その後100万人に増加し、中国のプロパガンダ・アートの新世代としての作品を称賛する人もいる。

「武漢日記」に対する批判作品「臣下に冠を授ける(為弄臣加冕)」


また、「臣下に冠を授ける(為弄臣加冕)」という、刃物が刺さった血染めの本を手にかしずくピエロに王様が冠を授ける絵を微博で発表している。これは、国際的な反響を呼んだ「武漢日記」が海外で出版された方方に対する批判だという。

 

「自分は断固とした国家主義者だ。自分はまず中国人であり、その次に文芸工作者なのだ。創作は自由だが、国家意識を持たねばならない。自分だったらまず外国での出版を断っていただろう」彼は番組でこう語っている。



【作品解説】神奈川沖波裏トリチウム「原発処理水の放水を皮肉るパロディ画」

$
0
0

神奈川沖波裏トリチウム / The Great Wave off Kanagawa Tritium

原発処理水の放水を皮肉るパロディ画


概要


《神奈川沖波裏トリチウム》は中国の遼寧省大連の匿名イラストレーターの作品。日本を象徴する作品《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》のパロディー画。

 

中国のソーシャルメディア「新浪微博」でネットユーザーの間で話題になったもので東京電力福島第一原発の処理水放出問題を皮肉った作品。この作品を戦狼外交で注目を集めている中国外務省の趙立堅副報道局長が、Twitterに投稿したことで4月下旬に物議を醸した。

 

波打ち際の白いしぶきは、変形した人間の指、奇形のような赤ん坊、海の中でもがく突然変異した海洋生物として再現されている。ネクタイを締めた日本の官僚たちが頭を下げて間違った判断を謝罪し、防護服とガスマスクをつけた作業員たちがバケツに入った核廃水を海に流している。そして、背後には十字架の形をした雲が描かれている。

 

福島第一原子力発電所の廃水を太平洋に投棄したり、日本の首相がいまだ軍国主義的な神社に参拝するなど、日本政府の無責任な行動をとるため、中国の人々の間では「礼儀正しい国」という日本のイメージが崩壊しかけているという。

 

日本の偉大な浮世絵である《神奈川沖の大波》は、困難に立ち向かい、粘り強く前進する勇敢な人間の象徴とされているが、現在、中国のソーシャルメディアでは風刺的なシンボルになっている。

 

趙立堅は防護服を着た人物が船からバケツで液体を流す様子などが描かれ「北斎が生きていれば非常に心配していただろう」と書き込んだ。

 

日本政府が投棄を決定した123万トン以上の汚染水には、トリチウムや炭素14、ストロンチウム90、ヨウ素129、コバルト16など、多くの放射性同位元素が含まれていると専門家は推定している。

 

この匿名イラストレーターは、グローバル・タイムズ紙の取材に対し、日本の決定を非常に残念に思うと述べ、このイラストは彼なりの抗議の方法であると付け加えた。

 

「私のデザインの詳細はすべて直感的なもので、中国人にも日本人にも、そして西洋人にも理解できる絵であることを願っています。もし日本が最終的に核で汚染された水を捨てれば、全人類にとっての結果は、この絵に描かれている通りになるでしょう」と述べている。

 

このイラストは、新浪微博(Sina Weibo)で模倣が相次ぎ、より多くの才能ある中国のネットユーザーによりパロディ作品を制作された。中には、蛍光グリーンを海の色に見立てて、放射能汚染された海や奇妙な突然変異を起こした海洋生物を表現したものもある。


■参考文献

https://www.globaltimes.cn/page/202104/1221726.shtml、2021年4月28日アクセス


【作品解説】平和の像(慰安婦像)「日本軍に性的奴隷にされた慰安婦の象徴」

$
0
0

平和の像(慰安婦像)/ Statue of Peace

日本軍に性的奴隷にされた慰安婦の象徴


ソウルの在大韓民国大使館に面した後ろからの慰安婦像
ソウルの在大韓民国大使館に面した後ろからの慰安婦像

概要


平和の像(韓国語: 평화의 소녀상)は、韓国語の発音で「少女の像」、または「慰安婦像」と呼ばれる彫刻。

 

第二次世界大戦で起きた満州事変から太平洋戦争集結までの間に、日本軍に性的奴隷にされた慰安婦の象徴

 

平和の像は、日本政府に対して謝罪と反省を求めることを目的として建造されたモニュメント(記念碑)である。

 

