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【作品解説】マルセル・デュシャン「泉」

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泉 / Fountain

20世紀美術のランドマーク作品


マルセル・デュシャン「泉」(1917年)
マルセル・デュシャン「泉」(1917年)

概要


20世紀最大のランドマーク作品


「泉」は1917年にマルセル・デュシャンによって制作されたレディ・メイド作品。セラミック製の男性用小便器に“R.Mutt"という署名と年号が入れられ、「Fountain」というタイトルが付けられている。このタイトルはジョゼフ・ステラとウォルター・アレンズバーグが決めたといわれている。

 

1917年にニューヨークのグランド・セントラル・パレスで開催された独立美術協会の年次企画展覧会に出品予定の作品だったものである。この展覧会では手数料さえ払えば誰でも作品を出品できたにも関わらず、「泉」は委員会から展示を拒否される。その後、作品はアルフレッド・スティーグリッツの画廊「291」で展示され、撮影され、また雑誌『ザ・ブラインド・マン』で掲載され批評が行われたが、オリジナル作品は消失。

 

1960年代にデュシャンの委託によって17点のレプリカが作られ現存している。本作は前衛芸術の美術史家でまた理論家であるピーター・バーガーにより、「泉」は20世紀の前衛美術の最も主要なランドマーク作品としてみなされている。 

 

Wikipedia-Foutainより

制作と展示まで


マルセル・デュシャンは「泉」を制作する2年前にアメリカへ移住し、ニューヨーク・ダダムーブメントの中心人物として活動していました。

 

「泉」の制作には2つの説があります。デュシャンはニューヨーク五番街の衛生器具店「J.L.モット・アイロン・ワークス」で標準的なベッドフォードシャー・モデルの男性用小便器を購入し、西67番街にあるスタジオに持ち帰ったあと、通常の使用位置から90度傾けて、排水口の部分が正面に来るようにして、正面に "R. Mutt 1917"と署名したという制作過程です。また、「泉」の制作には、画家のジョセフ・ステラやコレクターのウォルター・アレンズバーグも関与したとされています。これが、一般的に広く浸透している説です。

 

もう1つは「泉」の作者はデュシャンではないという説。本来は独立美術協会に出品予定だった女性アーティストとの友達の作品を手助けしたものだったといいます。1917年4月11日付けの妹シュザンヌに宛てた手紙でデュシャンは、泉の出品に関する事を書いています。そこには「「リチャード・マット」という男性のペンネームを使って、私の友人の一人が私に彫刻作品として送ってきた」と記載されています。

 

デュシャン決して協力した人物を公表することはありませんでしたが、現在2人の人物が真の作者として考えられています。1人は同じニューヨークの女性ダダイストのエルザ・フォン・フライターク・ローリンホーヴェンで、彼女の美術的価値や作品はデュシャンのレディ・メイドと極めて似通っています。

 

もう一人はルイズ・ノートンで、彼女は『ブラインド・マン』誌上に泉に関する解説文を執筆したとされる人物です。ルイズ・ノートンは当時、夫と離婚して両親とニューヨーク西88番街のアパートに住んでいましたが、この住所はスティーグリッツの写真で見られるが、オブジェに付いている入場券の紙に記載されている住所と同じのようです。

 

展示委員は送られてきた「泉」を会場の仕切りの裏に置いて、カタログにも掲載しませんでした。デュシャンはこのことに抗議して、展覧会の委員を辞任。この一連の出来事を「リチャード・マット事件」といいます。

 

現在、写真で残っているオリジナルの「泉」は、アルフレッド・スティーグリッツのスタジオで展示されて撮影されたもので、雑誌『ザ・ブラインド・マン』に掲載されたものですが、オンライン・ジャーナルの「Tout-Fait」上で記者のロンダ・ローランド・シアラーは、スティーグリッツが撮影したとされる「泉」の写真は異なる写真の合成であると指摘しています。

 

展覧会が終了したあと、オリジナルの「泉」は消失。デュシャンの伝記作家のカルヴィン・トムキンスは、デュシャンの初期レディメイド作品と同じくスティーグリッツがゴミとして廃棄したと書いています。

 

1950年のニューヨークの展示の際に初めて、デュシャン公認で「泉」のレプリカが制作されました。1953年と1963年にさらに2つの作品が制作され、その後、1964年には8個のレプリカが作られました。これらレプリカ作品は、インディアナ大学ブルーミトン、サンフランシスコ近代美術館、カナダ国立美術館、テート・モダン、パリ・ポンピドゥー・センターなどに収蔵されています。 

 

レディ・メイドの制作意図


 また、1917年5月に、雑誌『ザ・ブラインド・マン』の第2号でデュシャンは匿名で抗議文を投稿し、そこに「泉」の作品意図を寄稿しています(この文章を書いたのがルイズ・ノートンと見られています)。『ザ・ブラインド・マン』とはアンリ=ピエール・ロシェ、ベアトリス・ウッドと発行していた雑誌でダダイスムの情報誌のようなものでした。雑誌では次のような抗議文が匿名で掲載されました。

 

「リチャード・マット事件。6ドルの出品料を払った作家は誰でも出品できるという。リチャード・マット氏は「泉」を送った。この品物は間違いなく消え失せ、金輪際陳列されなかった。マット氏の「泉」を拒否する根拠は何であったか。

 

(1)ある連中はそれが不道徳で卑俗だと主張した。

(2)別の連中はそれが剽窃であり、たんなる衛生器具にすぎないと主張した。

 

さて、マット氏の「泉」は不道徳ではない。そんなことはばかげている。浴槽が不道徳でないのと同じだ。それは衛生器具屋のショー・ウインドウで毎日見かける設備である。マット氏が「泉」を自分の手でつくったかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのである彼は生活の中の日常的な品物をとりあげ、新しい題名と新しい観点のもとでその有用な意味が消え去るように、それを置いたのである。つまり、あの物体に対する新しい思考を創り出したのだ。衛生器具云々というのはまったくお笑いぐさである。アメリカが生み出した芸術品といえば、衛生器具と橋だけではないか」

 

この抗議文を書いたのはデュシャンとされていますが、実際はルイーズ・ノートン、ベアトリス・ウッドなど当時の編集スタッフらで書かれたものと考えられています。ただし、デュシャンのレディメイドの意図に関してははっきりと表明されています。

 

レディ・メイドの意図は以下の3点になります。

  • 「ハンドメイド」より「選択という行為」
  • 日常的な機能の剥奪
  • 新しい思考の創造

 

●コンセプチュアル・アート


デュシャンは泉の制作について、まず趣味という問題を試験してみるところから生まれたと話しています。デュシャンの趣味というの「視覚的に無関心」なオブジェでした。全く人の気をひかないものを選ぶというのがデュシャンの趣味で、その延長で男性小便器が選択されました。

 

「わたしの”泉”=”便器”は、趣味という問題を試験するという考えから生まれた。つまり、全く好かれそうもないものを選ぶということだった。便器を素晴らしいと思う人は、およそ、いないだろう。つまり危険なのは「芸術(アート)」という言葉なのだ。「芸術」といえば、本当は、なんだって芸術を思わせることができるのだ。それで、レディ・メイドとして選択されるオブジェのポイントは、私にとって視覚的に魅力的でないオブジェを選ぶことでした。選択するオブジェ対象は、「見かけ」が私にとって無関心であることでした。(マルセル・デュシャン)」

 

こうした意図のもと、普段見ているモノに対して「新しい思考」の創出をデュシャン提示しました。この考え方は後にコンセプチャル・アートポストモダンアートにつながっていき、このデュシャンの「新しい思考」の創出というのが現代美術の基本的なルールになります。芸術の概念を「物質的な工芸(ハンドメイド)」から「知的な解釈」に変えるとともに、「選択」という行為が重要になりました。

●ポップ・アート


デュシャンは本来であれば有用であるものを選びました。その代表が日常的品物でした。日常的品物で本来は有用である便器をとりあげ、新しい題名「泉」と新しい視点のもとで本来の意味を消え去るように展示したというのです

 

「便器を日常の文脈から引き離して、芸術という文脈にそれを持ち込んで作品化したこと」が重要なのです。この考え方は、シュルレアリスムのコラージュポップ・アートと同じものとおもえばいいでしょう。

 

コラージュは、雑誌から切り抜いた素材を使って新しい視覚芸術を創造するための錬金術といわれます。ポップ・アートもまた新聞、雑誌、広告、写真など身近な大衆メディアや日用品を活用したことで「これが芸術?」というような文脈から現れました。レディ・メイドも同じです。

そのほか


●匿名芸術


「泉」はまた、美術の作者は美術家ではなく鑑賞者であることを提示しました。本来「美術の作者は美術家」であり、そして鑑賞者は美術家の意図を理解するというのが常識的な見方でした。

 

そういった美術の古典的なルールに疑問をもったデュシャンは、大量生産された何の思想もメッセージも込められていない便器を美術展に投入しました。すると本来何もメッセージも視覚的に面白くもないはずの便器が、鑑賞者を誤読させ、解読が始まり、それについて語られ美術化されていく。そのため、デュシャンは、R. Mutt(リチャード・マット)という偽名を使って、作者の意図が分からないようにしていました。

 

「泉」は展示されなかったこともあり、制作関係者以外に実物を見た人はほとんどおらず、アルフレド・スティーグリッツが撮影した唯一の写真でのみ確認できます。特定の角度で映された便器をよくよく見ると、その緩やかな曲線と形から隠されたヴェールを付けたの古典絵画のマリアや座禅を組んだブッダの彫刻、ほかにブランクシーのエロチックな形態の彫刻を連想させます。

 

また便器を「泉」と付けた経緯ですが、泉は独身者にも置き換えられます。この小便器に向かって放尿すると、それは手前の穴から流れでて、その人自身に尿のとばっちりが及ぶことになる。これは鏡の反射を表している。満たされることのない欲望を抱えた独身者たちがそれに向かって性器を露出し、同時に、性器から放出される液体を受け止め、受け止めた液体がまた穴から戻ってくる。自己愛でありオナニズムである。

 

またデュシャンはこのようなメモ書きを残している。

 

「これしかない。雌としては公衆小便所、そしてそれで生きる。」

マルセル・デュシャンTop

 

<参考文献>

 

Wikipedia

テート・モダン

・マルセル・デュシャン展 高輪美術館 西武美術館 1981年


【作品解説】パブロ・ピカソ「ゲルニカ」

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ゲルニカ / Guernica

世界で最も有名なピカソの反戦芸術


パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937年)

概要


『ゲルニカ』は1937年6月に完成したパブロ・ピカソによる壁画サイズの油彩作品。縦349cm×横777cm。スペインのソフィア王妃芸術センターが所蔵している。

 

多数の美術批評家から、美術史において最も力強い反戦絵画芸術の1つとして評価されており、内戦による暴力や混沌に巻き込まれて苦しむ人々の姿を描いている。作品内で際立っているのは、血相を変えた馬、牛、火の表現で、絵画全体は白と黒と灰色のみの一面モノクロームとなっている。

 

「ゲルニカ」は、スペイン市民戦争に介入したナチスドイツやイタリア軍が、スペイン・バスク地方にある村ゲルニカの無差別爆撃した出来事を主題とした作品。

 

1937年のパリ万国博覧会で展示されたあと、世界中を巡回。会場に設置された「ゲルニカ」は当初、注目を集めなかった。それどころか依頼主である共和国政府の一部の政治家から「反社会的で馬鹿げた絵画であると非難を浴びた。

 

万博終了後、作品はノルウェーやイギリスといったヨーロッパを巡回。巡回で得られた資金はスペイン市民戦争の被害救済資金として活用された。本格的に注目をあつめるようになったのは第2次世界大戦以降。ゲルニカは世界中から喝采を浴び、結果として世界中へスペイン市民戦争に対して注目を集める貢献を果たした。


制作概要


1937年1月、スペイン共和国政府はピカソにパリで開催されるパリ万国博覧会 (1937年)のスペイン館へ展示するための絵画制作を依頼します。当時、ピカソはパリに住んでいて、プラド美術館の亡命名誉館長に就いていました。ピカソが最後にスペインに立ち寄ったのは1934年で、以後、フランコ独裁が確立してからは一度もスペイン戻ることはありませんでした。

 

初期スケッチは1月から4月後半にかけて、スタジオで長期間時間をかけて丹念に行われました。しかし、4月26日に発生したゲルニカ空襲が発生。この事件を詩人のフアン・ラレアはピカソに主題にすることをすすめると、ピカソは予定していたプロジェクトをやめて、ゲルニカ制作のためのスケッチに取り組み始めました。

 

1937年5月1日に制作を開始。6月4日に完了します。写真家で当時のピカソの愛人ドラ・マールは、1936年からピカソの『ゲルニカ』制作に立ち会った唯一の人物で、当時のピカソの制作の様子を多数撮影しています。

 

これまで、ピカソは作品制作中にスタジオに人を立ち入らせることはほとんどありませんでした、「ゲルニカ」制作時は影響力のある人物であれば、積極的に製作中のスタジオに案内し、作品経過を公開しました。その理由は、作品を見てもらったほうが反ファシストに対して同情的になると信じていたためです。

ゲルニカ爆撃と人類の核心


ゲルニカはスペインのバスク州ビスカヤ県にある町です。スペイン市民戦争時における共和党軍の北部拠点であり、またバスク文化の中心地として重要視されていました。

 