「日本の軍事的性奴隷制に徴用された女性のための韓国人協議会」がソウルの日本大使館前に、日本帝国軍による性奴隷制の犠牲となった慰安婦の苦痛を慰めるために、記念の石を建てることを提案した。この提案は2011年12月14日に実現し、大使館前にブロンズ像が設置された。

 

この像は美術ではなく記念碑であるのに国際芸術展に展示されたため、記念碑と美術を区別する美術業界との間で表現に関する争点となっている。

 

記念碑か美術かをめぐる最近の騒動は「ロバート・E・リー記念碑の改ざん」がある。「ロバート・E・リー記念碑」は1世紀前の奴隷制の支持者を讃えた像だが、現在は大衆の目にさらされる場に設置する記念碑としてふさわしくなくないとして、バージニア州は博物館(美術館)に所蔵する提案を出している。


【作品解説】CCP Virus「フランケンシュタインのような合成ウイルス」

$
0
0

CCP Virus

フランケンシュタインのような合成ウイルス


概要


《CCP Virus》は匿名の華僑がTwitterに投稿したCGイラストレーション。

 

香港から米国に亡命した科学者閻麗夢博士がCOVID-19を「牛に鹿の頭、兎の耳、猿の手を加えたようなフランケンシュタインだ」と例えた話を視覚化している。

 

閻麗夢博士によればCOVID-19は、武漢華南海鮮卸売市場から出た自然由来のウイルスではないと証言している。COVID-19は、中国人民解放軍が所持していた「舟山コウモリコロナウイルス」を機能獲得実験を繰り返して作られた人工ウイルスだと彼女は主張している。



レオナルドの熊の絵がオークションに出品

$
0
0

レオナルドの熊の絵がオークションに出品

最高額の1600万ドル以上で落札予定


レオナルド・ダ・ヴィンチ『熊の頭』
レオナルド・ダ・ヴィンチ『熊の頭』

概要


レオナルド・ダ・ヴィンチの『熊の頭部』のドローイング作品が、7月のクリスティーズのオークションに出展される予定で、1600万ドル以上で落札されると予想されている。

 

ピンクベージュの紙に銀筆で描かれた「熊の頭」は、英国王室コレクションやチャッツワースのデボンシャー・コレクションを除いて、個人に所有しているレオナルドの8枚以下のデッサンのうちの1枚と見なされている。

 

もし、このドローイング作品が見積通りの価格で落札されれば、古典巨匠の新記録となる。ドローイングの最高額は、2001年の『Horse and Rider(馬と騎手)』で、1100万ドル以上で落札されている。

 

クリスティーズ・パリの古典巨匠班の国際部門長であるスティーン・アルステンスは、「レオナルドが描いた最後のデッサンの一つであり、市場に出回ることが期待される『熊の頭』が、7月に新記録を達成すると確信しています」と述べている。

 

この絵の元の所有者は、イギリスの画家トーマス・ローレンスで、1830年に彼が亡くなると、彼のディーラーであるサミュエル・ウッドバーンに引き継がれ、1860年にクリスティーズに2.50ポンド(3.50ドル)で売却されたとオークションハウスは発表している。



【美術解説】トム・マーシャル「歴史的な白黒写真をカラー化する写真家」

$
0
0

トム・マーシャル / Tom Marshall

歴史的な白黒写真をカラー化する写真家


概要


トム・マーシャル(1988年生まれ)はイギリスの写真家。YouTuber、写真編集者。歴史的な白黒写真をカラー化する作品で知られる。

 

2020年にアウシュビッツ解放75周年とホロコースト・メモリアル・デーを記念して、マーシャルは1945年中に撮影されたホロコーストの犠牲者の写真をカラー化した。

 

ホロコーストの白黒写真に色をつけ、遠い世界の人々の顔を生き生きと認識できるようにすることで、多くの人々の注目を集めた。

 

マーシャルの写真は、第二次世界大戦中の強制収容所で起こった苦しみの深さを浮き彫りにしており、印象的かつ恐ろしいものとなっている。

 

歴史的な写真をカラー修復することで知られるマーシャルは、このプロジェクトを「これまで手がけた中で最も悲惨な写真修復プロジェクト」と称している。

 

「今週、世界ではホロコースト記念日が開催され、アウシュビッツ強制収容所がソビエトによって解放されてから75年を迎えました」と、2020年2月にBored Pandaに投稿している。

 

「この記念日を記念して、世界がナチスによるホロコーストの恐怖を完全に認識した1945年の最初の数ヶ月間に撮影された歴史的な写真をカラー化しました」

 