共和党軍はさまざまな派閥(共産主義者、社会主義者、アナーキストなど)から構成されており、それぞれ最終目標とするところは異なっていたものの、フランコ将軍率いるナショナリストに反対という立場で共通の目標を抱いていました。ナショナリストは、法律、秩序、カトリックの伝統的な価値に基いて、共和党以前のスペインに回帰しようとしていました。

 

爆撃対象となったゲルニカは、当時のスペイン内戦のフロントラインから10キロ離れた場所に位置し、またビルバオの町とフロントラインの中間にあり、共和国軍のビルバオへの退却とフランコ軍のビルバオへの進軍の通過地点でした。

 

当時のドイツの空軍の考えでは、輸送ルートや軍隊の移動ルートとなる地域は合法的に軍事標的と定められており、ドイツにおいてゲルニカは共和党の攻撃目標の要件を満たしていました。

 

ドイツ軍人ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンの日記の1937年4月26日の日記で

 

「4月25日にマルキナから退却する際に敗残兵となった共和国軍の多くは、戦線から10キロ離れた場所にあるゲルニカへ向かった。K88戦闘機はここを通過する必要がある敵兵を停止させ、また混乱させるためにゲルニカを攻撃目標に定めた。」と書いています。

 

しかし、ゲルニカにおける重要な軍事標的は、本来ならば、郊外にある軍需製品を製造する工場でしたが、その工場は爆撃を受けませんでした。また、共和党軍として戦うために、町の男性の大半はいなかったため、爆撃時の町はおもに女性と子どもによって占められていました。そのため、ドイツ空軍の攻撃目標の要件と食い違いがあります。

 

したがっゲルニカ爆撃の動機は共和国軍への威嚇・恫喝だとみなされています。 はっきりとフランコ軍には、伝統的なバスク文化や無実な市民から成り立つ町に、彼らの軍事力を誇示することによって、共和党軍や民間人たちの士気をくじこうとする意図があったのです。

 

当時のゲルニカ人口構成比はピカソの「ゲルニカ」の絵に反映されています。女性と子どもはゲルニカの無垢性のイメージをそのまま反映したものです。また女性と子どもはピカソにおいて人類の完璧さを表すことがあります。女性と子どもに対する暴力というのは、ピカソの視点から見ると、人類の核心へ向けられています。

 

1937年4月30日付けの記事によれば

「最初のドイツ・ユンカース飛行団がゲルニカ到着すると、すでに煙が巻き上がっており、誰も橋、道、郊外を目標とせず町の中心に向かって無差別爆撃を繰り返した。250キロ爆弾や焼夷弾が家屋や水道管を破壊し、この爆撃で焼夷弾の影響が広まった。当時住民の多くは休暇で町から離れており、残りの大部分も爆撃が始まるとすぐに町を去った。避難所に非難した少数の人が亡くなった。」

 

バスク地域の共和国軍に同情を示す「Time」記者のジョージ・ステラは、ゲルニカ爆撃を国際的に紹介し続け、それがピカソの作品に注目を集めるきっかけとなりましたが、ステラは4月28日付けの「Time」と「The New York Times」、29日付けの「L'Humanité」で以下のように記述しています。

 

「バスクの古都でありバスク文化の中心であるゲルニカは、昨日の午後、反乱軍の襲撃によって完全に破壊された。線の背後にあったこの開かれた町への爆撃は3時間ほど行われ、そのとき、3種類のドイツの爆撃機が飛来し、1000ポンドの爆弾を町に落とした。」

 

ほかの記事では、爆撃の当日は定期市が開催されていたこともあり、町の住民は市の中心に多く集まっていました。爆撃が始まったとき、既に橋が壊されて逃げられず多大な犠牲者を出したと報告しています。

 

第二次世界大戦時のナチ占領下にあったパリにピカソが住んでいたとき、あるドイツ役人がピカソのアパートで「ゲルニカ」作品の写真を見て、「これはお前が描いたのか?」と質問されたとき、ピカソは「ちがう、お前たちがやった(空爆)」と答えたといいます。

破壊されたゲルニカ(1937年)
破壊されたゲルニカ(1937年)

ドラ・マールやマリー=テレーズの肖像


「泣く女」は、ドラのポートレイトであると同時に、同年に制作された「ゲルニカ」の後継作であることも重要である。「泣く女」と「ゲルニカ」は互換性のある作品で、ピカソは空爆の被害を受けて悲劇的に絶叫する人々の姿とドラ・マールをはじめ泣く女とをダブル・イメージで描いていた。

 

実際に、ゲルニカ作品で右端に描かれている絶叫している女性はドラ・マールであり、左端で子どもを抱えている女性はマリー=テレーズである。ちなみに抱いている子どもはピカソとマリー=テレーズの間の子どもで、隣の牛(ミノトール)はピカソ自身を表している。この時期、ピカソは自分自身の象徴するものとして、それまでの道化師からミノトールに移り変わっていた。

ピカソのドローイング。「乙女と牛」
ピカソのドローイング。「乙女と牛」
「泣く女」
「泣く女」
ピカソとドラ・マール
ピカソとドラ・マール

ドラ・マールの写真から影響


写真家のドラ・マールは1936年からピカソと制作をしてきた女性で、当時のピカソの愛人でもあった。マールはピカソのスタジオで「ゲルニカ」の制作過程の写真を撮りつつ、時には製作中のピカソもカメラに収めた。

 

また、カメラを用いず印画紙の上に直接物を置いて感光させる「フォトグラム」の手法をピカソに教えたりもしていた。

 

マールの白黒写真の撮影テクニックはピカソのゲルニカ制作において影響を与えた。ゲルニカがモノトーン一色であるのは、モノトーンが生み出す即時性効果やインパクトを作品に与えるためだった。また、ピカソがゲルニカ爆撃の写真を初めてみたときにショックを受けたのが白黒カラー報道写真だったともいわれ、報道的な側面を強調したかったと思われる。

 

 

そのためこの作品は、ピカソの要求に応じて特別に調合された艶消し塗料を使用して塗られています。同様の手法は1951年に描いた『朝鮮の虐殺』でも採用されています。

「朝鮮の虐殺」(1951年)
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【完全解説】近代美術「モダンアート」

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近代美術 / Modern art

過去の伝統を捨て実験精神を伴った美術



概要


近代美術とは


近代美術(モダンアート)は、実験精神を重視し、過去の伝統的な美術様式から脱しようとした思想や様式を抱いた芸術作品。期間としてはおおよそ1860年代から1970年代までに制作された作品で、それ以降は現代美術と区別される。写実的な初期印象派から脱しようとした後期印象派や新印象派、またリアリズムから脱しようとした象徴主義が近代美術の源流とされている。

 

近代美術家たち(モダニスト)は、これまでの美術とは異なる新しい視点、新しい自然素材を用いた斬新なアイデア、新しい芸術機能のあり方を模索した。より具体的には、古代神話や聖書などを基盤とした物語的芸術から抽象的芸術への移行である。

 

近代美術の運動と観念は、初期から国際性があり、意図的で、方向性と計画性をもっていた。また、過激な宣言文、文書、筋書付きの宣言等を伴っていた。運動はそれぞれに特徴を出すべく、慎重に草案された。芸術家、あるいはしばしば評論家が、運動を船出させる舞台をしつらえ、観念を公式化した。つまり近代美術とは本質的には「観念的」であった。

 

近代美術の始祖は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌ、ジョルジュ・スーラ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックといった後期印象派の画家たちで、彼らの動向こそが近代美術の発展における本質的な存在だった。

近代美術の起源


近代彫刻や建築は19世紀の終わりに現れたとみなされているが、近代絵画の起源はもう少し早い。おそらく、最も一般的に近代美術の誕生年とみなされているのは1863年である。この年は、エドワード・マネがパリの落選展で「草上の昼食」を展示して、批評家たちに批判されるなどスキャンダルを巻き起こした年である。

 

マネ以前の日付もいくつか提案されている。たとえば、ギュスターヴ・クールベの1855年作「画家のアトリエ」や、ジャック=ルイ・ダヴィッドの1784年作「ホラティウス兄弟の誓い」を近代美術の始まりとみなす人もいる。

 

美術史家のH.ハーバード・アーナソンによれば「それぞれの日付は、近代美術の発展において重要な意味を持つが、まったく新しい始まりを年ではない。近代美術は100年かけてゆっくりと生成されてきた」と話している。

 

最終的に近代美術と結びつきのある思考の源は、17世紀の啓蒙主義にまで遡ることができる。美術批評家のクレメント・グリーンバーグは、たとえば哲学者のエマニエル・カントを「最初の実際のモダニスト」と描写し、「啓蒙主義は外部から批判し、モダニズムは内部から批判する」と書いた。また、1789年のフランス革命は、何世紀にもわたってほとんど疑問ももたず慣れ親しんできた政治や社会精度を根絶やしにし、近代美術の発展のルーツであるともいえる。

エドワード・マネ「草上の昼食」(1863年)
エドワード・マネ「草上の昼食」(1863年)

近代美術の先駆的な運動はロマン主義、現実主義、印象派だった。その後19世紀後半までに後期印象派と象徴主義が出現した。これら運動の影響は、東洋装飾芸術、特に日本の浮世絵版画の影響も大きく色彩変化をもたらした。

 

ヨーロッパで見られた日本趣味の美術表現は「ジャポニズム」と呼ばれ、19世紀末ヨーロッパの多くの作品に導入され、印象派に対して大きな影響を与えた。この時期のパリは、印象派や後期印象派の画家たちの遺産や、オセアニア芸術、日本趣味、古代ケルト美術などが見直されるようになり、多様な造形表現と融合しはじめた。

ロード・モネ「ラ・ジャポネーズ」(1875-76)日本の衣装を着けた妻カミーユをモデルにしたジャポニズムとの融合作品。
ロード・モネ「ラ・ジャポネーズ」(1875-76)日本の衣装を着けた妻カミーユをモデルにしたジャポニズムとの融合作品。

ゴッホやゴーギャンらの潮流


19世紀の末から20世紀初頭にかけての時期の世紀末の画家たちは、写実主義の頂点としての印象派に対する反動から、内部の世界への眼の持つ可能性や感覚的で移ろいやすい印象よりも知的な構成、形態を重視するなどさまざまな形で探求し続けた。

 

近代美術の表現には大きく3つの潮流がある。

 

1つは後期印象派らの画家、とりわけゴッホやゴーギャンらの色彩そのものが有する独自の表現力を信じて、魂から魂に語りかける芸術を創造である。ゴッホやゴーギャンらは、特にフォービズム、表現主義、抽象芸術、プリミティヴィズムに影響を与えた。

 

20世紀初頭、アンリ・マティスをはじめ、ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、ラウル・デュフィ、ジャン・メッツァンジェ、モーリス・ド・ヴラマンクといった若手画家たちがパリの美術世界で革命を起こす。彼らは“フォービィスム(野獣派)”と呼ばれ、色彩それ自体に表現があるものと見なし、とりわけ、人間の内的感情や感覚を表現するのに色彩は重要なものとし、色彩自体が作り出す自律的な世界を研究した。

 

特にマティス作品の「ダンス」は、マティス自身の芸術キャリアにとっても、近代絵画の展開においても重要な作品となる。この作品はプリミティブ・アートに潜む芸術の初期衝動を反映したものであるという。冷たい青緑の背景と対照に人物造形は温かみのある色が使われ、裸の女性たちが輪になって手を繋ぎ、リズミカルに踊っている。絵からは縛られない自由な感情や快楽主義的なものが伝わってくる。

ゴッホ「星月夜」(1889年)
ゴッホ「星月夜」(1889年)
アンリ・マティス「ダンス」(1909年)
アンリ・マティス「ダンス」(1909年)

ポール・セザンヌの系譜


2番めの潮流は、感覚的で移ろいやすい印象よりも知的な構成や形態を重視するポール・セザンヌの理論に基づいた表現である

 

セザンヌの影響が色濃いのはパブロ・ピカソである。ピカソは自然の形態を立方体、球体、円錐の集積と見て、これらを積み重ねることで、対象を“再現”するというより“構成”してゆくというセザンヌ方法を基盤としてキュビスム絵画を発明した。

 

1907年の「アヴィニョンの娘たち」が近代美術の代表的な作品で、プリミティズム・アートの導入や従来の遠近法を無視したフラットで二次元的な絵画構成において、伝統的なヨーロッパの絵画へのラディカルな革命行動を起こした。

ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」(1904年)
ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」(1904年)
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)
パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)

象徴主義


最後は、目に見える世界だけを追いかけるリアリズム、その延長線上の印象主義に対する反動として19世紀に発生した象徴主義の潮流である。象徴主義はゴッホやゴーギャン、セザンヌなどの後期印象派の流れとは別に、ほぼ並行して発生した美術スタイルである。

 

象徴主義はヨーロッパ全域、アメリカ、ロシアにも見られるもので、ギュスーターブ・モロー、オディロン・ルドン、イギリスのラファエル前派、グスタフ・クリムト、アルノルト・ベックリン、エドヴァルド・ムンクなどが代表的な画家として挙げられる。

 

象徴主義はとりわけカンディンスキーモンドリアンロシア・アヴァンギャルドシュルレアリスムに多大な影響を及ぼした。

オディロン・ルドン「キュクロプス」(1898-1900年)
オディロン・ルドン「キュクロプス」(1898-1900年)
サルバドール・ダリ「記憶の固執」(1931年)
サルバドール・ダリ「記憶の固執」(1931年)