彼の写真はすぐに広まり、ウェブサイトだけで60万回以上も閲覧された。

 

写真家たちによれば、ホロコーストの写真に色を付けることは、通常のありふれた被写体ではないため、困難であったと指摘している。マーシャルはタブーに挑戦したのだ。

 

「解放された時には死期が迫っていたため、肌色の描き方も全く違っていました」「カラーでは、骨や血の気のない青白い肌が見え、若い男性でも白髪や目の周りの黒い斑点で老けて見える」

 

 

マーシャルは、ホロコーストのカラー写真を共有することで、「このような写真を適切かつ衝撃的なものにすることで、二度とこのようなことが起こらないようにしたい」と考えているという。



【ヴァンダリズム】米国バージニア州で南軍の将軍と探検家たちの銅像が撤去完了

$
0
0

4年にわたる奴隷象徴像の撤去訴訟に幕

ブラック・ライブズ・マター歓喜

南軍将軍の記念像の撤去


2021年7月10日(土)、バージニア州シャーロッツビルで、南軍のロバート・E・リー将軍とトーマス・ストーンウォール・ジャクソン将軍の像が撤去された

 

1924年から市内の奴隷解放公園に建設され、1997年に国家歴史登録財に登録された高さ26フィートのリー氏のブロンズ像は、午前8時過ぎに最初に撤去された。

 

次に著名な彫刻家チャールズ・ケックが1921年に完成させたジャクソン元帥のブロンズ像は、午前10時頃に近くのジャクソン・パークの台座から撤去された。

 

リーとジャクソンは共に奴隷の所有者であり、南北戦争では奴隷制度の廃止に反対して戦った

 

2018年に、彫像は「内戦退役軍人の記念碑」として評価されたと判断し、バージニア州法により保護されたが、その後のBLM運動の高まりを受け、2021年4月に判決は覆されることになった。

 

これらの銅像は今後、非公開の場所で保存される(破壊はされない)。

 

ロバートE.リー将軍の高さ26フィートの銅像は、土曜日の午前8時過ぎ、4年間にわたる法廷闘争の夜に基地から撤去された。
ロバートE.リー将軍の高さ26フィートの銅像は、土曜日の午前8時過ぎ、4年間にわたる法廷闘争の夜に基地から撤去された。

同日に探検家たちの銅像も電撃撤去


また同日、市議会は探検家のメリウェザー・ルイス、ウィリアム・クラーク、サカガウィアを表現した記念碑を撤去するための投票が行われ撤去が決定

 

南軍の記念碑をすでに撤去し終えていた作業員たちがクレーンで探検家像のもとに駆けつけ、ルイス、クラーク、サカガウィアの像を撤去した。午後2時45分頃に平台トラックで運び出された。

 

 

探検家の像は、リーとジャクソンの像の撤去が終わった数時間後に撤去され、見物人の歓声の中で取り壊された。

 

1919年に建てられた探検家の像は、ネイティブ・アメリカンのガイドであるサカガウィアが白人の探検家の隣にひざまずいている姿を描いているが、批評家は彼女の「トラッキング」を描いたものだと主張している。

 

デイリー・プログレス紙によると、サカガウィアの子孫であるローズ・アン・エイブラハムソン氏は、緊急審議会で「まったくもって不快であり、抹消すべきだと感じています」と述べた。

 

撤去された探検家の銅像の行方はわかっていない。シャーロッツビルのルイス・クラーク探検センターが、この像を引き取ることを申し出たが、市議会はまだその計画に同意していない。

同日、電撃撤去される探検家メリウェザールイス、ウィリアムクラーク、サカガウィアを描いたシャーロッツビルの記念碑。
同日、電撃撤去される探検家メリウェザールイス、ウィリアムクラーク、サカガウィアを描いたシャーロッツビルの記念碑。

白人至上主義者と抗議団体の闘争に幕


歓喜に満ちた地元の人々は道路に並び、像がトラックのトレイに積まれるのを見届けた後、走り去っていった。歴史的な彫刻が倉庫に運ばれていく間、数人の観客はブラック・ライブズ・マターズのTシャツを着て、互いに抱き合って喜んだ

 

カップル、小さな子供連れの家族、活動家が土曜日に閲覧した。進行がかなり速くなったので、群衆は断続的に詠唱し、歓声を上げた。 賛美歌が通りを漂い、ミュージシャンが教会の正面の階段から演奏した。

 

 

南部連合記念碑の両方を撤去しようとする動きは2016年に始まった。

 