素朴派


そのほかに「素朴派(ナイーブアート)」と呼ばれる流れがある。日曜画家のアンリ・ルソーを始祖とし、プロのうまい絵に対するアマチュアな素人のへたな稚拙な絵であるが、同時にそのへたさ加減や稚拙さが魅力になっている絵画である。俗にいう“ヘタウマ”の源流にあるものである。素朴派の流れはのちにアウトサイダー・アートへも受け継がれいく。

アンリ・ルソー『子どもの肖像』(1908年)
アンリ・ルソー『子どもの肖像』(1908年)

芸術運動・芸術集団


19世紀


ロマン主義:フランシスコ・デ・ゴヤ、ウィリアム・ターナー、ウジェーヌ・ドラクロワ

 

写実主義:ギュスターヴ・クールベ、カミーユ・コロー、ジャン=フランソワ・ミレー

 

印象派:フレデリック・バジール、ギュスターヴ・カイユボット、メアリー・カサット、エドガー・ドガ、アルマン・ギヨマン、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、ベルト・モリゾ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレー

 

後期印象派:ジョルジュ・スーラ、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌ、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、ロートレック、アンリ・ルソー

 

象徴主義:ギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドン、エドワード・ムンク、ジェームズ・ホイッスラー、ジェームズ・アンソール

 

ナビ派:ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、フェリックス・ヴァロットン、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエ

 

アール・ヌーヴォーオーブリー・ビアズリーアルフォンス・ミュシャグスタフ・クリムト、アントニオ・ガウディ、オットー・ワーグナー、ウィーン工房、ヨーゼフ・ホフマン、アドルフ・ロース、コロマン・モーザー

 

分割描法:ジャン・メッツァンジェ、ロベール・ドローネー、ポール・シニャック、アンリ・エドモンド・クロス

 

初期近代彫刻家:アリスティド・マイヨール、オーギュスト・ロダン

 

 

20世紀初頭(第一次世界大戦まで)


抽象芸術フランシス・ピカビア、フランティセック・クプカ、ロベール・ドローネー、レオポルド・シュルヴァージュ、ピエト・モンドリアン

 

フォーヴィスム:アンドレ・ドラン、アンリ・マティス、モーリス・ド・ヴラマンク、ジョルジュ・ブラック

 

表現主義:ブリュッケ、青騎士、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、ワシリー・カンディンスキー、フランツ・マルク、エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカ、エミール・ノルデ、アクセル・トーンマン、カール・シュミット=ロットルフ、マックス・ペヒシュタイン

 

未来主義:ジャコモ・バッラ、ウンベルト・ボッチョーニ、カルロ・カッラ、ジーノ・セヴェリーニ、ナターリヤ・ゴンチャローワ、ミハイル・ラリオーノフ

 

キュビスムパブロ・ピカソジョルジュ・ブラック、ジャン・メッツァンジェ、アルベール・グレーズ、フェルナンド・レジェ、ロベール・ドローネー、アンリ・ル・フォコニエ、マルセル・デュシャン、ジャック・ヴィヨン、フランシス・ピカビア、フアン・グリス

 

彫刻パブロ・ピカソアンリ・マティス、コンスタンティン・ブランクーシ、ジョゼフ・クサキー、アレクサンダー・アーキペンコ、レイモンド・デュシャン・ヴィヨン、

ジャック・リプシッツ、オシップ・ザッキン

 

オルフィスム:ロバート・ドローネー、ソニア・ドローネー、フランティセック・クプカ

 

写真:ピクトリアリスム、ストレートフォトグラフィ

 

シュープレマティスムカシミール・マレーヴィチアレクサンドル・ロトチェンコエル・リシツキー

 

シンクロミズム:スタントン・マクドナルド=ライト、モーガン・ラッセル

 

ヴォーティシズム:パーシー・ウインダム・ルイス

 

ダダイスム:ジャン・アルプ、マルセル・デュシャンマックス・エルンストフランシス・ピカビアクルト・シュヴィッタース

 

 

第一次大戦後から第二次世界大戦まで


形而上絵画ジョルジョ・デ・キリコ、カルロ・カッラ、ジョルジョ・モランディ

 

デ・ステイル:テオ・ファン・ドゥースブルフ、ピエト・モンドリアン

 

表現主義エゴン・シーレアメディオ・モディリアーニ、シャイム・スーティン

 

新即物主義:マックス・ベックマン、オットー・ディクス、ジョージ・グロス

 

フィギュラティブ・アートアンリ・マティス、ピエール・ボナール

 

アメリカ近代美術:スチュアート・デイヴィス、アーサー・ダヴ、マーズデン・ハートレイ、ジョージ・オキーフ

 

構成主義:ナウム・ガボ、グスタフ・クルーツィス、モホリ=ナジ・ラースロー、エル・リシツキー、カシミール・マレーヴィチ、アレクサンドル・ロトチェンコ、ヴァディン・メラー、ウラジーミル・タトリン

 

シュルレアリスムルネ・マグリットサルバドール・ダリマックス・エルンストジョルジョ・デ・キリコアンドレ・マッソンジョアン・ミロ

 

エコール・ド・パリマルク・シャガール

 

バウハウスワシリー・カンディンスキーパウル・クレー、ヨゼフ・アルバース

 

彫刻:アレクサンダー・カルダー、アルベルト・ジャコメッティ、ヘンリ・ムーア、パブロ・ピカソ、ガストン・ラシェーズ、フリオ・ゴンサレス

 

スコティッシュ・カラリスト:フランシス・カデル、サミュエル・ピプロー、レスリー・ハンター、ジョン・ダンカン・ファーガソン

 

シュプレマティスム:カシミール:マレーヴィチ、アレクサンドラ・エクスター、オルガ・ローザノワ、ナジデダ・ユーダルツォーヴァ、イワン・クリウン、リュボーフィ・ポポーワ、ニコライ・スーチン、ニーナ・ゲンケ・メラー、イワン・プーニ、クセニア・ボーガスラヴスカイヤ

 

プレシジョニズム:チャールズ・シーラー、ジョージ・オールト

 

 

第二次世界大戦以後


・フィギュラティヴ・アート:ベルナール・ビュフェ、ジャン・カルズー、モーリス・ボイテル、ダニエル・デュ・ジャナランド、クロード・マックス・ロシュ

 

・彫刻:ヘンリ・ムーア、デビッド・スミス、トニー・スミス、アレクサンダー・カルダー、イサム・ノグチ、アルベルト・ジャコメッティ、アンソニー・カロ、ジャン・デュビュッフェ、イサック・ウィトキン、ルネ・イシュー、マリノ・マリーニ、ルイーズ・ネヴェルソン、アルバート・ブラーナ

 

・抽象表現主義:ウィレム・デ・クーニング、ジャクソン・ポロック、ハンス・ホフマン、フランツ・クライン、ロバート・マザーウェル、クリフォード・スティル、リー・クラスナー、ジョアン・ミッチェル

 

・アメリカ抽象芸術:イリヤ・ボロトフスキー、イブラム・ラッサウ、アド・ラインハルト、ヨゼフ・アルバース、バーゴインディラー

 

アール・ブリュット:アドルフ・ヴェルフリ、オーガスト・ナッターラ、フェルディナン・シュヴァル、マッジ・ギル、ポール・サルヴァドール・ゴールデングリーン

 

・アルテ・ポーヴェラ:

・カラーフィールド・ペインティング

・タシスム

・コブラ

・デ・コラージュ

・ネオ・ダダ

・具象表現主義

・フルクサス

・ハプニング

・ダウ・アル・セット

・グループ・エルパソ

・幾何学抽象

・ハードエッジ・ペインティング

・キネティック・アート

・ランド・アート

・オートマティスック

・ミニマル・アート

・ポスト・ミニマリズム

・リリカル抽象

・新具象主義

・トランスアバンギャルド

・具象自由主義

・新写実主義

・オプ・アート

・アウトサイダー・アート

・フォトリアリズム

・ポップ・アート

・戦後ヨーロッパ具象絵画

・新ヨーロッパ絵画

・シャープ・キャンバス

・ソビエト絵画

・スペーシャ

・ビデオアート

・ビジョナリー・アート

【完全解説】ロベルト・ドローネー「オルフィスム」

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ロベルト・ドローネー / Robert Delaunay

フランス純粋抽象絵画の創始者


ロバート・ドローネー「ポルトガルの女性」(1916年)
ロバート・ドローネー「ポルトガルの女性」(1916年)

概要


生年月日 1885年4月12日
死没月日 1941年10月25日
国籍 フランス
表現媒体 絵画
表現スタイル 分割主義、キュビスム、オルフィスム、抽象

ロベール・ドローネー(1885年4月12日-1941年10月25日)はフランスの画家。妻のソニャ・ドローネーらとともに、強い色味と幾何学的模様が特徴のオルフィスム運動の共同創立者として知られる。

 

オルフィスムとは、1911年末から1914年初めにかけてパリに現れた純粋絵画の傾向で、ドローネーはワシリー・カンディンスキーピエト・モンドリアンとともに抽象絵画の先駆者の一人として知られている。オルフィスムは詩人のギヨーム・アポリネールが創始し、1912年の「セクション・ドール」の展覧会で命名したが、具体的な実践者であり完成させたのはドローネーだった。

 

ドローネーの抽象絵画では原色系のダイナミックな色彩が使われており、フォーヴィスムに通じるところがある。装飾的なパターンとしての性格が強いことなどを理由にキュビスムから離脱し、オルフィスムを打ち立てた。

略歴


若齢期


ロベール・ドローネーはパリで、ジョージ・ドローネーとフェルティ・ド・ローズ伯爵夫人のあいだに生まれた。こどものとき、ドローネーの両親は離婚し、ドローネーはブールジュ近郊のラ・ロシェールで、母親の妹のマリーとその夫チャールズ・ダムールに育てられた。

 

卒業試験に失敗後、ドローネーは画家になるため、1902年にパリのベルヴィル地区で装飾芸術を学ぶため叔父のロンシンのもとへ移動。19歳のときドローネーは絵画に専念するためロンシンから離れ、1904年にサロン・ド・アンデパンダンで6枚の作品を展示し、画壇デビュー。

 

ブルターニュを旅行し、そこでポン=タヴァングループに影響を受ける。1906年、第22回サロン・ド・アンデパンダンでブルターニュで描いた作品を展示。そこでアンリ・マティスと出会う。また、フランスの化学者で色彩理論家のミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの色彩の同時対照に関する理論を読んで影響を受け、スーラらの新印象派の影響を受ける。

 

1907年初頭にベルテ・ウェイルが運営する画廊でジャン・メッツァンジェと展示を行い、親睦を深めるようになる。2人は1907年に美術批評家のルイス・ヴォクセルからモザイク状の立方体で構成される分割主義の画家とみなされるようになった。

ロベール・ドローネー「Paysage au disque」(1906−1907)
ロベール・ドローネー「Paysage au disque」(1906−1907)

キュビスムからオルフィスム(1908-1913)


1908年に連合軍の司書として軍隊に勤務したのち、未来派として活動していたウクライナ人作家のソニア・タークと出会う。当時、彼女はドイツの画商と結婚していたが離婚。

 

1909年にキュビスム運動に参加。ドローネーはパリの風景とエッフェル塔の習作シリーズを描き始め、翌年、ドローネーはソニアと結婚し、2人はパリのワンルームのアパートで暮らすようになる。1911年に息子チャールズが誕生。

 

ワシリー・カンディンスキーの招きで、ドローネーはミュンヘンを中心に活動する前衛運動「青騎士」に参加する。1911年頃からドローネーの作風は抽象傾向が進み、ドイツ、スイス、ロシアなどで名声をあげるようになった。ミュンヘンで最初のブラン・レイターの展示に参加し、4作品を販売。ドローネーの絵画は特に青騎士から熱狂的に受け入れられた。1912年の「青騎士年鑑」では“ロベール・ドローネーの構成法”という記事名でドローネーが紹介された。

 

当時、フランスではキュビスムが大きな力を持っていたが、ドローネーはキュビスムにおける色彩の排除や動的要素のなさに対して批判的だった。一方キュビスム側からドローネーは印象派や装飾絵画に回帰していると批判され、キュビスムの異端者と扱われたものの、ドローネー自身は逆に自身芸術性の方向性を見出したという。

 

1912年はドローネーのターニングポイントだった。3月13日にパリで最初な大規模な個展がギャラリー・バルバザンゲスで開催された。この個展では初期の印象派の作品から1901年から1911年までのキュビスム時代の「エッフェル塔」シリーズの作品46点が展示された。ギヨーム・アポリネールは個展を絶賛し、ドローネー「世界の偉大なビジョンを持つアーティスト」と紹介する。

 

1912年3月23日、『L'Assiette au Beurre』誌上でドローネーはキュビスムから脱退したことが明らかにされた。ジェームズ・バークレイのその年のサロン・ド・アンデパンダンのレビュー記事によれば「キュビズムが大半で占められていた。彼らのリーダーのピカソやブラックは参加しておらず、キュビスムと考えられていたドローネーは孤立した状態となり、メッツァンジェやルフォコニエとよくにた立ち位置だった」という。

 

その後、ギヨーム・アポリネールの後押しもあり、ドローネーはオルフィズム運動の作家として知られるようになる。1912年から1914年まで、ドローネーはダイナミックで鮮やかな色の光学的特性に基いて、非具象的で非自然的で非形態的な絵を描いた。ドローネーの理論はおもに光と色に関連したもので、のちにパウル・クレーやフランツ・マルク、オーガスト・マルケなど多くの画家に影響を与えている。

 

ギヨーム・アポリネールは、ドローネの色彩理論に強く影響を受けて、オルフィスムを説明する際にドローネーの理論をよく引きあいに出した。ドローネーの表現力豊かな構造手段としての色彩の固定は、彼の色彩の確かなる研究を裏打ちするものだった。

 

科学者や理論家の影響を受けたドローネーの色彩は直感的であり、色はそれ自体が力強い表現と形態を持つものであるという信念のもと、ときどき無作為に表現されることがあった。絵画は知的要素に準ずる純粋絵画であり、知覚は色の付いた光の影響を受けていると考えていた。

 

ドローネーの初期絵画は新印象派と深いかかわりがあり、たとえば「夜景」では、暗い背景に対して明るい色で大胆なブラシストロークを使って描かれている。しかし、新印象派のスペクトラル色はのちに放棄され、「エッフェル塔」シリーズでは建物固体が断片化されていき、背景の空間との融合されるようになった。このシリーズでドローネーはポール・スザンヌ、分析的キュビスム、未来主義の影響を受けており、「エッフェル塔」では有形物と周囲空間の相互干渉が行われ、キュビスム形式における静的均衡よりも、よりダイナミックに幾何学的に描かれた。

ロベール・ドローネー「エッフェル塔」(1911年)
ロベール・ドローネー「エッフェル塔」(1911年)
ロベール・ドローネー「同時のコントラスト:太陽と星」(1912-1913年)
ロベール・ドローネー「同時のコントラスト:太陽と星」(1912-1913年)

第一次世界大戦勃発から晩年まで


1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ソニアとロベールはスペインのフォンタラビーへ避難する。その後、2人はフランス戻らずマドリードに留まって生活する。1915年8月に、2人はポルトガルに移動し、サミュエル・ハルパートとエドアルド・ヴィアナと家を共有した。しかし、ロベールは1916年6月13日にビーゴにあるフランス領事館で兵役義務の通達を受けるも無視。

 

ロシア革命が発生すると、ロシアのソニアの家族が受けていた財政的支援が打ち切られ、2人は別の収入口を探し始める。1917年に、ドローネーはマドリードでセルゲイ・ディアゲルフと出会い、舞台「クレオパトラ」の舞台デザインの仕事を受ける。

 

1920年代にはアンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラなどシュルレアリスムやダダイスムとも交流をもつ。 1921年にパリへ戻り、 ドローネーはおもに抽象スタイルで絵を描き続けた。1937年のパリ万博でドローネーは鉄道や航空旅行の関するパビリオンのデザインに参加する。

 

第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツの侵攻から身を守るためオーヴェルニュに移動。しかし、癌に苦しみ、ドローネイは動き回ることができず、徐々に健康が悪化。 1941年10月25日にモンペリエで56歳で死去。彼の遺体は1952年にガンビアに再葬された。

ロベール・ドローネー「エッフェル塔」(1926年)
ロベール・ドローネー「エッフェル塔」(1926年)
ロベルト・ドローネー「リズム n°1」(1938年)
ロベルト・ドローネー「リズム n°1」(1938年)

【完全解説】フランシス・ピカビア「芸術体験の万華鏡」

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フランシス・ピカビア / Francis Picabia

芸術体験の万華鏡


フランシス・ピカビア「アモーレ・パレード」(1917年)
フランシス・ピカビア「アモーレ・パレード」(1917年)

概要


生年月日 1879年1月22日
死没月日 1953年11月30日
国籍 フランス
表現媒体 絵画
表現スタイル キュビスム、ダダ

フランシス・ピカビア(1879年1月22日-1953年11月30日))は、フランスの画家、イラストレーター、詩人、タイポグラフィスト、雑誌編集者。印象派や点描主義といった初期近代美術を経てキュビスムへいたり、その後はダダやシュルレアリスムと関わる。

 

フランスやアメリカのダダ運動を推進した重要人物の1人。のちにシュルレアリスムへ転向したが、すぐに離脱。

 

抽象的で平面的な構成となているので、ピカビア作品の基本だが、実際はその作品スタイルは多様。オルフィスム、抽象、具象絵画など、生涯にその画風を激しく変化させ、生涯をかけてただひとつのスタイルを追求するという生き方とピカビアは無縁だった。

 

ピカビアの親友だったマルセル・デュシャンは「ピカビアの生涯は、芸術体験の万華鏡的連続である。外見上は個々のつながりがほとんどないかのようだが、全体は一個の強烈な個性によって、はっきりとしるしづけられている。」と評している。

 

また大の車狂い・スピード狂で生涯に170台以上の車を購入している。

略歴


印象派-オルフィスム


フランシス・ピカビアは、1879年1月22日に、フランス人の母とパリのキューバ公使館で大使を務めていたスペイン系キューバ人の父の間にパリで生まれた。本名はフランソワ・マリー・マルティネ・ピカビア。

 

家は大変裕福であった。いくつかの証言によるとピカビアの父は、スペインのガリシア地方の貴族出身で、キューバ公使館に勤める前は裕福な商人だったという。

 

母は18世紀以来小間物細工商として財をなした振興ブルジョアの娘だった。母の父親は写真家として知られている。ピカビアが7歳のとき母は亡くなった。ピカビアは中学生時代からスポーツを好み、腕力も相当で、喧嘩をすることを好んだ。

 

なお1894年ごろ、ピカビアは彼の父親が所有していたスペイン絵画のコレクションをコピーし、コピーとオリジナルを入れ替え、オリジナルを売っていたようである。売って得たお金は、彼のスタンプコレクションの資金として使っていた。

 

1895年、16歳のときにパリの装飾美術学校に入学する。同時期にモンパルナスにあったフェルディナンド・コモンに師事するようになる。

 

パリの装飾美術学校のあと、ピカビアはフェルディナンド・コモンの紹介でクリシー通りの104番街にある大学にいく。ここでピカビアはゴッホやロートレックなどの後期印象派を学んだ。20歳になって彼は絵画で生計を立て始めた。また母から遺産を受け継いだ。

 

1902年にピカビアはピサロに会い大きな影響を受ける。またこのころ、印象派のアルフレッド・シスレーの絵画にも興味を抱き、この時期から「印象派の時期」が始まる。小さな教会、パリの屋根、川岸、はしけ舟などの風景がモチーフとなり、画家としていちはやくその存在を知らせるようになった。

 

しかしながら、ピカビアはシスレーやモネ、シニャックの模倣に過ぎない自分自身の絵に対して疑問を持ち始めるようになった。

 

そして1909年から彼はキュビスムやセクションドールの影響を受けた絵を描き始める。同年、ピカビアはガブリエル・ビュッフェと結婚した。1911年ごろピカビアは、ピュトーにあるジャック・ヴィヨン(マルセル・デュシャンの兄)のサロンでセクションドールのグループに参加するようになる。そこで彼はマルセル・デュシャンやギョーム・アポリネールらと親しい関係となった。

 

グループのメンバーにはほかにアルバート・グレーズ、ロジャー・デ・ラ・フレネ、ジン・メッツァンジェなどがいた。ギョーム・アポリネールの言葉を借りれば、ピカビアにとって「オルフィスムの時期」だといわれる。

機械の時期「人間機械論」


1913年にピカビアは、キュビスムのグループの1人としてアーモリー・ショーに参加する。ピカビアは4点出品しており渡航はオープニングに出席するためだった。

 

ピカビアにとってニューヨークは相当刺激的だったらしく、「フランスはもはや新しい美術の可能性がなく、アメリカこそこれからの美術にとって新天地となるだろう」と話している。

 

またその年、ニューヨークのアルフレッド・スティグリッツのギャラリー「291」で個展を開催。1913年から1915年までピカビアは何度かニューヨークへわたり、アメリカの前衛芸術ムーブメントに積極的に参加したが、それはそのあとのアメリカ現代美術の導火線となった。

 

1915年6月、ピカピアはニューヨークへ移住する。表向きは製糖工場を経営している友人に糖蜜の原材料を買い付けるためと国へ説明し、その理由は受理され、アメリカ滞在が延長されることになった。このころからピカビアは多彩な色彩を捨てて、ほとんど単色といっていい画面に機械の製図のようなイメージを描き始める。

 

ピカビア作品で最もよく知られるシリーズ「機械の時期」である。また芸術情報雑誌『291』がピカピアを全面特集。マン・レイ、ガブリエル夫人、そしてデュシャンと一緒に行動するようになる、なお、このころ薬物やアルコールが原因で身体を著しく悪くした。これらの時期のピカピアは初期ダダ時代と位置づけられるだろう。

「機械の時期」の作品は、自動車の部品から成っているものが多いのが特徴である。

 

ほかに歯車、ピストン、シリンダー、ポンプ、プラグなどのモチーフを組み合わせて描かれているが、特徴的なのはそれらの機械が本来の実用的な機械として描かれていないことである。

 

つまり機械から実用性を取り除いた「役に立たない機械」を矛盾した性質の作品を作りたかったのである。機械からその使用目的を奪い、機械を無目的な、無償なものと化さしめ、生活的必要からまったく離れたオブジェに還元することによって、その疎外された美しさを回復しようと試みていたのである。

 

目的のない、有用性の期待を残酷に裏切るオブジェは、明らかに生産や進歩の観念と敵対するものである。人間機械論は、人間という自律的精神世界を成立せしめる機械が、一個のオブジェのように、何の役にも立たない泥人形のようなものであるということを証明するための、逆説的な試みと解されるべきであろう。

 

そしてまた、このダダイストたちは、オブジェ化した機械を女にも転用していた。彼らにとって、機械はそのまま女であり、女はそのまま機械であった。既成の芸術概念を破壊してしまったように、女のイメージや愛欲行為もまた、単なる機械のメカニズムに還元してしまったのである。

 

1916年、ピカビアはバルセロナにいる間、マリー・ローランサン、ロベール・ドローネー、ソニア・ドローネといった第一次大戦の亡命作家の小さなサークルにいた。バルセロナで彼は1917年にダダイスムの情報雑誌『391』の作成、編集を始める。

 

雑誌のタイトル『391』はアルフレッド・スティッグリッツのギャラリー『291』をモデルにしていた。ピカビアはアメリカに滞在しているマルセル・デュシャンの助けを借りて編集し続けた。

 

その後、麻薬などで健康を害したピカビアはスイスのチューリヒへ向かう。憂鬱や自殺衝動におそわれていたころ、ダダのトリスタン・ツァラに出会う。彼の攻撃的なダダ思想はピカビアを刺戟させ、チューリヒで刊行した『391』の第八号を「ダダ特集」にあてた。

 

ついでピカビアはパリに戻り、ピカビアの愛人であるジェルメーヌ・エヴァリング、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポー、ルイ・アラゴンと出会い、パリ・ダダを立ち上げるようになる。1919年を通じてピカビアは、チューリヒやパリのダダ運動へ関与を続けるが、ダダ運動が下火になってくると、シュルレアリスムに関心を移し始めた。

 

ツァラとブルトンのあいだにダダに関する論争が始まると、ピカビアはブルトン側につき1921年にツァラのダダを非難し始める。しかし、1924年に雑誌『391』の最終号で誕生したばかりのシュルレアリスムに対しても非難した。このころピカビアはドローイングで具象的なイメージを描き出しており、「機械の時期」は終わりを告げることになる。

怪物の時期


このころ「民衆絵画」風な作品を描いたが、それに続いて短期間ではあったが「コラージュの時期」が登場していた。

 

ピカビアはマッチ、羽根、つまようじ、センチメートル尺、くしなどをつかってそれを絵画の部分として貼り付けて、風景や肖像などの具象的な作風をつくりだした。

 

1925年以後、ピカビアはブルトンに再接近。デュシャンと同じくシュルレアリスムのグループのメンバー入ることはなかったが、いくつものシュルレアリスム展には参加した。

 

1923年から28年頃までつづいたピカビアの絵画に「怪物の時期」と呼ばれるシリーズがある。「機械の時期」とも「コラージュの時期」ともまったく異質で、脈絡がなく、描かれているのは女性の裸像、恋人たち、パラソルを持つ女性、女性のポートレイト、あるいは動物というごくありふれた題材だがいずれも色彩を豊富に使ってフォービズムに近いようなかんじで描いていた。こ

 

「オルフィスムの時期」「機械の時期」「コラージュの時期」の作品は近代美術の流れに呼応する関係が読み取れるが、この流れにそってもうひとつ展開していた「怪物の時期」は、近代美術の流れとまったく関係がない点が重要である。

 

「怪物の時期」の次に来るのが「透明の時期」である。1932年ごろまで続いたシリーズで透明なフォルムと色彩を重ねあわせる研究をしていた時期である。「透明の時期」が終わると、さまざまなスタイルの作品の共存の一時期がくる。

商業絵画の時期


1940年代初頭にピカビアは南フランスに移住し、そこで彼は驚く行動にでる。フランスの少女雑誌上でヌードモデルの写真を下敷きにした絵画シリーズを作り始めた。

 

ピカビアの研究家によるとこの時期は「コマーシャル・リアリズム」もしくは「ポピュラー・リアリズム」とも呼び得る時期である。

 

理由は戦争の勃発である。戦争の勃発はピカビアの生活を不如意なものとして、ピカビアは生活のために売れる絵を描かなければならなくなったという事情があったというからである。