リー記念碑の撤去の推進は、もともとは2016年に黒人高校生のジャハナ・ブライアントが始めた請願で始まった。すぐに訴訟が提起されたが、市の計画は保留された。

 

その後、白人至上主義者たちが2017年8月に同市で「ユナイト・ザ・ライト」集会を開催するきっかけとなった。

 

このイベントは、2019年6月に殺人罪で終身刑となったジェームズ・フィールズが運転する車が白人至上主義の集会に抗議する人々のグループに突っ込んで多数の死者を出して抗議運動が頂点に達した。シャーロッツビルのニクヤ・ウォーカー市長は、夜明け直後に白人至上主義を断罪するスピーチを行った。

 

2017年8月の「ユナイト・ザ・ライト」集会の後、リーとジャクソンの両方の記念碑は、6か月間の黒い防水シートで覆われていた。 

 

しかし、2018年2月、巡回裁判所のリチャードE.ムーア裁判官は、防水シートを降ろすよう命じた。翌年、彼は両方の彫像が「内戦退役軍人の記念碑」として分類され、バージニア州法によって保護されていると判断した。

 

しかし、事件はその後バージニア州最高裁判所に持ち込まれ、2021年4月に記念碑を完全撤去するとと裁定をくだした。 

 

南部貧困法センターによると、ジョージ・フロイドの死が2020年の夏に広範囲にわたる抗議を引き起こして以来、少なくとも160の南軍の彫像が取り壊されたという。

地元の人々は、彫像が追い払われトラックに積み込まれるのを見るために道路に並んで歓喜した。
地元の人々は、彫像が追い払われトラックに積み込まれるのを見るために道路に並んで歓喜した。


【アウトサイダー・アート】ハンター・バイデンが「賄賂としての芸術」を開く

$
0
0

ハンター・バイデンは何を描くのか?

高価格アートの匿名性がもたらすもの



ジョー・バイデンの息子のハンター・バイデンが芸術家としてデビューしたが、キャリアのない彼の作品に5000万の価格が付けられると噂されている。この価格について、多くの芸術関係者はハンターの美術作品の価値に対して疑問を持っている。

 

さらに、疑問なのはホワイトハウスはハンターの作品の入札者や購入者を秘密にすると発表したことだ。 

 

ホワイトハウス関係者は、大統領として発生する可能性のある倫理的問題を回避するために、ハンター・バイデンの芸術作品の売買に対して秘密裏に行う交渉と契約を画商と行った。ホワイトハウスの副報道官であるアンドリュー・ベイツは、バイヤーの守秘義務により、プロセスが倫理的であることを保証すると示唆した。

 

ニューヨークの画商のジョルジュ・ベルジェスはアートの価格を設定することを計画しているが、潜在的な入札者と最終的な購入者を含むすべての情報は差し控えるようにするという。ベルジェスはによれば、絵画の価格は75,000ドルから500,000ドルの範囲になるという。

 

このことは、ハンターの作品は「賄賂としての芸術」または「制裁回避の芸術」という新しいアート・ヒストリーを開ける可能性をもたらすかもしれない。一見すると影響力のあるギャラリーが米国大統領に支援するのを防ぐためだといわれるが

外国政府が作品購入したり、ロビイストがアートを購入しすることでホワイトハウスから利益を得ようとする可能性があるためだ。

 

アート売買は追跡が難しいことで知られている。昨年アメリカ財務省は、高価値アートの流通市場と購入者の匿名性により、外国が経済制裁を回避し、米国経済にアクセスできるようになる可能性があると警告した。

 

バラク・オバマ前大統領とドナルド・トランプ前大統領の下で政府倫理局の局長を務めたウォルター・シャウブ氏は、2021年7月9日(金)にCNNの「ニュースルーム」で、バイデン政権が大統領の息子ハンター・バイデンの美術作品の販売に関して「賄賂としての芸術」の完璧なシステムを作りだしていると述べた。

 

シャウブは、また「政府の倫理を画商に委託している。アートはマネーロンダリングで悪名高い業界ですからね。これはとんでもないことで、非常に残念だ」と述べた。「ホワイトハウスは2つの悪い問題がある。ひとつは、誰がハンターのアートを買ったのかわからないこと。次に彼が父親の名声から利益を得ていることです。彼は匿名で売っていない」と指摘している。

 

過去10年間、マンハッタンのローワーイーストサイドにギャラリーを経営してきたマークストラウスは、専門的な美術教育を受けておらず、キャリアのない芸術家が「こんな価格で始めることはない。価格が高くなるにはその価格を保証する合理的なキャリアがなければならない」と述べた。