 

もっとも、ピカビアは不本意に描いていたわけではなく、実はけっこうヌード絵を描くことを楽しんでいたという。それらの絵画シリーズはアルジェリアの画商が取り扱いはじめ、そのピカビアの絵は占領下にある北アフリカ全体の売春宿に飾られるようになった。

 

1953年パリで死去。

 

「従属するにはあまりに独立的、突飛すぎた(フランシス・ピカビア)」

 

 

略年譜


 

 
1879年

・1月22日パリに生まれる。本名フランソワ・マリー・マルティネ・ピカビア。父はキューバ生まれのスペイン人貴族フランシスコ・ヴィンセンテ・マルティネス・ピカビア。母はフランス人ブルジョアの娘マリー・セシル・ダヴァンヌ。

1886年 ・母、肺結核で死亡。
1887年 ・母方祖母死亡。以後キューバ大使館勤務の父親、図書館勤務の叔父、アマチュア・カメラマンだった裕福な実業家の祖父との4人ぐらし、孤独な少年時代を過ごす。
1895年 ・パリの装飾美術学校に入学。
1899年 ・フランス芸術家展に初出品。以後、サロン・デ・アンデパンダン、サロン・ドートンヌを中心に数多く出品。
1902年 ・ピサロ、シスレーの影響により、印象派の傾向を強める。
1905年 ・オスマン画廊にて初の個展。
1909年

・前衛音楽家ガブリエル・ビュッフェと結婚。

・抽象絵画「ゴム」を制作。以後、1914年までの間に、フォーヴィスム、キュビスム、オルフィスムと作風を変える。

1910年 ・マルセル・デュシャンとノルマンディ美術家教会展で知り合い、生涯にわたり交友。
1911年

・詩人ギョーム・アポリネールと出会う。

1912年

・セクション・ドール展に出品。

1913年 ・ニューヨークのアーモリー・ショーに出品のため渡米。キュビスムの作品「セヴィリアの行列」「泉のほとりのダンス」「パリ」などがスキャンダルを巻き起こす。
1915年

・5月、第一次大戦を避け、砂糖の買い付けのため、ニューヨークへわたり、スティーグリッツと旧交をあたためる。

・機械をモチーフにした絵画の連作を描き始める。

1916年

・健康を害しバルセロナへ移住。

1917年

・雑誌『391』を発刊。以後7年間に19号刊行。1924年終刊。

・春、三度目にして最後のニューヨーク滞在。デュシャン、マン・レイらとニューヨーク・ダダを形作る。

・10月、健康を害しパリにもどる。

・ジェルメール・エヴェルランと同棲。

1918年

・治療のため、スイスのローザンヌへ行く。医者から絵画を

描くことを禁じられたため、精力的に文筆活動を行う。

・トリスタン・ツァラやチューリヒ・ダダ・グループと接触する。

1920年

・トリスタン・ツァラがチューリヒより出てきて、パリのピカビア宅に落ち着く。

・詩集の出版、ダダの集会などを通じて、パリ・ダダの最盛期を作り出す。

1921年

・ダダと決別。

1924年

・アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」に対して、「391」で批判を発表。

・スウェーデン・バレエ団の公演「本日休演」の舞台装置と衣装を担当(音楽エリック・サティ)。この1幕と2幕の休演時間に、監督ルネ・クレール、脚本ピカビアによる映画「幕間」が上映される。

・パリを去ってカンヌ近くに邸宅「5月の城」を建築し、住む。

・怪物の時代。

1927年

・透明の時代

1930年

・息子の家庭教師だったオルガ・モーラーとカンヌ港のヨットに居住。

1930-32年

・ボートや車を購入するため、たびたびパリ旅行をし、ガートルード・スタインと旧交をあたためる。生涯に127台の車に乗り換える。

1939年

・カンヌから数マイルの小さなアパートに移る。

1940年

・オルガ・モーラーと結婚。

・擬古典派時代。

1942年

・脳出血

1945年

・パリにもどり、昔の家に住む。

・若い抽象画家たちと交流し、ピカビア自身も独自の抽象絵画へとむかう。

1949年 ・最晩年の点描画を描く。
1951年 ・動脈硬化症による麻痺にて絵画を断念。
1953年

・11月30日没。

<参考文献>

・フランシス・ピカビア展 西武美術館

Francis Picabia - Wikipedia

フェルナンド・レジェ

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フェルナンド・レジェ / Fernand Léger

抽象絵画からポップアートへ


フェルナンド・レジェ「ビールマグカップの静物画」(1921年)
フェルナンド・レジェ「ビールマグカップの静物画」(1921年)

概要


生年月日 1881年2月4日
死没月日  1955年8月17日
国籍 フランス
表現媒体 絵画、版画、彫刻、映像
表現スタイル キュビスム

ジョセフ・フェルナンド・アンリ・レジェ(1881年2月4日-1955年8月17日)はフランスの画家、彫刻家、映像作家。初期作品はキュビスムから派生した個人的な形態の強い作風で、円筒形や円錐形をよく使用していた。

 

画家としてはピカソ、ブラックより、ドローネーやル・フォーコニエといった第二世代のキュビストに近く、1911年には彼らとともにセクション・ドール(黄金分割)に参加し、展覧会に参加する。

 

第一次世界大戦に従軍した際に、大戦中に見た大砲などの兵器の機能的美に影響され、以後のレジェの作品には、人物とともに機械をモチーフとした作品が目立つようになる。

 

戦後は、徐々にポピュラーな作風に切り替えていき、レジェの現代的な主題を大胆で単純化した絵画は、ポップ・アートの先駆者としてみなられるようになった。

フェルナンド・レジェ「パイプをくわえた兵士」(1916年)
フェルナンド・レジェ「パイプをくわえた兵士」(1916年)
フェルナンド・レジェ「トランプのゲーム」(1917年)
フェルナンド・レジェ「トランプのゲーム」(1917年)

【完全解説】ジャン・メッツァンジェ「セクションドール」

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ジャン・メッツァンジェ / Jean Metzinger

キュビスムを理論化しセクションドールを引率


ジャン・メッツァンジェ「カフェのダンサー」(1912年)
ジャン・メッツァンジェ「カフェのダンサー」(1912年)

概要


生年月日 1883年6月23日
死没月日  1956年11月3日
国籍 フランス
表現媒体 絵画、素描、詩、文章、
表現スタイル キュビスム、セクションドール

ジャン・ドミニク・アントニー・メッツァンジェ(1883年7月24日-1956年11月3日)はフランスの画家、理論家、作家、批評家、詩人。

 

アルベール・グレーズとともにキュビスム理論体系の創設と発展に貢献。1900年から1904年の初期作品は、ジョージ・スーラやアンリ・エドモンド・グロスの新印象派からの影響が大きかったが、1904年から1907年にかけてメッツァンジェは分割主義やフォービズム、ポール・セザンヌの要素を取り入れ、初期キュビスムを先導した。

 

1908年からメッツァンジェは面で形態を表現する実験をはじめ、そのスタイルはすぐにキュビスムとして知られるようになった。キュビスムにおけるメッツァンジェは、影響力のある芸術家であり、同時にキュビスムの主要な理論家でもあった。1910年に出版されたメッツァンジェの著書『Note sur la Peinture』で初めて、異なる複数の視点から対象物の周囲を動くように描いていく考えを発表。

 

メッツァンジェとアルバート・グレーズは、1912年にキュビスムに関する最初の主要な論文「キュビスム論」を発表。その後、メッツァンジェはセクションドール(黄金比率)の共同設立者となる。時代的にはピカソ、ブラックより少し後の第二世代のキュビスムグループとなる。

 

フェルナン・レジェ、デュシャン兄弟、グレーズ、グリスなどが集まり、彼らを機にキュビスムという言葉が一般化し、世間一般に知られるようになった。「キュビスム論」にはピカソ、ブラックへの言及は一切なかったことから、彼らと一線を画そうとの姿勢がうかがえる。

 

セクションドールが標榜した黄金分割とは古代からある比例理論で、線分を2つに分けたとき、最も美しいとされる比率をさし、それはおよそ8対13であるとされる。またピカソ、ブラックのキュビスムよりも色彩が鮮やかでカラフルである。

ジャン・メッツァンジェ「ティー・タイム(1911年)
ジャン・メッツァンジェ「ティー・タイム(1911年)
ジャン・メッツァンジェ「馬と女性」(1911-1912年)
ジャン・メッツァンジェ「馬と女性」(1911-1912年)

【完全解説】アートワールド「21世紀の現代美術」

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アートワールド / Art World

世界標準の美術業界


概要


複数の職業の人達で構成される異業種間連携芸術


アートワールド(Art World)とは、美術の生産、批評、メディア、委員会、プレゼンテーション、保存、振興など芸術に関わるすべての人々で構成された世界観のこと。特定の団体や組織のようなものとは異なり、なんとなく生成されている集団・空気・界隈。オタク系や原宿系といった文化集団・社会集団。アートワールドは、21世紀の超格差社会にともない、富裕層の間で拡大しつつあり、グローバル・エリート文化となりつつある。

 

アートワールドでは、美術家、画商、コレクター、批評家、ジャーナリスト、キュレーターなどさまざまな職業の人たちの緩やかなネットワークで動いており、独特な価値観を共有している。アートワールドの人々が共有している価値観に沿った作品こそが「アート」と認識される。たとえば、マルセル・デュシャンの「泉」は一般の人々にとっては何の変哲もない便器であるが、アートワールドの人々には「芸術」と認識される。

 

アートワールドの構成員(美術家、画商、キュレーター、批評家、コレクターなど)が欠如している場所では芸術は発生しふらい。たとえば、美術家とコレクターしか構成員がいない場所ではアートは成立しない。理由として、あるアートがアートであることを保証する構成員(批評家、画商、キュレーターなど)が欠如しているためである。

 

アートの価値や歴史的文脈を検証する批評家やキュレーター、作品を保存して後世に伝える美術館、文筆家、さまざまな職種の人がそろってようやく成立するのがアートワールドである。

アートワールドと芸術運動


「芸術運動(art movement)」は、特定の共通した芸術哲学や目標を持った芸術の傾向・スタイルのこと。芸術運動は普通、設立者または批評家などによって定義された哲学や目標のもと、限定された期間(通常は数ヶ月、数年、数十年)内で、継続的な活動が行われる。

 

近代美術において「芸術運動」の存在はかなり重要な要素であり、連続的な動きを持った芸術活動は新しい前衛表現として見なされ、美術史に記録されることが多い。

 

特に視覚芸術の世界においては、現代の美術の時代になってさえも、芸術家、理論家、評論家、コレクター、画商たちはモダニズムの絶え間ない継続や近代美術の継続に注意を払っており、新しい芸術哲学の出現に対して歓迎の態度を示す。

 

芸術運動という言葉は、視覚芸術だけでなく、建築、文学、音楽などあらゆる芸術でも使われ、芸術運動名の大半は「イズム」が付く。

21世紀のおもな芸術運動


・アルゴリズム・アート

・オルタナ・モダニズム

・コンピューター・アート

・コンピューター・グラフィック

・デジタル・アート

・エレクトロニック・アート

・環境アート

・過剰主義

・インテンシズム

・インターネット・アート

・インターベンション・アート

・マキシマリズム

・メタモダニズム

・ネオミニマリズム

・ニューメディアアート

・ポスト・モダニズム

・リレーショナル・アート

・ルモダニズム

・ソーシャル・プラクティス

国家ではなく都市が活動場所


アートワールドの中心的な活動場所で重要になるのは「都市」である。「国家」ではない。なぜなら近代美術そのものが最初から国際性を持って生まれたためである。

 

アートワールドの人々の多くは、国境を超えて活動するので、国家観念には希薄である。そのため彼らにとっては、「アメリカ」「日本」「中国」よりも、「ニューヨーク」「東京」「香港」といった都市観念が重要になる。

 

芸術活動が盛んな都市は 「art capitals(芸術首都)」と呼ぶ。  芸術都市で重要なのは、ニューヨーク、ロンドン、ロサンゼルス、ベルリンの4都市。続いて北京、ブリュッセル、香港、マイアミ、パリ、ローマ、東京。

アートワールド重要人物


美術家


バンクシー
バンクシー
村上隆
村上隆
ダミアン・ハースト
ダミアン・ハースト

アイ・ウェイウェイ
アイ・ウェイウェイ
シンディ・シャーマン
シンディ・シャーマン
奈良美智
奈良美智

マリーナ・アブラモヴィッチ
マリーナ・アブラモヴィッチ
ガブリエル・オロスコ
ガブリエル・オロスコ
草間彌生
草間彌生

ミロ・モアレ
ミロ・モアレ
ヴィム・デルヴォア
ヴィム・デルヴォア
ジェフ・クーンズ
ジェフ・クーンズ

マルレーネ・デュマス
マルレーネ・デュマス

物故作家


マイク・ケリー
マイク・ケリー
アンディ・ウォーホル
アンディ・ウォーホル
フェリックス・ゴンザレス・トレス
フェリックス・ゴンザレス・トレス

ジョン・ケージ
ジョン・ケージ

ギャラリスト


ラリー・ガゴシアン
ラリー・ガゴシアン
デビッド・ズワーナー
デビッド・ズワーナー
マリアン・グッドマン
マリアン・グッドマン

イワン・ワース
イワン・ワース
ブラム&ポー
ブラム&ポー
ジュリア・ペイトン・ジョーンズ
ジュリア・ペイトン・ジョーンズ

キュレーター


ニコラス・セロータ
ニコラス・セロータ
グレン・ディー・ローリー
グレン・ディー・ローリー
クラウス・ビーゼンバック
クラウス・ビーゼンバック

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト
ハンス・ウルリッヒ・オブリスト

コレクター


シェイカ・アル=マヤッサ
シェイカ・アル=マヤッサ
チャールズ・サーチ
チャールズ・サーチ
ベルナール・アルノー
ベルナール・アルノー

マヤ・ホフマン
マヤ・ホフマン

組織


アートバーゼル
アートバーゼル
アートシー
アートシー
クリスティーズ
クリスティーズ


芸術運動「アートムーブメント」

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芸術運動 / Art Movement

芸術哲学や目標を持った芸術の傾向


概要


「芸術運動(art movement)」は、特定の共通した芸術哲学や目標を持った芸術の傾向・スタイルのこと。芸術運動は普通、設立者または批評家などによって定義された哲学や目標のもと、限定された期間(通常は数ヶ月、数年、数十年)内で、継続的な活動が行われる。

 

近代美術において「芸術運動」の存在はかなり重要な要素であり、連続的な動きを持った芸術活動は新しい前衛表現として見なされ、美術史に残ることが多い。

 

特に視覚芸術の世界においては、現代の美術の時代になってさえも、芸術家、理論家、評論家、コレクター、画商たちはモダニズムの絶え間ない継続や近代美術の継続に注意を払っており、新しい芸術哲学の出現に対して歓迎の態度を示す。

 

芸術運動という言葉は、視覚芸術だけでなく、建築、文学、音楽などあらゆる芸術でも使われ、芸術運動名の大半は「イズム」が付く。

【作品解説】パブロ・ピカソ「読書」

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読書 / La Lecture

原色を大胆に使った「熱愛の時代」の作品


パブロ・ピカソ「読書」(1932年)
パブロ・ピカソ「読書」(1932年)

概要


「読書」は。1932年1月にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。65.5cm×51cm。個人蔵。ピカソの愛人でミューズのマリー・テレーズ・ウォルターがモデルとなっている。膝の上に本を置いて椅子の上で裸姿でうたた寝しているテレーズの姿の絵。

 

この絵は、ピカソの妻オルガ・コクラヴァが、パリで開催された回顧展でこの絵を見て、顔の特徴が自分ではないことに気づき、ピカソとの関係に亀裂が入り始めるきっかけとなった作品でもある。

 

ピカソは1931年12月から1932年1月にかけて、この絵を制作。美術批評家たちはこの時代の作品を「熱愛の時代」と名づけている。黄と緑など明るい原色を大胆に使っているのが特徴で、ほかにこの系統とよく似た作品では「夢」がある。

 

「ガーディアン」紙のマーク・ブラウンは、テレーズの膝の上にある本は「セクシャル・シンボル」で、官能的なエロティシズムと幸福を表現していると批評。またこの時代は、ピカソ作品の市場的価格でも、ピカソの全生涯において最も好条件だったという。

 

「読書」は、1989年にオークションで580万ドルで売りだされた。1996年に、再びニューヨークのクリスティーズに売り出される。当初は600〜800万ドルを見積もっていたものの、480万ドルまでしか値が上がらなかったため、このときは売却に失敗。

 

2011年1月に、2011年2月8日にロンドンのサザビーズで開催される印象派と近代美術のオークションで、「読書」が再び売り出されることが告知。「読書」はコレクターの手に渡る前は、パリのピカソの展覧会で展示されて以来ヨーロッパでは一度も展示されたことがない作品だった。2月8日にサザビーズで1200〜1800万ドルで売り出されると、最終的に匿名の入札者によって2500万ポンド(4000万ドル、40億円)で売却された。

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ヌード、観葉植物と胸像
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【作品解説】パブロ・ピカソ「ドラ・マールと猫」

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ドラ・マールと猫 / Dora Maar With Cat

100億以上する猫と女性のペアリング作品


パブロ・ピカソ「ドラ・マールと猫」(1941年)
パブロ・ピカソ「ドラ・マールと猫」(1941年)

概要


「ドラ・マールと猫」は、1941年にパブロ・ピカソによって制作された油彩画。描かれている女性はピカソの愛人ドラ・マールで、マールの肩近くの椅子の上に小さな黒猫が描かれている。この作品は世界で最も高価格で一般市場で取引されている。

 

ピカソは55歳のとき、29歳のドラ・マールと恋愛関係になるや、すぐに彼女と同棲しはじめた。この絵は1941年に制作されたもので、その年は、ナチスがフランスに侵攻した年だった。

 

多重のレイヤーと豊かな筆使いで、多面的に構成されキュビスム様式で描かれた彼女の身体や表情は、このポートレイトに威風堂々した彫刻的な質感を与えている。

 

ピカソは以前に「アフガニスタンの猫」という絵を描いており、本作において、マールの魅力や気性とアフガニスタンの猫の性格をリンクさせたものだといわれている。ヨーロッパの芸術史において猫と女性のペアリングは、謀略的な女性や性的アピールを暗喩したものである。たとえばマネの「オリンピア」が代表的な猫と女性のペアリング絵画といえる。

 

また、マールの長い指ととがった爪にも注目したい箇所で、マールのよく手入れされた手は、マールの最も美しい身体パーツであり、また攻撃性を意味するものである。

マネ「オリンピア」。右側に黒猫がいる。
マネ「オリンピア」。右側に黒猫がいる。
ピカソは小さな時から猫をずっと飼っている。
ピカソは小さな時から猫をずっと飼っている。

1940年代、この絵はシカゴのコレクターであるリーとメアリー・ブロック夫妻に購入された。彼らは1963年にこの絵を売却し、その後、21世紀の現在までアートマーケット上に流通している。

 

2005年から2006年まで、「ドラ・マールと猫」はシカゴのジェラルド·ギッドウィッツが所有し、ロンドンや香港、ニューヨークのササビーズの展示の一部として広く一般公開されていたが、2006年5月3日のサザビーズの「モダニズム/印象派」のオークションで売りだされ、オークション史上最高価格を付けた。2012年版フォーブス世界長者番付では153位(資産64億ドル)のグルジアの富豪ビジナ・イヴァニシヴィリが,2006年に9520万ドル(108億円)で購入した。

パブロ・ピカソTop

 

●参考文献

 

Dora Maar With Cat

【作品解説】パブロ・ピカソ「鏡の前の少女」

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鏡の前の少女 / Girl Before A Mirror

少女から女への移行


パブロ・ピカソ「鏡の前の少女」(1932年)
パブロ・ピカソ「鏡の前の少女」(1932年)

概要


「鏡の前の少女」は、1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。162.3x130.2cm。ニューヨーク近代美術館が所蔵している。ピカソの愛人で、1930年代前半におけるピカソの主要な主題の1つであるマリー・テレーズ・ウォルターを描いたものである。

 

1927年、ピカソ(46歳)は17歳のマリー=テレーズと恋愛関係に陥る。ピカソが古代ギリシャ彫刻のなかに見出していた理想の女の顔をマリー=テレーズに見たのである。

 

テレーズの白い顔に差し込む後光は、顔の右半分を滑らかなラベンダー・ピンク色で照らして穏やかに描かれている。しかし、光が当たらない左半分は三日月のような顔をしており、緑のアイシャドウやオレンジの口紅などラフな厚化粧がほどこされている。

 

おそらく、これは、テレーズの昼と夜の両方の表情、また落ち着きと生命力の両方を表現しており、さらに純粋な少女から世俗的な大人の女性へ移行するテレーズ自身の性的成熟を表現している。満月や新月ではなく三日月形になっている表情が「移行」を象徴していると思われる。

 

また化粧テーブルの鏡に映るテレーズの姿は異形的である。顔はまるで死体の頭のように黒々としており、まるでテレーズは死に直面しているように見える。それは少女の魂少女の未来少女の恐怖を表している。彼女の身体はねじ曲がる。

 

そしてダイヤ柄の壁紙は、ピエロの衣装を思い起こさせる。ピエロは、コメディアン的な自分自身を表現するときにピカソがよく使うモチーフである。つまり、この絵には、少女の精神を描くことに喜びを見出すピカソの姿も描かれているのである。

【完全解説】ヘンリー・ダーガー「アウトサイダアートの巨匠」

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ヘンリー・ダーガー / Henry Darger

アウトサイダーアートの巨匠


概要


生年月日 1892年4月12日
死没月日  1973年4月13日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画、コラージュ、文章、ドローイング、スケッチ
ムーブメント アウトサイダー・アート

ヘンリー・ジョセフ・ダーガー.ジュニア(1892年4月12日-1973年4月13日)はアメリカの隠遁作家、芸術家、イリノイ州シカゴの病院清掃員。

 

ダーガーは、死後、ワンルームのアパートで1万5145ページ(世界一だが出版されていないのでギネス登録されず)のファンタジー小説の原稿『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』と、その小説のドローイングと水彩による挿絵が発見され有名になった。

 

ダーガー作品の特徴は、幼い子どもたちが拷問、殺害される恐ろしい大虐殺シーンから、エドワード時代の室内風景や児童小説や幻想絵画のような花の咲き乱れる穏やかで牧歌的な世界の同居である。ダーガーは子どものときから女児を憎んでおり、憎悪とキリスト教的回心を経た愛情が混在していると見られている。また施設時代の大人の子どもたちへ強制労働がトラウマになっているといわれる。

 

作品の多くはコラージュである。ダーガーの作品はアウトサイダー・アートの有名な代表例の1つとなった。

略歴


幼少期


ダーガー(本名:ヘンリー・ダーガー・ジュニア)は、1892年4月12日にイリノイ州シカゴ市で、母ローザ・フルマンと父ヘンリー・ダーガー・シニアのあいだに生まれた。クック群の記録によれば、ダーガーは24番街350番地にある自宅で出産されたことになっている。


ダーガーが4歳のとき、母は妹の出産時における産褥熱で死去する。なお妹は養子縁組で出されたため、ダーガーは妹とは会ったことがない。ダーガーの研究家で美術史家、心理学者のジョン・M・マクレガーによれば、母ローザはダーガーより前に2人の子どもを生んでいるらしく、その2人の兄弟は所在は分かっていない。


ダーガー自身による記録によれば、父ダーガー・シニアはドイツ系出身の仕立屋の仕事をしていて、非常に優しい性格。ダーガーの心を支えた人物だという。小学校の時は、1年生から3年生に飛び級したほどの読書力があった。

少年施設時代


父とは1900年まで一緒に住んでいたが、8歳のときに元々足が悪かったダーガー・シニアは体調を崩し、また貧しかったため、アウグスティヌスのカトリック救貧院に入ることになる。一方、ダーガーは少年施設で過ごしながら公立の学校に通う。


なお、強制的に送られた少年施設は虐待や児童労働などで非常に問題があったことで知らている。ダーガーは施設の様子を「非現実の王国」で強制労働のように描いている。厳しい戒律のもと、尼の指示で、毎日、重労働の農作業をやらされた。

知的障害施設時代


1905年にダーガー・シニアが死ぬと、ダーガーはイリノイ州リンカーンにある知的障害児の施設に移される。診断によれば、「ヘンリーの心に障害がある」とのことだった。


ジョン・M・マクレガーによれば、その診断は実際のところ誤診であるという。本当の理由は、ダーガーが自慰行為をしていたことをおおっぴらにしていて、それが咎められたことである。当時の保守的なアメリカのキリスト教道徳観において自慰行為は「正常でない」と考えられていた。そのため、知的障害施設に送られたのが事実である。


施設時代、ダーガー自身は、自分自身の問題多くは「大人の嘘」に気づくことができ、その結果、自分は生意気になったと感じていたという。そのため、教師から特別厳しく体罰を受け、いつも叱られた。


トゥーレット症候群で、口・鼻・喉を鳴らして奇妙な音を立てて学校の授業を妨害したり、友達や周囲の人に嫌がらせをするようになる。本人は楽しませるつもりで音を鳴らしていたが、それが原因で「クレイジー」というあだ名を付けられいじめられたり、遠ざけられるようになった。


またダーガーをはじめ子どもたちは大人たちから、野良仕事を朝から晩までさせられ、こき使われる。

病院清掃員として


16歳のときに施設を脱走し、260kmを歩いてシカゴへ戻る。ゴッドマザー(カトリックの代母)の助けを得て、シカゴのカトリック病院の清掃員を勤めるようになる。以後、この生活は1963年に退職するまで続くことになる。なお、これもあまり語られないが、シカゴ脱走後のダーガーは、一時的に少年売春(男娼)で生活していたようである。


第一次世界大戦時のアメリカ軍の一時的な兵役をのぞいて、ダーガーの生活はほとんど変化なかったと思われる。信心深いダーガーは、毎日教会のミサに出席し(多い時は1日5回も出席していた)、道端に落ちているゴミを拾って家に持ち帰っていた。清潔に務めようとしていたらしいが、ダーガーの服はいつもみすぼらしかった。

 

基本的に孤独で、唯一の友人はウィリアム・シュローダーで、彼はネグレクト・チルドレンで、二人は愛のある家族に養子として迎える「子どもの保護協会」の創設を提案もした。3歳の時、教会に養子を申請するが却下。だがあきらめきれず、何度も申請し続ける。結局、許可は出なかったので、今度は犬に対して興味を持ち始める。しかし、犬のペット代に一ヶ月5ドルもかかると聞いて、貧しいダーガーは諦める。 