 

元弁護士兼ロビイストであるハンター・バイデンは、依存症や以前のビジネスに対する継続的な犯罪捜査など、多くの個人的なスキャンダラスを経験したため表舞台から離れ、最近はアートの世界に目を向けている。ハンターは、ウクライナ、中国、その他、アメリカと敵対関係のある場所でビジネスを展開しており、共和党から父親の利益相反としてしばしば非難されている。

 

ホワイトハウスのジェン・プサキ報道官は会見でハンターの芸術家デビューに関して、「慎重に検討した結果、ハンター・バイデンが合理的な保護措置のもとで職業に就くことができるシステムが確立できたことをお伝えすることができます。もちろん、大統領の子供がキャリアを追求する権利を持っているのと同じように、彼は芸術的なキャリアを追求する権利を持っていますと述べた。

 

ハンターの最初の個展とオークションは、ニューヨークのジョージ・ベルジェ・ギャラリーで10月に開催される。ギャラリーでは、油絵、アクリル画、水墨画を「バイデンの特徴となった独特の体験」と表現している。

 

ディーラーによれば、小さいものは75,000ドルで売られ、大きいものは50万ドルに達すると予想されている。



タッカー・カールソン「ハンター・バイデンの美術販売はひどく腐敗している」

$
0
0

無学の新人画家が5000万で販売予定?

ハンター・バイデンの美術販売はひどく腐敗している


タッカー・カールソン:ハンター・バイデンが本当にやりたかったことは絵を描くことだったのです。そして今、ハンター・バイデンは彼の絵を販売していますが、その絵はとても素晴らしく、ニューヨークやロサンゼルスのプライベートギャラリーでは、1枚だけ買うために50万ドルも払う人がいたと言われています。

 

ワシントン・ポストによると、ホワイトハウスが彼を支援しているそうです。彼らはハンター・バイデンが絵画を購入した人を匿名にする契約を結ぶ手助けをしたそうです。

 

ミランダ・デバインは、バイデン一家と議会とのビジネス取引について、ワシントンポスト紙で幅広く報道してきたジャーナリスト。今回は彼女に登場していただきます。ホワイトハウスは長男の美術品取引を支援していますが、ここ数週間、あるアーティストが50万ドルもする美術品取引内容を秘密にするなんて、私には明らかな汚職としか思えません。

 

ミランダ・デバイン:ハンター・バイデンの絵画の購入者とその出身国を秘密にして取引の透明性を下げれば、誰かが彼の絵画に50万ドルを費やしてホワイトハウスへのアクセス権を買っているかもしれないという問題を解決できると考えていることがおかしいのです。狂気の沙汰ですが、少なくとも、ホワイトハウスが倫理について話し合っているのは良いことです。

 

ニューヨーク・ポスト紙がハンター・バイデンのラップトップについての記事を掲載してからまだ9ヶ月しか経っておらず、少なくとも倫理的な問題があることは明らかで、私たちもそれについて報告してきました。しかし、ホワイトハウスは、自分たちの倫理方針を、マンハッタンの美術品取引担当者やハンターの仲間に、スムーズに委託できると考えているようで、ちょっと信じられません。

 

ハンターの仲間は、購入者をどうにかして吟味します。中国の男が中国共産党の高官メンバーであるかどうか、ロシアの男が元汚職モスクワ市長や、ウクライナのエネルギー関連の汚職オリガルヒと関係があるかどうか、どうにかして知っています。彼は自分が外交政策の専門家でも諜報員でもないことをどうやって知ったのでしょうか。

 

それ自体がおかしいのですが、もう一つおかしいのは、ハンターとその仲間が、これらの絵画の価格を決めることにして、それを提示していることです。50万ドルと言いましたが、初めての画家にしては破格の値段です。今週売られたピカソは、メイン州のクローゼットで30年間眠っていたものが発見されたものです。それが15万ドルで落札されたのに、ハンターはその3倍を要求しているのですから、うまくいくとは思えません。

 

タッカー・カールソン:つまり、国際的な芸術市場には何のいかがわしさもありませんし、大規模な税金の無駄遣いでもありません。麻薬カルテルとの取引の方が、少なくとも彼らは自分たちが何者であるかを知っているので、より直接的な取引ができると思います。ありがとうございます。お会いできて嬉しいです。

 

関連リンク【アウトサイダー・アート】ハンター・バイデンが「賄賂としての芸術」を開く



Viewing all 1617 articles
Browse latest View live