1930年代なかばにウィリアム・シュローダーはシカゴを去ったが、手紙を通じて1959年にシュローダーが死去するまでやりとりをしていた。二人にはロマンティックな感情があったと言われている。


1930年に、ダーガーはシカゴ市ウェブスター・ストリート851番地にある家の、3階の奥の部屋に住み始める。以後1973年4月に死去するまで、この部屋で43年間ダーガーは創作活動をしていた。ほかに10年間毎日、天気に関する日記も書いている。ダーガーの最後の日記にはこう書かれている。


「1971年1月1日。クリスマス時のように非常に貧しい。私の生涯において良かったクリスマスは一度もなく、同じく良い新年を迎えたことはない。今非常につらいが、幸いにも怨恨のような感情はないけれども、それをどのように感じるべきか……」


ダーガーは、イリノイ州デスプレーンズにある聖人墓地に埋葬された。墓石には「芸術家」「子どもの保護者」と記載されている。


●参考文献

Henry Darger - Wikipedia

ダーガー作品集・伝記


ヘンリー・ダーガー 非現実を生きる (コロナ・ブックス)(2013年)
ヘンリー・ダーガー 非現実を生きる (コロナ・ブックス)(2013年)
作品集「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」(2000年)
作品集「ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で」(2000年)
非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎 デラックス版 [DVD]
非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎 デラックス版 [DVD]

【作品解説】パブロ・ピカソ「睡眠」

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睡眠 / asleep

赤と緑の間に眠る女


パブロ・ピカソ「睡眠」(1932年)
パブロ・ピカソ「睡眠」(1932年)

概要


「眠る女」は1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。シリーズもので多数の作品が存在する。「眠る女」シリーズでモデルになっているのは愛人マリー・テレーズ。

 

睡眠する横顔は、赤と緑の2色の大胆で強烈なカラーの間で完結に表現される。黒い太い墨のような輪郭線はフォーヴィズムを思い起こす。

 

注意すべき点はマリーの手。彼女の大きな尖った爪は“野生的プリミティヴィズム”を表している。これは人生におけるシンプルさと純粋さこそが信念である。美しさと醜悪さの融合はピカソを魅了し、ピカソが作品内によく描くテーマである。

【作品解説】パブロ・ピカソ「裸体:緑葉と胸」

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裸体、緑葉と胸像 / Nude, Green Leaves and Bust

テレーズとの秘密の愛人関係を暗喩


パブロ・ピカソ「裸体:緑葉と胸像」(1932年)
パブロ・ピカソ「裸体:緑葉と胸像」(1932年)

概要


「裸体:緑葉と胸像」は、1932年にパブロ・ピカソによって制作された油彩作品。162cm×130cm 。愛人マリー=テレーズがモチーフで、生き生きとした青とライラック色が印象的な、テレーズシリーズの中でも最も大きな作品である。

 

ピカソは1927年1月に初めてマリー=テレーズと出会った。その後数年間、ピカソは親友たちや妻のオルガでさえ、全く知らなかったほど秘密裏にテレーズと愛人関係を続けていた。1931年から932年にかけて1はマリー=テレーズの絵画や彫刻のシリーズを続けるが、本作は1930年に購入したボワジュルー城のアトリエで制作された作品である。

 

フィロデンドロンの豊かな緑のフォルムとマリー=テレーズの豊かな身体フォルム、そして彫像の頭部とテレーズの頭をダブルイメージ的に描いている。

 

暗く影がかかった胸像はテレーズの内面を現すのはもちろんのこと、後景のカーテンとも関関連付けることができる。このカーテンは当時の「秘密の愛人関係」を暗喩するものである。またフィロデンドロンは「観葉植物」であるが、これも同じく「秘密の愛人関係」を暗喩するものである。

 

また影を落とす彫像と対比するような前景の真っ白なテレーズの裸体や赤い果実は、部屋全体を照らすイルミネーションとなっている。

 

ロサンゼルスのアートコレクターのシドニー&フランセーズ・ブロディ夫妻が、60年近く所蔵していた。フランセーズ・ブロディが2009年11月になくなると、2010年5月4日にニューヨークのクリスティーズで絵が売りだされた。9500万ドルで楽されたが、買い手のプレミアムを含めて価格は1億600万ドルに達した。

パブロ・ピカソ「夢」
パブロ・ピカソ「夢」
パブロ・ピカソ「鏡の前の少女」
パブロ・ピカソ「鏡の前の少女」
パブロ・ピカソ「花を持つ女」
パブロ・ピカソ「花を持つ女」


【解説】エコール・ド・パリ「パリの外国人画家たち」

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エコール・ド・パリ / École de Paris

パリの外国人画家たち


アメディオ・モディリアーニ「裸婦」(1916年)
アメディオ・モディリアーニ「裸婦」(1916年)

概要


パリに滞在している外国人芸術家


「エコール・ド・パリ」は、第一次世界大戦以前にパリで活動していた3つの芸術グループ(中世の装飾写本グループ、フランス人グループ、非フランス人グループ)を指す言葉であるが、特に当時パリに滞在していた非フランス人芸術家たちの総称として使われるケースが多い。1900年から1940年まで、パリには世界中から芸術家が集まっていたためである。なお、英語では「スクール・オブ・パリ」と呼ばれる。

 

エコール・ド・パリは、芸術運動を指す言葉ではなく、芸術機関でもない。日本語に訳せば“パリ派”であるが、“派”というほどのまとまりも、明確な主義主張があるわけでもなく、「宣言」を出してもいない。 

 

彼らの活動の中心は初期はモンマルトルだったが、1910年頃からモンパルナスに移動した。どちらも貧しい芸術家たちが居住していた地区で、モンマルトルにあった安アパート「洗濯船」がよく知られている。

 

洗濯船はパブロ・ピカソが恋人のフェルナンド・オリビエと共にここに住んで。ほかにアメデオ・モディリアーニ、ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティスらも出入りし、活発な芸術活動の拠点となった。

エコール・ド・パリの画家


代表的な作家は、パブロ・ピカソ(スペイン人)、マルク・シャガール(ロシア人)、アメディオ・モディリアーニ(イタリア人)、ピート・モンドリアン(オランダ人)である。

 

フランス人ではピエール・ボナーレ、アンリ・マティスジャン・メッツァンジェ、アルバート・グレーズで、ピカソとマティスがエコール・ド・パリの二大リーダー的な存在だった。

 

さらに、日本人の藤田嗣治、フランス人であるがモーリス・ユトリロ、マリー・ローランサンなどを加えることもある。

マルク・シャガール「私の村」
マルク・シャガール「私の村」
マリー・ローランサン「扇子を持つ女性」(1912年)
マリー・ローランサン「扇子を持つ女性」(1912年)

“呪われた画家”としての表現


彼らの多くはモンパルナスのドーム、ロトンド、クポールといったカフェを根城とし、パリにおけるマイノリティとしてのある種の仲間意識、連帯感はあったが、画家としてはそれぞれ独立独歩で、主題も様式もそれぞれであった

エコール・ド・パリ様式なるものも存在しないが、故郷をもたぬ流浪の民、偏見と迫害の十字架を背負った民族としての悲しみ、不安、鬱積した思いを一種の共通項として挙げることはできる

 

彼らが“呪われた画家”と呼ばれる由縁であるが、虚ろな目をしたモディリアニの人物、激しい地殻変動を思わせるスーチンの不安に揺れ動く風景などはその一例である。

アメディオ・モディリアーニ「子供とジプシー女」(1912年)
アメディオ・モディリアーニ「子供とジプシー女」(1912年)

藤田嗣治とモンパルナスのキキ


1913年にパリに到着していた藤田嗣治は、エキゾティックな風貌と社交的な性格、そして乳白色の独特の半油性の下地に細い墨線で描く手法により、モンパルナスの喧噪に欠かせない存在となった。

 

白人女性の肌の美しさを際立たせる下地と、平面的で浮世絵を連想させる人物表現は、日本美術の伝統とパリのモダニズムを融合させた独自のスタイルとして高い評価を集め、市場の人気も急速に高まっていく。

 

またモンパルナスのキキを有名にしたのが、藤田嗣治だった。藤田が描いたプランの裸婦『寝室の裸婦キキ』(1922年)が、サロン・ドートンヌで大評判となり、その日のうちに8千フランで売れた。

 

それ以来、藤田とプランのふたりはモンパルナスの有名人となった。またプランは、ポーランド人の画家、キスリングをはじめとするエコール・ド・パリの画家たちのモデルとなった。

藤田嗣治「寝室の裸婦キキ」(1922年)
藤田嗣治「寝室の裸婦キキ」(1922年)

ナチスの弾圧


しかし1930年代のナチスの台頭と共にユダヤ人の彼ら多くは、安閑としてはいられず、その多くは亡命を余儀なくされた。


画家ではないが、ピカソやエコール・ド・パリの面々とも親しかった詩人マックス・ジャコブが、ユダヤ人なるがゆえに強制収容所送りとなり、そこで悲惨な最期を迎えたことは、これらユダヤ人の画家たちが直面した過酷な運命を暗示しているといえよう。

 

●参考文献

・すぐわかる20世紀び美術 フォーヴィスムからコンセプチュアル・アートまで

School of Paris - Wikipedia

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【解説】キュビスム「20世紀初頭の最も影響力のある芸術運動」

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キュビスム / Cubism

複数の視点から対象を描く


ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)
ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年)

概要


キュビスムとは


キュビスムは、ヨーロッパの絵画や彫刻において革命をもたらし、また音楽、文学、建築などさまざまな分野に影響を与えた20世紀初頭の前衛芸術運である。20世紀において最も影響力のある芸術運動とみなされている。

 

ジョルジュ・ブラックパブロ・ピカソがキュビスムの創立者であり、キュビスムという言葉そのものは、1908年のサロン・ドートンヌに持ち込まれたブラックの作品を審査したアンリ・マティスが、そこに登場する角張った家や木を見て"キュブ”(立方体)と呼んだことが起源とされている。ただし、キュビスム作品自体は、前年の1907年に発表したピカソの『アヴィニョンの娘』が起源とされている。

 

ピカソ、ブラックに影響を受けて、のちにジャン・メッツァンジェ、アンドレ・ロート、フェルナンド・レジェロベルト・ドローネー、アルバート・グレーズ、ジャック・ヴィヨンらがキュビスムに参加。彼らは第2世代キュビスムに属し、キュビスムの理論を強化し、一般庶民への広めた。

 

 

キュビスム創立に特に影響を与えたのはポール・セザンヌの後期作品に見られる三次元形式の表現である。キュビスム作品の基本的な描画方法は、対象となるオブジェクトは分析された上、解体され、抽象的な形で再構成される。再構成される際にあたり、これまでの絵画のように単一方向の視点から描くのではなく、複数の視点から対象を描くことで、より大きな文脈から主題を多数の視点から描写する。キュビスムは「分析的キュビズム」「総合的キュビズム」という2つのタイプ、段階にわけられる。

 

キュビスムは多様性を生み出す、世界中に広がり派生し発展した点で、多様性が特徴の芸術運動の先行者だった。キュビスムを起源として派生したおもな芸術運動は、フランスではオルフィスム、セクションドール、ピュリスム、抽象芸術全般である。海外では未来派、シュプレマティスム、ダダイスム、構成主義、デ・ステイル、アール・デコなどに影響を与えた。

分析的キュビスム


分析的キュビスムは、ある立体が小さな切子面にいったん分解され、再構成された絵画である。「自然の中のすべての形態を円筒、球、円錐で処理する」というポール・セザンヌの言葉をヒントに、明暗法や遠近法を使わない立体表現を発展させた。

 

セザンヌの晩年の作品「サント・ヴィクトワール山」では、自然の形態をいくつもの小さな面の集積と見て、これを積み重ねることで対象を再現するというよりも構成するというものだった。

 

キュビスム表現により多面的な視覚効果が可能となり、それは万華鏡的をのぞいた時の感じに近いともいえるが、キュビスムにはシンメトリーや幾何学模様のような法則性はない。

ブラック「レスタックの家」(1908年)
ブラック「レスタックの家」(1908年)
ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」(1906年)
ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」(1906年)

総合的キュビスム


総合的キュビズムは、文字、新聞の切り抜き、木目を印刷した壁紙、あるいは額縁代わりに使われたロープなど、本来の絵とは異質の、それも日常的な、身近な世界にあるものが画面に導入される。

 

こうした技法はコラージュ、それが紙の場合はパピエ・コレと呼ばれる。まったくそれぞれ関係のなさそうな断片をうまくつなぎあわせて新しい対象を創造しようとした。また、アッサンブラージュの先駆けともいえる。 

ブラック「クラリネットのある静物」(1913年)
ブラック「クラリネットのある静物」(1913年)

マルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体.No2」


マルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体.No2」は、人物が降りる動作を連続写真のように重ねることで、時間を多面的に表現したキュビスムの発展形である。

デュシャン「階段を降りる裸体.No2」
デュシャン「階段を降りる裸体.No2」

 

●参考文献

・すぐわかる20世紀の美術 フォーヴィズムからコンセプチュアル・アートまで

Cubism - Wikipedia

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【ガロ】丸尾末広インタビュー1「 進学したって仕方がない」

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丸尾末広インタビュー1

進学したって仕方がない


(出典元:ガロ1993年 5月号)

-丸尾さんはどんな少年時代を過ごしたのですか?


丸尾:家が超貧しかったんだよね。今思い出してみると、小学一年から六年までずっと同じセーター着てたんだよね(笑)。そんなこと全然覚えていなかったんだけれど、写真見てたら「アレッ、同じセーターじゃないの」って気が付いた。六年のときにはもう袖がツンツルテンになっててね、肘に穴が開いているんだよ。きっと入学式の時に買ったんだよね。そのままずっと着てたんだね(笑)。

 

-たしか兄弟が沢山いる、と言ってましたよね。

 

丸尾:七人兄弟の末っ子。一番上の姉と歩いているといつも親子だと思われてた。姉って感じはしないよね、ほとんどおばさんだよ。

 

-それで、どんな少年だったんですか?

 

丸尾:いつも閉じこもっていた。もう家では何も喋らなかったね。

 

-親とも?

 

丸尾:うん、憎んでいたわけじゃなかったけれど全然興味がなかったの(笑)。なんか自分の親として認めたくなかったんだよね。「こんなのが俺の親であるはずがない」って思ってた(笑)。恥ずかしいっていうか、とにかく友達に見られたくないという気持ちが強かったね。

 

-親は「どうして喋らないのか?」と聞いてきたりはしなかったんですか?

 

丸尾:うん、言っていたような気もする。「変なやつだなあ」と思っていたみたいだよ。何かやりにくそうにしてたね。どうやってこいつに接すればいいのか分からない、って感じだったね。それまではそういうタイプの例を知らなかったわけだから、戸惑っていたみたいだった。

 

-それじゃ、たとえば、父親と喧嘩もしなかったんですか?

 

丸尾:一度もない(笑)。喧嘩にもならないんだよ。だって自分が生まれてから父親が死ぬまでに、全部合わせても五分くらいしか喋ったことないんだもの(笑)。

 

-五分!返事だけまとめても、もう少し多いですよね(笑)。

 

丸尾:そうだよね(笑)。きっと父親も内心「コイツ、何で俺と口きかないのか」って思ってたんじゃないかな。「嫌われている」とかねえ(笑)。

 

-母親に対しても同じだったんですか?

 

丸尾:もうバカにしてたね(笑)。「何、この人」と思ってさ。

 

-子供の頃からすでにそういう感情を持つ、っていうのは結構マセた子供だったんじゃないですか。

 

丸尾:そうだよねえ。

 

-普通、末っ子って、いつまでも母親のあとをついていたりするけど・・・。

 

丸尾:あんなのの後ついて行ってどうすんの(笑)。

 

-じゃあ、食事の時間なんて地獄のようじゃないですか。

 

丸尾:シーンとしてた(大爆笑)。おまけに父親は食事のときに喋ったりするのを嫌う人だったんで、みんな黙々と食べてさ、終わるとバラバラに散っていくの。マズイものをなおさらマズク食べていたよ(笑)。

 

-普段は閉じこもってなにをしてたんですか?

 

丸尾:しょっちゅう絵をかいていたね。漫画の本見てそれを真似してかいていた。窓ガラスに漫画の絵をうつして模写するのをよくやっていたよ。「少年マガジン」の『エイトマン』とかさ。でもそうやっておとなしくしているのは家の中だけで、学校なんかではむしろ騒ぐ方だった。すごく目立つ子供だったね。

 

-外弁慶。

 

丸尾:そうだよね。外にでるともう騒いでたから。でも中学校から休み癖が付いちゃってさ、それからあまり学校へも行きたくなくなったんだよね。

 

-なにか原因があったの?

 

丸尾:それがさあ、昼の十五分くらいの連続ドラマで「氷点」をやってて、それが見たくて一週間休んだの。それが切っ掛け(大爆笑)。

 

-そんなに休んでばかりいたら問題児になるでしょ。

 

丸尾:なるよね。やっぱり。「あいつなんでもないくせにウソついてすぐ休む」とかね(笑)。でももう行く気がしなくなっちゃうでしょ、そういう癖がつくと。

 

-高校進学も考えなかったんですか。


丸尾:進学したってしょうがないよ。それにとにかく家にいたくなかったから

 

-だいたい、丸尾さんくらいの年代の人は、とりあえず高校までは行って、と考えるでしょ。中学でたばかりで親元を離れて、というのはちょっと考えにくいことですよね。環境のせいもあったのかもしれないけれど、結構自立心の強い少年だったんですね。

 

丸尾:我も強かったから人の意見なんて全然聞かない子どもだった。宿題やってると姉が「ここはこうだよ」って教えてくれるのね。そのほうが正しいのに自分の間違った答えを押し通すの(笑)。それに、もう家にも執着心がなかったからね。それで一人で東京に出てきちゃったんだよね。

【ガロ】丸尾末広インタビュー3「留置所で出たガロの話」

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丸尾末広インタビュー3

留置所で出たガロの話


(出典元:ガロ1993年 5月号)

-捕まったのはその後ですか?

 

丸尾:そう、その後万引きで捕まったんだよね。20くらいだったかな。

 

-どこで?

 

丸尾:秋葉原のレコード店で。


-何を盗んだの?


丸尾:ピンクフロイドとかサンタナとかね(大爆笑)。あのころ流行ってたから。それでガードマンに押さえられてさ。もうしょうがないと思って、一回留置所経験しようと開き直った(笑)。


-どのくらい?


丸尾:二週間ぐらいかなあ。


-長いですねえ。


丸尾:それは、その時住所不定の無職だったからね。初犯だったら普通説諭だけで帰さたりするんだけどね。でも身元がはっきりしないと厳しいんだよ。俺さ、そのころは友達の所に荷物を預かってもらって、自分は蒲田の一泊五百円の木賃宿に泊まってたんだよね。


-取り調べも厳しかったんですか?


丸尾:それがさ、面倒くさくっていい加減に言っていたら向こうがすごく怒っちゃって(笑)。チャランポランだし反省の色もないから、懲らしめようと思ったんじゃないの(笑)。


-じゃ、その間ずっと雑居房に入ってたんですね。


丸尾:そう。留置所だからね。留置所、拘置所、刑務所だからね(笑)拘置所にははいっていないから、起訴されてないからさ、前科にはなっていないんだよね。だから賞罰はないの(笑)それで、本は読んでもいいけれど、寝転がったりしちゃいけないんだよね。でも一日に一回タバコタイムがあってベランダみたいなところにだされてラジオ体操をしたあとに一服出来る。あっ、そういえばそのときの同じ房に、ガロ知っているひといたよ(大爆笑)

 

-やだねまったく!

 

丸尾:話をしていたら漫画の話題になってさ、「おまえ漫画好きなのか、ガロとか読んでないの」って聞くんだよね(笑)その人、組合運動で公務執行妨害で捕まったらしくてさ。池上遼一さんのファンだって言ってた。池上さんと林静一さんの特集号を持ってたって言ってた(笑)


-それで結局起訴にならずに釈放されて、その後も懲りずに万引きはやってたんですか?


丸尾:まあ、しばらくはやってなかったよ。で、また引っ越したりしていた。あと網走のパチンコ屋でバイトしたりしてね。


-網走!?どうしてまた?


丸尾:北海道に遊びに行ったら、たまたまそこのパチンコ屋で店員を募集していたのね。で、やろうかなって思って(笑)「東京の人間だけどいいか」って聞いたら「いいよ」っていうんでやったの。でも毎日便所掃除ばっかりでさ(笑)。それがきったねえ便所で、トイレットペーパーが水に溶けてドロドロになってるは糞はついてるしさ。それに寮に入れてもらってたんだけど、三畳の部屋がベニヤ板で仕切ってあって、醤油で煮しめたような布団しかないんだよね。そこに一ヶ月いたよ(笑)。ここにいた時、布団の中で新聞読んでいたら、歌手の克美しげるが愛人を殺して逮捕されたニュースがでてたよ(笑)。


-結構平気で飛び込むんですね、そういうところに。


丸尾:そうそう(笑)。


-でもやっぱりいつも漫画のことは頭から離れなかったでしょう。


丸尾:そうだね。引っ越しするたび「よし、今度こそちゃんとやろう」っていつも思ってたから。でもけっきょくやらないんだよね(笑)。でも一度どこかの雑誌に同人誌の募集して、それで一時期漫画家志望の人と会っていた時もあったけれどね。でもあのひとなんかそのときもう半分浮浪者みたいだったから、どうしているんだろうね。そのまま浮浪者になっちゃったかもね(笑)。

【ガロ】丸尾末広インタビュー4「丸尾漫画はパクリの集大成」

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丸尾漫画はパクリの集大成


(出典元:ガロ1993年 5月号)

-それで結局デビューしたのは24歳のときでしたよね。

 

丸尾:そう、サン出版の何ていう雑誌か忘れちゃった。確かポルノ雑誌だったと思うけど、そこで「リボンの騎士」でデビューしたんだよね。その後、久保書店とかに持ち込んで「漫画ドッキリ号」に描いていた。そこで随分書き溜めたから、単行本も出せたんじゃないかなあ。

 

-「漫画カルメン」とか「漫画ピラニア」とかに描いたのは、その後?

 

丸尾:そうだね。俺さ、「大快楽」とか「エロジェニカ」とか「劇画アリス」なんかではやっていないんだよ。一歩出遅れたっていうか、あのエロ劇画雑誌ブームからはもう二年くらいたっているときだったから。

 

-一時期随分いろんな人が描いていましたからね。

 

丸尾:ひさうちみちおさんや平口広美さんとかね。でも俺が描き始めたころはもうブームも下火になってきてたんだよね(笑)。

 

-丸尾さんの絵柄というのはどこから生まれてきたんですか?

 

丸尾:あちこちからいっぱい引っ張ってきてミックスした絵なんだよね。だから絵柄なんてどうにでもできるよ。この絵はだめだからほかの絵柄にしろって言われたら、パタって変えられる(笑)

 

-でも、一番引っ張ってきたのはやはっぱり高畠華宵でしょ。

 

丸尾:そうだよね。とりあえずあれに一番近いね。

 

-最初に華宵を見たのはいつです?

 

丸尾:いつ頃だったかなあ。でも最初は全然好きじゃなかった。気持ちの悪い絵だなって思った(笑)。でも人物描写として1つのパターンがあるでしょ。だからそのパターンを華宵から持ってきたわけだよね。崩しながら。

 

-あと、よく夢野久作を引き合いに出されたりしませんか?

 

丸尾:よく「相当影響されたでしょ」なんていわれるけど、あんまり関係ないんだよね。だから要するにパクリなんだよ。あのさ、どうしてみんなパクリだっていわないのかなあ(笑)「影響うけてますね」とは言うけど「これパクリですよね」って誰も言わないよ(笑)「少女椿」のタイトルはモロにパクリだよね。パクリ以外の何物でもないよ(笑)。

 

-まあ、いいづらいのもあるんじゃないですか。じゃ、丸尾さんの漫画はいろいろなところからパクっている、いわばパクリの集大成ですね。

 

丸尾:そう、パクリの集大成!(大爆笑)

 

-でも画力があるからパクれるじゃないですか。パクろうと思ったって、そう簡単にできませんよ。

 

丸尾:まあ、真面目にかいてますから。でも絵ってうまくなろうと思ってやらないとうまくならないよね。描いていれば自然にうまくなるって思っている人もいるけど、自然にはうまくはならないよ。どうすればうまく描けるかって自分で研究していかないとダメだよ。

 

-じゃあ、いろいろと研究しているから、次から次へと興味がわいてきて、一人のひとにものすごく傾倒する、っていうことはあまりないんですか?

 

丸尾:そうそう。一人の人にのめり込むまえに、今度はまた別の人が気になってくるんだよね。「ああ、こっちもいいな、あっちもいいな」ってやってると、何か全部ほしくなってくる。だからあんなゴチャゴチャになっちゃうのかも。二者択一ができないんだよね。

 

-ストーリーのほうもいろいろなところからパクリまくりですか?

 

丸尾:俺の漫画の話は設定自体があまり独創的じゃないしね。「日本人の惑星」だって日本がもし戦争に勝っていたら、って言う設定だけれど、ブレードランナーの原作者のP.K.ディックが同じようなSF書いているんだよね。そういう設定はよくあるし。タイトルはもちろん「猿の惑星」のパクリだしね(笑)。あとさ、ラジオの人生相談きいて「お婆さんとセックスしている」っていう中学生がいて、それを漫画にした(笑)。そういうネタをストックしておくの

 

-そういうことはまあ皆結構やってますよね(笑)でも、「腐ッタ夜」なんかは江戸川乱歩の「芋虫」でしょ。

 

丸尾:そうそう、俺の漫画では親子にしちゃったけどね。そんなもんだよ(笑)

 

-目をなめるシーンがよく出てくるけれど、あれは?

 

丸尾:あれも何かに載ってたんだよね。でね、何であのシーンを繰り返し出したかっていうとあれも計算なんだよね。同じ事を繰り返し繰り返しやってたら登録商標みたいになると思って(笑)。

 

-計算してますねえ(笑)

 

丸尾:それ、デビューしたときから計算したの。なにか1つだけでいいから「あ、また出てる、またやってる」って水戸黄門の印籠みたいなのを作ろうと思ったのね。するとみんな「あれはどういう意味ですか」て考えているらしい。でも意味なんてないんだよ(笑)。それに誰もやってないことを考えたとかそういうことじゃないしね。そんなこと誰だってやってるねよね。

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